最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/30/2014

光秀はなぜ信長を殺したのか?


戦国時代後期に四国の支配者だった長宗我部氏に、天正十年(1582年)に織田信長の重臣・明智光秀の部下が、信長に従うよう促した書状と、長宗我部側がその部下に信長側に妥協する旨を告げた書状が発見された

このやりとりの直後に光秀が主君である信長を京都・本能寺で滅ぼした事件の動機を理解する新資料として、注目されている。


つまり信長は四国に攻め入り長宗我部氏を滅ぼそうと準備を進めていて、光秀がそれを阻止するために信長を討ったという解釈だ。

確かに日付けが近く(長宗我部氏の側が織田に従うことを意味する書状が5月21日の日付けで、信長の死は6月2日夜)、なぜこのタイミングで光秀が信長殺害を決意したのかの説明はつく。

だがそれでも、本能寺事件の最大の謎は解明されていない。

本能寺事件が現代人にとってもっとも理解し難いのは、なぜ光秀が信長を殺したのかではなく、なぜ光秀は、自分が確実に命を落とすことを覚悟で、この謀反を起こしたのか、なのだ。

まだ光秀が織田の有力家臣の誰か、たとえば柴田勝家と内々に話をつけていたというのなら、なんとか分からないでもないが(とはいえ、では勝家がどう主君を殺した光秀を許す理屈をでっち上げられるのか、想像がつかない)、僅かな手勢で本能寺の信長を討ってしまえば、強力な武力を持つ織田家臣団の誰かが即座に自分を攻め、勝つ見込みはほとんどない。

よしんば本領に帰りついて篭城したとしても、光秀を滅ぼし信長の仇を討った者が織田政権の有力後継者に躍り出られるのだから、誰もがその功名を狙う。決死の篭城戦は絶望的なものにしかなり得なかった。

それこそ四国に逃げて長宗我部氏の保護に頼るくらいしか、光秀には勝算どころか生き残る術すらなかったのだが、その当主・長宗我部元親は光秀自身の説得に応じて、織田に恭順を示したことも今回分かった。ならば長宗我部氏が光秀をかくまう可能性も低いし、光秀をかくまったことを口実に織田政権が四国に侵攻するなら、光秀がそれを阻止しようとした意味がなくなる。

まさに逃げ場、生き残れる可能性が皆無の光秀の謀反を、現代的に政治クーデタと解釈して、利害損得や政治的保身からその理由を探ることに、無理がある。

最近のNHKなら歴史番組ですら馬鹿げたバラエティ路線なので、タイムスリップしたレポーターが光秀に直撃インタビューして本能寺事件の真相を、とかいう展開の番組でも作りそうだが、もし僕が構成台本を頼まれたら、「信長さんを倒した理由はなんですか?」という質問をされた光秀が思わず激怒する、というシーンでも書いてしまう気がする。

「そなた、なにゆえにそんな分かり切ったことを訊く?(儂を愚弄しておるのか?)」

戦国時代当時の感覚と価値観で考えるなら、恐らく光秀にとって、誰かが信長を殺さねばならない理由は分かり切ったことだったはずだ。強いて言えばそれが許されるのは自分しかいない、というくらいの自負はあったのかも知れない。

現代人は信長を型破りな英雄くらいにしか考えておらず、その型破りさとは青年時代の茶筅結いの髪といった奇矯な服装や、意表を突いた奇襲作戦、イエズス会宣教師と積極的に交流し西洋の文物を貪欲に取り入れた新し物好き、大量の鉄砲隊の導入という前代未聞の戦法で甲斐の武田氏を破ったこと、絢爛豪華で西洋風の意匠も取り入れたド派手な安土城などが、そう思っている主な理由だろう。

近代以降の日本史の教育で美化された信長像と、当時の人間が見たであろう信長像は、かなり異なる。

我々は信長を、戦国時代を終結させ日本に安定統一政権を築いた先駆者という位置づけで見ているが、これは天皇を中心とする統一国家としての日本を理想像とした明治維新以降の歴史観に基づく解釈でしかなく、後付けの評価、英雄化に過ぎない。

現代の、「天下統一」の英雄としての信長の評価は、その後に徳川氏が250年に渡る長期の超安定政権を築いた結果論から遡ってみた上で出来る評価でしかない。当時の人間には織田信長はどう見えていたのかを考えれば、誰かが信長を殺さなければいけない、と明智光秀が覚悟を決める理由はかなり自然なものだ。

江戸時代にも、天下泰平の世を築いた功績を誇る徳川氏にとって、信長は始祖家康の同盟者であり、家康が信長を引き継いだことにはなるので一応の評価はしており、江戸幕府は信長を否定はしなかったものの、近代以降の信長の英雄化が決定的になった背景には、開国後の日本が近代の世界のなかで「サムライの国」というアイデンティティを(かなり性急に)作り出した(捏造した)ことも大きい。こと江戸時代の庶民にとっては織田信長はたぶんにからかいの対象であり(屈強大柄なのにナゼか前髪姿の小姓・森蘭丸との恋愛など、かなり卑猥な冗談のネタになっている)、また狂気の武将として忌避されるか、あるいはその狂気故に特別視されていた。

信長は確かに型破りな武将であり、その型破りさが甲斐の武田、三河の今川、美濃の齋藤、北條、上杉、伊達、長宗我部、毛利、薩摩の島津、細川などの有力大名を差し置いて、いわゆる天下統一に先手を打てた大きな理由であることは間違いない。

だがその型破りさとはなによりも、信長が日本人の常識ではあり得ないほど派手に人を殺した、虐殺をやりまくった、恐るべき殺戮者だったことだ。

応仁の乱に始まる戦国時代自体、統一政権がなかったことだけで現代の視点や価値観ではネガティブに見られているが、そこまで悪い時代ではない。京都は確かに荒廃し、足利将軍家は統一政権とは名ばかりの存在になってしまっていたが、全国統一政権がなかっただけでは必ずしも「乱れた時代」とは言えない。

名目上は一応足利将軍家を将軍と呼び天皇の信仰上の権威も尊重しながら、各地方をそれぞれに独立性の高い武家の政権が統治した、いわば地方分権の時代であっただけで、群雄割拠状態のそれぞれの諸侯が常に血みどろの戦乱を起こしていたわけでもない。むしろ武家の統一政権がなくなり、武家どうしの争いで武士の権力が相対的に低下した地域では、農民や商人らがそれなりに力を持ち自主統治と言える状態を作り出した場所すら多々あった。現代人が「宗教勢力」と誤解しがちな一向一揆も、実際には統治能力の低い武家の領地だった場所などで農民や在地の武士が自分たちの生活を守る自治・自衛を確立したことに他ならない。その思想的な支えが、浄土真宗の平等思想だったのだ。

戦国時代はある意味、歴史的な必然としての地方分権化だったとも言える。室町時代から始まった農業技術の革新が進み、農民はそれなりに豊かになり、その余剰の農作物の売買で商業も発達して諸国間の交易交流も栄え、文化的にも新たな創造が次々に産まれていたのだ。武家の統治能力が相対的に下落した結果、農民はたまにある戦乱で落ち武者として敗走する武士から武器を奪うなどして、相当な武力すら持つことになる。「下克上」というと悪く聴こえるが、要は身分制度が揺らぎ、農民や商人から武家になり武将として成功したのは、なにも羽柴秀吉が最初ではない。たとえば美濃の斎藤道三は薬売りの出身だ。

『七人の侍』みたいな、野武士に蹂躙されなにもできない百姓、荒廃した農地、といったイメージに我々は影響されがちだが、武家同士の戦争はたいてい農地ではない、庶民を巻き込まない場所で、農閑期に行われていた。武家はそれなりに農民や庶民に配慮しなければ、そもそも年貢などの収入もなくなってしまうのだ。だからそれぞれの地方のいわば実質独立政権としての諸侯は、戦争に勝って所領を広げるよりも、今現に統治している地域を安定させることに腐心していた。甲斐の武田が戦国最強と呼ばれるほどの軍事強国化を目指したのは、雪深く気候が厳しく、経済的に後進地帯だった甲斐・信濃の、その領民をなんとか「食わせるため」でもあった。

そんな時代にいきなり、「領民を食わせること」もお構いなしにバンバンと支配地域を広げる戦争に熱中して殺戮を繰り返した信長の登場というのは、それだけで型破りだった。

当初は楽市楽座制など、自国の経済成長にむしろ腐心していた織田政権だが、その勢力を増すほどに、戦いで破った敵方を許したり自分の家臣団に組み入れるよりも、平然と皆殺しにすることを厭わなくなる傾向が、比叡山焼き討ちや浅井攻め辺りを契機に顕著になっていく。型破りといえば型破り、というか当時の日本人には想像もつかない残虐さだ。

また叡山焼き討ちなどの信長の蛮行が型破りだったのは、本来は武家の戦争はまず武家どうしで、宗教勢力や庶民を巻き込んではいけないという武家の不文律を完全に無視したことだ。戦闘員でない者でも、それこそ女子供でも、平気で殺させたし、さらには当時の日本人にとって完全に「罰当たり」になるしかない相手を平然と攻撃し、滅ぼし、虐殺を繰り返した。

天皇家と結びつきが強く、もっとも権威ある寺社のひとつである比叡山を、信長は焼き討ちして僧侶や僧兵を皆殺しにしている。これはまだ教科書などで我々が一応は習っている信長の所業だが、信長の「天下統一」の最大の障害であり、信長が残虐の限りを持ってそれを撃ち破った「最大の敵」については、今もタブーになっている。

信長の「天下統一」における最大の「功績」とは、浄土真宗の石山本願寺を滅ぼしたことだ。

これも現代の我々は、単に旧弊な宗教組織を叩いたかのような意味に誤解して「信長は先進的な型破りの英雄」とますます思い込みがちだが、当時の実態はそんなものではまったくない。

本願寺派は日本仏教の最大宗派であり、それはなによりも庶民にもっとも広まった信仰だったからこそ、信長は目の敵にしたのだ。

その庶民とは戦国時代に武家の政権が不安定で脆弱になったなか、農業技術の進歩もあって力を増し、先述の通り武装すらし、時には自治すらやっていた農民である。武家から見れば一向一揆と呼ばれ、現代人は「反乱」でもしていたかのように誤解しているが、客観的には農民や庶民が武家を必要とせず、自衛と自治を自分達の手で、真宗の信仰を倫理規範にして実行していたのが戦国時代の「一揆」だ。

その総本山、大坂の石山本願寺(現在の大阪城)こそ、信長がもっとも手を焼いた敵だった。

この浄土真宗の総本山と支持する一般庶民の、実は当時の日本で最大級の武装勢力を、血みどろの容赦ない虐殺という手段で潰したことこそ、信長の「型破り」、まさに天に唾し民を恐怖させる狂気の「功績」だったのだ。

信長がキリスト教にも関心が深く、ルイス・フロイスなどイエズス会宣教師を優遇したことも、現代に信長が評価される理由のひとつとなっているが、これも明治維新で日本政府が積極的な西洋化を押し進めた、そのお手本とみなせたことが大きい。しかも宣教師が持って来る西洋の文物や新技術はどんどん取り入れ、西洋風の城郭として安土城まで作らせながら、信長はキリスト教の信仰自体にはなんの興味もなかったとされている。明治維新の日本政府が捏造しようとした歴史観にとって、「日本人の魂は棄てなかった」とか言えるわけで、最適に理想的だった。
だがキリスト教を優遇したこともまた、信長が既存の日本の宗教権威をまったく尊重しなかったどころか弾圧したくてうずうずしていた、寺社仏閣を平然と破壊しその信徒を平気で殺す虐殺者の本質と表裏一体でもあるのが、当時の視点・価値観で見た信長の実態だ。
後に豊臣政権が長崎でいわゆる二十六聖人を処刑し、江戸時代に入ってキリスト教が禁じられたのは、切支丹の側から見れば暴虐な悲劇なのは間違いない。しかしイエズス会が日本の既存の信仰を弾圧し破壊する信長に全面的に協力していたことと裏腹の関係にあったことも、無視はできまい。 
切支丹弾圧史や江戸幕府の宗教政策は、この方向性からも再検討する必要があるように思える。

これだけの危険な、狂っているとしか思えない虐殺者・信長が日本全国を支配下に置いたら、どうなっていただろうか?

現代の我々は信長が恐るべき虐殺者であったことを知らないから、光秀が忠義を誓ったはずの主君を殺した理由を理解できず、裏切り者となじったり、その動機についていろいろな説を空想してしまうのである。

過去の、その当時の人間の価値観を考慮せずに、歴史を理解することは出来ない。

信長のように人を殺しまくっていては、どんなに諸国を平定し、暴力の恐怖で諸侯を着々と支配下に置こうが、天下が治まるわけがない。

信長の戦争の後には膨大な死者と、人心には恨みと恐怖ばかりが残された。それも彼がとくに目の敵にしたのが、信仰心の篤い普通の庶民と、その信仰を集める寺社仏閣である。

当時、この前代未聞の型破りの虐殺者・信長の譜代の家臣であり、織田家臣団のなかでも随一のインテリ、遺された史料によれば漢籍にも通じ道徳心も強い常識人だったと思われる光秀にしてみれば、君主の徳などかけらもない暴虐な、狂った主君は誰かが止めなければならず、それが許されるのは私利私欲抜きに命を棄ててまででも、自分こそやらなければならないと思ったとしても、なんの不思議もない。

西洋的な歴史観を導入しつつ、かつ信長が暴虐な殺戮をくり返した史実を後世の贔屓目で無視してしまうから、我々現代人は本能寺事件を政治的な意図を持ったクーデタだと考えてしまい、その動機が謎になってしまうのだ。

実際には本能寺事件の当時、信長は備中を羽柴秀吉に攻めさせ中国地方侵略の真っ最中、四国攻略も秒読み段階に入っていたのである。誰かがこの狂気の虐殺者を止めなければならなかった。それが光秀だった。

こと四国は今でも真言宗のお遍路八十八カ所が有名だが、特殊な霊的な意味を持ち、信仰や宗教権威の強く、聖地の多い土地柄だ。 
比叡山や本願寺など、これまでの信長の信仰集団と庶民への容赦ない血みどろのやり方を見ていれば、四国ではより凄惨な殺戮が起こったであろうことを光秀が心から危惧したとしてもむしろ自然だ。 
その意味では今回発見された文書は、光秀がついに信長を討つ決意を固めるに至った過程を考える上で有力な史料にはなるように思える。

結局、光秀が本能寺事件を起こしたのは、ただ信長の殺戮を止めることだけが目的で、自身の野心なぞ関係ないどころか、自身の命すらその犠牲にする覚悟だった、と考えるのがもっとも自然ではないか?

網野善彦以降の日本史学研究では、過去の日本人が本気で祟りを恐れる民族であり、特定の信仰というより日本古来の価値観に基づく信仰体系を持っていたことを勘案すると、様々なことが明晰に説明できることが分かって来ている。 
そうした日本の伝統的な信仰のイメージに当てはめれば、信長の実際の戦争や政治が型破りであると同時に人命をほとんど考慮しない残虐なものであったこと、奇矯で派手で目立つ服装や髪型、甲冑などを好んだこと、ど派手で奇抜な安土城の造形など、どれをとっても人の姿をしたカミないしオニとして受け止められていたことが容易に理解できる。 
確かに破格の強さを持ち、群雄割拠が固定化していた当時の日本の現状を変えるパワーを持った信長は「カミ」であると同時に、日本人にとっての「カミ」とは人間を超えたなにか全てであり(神と悪魔の区別は、日本には元々は存在しない)、それはいつでもオニに転じ得る。信長が暴虐な殺戮をくり返すオニと化した以上、その荒ぶるカミを制し、倒すことは、現代政治的なクーデタではなく文字通り「まつりごと」、信仰政治のための犠牲、信長に殺された死者たちを慰め宥めつつ、オニとなったカミをカミの領域にお引き取り頂く儀式の意味を持つ。 
日本史上、死後政治的な権威付けで神格化されたのではなく(たとえば家康が東照神君となったような)、生きながらにして「カミ」領域に入ったかのように神話化された武人は、神話時代のヤマトタケルノミコト以外には、他に平将門、源義経くらいしか類例がない。そのなかでも将門以上に、信長はカミであり魔物だった。 
その信長をカミとして殺す、いわば「神事」としての殺害を許されるのは、私利私欲が一切ないと天地神明にかけて誓約できる、その証拠として自らの命すら棄てられる者だけだ。織田家臣団のなかでその聖人君子の行いが出来そうな人間は、明智光秀以外に見当たらない。

の本能寺事件という一事をとっても、我々現代の日本人は、実は自分達の歴史をあまり理解していないし、最早その理解の手段すら我々からどんどん遠のいている。

どこの国でも歴史を国家の自己正当化のために恣意的に歪めることは大なり小なり行われて来てはいるが、日本の場合は元々アジアの国、アジア的な価値観で歴史が作られて来たことを、明治維新以降に無理矢理西洋的な標準に合せ、そんな実態なぞあったためしのない天皇を政治的中心とする統一国家を「正義」としてしまったので、ことその歪みが大きい。

だから現代の我々は、もはやこの本能寺事件であるとかの重大事件の本来の歴史的な意味すら分からないし、たとえば忠臣蔵がなぜあそこまで日本の国民神話になったのかも理解できない。

ついこないだ「サムライ・ブルー」のサッカー日本代表が案の定、またW杯で敗退したが、武士、武家をことさら英雄視して日本を「サムライの国」という虚構の自己既定をしてしまったこと自体が、本来の日本の歴史からすればまったく歪んだ西洋コンプレックスの裏返しでしかない。 
そしてそれが、明治以降1945年に至る植民地主義の侵略国家、そして自滅寸前の敗戦という、恐ろしく倒錯した道に日本を歩ませてしまった。 
そもそも、そんな「サムライの国」という発想自体が、歪んだ虚構だったのに。

信長が残虐な殺戮をくり返した狂気の武将であったことが隠されてしまったのと同様に、近代国家日本の軍隊もまた残虐な殺戮や暴虐な支配をくり返してしまった過去も、現代の我々は忘れがちだ。

だが信長の虐殺は日本人どうしの国の内部でカタがつき忘れられたとしても(信長が石山本願寺を滅ぼした後も本願寺派は日本で最大の仏教宗派、信徒集団であり続け、秀吉が京都の広大な敷地を寄進し、そこに西本願寺が建てられ現代に至っている)、近代の、他国でやってしまった殺戮や暴虐な支配は、そう忘れられるものではないのだ。



西本願寺、御影堂。いったん信長に滅ぼされてもこの威容。
「猫の首に誰が鈴をつけるのか」という言い回しがある。

信長という猫どころか危険な虎、鬼は首に鈴でなく首を切り落とすくらいしか、その残虐な魔性を抑える術はなく、明智光秀が命を賭してその任を果たしたのだとしたら、今の日本は安倍晋三というたかが愚かで幼稚な子猫の首に鈴をつけることすら、誰もが怯えたまま、やろうとしていない

そして我々の歴史観はどんどん歪んで行く。

およそ中国や韓国の歴史観をなじれる身分ではない。日本人は日本という独自の高度に洗練された国と民族であったその意味、アイデンティティを見失わされ、虚構の歴史を信じ込まされたまま、今や「本能寺」と言ってもなんのことか分からない若い世代が大半の国になりつつある。

その自分たちの歴史すら知らない者達が、明治維新時に西洋の標準に合せて急ごしらえで捏造した国旗としての「日の丸」や国歌としての「君が代」に固執して、その意味も分からないまま強制しようとしているのである。呆れる他はない。

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