最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/10/2008

ラスコーリニコフはどこにでもいる

昨日の日記後半の続き−−昨今、確かに日本で、ある種異常な殺人が、一見「普通の」人によって起っているのは確かだ。とはいえ、ただそれを「異常だ、理解できない」とひとくくりにして論ずるのは危険だ。ましてだから死刑制度を存続し、厳罰化を進めなければならないなんてのは、およそ乱暴すぎる幻想に過ぎない。第一、死刑制度を廃止するのが現代の世界の趨勢だが、死刑廃止で凶悪犯罪が増加したという統計的な事実はまったく報告されていない。死刑の抑止効果というのは、犯罪者がなぜ犯罪を犯すのかを考えもしなければ、現実の犯罪を見ようともしない人の薄っぺらな議論だ。まして日本で起っている殺人事件はだいぶ前から、普通の市民がなんらかのやむを得ない事情で殺人に追い込まれている例が多い。そんな興奮状態で後先にどんな刑罰かなんて考えている余裕があれば、そもそも殺人になぞ手を出さない。

個別の殺人にはそれぞれに個別の事情・背景があって、動機が醸成されるプロセスがある。そこを検証した上で共通項を見いだすのならともかく、家庭内の親殺し子殺しと連続無差別殺人を「理解できない」というだけで一緒にするのは無茶だし、親殺し子殺し夫殺しという共通するように見える事件ですら、まったく異なった理由がある場合もある。その動機を検証した上で共通点を見いだすのなら、無差別殺人が実は父殺しのヴァリエーションであり、どちらも突き詰めれば間接的な自殺であるような部分も見えてくることなどは充分にあり得るが。

むしろ死刑制度の存続を主張することは、他ならぬこの種の殺人を同じ理屈で正当化することにしかならない。こうした殺人を犯す人間にとっては自分の行為は、死刑制度によってむしろ正当化される。ラスコーリニコフ・コンプレックス的な殺人者にとって、唯一意味を持ち得る反論は、「なにがあっても人の命を奪うのは許されない」という究極の倫理しかない。死刑制度を「正義の執行」だというのなら、国家なり社会がその「正義」によって殺人すら正当化するのなら、ラスコーリニコフ・コンプレックス的な観点からすれば自分は過ちを犯し続ける国家や歪んだ社会よりも正しいはずなのだから、その正しい自分が殺されるべき人間を見いだして殺すことになんら間違いはなくなってしまう。違いといえば国家権力がついているかどうか…というのはこの民主主義の時代におよそ説得力がないどころか、ラスコーリニコフ・コンプレックスは革命信奉でもあるのだから、国家権力なんて転覆されてしかるべきものとさえいえてしまうし、多数派だから「正義だ」と言い張ったところで、ラスコーリニコフ・コンプレックス的な殺人者からみればそんな多数派は、歪んだ社会に毒された衆愚に過ぎない。しかも現に、純粋な人間には耐えられないほどに、 この社会は確かに歪んでいて、しばしば醜悪で愚かしくさえ見える。

昨日のいわゆる無差別大量殺人が秋葉原で起きたことは多くのことを示唆する。いまのところ「人が多いところだから」という動機が報じられているが、それなら新宿でも銀座でもよかったはずだ。そうでなくて秋葉原だったこと−−犯人は子どもの頃から真面目だが、反面ちょっとでもバカにされると激興するところがあったという。一方でスポーツ紙報道によると、オタクの部類に同僚に見られていたこともあったらしく、同僚に秋葉原を案内した…というかさせられたこともあったらしい(プライドが高い人間だから案内できるという状況自体は嬉しかったのかも知れないが)。そこでメイド喫茶などにも行って、「まあこんなもんです」と言ったそうなのだが、オタク的といっても自動車マニアでメカ好き、写真を見ても真面目そうなだけに少年っぽい純粋さもありそうで、だとしたらだからこそ、彼の標的は「アキバ」でなくてはならなかったはずだ。ついこないだマスコミで話題になったばかりの歩行者天国のコスプレやローアングル族、「萌え」とかいって自分の歪んだ性欲をなんの恥じらいもなくさらけ出し、「メイド喫茶」なぞに鼻の下を伸ばしている連中と、外から見れば自分も同類に見られかねないからこそ、絶対に自分は違うのだという表現として、彼の反社会的な行為は「アキバ」を標的にしたのではないか。

この種の犯罪を無差別殺人と安易に呼ぶことには、実は誤謬が含まれる--やった側は必ずしも「無差別」だったわけではない。警察から本人が「誰でも良かった」と証言したとの情報が出ているからといって、警察がすべてを報道に知らせるわけもなければ、そもそも逮捕された時点で本音を語っているかどうかも疑わしいし、だいたい翌日とかそんな短時間で自分の動機を言語化できるほど、人間は分かり易い生きものではない。

殺された側にとっては本当になんの関係もなく無差別に、偶然に殺されただけなのは確かだが、殺した側にはそれなりの標的の認識があってやっている可能性を、少なくとも今この段階で排除するべきではない。報道で分かって来ている限りでは、「誰でもよかった」としても、実際に秋葉原を狙ったという事実があって、地方在住の彼から見て「秋葉原」がどういうイメージで見えているかを考えれば、「アキバ系」なら誰でもよかったということにしかならないはずだ。だがそこまでしか見えなかったことに、彼の絶望的な盲目さもある。マスコミがいかにメイド喫茶とミニスカ・コスプレと「萌え」とやらのロリコン趣味の醜悪さに秋葉原を塗り固めようが、そこには電気街に買い物に来ているだけだったり、せいぜいが興味本位で来てみただったりの、メイド喫茶などなどとなんの縁もない、彼の標的になる必然なぞなにもない人も、いっぱいいるのだ。彼が自分は世間から疎外されていると思い込んでいようが、その彼を疎外する以前になんの関係もない人々を、彼は殺している。その人々は彼には見えていない。他者が認識できていないという、現代日本の大きな問題が、この事件には大きく関わっている。

今日の写真はマーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』の、もっともゾッとさせられる名シーン。主人公のトラヴィス・ビックルは「この街のクズとウジ虫と汚れを一掃する」ためにまず大統領候補の暗殺を計画し、それに失敗して少女に売春をさせている売春宿に完全武装で乗り込む。この映画の痛烈な皮肉は、その結果としてマスコミがトラヴィスを英雄としてもてはやすことだ。彼が自分を疎外していると感じている “世間” は、売春宿を襲って少女を救った(そして文字通りのクズであるヒモその他を殺した)ことだけで彼をもてはやす。もちろんその前に彼が大統領候補を暗殺しようとしたことも、不眠症で夜な夜なポルノ映画館に通っていたことも、“世間” は知る由もない。トラヴィスの盲目さは、世間の盲目さの反映であり、その延長線上にあるものでしかない。映画はその盲目さを見逃さない。彼が「救い出す」アイリスはトラヴィスに「救われる」ことを迷惑、「あんたには関係ないでしょ」としか思っていないし、一応は自分の意思とはいえ売春もひどいことだが、13歳の少女の目の前で人間の脳味噌を吹っ飛ばすのも、あまりいいことには見えない。そこは奇麗さっぱり無視されて報道されないから、彼はマスコミによって「英雄」になる。一方我々観客は、トラヴィスの「英雄的行為」が病理の発露であることにも、彼がなにも変わっていないことも、気づかざるを得ない。トラヴィスも世間も同じくらい盲目なのだ。

ラスコーリニコフは金貸しのユダヤ人老婆を殺す。「金貸しのユダヤ人」を殺すことに喝采しかねない大衆はナチス時代のドイツにもいたし、今に至るまで欧米のユダヤ人差別の「理由」として多くの反セム主義者が主張する「正義」だ。「俺は人種で差別などしないが、あいつらは汚い金貸しだ」と。秋葉原の通り魔犯も、まだ過激コスプレがまかり通っていたほんのひと月前の秋葉原の歩行者天国だったら、意外と同情もされていたかも知れない。そこが19世紀ロシアと較べて恐ろしく情報化されたぶん、かえって人間が盲目になっている現代アメリカや現代日本の悲惨でもあるのだが。それにしても今回の事件は、オチが違うのと、麻薬に売春ナドナドがまかり通る70年代のヘルズキッチンが「少女売春ごっこ」の漫画にしかなってない、ポルノそれ自体でなくアニメ化というオブラートに包まれて勃起する代わりに「萌え」ているポルノごっこでしかない「アキバ」という遊園地的パロディになっていることを除けば、あまりに『タクシー・ドライバー』的で気味が悪いほどだ。

ラスコーリニコフ・コンプレックスが短絡で安易な殺人という結果に終わるわけでは必ずしもない。民主主義が生まれたのも、あらゆる革命も理想主義も、誤解を恐れずにいえばラスコーリニコフにも共通する(と少なくともラスコーリニコフは思い込んでいる)純粋さを持った人間が社会の歪みや悪を許せずに始めたものだし、現代の世界で信仰されている宗教にしても、始めた人間はナザレのイエスにしてもシャカ族の王子シッダールタにしてもムハンマドにしても、非暴力で殺生を禁じていることに決定的な違いはあるものの(で、どっちにしろ多くの宗教ではその精神を継いだはずの信者がその禁を平気で破るわけだが)、人間が社会の歪みや悪を許せない、そこに妥協しようとしない「反社会的」な人物だ。社会・国家・多数派こそが絶対に正義であるという独裁全体主義、北朝鮮並みのことでも規定しない限り、「反社会的=悪」という議論は説得力を持ちようがない。殺人を犯したという決定的な一事を除けば、今回の犯人は日本社会のさまざまな歪みの犠牲者であり、告発者でもあり得る。

『タクシー・ドライバー』について、脚本のポール・シュレイダーはトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)を70年代アメリカ版のラスコーリニコフであることを明言している。そしてシュレイダー、主演のデ・ニーロ、スコセッシの三者がそろって明言しているのは、彼ら自身のなかにトラヴィスと同じ怒りはあったということだ。19世紀ロシアの闇を描き続けたドストエフスキーにも共通するものはあったはずだし、ラスコーリニコフはそこらじゅうに、いつの時代にもいるのだ。その純粋さや正義感が自己満足的な支配欲や、自滅的な暴力の発露に到達するか、芸術家になったり革命家になったり、この世界を創造する人間になれるのかの違いは、案外と些細なことに過ぎないのかも知れない。

『ぼくらはもう帰れない』という映画では、我々の現代東京版ラスコーリニコフのオブセッションの対象がトラヴィスのような銃(秋葉原の通り魔犯も武器マニアでもあったらしい)ではなく、ある意味で危険な武器という側面も持つカメラというメカだったことが、ささやかな違いになっている。銃を自分に向ける(『タクシー・ドライバー』の大虐殺シーンの最後に、弾の尽きたトラヴィスは指を拳銃の形にして自分のこめかみに当てる)のではなく、キャメラを自分に向ける。トラヴィスのように銃を持った自分を鏡のなかに見て自己と自分の投影像の堂々巡りに陥るのでなく、ポラロイドに撮った写真の自分が自分が思っていた自分とは違うことに次第に気づいていく。

他者を認識できないというのは、結局のところ自分が見えていないことの裏返しに過ぎない。

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