最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

7/17/2013

他者への想像力について〜相手を「反日」などと思うことそれ自体、差別でしかない


2週間ほど前の本ブログで、東京だとニューカマー韓国人が多い新大久保、大阪なら歴史的に在日人口が多い鶴橋など生野区(たとえば御幸通り商店街)が「コリアタウン」として売り出していること、日本人と朝鮮民族の関係のここ十数年の変化(全般的に好転していることは、素直に評価すべきだと僕は思う)、そしてごく一部の反動分子(笑)がやっている「反韓デモ」なるものに触れた。

現実社会になんの影響力も持たない、いわば “世間知らずな引きこもり” 的な層が、匿名性のインターネットで妙な万能感を抱いた結果の滑稽で憐れな勘違いの問題はさておき、さすがに「朝鮮人は殺せ」などと言い出すことに関して反発が広がるのは当然だし、悪いことではない。

その「カウンター」を自称する運動の標語が「仲良くしようぜ」であることも、まあそれ自体は、とりあえず、ほほえましく、可愛らしい


実際に学生さん達のグループがその標語を日本語とハングルと英語で書いたハート型の風船を配っている姿とか、実に愛くるしいし、在日なのかニューカマーなのかは分からないが、お孫さんに風船をもらったおばあさんが、「ありがとう、ありがとう」と繰り返していたりして、本当にいいことをやっていると思った。

写真を撮ってただけの僕にまでお礼を言われても困るんですけどね。いやでも、その光景を記録する(もしかしたら世間に流す)ことだけでも、おばあさんから見れば「ありがとう」なのかも知れない。 
だとしたら写真を、もう一枚掲載。

ただしこうした善意は善意として、それがどんなに個人的には純粋さから出た行為であっても、日本人の側から韓国人や朝鮮人に「仲良くしようぜ」というのが、本来ならいかに厚かましい話になるのかという自覚は、やはり持っていなくては困る。

だいたい、「仲良くしようぜ」という標語、学生さん、若者や子供がやってるからまだサマになるわけで、世の中が分かって来ている大の大人がこれじゃ、やはり恥ずかしいだろう?

戦後に「在日」という階層が産まれて60年以上、「朝鮮人」が日本人に差別され支配され搾取された歴史からすれば100年以上、いきなりその過去を忘れたかのように「仲良くしよう」とか言われても、「その前に言うべきこと、やるべきことがあるだろう?」と思われたところで、なんの不思議もないことは、相手の立場になって考えればすぐ分かるはずだ。

いじめの被害者がある日突然、加害者グループに「仲良くしようぜ」と言われて納得するだろうか?

そんな手前勝手な話を真に受けられるのは…

  • a) よほどの人格者か(もう尊敬するしかない) 
  • b) よほどのお人好しか(気持ちはよく分かる) 
  • c) 真に受けるはずもないが、そんな下衆で卑怯な二枚舌の加害者連中と同等に成り下がりたくないがために、真に受けたフリはするか、一方的に自分の敵意は封じこめる意地っ張り(僕はこの部類になるだろう) 
  • d) 今のところは一応は「味方」のつもり/そのフリをしている彼らにまで、露骨に差別されて攻撃されるのは怖いからなにも言えない(これがいちばん多いであろうことは、相手の立場を想像すれば簡単に推測がつく) 
  • e)自分が差別されていることに気づかない方が楽だから自分を殺している(こうなると日本人の側としてはあまり言いたくはないが、「目を醒せ」と言わざるを得ない) 
  • f) 下手すりゃ自分も「いじめる側」に仲間入りしたいだけ(ただの加害者以上に許し難い下衆であり、人種民族無関係に心を鬼にすべし)

…というくらいしか、理由が思いつかない。

まして「仲良くしよう」とか言いながら、一方で日本政府は今でも「国民感情」をタテに朝鮮学校を高校無償化対象から外しているし、ずいぶん減ったとはいえ、まだまだ通名を用い、在日であることを隠さなければ、生活が成り立たない人も多いのである。

…と思っていたら、ツイッターにこんな投稿があった 


なんなん、これ? 
総聯と民団は敵対し合ってるから、民団が自分達朝鮮民族への差別政策に他ならない高校無償化外しに賛成すると思い込み、自分たち日本人の側の都合で他人様の民族を分断させよう、っていうこの無自覚な差別意識って… 
仮に民団が「朝鮮高校の無償化外し反対」に難色を示すなら、日本の差別に反対する日本人であればこそ、そこは「あなた方が日本政府による自民族差別に加担してどうするんです?」と民団を説得しなきゃダメなところだろうに、なにこの腫れ物扱いは? 
…っていうかそれ以前に、民団が「民族差別に反対する」という大義・正義よりも、しょせん日本側に実は押し付けられただけの差別の構造に基づく分断・対立にしか興味がないと思い込めるって、どこまで他人様を馬鹿にしてるんだ?  
朝鮮人だからそんな愚かな内輪の衝突の恨みつらみに走るとでも決めつけているわけ?
いや、結局は民団を利用して、自分達のお祭り騒ぎの正義ごっこを盛り上げたいだけ、そのためにわざわざ「反レイシズム」の運動が、在日どうしを総聯と民団で対立させる、差別する側の作った分断支配の構図を利用するのだからお話にならない。 
…というか、この 「カウンター」側のリーダー格自身が、無償化には反対らしいんだから呆れてものが言えない。それでどうやって「仲良く」出来るの?

こんな妄言が飛び出す以前に、「仲良くしようぜ」と言われたってシラけるだけ、偽善じゃないかと見抜く在日コリアンの方が多くたって、なんの不思議もない

そんなの5秒も考えれば分かるはずのことだし、分からない、考えないだけでも、怠惰の誹りは逃れ得ないし、それだけ相手の人間性を無視できること自体が差別的だ

日本人の差別は過去の軍国主義・植民地支配の時代だけに限ったことではなく、まして「殺せ」とか騒いでいる連中だけに限定されるものでもない。

僕たちが日本社会の民族的マジョリティである限り、僕たちもまたその差別の構造のなかに産まれその立場の恩恵も無自覚に受け続けているのだし、なによりもその日本という社会の構造を変えることは、僕たち日本人の側にしか出来ない

「いやお互いに、朝鮮人だって努力しなきゃ不公平だ」とか言うのなら、地方参政権くらいごちゃごちゃ文句を言わずに与えるのが筋だろう?

そんな不均衡な押しつけにしかならないことを無視して「仲良くしようぜ」は「お互いの存在を認め合うこと」であり、だから「反差別」で正義なんだと言い張る人に至っては、寝言もたいがいにしろ、と言わざるを得ない。


第一に、あなた方無自覚に傲慢な上から目線マジョリティに「認めて」もらわずとも、鶴橋のおばちゃんはチヂミを焼いてるし、生野区のオモニは美味しいキムチを漬け、飛田のお姐さんたちは日々店先に座る覚悟を決め、釜ヶ崎・三角公園のおっちゃんらは元気にがなっている。何様のつもりか知らんが、他人様の生を自分が支配出来ると思うコロニアリストの傲慢もいい加減にして欲しい。 
大阪、浪速区の、ゴーストタウン化して見える芦原橋駅前の公共住宅でさえ、人々はちゃんと存在している。「なにわお買い物センター」のビルから飛び降り自殺が昨今とても多いとしても、そうやって彼らの存在が潰えることを阻止するつもりなら、「認める」だけじゃ済まないだろう? 

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より、日本人の差別の構造
まして僕たちのこの国が、かつて朝鮮民族がひとつの民族であること、だからその民族の国家を持ってしかるべきであること、その民族と国家の存在を否定しようとしたし、今も彼らが統一国家を持てないのは、その日本支配の失敗に直接の原因がある(宗主国だと威張るなら、せめてその領土を守ってからにしろ)歴史的事実は、忘れるわけにはいかない。 
第二に、それこそ在日に僕たち日本人が「存在を認めてくれ」って、なんなのそれ?いつ彼らが我々の存在を否定したんだ? 
まさかとは思うが、戦争責任を指摘されたら「反日だ!俺たちの存在を認めてない!」とか、身勝手な被害妄想に耽溺するのだとか?在日に地方参政権を認めたら日本人の「存在」が脅かされるとでも?朝鮮高校を無償化したら「日本人の学校だけの特権」じゃなくなるから「存在が」とか言い出すんじゃなかろうな?
第三に、「お互いの世界を知り合う」?その前に日本人の側がやって来たことを日本人自身が知らないことが問題なんだろうに。 
だいたい日本人のことなら、在日は十二分に知ってますよ。ずっと日本人がマジョリティの国で暮して来たんだから知らないわけないし、朝鮮学校では日本語も、日本国憲法も教えてますが?日本人が一方的に、日本と朝鮮民族の歴史すら知らないだけじゃないか。
「在日の存在を認める」だの「日本人の存在を認めろ(=俺たちの方がえらいんだ、文句言うな、ってこと?)」だの「認め合う」だのの絵空事とは無関係に、差別は現実として、日常的に存在しているということくらい、まずちゃんと認識して欲しい。 
だいたい、「知らない」ことが相手を蔑視していい、対等の人間として認識しなくていい理由になるのか?


別に「朝鮮人を殺せ」と怒鳴ることだけが差別じゃない

就職差別は法的に禁止されているとはいえ、別のエクスキューズをでっち上げて在日を、あるいは部落出身者を雇わない、家族と結婚させない等の不当な話は、隠蔽されているだけでまだまだ続いているのである。

コンビニでもスーパーでも居酒屋でも、アルバイトさんの名札が韓国名だったり、外国人であるだけで感じが悪くなる客も未だに多い。本人は無自覚なのかも知れないが(いや無自覚だから問題なんだが)、レジの後ろで見ている僕が不愉快になることだってある。そりゃ日本語があまりに不自由だったら客も困るだろうが、ちょっと訛りがあるくらいで目くじら立てますか?相手の立場をちょっとでも想像すれば、外国で、外国語で頑張ってるんだから褒めてあげたっていいくらいだろう?

日本人はアメリカの人種対立が深刻だと、なにかあるごとに言いたがる。だがロサンゼルスやニューヨークで、黒人やヒスパニックや韓国系、中国系であるだけで、店員が客に不快な思いをさせられるなんてことはまずない。

ところが日本では、そういう在日だったり留学生の人たちは、必ずと言っていいほどアルバイト先の客の無自覚な無神経さに不快さを味あわされていて、それを日本人には滅多に言えないままでいるのだ。

簡単に言えるわけないでしょう?その不満を言ったとたんに、「お前は日本が嫌いなんだな、反日だ」とか、ますます差別されたらかなわないもの。

そんな差別を陰でコソコソと、しかし日常的に、延々と存続させ続けている側が、なんの反省もせず「仲良くしようぜ」だって?

「そりゃおかしいだろ?お前らが一方的に悪いんじゃんか。まず差別をやめろよ、反省しろよ、話はそれからだ」、 こう言われたら、反論はできないはずだ。


…と当然、誰でも気づかなきゃおかしい話のはずが…これはなんなんだ?


これが「反レイシズム」を主張してるはずの人たちの言い草なのだから、ここで怒ってる在日の人たちでなくても「ふざけるな」と思って当然だ。


これが「反差別のカウンター運動」なんだろうか?

無論、自分達が本来ならそれを言えた義理ではないことをじゅうじゅうに自覚しながら、それでもあえて、後ろめたさを感じつつも「仲良くしよう」と言うことは、いっこうに構わないとは思う。

繰り返しになるが、それ自体はいかにも平和的で、無邪気で、可愛らしくほほえましいスローガンであるだけに、有効性はある。

たとえば過去や自分の感情ににこだわらない、シンプルに善良な人なら、涙を流して喜んだっておかしくない。

あるいは分かっていても、子供の前ではこう言っておいた方がいい場合だってある。

ただし被害者や、「差別される側」の弱者は、このように無邪気で善良でなければ認ない、と言わんばかりの、日本人にありがちな態度もまた、いかに相手の人格の自由を無視した差別的なもの言いであるかくらいにも、気づけないようでは困る。 
彼らが善良であろう、人格者たろうとするのであれば、それはあくまで自分を高めるためであって、差別する側の我々に気に入られるためではない。

その一方で、「仲良く」一緒になって誰か別の他者(最悪、他ならぬ同朋の在日コリアン)をいじめられる立場になると思って、「仲良くしようぜ」に喜んで一緒になってつるむ人間だっている(上記のカテゴリーでは(f)の「下衆」の部類)のも、残念な現実だ。

いや、その方が多くたって、外的環境からすればおかしくもなんともないわけで、そのことを持って「だから朝鮮人は」などと言い出す日本人が多いのだから困る。

いやむしろ、そういう「いじめ」大好きになってしまうのって、今の日本人によく見られる心理、現代の日本社会で刷り込まれる行動原理ですよ。なんせ30年以上「学校でのいじめ」が社会問題のまま、なんの解決の試みすらなされていないのがこの国ですから、もう子供の頃から刷り込まれている。

「差別される被害者は、純粋でかわいそうな弱者だから助けましょう」なんて、しょせんは差別出来る側に胡座をかいている側の傲慢でしかない

それが『ヴェニスの商人』でシャイロックが裁判に負けたあとの大ドンデン返しのように「我々ユダヤ人もまた同じ人間」なのだから「復讐する」のであれば、少なくとも「差別する側」には、非難のしようがない。批判する権利は、その「復讐」が向けられる先である我々にはない

『ヴェニスの商人』のモノローグ、アル・パチーノのシャイロック

多くの演出家がこの戯曲の本質に気づいていないで、どう解釈すべきか分かってないようだが、『ヴェニスの商人』のキモはこのモノローグであり、だからこそシェイクスピアは天才なのだ。 
裁判がクライマックスでモノローグがアンチクライマックスなのではない。裁判までシャイロックをユダヤ人差別類型の悪役に見せていた構成は、この真実の発露をよりドラマティックに見せるための誤誘導のテクニックに過ぎない。

ただし現実にはこのシャイロックのように、ここまで自我、自分という個/孤を守れない者も多く、「やられたらやり返す」ことで対等を担保すべくあがくのではなく、自分をいじめる側がさぞ楽しそうなのを見て、「俺もやってみたい」と思う者だっている…

…というか、これは言いにくいことながら、在日にだってこういう人も少なくないし、だから日本人に在日についての差別的悪口を吹き込んで仲間入りさせてもらおうとしてしまう。これは編集中の『ほんの少しだけでも愛を』でも扱った主題だが、残念ながらもの凄く多いパターンではある。 
そして、そういう在日の「友達」と意気投合してるから「俺は差別なんてしてない」と自己満足できる日本人が、それ以上に多いのは言うまでもない。 
こう言っては悪いが大阪なんて「市民派」「リベラル」ほど、そんな「俺が差別なんてしてるわけがない」おっさんばっかり、だったりする。 
しょせん “上から目線” の傲慢で、ぜんぜん相手を見ていない、他者への想像力の著しく欠けた話でしかない。 
(その想像力なしにどうやって映画なんて見て楽しめるんだろう、っていうのは謎だが。こんな無神経だったら、映画なんて見る意味ないじゃん)

ましてこと差別を受けて来た(今もなお受けている)当事者である在日コリアンから「今さら『仲良くしようぜ』なんてよく言うわ、厚かましい!」と怒られることくらいは、覚悟しておくべきなのが当然だ

…と思っていたら、こんなツイッター上の投稿に出くわして、ますます目眩がして来るのである。

いやだからね、「お前の祖父母も、父母も」だけじゃなくて、「お前」自身がその無神経さと身勝手さ、自己中っぷりで、既に立派な “加害者” になってるから、そこ勘違いしないように。

一瞬、「反韓デモ」をやってる自称右翼の、安倍晋三だか自民党だかの支持者の側の自己撞着した、言い訳になってない言い訳かと思ったら、彼らが「カウンター」側のリーダー格なのだそうだ。
ここまで来ると、「こいつらのアタマんなかはいったいどないなっとるねん?」と、怒りを通り越して呆れて嗤うしかない。
なんなんやねん、この「仲良くしようぜ、だから俺たちのイヤがること言うのは禁止ね」っていう身勝手は?

自分たちの差別性が指摘されたら「協力してやってるのに、たかがチョンのクセに生意気だ」と言わんばかり、としか読めないのだが?

「お前らに協力してやってるんだから俺たちのイヤがること言うなよ。さあ仲良くしようぜ」という論理しか、ここには見えて来ない。こんな一方的で子供じみた、他人様がまるで見えていない押しつけ・封じ込めが、より広範な支持を日本人から得るための戦略のつもりだとしたら、これは差別反対の運動ではまったくない。

「仲良くしようぜ」と言うことで在日コリアンには当然の感情を強引に押し殺し、黙らせようとする差別運動でしかなく、それも味方のフリをしつつ、差別の構造、自分たちが「差別する側」に産まれたことに安住した、おためごかしの脅迫じゃないか。

しかも無責任な身勝手の押しつけに無自覚である、相手から見える客体としての自己にまったく考えが及んでいないことが、決定的に差別的であるだけでなく、絶望的に幼稚なひとりよがりでしかない。

あるいは、これが先日、大阪で行われたパレードの日本人参加者の声だという。


なるほど、中には(おそろしく寛大なことに)在日の側から日本人に「仲良くしようぜ、一緒に歩こう」と言ってくれる場合もある。だがこういう自分たちに都合のいい在日だけは認めるのはいいが「仲良くしようぜ」に違和感や反発を持つ在日はどうするのか?しかもどちらかと言えば、違和感を抱き反発を感じても当然の話だ

ところがそんなことは考えもしないで「日本人の内輪」に引きこもり、その身勝手なご都合主義を受け入れる在日とは「仲良く」する運動をやってる人々は、性懲りもなくこんな調子で開き直るわけである。   

 日本人マジョリティが「仲良くしようぜ」と言ってるんだから、在日は日本人の側の反発を買ってはいけない、というへ理屈のつもりなのか? 
これじゃ朝鮮民族に「仲良くしようぜ」にあたって差別する側が勝手なルールを押し付けて、支配/従属関係で「仲良くする」ことを求める運動でしかない。 
…っていうかこの人、さっきは「協力者」ぶって「俺たちが助けてやってるのに植民地主義批判なんて生意気だ、反日だ」と言っていたり、今度はマジョリティの当事者意識と言ってみたり、支離滅裂なご都合主義がひど過ぎるのだが…

そもそも在日コリアンへの差別は、一方的に日本人がやって来て、現に今もやっていることだ。日本人の側の責任であって、本来なら在日や朝鮮民族が努力しなければならないことではない。声をかけてくれただけでも、頭を下げ、恐縮し、自らを恥じるのが筋だろうに…

…「拒む理由はない」というこの恩着せがましさは、いったいなんなのだろう?

「拒む理由はない」ってあなた何様なの?

なに「拒む理由はない」って??

「拒む理由はない」???

挙げ句にこんな開き直りの言い草だ…

いや、あなたが勝手に卑屈になっていようが、「共に未来を造る」とか自己陶酔してようが、そんなのどうでもいいんだけど、完全に日本人の側が、差別出来る立場の恩恵に胡座をかいているだけの、ひとりよがりの世界でしょうに、これでは。

この人たちは「差別に反対」とか言いながら、当の差別されて来た、そして今も差別に遭っている相手の立場になって考える、ということを、ちょっとはやってみないのだろうか? 自分たちの発言が他者、相手からどう見えるのか、想像してみる手間も惜しむのだろうか?

はっきり言っておくが、僕たち個々人にたとえ差別意識などまったくなかったとしても、その相手である在日の人たち、他人様、他者から見れば、そんなこと分からない、疑い警戒するのが当然なのだ

僕なら僕自身という個人については、仮にそれがまったくの誤解だったとしても、その誤解を解く責任は、全面的に僕の側にしかない。相手に「ほら僕はこんなに善良な、差別しない人間なんですよ。僕と仲良くするのが当然でしょう」なんてことは、相手がそれに納得してくれるレベルで証明出来ない限り、言えるわけがない。

だいたい、そんなこと証明出来るかどうかも怪しいし。

まして差別意識なんてたいがい無自覚なものであり、僕自身が「僕は差別はしていません、そんなつもりはない」なんて言ったところで、なんの意味もない

このように「他人様からどう見えるのか」にあまりに無頓着な自己閉塞、もっと言えば「被害者の側から見たらどう見えるのか」をまったく想像すらしないことが、今の日本の重大な病理だろう。


先日、プルーストの『失われた時を求めて』の完訳新版という偉業(この翻訳は本当に素晴らしく、ニュアンスまでとても正確であるだけでなくものすごく面白くて、偉業としか言い様がない)を成し遂げられた鈴木道彦先生の講演会に行って来た。

講演のテーマは、プルーストとはまったく無縁に、1968年の金嬉老事件を切り口に、在日と日本人の関係を基軸に(金嬉老事件以上に、その10年前の小松川事件もとりあげつつ)、日本人の側がいかに「在日」という身近な他者への想像力を欠いているか、である。

実は鈴木先生はプルースト以前にサルトルの研究者であり、サルトルが高く評価したジャン・ジュネや、積極的に紹介したフランス植民地文学を読まれ、そしてご自身が最初にフランス留学されたのがまさにアルジェリア戦争のまっただ中であったことから、それを「では日本人である自分はどうなのか」に引き寄せ、在日コリアンをめぐる問題になみなみならぬ興味を持たれ、研究し、ゼミで学生と論じ合い、また金嬉老の事件では裁判の応援で活躍されるなどして来られたのである。

ジャン・ジュネの映画『愛の歌』(1960)

いやそんなご経歴をまったく知らず、不勉強を恥じるばかりです。

鈴木先生がそんなご自分の歴史と戦後日本の近代史を綴ったご著書『越境の時〜一九六〇年代と在日』(集英社新書)は、ぜひご一読お薦めです。
*先日の講演も、ほぼ本書の内容に沿ったものでした。 

実は小松川事件と李珍宇(日本名:金子鎮宇)死刑囚については、僕なぞは大島渚の傑作『絞死刑』のモデルであったことくらいしか知らず、金嬉老元受刑者についても、ほとんど知らなかった。

   大島渚『絞死刑』(1968)

無理もないといえば無理もないのは、自分が産まれる前のことであるだけでなく、現代の日本でほとんど触れられない話だからだ。

だから個人として「知らない」のはやむを得ないとはいえ、在日の友人とかに「そんなことも知らんのか!」と一喝されれば、文句は言えまい

少なくともそこで僕が怒るべき相手は、そんな自分を一喝をした人ではなく、自分にそれを教えて来なかった、むしろ隠して来た、「忘れて来た」社会、自分の所属する「日本人」という民族の総体に対して、である

怒るか、絶望するか−いずれにせよ「差別する側」に産まれた、自分を「差別する側」に閉じ込めるべく出来上がっているこの構造に、僕という個/孤が打ち勝ち、自由になるには、ここでその構造に屈服するわけには、絶対にいかない。

僕以下の世代の日本人は、金嬉老の怒りについてどころか、1910年から1945年の日本敗戦まで続いた日韓併合・植民地時代についてすらほとんど知らない。

教科書には書いてあるものの、なぜか中学でも高校でも、日本史の授業はそこに行き着く前に年度末の時間切れになったり、駆け足でなぞるだけで、テストにもあまり出ない。

植民地化の過程で日本が李氏朝鮮の皇帝の母を暗殺するなど、極めて野蛮な力づくで、いわば拳銃を頭につきつけて契約書にサインするようなやり方で「合意」を取り付けたことすら習っていない。

だがそれを「知らない」、なぜなら「学校でちゃんと教えていないから」であるのは、あくまで日本側の、僕たちの勝手な事情に過ぎない

被害を受けた側からすれば「知らない」だけでも驚きというか侮辱であり、そこで延々といいわけをされたところで「ふざけるな」としか思えないだろう、という程度の想像力も持てずに、どうするのだろう?

そこで開き直ってしまなら、根本的に相手の人間性を無視している、つまりは差別以外のなにものでもないだろう。

民主党の有田芳生参議院議員などを中心に、ドイツなどをお手本に「ヘイトスピーチ禁止」の法制化の動きもあるようだ。それ自体は決して悪いことではないのだが、なにか肝心なことが抜け落ちていないだろうか?


ドイツはナチズムの歴史をきっちり国民に啓蒙しようと努力を続けている。 
ベルリンなどは国会議事堂の横に「ヨーロッパにおけるユダヤ人虐殺慰霊碑」があり、やはり中心街、それこそポツダム広場のすぐ近くではヒトラーの官邸遺構の地下壕も保存されて「恐怖の地政学」として公開されるなど、都市の随所に自国の負の歴史の記憶が顕在的に刻み込まれている。 




たとえば1923年の関東大震災における朝鮮人虐殺は、記念碑すらない。日本軍の犠牲になった慰安婦の人たちの慰霊碑も国内にはなく、アメリカで作られたりしたら、日本の政治家が意見広告を出して抗議するような、独善的な恥さらしっぷりである。 

ポーランド政府は自国民がホロコーストに積極的に参加したことを政府の責任で追及し、国内世論の反発すら省みず、立証した。(詳しくは NHKスペシャル『沈黙の村』 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2002/0914/を参照)

「戦勝国」であったフランスですら、ヴィシー政権が関わったユダヤ人強制移送については、綿密な調査の上で被害者遺族への補償を続けている。 
これが国際標準、他者に見られる客体としての自分の責任を果たす上で、当たり前でなければならないことなのだ。 
A級戦犯が合祀されている靖国神社に現職閣僚が参拝し、従軍慰安婦についてあたかもそれがなかったか、日本という国家の責任ではないようなことを言い張る(業者がやった、とか強制はなかった、とか)日本側のやり方が、ドイツやポーランドやフランスと比較することも自由な他者から見て、決して納得できるはずもないものであるのは、明らかだろうに。
ドイツやカナダなどが刑法で禁止しているのは「ヘイトスピーチ」以上に、歴史を歪め人種民族差別を助長する言動、歴史修正主義だ。はっきり言えばホロコースト否定論を法律で禁止しているのである。同じ論理で、戦前戦中の日本の人道犯罪を否定したり美化する行為は「ヘイトスピーチ」同様に禁止されなければおかしい。

先日(7月13日)、北朝鮮による拉致事件被害者の蓮池薫さんの兄、蓮池透さんが、朝日新聞にこのような記事を寄せていた。


「ずっと加害者だと言われ続けて来た、その鬱屈から解き放たれ、あえて言うと、偏狭なナショナリズムが出来上がってしまったと思います」 
「拉致事件を解決するには、日本はまず過去の戦争責任に向き合わなければならないはずです。しかし棚上げ、先送り、その場しのぎが日本政治の習い症になっている。拉致も原発も経済政策も、みんなそうじゃないですか」
日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる。被害者意識の高進が、狭量な社会を生んでいるのではないでしょうか?

蓮池さんが指摘した病理はいずれも、日本国内で、同じ日本人どうしの顔色しか見ていなかったらすぐにはまりこんでしまいそうな話だ(蓮池透さんご自身も一度はそうなっていたことを、率直に反省されている)。だがハタ目には、国際的には、他者の視点から見れば、通用するはずもない内輪の身勝手でしかない。

これは倫理・道徳以前の問題だ。「為政者にとっては、北朝鮮が『敵』でいてくれると都合がいいのかも知れません。しかし対話や交渉はますます困難となり、拉致問題の解決は遠のくばかり」と蓮池さんは言う。

当たり前のことだが、交渉ごとには必ず、納得させなければならない相手がいるのだ。

エロール・モリス『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ国防長官の告白』
マクナマラはソ連側、フルシチョフの立場をアメリカ側が理解していなかった、誤解していたことが、キューバ危機が起きた理由だと断言する。ヴェトナム戦争の激化も「アメリカがヴェトナムを誤解していた」。

戦争にだって敵がいる。その敵を理解しその行動を読まなければ、無駄な戦闘で自軍に損害を出し、結局戦争に負けることにだってなる。

当たり前の大人の世界のリアリティであり、それが分からないようでは子供の論理にも及ばない幼稚な絵空事のはずなのだが、これではいわゆるコミュニケーション障碍に、日本全体が集団で陥っているようなものだ

尖閣諸島問題でも、竹島の領有権主張でも、日本のマスコミだとかは完全にこの内輪の病理しか語っていない。中国も韓国も同じ位に自分の領有権を主張する理由があるからこそ領土紛争になることを無視して、「国際法上」を馬鹿みたいに持ち出している(だからそれは日本側の解釈でしかないってば)。

慰安婦に関しても、元慰安婦が訴訟を起こしても、個人賠償は日韓基本条約で解決済み、として裁判所は事実確認すら怠って来た。これも他者、ハタ目にはただの不正直な逃げにしか見えないし、そもそも金目当てで訴訟を起こしているわけではない、事実をちゃんと認め、反省を示して欲しい、という相手に対して失礼千万ではないか。

わざと怒らしているようにしか見えない。

それに日韓基本条約で「個人賠償は」というのは、あくまで日本兵であった朝鮮人の人たちへの恩給や、日本で働くために連れて来られた人たちの未払いの給金のことしか、日韓基本条約では議題になっていない。これに慰安婦を当てはめるとしたらやはり給料だけのことであり、虐待的な扱い(あまりにも待遇がひどく、一説には3/4が命を落としたと言われる)への損害賠償は別の話だ。

あまりにも人を馬鹿にした話でしかないことに、即座に気づいて当然なはずだ。ところがこの人を小馬鹿にした話に当然相手が(そりゃ怒らないわけにもかないから)抗議したり批判したりすると、「反日だ」とヒステリーを起こす。

他者、相手を人間扱いしていないのだ。

「抑圧し、差別する側」であった日本人の責任は、もはや戦前の36年間のそれだけではない。戦後ずっとやって来た、この人を人と思わないやり口も、すでにそこに含まれてしまうのである。つまりもはや「過去だから、産まれる前のことだし、関係ないじゃないか」という言い訳すら、通用しない。これは現代の僕たちの国が、今もやっていることだ。

そういった自分たちの側、自分たちの国がやって来たことを批判されたら「反日だ」と言い張ること自体、いかに他人様が見えてない身勝手であることか。他者を同等・対等の人間として見られない差別意識の、無自覚の発露であることか。

…と思ったらこんな調子である。


繰り返すが、これは「反韓デモ」なるものをやって新大久保や鶴橋で暴れている、世間知らずの引きこもりな勘違いに陥った、自分では「右翼」だか「保守」のつもり(ただの倫理観のぶっ飛んだわがままに「日本の保守」を名乗られても困るが)の輩の寝言ではない


その彼らの言動を「ヘイトスピーチ」だと批判し、自分たちは「反レイシズム」だと自称している人たちが、こんな大雑把で出鱈目なことを平気で言って、在日コリアンを差別意識丸出しに罵倒しているわけだ。

いったいどうなっとるねん?

子供たちが学校で習ってない、大人に教わっていなかったから分からない段階で、無邪気に「仲良くしようぜ」と言っているのは、まだ「知らないんだからしょうがない」のだし、ほほえましくて可愛らしい…と言ったって、それが通用するのは子供だけ、学生までだ。

その学生でさえ、「それじゃ済まない過去があったことをどうするのか?」と問われたとき、「知らない自分は悪くない」に固執するのは明らかにおかしい。「知らない」ことそれ自体が問題だとすら気づけないのなら、明らかに他人様が見えていない、他者を人間として認識出来ていない

つまりそれもまた、差別以外のなにものでもない


先日の講演で、鈴木道彦先生は最後に現代の日本に触れ、こうおっしゃった。

「美しいとか醜いとか、それはあくまで他者から見て言うはずのことです。他者が見た客体としての自分。それを自分達で『美しい国』と言っているのですから、私は今の日本はとても危険なところにあると思います。ひとりよがりの国です」

世の中が自分達以外は、自分とは異なる他人で構成されていること、この世界で生きると言うことは、自分とは異なった他者に囲まれ、自分は自分でありながら、その無数の他者たちから見られる客体であり、その他者たちと関係をつくって行くことでしか自己実現などないと気づけないのなら、それは自分達の内輪だけの世界に引きこもっているだけだ。

誰もが知っていてもおかしくない自国の過去も知らず、「日本を責めるなんて反日」とか、「戦争責任を追及なんて私たちの存在を認めてないんだわ」とでも思い込んでいるのが「右翼」だけでなく「リベラル」「市民派」、良心的なはずの「反差別」も同様ならば、僕に言わせりゃ「ニッポン全国引きこもり」だ。

自分達の内輪で引きこもるのもまた自由だ。だが、ならば外に出て来るべきではない。自分たちが拒絶したはずの社会や世界から「認められたい」などと甘えるのならば、いったいどういう了見で引きこもってるのかすら疑わしい。

あなた方が引きこもっていることについて、あなた方にとって他者である我々は、なんら影響力を行使できる立場にはない。だからあなたたち自身が社会を拒絶するのなら、その社会に「認めて欲しい」だの勘違いも甚だしい。

そんなわがままを叫んでないで、他人の迷惑も考えろ。考えたくないのなら、世間に出て来て他人を巻き込むべきではない。

まして被差別者である他者をそこに巻き込んで、自分たちマジョリティの免罪符に利用できる被差別者は「仲良くしよう」、そうでなければ排除する、では本当に邪悪な身勝手でしかない

原発事故でも、「フクシマの人々」をそうやって利用しようとした人たちがいて、その結果が例えば双葉町の分断だ。ひとりよがりの正義のフリ、正義ごっこもたいがいにすべきだろう?

ところがこの上記の「反レイシズム」を自称する人たちは、自分たちの運動に参加する在日コリアンに、自分達を批判する在日コリアンを叩かせたりまでしているのだから呆れる。

先述の「仲良くしよう」を真に受けられる被差別者側のカテゴリーのうち(f)に該当する人が、そんなに多いのだろうか?

なるほど、「仲良くしようぜ」風船に涙を流して喜ばれたおばあさんもいる。

だがその言い草に納得しない在日の人も当然ながら多いのだ。そこで個人的な好き嫌いならともかく、自分達の運動を正当化したいだけの都合で彼らを裁いたり判断する資格は、我々「差別する側」の日本人にはない

金嬉老事件の裁判で、弁護側は最終的にこう主張した。


「金嬉老は確かに殺人や拉致監禁などの犯罪行為は犯した。だが日本の裁判所には、彼を裁く資格がない」

誰か日本人の監督が、金嬉老事件をあらためて映画化するべきだとすら思う。

ニヒリズムを漂わせながらその実思いっきり勧善懲悪の、サム・ペキンパーばりの痛快アクション映画として。それが出来たとき、初めて我々の「日本映画」は、差別する側のコロニアリズムから解放されるだろう。

過去にテレビドラマになった金嬉老事件では、まるで『狼たちの午後』である。だからシドニー・ルメット的な「哀れな弱者達の逆ギレ」じゃ駄目だって。アウトローたちの土壇場の正義、『ワイルド・バンチ』を目指さなくては、この事件を描いたことにならないのではないか?

サム・ペキンパー『ワイルド・バンチ』より

当たり前のことだ。差別される側が、自分達が差別されることを正当化する体制の法や倫理の体系に従う謂れはない。これは基本的人権のなかでももっとも重要な部類に入る「抵抗権」の範疇のはずだ。

正義とは我々の社会の身勝手に内在するものでは決してなく、不完全な我々人間たちの「外」にしかあり得ない究極の他者に属するものだ。

私たちの自己中心的な都合に左右されるものなど(ましてそれが「差別する側」の都合である場合は)、正義であるわけがない。

  大島渚『絞死刑』予告編

もっとも、僕自身がやるべき映画は、むしろ小松川事件の李珍宇だと思う。大島さんの傑作はすでにあるが、あれは痛烈に戯画的な日本社会批判ではあっても、主人公の死刑囚を「R」という匿名で、記憶喪失にしたことも含め、李珍宇という青年の抱えた複雑な人間性には、むしろ意図的に触れていない。

李珍宇の支援者らは、彼の犯罪を「在日のめぐまれない環境で育った結果」であって、彼自身の罪ではない、という論戦を張ったわけだ(大島の映画も、その偽善性については痛烈に皮肉だ)。そのなかには彼と長く文通関係にあり、彼が「姉さん」と呼んでいた、総連系イデオロギーの民族主義で彼を説得しようとする在日の女性もいた。

李はその論理を敢然と拒絶し、犯罪を犯したのは自分の本性である、「悪は私の本性」とすら言い放ち、自ら死刑になることを選ぶ。

自分の犯罪を、自らの命すら賭して、自分の責任として捉えること、この時に彼は「差別される側」から解放され、独立した一人の個/孤としての自分を取り戻したのだと思う。

原理的に日本人の側からしか変えられない差別の構造に、どう差別される側にある個/孤が立ち向かうのか?金嬉老のアクション映画ばりの痛快さはひとつのやり方だが、李珍宇はより本質的で根本的な「自由」と「解放」を選んだのではないか?

小松川事件の李珍宇の生き様/死に様は、圧倒的な、古典的とも言える、実存的な悲劇なのだ。彼は差別する側の「日本」だけでなく、「差別される側」に凝り固まった在日社会にNOを突きつけるために殺人を犯し、その犠牲者への自分の責任も含めて、死を選んだ。

彼が言う「悪は私の本性」とは、そういう意味なのだろう。

この悲劇を生んだのは、鈴木道彦先生の表現を借りれば、我々の「民族責任」に他ならない。

だからって殺された若い女性二人の罪とか、日本人だから殺されて当然、という理屈には決してならないので念のため。だからこそ李は自らの行為への責任として死を選んだのだ。

それは「自殺」ではなく、自らを死刑にするしかなかった-実はもの凄く日本的な死の選択、いわば「切腹」とも言える。

まったく無反省な僕らの国がこの自民族の責任を克服する気概なぞまったく欠いている以上、李珍宇は死によって自分を取り戻すしかなかった。それが彼が、類い稀な感性と知力で(22歳で死刑になった彼は、少年時代から万引きした本や、獄中では差し入れなどで、膨大な本を読みこなしており、IQ検査も135という凄い数字を叩き出している)嗅ぎ取った、これしかないという結論だった。

そしてこの魂のドラマは、すさまじく映画的にもなるはずだ。

映画とはキャメラという自分ではない機械を介在させ、その前にいる他者を撮り、その姿が投影されたスクリーンのなかに、他者を通して自分自身を表現する/見る、あらゆる芸術のなかで最も「他者性」の強い表現なのだから。 
キャメラはしょせん機械であり、こっちの「思い」とは無関係に世界を写す、観客は巨大なスクリーンに映し出されたその世界の似姿と向き合うという、もっとも実存的なメディアなのだから。

大島さんですらあの傑作を持ってしても成し遂げられなかったことを描くのは、「リベンジ(笑)」も含めてやりがいがあるしね。

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