最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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6/26/2014

負け犬のナショナリズムとマゾヒズムの正義


承前。河野談話の検証で明らかになった事実関係だけを抽出すると、今回の報告書が懸命に印象づけようとしていることや、安倍晋三政権がそもそも調査をさせた動機とは、むしろ真逆の経緯が見えて来る。

当初文案から「慰安婦すべてが強制だったわけではない」という主旨の、強制を前提にした記述があり、これが韓国側との非公式協議で変わったことが実際の事実関係の最大のポイントなのだが、この元の日本側主張とてあくまで、慰安婦が強制だったことを前提に「しかし全員が全員そうだったわけでは」と言っているに過ぎない。

つまり韓国側の圧力(だいたい先述の通り普通の非公式ルートの打診だけで、そんな圧力なんてない)や、実際の被害者16名の証言を聞くまでもなく、「慰安婦は強制だった」は最初から日本側の認識だったことこそが、検証報告で証明されたことになる。

河野談話で日本政府が慰安婦が強制だったことを認めたのは、これまで言われて来たような河野洋平氏の独断でもなければ、韓国側の圧力に抗しきれずでもないし、証言者という動かし難い事実を目の前に突きつけられてでもなかった。最初から強制があったことが前提だった、というのが、今回の報告の事実関係から導き出される、最も中心的な結論であり、これまでの認識を覆す新事実でもある。

たとえば、この調査のきっかけになった、元慰安婦の証言聞き取りに関する当時の官房副長官による不平不満の国会証言はなんの意味もなかったことにもなる。 
1) 証言の聞き取り調査は、日本が強制を認めた重要な理由、強制があったという根拠ではない。むしろ韓国側と被害者の顔を立てる儀礼的な形式と、なによりも無理難題を言い続ける日本側の政治家の一部を説得するためだった。
2) 聞き取りの手法自体は、性犯罪被害者の証言をとるのに裁判証拠でも採用されている普通のやり方だ。

だがこれも考えてみたら当然の話だ。もし日本軍が強制で多くの女性を慰安婦にして虐待したと認め、謝罪するのが目的でなければ、河野談話は出す理由も意味もそもそもない。

慰安婦が強制もされず自由意思で日本軍に奉仕し、違法性も人権侵害もなく、慰安婦制度になんの問題もない、‪安倍の周囲が言うように慰安婦問題それ自体が捏造だったなら、そもそも河野談話なんて準備する必要すらなかったはずだ。

深読みするなら、河野談話の当初文案に「すべての慰安婦が強制であったわけでは」的な文言が入っていたこと自体が、自民の一部を口説き落とす外務省の苦肉の策だったのだろう。韓国が納得するかどうか以前の問題で、既に前回エントリーで書いた通り、こんな見え透いた論点誤魔化しを国の公式見解で出せるはずがない。

だから最初から最終文面に残す気がない言及だった、とみなす方が外交の常識からして自然だろう。

外務省としては河野談話が日本の名誉のために出す必要がある、しかし与党の一部が納得しない、という綱渡りのなかでわざと「すべての慰安婦が強制であったわけでは」と論点を誤摩化すような文言を入れて、それが韓国側の反発で修正を余儀なくされることも計算づくだったのでは、とすら思えて来る。

‪安倍晋三‬ら自民のなんちゃって右派の二世三世は、外務省が河野談話を出すために自分達を納得させる方便で作り出した「いや仰ることは分かるのですが、ホラ韓国がうるさいし、朝日新聞に叩かれますから、妥協するしか」的なフィクションを、本気にしてしまっていたのだろう。いわば都市伝説に振り回された類いの話だ。

当初文案に「すべての慰安婦が強制であったわけではない」という非常識な言及があれば、非公式に見せられた韓国側は当然反発する。だがこの主張はデタラメな誤摩化しではあっても、少なくとも強制の事実は前提になっているから交渉の余地はある。

もし「強制はなかった」と書かれていたら、韓国は猛反発して日本を公然と非難しただろう。韓国政府の立場からして、交渉を決裂させざるを得ない。

韓国と全面対決になるだけではない。河野談話が「強制なんてなかった」というための政府声明だったら、日本が国際社会の総スカンを食らっていたのは確実だ。だいたい宗主国の軍隊が植民地や占領地女性に性奉仕をさせていただけで、その本質はレイプになる。戦場で半ば偶発的に略奪や強姦が起こるのよりも、システマティックな制度体制であっただけに、より悪質だ。

その被害者である女性たちを「高給に釣られた売春婦」とか言い出すのなら、最悪の暴虐な女性蔑視にもなってしまうし、高給で慰安婦を募集していた広告を持ち出したところで、なんの証拠にもならない。いやむしろ、そうやって募集した時点で業者が「日本の工場で働く」などと言って騙す不正行為が横行し、新聞に叩かれた史実がある(結果、軍と警察の同行が命じられた)のだから、その広告は「朝鮮人女性の多くは高給くらいで日本の性奴隷になることは選択しなかったから、ほとんど集まらず、強制で慰安婦を集めた」という間接証拠にしかならない。

公式文書がない、というのもなんの証拠にもなるはずもない。最初から違法行為である証拠をわざわざ公式文書に残す阿呆はおらず、実は違法行為を命じていても一見そうは読めない文言にするか(そしてその命令書は実在する)、証拠を残さぬよう口頭の命令で済ます。

安倍晋三さんはせめて麻生太郎さん並に漫画くらいは読んだ方がいい。ヤクザものの漫画でも、あるいはマフィア映画でも、武器や暴力で脅して証文や契約書にサインさせる、署名捺印させるなんて当たり前の手法だ。そういったことがフィクションで使われるのは、もちろん現実にいかにもありそうな話、よくある話で、説得力があるからだ。 
安倍さんはテレビで株価ばかり見てないで『相棒』でも見ればいいのに。今の民主国家日本の警察だって、実は違法行為になる命令は口頭で証拠を残さないようにやるか、一見違法ではないように見える文言の命令書を出す。そう言ったリアルな社会で実感することをきちんとドラマ化しているから『相棒』は人気があるわけで。
こんな世間では当たり前すぎて大衆エンタテインメントでも常套の手法にすらなっていることを無視して、とはあまりに教養がなさ過ぎて恥ずかしい。

河野談話の検証の結果それ自体は、「ずべての慰安婦が強制だったわけでは」という国家の出す声明文としてあまりに非常識な文言が当初あった以外は、ごく普通の外交手続きが示されたに過ぎない。

それでも安倍さん達は、韓国の圧力だか朝日新聞の陰謀だかに負けて出されたもので日本は韓国の陰謀の被害者なんだ、と言い張りたいらしく、報告書自体もその恣意的に歪曲された解釈に読者を誘導する意図が相当に明白だ。

日韓関係をぶち壊しにしたいようにしか見えないことはさておいても、よく考えてみたら奇妙な心理だ。朝鮮日報の社説に「日本外交の独自性を自ら否定している」と皮肉られた、つまり独立国としてあまりに恥ずかしいことを自ら公言している、とイヤミまで言われてしまったのだが、これは「安倍晋三は危険なナショナリストだ」と言うだけでは説明がつかない問題ではないだろうか?

これまで世界史のなかで普通に理解されて来たナショナリズムとは、ベクトルが逆なのだ。ナショナリズムとは通常、民族や国家の正義と勝利、少なくとも闘ったことや勇敢さを称揚するものなのだが、安倍晋三の時代の日本のナショナリズムは違う。

たとえばソウルにでも行けば、韓国は日本の植民地支配への恨みつらみで被害の歴史を教えて洗脳している反日なのだ、と言った日本人の思い込みがまったくの誤りであることに気づくはずだ。そんなに抑圧と被害の歴史を教えたいのなら、たとえば日本総督府を撤去したりはしない。だがまさに被害の象徴である日本総督府は跡形もなく広大な広場になり、感福宮を復元して韓国のナショナリズムがしきりに強調しているのは(といって植民地になる前にも李朝の皇帝がほとんど住まなかった宮殿だし、北京の紫禁城の縮小コピーでしかないのだが)、朝鮮民族の偉大な歴史であり(李氏朝鮮は実際にはかなりひどい王朝だったが)、ハングル文字の開発を命じた李朝の皇帝の金ピカの像まで立てている(そのハングルは、民衆が文字を読めるようになるのを嫌った後の皇帝達が封印したのだが)。

5.4運動が起こった公園には、抗日抵抗を呼びかけた当時のインテリたちの英雄化された銅像と記念碑が並んでいるが(実際にはたいした数ではなかったのだが)、それこそ日本軍が朝鮮人民に銃剣を突きつけているような像はどこにもない。

ソウル市内には植民地時代のことを展示する博物館もあることにはあるが、相当にうらびられているし、展示内容はまったくたいしたことがない。「あんなところ行かなくていい」と言われたのは僕が日本人だから気を遣ってくれていたのかと思えばそうではなく、単につまらない、韓国人にとっても退屈だろう。

これは中国でも同じで、たとえば抗日戦争時代を描いた映画はかなり作られても、そのテーマは中国の民衆がいかに抵抗したかであって、日本軍が酷かったことは物語の舞台背景設定でしかない。

満州帝国の首都・新京であった長春では、日本時代の公的な建築物がそのまま使われている、憲兵隊本部が共産党本部になっていたりして、皇帝・愛新覚羅傅儀の宮殿が日本の圧制の記念館になっている…というと仰々しく聴こえるが、傅儀が住んでいたのは仮宮殿で、町の中心部からは外れた、相当にこじんまりとした建物だ。

ベルトルッチの映画『ラストエンペラー』は実際にここで撮影されたので、映画ファンが期待して行くと、立派に見えたのは映画のマジックであり、しかも外装と中央の吹き抜け階段以外のほとんどの大仰な室内セットは、チネチッタに作られたセットだった。

ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラストエンペラー』

はっきり言えば長春に日本支配が残した公的な建造物のなかでもっとも地味で目立たないものだけが、日本支配を伝える博物館に当てられていて、展示内容もえらくチャチでなんの感興も呼び起こさないのが実際だ。ソウルの記念館もそうだが、これで「日本はこんなに酷いことをしたんだ」とか涙を流して反省する日本人がいたら、そいつはサヨクの偽善者だ、とすら言ってしまいたくなるほどあっけない。

南京事件などで強調されるのは「日本軍が酷かった」よりは「日本軍が強かった」ことだ。日本軍が強ければ強いほど、それに抵抗し続けた中国民衆や、敗退させた八路軍がより強かったことになるからだ。だから中国側が国内では南京大虐殺の被害者数を30万と言っていることの意味も、誤解しない方がいい。

 張芸謀監督『紅いコーリャン』

イスラエル国家の樹立が正当化され、受け入れられたのは、世界史的に見ればホロコーストがあったからである。だがイスラエルでは建国後40年以上、ホロコーストはあまり語られない歴史であり、そこを逃れたり生き延びてやって来た移民は無視される、いわば差別対象だった。

70年代に書かれた遠藤周作の『死海のほとり』には、「私」がエルサレムでホロコースト博物館を訪ねる描写がある。誰も見学者がいない、うらびれた、埃じみて寂しい場所だ。それは中国でも韓国でも、被害の記憶を展示する博物館はたいがいそんなものなのだ。

こと韓国やイスラエルでは、そうなるのは当たり前でもある。韓国なら北朝鮮、イスラエルならアラブ諸国と、独立以来ずっと戦争状態にある国家だ。自分達の民族の悲惨な敗北の歴史は封じ込め、英雄的な勇敢さと力を称揚するナショナリズムを作り上げなければ、戦い続けられない。

フランスは極めてナショナリスティックな国であり、今も超右派の国民戦線の伸張が危惧されているが、フランスはナポレオンがワーテルローで惨敗して以来、戦争に勝ったことがない。それ以前だってたいがいは、戦争に負けている。ナポレオンが国民的英雄に演出したジャンヌ・ダルクは、フランス国土の半分がイギリスに占領された百年戦争のヒロインだ。

そのジャンヌ・ダルクと第二次大戦中のレジスタンス、そして国民的な人気マンガである『アステリックス』(カエサルに侵略されたガリアで、ひとつの村が抵抗し続ける話)が、いわば現代フランスのナショナリズムを規定している。だがそこで強調されるのはいずれも、占領されて悲惨な目に遭ったことではなく、雄々しく闘ったり、粘り強く抵抗したことである。


ポーランドはドイツとロシアという二大強国に挟まれた辛い歴史を歩んで来ただけにナショナリズムが強い国だが、その国民的叙事詩とされる『パン・タデウシュ』は、ナポレオン戦争の流れで一回だけポーランド人がロシア人を追い出したことを、ほがらかでおおらかに歌い上げるものだ。

アンジェイ・ワイダ監督『パン・タデウシュ物語』

「自分達が負けた」「被害者だった」なんてことは、ナショナリストにとってあまり嬉しいことではないし、国家にとっては国民が暗く鬱的に落ち込んでしまうからあまり言いたくない歴史なのが普通だ。

ところが今の日本のナショナリズムはまったく違う。中国戦線の勝利や英雄的行為に沸き立った日米開戦前の日本のナショナリズムとも違う。

日米戦争の最中でも、大本営は日本が敗北を続けていることを「大本営発表」で国民に隠し続けて来た。 
実は国民は日本が確実に負けていることに気づいていたはずだが、それでも「勝った」「日本は強い」「神国だ」とうわべではかけ声を掛け合い続けなければ、戦争なんて続けられない。確かに戦前戦中の日本のナショナリズムにも、マゾヒスティックな面はあったことは当時の戦意高揚映画を見ても分かる。人々が共感したのは勝つことよりも、苦しい戦場で耐え抜く兵士や、自分を押し殺して大義に殉ずる苦悩だった。

木下恵介監督『陸軍』
 だがそのマゾヒズムは決して、「自分達は被害者だ」と負けていることを吹聴するのではない。もっと真剣だしそれなりに感動を呼んだのは分かる。

たとえば河野談話の検証報告で安倍晋三たちが言いたがっているのは、要は日本が韓国に負けた、ということでしかない。

靖国参拝をどうしてもしたいのは、韓国や中国や、今では米国に、日本が確実に批判されるからである。そしてその度に批判を浴びては、「韓国は、中国は反日だ」と言い続けて被害者になりきれるのである。

あたかも自分達が被害者である、イコール自分達は正義で、“いじめる側” が悪だ、と言いたいだけであるかのようだ。

これは国家間の関係や歴史に関することだけではない。たとえば死刑制度を支持する人たちは、被害者と被害者遺族を徹底的に利用し、自分達がその側にあるかのように装うことで、死刑を正当化する。

先日、さる知人が自分の本だから読んで欲しいと言われて、『さよならサイレント・ネイビー〜地下鉄に乗った同級生』という地下鉄サリン事件の実行犯のひとり豊田死刑囚についてのノンフィクションを読んだのだが、読み進めることがどんどん苦痛になって何度も投げ出したくなってしまった。

なにが苦痛って、この本の言いたいことは極めて明確だ。バッサリ言ってしまえば「友達の豊田君がこんなことになって僕は悲しかった。オウムもひどいし社会もひどい」。あまりに想定の範囲内というかワイドショー的で単調、まるで「豊田君(無自覚に、イコール著者本人)が遭ったひどいこと」のショッピングリストでしかなく物語的なうねりも構成もなく、単に退屈で読者不在…になるのも当然で、そもそも “人間” が不在なのだ。

著者は豊田死刑囚の親友で大学も一緒だったという。その友達をオウムに奪われ、止められなかった苦悩と良心の呵責が全編を貫いてでもいればまだお涙頂戴で読み甲斐はあったかも知れないが、自信の内面や思いを惜しげもなく披瀝する割には、苦悩も呵責もまるでない。そこではオウム真理教への憎悪と友達の豊田君を誤解している世の中への憎悪が、どちらも明確に既定されることも分析されることもなく、ただ感傷的にないまぜになっている。

そして著者が浮かび上がらせようとする豊田君像は、ひたすら被害者としての受け身の存在であり、人間として空虚でしかない。著者はその人間像を浮かび上がらせようという努力を放棄して「彼はこんなに真面目で純粋な人だった、洗脳の被害者なのに、加害者呼ばわりする世間は酷い」と、村上春樹によるサリン事件被害者(ならぬ「あの3月20日の朝」の体験者)の証言集『アンダーグラウンド』にまで見当違いの八つ当たりを始める。

そりゃ自分の意志ではなにもしていなければ、「悪いこと」はしていないことになるので、結果として「正義」、少なくともクリーンに見えるという理屈にはなるのかも知れないが…。

読者が関心を持つ、あるいはこれが文学として成立する中心軸は、なぜ豊田死刑囚のような自然科学の最先端の教育を受けた、素粒子物理学を専攻していたような「もの凄く科学的な人」のはずが、オウムのような矛盾だらけで非科学的な教義に染まってしまったのか、という疑問である。その豊田死刑囚の主体的な物語が浮かび上がらなければ、彼がどう生きてなぜこうなったのかを読者に感じさせなければ、文学として成立しない。ノンフィクション、内面の直接描写が禁じられた実在の他者を事実から描写するのでも、間接話法の技巧でそこを浮かび上がらせるから、たとえばカポーティの『冷血』は傑作なのだ。

トゥルーマン・カポーティ原作、リチャード・ブルックス監督『冷血』

あるいはフィクションならば、ドストエフスキーはラスコーリニコフ『地下室の手記』の主人公が徹底的に病んでいる、その病んだ主人公の意志や行動を語るから文学なのであり、シェイクスピアの悲劇の主人公は愚かであるからこそ、その愚かさ故の人間性の深さが産む悲劇に、我々は引き込まれる。

あまり愚かであるが故に深く愛した」、『オセロー』オーソン・ウェルズ監督

「豊田君」はこの本の主人公でありながら、そこには居ない、空虚でしかなく、空虚であるが故にいくらでも想像できる「被害者である豊田君」像に、また著者があられもなく自分を同化させたマゾヒズムのホモソーシャル幻想は無自覚に淫猥ですらある。

だが結果としてひとつだけ、『さよならサイレント・ネイビー』から学べることはあるのかも知れない。結果論として、なぜオウム真理教が産まれたのかの理解のきっかけは、与えてくれるのだ。

あくまで結果論として、なぜ「自然科学エリート」であったはずの豊田死刑囚を初めとする地下鉄サリン実行犯たちがオウム真理教にはまり、あのように幼稚で不合理で結果だけは恐ろしく暴虐な、動機の滑稽さと結果の悲惨のギャップがあまりにも不条理な事件を起こすに至ったのかを、『さよならサイレント・ネイビー』という世にも曖昧模糊として漠然たる自我の不確立な自己愛の書は、ちゃんと提示してはいるのである−−著者まで含めて病理の観察対象として見た場合には。

言語化されていない曖昧な映像の連続であるが故にそこまで明確に認識されないが、森達也の『A』『A2』も実は同じような叙述構造を持っている。そこで決定的なのはこの映画のカメラが遠慮なく言えばもの凄くヘタクソであることであり、「大人」や「プロ」の仕事に絶対に見えないことが、オウムに自己投影するこのいわばセルフ・ドキュメンタリーを成立させている。 
原一男が今、セルフ・ドキュメンタリーの傾向が強い日本のドキュメンタリー映画の現状を論ずる連続講座を主催している. 
原がこの最近の傾向について率直な疑問としているのが、そうしたセルフな作品のほとんどが「カメラが下手」(原自身はキャメラマン監督で圧倒的な撮影の名手)なのと「勉強をしていない」なのだが、むしろ下手であり不勉強、つまりは努力不足があからさまだから成立しているのが、このような「自己表現」なのではないかと僕は思う。 
そして実はそれは決して本来の意味での「セルフ」、つまり自己の表現ではない。空虚で主体性のない自己だから、映画とその作り手と観客が「受け身」の立場を共有できるから、決して感動ではないなんとなくの同化意識で、一定の満足を与えられるのだ。 
と同時に、それに満足できる観客というのは、実は「オウム化」が進行している現代日本人、あくまで「受け身」であり、好き嫌いや感情はあってもそれを基に他人には干渉しない、だから自己責任を負わずに済む地位に安住できる場を求めているのではないか。

たとえば『さよならサイレント・ネイビー』のような社会の認識、世界と自分との関わり方をしていれば、オウム真理教に洗脳されたり、安倍晋三が首相になってしまうのは、ある意味当然ではないか。

自然科学の先端教育を受けていたかどうかも実は関係がなかった、というより「科学とはなにか」の理解が、その最初の一歩から間違っていたのではないか? 著者にとっても、著者の無批判で潜在意識レベルでは多分に同性愛的な(フロイトの論に従えば性志向が未分化で幼児的な、無自覚な鏡像としての)同化幻想の対象としての豊田死刑囚にとっても、恐らく自然科学が提示する「真理」もオウム真理教の教える「真理」も、あくまで受け身で自分が主体的にその探求に関わる意志を持てない点において、そうすることで常に受け身の「依存者」ないし「被害者」であり続けたかったことに、本質的な違いはなかったのだろう。

科学も宗教・哲学も、本来の投企には人間が世界の根本的で普遍的な原理を探求することが根幹にあるはずだが、この著者や彼が同化対象とする豊田死刑囚に於いては、その主体性が予め去勢されているというか、そもそも豊田死刑囚にせよ著者自身にせよ、その自己という個が見えて来ない…というか「ない」のだ。 
あくまで受け身に、そうした「真理」を与えてくれるシステムに依存することだけが彼らの主体的な選択で、それが東京大学だったり麻原彰晃であったりしただけなのか、「真理とはなにか」を自らの主体性で考え続ける意思が見当たらない。

そしてこの被害者でありたい、常に受け身でしかない場に自分を置き続けたいいわばオウム的なマゾヒズムは、1995年から10数年のあいだに、日本社会の全体に蔓延してしまったように思える。決定的だったのは北朝鮮による拉致事件だ。帰還した元拉致被害者の蓮池薫さんの兄、蓮池透さんが、それを適確に指摘している。


それまで日本は植民地支配と戦争犯罪の加害者だと言われ続けて来た。だが拉致事件では日本人が被害者になった。とたんにマゾヒスティックな負け犬のナショナリズムのタガが外れてしまった、と蓮池透さんは指摘する。

安倍晋三は日本の右傾化を代表する政治的な事象である、という見方が国際的に定着しつつある。麻生さんが「ナチスを見習え」と言ってしまい、橋下徹さんが米軍も日本の性風俗を活用しろと言って慰安婦制度を肯定してしまい、都知事選挙で舛添さんが「女には生理があるから政治家に向かない」と言ってしまい、安倍がダボス会議で「中国との戦争も辞さない」という意味にしかとられないことを言って国際経済の関係者を震撼とさせ、今度は都議会での女性蔑視丸出しの野次とその顛末が注目され、日本の政治には旧態依然の時代錯誤な父権的・男性至上主義的なファシズムが蔓延しつつあるのではないか、と世界に思われ始めている。

今回の河野談話の検証報告や、安倍がその前に河野談話を撤回しようとしたことも、こうした従来型のファシズムへの懸念の文脈に位置づけられて警戒されているのは、ある意味では当然だ。

だがこの理解は皮相に過ぎず、安倍晋三の日本という政治事象と、その根底にある現代の日本の本当の病理の一面しか捉えていない見方だと、僕はあえて思う。

ダボス会議での安倍の発言も、「中国との戦争を辞さない」という意味をそこで読み取ることは、安倍本人や日本人の感覚からすれば誤解なのだ。あれは文字通りに読み取らなければならない発言であり、安倍は本気で「日本は中国にいじめられている被害者なんだ」と言うことで自己正当化が計れると信じ込んでいて、「そんなにいじめられたらボク逆ギレしちゃうぞ」と言っただけなのだ。

にわかには信じ難い幼稚さだが、安倍晋三にとって河野談話の検証は、まったく単純に「日本はこんなに韓国にいじめられて言いなりになった被害者なんだ」と言いたいことだけが動機なのだ。慰安婦の存在をなんとか無視したいのは、加害者であったことが「被害者=正義」という自己イメージの邪魔になるからだけなのである。

被害者になりたいマゾヒズム、弱者であるかそこに同化することで自分の存在が正当化されるという、今や日本の全体に蔓延した倒錯を理解しない限り、今の日本が本当に陥っている危険な病理を、止めることは出来ない気がする。

言うまでもなくこれは根本から倒錯した認識でしかない。被害と加害の関係において加害者が悪であることは、被害者が正義であることを意味するはずがないのである。

人間が正義、正しくあり得るとしたら、それは自分の意志で正しい行いをした時にのみ担保される。そして被害者であったり被差別者、いわば「弱者」である立場とは、その主体的な行動の権利を予め奪われてしまっていることに他ならず、それは人間として恐ろしく屈辱的な状況であり、およそ正義なぞ名乗る気になれるものではない。しかも自分の力でそこから抜け出すことが、恐ろしく困難なのだ。

実際に被害の当事者である者たちは、そのことを自らの人格が破壊されかねないほどの痛みと共に知り尽くしている。

その絶対的で絶望的な困難のなかで、それでも主体的な意志で立ち上がる時にこそ、自分の人生を生きる決断をした時にこそ、「物語」が産まれ、その決断の方向性がたとえ間違っていようが正しかろうが、それは時に芸術ともなり得るのだ。

たとえばその慎ましやかにして雄弁な例が『アンダーグラウンド』であり、ドキュメンタリー映画であれば土本典昭の水俣作品であり、もっともラディカルで破壊的なのが例えば原一男のスーパーヒーローシリーズだ。

あるいはそれを、自分を語るいわば「セルフ」によって成し遂げたのがリティ・パニューの傑作『消えた画』であろう。



13歳の時に祖国カンボジアでクメール・ルージュ時代が始まってしまったパニューにとっては、自分を語ることこそがその “それでも立ち上がる時”、奪われた自分を取り戻すアクションであると同時に、これは「被害者でしかない自分」を冷徹な覚悟で突き放す映画でもある。

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