最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

11/19/2017

「戦国時代」の大タブーにしてもっとも陰惨な悲劇、徳川信康事件について


井伊直虎、あるいは井伊家出身の尼僧・次郎法師は、当主が暗殺され男の後継者がわずか2歳の子どもしかいなくなったので女ながら領主となり、井伊を守り抜いてこの幼少の虎松を育て上げたとされる。虎松は成長して井伊直政となり、徳川幕府の成立後、彦根30万石の藩主になった井伊家は徳川の譜代筆頭として老中、大老を輩出し続けた。

しかし当時はしょせん、遠江の西端(今の静岡県浜松市)の、井伊谷の小さな領主でしかなかった井伊家だ。京の公家の日記に残るには遠過ぎるし、生涯の記録が書かれるような大物でもなく、直接の文献史料がほとんどないなかで、分かっていることは井伊家の伝承をまとめた江戸中期の文献以外はほとんどない。「直虎」という署名の当時の古文書もあるが、それが尼僧の次郎法師と同一人物かも、最近になって疑義も提示されている。

それが今年の大河ドラマの主人公なのだから、NHKも大胆なことをやるものだ。基本史料そのものが「作り事」である可能性が高い(直虎・次郎法師が虎松の父の井伊直親とかつては許嫁であったとする伝承も、実年齢の差を考えるとかなり怪しい)、いずれにせよ神話伝説めいた話である上に、『おんな城主』といいながら、井伊家を守ったというその功績は、戦争ではなく主家の今川に命じられた徳政令(農民の借金棒引き)を、領民を説得してその生活を守る代わりに先延ばしにした、経済政策なのだ。

だからこその異色大河ドラマは、武家に限らぬ当時の社会情勢と経済産業構造を丁寧に描写することで直虎の政策とその意味をリアルに浮かび上がらせる。だから十分に説得力はあるのだが、それでも直虎が徳政を先延ばしにする代わりに実行する政策の先進性にはやはり驚く。中世末期の新規産業振興イノベーションに治水灌漑などの住環境・職業環境に整備で時代に適応した豊かな土地にし、しかも労働力を確保するためにも住みやすい、今でいえば高度福祉社会まで作ろうという、「民富んでこそ国栄える」精神の実践なのだ。

先進的というのも、ドラマのなかの直虎がやることのほとんどが、井伊直政が仕えることになる徳川家康と、その後継の将軍たちが実践するか試そうとした政策だったりする。この大河ドラマは実のところ、徳川家康をいわば「裏主人公」に、戦国時代が本当はどんな時代で、徳川家康がそれを終わらせることがいかに歴史的な必然だったのかをテーマにしている。

しかもこの「裏・家康」設定は、非常に不吉な伏線を最初から設定することで始まっていた。家康の正妻・築山殿(ドラマの役名は瀬名)が最初から重要な登場人物なのだ。

直虎・次郎法師のことを伝えるのと同じ井伊家の伝承には、徳川家康の正妻で今川義元の親戚(姪というのが定説)になる築山殿の、生母が井伊家の出だったとも書かれている。そこで幼少時の直虎(「とわ」という役名はフィクション、当時は武家の女性の本名はめったに公にされず記録もされないのが一般的)と瀬名つまり後の築山殿が幼なじみで、縁戚でもありずっと親交を持ち、瀬名は直虎を「姉さま」と呼び、瀬名と松平元康(後の家康)の新婚生活も描写されていた。

桶狭間の合戦を機に家康が今川の支配から独立すると、駿府に残された瀬名とその子の竹千代(これは松平・徳川家の嫡子の幼名、のちの徳川信康)は人質状態で今川に殺されそうになる。この時に駿府に乗り込んで助命嘆願に奔走するのも、ドラマでは次郎法師(後の井伊直虎)だった。

言うまでもなく、この築山殿と、家康とのあいだに産まれた長男・徳川(松平)信康は、天正7(1579)年に非業の死を遂げる。殺したのは夫であり父である家康だ。

築山殿 静岡県 西来寺蔵

こればかりは多少は日本史に興味がある人なら知っている有名事件なのだが、ただし今度は大タブー、それもあまりに陰惨な悲劇だ。

クライマックスにこのとんでもなく悲痛な事件が起こることだけははっきりしているのだから、なんとも大胆不敵な野心的ドラマなのだが、案の定といえば案の定とはいえ、残すところもうあと数回になってやっと、というかついに、信康と瀬名に突然悲劇が襲いかかる(第45回ダイジェスト https://www.youtube.com/watch?v=eKCA8ZeV32g)。

とはいえ今度は捕らえられ幽閉された築山殿と信康をなんとか殺させずに済まさせようとする努力を見せるようで、このなんとも後味の悪い事件の余韻で1年のドラマが終わってしまいそうな勢いだ。

これ、大丈夫なんだろうか? どういう結末があるのだろうか? 史実としての井伊直虎は、この事件の3年後、今度はこの信康の死を家康に命じた織田信長が明智光秀に討たれた、その約2ヶ月後に亡くなっているのだが…

いやこのドラマのことだから、直虎は名目上天正10年に死んだことになっているが実は… 
…なんてことになりはしないかとも思えるのはこの直虎、とてもではなないがあと3年では死にそうには見えないそれにこうした「記録ではこうだが、実は」展開は、このドラマで幾度も用いられて来てもいる。
それこそ実は家康・秀忠・家光三代のアドバイザー、天海(慈眼大師)は直虎だったとか、そういう展開になってもテーマ的におかしくない。
天海が住職を務めた川越・喜多院の慈眼堂 徳川家光の建立
なお天海の墓所は輪王寺の慈眼堂(やはり家光建立)だが現在非公開
 
ちなみに天海は、実は明智光秀だった、という俗説も有名なわけだが、そうなると106歳の長寿をまっとうした天海が光秀ならさらに8歳上の114歳(!)になる。 
死の直前の姿とされる喜多院慈眼堂の慈眼大師(天海)像
直虎の生年は不明だが、ドラマではだいたい天海と同じ天文5(1536)年かその前後っぽい設定にはなっている。
東叡山寛永寺(現上野公園内)の天海の遺髪塔
剃髪した僧侶なのにそんなに髪があった?
 
日光山輪王寺 天海の墓所である慈眼堂への門


さて、その信康事件である。

岡崎三郎信康(徳川信康) 勝蓮寺蔵 

徳川家康の生涯でもっとも暗い歴史、妻を惨殺し長男に切腹を強いることになったのは、当時同盟関係にあった織田信長の要求だったと言われているが、詳しい理由や背景は、実は分かっていない。

「信長公記」によれば信長の娘で信康の正室だった徳姫が、信康が舅の織田家に無断で側室を置いたことなどの不行跡を訴え、信長が激怒したとされているが、最新の研究では、信長が直接に信康の死を命じてはいなかったかもしれない、というのだからさらに驚く。

もしかして信長は、実は関係なかったというのか?

狩野永徳 織田信長像 天正12(1584)年 大徳寺蔵

あるいは、「同盟」とはいえ軍事力でも経済力でも強大な信長に、「弟と思っている」と言われ続ける家康が隷属する関係が実際だったわけだが、つまり家康が長男を殺したのは、信長に逆らえない究極の過剰忖度だったのか?

信長=秀吉=家康の「天下統一」期、つまり「戦国時代」の最後の方だけに関心が向かいがちな「戦国武将ファン」には見落とされがちのことかも知れないが、この時期のほんの少し前まで、「戦国最強」でもっとも恐れられていたのは、甲斐の武田信玄だった。

武田信玄像 高野山成徳院蔵

跡をついだ四男の武田勝頼は長篠の合戦で大敗した無能な二代目的に思われがちだが(黒澤明監督の『影武者』などが典型)、それは結果として勝頼が織田・徳川連合軍に滅ぼされたからであって、一時は父・信玄をもしのぐ最大支配地域を実現したし、長篠の合戦で多くの重臣を失った後のこの時期でも、未だに強大な権勢を維持していた。

武田勝頼・夫人・武田信勝像 高野山持明院

だからその武田を信康が密かに味方につけて織田、さらには家康への謀反を企んでいたから処罰されたというのは、当時数えで21歳の若き信康が、というのであれば確かに、まったくあり得ないことではない。

この当時の家康に「天下統一」の野心があったとはとても思えない。家康は今川義元が桶狭間の戦いで急死したことで今川から独立できたものの、今度は織田と「同盟」と言いながら、限りなく主従関係に近いものだった。

後世の、いわば後付け歴史観では、松平(のちの徳川)家は今川に臣従する屈辱とその抑圧に耐え続け、桶狭間をひとつのチャンスと捉えたのだろうと単純にみなされがちだが、家臣の三河武士団についてはそうだったろうにしても、家康本人についてはとてもそうとは思えない逸話も残されている。 
むしろ今川の敗北に将来を悲観した家康は三河・岡崎の菩提寺で自刃しようとして、その住職に止められて「厭離穢土欣求浄土」の言葉を授けられ、後にそれを馬印としたというのだ。 
元々は穢れた現世を離れ浄土への往生を求めるという浄土信仰の標語だが、家康がこれを自らのいわば座右の銘としたのは、私利私欲と殺戮に満ちた世を厭い、平和で清らかな新たな世を実現したい、というように解釈される。

後には「戦上手」と言われた家康だが、武田の駿河攻めと組んで遠江に攻め込んだ時には堀川城の攻防戦で一般庶民の非戦闘員まで虐殺するような戦い方をさせたかと思えば、今川氏真を攻めあぐね、武田に無断で和睦して氏真を生かし、信玄を怒らせ…というか呆れさせている。

徳川流の戦い方があったとはとても思えないこの支離滅裂ぶりは、しまいには武田と決裂しその武田が遠江に攻め込んで来る結果になり、家康は三方ヶ原の戦いでは明らかに焦って浮き足立ち、あっけなく信玄の陽動作戦に乗せられてしまって大惨敗している。

伝・徳川家康三方ヶ原戦役画像 通称「しかみ像」徳川美術館蔵
ただし家康が自戒で書かせたという伝承に根拠はない

この時には信玄が急死したことで、辛うじて徳川は命脈をつなぐことができた。

信玄の後を継いだ武田勝頼が再び侵攻して来た時に長篠の合戦で打破できたのは、織田の援軍のおかげというか、あくまで徳川の防衛戦だったはずのこの戦いで主導権を握ったのは鉄砲隊を大々的に導入した織田で、徳川は織田に守ってもらったようなものだ。

家康の若い頃の甲冑 久能山東照宮蔵

若き信康はこんな徳川のふがいなさに不満を感じ、むしろ武田と結ぶことで織田からの「独立」を考えたのかも知れない。

父の家康はといえば、このまま織田が天下を治めることになれば自分は三河・遠江を支配する一大名ではあり続けられるのだし、行く行くは頭もよく美男で、将来を嘱望していた息子に無事家督を譲りたい、というくらいの将来像しか持っていなかっただろうし、それだけでもとくに不満もなかっただろう。

家康自身が織田と今川という二大強国に挟まれた三河・松平家の嫡子として産まれ、父の代では松平家が尾張の織田か駿河・遠江の今川のどちらかに隷属することで生き延びるために、自分は織田の人質になったり今川の人質になったりして育っている。家督を継いでも三河ではなく駿府で生活していた自分の青年時代に較べれば、徳川家は遥かにマシな立場だったのだ。

だが若い信康がそれでは満足できなかったとしても、不思議ではないが、だから信康が武田と内通していたという説に立つなら、説明がつかないこともある。

「信康」の「信」は元服時に烏帽子親となった信長からもらった字で、同時にその娘の徳姫を正妻に迎えている。家康は本拠を東の遠江・浜松城に移していたので、尾張により近い三河の岡崎城を預かっていた信康こそが織田・徳川同盟の要になっていたし、能や茶の湯でも優れた素養を見せていた信康は(それ自体が信長に合わせた趣味なのかも知れないが)、個人的にも信長に気に入られていたはずだ。

そんな重要な後ろ盾になる信長を、果たして信康がそうそう裏切るものだろうか? 徳川の織田からの「独立」は、自分が家督を継いでからの方が良かったのではないか?

むしろ家督を狙うなら、まずは織田を動かして家康を隠居させてもいいし、信長にしてみれば徳川家内の岡崎と浜松の確執は、むしろ信康を取り込むことでこそ利用できただろう。なにも信康の死を強要することで徳川に織田への恨みを残すことなどなかったはずだ(信長がそうした他人の普通の感情にまるで興味がなかったとしても)。

一方、その徳川の家中で、信康の立場は必ずしも安泰ではなかった。

母の築山殿(瀬名)は今川の出で、立場こそ人質とはいっても親子三人は駿府でかなり恵まれた環境で幸せに暮らしていた。今川義元は駿府に京風の先進地域を作ろうと、応仁の乱後に荒廃した京の代わりとなるようなものを目指してもいて、家康・瀬名と信康の親子はその豊かな文化教養のなかで育ち、とくに信康は今川義元の姪である瀬名を通じて、今川の血統でもある。

築山殿の墓所(愛知県岡崎市の八柱神社)

今川義元が死んで解放されて三河に戻り独立できたとはいえ、逆に家康自身ですら立場がむしろ微妙になった面すらあった。というか、主君であるにも関わらずその家中でかなり「浮いた」存在だった。

井伊万千代(後の直政)を家康がかわいがったのは、旧来の三河家臣団と違って万千代とは話が合ったからではないか、と言われている。

虎松(のちの万千代)は今川に命を狙われたことがあり、その時以降は禅寺に預けられている。禅宗寺院は当時の最先端の知識が集まり、勉学や教養を身につけるには理想的な環境だった。一流の武将となると子弟の教育のために禅僧を(家の宗派が天台宗だったり浄土宗だったりしても)側近にすることも多かった。

万千代はそういう教育的には恵まれた環境で育ち、現に後の井伊直政は「赤鬼」と恐れられた武勇だけでなく、美男で教養も豊かだったのを活かして外交交渉でも活躍したし、江戸時代の井伊家は武芸や政治だけでなく芸術文化でも知られる家になった。

幕末期の大老・井伊直弼は開国を主導した政治的手腕とその後の安政の大獄で有名だが、超一級の茶人でもあった。「一期一会」というのは利休の精神だと思われがちだが、井伊直弼が作った言葉だ。

酒井忠次や本多忠勝、榊原康政ら松平家に代々仕えて来た家臣にはなかったものが井伊直政にあったというのは、逆に言えば家康自身はそうした譜代の家臣とあまり話が合わなかったことでもある。三河武士ははっきり言えば、がさつな田舎者の集団だったのだ。

晩年の家康が駿府に隠居し、墓所も久能山にと遺言していたことからも、家康にとって三河ではなく駿府への思いが強かったことが分かる。
家康がまず葬られた墓所 久能山東照宮
家康は三河よりも駿府こそが故郷だと感じていたのではないか?

そして駿府で産まれ育ったせいもあるのか、今川の家系である母・築山殿の影響もあったのか、信康もまた教養豊かだった。

信長とうまく付き合うためもあったのだろうが、茶の湯や能でも才能を見せたらしく、なおその信長はといえば堺の商人出身の千利休を重用し、その鑑定で高値をつけた茶碗を恩賞代わりに臣下に与えるなど、茶の湯も政治的手段として大いに活用した(俗に茶碗ひとつに城ひとつ以上の価値とも言われる)。

ちなみにその信長以上の茶の湯マニアになったのが豊臣秀吉で、勝手に茶会を開くのは禁じた信長の命に密かに反して、長丁場の戦地でちょくちょく茶会をやったり、信長の死後には北条攻めの長期の包囲戦などで陣地に茶室を建てたりまでしている。 
お茶自体に精神安定効果がある上に、利休好みの侘び茶の簡素で土壁などの質感を活かし、しかも暗い茶室にも同じ効果がある。秀吉が茶に凝ったのは、ストレス解消の必要があったのかも知れない。 
利休の最高傑作とされる茶室・待庵 
なにしろ主君はあの失敗を許さず傍若無人な信長だし、奇抜な発想の心理戦や陰謀・調略には長じた秀吉だが、実戦でそこまで強かったわけでもなかった。包囲戦や兵糧攻めで敵を降伏させるのが得意で、これには忍耐力も必要だし、せっかちな信長に「まだか、遅い!」と叱られそうでもある。

一方、家康の家臣団である三河武士団はといえば、そんな文化教養には縁がない、はっきり言えば無骨でがさつな田舎武士だらけだった。しかも永年隷属を強いられて来た今川への恨みも大きかった。築山殿はその今川の出で、信康もまた今川の血を引く者でもある。

今川義元が討たれると家康は桶狭間から三河に直行してしまったので、築山殿と竹千代(後の信康)は駿府に取り残されてしまった。家臣団のなかには、どうせ「今川の者」である2人はこのまま見殺しにしていい、という意見すらあった。徳川が捕虜にした今川方との人質交換を申し出て、なんとか親子は救い出されたものの、今度は家臣団の意向なのか、家康の家臣達への遠慮だったのか、三河・岡崎城では家康から遠ざけられ、城中に住むことすら許されず、城下の西行寺で暮らしていた時期もある。この扱いについては、正式には離縁されていたのではないか、という説もある。

たとえば筆頭家老だった酒井忠次は家康より16歳も歳上で、家康が駿府に人質に出された時に守役的な立場で随行している。桶狭間での今川軍の敗退をチャンスと捉えて今川からの独立を主張した最右翼でもあり、家康としてもなかなか頭が上がらなかった相手だ。

遠江を押さえた家康が浜松城に移って信康を岡崎城主にした(以降、岡崎三郎とも呼ばれた)のには、今川の血統というだけで家臣から好ましく思われていない息子が、確かに自分の後継者であることをはっきりさせる意味もあった。

築山殿がこの時から、「お方さま」つまり正室ではなく嫡子の生母という身分で岡崎城で信康と同居しているのも、彼女の出自に関わって家中での立場がぎくしゃくしていた(ないし、離縁されていた?)ことをうかがわせる。

逆に言えば酒井忠次たち三河家臣団からすれば、「今川の者」である信康は望ましくない跡取りであり、チャンスがあれば排除したい存在だった。

それでも家康に信康以外の男子がなければしぶしぶ納得するしかなかったが、そこで家康の側室に新たに男子が生まれてしまった。後の徳川秀忠である。こうなると信康の立場は決定的に悪化する。信康がいなくなっても後継者はいる。むしろこの側室の子の方が家臣団にとっては嬉しいくらいなのだ。

「戦国時代」の武士というのは、後代に神話化された我々の思っているようなイメージとはかなり違っていた。戦乱の時代に武勇はもちろん褒められもてはやされたが、明治の(新渡戸稲造の)捏造である「武士道」などというものではない。「忠義」が重視されたのは江戸時代の儒教朱子学であって、下克上が当たり前ということは、利害が一致しなくなった主君を裏切るのはもっと当たり前だったというか、その倫理的なハードルは乱世であればこそ平時より遥かに低かっただろう。

逆に言えば、徳川幕府が儒教・朱子学を公式学問に定めて忠義や孝行の倫理に基づく秩序を強調したのは、再び戦乱の世になってしまうのを恐れたからでもある。 
二代秀忠の2人の息子のうち弟の国松(のちの松平忠長)の方が美男で利発で勇気もあるともっぱらの評判でも、病弱で内気な長男の竹千代を将軍後嗣にと家康が確定したのは、長子相続を制度化することでお家騒動を防止して秩序ある政治体制を優先させるためでもあった。
江戸城の奥御殿を移設した川越喜多院客殿 家光はこの建物で産まれたとされる
果たして文化芸術を好み、引っ込み思案だがやさしい性格ではあった竹千代は、それでも徳川15代のなかでもっとも強い権力を発揮した将軍・家光となり、その統治の基礎となる武家諸法度、公事御定書などの法制度を整備し、泰平の世がやっと最終的に出来上がった。 
 今でいう「法の支配」の確立だ。これも実は徳川以前に今川がやっていて(今川仮名目録)、家康が今川から学んだことでもある。
喜多院書院 家光の乳母・春日局の居室を移築した
こうした法制度を執筆したのは南禅寺の禅僧・金地院崇伝(以心崇伝)であり、平和統治の確立を理念的に支えたのが天海だった家光にとくに慕われた天海は、平和の世になったことを確かめて106歳という長寿をまっとうした。
喜多院書院 埼玉県川越市 旧江戸城遺構
なお家光の治世が厳格だったのは諸大名の力を押さえることが主で、これも内乱の防止が大きな目的だった切支丹禁制と鎖国制度(これも以心崇伝の制度設計)ですら、実は対西洋貿易が幕府が独占することで諸大名が火薬などを輸入したり財力をつけることを防ぐ政策でもあった。

中世の封建制というのは要するに、主君が領土を分配しその支配権を保証するのと引き換えにその主君に従う関係のことだ。

こと中央の秩序(足利幕府)の権威が崩壊した室町時代後期となると、強い家には中央の権威付けがなくとも家臣が集まるし、逆に家の勢いが傾けば敵対する側に寝返ることを考えるのも、それぞれの国衆にとってはむしろ家臣領民に対する責任みたいなものにすらなる。

たとえば武田信玄のようにやたら強くて残虐な戦い方をする大名が国境を侵す勢いを見せるなら、その国境を領地にしていた国衆にとっては、田畑や家々に火をかけられ領民まで皆殺しにされるよりは、武田と内通して武田軍を通過させる密約を結ぶだけでも、まだ命や生活は守れるだろう。

主君、大名であるということは、こうした様々な利害や欲望を持った臣下の意見を調整してまとめる立場でもあった。領地を次々と広げる強い大名のために手柄を立てればそれだけ恩賞として分け与える土地も増え、家臣は満足してまとまるだろうが、家中で意見対立や感情的な確執が高まれば、肝心の戦に勝つ力すら弱まってしまうし、そうやって家中に不満が鬱屈して結束が乱れると、密使を送られて内通を画策されたり、間者を送り込まれて内部から撹乱され、分断されるリスクも増える。

またこの武田信玄が、実戦でやたら強かっただけでなく、今で言う「忍者」を駆使した協力な諜報組織と情報網を持っていたといわれ、調略で内通を工作し、時には暗殺者すら送り込むことでも恐れられていた。勝敗は合戦以上に、こうした事前工作でついていたのだ。

逆に言えば日本の「戦国時代」は生き残るための打算にばかり満ちていて、そんなに勇ましい時代ではなかった。

久能山から日光に家康の墓所を移す途中で祭事が行われた仙波東照宮
仙波東照宮 本殿(川越市・喜多院内)
徳川家康の墓所 日光東照宮の奥ノ院

徳川家康はなぜ長男・信康を殺さなければならなくなったかと言えば、こうした「戦国時代」特有の武家のあり方の煮詰まった究極の悲劇であって、誰か1人のひとつの動機では説明しきれないことなのかも知れない。

信康が「今川の者」として家臣に白眼視されていても、信長の後ろ盾があれば、家康に次男が産まれいても、家督を継ぐことまでは出来ただろう。

だが仮に信康が武田と結ぶことで織田に隷属する関係を解消したいと考えていたとしても、織田のバックアップがなければ家中の支持が集められないようでは、その織田に「守って」もらいながらその力に怯え続けて来た重臣たちが乗ってくるとも思えない。逆に信長に訴えられるのがオチだし、弟に徳川の主君をすげ替えられるだけで済めばいい方だ。だいたい父・家康と家臣の関係を見ても、この頃の家康は織田への配慮を欠かさない以上に酒井忠次らに気を遣い通しだった。

あるいは武田への密通がまったくの濡れ衣だったとしたら、「今川の者」が家督を継ぐのがおもしろくない家臣団の誰かの讒言だった可能性も否定できない。

信康はこの頃、家康に新たな男子が生まれたことを警戒した母・築山殿の意見で、男子を産むための側室を持たされている(嫡子の長男が産まれれば、長男による相続はある程度は安定する)が、その側室が武田の旧臣の娘で、だから武田と内通したと言われる根拠にもされている。

徳川信康霊廟 浜松市天竜区の清龍寺

すべてが信長の言いがかりだった可能性も、もちろん否定できない。今年の大河ドラマでも基本はこの解釈だが、徳川家内での浜松と岡崎の確執と、信康と築山殿が「今川の者」であったことへの反発、武田内通説、信康が側室を置いたことがきっかけだった説、さらには信長が直接命じたわけではないという最新の説まで網羅しながら、作りあげたドラマが凄い。

信長(市川海老蔵)はまず浜松と岡崎の軋轢と、家康(阿部サダヲ)の側室に男子・長丸が誕生したので信康(平埜生成)の立場が微妙になったことに目を付け、信康を自分の側に取り込む動きを見せる。

信長の意図が徳川を分断させることで、自分に父に対する謀反を起こさせようとすらしかねないと見抜いた信康は、信長の申し出を「心配して下さるお気持ちだけで十分にありがたい」と丁寧に断る。

『おんな城主直虎』の信康(平埜生成)と家康(阿部サダヲ)

とたんに信長は手のひらを返したように、安土城に挨拶に来た酒井忠次(みのすけ)に、信康が武田と通じているらしいと告げ、娘・徳姫からの書状を見せ、そこには信康が舅・信長に断りもなく新しく側室を置いたこと(ドラマでは、徳姫自身は男子が産まれたら自分の子の扱いになるので心配は要らないと書いていたはずだが)などの不行跡が訴えられていると詰め寄る。

忠次は信長の言いがかりに反論できないまま浜松に持ち帰り、信康を殺すしかないと示唆して家康を激怒させると、問いつめられうろたえた態度を装いながら、逆に三河家臣団の本音を突きつける。「今川の者」である築山殿と信康は自分達にとっては今でも好ましい存在ではない。家康がこの前に今川氏真(尾上松也)を諏訪山城主にしていたのを忠次たちがおもしく思っていなかったことも描かれていた。跡取りならば長丸もいるのだし、むしろ厄介払いになるではないか。

それに信康の新しい側室が武田の旧臣の娘である以上、織田の疑いは払拭しきれないし、どうせ織田の意向に逆らうことは徳川には出来ないのだから、素直に従った方が家のためではないのか。酒井がそう言い出してしまうと、家康に同情的だった本多忠勝(高嶋政宏)や、榊原康政(尾美としのり)も同意せざるを得ない。

実はよく見れば、信長は酒井に信康を殺せとは言っていない(つまり最新の説の通りだ)。ただ信康が武田と内通しているようだが徳川はどうする気か、と問うただけなのだから、嫡子の首を差し出すのはあくまで徳川の判断、まさに究極の過剰忖度ワールドであると同時に、酒井忠次はちゃっかりと「今川の者」の嫡子の排除という永年の宿願を果たしてもいる。

家臣に理解のある徳のある主君であろうとして来た(言い換えれば弱気で優柔不断でもある)家康は、その忠次の下心を見抜きはしても「そなたはいっそ織田に馳せ参じればいい」と捨て台詞しか言えない。

『おんな城主直虎』の徳川信康(平埜生成)

どっちにしろ「とにかく織田には逆らえない」というだけで、家康の最愛の息子の信康が、ちょっと信長に言いがかりをほのめかされただけで、徳川の手で殺されなければならなくなるのだ。最終的に家康を説得するのは生母・於大の方(栗原小巻)だ。於大自身、家康の父の側室だったのが、松平家は当時は信長の父と結んでいて、自分の兄が武田との密通を問われて処刑され、自分も離縁された過去がある(ドラマではそれも事実無根の言いがかりとなっている)。

その母(つまり信康の祖母)があえて、家の存続のために親子兄弟、時には自分自身さえ人身御供に差し出すのが武家の当主の宿命だと家康に説く。あえて幼名の竹千代と呼びかけ、自分だけがその宿命を逃れようという身勝手は通らないと言うのだ。

信長の動きは自分への忠誠度を試してみて、100%服従するのでなければ見限るという冷酷な計算であるようにも、結局は「鬼神・魔王」のただの気まぐれにも見える。その「魔王」の気まぐれかも知れない理解不能さが、また徳川にとっては決して逆らえないと思い込む圧力になっている。

井伊直虎(柴咲コウ)と瀬名(菜々緒)

真相がよく分からない事件の様々な要素を勘案しながら、考えられる限りもっとも残酷な展開を構成してしまうのだから、脚本の森下桂子とNHKと、歴史考証の小和田恒男、大石泰史両氏の確信犯っぷりが凄い。これこそまさに我々がこれまで「戦国時代」と美化して来た日本史のなかの一時期の実態に、もっとも近いと思えると同時に、しょせん同じ日本人の歴史であるせいか、現代の日本の政治についても、似たようなことはすぐ思いつく。

たとえば先の総選挙の公示直前に、できたての希望の党の中で小池百合子の「排除します」発言が巻き起こした疑心暗鬼の踏み絵騒動はなんだったのだろう? 民進党から合流したうちのいわゆる保守派が「魔王」的な小池に忖度しまくりつつ、自分たちが嫌いないわゆる「リベラル派」を追い出そうとしたのも、忠次と同じパターンではないか?

織田信長(市川海老蔵)

あるいは、折しも放送が偶然にも時期的に重なったトランプ来日と、安倍のゴルフに鉄板焼きにトランプ娘の財団に国民の血税57億円まで差し出した「おもてなし」で、なぜかかえって内閣支持率は上がった。徳川家で織田には逆らえないと思い込まれていたように「日本はアメリカに逆らえない」のだ。

安倍政権はそんな「現代の気まぐれ魔王」トランプに必死に媚を売り抱きつくことで、トランプがやる気ゼロでただのブラフで言っているだけなのは自明の「武力行使」を煽って、自分こそがやりたがっている北朝鮮との戦争を始めさせようとしているか、その戦争の可能性で国民を脅すことで政権の求心力を高めようともしている(で、トランプにはやる気ゼロなので、これから安倍がどう収拾させるのかは見物だ)。

徳川家康(死後神格化された神像の形式の肖像)

溺愛していた息子の信康を切腹させ、妻の築山殿を打ち首にせざるを得なくなった最悪の悲劇を経て、徳川家康は変わった。あまりに陰惨なタブーであったためにこの事件の意味は従来あまり考察されて来なかったようだが、こんなことが起こるなら、家康は変わらざるを得ない。

信長が天下を治めれば辛い戦国時代も終わりが見え、徳川家はその天下人に臣従しながら三河と遠江、もしかして駿河くらいまでは治める大名として安泰だろうとなんとなく思っていたであろう当時の家康の将来像は、明らかにこの事件で完全に覆ったはずだ。

こうして家康の雌伏が始まって3年後の天正10(1582)年6月2日深夜、織田信長は突如叛旗を翻した腹心の明智光秀に京・本能寺で討たれる。

光秀の決起は俗に「日本史上最大のミステリー」と言われ、根拠はまずない俗説の類いではあるが、家康黒幕説も根強い。

もっとも、学術的に言えば、光秀の動機はたいしてミステリーですらない

なぜこの時にという直接のきっかけはいろいろ考えられるにせよ、光秀が信長に仇をなす理由ならいくらでもあるし、勝算がなかったわけでは必ずしもないし(秀吉の中国大返しと、遺体が見つからなかったことを知って信長は生きているデマを流布するなんていう謀略は、さすがに想定外)、だからわざわざ黒幕を想定する必要もない。

いずれにせよ、光秀でなければ同じように自分の立場や天下の行く末に危機感を抱いた織田家臣団の誰かが、いずれは信長を殺していた。

ただでさえ気まぐれですぐ怒り、冷酷と恐れられた信長は、信康事件以降、一族に権力や財力を集中させるためにやたら家臣に難癖をつけて処罰するような姿勢すら見せていたし、四国討伐も長宗我部氏が基本、臣従の意思を示していたにも関わらず、滅ぼそうとしていた(その調停に当たっていたのが光秀)。

そんな信長を討った光秀に、仮に黒幕がいたとしても、それが誰であろうがたいした問題ではない。織田家臣団の誰でも、十分過ぎる動機はあったのだ。


信長の墓所は秀吉がその葬儀のために建てさせた大徳寺塔頭の総見院に置かれた。息子たちの墓と並んだその中央が、信長の墓になる。


ただし本能寺で遺体は発見されなかったため、葬儀のために香木の沈香で等身大の木造がつくられ、それを棺に納めて火葬された。大徳寺の方角から京都中に高価な沈香の匂いが漂うように、という秀吉の派手なパフォーマンスだった。 
この像の写しの織田信長坐像が今も総見院にあり、重要文化財に指定されている。


本能寺の変の直後、秀吉は明智軍が遺骸を見つけられなかったという情報を即座に得て、織田家臣の武将に片っ端から信長は本能寺で亡くなっておらず、まもなく自分に合流するという書状を書き送った。

信長の墓 大徳寺塔頭総見院
光秀が朝廷などを速やかに味方につけたにも関わらず「三日天下」に終わったのには、ひとつにはこのデマで信長を恐れた織田の家臣が、誰も味方につかなかったからだ。
総見院は明治の廃仏棄釈の際に襲撃され
この唐門と鐘楼以外のすべての建造物を失った


逆に言えば家康が信康事件を恨んで、あるいは織田=徳川同盟で自分と徳川家が置かれた立場への危機感から、信長を殺すチャンスを狙っていたとしても、そのこと自体は驚くに値しない。

肝心なのはそこではない。

既にこの前に家康は、織田=徳川連合軍が最終的に武田勝頼を滅ぼしたとき、熱心に武田の旧臣をリクルートしている。徳川は武田の旧家臣団を吸収することで、戦国最強だった信玄の軍略と、それを実践できる能力を手に入れたのだ。

その後の江戸時代には、信玄の「甲陽軍監」は幕臣を中心にさかんに研究された。開国で西洋の軍略を学んだ勝海舟は「なんだ、ぜんぶ武田が言ってることだ」と言ったそうだ。

本能寺の変の時に井伊万千代ら少数の側近だけを連れて堺にいた家康は、紀伊半島を徒歩で横断する大脱出を敢行、この時の「伊賀越え」で、いわゆる伊賀忍者も味方につけている。

家康が天下無双の戦上手と呼ばれるようになったのはこの武田の旧家臣団の高い軍事能力と、さらに伊賀者のもっている諜報能力、情報収集能力が大きい。

そして羽柴(豊臣)秀吉が信長の事実上の後継者となると、信長の息子の味方という大義名分で秀吉軍との軍事衝突も辞さず、小牧長久手の戦で数の上では圧倒していた秀吉軍をさんざん翻弄して、実際の戦争だけを見れば勝利している。

だがこの時はまだ、秀吉を倒して天下に覇を唱えることが家康の目的ではなかった。

勢力・戦力的にはまだまだ秀吉を越えるのは難しいのだから当分は雌伏するにしても、秀吉が天下人になるからと言って織田=徳川同盟が至った信康事件のような悪夢は決して繰り返させてはならない。だから秀吉に自分に一目置かせること、秀吉に臣下の礼を取るにしても徳川の協力を高く売りつけることが、この時の家康の狙いだった。

はたして秀吉は妹を家康の妻を差し出し、母・大政所まで家康の下に派遣することで和睦を申し出、家康は豊臣政権のなかでも五大老の筆頭として大きな発言力を持つことになり、秀吉の死後には加藤清正や福島正則など、その恩顧の武将を積極的に自分の側に取り込んだ。

秀吉が関東の北条を倒す(この勝利も秀吉のやや苦手な実際の戦闘ではなく、ハッタリと包囲戦の兵糧攻めの末の和睦)ことで天下を統一し、潜在的な脅威にもなっていた家康を中央から遠ざけようとその北条領だった関八州に国替えさせると、家康は当時の関東が未開の土地が多い僻地だったことを逆手に取って、「戦国時代後」の新たな国づくりを既に始めていた。

全国統一を成し遂げた秀吉が朝鮮半島侵略を始めても、家康は国替えしたばかりの関東の領国経営に忙しいことを理由に参戦を断っている。無益な戦争に参加させられても疲弊するだけなので断って力を温存するための言い訳でもあったのだろうが、一方で家康は本当に関東の再開発に熱中していて、軍事力を労働力に転換するかのような大土木工事に次々と着手していたのでそんな余裕もなかったかも知れない。

本能寺の変のあと、家康はそれまで小姓として仕えさせて来た井伊万千代を元服させ、最重要の側近に取り立て、武田の旧家臣団を任せている。直政はやがて「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」として武勇で知られることになるが、元を糾せばこれは武田の赤備えだった。

大河ドラマの井伊万千代(菅田将暉)信康に「かわいい顔をしている」
と言われ 家康には「色小姓にしてやろうか」とからかわれるが
実際に井伊直政は童顔の美男だった

一方で童顔の美男で文化教養もあった直政は、豊臣相手の交渉などの外交でも頭角を現している。

北政所(秀吉正室・おね)を始め豊臣家の女性達が直政の色男ぶりに熱狂したとも言うのだから、以前の徳川家臣の三河武士団では考えられないことだが、信康事件以降、それまで三河以来の旧臣に遠慮しがちだった家康の態度も変わり、学問や文化教養を重視し、家中で奨励するようになっていった。

井伊直政

家康自身も(青年期までの今川の影響で)深く身に付けていた教養からすれば、秀吉が朝鮮半島を侵略して明の首都の北京まで攻略しようなどと言っていたのは考えられない素っ頓狂な話だったろう(距離と面積だけでもちょっと考えれば気付くこと)。

この暴挙は今では晩年の秀吉の狂気というか、側室の淀殿に男子が生まれると養子で後継関白だった秀次に難癖をつけて殺したり、息子秀頼を溺愛するあまり気に入らない女中がいれば父が帰って来るまで縛っておけ、父が直々に斬り殺してくれよう、などと書き送ったのとも合わせて、高齢の秀吉がおかしくなっていたとみなすのが一般的だ。

しかし一方で、中世封建制の主君が領土を分配しその支配権を保証するのと引き換えにその主君に従う関係を「戦国時代」のままに維持しようとするなら、国内統一を果たした秀吉が今度は対外侵略を始めたことそれ自体は、理の当然でもあった。

統一が完了すれば、家臣の恩賞とすることでその支持をつなぎとめるために分け与えるための領地はもう増えない。秀吉が戦国のロジックのまま全国統治を続けようとし続けていた以上は、どこかで戦争を続けなければ恩賞として分け与える新たな領地もなく、政権の求心力は維持できない。

朝鮮出兵で首の代わりに持ち帰った耳や鼻を埋めた「耳塚」 京都・豊国神社の門前

この発想そのものを変えたのが徳川家康だった。そこには「戦国時代を終わらせる」という確固たる意思が必要だったはずだ。

信康事件が起こるまでの家康が、信長が天下を統一して戦国が終わればいい、というくらいのいわば他力本願の意識だったとしても、信康事件と、その後はさらに冷酷な気まぐれさが激しくなった信長や、後を継いだ秀吉のやり方では、このままでは戦国は決して終わらなかった。

「戦国時代」の論理に従って我が子を殺すしかなくなってしまった家康は、その我が子の犠牲を戒めに、自分こそがいずれ戦国を終わらせることにこそ、生涯の目標を置いたのかも知れない。またそうとでも考えないと、こんな陰惨で後味の悪い歴史はなかなか受け止められないわけでもある。

信康の妻だった徳姫の墓は大徳寺総見院の
父・織田信長の墓所の片隅にある

「戦国時代」の武家社会とは、こんなにも嫌な、悲惨なものだった。そうそう安易に「信長かっこいい」などと美化するものではない。