最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
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第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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2/24/2016

上野のミステリー、「徳川の聖地」の痕跡はなぜ隠されているのか?


JR鴬谷駅あたりの山手線の線路から内側(西南)には一見なんの変哲もない墓地が広がっているが、そこへ突然、こんな壮麗な歴史建造物が目に入る。

上野公園の裏手、東京国立博物館の北側の通りの向かいだ。



この朱塗り銅葺きに金箔の装飾がまばゆい門、文化財を示す看板に「厳有院」と書かれているのは徳川の第四代将軍・家綱の戒名で、これはその墓所・霊廟の勅額門(天皇の筆になる寺社等の名を記した額を掲げた正式な門)だ。

寛永寺 厳有院(徳川家綱)殿 霊廟勅額門 延宝9(1681)年

観光地上野のすぐ近くでも、墓参以外では訪れる人はほとんどいない。



厳有院殿の門から少し西には、五代将軍綱吉、戒名は常憲院殿霊廟の勅額門もある。

常憲院殿(五代綱吉)霊廟 勅額門 宝永9(1709)年

鴬谷駅から東京国立博物館の北側にある墓地は、寛永寺の境内だ。


寛永寺が徳川家の菩提寺であること、それが上野にあったことくらいは時代劇でも出て来る名ではあるし、その上野に慶應4(1868)年の戊辰戦争で彰義隊が立て篭ったことくらいは教科書にも書いてはある。



だがこの墓地のなかに徳川の将軍達の墓所があることすら(言われてみれば当然なのに)ほとんど意識されず、観光でも歴史教育の現場でも、話題にのぼることはまずない。

金箔をふんだんに用いた豪華な門

戊辰戦争で彰義隊が篭城戦を展開した「上野の山」と教科書で習うのが、現在の上野公園であることは、広小路から入って右手の階段をあがると西郷隆盛像の裏に供養墓もあったりして気づくとしても、彼らはつまり寛永寺に立て篭ったのだとまでは、なかなか思いつかない。


寛永寺第二霊園内 厳有院殿(徳川家綱)霊廟 水盤舎 延宝9(1681)年
 金で豪華に装飾されていた痕跡

近頃では、関東大震災で壊れて顔だけが上野公園内の丘に安置されている上野大仏が、「これ以上は落ちない」というシャレで、受験祈願のお守りとして人気なのだそうだ。


だがこの釈迦如来の顔が元は高さ6m前後の坐像の一部分で、最初は寛永8(1631)年に木造で作られ、明暦年間(1650年頃)に銅造になり、火災を経て天保14(1843)年に修理改鋳されたもので、さらに大仏殿もあったとなると、その受験生たちでもよく知らないかもしれないし(入試問題にも出ないだろうし)、今の寛永寺の境内からずいぶん離れているので、これが寛永寺の大仏だったという実感もないだろう。

明治8年に取り壊された東叡山寛永寺大仏殿
露座になった上野大仏 明治時代の彩色写真絵はがき
関東大震災で破損し修理できないまま、頭部を以外が戦時中に供出された

大仏の顔をあしらった観光ポスターにも言及があるが、一昔前には上野といえば「西郷さん」というイメージも強かった。

よく考えれば銅像があるだけで、上野にとくに縁があったわけではない西郷隆盛(むしろライバルだった大久保利通の方が内国勧業博覧会をここで開催させるなど、関係が深かった)を思い起こすのも、奇妙な話だ。

その上野公園は正式名称に「恩賜」がつくので天皇家と関わる印象も強いし、21世紀の今となってはノスタルジックに見える洋風ぽっい建築の博物館やら美術館もあり、東北への玄関口だった上野駅の駅舎も20世紀前半のモダニズム様式だったり、煉瓦造りや木造の明治洋風建築の校舎が残る東京芸術大学も隣接していたりで、なんとなく「明治っぽい」感がある。

上野公園内 東京音楽学校泰楽堂 明治23(1890)年

実際には、上野駅が昭和5(1930)年、東京国立博物館の現在の本館が昭和7年から12年(1923-37)にかけての建築、国立科学博物館が昭和6(1931)年の完成であったり、ほとんどのレトロ建築が昭和初期のものだが。

東京芸術大学 正門

西郷像の後ろに戊辰戦争で悲劇のヒーローとなった彰義隊の供養墓が今あるのは、江戸時代後期の「江戸名所図会」では、このあたりになる。

松濤軒斎藤長秋 他 江戸名所図会 東叡山寛永寺其の一 天保5-7(1834-36)年
東叡山寛永寺其の二
彰義隊の墓

名所図会に描かれている山王神社は、今は跡形もなく、西郷像と彰義隊の墓を囲む広場になっている。

もう少し左、つまりかつての境内の奥の方向、江戸名所図会では次頁の右端に進むと、開山の天海僧正(天文5年? - 寛永20年・西暦1536-1643)の遺髪を祀った毛髪塔がある。

慈眼大師(天海)の遺髪を祀った毛髪塔 上野の森美術館の前

なお天海の墓所は、日光山輪王寺の慈眼堂だ。


無血開城した江戸で唯一戦闘があったのが、彰義隊が立て籠った「上野の山」だったという漠然としたイメージも、上野公園は確かに広小路や上野駅から見て丘陵地の高台になるし緑も豊かなので、なにもなかったのどかな山が戦場になり、明治以降に公園として整備したみたいな印象すら(「恩賜」公園だし)持ちそうだが、上野が「山」であったのは江戸時代によく用いられた呼称が「上野東叡山」、「山」は山でも寺院の「山号」 だ。

天台宗別格総本山、比叡山延暦寺に準ずるかそれと並ぶ格式を持った「東の叡山(比叡山)」の東叡山寛永寺、それが上野の「山」の意味だった。

広重 東都名所 上野東叡山全図(拡大はこちら

この広重による全体俯瞰図では左端、今の大噴水広場にそびえ立っていたのが高さ32mの巨大にして華麗な根本中堂(本堂)で、五代綱吉の元禄11(1698)年に完成した。

恩賜上野公園 噴水広場 ここにかつて高さ32mの寛永寺根本中堂がそびえていた

つまりここに150年前まであった二層入母屋造りの根本中堂は、建造物自体としては日本の城郭建築でいちばん高さがあると言われる姫路城天守閣の31.5mより高かったことになる(姫路城の場合はその下に15mの石垣があるので合計46.5mになるが)。

江戸時代に再建された東大寺大仏殿の高さ46.8mにはかなわないとはいえ、京都の西本願寺御影堂、知恩院御影堂などと並ぶ世界でも最大級の木造建築、江戸では明暦の大火で千代田の城の天守閣がなくなった後では、東日本で最大の建築物だった。

別名「瑠璃殿」とも称されたのは、天台宗の開祖・最澄(伝教大師)が自ら彫ったとされ、近江の石津寺(滋賀県)に伝来していた薬師瑠璃光如来が本尊に迎えられていた(秘仏)からだが、建物自体も「瑠璃」と呼ぶにふさわしく、神々しく輝かんばかりだったとも言われる。

広重 上野東叡山中堂之図

根本中堂(瑠璃殿)は中央に唐門を備えた回廊で囲まれ、その前に特徴的な渡り廊下で結ばれた法華堂と常行堂、周囲には雲水塔と呼ばれた多宝塔、輪蔵が建ち、表参道にそびえる楼門の文殊楼(別名「吉祥閣」)などなど、意匠を凝らした豪華な伽藍が立ち並んでいたのだ。

現在の大噴水がほぼ根本中堂が建っていた位置になる
北斎 浮絵 上野東叡山中堂之図 奥が根本中堂 今の公園中央の十字路辺り

ちなみに上の広重による東叡山全図で文珠楼のすぐ左(西)に描き込まれている朱塗りに瓦屋根の建物が、今は首だけが残る大仏の大仏殿で、広小路から参道を進むと楼門である吉祥閣の左手すぐ後ろに見えたはずだ。

錦江斎春艸 東都八勝 上野晩鐘

この錦江斎春艸の絵では中央やや左が楼門である文珠楼(吉祥閣)、その奥左に大仏殿が描かれ、左手奥は不忍池、右手奥に根本中堂とそれを取り巻く回廊、渡り廊下で結ばれた法華堂と常行堂、宝塔などの中心伽藍が見える。

明治初期の彩色白黒写真に写った寛永寺大仏殿 明治8年(9年説も)に取り壊し
上野公園さくら通り 惣門から吉祥閣を経て根本中堂に向かう寛永寺の参道だった

手前右端に描かれているのが、江戸時代当時の堂舎で唯一現存する清水観音堂で、寛永8(1631)年の建立、元禄7(1694)年から現在の場所にある。

清水観音堂 寛永8(1631)年 寛永寺の中心伽藍のうち唯一現存

寛永寺の今の境内はかつての寛永寺の奥で東京国立博物館と鴬谷駅のあいだ、厳有院殿・常憲院殿の霊廟があった場所に霊園が広がり、最澄作と伝えられる本尊はその西南に隣接する敷地の一層入母屋造の根本中堂(本堂)に納められているが、台東区立上野中学校と東京芸術大学の奥にあたり、ちっとも目立たず、気づく人も少ない。

寛永寺 現根本中堂 (旧川越喜多院本地堂) 1638年建造1879年移築
三つ葉葵紋に龍、飛天のあしらわれた銅燈籠

しかし江戸時代の東叡山は、上野公園全体が境内にすっぽり納まるどころではなく、現在の東京国立博物館の敷地が寛永寺の本坊、さらに東京芸術大学のキャンバスもまるごとその寺域におさまり、谷中、日暮里にまでおよぶ301,870坪の広大さだった。

寺領も11,790石も与えられていた。



現在の中堂の立地は、寛永寺の塔頭・子院のなかでもさほど大きくもない大慈院があったところで、普通のお寺よりは大きめではある現在の建物は、明治12(1879)年に開山の天海僧正ゆかりの川越の喜多院から、その本地堂を貰い受けて移設改築したものだ。

(この絵図は西が上 左上が不忍池 下谷切絵図の全体はこちら

この絵図の中央の、赤で描かれた建物群が寛永寺の中心伽藍で、今の上野公園の大噴水などがある辺りだ。



その右下の大きな「御本坊」が現在の東京国立博物館、さらに右が徳川霊廟、本坊の西北西(上やや右)に塔頭の大慈院の表記がある。ここが今の寛永寺の中堂の敷地だ。

現在の上野恩賜公園だけでなく東京芸術大学もまるごと寛永寺の旧寺域に収まる

明治維新までは東叡山三十六坊と呼ばれた塔頭の子院を持ち、高台のふもとになる現在の上野駅の場所にも寺が並んでいた。その36の塔頭のうち19が今も存続しているが、敷地は縮小され、場所も近代の都市計画で移転されている。

寛永寺の子院 護国院 釈迦堂 享保年間(1716-35)の再建

東京芸術大学美術学部の裏手にある護国院(釈迦堂・谷中大黒天)は、江戸時代の堂舎が現存する寛永寺の唯一の子院だ。


獅子と象の木彫りは江戸時代の寺院や神社の建築では通例

この釈迦堂は寛永時代の創建の後、一度は火災で焼失したが、享保年間(1718-35)に再建されたものだ。

護国院 釈迦堂 内陣 釈迦三尊
本尊は釈迦三尊だが、三代家光が拝んでいた大黒天の掛け軸を納めた厨子が
前に祀られることもあり、正月と甲子の日などには開張も
釈迦堂内部 往時の彩色が残る欄間の彫刻
柱には何重にも塗られた漆が今も残るが、かつてはさらに金箔張りだった
欄間 祭壇正面 龍の透かし彫り

この再建には、当時享保の大改革による緊縮財政のまっ最中だった幕府・徳川将軍家ではなく、藤堂家などの大名が寄進しており、堂内の柱には三つ葉葵ではなくそうした大名家の家紋があしらわれている。

漆の重ね塗りに彩色をほどこした立体的な凝った装飾

なお丸に二の紋は、寛永寺開山の天海僧正の紋だ。


とても華麗なお堂だったという往時の姿は、漆の重ね塗りの上に金箔を貼り彩色を施した堂内の柱などにしのぶことができる。

剥落が激しいが緑に金をあしらった獅子の壁画
江戸時代以前まで遡る様々な仏像
上の千体仏は現在1380体が現存・修復 元は3000体あったという
本尊脇侍の普賢菩薩は近年修復された

褪色はしているが 漆を厚く盛り上げるなど凝った細工の華やかな装飾
漆塗りの柱には若干金箔の痕跡が残る

寛永寺とその子院は、明治政府に境内地・寺領をすべて没収された。

享保年間建立の釈迦堂は、昭和初期まで政府から借り受ける形になった境内地の、元からの(上野東照宮裏手、現在の上野動物園に隣接する)場所に建っていて、関東大震災にも耐えた。


だがその震災復興期の昭和3(1928)年に、護国院は上野中学校の建設のため移転を命じられ、それまで存続していた墓地も多摩霊園に移転を余儀なくされたのだそうだ。

先代住職夫人の話では、境内地は元々国に没収されたままで寺の所有になっておらず、国からの借り物の土地では断ることもできぬまま、旧境内の隅になる現在の場所に引き屋技術で堂を移動したという。

この引き屋作業に当たって本瓦だった屋根を銅葺きに替えて軽量化し、蔀戸をガラスをはめ込んだ引き戸にするなどの改修が行われている。

東叡山護国院釈迦堂 享保(1713-35)年間

戦後、GHQの主導する民主化のなかで、政府没収のままの土地に寺があるのはおかしいという指摘があり、元から較べればあまりに縮小された現有の土地のみとはいえ、やっとそれぞれの寺の所有に返還された。



寛永寺本体も明治維新で寺領も境内地も没収され、収入源がほとんどなくなったなか、資金難に苦しんだ。

関東大震災で破損した大仏の修理費用も出せないまま、戦時中には軍の命令で金属供出に応じるしかなく、残ったのが顔だけだ。



そして東京大空襲で厳有院、常憲院のふたつの霊廟が門と奥ノ院の墓所を残して焼失する。

戦後の寛永寺はその跡地を徳川家から寄付されて墓地を造成し、谷中墓地の一部と合わせた霊園の経営で、ようやく確かな経済基盤を持つことができたのだそうだ。

寛永寺第二霊園 この辺りには元は厳有院殿霊廟の伽藍が建っていた

もちろん厳有院、常憲院の両霊廟が残っていれば、国宝指定は確実でけっこうな観光地になっていてもおかしくなかったはず…というよりも昭和5年制定の旧国宝制度では、国宝(今でいう重要文化財にほぼ該当)に指定されていた。

常憲院殿霊廟勅額門 宝永9(1709)年

だがまだその徳川霊廟がまだ現存していたはずの、明治から戦前の小説などを当たっても、本坊跡地に建てられた帝室博物館(現在の東京国立博物館)が江戸川乱歩の推理怪奇小説に登場したりはするが、徳川霊廟に触れたものはほとんどない(というか、筆者は読んだことも見たこともない)。

常憲院殿霊廟はもっとも堂舎の整った徳川霊廟の完成形だったという 
現在は深い林になった常憲院殿霊廟跡 石垣は幕末に作られた

上野というと、昔ながらの江戸の香りも残る下町というイメージを漠然と持つ人も多いかも知れない。

だが実際の上野はまず明治維新での破壊を経て、その後も関東大震災と東京大空襲でも甚大な被害があり、復興の度に都市化・近代化の波を経て変貌して来た街なのだ。

かつての塔頭の大慈院の敷地に立つ現在の根本中堂

ここが江戸時代にはどんな場所だったのか、痕跡は探せば見つかりはするものの、寛永寺の子院の住職や檀家でもなければ、東京の住人の記憶にもほとんど残っていない。

浄名院(旧・浄円院、俗称へちま寺)山門は享保年間 (1716-35)のものが残る
境内の八万四千體地蔵は日露戦争の戦没者の供養のため明治39(1906)年以降の建立
江戸六地蔵のうち明治に廃寺になった深川の永代寺の銅造地蔵尊が移されている

たとえば今も寛永寺が分譲している墓地を買おうと思う人たちのどれだけが、そこにかつて徳川将軍家の豪華絢爛たる霊廟が建っていたと知っているだろうか?

江戸名所図会 東叡山寛永寺(ここをクリックして拡大してご覧下さい

かつて江戸の大きな中心のひとつだった上野の歴史が、今ではまったく忘れられているというのも、さすがに奇妙なことではある。

上野公園大噴水 ここにかつて高さ32mの根本中堂がそびえていた
広重 江戸名所 上野東叡山境内
手前左が吉祥閣 奥に法華堂と常行堂を結ぶ渡り廊下 背後に根本中堂

現在の東京国立博物館の敷地は、実はかなりだだっ広い。

だがその大きな敷地が寛永寺の本坊だったことは、日本の歴史に関心があるはずの見学者でもほとんど知らない。

この本坊を住まいとした東叡山の貫主には皇族が任命され、日光山輪王寺の住職を兼任し(輪王寺宮)、しばしば比叡山の天台座主も兼ねることもあった。

つまり東叡山寛永寺は、かつて日本仏教の最高権威のひとつだった。



今でも春と秋には公開される大きな庭園も、元は江戸時代初期に徳川家の茶道指南を務め「きれい寂び」の美学を確立した小堀遠州の手になる本坊の庭だった。

東京国立博物館 庭園 元は寛永寺本坊庭園 

ただし明治以降にどれだけ手が加えられているのかは、よく分からない。ちなみに同じく小堀遠州による茶室の転合庵は、昭和になって京都・伏見から移設されたものだ。

明治15年、本坊の跡地にジョサイア・コンドル設計の帝室博物館本館が建てられ(関東大震災で大きく破損し、現在の渡辺仁設計の本館に建て替え)、総黒漆塗りの本坊表門はしばらくは博物館の正門として使われていた。

19世紀末 都市公園として整備された上野
奥に東京帝室博物館(J・コンドル設計の初代本館)

その本坊表門、通称・黒門は、現在では元の位置から数百メートル向かって右・東側の、今の寛永寺の葬祭ホール輪王殿の前に移設されている。

寛永寺本坊表門(黒門)寛永2(1625)年

2013年には台東区による修復工事も完了した(国の重要文化財)。


だが、都内でも有数の貴重な歴史建築遺産で先頃修復もされ、総黒漆塗りの渋い輝きが印象的な名建築が、国立科学博物館の向かい、上野公園の眼と鼻の先に建っているわりには、観光コースにも入っていない。


門跡寺院(皇族が住職を務める)のため菊の紋が配されている
総黒漆塗りの重厚にして華麗な門は2013年に修復された
修理の際に交換された黒門の鬼瓦 根本中堂前に安置



そのかつての本坊表門の、黒漆塗りの門扉には、今でも慶應4(1868)年5月15日(太陽暦換算7月4日)の、上野戦争の弾痕が残っている。

上野戦争(慶応4/1868年旧暦5月15日)の弾痕

戊辰戦争で彰義隊が上野の山に立て篭ったというのは、単に彰義隊の討ち死に・自決で終わっただけでない。

上野戦争と呼ばれる苛烈な戦闘だった。

月岡芳年 東叡山文珠樓焼討之図 慶応戊辰五月十五日 明治7(1874)年

新政府軍はどさくさ紛れに東叡山寛永寺の大伽藍に火を放ち、境内のほとんどの堂舎が焼失、上野は江戸時代の華やかさは見る影もない焼け野原になった。

歌川豊国 上野東叡山花盛圖 左に文殊楼(吉祥閣)奥に根本中堂

残されたのは北から数えて、厳有院・常憲院霊廟と、この本坊の黒漆塗りの表門と寛永8(1631)年に建立され火災を経て同16(1639)年に再建された五重塔が今は東京都の所有で上野動物園内に現存する他、初代家康を祀った上野東照宮の、慶安4(1651)年の徳川家光による造営の通称「金色殿」(上掲の江戸切絵図では「御宮」)、そして五重塔と同じく寛永8年建立の清水観音堂、下谷広小路(今の上野広小路)側のふもとにあった惣門(こちらも通称・黒門、現在は南千住の円通寺に移設)くらいしかなかった。

寛永寺五重塔 寛永16(1639)年 現在は上野動物園に属し東京都の所有
初代家康を祀る上野東照宮 慶安4(1651)年造営
東叡山寛永寺 清水観音堂 寛永8(1631)年
広重 東都名所 上野東叡山ノ図 桜の季節で右上が観音堂 左に不忍池 中央に文殊楼
広重 東都名所 上野清水観音堂 左端に文珠楼(吉祥閣)
桜の季節の清水観音堂 寛永8(1831)年

大仏殿も焼け残ったものの、明治5年に上野が日本初の近代的な都市公園になると決まったあと、明治8年(9年、10年説もあり)になぜか結局は取り壊され、大仏は野ざらしになった。

大仏は関東大震災で大きく損壊して首が落ち、修理費用の目処がたたないまま保存されていたが、太平洋戦争が始まると銅造の大仏は軍に金属供出を命じられた。「これだけは」と覚悟を決めて守り抜かれたのが顔の部分で、昭和47年に大仏が元あった場所に安置され現在に至っている。


本坊(現在の東京国立博物館)の北に位置する四代家綱の厳有院、五代綱吉の常憲院の霊廟は上野戦争の戦火を逃れたものの、一部は解体され、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で、それぞれの勅額門(唐門)と水盤舎、奥ノ院(墓所)の石や青銅製の宝塔や門を残し、焼失してしまった。

厳有院殿霊廟勅額門(門内から)
厳有院殿霊廟勅額門 正面側

東京国立博物館の東側の道路に残っているいくつかの石燈籠には「大猷院殿尊前」という文字が彫られている。

武州東叡山 大猷院殿 尊前 の刻印のある石灯籠

「大猷院」とは三代将軍家光の戒名だ。

この道を南に直進すると、左手に寛永寺の開山堂がある。先ほどの絵図では「慈眼」と書かれており、現在の正式名称は東叡山輪王寺になる。


寛永寺を開いた天台宗の天海(1536?-1643)は、家康・秀忠・家光の三代に渡って徳川将軍家のブレーンを務め、没年は106歳と言われる長寿をまっとうした。


その諡号が慈眼大師で、開山堂はそれにちなんで慈眼堂と呼ばれ、併せて10世紀の天台宗中興の祖・良源(慈恵・大三元大師)も祀られているため、両大師とも呼ばれる。


この開山堂の背後、北側にあった(上掲の江戸切絵図では「御霊屋」と表記)、天海の進言を受けて上野を徳川家のいわば聖地とし、寛永寺の大伽藍の造営を開始した三代将軍家光の霊屋(寛永寺大猷院殿)があった。

開山堂 天明元(1781)年 再建の本堂は平成元(1989)年に火災で焼失
現在の本堂は平成5(1993)年の再建
良源(平安時代912〜985 慈恵大師)と天海(慈眼大師)の紋

今では開山堂の境内に、その大猷院殿(家光霊屋)の銅灯籠や水盤が残されている。

寛永寺大猷院殿(三代家光霊屋)の水盤 現在は慈顔堂(両大師・慈眼堂)境内



旧 大猷院殿の銅灯籠
開山堂の鐘楼も徳川霊廟建築と同じ装飾的な様式

なお家光が葬られたのは日光山輪王寺で、その大猷院殿は日光東照宮(初代家康の墓所で現在の社殿は家光の造営)のはす向かいに、家光の遺言に従い東照宮にかしずくような位置に建っている。

国宝にも指定されているが、日光東照宮ほどには知られていないせいか、観光客は少ない。

日光山輪王寺 大猷院殿拝殿 承応2(1653)年 正面の唐破風

家光は祖父家康よりは慎ましい霊廟を、と指示したそうだが、日光東照宮の白に対し黒を基調にしているとはいえ、東照宮と同様に彫刻をそこらじゅうに配し金箔をふんだんに使った豪華というか派手さは、ほとんど装飾過多でゴシック的

開山堂(両大師/東叡山輪王寺)の現在の境内

寛永寺の慈眼堂(開山堂)は上野戦争の戦火を免れ、関東大震災でも東京大空襲でも焼け残り、1989年に不審火で焼失するまでは現存していたが、その背後にあった家光霊屋(寛永寺大猷院殿)は、新政府軍に焼き払われた。

その跡地(東京国立博物館の向かって右手、北東の向かい側)には、元は36あった寛永寺の子院のうち明治以降に存続は許された19の子院のうち15が規模を縮小してここに移転させられ、今もつつましく軒を並べている。


ちなみに現在の開山堂(東叡山輪王寺本堂)は、1993年(平成5年)の完成だ。

戦災で焼失した大規模な歴史建築は、長らく法律の制約で木造で再建ができず、たとえば名古屋城や熊本城などの天守閣や、成田山新勝寺の金堂、東京なら芝増上寺や浅草寺、寛永寺でも弁天堂は鉄筋コンクリートだったが、この時は建築基準法と消防法の改正で、伝統的な木造で建て直すことができた。

かつての東叡山境内の中心部 この先に根本中堂を中心に大伽藍が建っていた
この絵図面では南東にあたる江戸城の方角が右
歌川豊春 江戸名所上野仁王門之図 手前に三枚橋 寛永寺の正面入り口
当初の惣門だった仁王門は貞享2年(1688年)に焼失した
豊春「仁王門之図」の手前に描かれた三枚橋は、現在のこの辺り
2016年に設置された黒門(惣門)跡を示す噴水 実際の位置はこの左側になる



徳川家(松平家)の先祖代々の宗派は、浄土宗だった。

小田原の北条氏が豊臣秀吉に滅された後、家康が天正18(1590)年にその秀吉の命で関東に国替えになり、江戸に本拠を移したときに菩提寺としたのは、当時は今の千代田区平河町辺りにあった増上寺だ。

広重 東都名所 芝増上寺雪中

その増上寺は慶長3(1598)年に江戸城の拡張に伴い芝に移転されると同時に、徳川家の寄進による豪勢な堂舎の建設が始まっている。

広重 東都名所 芝神明増上寺全図

東京大空襲では芝一帯も焼け野原になり、増上寺も伽藍のほとんどが失われた。二代秀忠が寄進した元和8(1622)年建立の、大きな三解脱門(三門)が奇跡的に焼け残ったことで、幸運を招く門という縁起かつぎも、戦後には言われるようになっている。

増上寺三解脱門 元和8(1622) 重要文化財

現在の増上寺では他に本坊表門、芝への移転以降寛政年間まで増改築が繰り返された経蔵などが、江戸時代に遡る建物だ。


増上寺本坊表門(黒門)慶安年間(1648~1652年)
増上寺 経蔵 原型は慶長年間
鐘楼堂 原型は寛永10(1633)年 焼け残った部材を用い再建
梵鐘は延宝元(1673)年の鋳造

他に鐘楼が、一部戦災で焼け残った部材を使った再建で、鐘自体は江戸時代のものだ。

増上寺 惣門(大門)三解脱門 大殿(本堂)
東京大空襲で一面焼け野原になり、大門と大殿は戦後の再建
広重 東海道名所之内 芝増上寺


元和2(1616)年に長寿をまっとうした家康は、遺言によりまず駿府の久能山に葬られ、東照大権現(東照神君)として神格化されると日光に改葬された。

増上寺安国殿 家康の念持仏だったとされる黒阿弥陀像 

二代秀忠(台徳院)とその正室・江与(崇源院)の墓と霊廟は、菩提寺である浄土宗の増上寺に作られた。

寛永ごろの増上寺台徳院殿 江戸図屏風 (国立歴史民俗博物館蔵)
芝増上寺境内 安政5年(1858年)の地図
台徳院(二代秀忠)殿 霊廟惣門(二天門)寛永9(1632)年
明治時代の彩色写真絵はがき 恐らく台徳院殿(二代秀忠)霊廟



増上寺も境内地の多くが明治新政府に没収されて現在の芝公園になり、
東京大空襲で残された堂舎のほとんどを失った。 

境内北側の文昭院(六代家宣)有章院(七代家継)の両霊廟も、有章院の惣門と通用門(御成門)と、石造や銅造の宝塔や銅門だけが焼け残った。

この時には境内南側の台徳院殿霊廟はまだ無事だったが、続く5月の空襲でこちらも惣門、勅額門、奥ノ院(墓所)への御成門以外は、木造だった宝塔も含め、すべてが焼け落ちてしまった。 
台徳院殿(二代秀忠)霊廟勅額門 寛永9(1632)年 ※現在は狭山不動尊に移設 
 
増上寺の将軍家の墓(霊廟の奥ノ院)は昭和33年に発掘調査を経て、境内安国殿裏に改葬され、霊廟の敷地はコクド開発(西武グループ)に売却された。
台徳院殿霊廟模型 1910年製作 英王室より増上寺宝物館に貸与
この形式が家光による日光東照宮の建て替えに踏襲された
台徳院殿霊廟の装飾の指示書 江戸東京博物館蔵
台徳院殿霊廟 本殿内部
今その将軍たちの墓の跡地には、東京プリンスホテルとザ・プリンス・パークタワーが建つ 
三解脱門の左右つまり増上寺の正面の南北に、台徳院の惣門(二天門)が南側のパークタワーの敷地内に、有章院殿(七代家継) の惣門と御成門が北側の東京プリンスホテル駐車場に、それぞれ現存している(有章院殿二天門は修復工事中)。 
台徳院殿霊廟 奥ノ院への御成門
台徳院殿霊廟 御成門の天井鏡板に描かれた飛天
  
台徳院殿の勅額門、奥ノ院(墓所)への御成門と、正室の崇源院(江与、浅井長政の三女で織田信長の姪、豊臣秀頼の母淀殿の妹)殿霊廟の丁字門は、プリンスホテル建設に伴い、埼玉県所沢市の西武ドームそばの、堤義明・西武グループ会長が建立した狭山不動尊に移設されている。
台徳院殿惣門(二天門)をくぐり崇源院殿(秀忠正室・江与)
の霊廟に向かう丁字門 寛永9(1632)年


ちなみに以上の現存する門は、すべて国の重要文化財に指定されている。 
旧台徳院殿霊廟 銅灯籠 諸大名の奉納 所沢市の狭山不動尊境内
不思議なことに、今ザ・プリンス・パークタワーが建っているのは、台徳院殿の奥ノ院(秀忠の墓)があった場所の精確に真上で、中心も一致している。
焼失前の台徳院殿霊廟奥ノ院 この中に木造の宝塔があった
奥ノ院の木製の宝塔 秀忠はこの下に埋葬されていた
現在のザ・プリンス・パークタワーはちょうどこの位置に建つ
また増上寺境内の反対側、北側になる東京プリンスの建物も、文昭院殿と有章院殿の奥ノ院、つまり将軍達の墓があったところにほぼ重なる。
東京プリンス・ホテル建設前の文昭院・有章院霊廟奥ノ院跡
なお崇源院(秀忠正室・浅井長政の三女 江与)の霊殿は、正保4(1641)年に霊牌所に建て替えられた際に鎌倉に移設され、鎌倉五山筆頭・建長寺の仏殿(本堂)になっている。 
建長寺 仏殿/旧・増上寺 崇源院殿 霊殿 寛永9(1632)年 
禅宗寺院にはあまり似つかわしくない、豪華な折衷様の造りは、元が将軍家の霊廟建築だったからだ。
建長寺方丈唐門 旧・増上寺 崇源院殿唐門
霊殿の正面にあった唐門も併せて建長寺に移され、方丈(龍王殿)の正門となっている。

徳川家の三つ葉葵が、建長寺の開基である鎌倉幕府執権・北条家の三つ鱗に差し替えられている・




広重 江戸名所之内 上野東叡山

そして三代家光のとき、天海の進言により江戸において京都御所に対する比叡山延暦寺の位置関係を踏襲し、千代田の城から見て鬼門方向に当たる上野に、鬼門封じとして寛永2(1625)年に寛永寺が建立され、比叡山と並ぶ天台宗の別格総本山にして、増上寺と並ぶ徳川の菩提寺となった。

栄松斎長喜 江戸名所八景 晩鐘(東叡山文珠楼)

寛永寺の時の鐘 現在の鐘は天明7(1787)年の鋳造

寛永年間(1624年〜45年)に建てられたので寛永寺というのも、最澄が開いた比叡山の修行
道場が正式な勅許の寺となったのが延暦年間(782年〜806年)だったので延暦寺と名付けられたことに倣っている。

厳有院殿(四代家綱)霊廟勅額門

翌々年の寛永4(1627)年には天海と津藩主・藤堂高虎により、藤堂家が寛永寺に寄進した旧屋敷地に、東照神君として神格化された家康を祀る社が創建された。

上野東照宮 慶安4(1651)年 造営 本殿と拝殿をつなぐ幣殿

日光東照宮と共に正保3(1646)年に正式に宮号を授けられて上野東照宮になり、5年後の慶安4(1651)年には家光が建て替えた豪華な社殿が完成、「黄金殿」とも呼ばれる。

上野東照宮 唐門 拝殿
透塀と入母屋造の拝殿
唐門 唐破風の下の鳳凰と孔雀
唐門拝殿の千鳥破風
唐門脇の透塀 左甚五郎作の昇り龍 
左甚五郎の龍は夜な夜な唐門から抜け出し不忍池で水を飲む、と噂された

天海は、江戸城の鬼門封じの位置になる東叡山を、平安京の大内裏とその鬼門封じに当たる比叡山との関連性を模して構想している。

安政5(1858)年当時の寛永寺
昭和10(1935)年当時の航空写真

そこで上野台地の西側に広がっていた湿地帯(古代には海だった)を整備して、琵琶湖に見立てた不忍池が造成された。

西村重長 上野池のはた桜の花見景 18世紀

不忍池は琵琶湖の見立てということで、さらに竹生島に見立てた中之島が作られ、その竹生島から勧請された弁財天が祀られた。

渓斎英泉 蘭字枠江戸名所 江戸不忍弁天ヨリ東叡山ヲ見ル図
本尊は竹生島・宝厳寺から勧請された八臂大辯財天坐像

江戸時代の入母屋造の堂舎は戦災で焼失したが、戦後再建された六角堂が今でも多くの参拝者や観光客を集めている。

不忍池は戦時中は水田にされた 蓮は戦後植え直された
栄松斎長喜 江戸名所八景 落雁(不忍池)
江戸時代には夏の蓮だけでなく秋の渡り鳥の名所だった

また寛永8(1631)年には、京都の清水寺(こちらも応仁の乱以降荒廃し、家光の寄進で同時期に再興)を模して懸造りの構造を踏襲した清水観音堂が、参道を挟んで大仏の向かいになる摺鉢山の斜面を利用して建てられた。

菱川師宣 浮世人物図巻 (17世紀) に描かれた上野清水堂

清水観音堂は元禄7(1694)年に根本中堂の大造営に伴って山門である文珠楼の手前の、不忍池弁天堂に向かい合う現在の場所に移築された。

東叡山寛永寺 清水観音堂 寛永8(1631)年 京都の清水寺を模した懸造り

ここと五重塔が、江戸時代の寛永寺の唯一の現存する堂舎だ。


本尊の千手観音菩薩は恵心僧都(源信、平安時代942-1017)の作で、その京都の清水寺から迎えられた(年一回、2月の1日間、初午の日のみ開張の秘仏)。


厨子内の本尊は年に一回開張の秘仏 普段見られるのはお前立ちの模像
厨子内の本尊(恵心僧都作の千手観音 平安時代)は年一回 2月に開張
漆塗りの格天井 扁額は日露戦争の英雄・東郷平八郎が揮毫 大正時代
京都の清水寺を模した懸造りの舞台

広重 名所江戸百景 上野清水堂不忍池 安政3(1856)年
清水観音堂 寛永8(1631)年 元禄7(1694)年に摺鉢山から現在地に移設
歌川国芳 東都東叡山の圖 左端に月の松
広重 名所江戸百景 上野内山月の松
現在の月の松は平成に入ってからの再現
清水観音堂の正面の先には不忍池の弁天堂

家康の墓所である日光の東照宮は、元々は家康が簡素な廟でいいと遺言していた。

そうは言っても秀忠だってそこそこに立派なものは造営したはずだが、家光には気に入らなかったのか、取り壊して建て直したのが、現在の装飾過多なまでに豪勢な、彫刻と金箔だらけの社殿だ。

日光東照宮 陽明門 寛永13(1636)年 徳川家光の造営

日光東照宮の斜め前の山の斜面にある家光の墓所、輪王寺大猷院殿霊廟は、東照宮とほぼ同じ建物構成になっているが、家光の遺言により南面するのではなく東照宮にかしずく方向で建てられ、また祖父家康の東照宮よりも地味に、ということで白が基調の東照宮に対し黒が多く用いられている。

大猷院殿二天門 承応2(1653)年

ちなみに東照宮と輪王寺を含む日光山全体が、世界文化遺産に指定されている。

日光山輪王寺 大猷院殿(徳川家光)霊廟 幣殿と本殿
輪王寺 大猷院霊廟内部 拝殿より幣殿 本殿

幕府がこうした豪勢な寺社の造営に心血を注いだのは、いわば「見せる」政治でもあったからだ。

徳川が実現した泰平の世を分かりやすく伝えると同時に、徳川の前の支配者だった豊臣秀吉の好んだ、安土桃山の華やかな様式以上のものを、庶民の目に分かりやすく表象する必要もあったのだろう。

伝・左甚五郎作 西本願寺(京都)唐門 安土桃山時代
伏見城の唐門を移築したと言われている

秀吉の派手好きは有名だが、そこで江戸時代初期の公的建築は、それ以上に「ド派手」な、華やかなものが多い。

寛永期の松平伊代守江戸上屋敷復元模型 台所門 江戸東京博物館
江戸城表御殿復元模型 松の大廊下

なかでもこと寺社仏閣は、基本的に身分の分け隔てなく誰もが参拝できる場所だ。城郭や武家屋敷以上に、「見せる政治」の効果がとくに大きい。

上野東照宮 拝殿と幣殿 慶安4(1651)年

徳川家は京都でも、菩提寺となる知恩院を始め数々の寺社の復興に尽力した。



ちなみに徳川政権以前にも、豊臣秀吉も応仁の乱以降荒廃していた京都の街の復興に尽力していた。 現在の京都の街割りも、秀吉の都市計画に基づいたものだ。
息子の秀頼もその方針を継承し、相国寺法堂、東寺(教王護国寺)金堂、北野天満宮などを再建している。
相国寺 法堂 慶長10(1605)年 豊臣秀頼造営
そうした寺社造営の一貫で方広寺の鐘事件が起こり、大坂の陣と豊臣家の滅亡に至ったわけでもあるが。
方広寺 鐘楼 慶長19(1614)年 現在は大修理中
 なおこの時に再建された方広寺の大仏は、その後も地震や火災で壊れても再建され、江戸時代にも京都の観光名所だった。 
現在の豊国神社は、方広寺の境内地が明治の神仏分離令で政府に没収された場所に建立されたものだ。
豊国神社 唐門 伏見城遺構 旧南禅寺金地院勅使門 
豊臣秀吉は死後いったんは神格化されたが、江戸時代にはその神格は剥奪されていたのが、明治天皇の意向ということで再び神扱いになったものだ。 
とはいえ徳川幕府が豊臣の記憶をないがしろにしたわけでも必ずしもない。 
方広寺は存続させ、諸大名にも修理再興を支援させていたし、一度はうっかり京都所司代が朝鮮通信使の一行を案内してしまい、 自国を侵略した秀吉の寺だということで大騒ぎになっている。 
高台寺 慶長11(1606)年開山 観月台 開山堂 御霊屋
また家康は秀吉の正室だった高台院(北政所、おね)が秀吉の菩提を弔うため高台寺を建立した際も、資金を負担している。
高台寺開山堂 金箔の折り上げ格天井は禅宗では異例



元々の宗派である浄土宗の総本山・知恩院は、家康が征夷大将軍に就任するとともに永代菩提所に定め、秀忠・家光にわたる三代の寄進・造営による壮大な伽藍を今も誇っている。

知恩院三門 元和7(1621)年 二代秀忠の建立
三門楼上 天井の龍は狩野探幽の筆

知恩院 御影堂 家康の寄進した堂舎が焼失後 家光が再建
平成30(2019)年まで平成の大修理中
知恩院 御影堂 寛永16(1639)年 三代家光の造営
知恩院 大方丈
知恩院 大方丈と庭園
知恩院 大方丈(左)小方丈(右)
大方丈前庭園

やはり応仁の乱後は荒廃していた南禅寺も、以心崇伝が家康のブレーンを務めて武家諸法度、公家諸法度などを起草したのに合わせて、将軍家だけでなく諸大名や朝廷の援助を受けて伽藍の復興を果たした。

南禅寺 三門 寛永5(1628)年 家康の腹臣だった藤堂高虎の建立
南禅寺大方丈 慶長16(1611)年に宮中より下賜
南禅寺 方丈庭園

家光は日光東照宮や、江戸で寛永寺や、父秀忠が一度は紫衣事件に際して追放した沢庵宗彭(1573-1646)のための東海寺を造営し、浅草寺にも大伽藍を寄進しただけでなく、上方では比叡山延暦寺の根本中堂も再興させ、京都でも応仁の乱以降荒廃していた清水寺、門跡寺院(親王・内親王が住職を務める寺)筆頭の仁和寺、東寺の五重塔、家康の造営後焼失した知恩院の御影堂などなどを再建している。

清水寺 右から本堂 回廊 朝倉堂 轟門 田村堂 経堂 三重塔
寛永8〜10(1631-33)年 いずれも徳川家光の再建
清水寺本堂内部 外陣
清水寺 本堂舞台 寛永10(1633)年
仁和寺 二天門 寛永17-21(1641-45)年
仁和寺五重塔 寛永20(1644)年
東寺(教王護国寺)五重塔 寛永21(1645)年

ちなみに東寺の金堂は豊臣秀頼の造営・寄進による再建だ。

東寺(教王護国寺)金堂 慶長4(1599)年 豊臣秀頼の造営

また家光の側室で五代綱吉の生母の桂昌院も、多くの寺社への寄進で知られる。

嵯峨野釈迦堂(清涼寺)本堂 元禄8-14年 五代綱吉生母桂昌因の造営

徳川幕府や大名たちのこうした寺社への貢献は、学校で習う日本史や大河ドラマ、歴史小説や最近の戦国時代ゲームなどでは無視されがちだ。

清水寺 本堂 寛永10(1633)年
清水寺 奥ノ院 寛永9(1632)年
清水寺 田村堂 経堂 三重塔 寛永9〜10(1632-33)年 家光の再建 
寛永寺清水観音堂 寛永8(1631)年

今もある寺の檀家制度が、幕府が命じた寺に住民登録をする制度から始まっていることくらいはさすがに教科書には出て来るが、江戸幕府がこうして仏教を篤く保護して寺社の造営に熱心だったのは、吉支丹(切支丹)を禁じた宗教政策があったからとか、あるいはただ単に徳川家が信仰熱心だったとか、そう言うことだけではない。


とはいえもちろん、これまた「戦国武将好き」的な通俗史観では見落とされがちだが、かつての日本人が戦国大名も含めて敬虔な仏教徒だったのはあまりに当然のことだ。


家康も「厭理穢土 欣求浄土」という浄土宗の文言を旗印にしていた。

現在の根本中堂に引き継がれている東山天皇による「瑠璃殿」の勅額
上野戦争で明治新政府に焼き払われた根本中堂の鬼瓦


延暦寺を焼き討ちし、本願寺派の庶民一揆勢力を大量虐殺、はては弘法大師空海の入定した真言宗の聖地・高野山まで攻め滅ぼそうとすらしていた織田信長という希有というか異常な例外だけを見て、戦国時代の日本やその武将たちを分かった気になってはいけない。

むしろ織田政権が信長の暗殺で終わり、息子や弟達も継承できなかったのは、信長があまりに罰当たりで不徳というか、人を殺し過ぎて人心を失った結果ではないかとすら思える。

比叡山延暦寺 根本中堂 寛永19(1642)年 信長に焼き討ちされ三代家光の再建

その短命に終わった織田政権にとって替わった豊臣家を経て、泰平の世を達成した徳川にとって、戦国時代に荒廃した寺社の復興事業は、当然期待された義務ですらあった。

延暦寺 根本中堂内陣 

なにしろ当時の日本人は武家も公家も、天皇も、そしてもちろん庶民も、たいへんに信心深かったというか、「罰が当たる」ことを恐れる人々だった。

上野東照宮 唐門 慶安4(1651)年 左右に左甚五郎の昇り龍下り龍


武家の統治者が率先して寺院に寄進するのは当たり前の統治者の責任の一貫であり、将軍だけでなく大名家にとっても、民衆の信頼を得て統治の安定を図るために、自らの徳を示すこと、敬虔な信仰心を表明することが、とても重要だったのだ。



代表的な例では他に、仙台藩主になった伊達政宗が心血を注いだ松島の瑞巌寺の再建(平安時代に天台宗の延福寺が開山、鎌倉時代に臨済宗の円福寺として再興したが、その後荒廃していた)がある。 
瑞巌寺 本堂 慶長14(1609)年


そもそも日本人は古来より、死者の “祟り” を深く恐れる民族だった。

怪談話に留まらず社や寺の縁起などをみても、近代以前の日本人にとって「死者が祟る」、その恨みを恐れることは「迷信」ではなく、当然の価値観だった。

たとえば天満宮は左遷先で憤死した菅原道真が “祟って” 御所に雷となって落ちて来たので、神として祀ったのが起源だ。

北野天満宮 豊臣秀頼の寄進造営

江戸時代に船乗りの守り神として全国規模の人気を集めた金毘羅宮の祭神は崇徳天皇だ。平安末の院政期に天皇でありながら退位させられ失脚し、讃岐に配流されて狂い死にしたとされ、その亡霊伝説も有名だ。

戦国時代の武将のなかでも織田信長がなによりも型破りだったのは、自分が殺した者たちの “祟り” をまるで気にする風もなく、武将もその臣下も僧侶も、本願寺派の一向一揆に参加した庶民まで、やたらと殺しまくったことだ。

もちろん戦国時代に人を殺しまくり、「祟り」の元を作りまくったのは信長だけではないし、それだけの多くの死者を出した戦国時代が終われば、その菩提を弔う意味も込めて寺を建てることは、人々が安心して生活できるようにするには不可欠な、文字通りの「まつりごと」でもあった。

南禅寺 三門 藤堂高虎が大坂の陣の死者を弔うために建立したと言われる

二代秀忠、三代家光の治世で幕府の政権基盤が安定すると、戦国の気風が残る武断政治から文治政治へと幕府の政策自体が大きく転換した。

寛永寺五重塔 寛永16(1639)年

文化政策としての寺社の造営は幕府にとってより重要なものになったし、戦国時代に荒廃した寺社の復興や、新たな豪華な寺社の建立という、もっとも見て分かりやすい泰平の時代の到来を象徴する「見せる政治」は、単に豪華な建築物で威信を示すためだけではなくなっていく。


寛永寺に葬られている五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」は、明治以降の日本人が考える(新渡戸稲造的な)「武士道」からすると、およそ異様に思えるかも知れないが、実のところ、徳川の施政方針の基本からそう逸脱したものではない。

上野東照宮 透塀の透かし彫りは草木や動物の彫刻 徳川家光の造営
上段は陸の動植物 下段は海や川と魚や貝水鳥
さまざまな命を寿ぐような 仏教的な世界観の透塀

それに「生類憐れみの令」が現代に思われているほどに不評だったこともなかったらしく、戦国の気風にこだわる武家の一部からの反発を除けば、むしろ支持された政策だったようだ。

だいたいこれは、実際にはまず捨て子や病人、身寄りのない老人の保護救済令だった。

現在の寛永寺根本中堂 旧・川越喜多院本地堂

確かに幕府の財政は、綱吉の代になると逼迫し、その財政危機から通貨の金含有量を落とした改鋳(今で言えば異次元金融緩和に該当するような通貨供給量増大の政策)で支出を賄おうとして、全体的には大変な好景気だった元禄時代にバブル的なインフレを招き、経済を混乱させたこともあった。

しかしその幕府財政が傾いたのも、明治以降の俗説に言われるように綱吉のぜいたくや放漫財政のせいだったとは言い難い。

実際には根本中堂の造営を中心とする東叡山寛永寺の伽藍整備を始めとする寺社の造営など、文化政策での支出の増大だったものが、明治以降はあたかも綱吉の身勝手のように歪めて伝えられて来ているのだ。

奈良市 新薬師寺本堂 天平時代8世紀の建築だが
綱吉生母・桂昌院の寄進で元禄期に大規模な修理が行われた

綱吉が生母である桂昌院の身勝手な放埒を許して幕府財政を傾けたかのように思われているのも、実際には母の名で奈良の春日大社や東大寺、新薬師寺、京都の清涼寺などの名刹の再建や再興の力を尽くしたことだった。

春日大社 桂昌殿

たとえば春日大社には桂昌殿と呼ばれる桂昌院寄進の建物が回廊のすぐ西にある。

新薬師寺本堂の、本尊前の柱には、桂昌院の寄進で修理が行われた際の、葵紋をあしらった彩色が残っている。

その新薬師寺には徳川将軍家の位牌も納められている。

新薬師寺 今は鐘楼内に安置されている徳川歴代将軍の位牌

今でも都内では音羽の護国寺が綱吉の寄進した桂昌院発願の寺として、また根津権現(根津神社)が甲府大納言綱豊(後の六代将軍家宣)を将軍世嗣と決めた祝賀のために造営した神社として現存している。


護国寺本堂 元禄10(1679)年

綱吉の代に幕府財政危機に陥った最大の理由は、治世の末期に元禄の関東大地震(元禄16年・1703年)、4年後に宝永の東南海地震、さらに立て続けて49日後には富士山の宝永大噴火(宝永4年・1707年)と、大規模災害が相次いだことだった。

根津権現(根津神社)拝殿 宝永3(1706)年

以前にも四代家綱が明暦の大火のとき、被災民の救済のための備蓄米の無償配給や、復興のための大規模土木工事で膨大な出費をしているが、この大震災と大噴火では河川の修繕改築が必要なときに、火山灰による日照不足で農業生産が大きく下落したことは、幕府財政にとっても大打撃になった。

常憲院殿(五代綱吉)霊廟 勅額門 宝永6(1709)年

「生類憐れみの令」を理由に綱吉を暗愚の君のようにみなすのは、むしろ後世、とくに近代以降の偏見だろう。

現代の中野区あたりに犬の保護施設を作ったのは、江戸市中に溢れていた野犬・野良犬対策で(現代なら殺処分だが)、後世言われるようにことさら犬をありがたがれと命じたり、人間より大事にさせようとしたわけではない。



捨て子や病人、老人の弱者保護政策を、理念的にはあらゆる生きものに広げた「生類憐れみの令」は極端だったとは言っても(だから甥の甲府大納言綱豊が六代将軍の家宣となると新井白石の提言で廃止された)、仏教の殺生戒ではすべての生命を尊ばなけらないのも確かだ。


綱吉が「生類憐みの令」で狙ったのは生命を尊ぶ道徳規範の奨励で、戦国時代まで要は暴力の行使こそが仕事だった武士を、泰平の新時代に合せた価値観で戒めるための意味合いだったと考えた方が合理的な説明がつく。

また実際に「生類憐みの令」に反発があったのも、泰平の治世が確立されて武勇よりも学門や官僚的な実務能力が重んじられるようになった幕府の方針への、旧来の(戦国時代的な)価値観に囚われた武家からの不満が大きかったようで、実際の記録によれば、処罰されたのも、これ見よがしに反発した武士だけだったらしい。



学門と仏教を重んじた綱吉がいささか抹香臭い公方様だったとは言えるかも知れないし、明治以降の新渡戸稲造的な「武士道」「侍の国」イメージには反するとしても、そもそも家康が武勲はないが人望が厚く平時の実務能力に長けた秀忠に将軍の地位を譲って以来、徳川のもっとも基本的な方針は、一貫して人命の尊重と殺し合い・内乱の防止であり、すでに家康没後の秀忠と、その息子の家光は武家の専横や暴力の行使を戒め抑えることに心血を注いでいる。

家光の子である家綱と綱吉は、その方針をさらに進めて、戦国時代風の武家の力(暴力)の支配から、文治政治の平和統治への転換を計ったのだ。



ところで士農工商という身分制度もずいぶん誤解されがちだが、たとえば武家が名誉を毀損されたら「切り捨てご免」でお構いなしというのは、後世の神話だ。

名誉を傷つけられたら、と言っても即座に幕府に届け出て、どうしても許し難い侮辱があった事実を立証できなければ切腹か、打ち首獄門さえ覚悟しなければならなかったのが実際の法制度だったし、そうして届け出た後も、いかなる理由があっても人を殺めた罪そのものは深く反省する印として、蟄居が申しつけられた。

本当に「切り捨てご免」をやった武士が徳川幕府250年の歴史の間にどれだけいたのかも怪しいというか、実際の意味合いは逆で、戦国時代の気分が抜け切らない武家がみだりに庶民を斬ることを禁じる厳しい条件を課した、と考えた方が合理的だ。



諸潘が一揆を恐れたのも、なによりも領民がそこまで不満を持つような政治をやったというだけで幕府の懲罰の対象になり得るからだった。

まして一揆が起こり、大名家がみだりに領民や民衆、庶民の命を奪えば取り潰しを覚悟しなければならなかったし、島原の乱以降は一揆軍に対し銃を水平方向に発射することも禁忌とされた。


徳川将軍家の統治の基本の哲学では、武家である大名が各潘の統治者と言っても「当座の者」に過ぎず、民百姓をこそ「末代までの者」、つまりその土地の真の住人とみなしていた。

農村の生活を守ることは幕府が諸大名に課した最大の責任で、生活が成り立たなくなった農民が土地を去り村が途絶えることは「亡所」と言われ、領内で一村でもそういう状態になれば、それだけで責任を問われ取り潰される恐れがあった。



その一方で徳川家は政権の中心である江戸の発展にも傾注し、家康が始めた大規模治水工事と用水路、運河の整備、それを引き継いだ三代家光の代の江戸城外堀の建設など、大規模な「天下普請」を繰り返したのは、労働力が地方から流入することで人口増加を狙った政策でもあったとも考えられている。

側面から見た常憲院殿勅額門 墓所である奥ノ院は深い森になっている

こうした徳川の絶対平和主義の統治の下、日本では人口が増加、農業生産も経済も順調に成長を続け、とりわけ都市は急速に発展し、江戸は綱吉の時代には世界最大の人口を誇る大都市、確認できる限りでは世界初の100万都市になっていた。

しかもその江戸の行政と治安の責任を担う南北の江戸町奉行所には、同心が200名しかいなかったという。町人の自治が尊重され、治安の維持には庶民が積極的に参加していたのだ。



この絶対平和主義で大きな経済成長を遂げた綱吉の元禄時代に、たとえば江戸で創業した越後屋呉服店・三井家は、またたくまに大名家に匹敵する財力をつけて文化の力も蓄え、将軍家や大名家と貴重な美術工芸品を贈り合うような関係になっている。 
また諸大名も将軍家に倣い、それぞれの所領での文化政策にも力を入れた。また各地で手工業の名産品の工芸品を開発したことは、江戸や大坂、京都などの大都市での消費を見込んだ、年貢米以外の貴重な現金収入にもなった。



綱吉は、赤穂浪士事件の発端になった江戸城一ノ丸御殿・松の大廊下の刃傷沙汰の際、一方的に浅野内匠頭にのみ切腹を命じたことでも、確かにあまり評判が良くなかったように思えるかも知れない。

北斎 仮名手本忠臣蔵 初段
同 三段目

だが武家の暴力と殺生に厳しく対処して人命尊重を第一とする幕府の基本方針を綱吉が確立した中で、浅野長矩には吉良上野介に斬りつけたことに正当化できそうな動機がまったく分からない(浄瑠璃と歌舞伎では高師直が塩谷判官の妻に横恋慕してセクハラ、一般に流布している俗説では吉良が賄賂要求となっているが、どちらもまったく根拠はなく、動機自体が不明)し本人もなにも言わなかったのでは、綱吉の判断はそうおかしなことではない。

渓斎英泉 江戸八景 上野の晩鐘 右から清水観音堂 文珠楼(吉祥閣) 大仏殿

しかも刃傷事件が起きたのは、朝廷から派遣された勅使を迎える儀式の時だった。幕府は家光の代に禁中公家諸法度を出し、確かに朝廷も管理下に置いてはいたとはいえ、決して天皇を軽んじていたわけではない。

桜の季節の清水観音堂

そもそも征夷大将軍位は天皇から授けられるものだし、政治的実権はなくとも天皇は平和な統治と人々の安定した生活を担保する、重要な象徴的権威であり続けて来たし、その権威の尊重は、徳川が進める絶対平和主義の政策のなかで極めて重要だった。

だいたい、繰り返しになるが東叡山寛永寺も門跡寺院、つまり皇族が住職を務める寺だ。

広重 江戸名所三ツ之眺 上野花盛

天海と家光によって徳川の聖地になった上野は、「将軍家の菩提寺」でしかも住職は皇族なのだから、身分の高い人専用だったのではないか、と現代人は誤解するかも知れないが、瑠璃殿(根本中堂)を中心とする大伽藍など、いずれも誰でも参拝できた。

寛永寺五重塔 寛永16(1639)年

むしろ誰もが来る場所だからこそ、分かりやすく魅力的な伽藍が必要だったのだ。たとえば家光の場合、上野東照宮の華やかさや日光東照宮のほとんど装飾過多の贅沢さとは対照的に、自らの私的な使用や接待などのために作らせた、城内にあって一般の目に触れる機会の少ない建物となると、対照的に簡素ななかにデリケートなデザインの洗練が際立ち、華美は排したものだったりする。

旧二条城内「三笠閣」元和9(1623)年 横浜・三渓園
旧 紀州徳川家別邸「巌出御殿」慶安2(1649)年 横浜・三渓園
修学院離宮 寿月観 後水尾上皇のため家綱が造営

江戸市中の寛永寺だけでなく、日光東照宮や輪王寺大猷院殿も日光が江戸から物見遊山旅行に出かけるには手軽な距離であるのも前提で、江戸市民など一般庶民に見せるためにこそ作られたものだ。

墓所だけに、昇殿と奥ノ院の墓参には身分制限があったものの、参拝なら誰でもできたし、現に日光街道の整備もあって、江戸から手近で人気の観光地になっている。



ちなみに日光東照宮の参拝には裃(かみしも)を着るのが作法とされ、貸衣装屋も繁盛したという。格式ばった権威主義というより、おしゃれというか、今風に言えば一種のコスプレを楽しむような感覚だったのかも知れない。



上野東叡山に豪華な美意識の粋を集めたのも徳川幕府の政策であり、天海が京都を意識して琵琶湖に見立てた不忍池や清水寺を模した清水観音堂を発案したのも、寛永年間にはまだまだ強かった江戸の住民の京都への憧れに配慮したものでもあった。

上野東照宮 徳川家光造営の社殿 慶安4(1651)年

この寛永寺と上野東照宮、増上寺とその台徳院殿霊廟、日光東照宮と後の輪王寺の大猷院殿霊廟が、徳川が実現した泰平の世を分かり易く見せる、華麗でエンタテインメント性に満ちた建築様式を確立したとも言える。

上野東照宮 唐門 
中国故事・儒教の「諌鼓鶏」を表す浮き彫り
上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年
拝殿正面の唐破風


拝殿を彩る花鳥の彫刻


拝殿(左)と本殿を結ぶ幣殿
本殿

また台徳院霊廟、上野東照宮、大猷院殿霊廟の、拝殿と本殿を幣殿(相の間)でつなぐ形は、北野天満宮(慶長12・1607年 豊臣秀頼の寄進)の、本殿と拝殿の間に屋根のある石の間を配する社殿の構成を発展させたもので、このように本殿と拝殿のあいだも壁で囲って完全に屋内になる幣殿でつないだ「権現造り」が、以降現代に至るまで日本の神社建築の基本形となっている。

上野東照宮 左から本殿 幣殿 拝殿 典型的な権現造り
上野東照宮 本殿最後部
上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年


なお現在の東京では、北野天満宮と同様に屋根だけがある石の間で拝殿と本殿をつなぐ形式は、家光が上野東照宮の二年前に造営した浅草寺三社権現(明治の神仏分離令で浅草神社に改称)に見ることができる。

浅草寺三社権現 拝殿 慶安2(1649)家光の造営
拝殿内部から本殿 つなぎの部分は屋根だけで床や壁がない
「石の間」の形式なので、外光が差し込んでいる
右が拝殿で左が孔雀と鳳凰の描かれた本殿 
「石の間」には屋根だけがある

ちなみに家光は三社権現の現在の社殿とあわせて、金龍山浅草寺の新しい本堂や五重塔など、壮大な伽藍を造営している。

浅草寺本堂(観音堂)昭和33年再建の鉄筋コンクリート
規模・形態は家光が慶安2(1649)年に造営した本堂(旧国宝)に基づく
北斎 浅草金龍山観世音境内之図

これは東京大空襲で焼失してしまったが、戦後に再建された本堂は家光造営の金堂と大きさや見た目はほぼ同じに作られている。


こうした大掛かりな寺社の造営は、将軍家の権威を示す以上にいわば庶民へのエンタテインメントの提供でもあった。

渓斎英泉 江戸名所尽 金龍山浅草寺雷門之図
広重 名所江戸百景 浅草金龍山

また寺社の参拝やその周囲で行われる娯楽で人を集め、経済活動や活発なコミュニケーションを促し、地方出身者が多かった江戸をひとつの街にまとめて社会を安定させる効果もあったと考えられる(そして実際、江戸はとても治安がよかった)。

広重 東都名所 上野東叡山

上野からも近い根津権現(現・根津神社)にも、徳川家の手になる豪華な社殿が残されている。

根津権現 唐門と拝殿 透塀 宝永3(1706)年
二代目広重 江戸名所図会 根津

現在の境内は後に六代将軍家宣となる甲府大納言綱豊が将軍将軍世嗣(世継ぎ)と決まったことを祝うためにその屋敷地を寄進し、綱吉が社殿を造営したものだが、元から庶民の信仰対象だ。

根津権現(現 根津神社) 拝殿正面
根津神社 右から西門 拝殿 幣殿 本殿 手前に透塀の屋根
根津神社 本殿背後より幣殿 画面奥に拝殿
歌川国貞 江戸名所百人美女 根津権現

東京大空襲で焼失しているが、江戸総鎮守の神田明神は四代家綱のとき、明暦3(1657)年の大火の後の江戸城の大改造に伴い現在の高台に遷移されたている。

そこで幕府が寄進した社殿もまた壮大で絢爛たるものだった。

神田明神(神田神社)楼門 空襲で焼失後の再建
北斎 新板浮絵 神田明神御茶の水ノ図 奥に描かれているのは湯島聖堂

神田明神といえば神田祭りでも人気の、境内で産湯をつかることが江戸っ子の条件と言われたような、やはり庶民信仰の場だ。

広重 名所江戸百景 神田明神曙之景

ちなみに鎌倉の鶴岡八幡宮も現在の社殿は麓の若宮が二代秀忠、上宮は十一代家斉による造営だ。

鶴岡八幡宮 上宮楼門 文政11(1828)年 

もちろん信仰による幕府の権威付け(八幡宮は源氏の氏神で、徳川家は源氏の系譜)でもあったのも確かだが、現代人の、たぶんに西洋の影響を受けた感覚でいう「権威」、巨大な財力と権力を見せつけるような意味合いとは、ニュアンスがいささか異なる。

なにしろやはり江戸から手近な鎌倉は、綱吉と同時代の水戸徳川家三代・光圀が著書で紹介したのをきっかけに、人気の観光地化していた。


ちなみにこの水戸三代藩主・光圀をモデルにした水戸黄門の諸国漫遊伝説は有名だが、実際の光圀は江戸と水戸の領国と日光参拝以外では、鎌倉にしか旅行していない。 

水戸家は尾張・紀伊ともに家康が息子を分家させた御三家だが将軍位の継承権はなく、幕府内での政治的な実権も持たない一歩引いたアドバイザー的な立場で、実際の光圀は綱吉以上に学問好きの趣味人だった。その片鱗は水戸家の上屋敷で今は都立公園になっている小石川後楽園に見ることができる。

旧 水戸藩江戸上屋敷 小石川後楽園 人工の田園風景

大名庭園に水田があるのは珍しいが、儒教・朱子学の「徳治」思想の反映で、君主は下々の生活を知らなければならないという考えに基づいている。さすがに田圃まで作ったのは光圀くらいなものとはいえ、絵画なら農耕図や庶民の祭礼の絵柄は大名家の城や屋敷の調度の障壁画や屏風絵の定番だった。

とはいえ光圀が江戸上屋敷に作らせたのは、むしろ桃源郷的な理想の田園風景に思える。

小石川後楽園 光圀が明で設計させた円月橋

光圀自身は関東から出ることがなかったはずだが、この上屋敷庭園では木曽街道(中山道)の山道を模すなどの諸国の名勝を再現していたり、歌聖・西行法師を祀るお堂など文芸趣味も強く、またとりわけ儒教や禅の研究に熱心だったことを反映し、中国故事に由来する中国趣味も随所に見られる。

大名家の庭園ともなると特別な機会を除けば江戸庶民の目に触れることはそうなかったが(とはいえ、祝い事などの際に解放されることも度々だった)、将軍家や大名家が熱心に寄進した寺社仏閣は、信仰の場なので誰でも分け隔てなく入ることができたし、だからこそ庶民の行楽の場として発展していく。

京都の清水寺を模した懸造りの清水観音堂 寛永8(1631)年

お寺への参拝というと現代人には堅苦しく思われそうでいて、今でもこうした場が観光スポットとしてにぎわうのは、外国人観光客に限ったことではない。初詣でとなると大変な人出だし、最近では御朱印集めも「大人のスタンプラリー」的な人気がある。

浅草寺三社権現(浅草神社)拝殿 慶安2(1649)年徳川家光の造営
中国由来の霊獣 飛竜と麒麟を描いた拝殿正面の豪華な装飾
拝殿内部 「石の間」を経て本殿正面に
やはり中国起源の霊獣である鳳凰と孔雀
屋根だけの「石の間」を経て左が本殿

過去の日本ではこうした寺社仏閣の愛好はもっと極端で、参拝はエンタテイメントだったし、だからこそその建築もエンタテインメント性を強く意識している。

根津神社 拝殿 宝永3(1706)年 仏教由来の獅子と象、卍紋
根津神社 拝殿より本殿 典型的な権現造り

豪華な伽藍や社殿も、その装飾や描かれた絵や、仏像だけでなく珍しい動物などをかたどった数々の彫刻などを見ては、「わあ、きれい」とか「おもしろい」という好奇心を満たす娯楽だったのだろう。

文字通りの「物見遊山」が一般庶民にも幅広く普及したのが江戸時代、むろん「物見遊山」という言い回しの「山」は、別に山登りを娯楽とすることではなく、寺院の山号を指す。


江戸で幕府が作った寺社仏閣が人気を集めるのと併行して、五街道をはじめ全国の交通網の整備が進むと、参拝にかこつけた観光旅行が、庶民のあいだでも爆発的に増えて行く。

関東なら日光の輪王寺や東照宮、鎌倉見物に、足を伸ばして富士信仰も人気を集めるようになった。

広重 伊勢参宮 宮川の渡し

関東からも畿内・京大坂も行き易い伊勢神宮が大人気の観光地になったのも江戸時代だ。江戸時代には全国人口の1/6が伊勢参りをしたとも言われる。


逆に言えば、伊勢参りは江戸時代以降の風習でしかなく、実際のところ伊勢神宮は皇祖神の天照大神を祀っていたにも関わらず、奈良・平安時代には朝廷に見向きもされていなかった。 
伊勢は平安時代ならば在原業平が「都落ち」したような僻地であり、伊勢神宮への天皇の行幸も白鳳時代の持統帝以降、明治末までなかった。 つまり今の伊勢信仰は、元々は江戸時代の庶民の娯楽だったのだ


また崇徳上皇を祀る讃岐の金刀比羅宮は船乗りの守り神として江戸時代に有名になり、伊勢神宮に並ぶ人気の観光地になったし、同じく四国で真言宗の開祖・空海ゆかりの地を廻る八十八箇所のお遍路も、江戸時代に一般化したものだ。

泰平の世に交通網も整備された江戸時代には、出雲大社、信州長野の善光寺などなど、以前から聖地で巡礼地だった寺社が幕府や諸大名の手で再建されたり伽藍が整備されたりして、全国から参拝できるようになったために巡礼が娯楽にもなる物見遊山の観光旅行の文化が華開いた。

季節の変化に彩られたかつての日本人の生活のなかで、寺社仏閣が境内にふんだんに植えられた木々の、四季の移り変わりを楽しむ場でもあるのは、今でもあまり変わらない。

二代目広重(背景)歌川豊国(人物)江戸自慢三十六景 東叡山花さかり


春の花見で桜を愛でる風習は、奈良の吉野山の桜が起源だと思われる。

平安貴族はわざわざ吉野まで花見に出かけて行ったほどだが、やがて京都でもより手近に楽しめるように、その吉野山の桜が洛北の嵐山にも移植される。

広重 六十余州名所図会 山城 あらし山渡月橋

嵐山や嵯峨野はもともと渡来人系の特殊技能を持った人々が多く住む地域だったが、嵯峨天皇が離宮を置いたことから(現在の大覚寺)京都の公家の別荘地のようになり、さらにこの一帯を見下ろす山々は、室町時代には足利将軍家のブレーンだった禅僧・夢窓疎石が開いた天龍寺の一部として整備された。

嵐山 天龍寺(京都五山第一位)足利将軍家ブレーン夢窓疎石の開山

というよりも、嵐山自体が、天龍寺の禅宗庭園の借景になっている。

天龍寺曹源池庭園 夢窓疎石作庭 南北朝時代14世紀 背景に嵐山の山々

京都の近郊には、他にものちに豊臣秀吉が花見の大茶会を開くことになる醍醐など、数々の桜の名所が産まれて行く。

応仁の乱で京都は荒廃したが、逆にこうした京都の文化が地方に拡散する契機にもなった。

千本釈迦堂(大報恩寺)本堂 1277年建立
応仁の乱で焼け残った現在の京都で最古の建物

これまた時代劇大河ドラマや漫画やゲームの「戦国武将」のイメージには大いに反することかも知れないが、和歌や「伊勢物語」「源氏物語」などの平安朝の王朝文化から、足利将軍家の八代義政の創始した日本式の侘び茶の美学まで、さまざまな京都の文化を身につけ風流を解するだけでなく、禅僧をアドバイザーにして漢籍など中国起源の教養を学ぶことも、戦国時代の大名たちにとって必須になっていた。

足利義政の隠居所 東山山荘(現・慈照寺)東求堂 同仁斎
その後の書院造りと茶室の美学の原点になった
青磁茶碗 銘 馬蝗絆 龍泉窯 南宋13世紀 足利義政所用 重要文化財
慈照寺 東求堂 文明18(1486)年

禅というと今日でこそ日本風のものと思われているが、禅宗はそもそも達磨大師がインドから中国に渡って興し、日本には中世に宋代の中国から伝わった新しい仏教だった。

当時の日本の受容としては禅とその文化はむしろ中国風のものという認識だったし、禅僧は中国を中心に東アジアの国際社会の情勢にも通じていた。

慈照寺(銀閣寺)東求堂
慈照寺 観音殿 通称「銀閣」長享3(1489)年

現代人が「和風の極致」くらいに思っている禅画の水墨山水も、たいがい図柄は中国の風景だし、人物も建物も中国のものだ。

雪舟等楊 秋冬山水図 冬 15〜16世紀初頭

室町後期から安土桃山時代にかけて日本の絵画の頂点に上り詰めた狩野派も、この中国も法の伝統を引き継ぎ、大名家の調度として描いた障壁画や屏風は基本、中国の風俗、中国の風景だった。

狩野探幽 山水図屏風 16世紀末 安土桃山時代

将軍家や大名家では、君主や跡取りの生活スペースに農耕図や祭礼図などのモチーフを好んで障壁画や屏風に描かせ、庶民の生活を意識する教訓とする風習があったことは先にも述べたが、そこで描かれる庶民の姿も、中国風俗が多かったりする。

狩野探幽 士農工商図屏風 17世紀 右隻
同 左隻

久隅守景 四季耕作図屏風(部分) 加賀藩前田家旧蔵 17世紀

喫茶の習慣も元は禅宗と共に中国から伝えられたもので、中国製の茶器は「唐物」として珍重され、侘び茶を大成させた千利休は、朝鮮王朝時代の半島の民具の美を評価して愛好した(井戸茶碗、三島茶碗、袴茶碗など)。

名物大井戸茶碗 銘 有楽 織田信長弟有楽斎所用 朝鮮時代16世紀
千利休がその美を見出した井戸茶碗は元来、朝鮮の民具だった
千利休 茶室「待庵」京都府乙訓郡大山崎町・妙喜庵境内
千利休旧邸書院 意北軒 大徳寺塔頭・高桐院
狂言袴茶碗 伝 千利休所持 鴻池家伝来 朝鮮王朝時代16世紀

さらに戦国末期の安土桃山時代には、ポルトガルやスペインとの交易で海外の文物(西洋渡来の「南蛮文化」だけでなく、ポルトガル船やスペイン船は日中間の貿易物資も運んでいた)もどんどん流入するなかで、大名達や堺などの有力商人の財力もあって、日本文化が大きく花開いた。

織部 扇形蓋物 安土桃山時代17世紀初頭
梅の図柄に着物の絵柄など様々な意匠が組み合わされ
側面には南蛮風のマークも見える

和歌や漢籍に親しむことはこと四季の変化が豊かな日本の文脈では、花鳥を愛で自然を風流として愛好することと一体化する。

志濃 秋草図平鉢 16世紀ないし17世紀初頭 安土桃山時代

ちなみに、それまで大陸からの輸入品にほぼ限られていた絵柄のある陶磁器が日本でも作られるようになったのもこの時代で、その技術は一気に飛躍的に発展し、国内で愛用されるだけでなく、江戸時代に入るとヨーロッパ相手の重要な輸出品にもなっている。

野々村仁清 色絵牡丹図水指 17世紀
窓状の枠で絵柄を囲むのは中国風の表現
柿右衛門様式の伊万里の磁器はーロッパで絶大な人気を博した

戦国時代でさえ有力な大名になるには単に武勇だけでなく、深い文化教養を持つことが必須だったが、江戸時代に入り泰平の世が確立すると、大名だけでなく臣下の武士に至るまで、知識・教養や美意識が、武家の出世にとっても最重要のものとなっていく。

熊本藩主 細川忠興 利休好み茶室「松向軒」寛永5(1628)年 大徳寺塔頭高桐院
細川忠興が利休の形見として贈られたとされる石灯籠
忠興夫人ガラシャ(明智光秀の娘・玉)の墓碑に 大徳寺高桐院

京都が中心だった時代には「田舎・僻地」扱いだった東北の大名でも、その雄と呼ばれた伊達政宗は、和歌・漢詩に通じ書画の腕も相当な名筆にして、香についての造詣の深さでも京都の貴族を圧倒するほどだったことが知られている。

瑞巌寺(宮城県松島市)伊達政宗が朝鮮から持ち帰った臥龍梅

その政宗は仙台を本拠とすると、東北では桜が育ちにくかったこともあり、秀吉の朝鮮出兵で出征した際に朝鮮半島から母への土産として持ち帰った梅(臥龍梅)を、青葉城や隠居先の屋敷、それに菩提寺として再建整備した松島の瑞巌寺に自らの手で植えている。

宮川長亀 上野観桜図屏風 江戸時代中期18世紀

徳川政権の確立で泰平の世となると、武家も庶民も区別なく日本人の花好き、桜の愛好はさらに強まる。

背景には将軍家も諸大名の実力が戦争や軍事力よりも文化力で計られる時代になったこともあり、また農業生産の増進で社会全体が豊かになり、文化娯楽の需要が広まったこともある(要するに、平和で余裕もあり、暇な時代になったのだ)。

広重 東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図

家光や綱吉は寛永寺を造営し上野を整備するに当たり、境内のそこらじゅうを桜で埋め尽くして上野を花見の名所にしたし、吉原遊郭では花見の季節限定で中通りに桜の木を他所から持って来て並べて客を楽しませるのが年中行事となった。

現代でももっともポピュラーな桜の品種ソメイヨシノが開発されたのも江戸時代だ。

株分けで増やすのが簡単になったこともあってこれは爆発的な人気となり、全国に広まって現代に至っている。



単に桜だけではない。

寛永寺自体が、根本中堂や文珠楼、常行堂は比叡山、不忍池は琵琶湖、清水観音堂は京都の清水寺に見立てられ、大仏は奈良と京都(方広寺)の名所だし、桜を植えたのは奈良郊外の吉野山や京都郊外の嵐山というように、諸国とくに上方の名所を江戸で疑似体験できる場所として構想されている。

桜の季節の清水観音堂




こうした寺社の造営は、泰平の世を治める幕府にとって重要な庶民サービスでもあった。

文化や娯楽の場を作ることは、徳川幕府が民衆の信頼を得るための重要な政策のひとつだったのだ(またそれだけ江戸時代は平和だったし、基本的に豊かでもあった)。

とはいえ寛永寺はさすがにお寺、それも門跡寺院で比叡山と並ぶ天台宗の最高権威、しかも将軍家菩提所だけに、どんちゃん騒ぎは憚られた。

そこで八代吉宗が隅田川の堤に桜を植え、無礼講の酒盛りもできる新たな花見の名所を作っている。

広重 東都名所 隅田川花盛り

実は元をただせば、隅田川の堤防をより確かな洪水防止のために整備拡大した治水工事だった。

広重 富士三十六景 東都隅田堤

家康以来、治水は徳川将軍家にとって重要な関心事だったが、吉宗がこの新築の堤防に桜を植えたのは、花見客が大勢集まれば自然に土が踏み固められるという計算もあったという。

国芳 隅田川花見

家康の江戸開府以前、今の平地部分は茫漠とした湿地帯か海で、日比谷までが遠浅の入り江だった。

そんな江戸に本拠を定めた家康は、まず江戸湾に流れ込んでいた利根川を霞ヶ浦に流れ込むように東遷させる、日本史上空前の大土木工事に着手する。いわゆる「利根川東遷」で、この大事業は三代家光の時に完成した。

幕府はさらに、江戸市中では神田川を掘削した土で江戸湾を埋め立てて銀座や築地などの土地を造成し、西の郊外には玉川上水などを整備するなど、江戸の治水と水の供給の確保に精力を尽くして来た。

広重 名所江戸百景 玉川堤の桜

大規模土木工事の天下普請は大きな雇用を産み、つまり江戸の人口を急激に増やす意味もあった。こうして江戸開府から百年前後の元禄期には、その人口は17世紀では恐らく当時の世界で唯一の、百万都市になっていた。

広重 不二三十六景 大江戸市中七夕祭り
江戸の町人地の人口密集ぶりがよく分かる

水の安定供給は庶民の生活を安定させるだけでなく、農業収穫高を増やすためにも不可欠な事業である。幕府の治水工事への熱心な取り組みは諸大名にも影響を与え、現代の日本の河川の8割以上が、江戸時代に造成されたり改修を加えられた人工の河川だ。

渓斎英泉 東都花暦 茗渓(オチャノミズ)之蛍 人工の川である神田川
奥に見える橋が当時は本当に水道が通っていた水道橋

また治水や水路の整備は、こと江戸や大坂のように人口が密集した大都市では生活用水の確保も必須だったし、商業の発達のための交通網としても大きな役割を担った。

広重 名所江戸百景 八ツ見のはし

戦後の高度成長で多くが埋め立てられたり暗渠化されているが、東京も大坂も元は湿地帯に作られた、運河と水路と橋だらけの街だ。

そもそも家康が関東に転封された際に、既に町があった小田原や鎌倉ではなくあえてほとんどなにもなかった江戸を本拠地と定めたのも、内海になる江戸湾が、治水工事さえしっかりやれば、海運基地として活用できる江戸には大きな経済発展の可能性があると考えたからでもある。

広重 不二三十六景 武蔵小金井堤 玉川上水(現在の小金井市、小金井橋付近)

そうした幕府の一貫した方針のなかで吉宗が新たに造成した隅田川の桜の堤と、やはり吉宗が整備した飛鳥山は、花見の酒盛りで大騒ぎをしても許される桜の名所として、江戸庶民の人気を集めた。

広重 雪月花のうち 飛鳥山

諸大名や公家などの視点で見れば、こと家光までの徳川は武家諸法度、禁中公家諸法度などを制定し、厳しい締め付けを断行していたのは確かだ。

広重 名所江戸百景 飛鳥山北の眺望
広重 江戸近郊八景之内 飛鳥山暮雪
広重 近江八景之内 比良暮雪

三代家光までは有力大名家の取り潰しや国替えが相次いだし、江戸大改造の天下普請の分担も重く(急ピッチの工事を命じたのは諸大名の財力を弱める狙いもあった)、改易に怯えつつ徳川の命令に従って来た大名達やその家臣からみれば、徳川幕藩体制は確かに横暴に思えただろうし、主家の改易で失業して浪人になった武士達からは恨みも買っただろう。



そのせいか、徳川を薩長閥が倒した明治維新以降の、近代的な歴史研究や教育では、徳川の統治は強権的なものだと思われがちだ。

上野東照宮 境内 寛永4(1626)年 創建 現社殿は慶安4(1651)年造営



だがその徳川の基本哲学が百姓・農民こそ「末代の者」でそれぞれの土地の強固に結びつくものであり、武家は支配者と言ってもその統治を一時的に預かるだけの「当座の者」、かりそめでしかなく、むしろ民衆の生活の安定をこそ重視する方針だったことは、学校教育や一般に流布された歴史観では十分に理解されているとは言い難いし、その天下普請の大土木工事が江戸つまり現在の東京だけでなく、大坂などのかつて幕府直轄だった諸都市でも近現代の発展の基礎となったことも、現代では無視されがちだ。

上野東照宮 「お化け燈籠」寛永8(1631)年 佐久間勝之の寄進 高さ6.06m

儒教・朱子学を公式学門に据えたことは、現代では「忠義」を重んじる武断的な価値観の徹底に思われがちだが、家康の代から重んじられて来たのはむしろ、水戸家の光圀の小石川庭園にも見られるような「徳治」の概念だった。



「徳治」つまり上に立つ者こそ自らを慎み、民衆に不満があるようでは統治者に徳がないと断罪される考えだ。

武家が他の階層の服従を強いるよりも、上に立つ武家が自らを律し徳を身につけることが、徳川の政策理念だった。

またそういう姿勢でもとらなくては、かつての日本の庶民は相当に口が悪くもあった。

しかも文字の普及が世界史上異例と言えるほど早かったので、平安時代の中後期、11世紀や12世紀となると、有力貴族や朝廷、天皇や上皇を揶揄する手厳しい落書きが都で流行ったほどだ。



木版印刷技術が発達した江戸時代ともなれば瓦版もあり、幕府が交通網を整備したこともあって相当な情報収集・発信能力を持ち、元禄時代には木版印刷の本も庶民層にまで爆発的に普及している。

直接的な政治批判なら取り締まることは出来たとはいえ、徳川家にしても250年ものあいだ将軍家の権威というよりも人望を保つのも、なかなか大変だったことだろう。

家康没後400年にあたって修復される前の上野東照宮

家康が「狸おやじ」と呼ばれ、二代秀忠が父と妻・江与の方に頭が上がらなかったとか、三代家光と母に寵愛された弟の忠長に家光の乳母・春日局を巡るお家騒動の確執や、家光の同性愛が庶民のミもフタもなく庶民の噂のタネになっていたのは当時からで、将軍家や大名家の艶めいたゴシップも瓦版のかっこうの題材だった。

上野東照宮 諸大名奉納の石灯籠

四代家綱が「左様せい様」、五代綱吉が「犬公方」、緊縮財政を断行し米価の安定に苦しんだ八代吉宗が「米将軍」、十三代家定が短気だったので癇癪の「癇」の字をとって「癇公方」といったあだ名で公然と揶揄もされていたのは、厳しい身分制度で武家が強権政治を敷き庶民は服従させられていたのかのように思われがちな後世のイメージとは随分異なる。

しかもこうした揶揄は、必ずしも彼らが人気のない政治家だったからではなく、むしろどちらかと言えば人望があった将軍や幕府の重職だからこそ、平然と揶揄するあだ名がつくような時代だったのだ。


あるいは、今年のNHK大河ドラマの主人公は、大坂夏の陣で家康をすんでのところまで追いつめた真田信繁だが、この信繁が「真田幸村」の名で庶民に人気を博したのも、その幸村伝説のなかでは悪役・仇役となる家康の子孫の徳川将軍家の統治下の江戸時代だ。 
歌麿 教訓親の目鑑 理口もの
読んでいるのは絵本太閤記 
だいたい徳川に倒されたのが豊臣政権であっても、秀吉の伝記である「太閤記」も人気があった(江戸時代後期に一度だけ発禁になっている)。 
庶民の文化レベルが高く為政者も世論を気にせざるを得なかったこともあるが、前政権を倒した現政権が権威付けのプロパガンダで前政権を悪く言うことで自己正当化を図るのは、宗教観からしても日本の伝統に反する。  
歌川国芳 百人一首之内 崇徳院
むしろ敵として死に至らしめた相手でも、その敵の怨霊が「祟る」ことの防止も含め、菩提を弔い慰霊するのが、世間の厳しい目もあり、「徳」のある統治者の責任だった 
京都 安井金毘羅宮近くにある崇徳上皇の墓所
配流先の讃岐で狂い死にしたとされ、金毘羅宮の祭神に
たとえば南北朝の争乱期でも、後醍醐天皇が没すると、将軍足利尊氏が後醍醐帝の菩提を弔うために夢窓疎石に建立させたのが、先述の京都・嵐山の天龍寺だ。 
あるいは真言宗の聖地である高野山では、空海が入定した奥ノ院に向かう参道には、敵味方を問わず多くの戦国武将の墓所や供養墓がある。
高野山奥ノ院 安国院(徳川家康)霊廟 寛永20(1643)年



中世、とくに南北朝〜室町時代以降の日本の歴史的な大きな特徴は、文字の普及もあって文化教養が幅広い階層に浸透していたことだ。平安時代末期には後白河法皇が庶民の俗謡だった今様に熱中していたし、室町幕府の足利将軍家は庶民芸能だった猿楽を愛好して能楽に発展させた。

こうした歴史の流れを受けて、戦国時代を経て平和が続いた江戸時代には、庶民文化が花開き、武家の幕府もそれを奨励・後押ししていた。

幕府が膨大な資金をつぎ込んだ寛永寺や浅草寺は、そうした庶民文化の中心の役割も果たすようになる。



四代家綱の代に徳川の体制が盤石となると、文治政治へと方針が転換し、こと明暦の大火の復興を機に江戸庶民の経済発展や福祉を重んじる政策をとったのも、五代綱吉がさらに福祉政策と文化振興を重んじたのも、明治以降の忠君愛国思想の称揚の文脈では否定的に見られるか、無視されがちだが、客観的にみれば泰平の世の確立のなかでの合理的、かつ庶民のためになる判断だった。



文治政治と町民優先(=民間活力の成長戦略)、それに平和主義を押し進めた五代綱吉の代に、幕府財政が逼迫したのも、決して将軍家が贅沢をしたからではなく文化政策や教育事業の出費であり、治世末期に大災害が相次いぎ、救援事業や治水などの大土木工事の出費が膨れ上がったからだ。

上野東照宮 四季の花鳥をあしらった透塀
上段は陸の花鳥 下段には水と水鳥や魚の透かし彫りや
透塀 下段 鯉


後世には、享保の改革を行った八代吉宗が武道の復興や身体鍛錬を奨励したのと比較して、綱吉は「生類哀れみの令」が誤解されたこともあって抹香臭くひ弱に見られたり、元禄文化の賑やかさもあって浪費癖というイメージで語られがちだ。

だが双方を比較して綱吉を暗愚の君、吉宗を名君のように扱う明治以降の傾向が史実に則しているとは言い難いし、実際には吉宗は綱吉を尊敬していたらしく、死後は綱吉の眠る常憲院殿霊廟内に自らを葬るように言い遺した。

以降、将軍が没する度に新しい霊廟を建てることはなくなり、既存の霊廟に墓が作られることになる。

上野東照宮 唐門 左甚五郎の下り龍 慶安4(1651)年




四代五代の霊廟が続けて寛永寺に建ったあと、六代家宣、七代家継の霊廟は増上寺の番になり、文昭院殿霊廟、続けて有章院殿霊廟が、二代秀忠の台徳院と増上寺境内を挟んで反対側に建てられた。
増上寺 台徳院殿霊廟勅額門 後水尾天皇の筆による勅額 
同 奥ノ院(墓所)への御成門(後継将軍の墓参用の門)
 飛天と花鳥、水紋の装飾
文昭院殿霊廟 勅額門 正徳3(1713)年 戦災で焼失
文昭院殿霊廟 拝殿
文昭院殿霊廟 拝殿内部
文昭院殿霊廟内部 相の間 本殿 いずれも戦災で焼失
文昭院殿奥ノ院銅造鋳抜門 聖徳3(1713)年
現在は増上寺徳川将軍家墓所の門 昭和33年改葬
八代吉宗は霊廟の膨大な建築費用を省く目的もあって、自分の死後は常憲院(五代綱吉)の霊廟に埋葬するよう遺言し、以降の将軍もこれに倣い、寛永寺か増上寺の既存の霊廟のいずれかに葬られた。  

 

有章院殿(七代家継)霊廟 享保2(1717)年 勅額門から拝殿
有章院殿霊廟 勅額門と鐘楼
1890年頃の着色写真 Adolfo Farsari撮影
 
ちなみに有章院(増上寺・七代家継)の江戸城側に作られた裏門が、吉宗以降は将軍による増上寺参拝に用いられるようになり、この門が「御成門」と呼ばれ現存している。
増上寺 有章院殿「御成門」正徳6(1716)年
地下鉄・御成門駅の名前の由来でもある。
有章院殿霊廟前にあった石灯籠
所沢市の金乗院境内
小平市 野中山円成院
増上寺の将軍家霊廟の敷地を買い取った西武グループは、重要文化財の霊廟の諸門を狭山不動尊に移築しただけでなく、石灯籠などを鉄道の西武線の沿線の寺社に寄付したり、東京の各地のプリンスホテルの庭園に移して保存・装飾に利用している。
グランドプリンスホテル新高輪に移設された台徳院殿の銅灯籠 
寛永寺も増上寺も、将軍の霊廟はいくつかの門を残して戦災で焼失しているが、その華麗さをしのばせる遺構として、二代秀忠の正室お江与の方の霊廟は鎌倉の建長寺に移設されてその仏殿になっている。


崇源院殿(秀忠正室・お江与)霊廟 丁字門 寛永9(1632)年
※現在は所沢市の金乗院に隣接する狭山不動尊に移設
崇源院殿 霊廟前の唐門(現・建長寺方丈勅使門
崇源院殿霊殿(現・建長寺仏殿
建長寺仏殿 内部 金箔に鳥が描き込まれた折上げ格天井
禅宗寺院では珍しい和様の格天井も元は霊廟だったから
折上げ格天井と飛天の鏡板
透かし彫の飛天は台徳院殿(夫・秀忠)霊廟御成門に共通する意匠
江与の方と秀忠の長男、三代将軍の家光は同性愛で女性をなかなか身辺に近寄らせなかったと言われている。江与が次男の忠長に家督を継がせようと考えたのも、跡取り問題を危惧したからかも知れない。  
家光の乳母だった春日局が大奥を創設したのも、同じ理由からだった。
こうして家光の最初の側室となり子を産んだお振の方の霊廟は、後に尾張徳川家の光友に嫁いだその娘・千代姫が建立し、新宿区富久町にあって戦災もまぬがれた。
自証院(三代家光側室お振)霊屋 慶安5(1652)年
この土地も西武グループが買収、霊廟は東京都に寄付され、都立小金井公園内の江戸東京たてもの園で見ることができる。


最後の将軍となった十五代慶喜のみ、死後は神道形式(というのは明治以前にはなかった新しい風習)の墓で、谷中霊園に葬られている。
谷中霊園 徳川慶喜と夫人の墓
徳川慶喜の墓
かつては谷中の天王寺の手前までが寛永寺の寺領で、今の谷中霊園にも将軍以外の徳川家の人々の墓所や霊廟があった。
谷中霊園 徳川家墓所のひとつ
分家(御三卿)の田安徳川家の墓
今でも谷中霊園の一部は寛永寺の管理 で、徳川家や徳川親藩の他、寛永寺やその塔頭の僧侶、それに仙台の伊達家などの大名家の墓も残っている。 




寛永寺の厳有院殿に葬られている四代家綱も、明から禅の高僧・隠元隆琦を招いた京都・宇治の黄檗山萬福寺などの寺社仏閣を造営したが、なかでも特に有名なのが、両国の回向院だろう。



厳有院殿霊廟勅額門 延宝9(1681)年

回向院はその名の通り死者の「回向」が役割の、もともと明暦の大火(1656年)の犠牲者供養のために建立された寺院だが、今では大相撲興行発祥の地としての方が知られているかもしれない。

広重 東都名所 両国回向院全図 巨大な見せ物興行の仮設小屋が

西から東に燃え広がった火で隅田川の岸に追いつめられ、逃げ場がなくなって多くの焼死者を出した反省から、家綱とその後見役で側近の保科正之(秀忠の末子なので家綱の叔父にあたる)は、それまでは江戸防備のための戦国時代的な発想で隅田川が外堀と合体していたため、東側に渡れる橋が北のはずれの千住にしかなかったのを、火災時に対岸への避難路を確保する大きな橋を建造した。

広重 名所江戸百景 大はしあたけの夕立(両国橋) 東洋文庫蔵

隅田川を挟んで西は武蔵の国、東は安房になることから「両国橋」ないし「大橋」と呼ばれ、両国という地名もこれに由来する。

北斎 絵本隅田川両岸一覧より 両国橋

この橋を渡った先に回向院が建立されたのをきっかけに、江戸市街は隅田川東岸の深川などへと拡張して行く。

都市の防備よりも交通網の発展を優先した、幕府の大きな基本政策の転換でもあった。

渓斎英泉 蘭字枠江戸名所 江戸両国橋ヨリ立川ヲ見ル図 文政期(1818-29)

明暦の大火では千代田の城も被災し、家光が建てた寛永期の天守が焼失している。家綱と保科正之は、天守は再建せずにその予算を江戸の復興に廻すことにして、まだ戦国時代の意識が残る古参の幕臣達も説き伏せたのだ。両国橋の建設と同様、天守を作らないこともまた、もはや戦乱の時代ではないという将軍家の意思表示でもあった。



この泰平の世には天守は不要という将軍家の意思表示には諸大名も従うことになり、以降全国の城で天守閣は作られなくなる。
広重 江戸名所橋尽 日本橋
奥に櫓は多いが天守は建てられなかった江戸城



また元禄11(1698)年には綱吉の生誕50周年を期に永代橋も建造され、隅田川東岸は江戸の不可分の新興地域として発展して行った。一方で公式には江戸は武州(武蔵)、隅田川東岸は房州になるので、隅田川を渡れば江戸市中で禁じられていた動物の肉を食べることなどが許されていたりしたのも、この地域を大いに発展させた理由だろう。

宮川長亀 隅田川納涼図屏風 18世紀
右側に両国橋 左端下に駒形堂(戦災で焼失)

元をたどれば家康が本拠地を江戸に定めたのも、堅牢な都市防備が可能な鎌倉や小田原よりも、自らが作り出そうとしていた平和の時代を見据え、開かれた江戸の発展の可能性を選んだからだった。

鳥文斉栄之 隅田川図巻より 両国橋

そのひ孫になる家綱の治世は一般向けの歴史や教科書では無視されがちな時代だが、明暦の大火後の江戸復興政策は徳川の統治が武断政治から文治政治へと転換し、絶対平和主義を確立した象徴的な決断となっただけでなく、現代の東京へとつながる大都市・江戸の歴史の大きな転換点だった。


広重 名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋

なお回向院では、身分の分け隔てなく明暦の大火の死者を回向するという精神から、人間以外の慰霊・供養も受け入れる方針を今でも守っている。

回向院の動物供養塔 境内は戦災で全焼し戦後の再建
関東大震災の身元不明遺体の供養塔

江戸時代から身元不明者の供養の場でもあった回向院

江戸時代には身分上「えた・ひにん」だった浄瑠璃 歌舞伎関係者の墓も多い
盗賊 鼠小僧こと中村次郎吉の墓
犯罪者の墓は本来なら違法だったがここでは許された

生類憐れみの令が決して綱吉の気まぐれや思いつきではなく、まして「悪政」だったわけでもなく、徳川の統治のなかで当然出て来た流れだったことが、これを見ても分かる。

北斎 隅田川両岸景色図巻(部分)すみだ北斎美術館蔵

また両国橋の両岸には延焼防止のため広い火除地が設けられた。

広重 名所江戸百景 両国橋大川ばた

ここでは家は建てられないが火災の時にすぐに分解できるならという条件で、仮設小屋は許されたため、にはすぐに見世物小屋などが集まるようになり、回向院の境内から橋をはさんだ両岸の一帯が、江戸の一大エンタテインメント・センターになって行った。

北斎 新板浮絵両国橋夕涼花火 見物之図
歌麿 両国花火

なにしろ徳川のもたらしたものが250年の平和と安定経済成長だっただけに、江戸の人々は武家も大商人も庶民も、ちゃんと働きもしただろうが、けっこう暇でもあったのだろう、大変な娯楽好きだった。

国貞 江戸名所百人美女 新大はし 安政5(1858)

歌舞伎が成熟したのもここだし、相撲興行の発祥の地なのは先述の通り、そして見世物小屋には東南アジアから輸入されたゾウもいたという。

伊藤若冲 象図
歌川国芳 二十四孝童子鑑

幕末の嘉永3(1850)年にはオランダ経由で日本に初めて輸入された生きた虎も、両国で展示された。

国芳 十月十日西両国於広小路御覧入候 嘉永3(1850)年

こうも物見高かったのが江戸庶民なるとこの4年後のペリー来航への反応も、一般に思われて来たのとはかなり違ったことが想像される。というか、実際にむしろ庶民は興味津々だったし、それは幕府の役人の一部も同様だった。



そんな時代の名残として、今は回向院の北にあるのが、両国国技館だ。

国貞 東都両国橋 川開繁栄図 安政5(1858)年
広重 東都名所 両国橋夕涼全図
五雲亭貞秀 三都涼之図 東都両国ばし夏景色 安政6(1859)年

先述の通り日本では中世期にはすでに識字率がかなり高く、文書による記録やコミュニケーションが農村部にも浸透していたのが、家綱と、とくに綱吉が文化政策を重視し庶民層にも学問を奨励し、寺子屋の数も増加し(幕末時で約1万5000と推計)、識字率が半数を超えていたかも知れないとも考えられる。当時の世界では群を抜く数字だ。

それに伴い庶民も巻き込んだ娯楽文化も著しく発展して行ったのが、江戸時代だった。

広重 名所江戸百景 両国花火

このことが幕末の開国時に西洋人を驚嘆させることになる。

当時の西欧の最先端の英国ですら識字率は3割に満たない程度だったのが、江戸ではほとんどの者が読み書きができ、貸本屋が大人気で、最低限「論語」くらいの漢籍の素養はなければ読みこなせない滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のような大長編が、庶民向けに大ベストセラーになっていたのだ。



江戸の庶民文化は、こと戦後民主主義の文脈で、幕府の厳しい弾圧や検閲に苦しめられたかのようなイメージで語られがちだが(たとえば喜多川歌麿が50日の手鎖の刑に処せられたこと)、実際にはそうした締め付けも時にはあったものの、飢饉で財政危機になり治安も悪化した時の改革政策の一貫で一時的に行われた性格が強い。



例えば、罪人の墓は作ってはならない禁制はあったが、人気のあった大泥棒・鼠小僧次郎吉はちゃんと墓が回向院にある。

墓石に記された俗名が「次良吉」と一字を変えただけでお咎めはなかった。



ちなみに鼠小僧こと中村次郎吉は「どこにでも忍び込める」という縁起担ぎや、博打に強かったという伝説から、墓石を削ってお守りにすることが流行した。
墓石がなくなってしまっても困るので、回向院では削って持ち帰るための「お前立ち」の墓石を設置している。



浄瑠璃や歌舞伎で直接に同時代の武家批判をやってしまえば咎められる可能性があったが、『仮名手本忠臣蔵』にせよ時代設定を形だけ「太平記」の時代に移すだけで、問題にはされなかった。



文楽人形浄瑠璃は、現代では近松門左衛門らの世話物がポピュラーだが、江戸時代にむしろ人気があったのは『仮名手本忠臣蔵』や『一谷嫩軍記』『義経千本桜』『妹背山女庭訓』などの歴史もので、テーマはずばり、忠義や徳を道徳とする武家社会の倫理の矛盾がもたらす悲劇だった。 
喜多川歌麿 忠臣蔵七段目
つまり江戸時代の大衆文化は実は体制批判の色彩が濃かったのだが、そのことだけが注目に値するわけではない。 
南北朝時代に舞台を移した『忠臣蔵』にせよ、源平合戦に取材した『千本桜』『嫩軍記』にせよ、歴史を知らなければ理解できない内容だし、『妹背山女貞訓』に至っては大化の改新、古代史の話だ。 
葛飾北斎 仮名手本忠臣蔵 九段目
このように「知らなければ(教養がなければ)分からない」娯楽が、すんなりと受け入れられるだけ、江戸時代の一般庶民の教養水準はかなり高かったのだろう。



平安時代でもそうだったが、平和になったとたんに美しいもの、楽しいものに熱中し、教養を競い合うのが明治以前の日本の国民性だ。

四季の花鳥をあしらった透塀 上野東照宮 2015年に修復工事が完成

こと四季の変化が豊かな風土から、年中行事が盛りだくさんな文化を華開かせて来たのが、実際の日本史から見えて来る日本人の姿であって、およそ明治以降にそう思われて来たような「武士道」や「侍」イメージの、マッチョで男性的な国ではない。

鼠と瓜 武家の頭領が神格化されたとは思えない透かし彫りの装飾
上段は四季の花鳥と動物 下段は水紋に魚と水鳥
あらゆる生命を慈しむ思想も反映されている



それどころか、その「武士」たちこそ、四季の花鳥を愛で風流を楽しむ教養が必須とされていたのが実際の日本史なのだ。

家光の長女千代姫が尾張家に嫁いだ際の「初音の調度」寛永16(1639)年
『源氏物語』の「初音」に基づく 国宝 名古屋市・徳川美術館蔵
たとえば徳川家の嫁入り道具には「源氏物語」のモチーフを用いるのが慣例になっていた。「源氏物語」が武家の基礎教養になっていたからだ。

野々村仁清 色絵紅葉賀図茶碗 17世紀
『源氏物語』で光源氏が父の帝に対面する場に基づくがあえて
人物は描かない留守文様、読解は見る者の教養に任されている

あるいは、菖蒲田に互い違いの板橋を渡す「八ッ橋」が、現代の東京に残る庭園だけでも小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷)や江戸城二ノ丸庭園、明治神宮御苑(かつて大名家下屋敷があった)に見られるのも、平安時代のプレイボーイ貴族で歌人の在原業平の放浪を描く「伊勢物語」が、やはり基礎教養になっていたからだ。

尾形光琳 八ッ橋蒔絵螺鈿硯箱 18世紀 国宝
光琳 八ッ橋図屏風 1709年以降 米メトロポリタン美術館
伊勢物語 嵯峨本(17世紀の手彩色版本)

こうした洗練された戯れと遊びの文化の精神的な豊かさがもっぱら貴族の専有物だった平安朝とは異なり、中世後期・室町時代にはすでに文字コミュニケーションが庶民レベルで普及していた近世の日本では、徳川の積極的な方針もあって、文化と娯楽は財力をつけた商人だけでなく、庶民層にまで浸透して行った。

鈴木春信 見立て伊勢物語・八ッ橋
英一蝶 業平見立て涅槃図

そんな文化教養趣味が爛熟し、かつ庶民化もするなかで巨大都市に成長した江戸のなかで、上野は春なら桜の名所、夏には不忍池に蓮が咲き、秋には紅葉が境内を彩り、冬には雪景色を楽しむ場でもあったことが、数々の風景浮世絵からも伺われる。

鳥居清長 上野不忍池の花見
広重 東都名所 上野不忍蓮池

渓斎英泉 東都花暦 不忍蓮
入母屋造りの弁天堂は戦災で焼失、現在の六角堂は戦後の再建
弁財天六角堂 昭和33(1958)年の再建

不忍池自体が琵琶湖の見立てだったのは、すでに述べた通りだが、秋には落雁、つまり渡り鳥の飛来が風物詩になったのは、「江戸八景」ないし「東都八景」のひとつとしてだ。他にも「近江八景」や「金沢八景」、「江戸近郊八景」などが有名だ。


中国大陸で10世紀に北宋で選ばれた名勝の瀟湘八景が、南宋の文人画の強い影響下にあった日本の禅の山水画に取り入れられ、安土桃山時代から江戸時代初期には狩野派などの定番の画題にもなっていた。

長谷川等伯 瀟湘八景図屏風 安土桃山時代

その瀟湘八景に当てはまるものを日本に当てはめたものがたとえば近江八景(琵琶湖周辺・現在の滋賀県)や金沢八景になる。


広重 近江八景之内 唐崎夜雨
広重 江戸近郊八景 玉川秋月

徳川家康がいわばなにもなかったところに新たに江戸を開くと、上方への憧れもあってこの「八景」を当てはめたのが江戸八景や東都八景で、東叡山界隈では不忍池が「落雁」、夕暮れどきの鐘の響きを意味する「晩鐘」には、寛永寺の時の鐘が見立てられた。 

広重 東都八景 上野晩鐘 (広小路から東叡山の門前広場)
現在は上野精養軒の隣にある寛永寺の時の鐘 現役の鐘は天明7(1787)年
広重 近江八景之内 三井晩鐘
上野晩鐘

現代の上野公園で雪景色を見ることはめったにない。江戸時代には今よりも平均気温は低かったとはいえ、雪景色の風景浮世絵も多いのは、江戸時代の人々にとってここが雪景色を楽しむ場でもあったからだろう。

広重 名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望
かつてはここから不忍池が見下ろせた
広重 銀世界十二景 上野東叡山
広重 東都雪見八景 上野東叡山不忍池
明治初期の不忍池弁天堂 戦災で焼失(東京国立博物館蔵)
戦災で焼失した入母屋造の弁天堂に代わる現在の六角堂は昭和33(1958)年再建


近代日本最初の都市型公園となった上野には、今でも博物館や美術館、それに動物園もあるし、最近では東京都が「ヘヴン・アーティスト」と呼んで公認推奨している大道芸も盛んだ。



その意味では、上野の山が江戸時代から保って来た、もの見高い日本人を引きつけ、エキゾチズムも交えたもの珍しいものを楽しむ魅惑の祭礼空間としての役割は、確かに継承されている。





だが、よく見れば台東区や寛永寺が、随所に歴史文化遺産の解説の看板を建ててくれてはいるものの、注意して探して気付いて読まない限り、その場その場の歴史的な意味はまったく意識されないだろう。

上野東照宮 お化け燈籠 寛永8(1831)年

無理もない。そもそも上野の繁栄の歴史的な背景が、ほとんど知られていないのだ。

四季折々の花鳥で飾られた上野東照宮の透塀


その宗教的な意味合いも、文化的なDNAの潜在意識レベルで上野が今も文化の香りもする娯楽の場、人が集まり珍しいものを見て楽しむ所であり続けていることくらいでしか、残っていない。



現代ではパンダこそが上野に祀られたカミなのかも知れないが、ちなみに戦前に上野動物園で人気を集めたのはキリンとゾウだった。

古来の日本では麒麟も象も、仏教とともにその姿や概念が中国から伝わった霊獣で、実物は見られなくとも広く親しまれて来た。
象の装飾は江戸時代の寺院建築の定番 寛永寺釈迦堂・護国院 享保年間
戦災で焼失する以前の不忍池弁財天の装飾彫刻
三社権現 拝殿に描かれた飛竜と麒麟

今でいうキリンがキリンと呼ばれるようになったのは、ぜひとも英語で giraffe と呼ばれていた珍獣を輸入したいと思った上野動物園が、予算を得るために、これが霊獣の「麒麟」の本物だと言って、いわば政府当局を「騙した」からだったりする。

伊藤若冲 鳥獣花木図屏風(右隻)

徳川の築いた都市・江戸という記憶がほとんどなくなってしまった現代の東京では、上野に徳川の菩提寺の寛永寺があったという知識くらいはたまにふと思い出すことはあっても、根本中堂がどこにあったのかなど、花見客や動物園の見物客が考えもしなくても、当たり前ではある。


もともとほとんど知られていない、教わってもいないどころか、むしろその歴史は隠されて来たのだから。


そうは言っても公園の中心になる大噴水広場が、高さ32mの巨大な根本中堂の跡地であることも知られていないとは、なんとも奇妙な感覚はある。

東京国立博物館庭園 元は小堀遠州作庭の寛永寺本坊庭園 春

東京国立博物館の庭園は、春の桜と秋の紅葉の季節に公開され、申し込めば茶室の利用も出来る。


だが歴史や過去の日本文化への興味から博物館に来ている見学者でも、そこが元は寛永寺本坊庭園であったことすら、まず知らされていない。

東京国立博物館庭園 秋 旧 寛永寺本坊庭園
旧 寛永寺本坊表門 一時は東京国立博物館の正門として使われた

なによりも、慶應4(1868)年の戊辰戦争で上野が幕府軍と新政府軍の激戦で焼け野原になっていたこと自体が、日本人の集団的な記憶からは抹消されている。

清水観音堂に掲げられた上野戦争の絵馬
右下の黒門から観音堂に駆け上がる洋装の軍服の新政府軍 左下に吉祥閣

その理由のひとつは、分かり切ったことだ。近現代の、我々が知っている日本史と歴史観が、勝者・明治維新政府の正当化のために書き換えられた歴史だからだ。

清水観音堂に飾られた上の戦争当時の、佐賀藩で作られた国産の砲弾
旧本坊表門(黒門)に残る砲弾の弾痕

だからこそ、上野が徳川の聖地であった記憶と、その歴史や伝統文化が上野戦争で新政府軍に破壊された史実は、「恩賜」つまり天皇家と、明治維新最大の英雄・西郷隆盛のイメージに隠蔽されて来た。



「恩賜」公園、つまり天皇家から東京市民に「下され、賜った」と言うが、元を糾せば新政府が上野戦争で焼き払って破壊した寛永寺から没収した土地ではないか。


新政府軍に主要の伽藍を焼き払われた寛永寺の苦難は続いた。

上野戦争後の焼け跡と思われる明治初期の写真

廃寺も取りざたされ、復興がやっと認められたのは明治12年になってだった。

川越の喜多院は天海が住職を務めたこともあり、また徳川との所縁も深く(喜多院には江戸城本丸御殿の唯一の遺構が移築されている)、その本地堂をもらい受けて移築改築して新たな根本中堂になった。

寛永寺 現根本中堂 旧 川越喜多院本地堂


とはいえそれが許された場所も、あたかもなるべく人目につかないようにするためか、子院の大慈院だった敷地だ。



上野をどうするのか、明治政府内ではさまざまな案が検討され、軍の練兵場にするとか、病院にする計画もあった。

明治維新時の所有区分を示した図面 焼失していた寛永寺伽藍も書き込まれている
本坊は陸軍 根本中堂跡など境内の中心は文部省 東照宮と徳川霊廟は徳川家に帰属

寛永寺の焼け野原を都市公園とすることを提案したのは、その病院計画を任されるはずだった御雇い外国人のオランダ人医師だった。

西洋人に言われたことには弱いのが、重度の西洋コンプレックスに常に苛まれていた明治政府だ。明治5年に公園整備が一応は始まったが、現代につながる上野公園のにぎわいのきっかけになったのは、征韓論で政府を去った西郷が西南戦争を起こしたのと同じ明治10(1878)年に、内務卿の大久保利通が上野で内国勧業博覧会を開かせたことだろう。

第2回内国勧業博覧会当時の上野公園 中央奥にJ・コンドル設計の帝室博物館

こうなると、なぜパンダ以前は上野のシンボルが西郷さんだったのか、ますます分からなくなる。大久保利通ならまだ納得も行くのだが。

だが大久保の目指したのが伝統産業を基盤に大量生産技術を導入した民生・軽工業中心の産業革命の、輸出立国による日本の近代化だったことを考えると、これも勝者の政治の都合による歴史の抹消・隠蔽の一例として理解できる。

大久保は第一回博覧会(と西南戦争)の翌年に不平士族に暗殺され、元々その先見性の独断専行に長州閥からの反発が大きかった明治政府は、大久保がマスタープランを作った民生主導・軽工業基盤の平和的な近代化から、軍事力強化の「富国強兵」を睨んだ重工業国家化へと、政策の方向を大きく変えることになる。

大正時代 第一次大戦後に上野で開かれた平和記念東京博覧会

西郷が失脚したのは征韓論を唱えたからだったが、大久保の死後の重工業化への政策転換は軍需産業の発展を意味していたし、もちろんそれだけでは済まない。19世紀末の重工業先進国といえば、原料資源と製品の市場を求め、必然的に植民地侵略に向かうものだ。

伝統の文化技術を活かした軽工業・民生中心の産業形態の輸出立国を目指した大久保利道亡きあとの日本が結局は辿ってしまった道の行き着いた先については、今さら言うまでもあるまい。



資源と市場を求める植民地侵略政策は日清日露の両戦争に勝利で決定的になり、日本は西郷の唱えた征韓論つまり朝鮮半島支配ではとても飽き足らず、石炭や鉄鉱資源を求めて満州にまで進出、政府を追われた西郷の案だったはずの対外進出・大陸侵略の野望を鮮明にしてゆく。



だが歴史を振り返れば、豊臣政権もまた短命に終わったのは、朝鮮出兵(…と日本史では呼んでいるが、秀吉は明まで征服するつもりだった)という大暴挙の失敗が大きい。

この大きな政策ミスがあったからこそ豊臣家は人心を失い没落を始め、家康が台頭して絶対平和主義の、民衆に尽くし平和的な手段で国を富ませる幕府体制を敷き、その理念の実現のためにまず大土木工事で江戸を湿地帯から百万都市に、関東を大穀倉地帯に改造し、平和に暮らすための豊かさの一貫として文化政策にも力を入れた、その中心が徳川の築いた都市としての江戸だった。



だからこそ明治以降の近代日本は、単に徳川幕府を倒して政権を得たからというだけでなく、国家とその統治の理念の上でも、徳川250年の平和を否定しなければならなかったのかも知れない。

そんな近代日本の政府が、徳川が江戸庶民にはやさしい政権で、それなりに人気があったことも、大久保が日本の近代化の別のあり方を示そうとしていたことも、隠そう、国民に忘れさせようとしたのも、自然と言えば自然な流れではある。

高村光雲 西郷隆盛像 明治31(1898)年

そんな何重もの国民に忘れさせたい歴史を封じ込めるために必要だった神話化の効果を発揮し得るのは、西南戦争で逆賊として死にながらも根強い人気を誇り、こっそり戦前日本の対外侵略路線の元祖でもありながら、江戸城を無血開城させた徳の高い英雄(ただし他ならぬ上野は焼け野原になった)として神格化も可能な西郷を於いて他にいなかったのだろう。

結城素明「江戸開城談判」神宮外苑・聖徳絵画館

しかもとっくに死んでいたので、美化・神話化するのも楽だ。

もっとも、西郷隆盛と幕府側の勝海舟の英断で江戸が戦火から救われたというのも、たぶんに明治以降に歪められた、かなりの部分フィクションだと考えたほうがいい。



十五代慶喜は朝廷への大政奉還で政局の混乱を収拾し、譜代・外様の違いを問わず大物の大名が重臣として参加する合議制の公武合体の新体制を築こうとしていた。

これが実現されると、政治権力の中心から弾き出されるのが、薩長の急進派の下級武士たちだった。

孝明天皇の信任も厚かった慶喜と、外様とはいえ雄藩諸大名が政治の中心のままでは、出世の見込みが閉ざされる下級武士たちは公家の岩倉具視と組び、折しも孝明天皇が急死(暗殺説も根強い)すると、即位したばかりの少年の明治天皇に王政復古の大号令と、慶喜を朝敵として征伐する勅許を出させることに成功してしまった。

鳥羽伏見の戦いで、このいわば下級武士クーデタ軍の頭上に天皇家を表す錦の御旗を掲げられたことを知った慶喜は、この内戦が幕府対朝廷の全面戦争となるのを避けるため、即座に大坂から海路で江戸に戻る。



朝敵とされた慶喜がそのまま千代田の城内に入ってしまえば、内戦の激化を避けるためとはいえ鳥羽伏見の戦いで自らの臣下である多くの兵をいわば見殺しにしてしまった立場でもある慶喜は、幕臣に突き上げられば抑え切れなかっただろう。

そこで新政府軍相手の籠城戦になることを避けるため、江戸に戻った慶喜は城にも寄らずに寛永寺に直行し、大慈院の一隅(現在の根本中堂の裏にある葵の間)に謹慎蟄居する。



新政府軍が東に進撃するなか、江戸城の主となったのは薩摩藩・島津家の養女として13代家定に嫁いだ篤姫(天璋院)と、孝明天皇の妹で14代家茂に嫁いだ和宮だった。

それぞれに慶喜の養母、養祖母の立場になる。

上野東照宮 ぼたん苑

和宮は先の天皇の妹としての人脈を活かし朝廷や公家に働きかけ、天璋院は自分の輿入れの際に島津家がつけた随行の1人だった西郷隆盛に目を付け、その出世を褒めてうまく持ち上げつつ、江戸の住民を巻き込んだ戦闘を避けるみごとな説得を展開していた手紙が発見されている。

唐門の透かし彫りには君主の徳について戒める中国故事が鏤められている

勝海舟と西郷は、篤姫と和宮の、江戸市民を守ろうという強い意思と巧みな裏工作のお膳立てがあった上で面談したのであって、江戸の街と庶民に大きな犠牲を出したであろう陰惨な戦闘が避けられたのは、勝と西郷という男たちよりも、この徳川の妻たちの力が大きい。





明治初期を生き抜いた後、篤姫は寛永寺の常憲院殿霊廟奥ノ院の、夫・家定の墓の隣に葬られている。 
天璋院篤姫 1836-83
徳川家の妻たちが活躍してこその江戸無血開城だったことが忘れられ、西郷隆盛と勝海舟という男たちの功績が神話化されて来たのも、明治というのがどういう時代だったのかを考えずにはいられない。



寛永寺 旧本坊表門 寛永2(1625)年

とはいえ、すっと身を引いた慶喜の知恵と、その慶喜から江戸の町を守る役割を引き継いだ篤姫と和宮の、武家以外の者たちを戦争に巻き込み犠牲にしてはならないという徳川将軍家の一貫した強い意思と、女たちの奮闘で、江戸全体が戦場になることこそ避けられたものの、彰義隊が上野東叡山に立て籠ったのをいいことに、新政府軍はそこに火を放ち、徳川の威光が庶民に親しまれて来た精神的な中枢の寛永寺を破壊しただけではない。



その暴力的なやり方は、東北の、徳川恩顧の諸藩への攻撃ではさらに徹底された。

戊辰戦争の惨禍の以前に、京都はすでに長州藩が起こした元治元(1664)年の禁門の変(蛤御門の変)で、その長州側が敗走する際に放った火が大火災になり、甚大な被害を出している。

今日の京都市の中心市街に明治以前の建物が以外と少なかったり、老舗といっても明治以降創業の店が案外と多いのは、このせいだ。


この時に長州軍を敗走させた京都守護職が、会津藩主・松平容保だった。新政府軍にはその過去の逆恨みもあったのか、上野戦争で美しいものを破壊する快感に「味をしめた」のか、会津藩への攻撃はとりわけ凄まじいものだった。

この会津戦争のあまりものひどさも、福島県以外ではほとんど知られていない。

清水観音堂 寛永8(1631)年


その会津松平家は、四代家綱の代に徳川の治世が戦国時代の雰囲気が残る武断統治から、平和と武家以外の町民・農民の安定した生活を守ることを最優先する文治政治に転換する方針確定に決定的な役割を果たした、あの保科正之の家系である(ただし最後の藩主・松平容保は尾張徳川家からの養子)。

内陣の前には観音経から取られた「慈眼視衆生」
観音菩薩が慈しみの眼であらゆる生命を見つめているとの意
天海の諡号「慈眼大師」もこの一節から取られている

首だけが残った上野大仏が「これ以上は落ちない」というシャレで「合格大仏」になっていることを、寛永寺の関係者はより深い意味を込めて語る。

上野大仏 天保14(1843)年の改鋳修理の頭部のみ現存
唇に朱の彩色、頬に金箔の痕跡が残る

大仏は単に関東大震災で壊れただけではなく、その前に上野戦争で寛永寺が焼き払われ境内地は没収、大仏殿は明治政府に強引に取り壊され、震災後の修理も収入がほとんどない寛永寺には無理、やがて戦時下には真っ先に供出を命じられ、「“敵” にこれ以上はないというほどひどく扱われて来た」、それでも耐え忍び、大仏の顔だけは守り抜かれたことへの、深い思いが、そこにはある。

2016年夏、大仏の顔の上に屋根が設けられた

上野がもうひとつ、新政府にとって極めて都合の悪い場だった理由は、今でも上野東照宮つまり神社と五重塔つまり仏閣の一部の位置関係に、象徴的に見て取れる。


五重塔は東照宮のすぐ側に建っているが、その境内と動物園の敷地が、鉄の柵で強引に区切られている。

上野東照宮 石造明神鳥居 寛永10年(1633年
老中 酒井忠世の奉納 備前の御影石造り

言うまでもなく、元はひとつの境内だ。

これも近代以降の日本人の記憶から抹消された、隠蔽された過去と言えるだろう----神仏にさしたる区別をつけないのが、かつての日本では当たり前だった。

二世広重 東都真景図会 上野東照宮

東照宮自体が寛永寺の一部だし、家康が「東照大権現」という神になったため鳥居が建てられ神社になっているが、日光にある墓に代わって江戸で家康にお参りができる霊廟としての役割は、上野にあった家光の「御霊屋」の寛永寺大猷院殿とほぼ同じだ。

 諸大名がこぞって奉納した石灯籠


増上寺の安国院殿霊廟となると、江戸時代のあいだはずっと仏教の廟所で、芝東照宮と改称されて増上寺から切り離されたのは明治維新の後、神仏分離令を受けてのことだ。


上野東照宮 拝殿正面 門扉には一面仏教の法輪が並ぶ

上野東照宮の拝殿正面の門扉には、仏法を象徴する法輪がずらりと並んでいる。



法輪は日光東照宮にも随所に配されているし、こちらの境内には仏塔である五重塔が今も同じ境内にちゃんと立っている。


上野東照宮 黄金殿 拝殿より本殿 典型的な権現造り
拝殿と本殿をつなぐ幣殿


神社である日光東照宮と仏教の堂舎である日光山輪王寺の大猷院殿では、上野東照宮と同じ「権現造り」の拝殿・幣殿・本殿を中心とする建物の構成はほとんど同じだ(色の使い方は黒が多い大猷院殿が地味ということになっている)。

輪王寺大猷院殿 拝殿
狩野探幽による獅子の障壁画は日光・上野の東照宮と共通
大猷院殿拝殿 折り上げ格天井
幣殿 本殿
日光東照宮 唐門と拝殿 寛永13(1636)年

逆に寛永寺や増上寺にあった徳川将軍の霊廟も、仏教施設であっても、明治以降全国統一的な神社の構造として普及した権現造りだったし、同じように権現造りの寺院建築には、東京都内ならたとえば雑司ヶ谷の鬼子母神(法明寺鬼子母神堂・今年重要文化財に指定)がある。

法明寺鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神)拝殿 元禄13(1700)年
黒漆塗りに金を豪華に配した本殿 寛文4(1664)年
本殿内部 折り上げ格子天井
広島藩主松平安芸守の正室による造営
幣殿(相の間)の装飾

…と言うより、現代では神社の基本的な社殿構成と思われている「権現造り」は、そもそも「権現」は仏教概念だ。

上野東照宮 本殿 幣殿 拝殿 慶安4(1651)年

神仏分離令で改称されるまでは根津神社は「根津権現」だったし浅草神社は「三社権現」、家康は「東照大権現」、奈良の春日大社なら、歴史的には「春日権現」ないし「春日大明神」と呼ばれていた。仏が日本のために現れた特別な形がカミ、つまり「権現」という考え方だ。

拝殿より本殿 透塀が明るいのは西陽が金箔に反射しているから

日本人本来の意識のなかでは、「神仏習合」どころでは済まないか、むしろ発想が逆なのかも知れない。神仏は元から漠然として同じもので、カミガミへの信仰が仏教の一部に取り込まれて来たのが、本来の信仰の形だった。

西陽に照らされる本殿背面の擬宝珠

そこを仏と神を無理矢理に分化して「神道」なる事実上新たな宗教を作ろうとしたのが、明治維新政府の断行した神仏分離令と、仏教排斥の廃仏毀釈運動だった。

天皇の祖先神になる天照大神(アマテラス、伊勢神宮)を最高神とする「国家神道」という、いわば明治起源の新しい宗教の誕生以前には、天皇家もずっと仏教に帰依して来たし、その天皇家が日本の仏教のなかで大きな役割を果たして来た。

寛永寺 皇室を表す菊紋が配された旧 本坊表門 寛永2(1625)年 

多くの天皇は退位後に出家して法皇となり、後亀山法皇創建の南禅寺のように天皇・上皇が作った寺社は多く、寛永寺や日光山輪王寺にしても門跡寺院、つまり皇族がそのトップを務めて来たことも、繰り返し述べて来た通りだ。

旧 本坊表門脇に立つ門跡寺院だったことを示す石碑

飛鳥時代の厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)は明治の皇国史観の流布以前、ずっと仏教の篤い信仰対象だった。

斑鳩・法隆寺の東院伽藍(太子の屋敷があった斑鳩宮跡地)夢殿の救世観音像や、法隆寺のすぐそばにある中宮寺門跡の菩薩半跏思惟像は、共に聖徳太子の生前の姿を写したものだという伝承がある。

中宮寺門跡(奈良・斑鳩)本尊 如意輪観音半跏思惟像
飛鳥時代7世紀 聖徳太子の写し身として信仰されて来た

半跏思惟像は通常は弥勒菩薩を表すが、中宮寺では如意輪観音として伝えられて来ているのも、太子が観音菩薩の生まれ変わりとみなされて来たからだ。こうした太子信仰はその没後まもなくか、息子の山背大兄王が蘇我氏に滅ぼされてすぐ後に遡ると考えられる。

明治21年文化財調査写真 撮影 小川一真

公的な歴史で聖徳太子が神格化される基になったのは「日本書紀」の記述だが、文面を見る限りでは実際の政治的な役割ははっきりしない。十二条憲法は飛鳥時代の文章とは考えにくく、それ以外では推古帝に法華経の解説を講義したこと以外、とくにその業績の記述がない。

恐らく太子、というか厩戸王が実際に果たした役割は推古帝の時代における仏教の導入普及に関することで、没後まもなくは仏教的な信仰対象であったのを、「日本書紀」が踏襲して政治にも関わった(「摂政」)ことにしたのではないか、と考えるのが自然だろう。

ちなみに中宮寺も門跡寺院になり、ながらく内親王(皇女)が住職を務める尼寺だった。

平安時代に空海と最澄が唐から密教を導入すると、日本のカミガミは理論的にも密教の体系化された世界観に取り込まれ、「本地垂迹説」つまり日本のカミガミは如来や菩薩が日本の衆生の救済のために現れた姿、その「権現」とみなす教義化がなされる。

小島荒神図 室町時代15世紀
土着神だが密教の法具を持って表されている

今日でもチベット密教の転生仏・活仏信仰(たとえばダライ・ラマ14世はダライ・ラマとしては14回目の転生、観音菩薩の生まれ変わりとしては32世になる)がよく知られているが、同じような考え方で仏が日本のためにカミとして衆生救済のため現世に現れる、その日本限定のカミとしての姿が「権現」で、その本来の仏を本地仏と言う。

山王本地仏曼荼羅 南北朝時代 霊雲寺蔵

ダライ・ラマの本来が観音菩薩とみなされるように、太子信仰であれば聖徳太子の本地仏は救世観音か如意輪観音だ。今日でも法隆寺や大阪の四天王寺では、聖徳太子を「本地・如意輪観音」として祀っている。

春日宮曼荼羅 鎌倉時代 南市町自治会蔵
下から一の鳥居 左に東大寺 春日権現と若宮
その上 御蓋山の中腹に本殿四柱と若宮の本地仏が並ぶ

あるいは春日権現社(現 春日大社)なら本殿第一殿の武甕槌命(タケミカヅチ)は釈迦如来ないし不空羂索観音を本地仏とし、第二殿の経津主命(フツヌシ)は薬師如来、第三殿の天児屋根命(アメノコヤネ)は地蔵菩薩、第四殿の女神、比売神(ヒメガミ)は十一面観音で吉祥天の姿をとることもあるとされ、また若宮の天押雲根命(アメノオシクモネ)は文殊菩薩と同一視されて来た。

春日大社の鹿座仏舎利 17世紀
鹿に乗って春日に鎮座した武甕槌命の本地仏は釈迦如来

伊勢神宮の主祭神の天照大神は太陽神なので大日如来、つまり密教世界観の中心となり、そこで日本のカミガミの体系のなかでの最高神ということになった。

「権現造り」の構造は、こうした本地垂迹説の「権現」の考え方を反映したものだ。

根津権現 拝殿 宝永3(1706)年 卍やゾウ、獅子はいずれも仏教の意匠
権現造りの拝殿から本殿を見る
根津権現(根津神社)本殿 徳川綱吉造営

カミがそこにいるとされる本殿を直接拝むのではなく拝殿があって本殿に宿るカミが拝殿によって表象され、その双方が廊下で繋がれることで、分離されると同時に一体にもなってもいる。

上野東照宮 幣殿

神仏分離令以前には、カミを祀る社に本地仏、つまりそのカミの本来の姿とされる仏像があるのも普通だったし、優れた仏像も多かった。

薬師如来座像 9世紀平安時代(国宝 奈良国立博物館)
京都東山・若王子社の本地仏 神仏分離令で流出後、国に買い取られた

こうした本地仏や神宮寺は神仏分離と廃仏毀釈運動で真っ先に標的にされ、多くの優れた仏像が破壊されたり、海外に流出している。



今日、美術館・博物館の収蔵品になっている仏像の多くも、神社の本地仏だったり、神社内の仏殿(神宮寺)が破壊され、安置される場所がなくなったものだ。



上野東照宮にもかつては神宮寺として薬師堂があり、薬師瑠璃光如来像が本尊として祀られていた。

薬師瑠璃光如来 日光菩薩 月光菩薩 旧 上野東照宮本地仏

神仏分離例で薬師堂は取り壊され、この薬師瑠璃光如来立像と脇侍の日光・月光二菩薩は東照宮から追い出され寛永寺が引き取り、現在はかつて大仏と大仏殿のあった丘の上のインド風の仏塔(大仏パゴダ、昭和42年 大成建設が寄進)の中に安置されている。

昭和42年に大成建設の寄進で建立されたパゴダ
東照宮の本尊だった薬師三尊を安置する

高野山の奥ノ院にある家康の霊廟にも薬師堂が付随していおり、東照神君の本地仏は薬師如来、つまりカミとしての家康は、薬師如来の転生した姿(「権現」)ということになる。

徳川家康像 東照神君としての神像の形式で描かれている

大仏殿があった丘の裏手、上野精養軒のそばには今も寛永寺の鐘楼があり、「時の鐘」が午前と午後の6時と正午に時を告げている。

かつて江戸市中に広く時を報せる役割を持っていた鐘だ。

寛永寺 時の鐘 江戸市中に時を告げるのも寛永寺の役割だった

明治維新で1人の天皇の在位期間中はひとつの元号になり、太陽暦が採用されるまでは、元号を決めることと、農業が基幹産業であれば決定的に重要だった暦を定めて発行することは朝廷、天皇のみがその権限を持っていた。

つまり空間を支配し政治的に統治するのは将軍家の役割でも、時間を支配し続けていたのは天皇であり、その天皇が象徴的に支配する時間を報せる役割として鐘を鳴らすのが仏教寺院だった。

天皇の祖先神の天照大神を最高神とする「神道」を明治時代に仏教から切り離して「国家神道」としたことは、天皇家の伝統を強引に仏教から分断することでもあったし、その「神道」で我々が伝統だと思っている礼拝形式は、ほとんどが一部の寺社の風習を明治政府が全国的な統一規則にしたか、明治時代に新たに作り出されたものだ。

天皇が行う宮中祭祀でさえ、ほとんどが明治以降に「復元」というか、要するに新しく作ったものだ。

根津神社 唐門 根津神社の社殿には随所に卍が配されている
神社なのに卍だらけの根津神社の装飾

神社に神主や白小袖に赤袴の巫女さんがいるのも、江戸時代までは仏教僧の別当がいた。

このように神仏習合がまったくの当たり前だったことが、近現代の日本人のほとんどには逆に奇異に見えてしまい、わざわざ「神仏習合」と言わなければこうしたことが理解出来ないほどに、日本人の信仰意識が暴力的に変えられたのが、明治維新の神仏分離と廃仏毀釈だった。

上野東照宮参道の石灯籠 天台宗中興の祖・良源の紋

五重塔が残されただけでも、上野東照宮と寛永寺は、まだ良かったのかも知れない。



例えば鎌倉の鶴岡八幡宮では、明治に仏塔・宝塔などの仏閣様式の建造物をすべて取り壊し排除する、境内の大改造が強行され、「八幡大菩薩」だった神号まで「八幡神」に変えられてしまった。

戦のカミとして神格化された第十五代応神天皇は、平安時代以降は菩薩の称号で呼ばれ、神像も仏僧の姿(僧形八幡)が普通だったのだ。

僧形八幡神坐像 国宝 薬師寺
平安時代寛平年間(889~898)

本来は江戸から全国に広がる街道口にあった江戸六地蔵のうち、千葉街道に通じる深川の永代寺にあった銅造の大きな地蔵尊が今では上野の浄名院(へちま寺)にあるのも、永代寺が富岡八幡宮に併設された寺院で、神仏分離令に基づき廃寺となったからだ。

広重 名所江戸百景 深川八まん山ひらき

鎌倉の鶴岡八幡宮と同様に八幡大菩薩、明治以降の名称では八幡神が祀られた場所、つまり天皇の神格化であるだけに、天皇中心の国家神道という新しい国家宗教を作ろうとしていた時期には、仏教要素の排除がとくに徹底されたのかもしれない。

かつて深川八幡の神宮寺・永代寺にあった地蔵菩薩
江戸六地蔵のひとつ 現在は東叡山の子院浄名院境内に安置

神仏分離令と廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初期に、奈良で藤原氏の氏神の春日大社とワンセットの菩提寺だった興福寺のたどった陰惨な運命はよく知られている。寺領どころか境内地も没収され、多くの堂舎や寺宝が失われた。

興福寺 五重塔(右)東金堂(左)室町時代の再建
興福寺東金堂破損仏記録 明治21年 小川一真撮影

50銭で売りに出された五重塔など、現代ではほとんどが国宝指定されている多くの文化財は、いずれも奇跡的に破壊を逃れたものだ。

アメリカのメトロポリタン美術館やボストン美術館には、平安朝の天台宗や浄土信仰の須弥壇がまるごと収蔵・展示されていて驚かされる。

斜面に一面つづじが咲く晩春の清水観音堂

別に略奪されたものではない。来日して日本文化を愛したアメリカの実業家や富豪が、神仏分離令と廃仏毀釈で明治政府が破壊しようとした日本の文化財を保護するためもあって購入したものなのだ。

紅葉に映える秋の清水観音堂
東叡山寛永寺 清水観音堂 寛永8(1631)年 秋

もう一点、これも通俗日本史観では見落とされがちだが、僧侶はかつての日本で最高級の知識人であり、政治家としての役割も絶大だった。

木造 天海僧正坐像 喜多院慈眼堂 寛永20(1643)年
天海ば没する数ヶ月前に生き写し像として作られたと言われる
慈眼大師(天海)毛髪塔 東叡山寛永寺

徳川の幕府による統治理念と制度設計、その運用の基本論理を作り上げ、250年の平和統治の基礎を確立したのは「黒衣の宰相」として恐れられた以心崇伝(金地院崇伝)であり、天海だった。

狩野探幽 以心崇伝像 南禅寺金地院蔵

鎌倉時代以降の日本では、とくに禅僧は中国の文化や文献、制度に詳しく、武士と強く結びつき、その政治コンサルタントになり、外交官でもあり、教師・指導者でもあった。



戦国時代には大きな武将となると身近に禅僧を置いて政治顧問や子弟の教育を頼むのが当たり前だった。

武家諸法度などの徳川の法制度を作り上げた南禅寺の以心崇伝も、臨済宗の高僧だ。

「黒衣の宰相」として恐れられた崇伝は、外交でも活躍して幕府を支え、家康は対馬の宗家を仲介役に、秀吉の朝鮮出兵で国交が断絶していた李氏朝鮮との正式国交も回復することができたし、この時代には明や、タイのアユタヤ朝などの東南アジア諸国とも、交易が盛んになった。


清水観音堂 華麗に装飾された内陣
京都の清水寺に倣った懸造りの舞台

その崇伝が起草と制定に関わった武家諸法度では、一方では諸藩諸大名が貿易外交を直接行うことが禁じられ、外国との付き合いはすべて幕府の許可を得て、幕府を通じて行われることになった。さらに鎖国令と吉支丹(切支丹)禁止令も、以心崇伝が執筆している。

この外交・通商政策が苛烈な宗教弾圧を含み、悲惨な犠牲も少なくなかったのも確かだ。

だが一方では武器、特に国産が不可能な火薬(硝石は日本では産出せず、輸入に頼るしかなかった)が諸大名に渡らないようにすることで、内乱が防ぐ手段でもあった。

オランダ東インド会社の紋章が入った伊万里焼き

対ヨーロッパ貿易は確かにオランダ一国に限定されたが、「鎖国」という言葉のイメージとはかなり反することとして、オランダを通して輸出された日本の陶磁器や漆器は、折しも中国で明から清への王朝交替で景徳鎮などの陶磁器産地が一時衰退したこともあり、ヨーロッパで王侯貴族や有力なブルジョワ層を中心に大流行になっている。

輸出用の柿右衛門様式の伊万里焼 18世紀

幕府とオランダ東インド会社が独占した貿易で、江戸時代の日本はそうとうに儲かっていたのだ。それが手工業の発展を牽引しただけでなく、幕府にとっては諸藩の反乱の防止にもなり、国内政治を安定させ、財政の上でも大きな役割を占めていた。


しかし明治新政府が急激な西洋化を目指す一方で「武士道」の国としての自己イメージを追及し、天皇とその祖先神の天照大神(伊勢神宮)を中心に再定義されたカミ信仰を「神道」と称して国家宗教にしようとしていたなかでは、実際の史実では坊主がこんなに大きな顔をしていて、武家の政府であった幕府が殺生戒に忠実で、武士による殺生を戒める絶対平和主義の方針を貫くことを徳治とみなし、庶民もそんな泰平の世をけっこう楽しんでいたなどということは、おおいに都合が悪かったのだろう。

常憲院(五代綱吉)殿霊廟 勅額門 応永6(1709)年

それに僧侶や宗教との関わりでいえば、西洋近代を模倣し西洋に認められる国になろうとした明治政府にとって、もっと受け入れ難かった歴史の痕跡が、上野にはある。



東叡山寛永寺は江戸城から見て鬼門の方角にあたり、京都と比叡山の関係に見立てた鬼門封じになっているのは、何度も触れて来た通りだ。



恩賜上野公園 さくら通り中程 摺鉢山(元は古墳)のふもと
広重 東都名所 上野東叡山の花見

明暦の大火後に神田明神が今でいう大手町から移転した高台にある現在の境内も、やはり千代田の城から鬼門の方角に当り、つまり江戸総鎮守と東叡山で二重の鬼門封じになっていた。




今は新宿四丁目、新宿御苑と新宿駅の間にある護本山天龍寺は、以前は牛込納戸町・細工町に置かれ、江戸城の裏鬼門守護の役割で建てられた寺だった。
護本山天龍寺 葵紋の配された山門は昭和10年代に
1940年東京オリンピックを当て込んで建てられたもの
新宿御苑の近くには、新宿二丁目に江戸六地蔵のひとつを祀る大宗時もある。
内藤新宿(現新宿二丁目)大宗寺 銅造地蔵菩薩坐像 正徳3(1712)年 
新宿は中山道(木曽街道)の最初の宿場で、江戸六地蔵がいずれも街道口に置かれたのも、江戸を発つ旅人が道中の安全を祈り到着する者が旅の無事を感謝するだけでなく、江戸を外的から守護する意味があった。 
江戸六地蔵之内 巣鴨 医王山真性寺 銅造地蔵菩薩坐像 正徳4(1714)年
また家康が日光に埋葬されることを遺言したのは、北斗七星と北極星への北辰信仰と、中国の儒教伝来の君主南面思想との関連があるとも言われている。 
修験道の霊場として知られていた日光山は江戸のほぼ北にあたるが、たとえば唐の都長安やそれを模した平城京、平安京が典型なように、儒教の論理では君主は都の最北に座し、夜の天空に不動の北極星を背に、南に見える土地と人民を統治するとされた。 

旧江戸城本丸 明暦天守台
君主南面との関連性は分からないが、江戸城の天守閣も最初は本丸の中程にあって表御殿の一部だったのが、家光の代に建てられた寛永天守は本丸御殿の北端の、大奥のさらに奥にあった。 
明暦の大火でこれが焼失し、ほぼ同じ位置に天守台までは造営されたが、四代家綱と叔父で側近の保科正之が江戸市街の復興に幕府の財政出動を優先したため、天守の再建はされなかった。 
以降、江戸城は天守のない城であり続けた。 
今も残る明暦の天守台の上に天守が建ったことはなく、そのことこそが徳川の統治理念の表象だった。なのに昨今一部の政治家などが江戸城天守閣の再建を、などと言っているのはまったくのナンセンスだ



こうした中国由来の方位学(今で言ういわゆる風水)に基づいた都市設計は、西洋起源の近現代の価値観では「迷信」となり、理解されがたいかも知れないが、元はといえば古代中国の天文学だ。

開国と明治維新以前の日本人にとって、方位の吉兆などを考えることは信仰というよりも生活の一部だった

不忍池弁財天 初詣で

だいたい、今でも日本人は、占いやお守り、縁起かつぎが大好きな民族だ。

北斎 弁天詣で
清水観音堂の舞台より弁財天
広重 江戸高名会亭尽 下谷広小路
奥に不忍池と当時は入母屋作りだった弁天堂
上野花園稲荷隣の韻松亭から不忍池弁天堂を臨む
渓斎英泉 江戸八景 不忍暮雪
昭和33(1958)年再建の弁天堂 (六角堂)
広重 東都名所 上野山王山 清水観音堂花見 不忍之池全図 中島弁財天社
広重 江戸名所 不忍池
明治の神仏分離令で鳥居が取り除かれた
広重 江戸高名会亭尽 池之端

こう言ってしまうとますます、鎖国政策もあったことだし、江戸時代は遅れた、迷信深い時代だったとみなされかねないかも知れないが、これも多分に明治以降の偏見だ。

小田野直武 不忍池図 18世紀

実際には、こと享保の改革で蘭学研究が公式に解禁されて以降、出島を通して西洋の先端知識や技術は積極的に輸入されている。



吉宗が学門を奨励したのも五代綱吉以来の方針の継承だったし、武家に学問をやらせようとしたのは元はといえば初代家康に遡ることなのだが、西洋渡来の学門の研究が解禁されると、たちまち江戸では解剖ブームが起こっている。

解体新書 前野良沢・杉田玄白訳 安永3(1744)年

それも医者がさっそく飛びついただけでなく、かなり精確な人体解剖人形が両国や浅草の見世物小屋で人気を集めていた。

見世物小屋用の人体解剖人形
医学教育用

シーボルトの鳴滝塾も人気を集めたし、医学は江戸時代の鎖国のあいだに飛躍的な発展を見せた。

子宮のなかの胎児が頭を下にしていることが発見されたのは江戸時代の日本だし、幕末には華岡青洲による世界初の全身麻酔の外科手術も行われた。

またここでさんざん紹介して来た風景浮世絵、とくに北斎や広重の作品に欠かすことができない藍色は、天然の植物由来の藍ではない。ベロ藍(「ベルリン」の訛りか?)と呼ばれた、オランダ経由で輸入されたドイツ製の化学染料だ。

北斎 富嶽三十六景 東都浅草本願寺 濃さの異なるベロ藍の複数の版で構成
広重 名所江戸百景 永代橋佃島

こうした浮世絵が幕末の開国で西洋に輸出され、その遠近法の自由自在な使い方が西洋絵画史、とくに印象派の誕生に強い衝撃を与えることになるが、空間遠近法はもともと江戸時代の絵師たちが出島経由で輸入された西洋絵画やその理論書から学んだものだ。



鎖国政策それ自体も、キリスト教の禁止弾圧は大義名分の名目で、実際の目的は幕府が対西洋貿易を独占することで、諸大名が貿易で財力をつけ、とくに火器・火薬(硝石は日本では産出しない)を輸入するのを防ぐこと、つまりこの政策もやはり、内乱と殺人の防止の意味が大きかった。 
戦国時代の末、日本には15万梃の火縄銃があったと推計される。それが徳川政権の成立と相前後してほとんどなくなっている。国産が圧倒多数だった火縄銃の製造拠点だった堺では、その技術を活かして包丁の生産が発展した。 
キリスト教禁令も、近年の研究では島原の乱以後かなり融通無碍に運用されていたことが指摘されている。信徒が見つかれば処刑しなければならないので「見つけないように」していた(いわば見て見ぬフリ)のが実態で、信者だと分かっていても形だけ踏み絵を踏めば咎めはなく、なるべく庶民を殺さない幕府の方針が貫かれていた。 
なお「切支丹」という表記は八代吉宗以降で、元は「吉支丹」だったのが「吉」の字が吉宗の名と重なるので変更された。



浅草には天球儀が設置された天文台があったことも、北斎が描いている。

北斎 富嶽百景 鳥越の不二(浅草天文台)

こうした近現代科学の先端知識が、現代では迷信とされる縁起担ぎの文化と衝突も矛盾もなく受容されていたのが、江戸時代の日本だった。





ちなみに金龍山浅草寺は江戸でもっとも古い仏教寺院で、家康の江戸入府以来、幕府の庇護も厚く一般の信仰も集めて栄えた。火除け地となった両国橋の両岸に仮設小屋が立ち並んだのと同様、浅草も境内西の奥山や参道両脇の仲見世を中心に、娯楽文化が盛んな歓楽街になった。  
広重 東都名所 金龍山奥山花屋敷
この寺にも、江戸城を守護する方位学的な意味があったと考えられている。 
広重 江戸名所 金龍山之図
なお戦災で焼失するまで江戸、そして東京の庶民に親しまれた巨大な本堂は、三代家光の造営だった。 





日本橋かいわいのにぎわい 広重 名所江戸百景 日本橋雪晴 安政3(1856)年
右奥に見える江戸城には櫓は無数にあるが天守はない

徳川の幕府が上野を江戸の鬼門封じとして「聖地」に整備したのを、うかつに「迷信」だとは片付けられないことはまだある。

金箔張りの本殿の照り返しで照らされる西側の透塀

明暦の大火の反省から、家光の代までは戦国時代的な発想で東からの侵入を防ぐため橋がほとんどなかった隅田川に、火災時の避難路として両国橋と永代橋が建造され、両岸が火除地になったことについては先に述べた通りだが、東叡山につらなる表参道を下谷広小路(現在の上野広小路)という幅の広い道路として幕府が整備したのも、延焼防止策でもあった。

広重 名所江戸百景 下谷広小路
右の店は現在の松坂屋 左奥の緑が東叡山

これも一般的な(通俗的な)歴史観では無視されがちな幕末の大事件に、安政2(1855)年の江戸の安政の大地震がある。実はマグニチュードでは関東大震災より大きな直下型地震だったと推定されている(しかも前後して全国各地で大地震が起こっている)。

広重 名所江戸百景 上野山した
現在の京成上野駅のやや先 五条天神社の鳥居が見える

関東大震災後、夏目漱石門下の随筆家で俳人にして物理学者の寺田寅彦が、震災の被害の研究に熱中するうちに、近代的な消防設備などなかった安政の大地震の方が被害が遥かに小さかったこと、また関東大震災でも明治以降も広小路などの江戸時代の街割りが維持されていたところは延焼が食い止められていたことに気付く(寺田寅彦『日本人の自然観』)。

対照的に、両国橋の両岸の火除地は再開発で建物が密集していて、関東大震災で最大級の火災による被害を出していた。

細田栄之 上野三枚橋之図

現在の上野公園広小路口 かつての三枚橋辺り
かつての寛永寺惣門前
惣門(通称・黒門)の位置を示す噴水
宮川長亀 上野観桜図屏風 18世紀(部分)
寛永寺惣門(黒門)の描写 背後に清水堂
上野戦争直後 焼け残った寛永寺惣門(黒門)


夜には色付きのイルミネーションも
彰義隊供養墓の説明板に描かれた黒門での戦闘
彰義隊供養墓 かつての山王社の跡地

だが上野には、こうした徳川の痕跡が隠されたままになっているだけでなく、もっと正体の分からない、日本史をさらに遡る未知の、語られざる、近代以降に忘れられた「伝統」の古層がある。

上野東照宮 神木 樹齢600年の大楠

たとえば上野東照宮の拝殿の脇の透塀の外には、樹齢600年以上という大楠が神木として祀られている。つまり、東照宮の創建より200年以上遡るはずだ。創建時にすでに樹齢200年の大木があったから神木にしたのか、神木があるからここに家康を祀ったのかは判然としない。

ちなみにその奥、本殿の脇には、かつて江戸城大奥に取り憑いて悪さをしたとされる狸を祀る祠もある。

上野東照宮 本殿脇 狸を祀った祠
上野東照宮 拝殿と透塀と背後にご神木


不忍池に面した斜面には二つの神社があるが、そのひとつの起源は、寛永寺や東照宮よりも遥かに古い。


五条天神社、別名・下谷天満宮で、天神ないし天満宮と言いながら、祭神は出雲の大己貴命(オオナムチノミコト、大国主【オオクニヌシ】、大黒天)と少彦名命(スクナビコナノミコト、恵比寿天)だ。

創建は伝承によれば日本武尊(ヤマトタケルノミコト)である。今では医学の神様になっているが、天神社になったのは寛永18(1641)年に菅原道真を祀る相殿が追加されてからだ。

五条天神社


この五条天神社は、元は境内の奥、参道を挟んで大仏の向かい側の摺鉢山に鎮座し、清水観音堂も最初はここに建てられていた。



元禄時代に根本中堂の造営と中心伽藍が整備されたのに伴い、五条天神社が現在地に移転したので、今ではそれと併設されたかっこうになっているのが忍岡稲荷だ。

つまりまず稲荷社があってその隣に五条天神社が引っ越して来たことになる、その忍岡稲荷、またの名を穴稲荷、現在の呼称では花園稲荷の起源は、さらに謎めいている。


天海の弟子・晃海が夢のお告げを受け、洞窟のなかに古い稲荷社の痕跡を見つけて復興したと言われるが、その夢枕に立ったのが寛永寺の創建で上野の山林を追われた狐の怨霊だったとも言われるのだ。

「穴稲荷」ないし「お穴様」

稲荷社の痕跡を見つけた洞窟は元は狐の巣穴で、穴稲荷の建立は殺された狐の霊魂を慰めるためという説もある。

現在の、外にある社殿は明治6年に民間有志の手で再興されたもので、元の穴稲荷のあった場所には「お穴様」という祠がある。


この境内は、上野戦争で追いつめられた彰義隊が最後に立て篭もり、多くの隊士が自決した場所だった。

花園稲荷 社殿は明治6年に民間有志により復興

ちなみに誤解なきよう念のため、稲荷大明神はあくまで農耕・稲作の神である。キツネはネズミを食べることから米を守るとみなされ、稲荷神の眷属になった。


だが稲荷社にはキツネがつきものであることがあまりに定着し、いつしか眷属であり稲荷神を守る役目だったキツネが稲荷神と同一視されるようにもなった。穴稲荷の伝説はその好例だろう。

歌川芳員(三代目歌川国貞)東都名所 不忍池
背後の高台に穴稲荷と五条天神社のある丘
五条天神社境内より不忍池
五条天神社境内
北寿 東叡山麓不忍池 弁財天之図
アントニオ・フォンタネージ 風景(不忍池) 明治9~11(1876~78)年

徳川以前から上野にあった聖地の痕跡の極めつけとして、かつての寛永寺の参道(今のさくら通り)を挟んで大仏の向かい側、元は古代から五条天神社があったとされ、寛永寺の開山後は清水観音堂が最初に建てられた摺鉢山は、実は古墳であることが判明している。

摺鉢山古墳


近現代の考古学調査では全長70m〜100mと推計され、出土した埴輪片から5世紀の前方後円墳とみなされているが、石室などが早くに失われていたことから被葬者などの詳細は分からない。

つまり五条天神社は古代の未知の王族か有力者の墓に祀られた神社であり、清水観音堂も最初建てられたのはその古墳の墳丘だった。

上野はただ、千代田の城からみて鬼門に当たるから鬼門封じとして徳川の聖地が設けられただけなのだろうか?

元は摺鉢山に建てられた清水観音堂 元禄7(1694)年に現在地に移転 

家康の江戸開府の遥か以前に遡る、ここがなんらかの宗教的というか霊的な意味を持った場所だった痕跡がそこかしこに見えるが、正体はさっぱり分からない。

渓斎英泉 東都花暦 上野清水之桜


そういえば東京芸術大学の敷地も、掘れば古代の遺跡らしき断片がいろいろ出て来るらしい。

なお増上寺でも、旧境内の現在の芝公園内からは縄文時代の丸山貝塚が発見され、丘が5世紀頃の建造と見られる丸山古墳だったと分かっている。

旧安国院殿(現・芝東照宮)と台徳院殿の奥ノ院(二代秀忠の墓所)の間に位置するこの前方後円墳は、全長106mと推定される。

芝丸山古墳 墳丘の上 後円部より前方部を臨む
後円部
後円部の昇り口

しかし江戸時代にはすでに後円墳丘が切り崩されていたらしく、埋葬施設が完全に失われており、やはり詳細は分からない。

丸山古墳の墳丘斜面に祀られた円山随身稲荷大明神
家康を祀る芝東照宮(旧 増上寺安国院殿)は丸山古墳の麓にある

上野の東にある浅草の、金龍山浅草寺(現在は独立宗派だが江戸時代には天台宗)の過去と来歴も、さらに謎めいている。

広重 東都名所 浅草金龍山全図
かつて五重塔は現在とは参道を挟んで反対側にあった
本堂の向こうに三社権現 左端の稲荷社は明治維時代に撤去

伝承では推古天皇36(628)年の創建、つまり聖徳太子の時代にまで遡る。漁師の網に黄金の観音像がかかり、この地方の豪族が屋敷を寺にして祀ったのが起源とされる。

三社権現(浅草神社)拝殿 慶安2(1649)年徳川家光造営
祭神は浅草寺の観音像を見つけた漁師兄弟とそれを祀った豪族の
三柱 この社殿造営に際して別にあった東照宮も合祀
広重 名所江戸百景 吾妻橋金龍山遠望

明治時代に神仏分離令に基づき三社権現(浅草寺の創建に関わる漁師兄弟と豪族の三人を祀る神社で、本来は寺と一体・現在の浅草神社)と浅草寺を分け、本堂裏にあった稲荷社を撤去する工事が行われた際に、古代の石棺が出土した。

浅草寺 本堂裏手から発掘された石棺

今は伝法院庭園に安置されている。つまり、浅草寺もまた、古墳に建立された寺だったのだ。


金龍山浅草寺伝法院(本坊) 庭園 小堀遠州 寛永年間(1624〜45)


上野の摺鉢山や芝の丸山古墳もそうだが、関東には実は大きな古墳が少なくない。

大和(ヤマト)王権中心の歴史観ではなかなか説明がつかない古代史の、あまり知られてもいない、未解明で謎の多い事実だ。

現在の金龍山浅草寺 ほぼ全伽藍が戦災で焼失 戦後の再建
広重 東都名所 浅草金龍山年ノ市 左手前が本堂 右に楼門
広重 江戸名所 浅草金龍山之図
当時は年に何度か楼門に登ることが出来た

この正体不明の古墳の跡にある浅草寺の、本尊の一寸八分の黄金の観音像は絶対秘仏だ。明治初期の文化財調査で一度だけ人目に触れてスケッチも残されているが、その調査官達が変死したらしい、という妙な都市伝説まである。

浅草寺寛文縁起絵巻より 本尊感得の図



ちなみに見たら死ぬという物騒な伝承がある絶対秘仏では、他に京都の東寺西院・御影堂南面に安置されている、空海自身が彫ったという不動明王像が有名だ。 
石川県法住寺 木造不動明王坐像(重文)鎌倉時代14世紀
東寺西院御影堂の空海作「見たら死ぬ」絶対秘仏の模刻とされる
また法隆寺西院夢殿の本尊で、聖徳太子の生き写しとの伝承もある救世観音像も、明治時代にフェノロサが再発見するまでは厨子を開けるだけで天変地異が起こるとされた絶対秘仏だった。フェノロサが強引に取り出させたときには法隆寺の僧侶が天罰を恐れて逃げ惑ったという。  
法隆寺夢殿 救世観音菩薩立像 飛鳥時代7世紀
明治21(1888)年 文化財調査写真
長野県の善光寺の本尊の阿弥陀三尊も6世紀に中国大陸ないしインドから渡来したとされ、1000年以上絶対秘仏で、五代綱吉の時に柳沢吉保が厨子ごと重さを計って検分している。




金龍山浅草寺本堂内陣(戦災で焼失後再建)
見たら死ぬと言われる絶対秘仏の一寸八分の本尊を納めた厨子

天海は、ただ江戸城の鬼門封じに当たる位置だからと言うだけで、上野を聖地化したのだろうか?

葛飾北斎 画本東都遊び 浅草祭

むしろ摺鉢山のあった上野や、絶対秘仏の神秘的な伝説があってやはり古墳だった浅草、芝の丸山古墳などとの位置関係から、太田道灌が江戸城の場所を決め、徳川家がそれを発展させた、と考えた方が、時系列的には納得が行く。

北斎 浅草観音雷神門
渓斎英泉 蘭字枠江戸名所 江戸金竜山浅草寺観世音境内図
広重 六十余州名所図会 江戸・浅草の市

なお浅草寺は初代家康が江戸開府にあたり崇敬・保護した寺院のひとつで、没後には東照宮も境内に設けられ、家光が三社権現の新たな社殿を造営した際にそこに併合・合祀されている。 

浅草寺二天門/旧・浅草東照宮隋身門 元和4(1618年)
慶安2(1649)年の三社権現造営に併せて再建された可能性も

また寛永寺の建立後は、その貫主(皇族が務める輪王寺宮)が隠居後は浅草寺の伝法院に住むことも多かった。

浅草寺伝法院庭園 経文を記した古い石碑や墓石などを配した経ケ島

明暦の大火後に千代田城のもうひとつの鬼門封じとなった江戸総鎮守の神田明神も、その正体は現代人からすれば理解し難い。そのもっとも重要な祭神は明治以降、ごく最近、昭和天皇が崩御して平成になるまで、公式には排除されていた。

広重 東都名所 神田明神東阪

明治以降100年ほどは大己貴命と少彦名命の二柱だけが公式の祭神で、この二人の出雲系のカミは仏教伝来後は大黒天と恵比寿天と同一視されることから、神田明神は今では商売の神様として初詣で客も絶えないのだが、商業のカミでなく江戸の総鎮守であった神田明神のカミとは、平安時代に朝廷に反逆し関東に独立国を作ろうとした異端の英雄、平将門なのだ。

広重 江戸名所 神田明神

謀反人として討ち死にした将門の首は平安京に運ばれ、都大路に晒された。伝説ではその3日目に「俺の身体はどこだ」と首が大声を上げ、宙空に舞って東へと飛んで行ったとされる。その首が力つきて落ちた場所が今も将門の首塚がある大手町、江戸城の三ノ丸大手門の門外すぐで、当時は海岸の丘だった(そこから東、今の東京の中心部の大部分は、徳川の大規模土木工事による埋め立て)。

大手町の平将門首塚 蓮阿弥陀仏の板碑は徳治2(1307)年
将門の怨霊を封じこめる意味もあるように見える

この首塚が祟るので、14世紀に蓮阿弥陀仏の称号を諡って神格化というか仏とみなし(どちらも過去の日本人にとっては、同じこと)、神田明神にカミとして祀ったと言われるが、俗説では神田明神の起源そのものが首を失った将門の「からだ」が訛って「かんだ」になったもので、元の境内は将門の首なしの遺体が放置された場所だったとも、首を斬られた遺体がそのまま歩いて行って倒れた場所だとも言われる。


こうした伝説が史実なのかどうかが重要なのではない。

過去の日本人がこうした話を喜んで来たことこそが肝心なのだ。

明治新政府が朝敵でしかも魔性の逆賊だった将門を神田明神の祭神から排除したのも、近代の理屈ではよく分かる。だが逆に言えば、そうやって明治に作り上げられた、ある意味安易なまでの単純さで近代主義的な善悪区分をしてしまう国家神道を、日本の「伝統」と呼ぶにはあまりに無理がある。

旧江戸城 三ノ丸大手門 櫓などは戦後の再建

神田明神の正式の社伝では、創建は天平2(730)年に遡り、出雲から来た人々が「古事記」に大和朝廷に国を譲ったとある大国主命(オオクニヌシ、大己貴命、大黒天)を祀ったのが起源とされているが、この国譲りの神話もどう解釈していいのかよく分からない日本古代のミステリーだ。

普通に読むとヤマト王権が出雲の国を征服併合したという意味にみえるが、その大国主命をヤマト王権の王子であるヤマトタケルノミコトが祀ったのが五条天神社の起源となると、現代人の感覚だと誰が味方で誰が敵、なにが魔物でなにが滅ぼした敵の怨霊なのか、なにが守り神になるのか、どんどんわけが分からなくなる。

旧江戸城 本丸中雀門跡

上野の摺鉢山古墳や、浅草寺や増上寺の境内にあった古墳を作った人々も、恐らく大和王権に滅ぼされるか征服吸収された王朝だったと考えるのが自然だが、摺鉢山に祀られていたのが五条天神社の大国主命と少彦名命、つまり出雲の王が神格化された神々だったと気づくと、なんとも興味深い。

つまりヤマト王権の日本列島支配が成立する過程で滅ぼされた王国の墳墓が聖地化したのが、浅草寺だったり上野だったり、芝だったりするのだろうか? では国譲りの神話は、いったいなにを意味するのだろうか?

ヤマト王権の勢力拡大以前に、関東地方にかなり大きな王権があったと考えるべき根拠は他にもある。例えば埼玉県行田市にある5〜7世紀のさきたま古墳群だ。その稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣・国宝)の、金象嵌の文字で記された銘文は、ヤマトとは別の王が関東を支配していて、稲荷山古墳はその墳墓だと解釈するのが自然だろう。

稲荷山古墳出土鉄剣 5世紀後半 国宝

とはいえ江戸の五条天神社といい神田明神といい、地理的にはずいぶん離れた出雲と結びついているのは不思議だし、仮に古代の関東にはヤマトの統一以前の王権があったと仮定するにも、ではその関東王権が出雲とどう結びつくのか謎は多いし、「国譲り」の神話の意味も未だによく分からない。

ヒントになりそうなのが、信濃の国(長野県)の諏訪大社の祭神が大国主大神(オオクニヌシ)の息子の建御名方神(タケミナカタ)で、国譲りの際に出雲を逃れ諏訪にたどりついたと「古事記」に記されていることだが、この「古事記」の記述がまた相当に残酷だ。

北斎 信州諏訪湖水氷渡

葦原中国の国譲りに反対した建御名方神は、高天原(タカマガハラ)つまりヤマト王権の使いの武甕槌命(タケミカヅチ、春日権現の第一殿祭神で建御雷神とも表記)に力較べを挑むが、その武甕槌命の手が氷の剣に変化し、建御名方神は両腕を切り落とされてしまう。

広重 富士三十六景之内 信州諏訪湖雪晴

命からがら建御名方神が追いつめられたのが信濃の州羽海(スワノウミ)つまり諏訪湖だった。

渓斎英泉 木曽街道六拾九次之内 塩尻嶺諏訪湖氷眺望
ここで建御名方神は追っ手の建御雷神に殺されそうになるが、諏訪盆地から出ないこと、葦原中国を天つ神の御子(つまりヤマトの大王)に奉る旨に反対しないことを約束して、命だけは許される。

広重 不二三十六景 信濃諏訪湖

その建御名方神が諏訪湖の女神である八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)と結ばれて諏訪大明神になり、諏訪地方は御柱祭や冬の御神渡り(氷結した諏訪湖に出来る氷のヒビが、建御名方神と八坂刀売神が出会うため諏訪湖を渡った跡だとされる)など、独特の神秘的な伝承や文化、雰囲気を持つ土地として、全国にある諏訪神社を通して信仰を集めて来た。

この諏訪と出雲の神話上の結びつきは、なにを意味するのだろうか?

そもそも、国譲りとはなんだったのか?

出雲がヤマト王権に「譲った」葦原中国とはなにを・どこを指すのだろう?



弥生時代に稲作が広まると、農業を基盤にした村落共同体が発展して、やがて各地に王国を形成したのだろうと考えるのが自然だし、建御名方神は元々は諏訪の地元の王が神格化され、その地方神話が「古事記」に取り込まれて出雲と結びつけられたとも考えられる。

逆にいえば出雲のカミガミとは現在の島根県を指す地名ではなく、ヤマト王権による統一以前に各地にあって、ヤマトに滅ぼされたか征服併合された弥生時代〜古墳時代の諸王国を象徴するものになりはしないか?

寛永寺 旧本坊表門 寛永2(1925)年 上野戦争(慶応4年)の弾痕

あるいは、ヤマト以前には日本列島の東半分も、出雲を中心にある種の統一王権の下にあったのかも知れない。

その出雲王国か、あるいは各地に分立し関東にもあった小王国が、ヤマト王権に征服され滅ぼされるか併合吸収され、統一される過程を象徴しているのが国譲りの神話だとするなら、建御名方神の神話は、その過程にかなり暴力的な侵略があったことを示しているのかも知れない。

上野東照宮 拝殿 慶安4(1651)年

今のところひとつだけ言えそうなのは、平将門にせよ、穴稲荷の狐にせよ、出雲系のカミガミとヤマトタケルノミコトにせよ、正体不明の上野や芝や浅草の古墳にせよ、勝者の視点で書かれた、その支配の正当化のための歴史では語りきれない、将門のように逆賊として殺されたり、ヤマトタケルノミコトのように道半ばで命を落とし、あるいは滅ぼされた者たちの怨霊への畏怖とその物語への愛着が、今は東京、かつて江戸と呼ばれた土地と人々の潜在的な精神史に深く関わっていることだけは、どうも確かなようだ。

寛永寺 常憲院殿(徳川綱吉)霊廟 勅額門 応永6(1709)年

徳川がそんな江戸をあえて中心に選んで、100年に及ぶ戦乱を終わらせる平和を構築しようとした、というふうに考えると興味深い。

東叡山寛永寺 清水観音堂 寛永8(1631)年

なにしろ幕府の政務の中心は将門の首塚近くに建てられた江戸城であり、精神的な中心として作られたのが謎の古墳がありそこに出雲系の神々が祀られていた上野に作られた東叡山寛永寺で、その寛永寺が徳川の統治にとっては、江戸城と同等かそれ以上に重要になっていたのだ。

広重 東都上野花見之図 清水堂

現に四代家綱の代に江戸城天守の再建が放棄されたあと、東叡山の華麗な瑠璃殿はその次の綱吉の代に建てられ、幕末に寛永寺が新政府軍に破壊されるまで、江戸で最大かつもっとも豪華な建築物であり続けていた。

広重 上野不忍池雪の景
沢雪嶠 浮絵 上野花見之図

明治以降、その江戸の東叡山の賑わいと、それが新政府に焼き払われた記憶を封じこめるかのように、東京となった都市の上野公園となった旧寛永寺境内の、山王神社の焼け跡に、彰義隊の怨霊が葬らた。





その彰義隊の供養墓を押さえ込むかのような位置に銅像が立てられた西郷隆盛も、西南戦争で逆賊として死ぬことで、逆に明治以降の近代日本の、いわば守護神となっている。

高村光雲 西郷隆盛像 左奥に彰義隊の供養墓

その明治以降の日本の、勝者・支配者の歴史に隠された、上野が「徳川の聖地」であったことの紛うことなき証である徳川将軍たちの墓は、人目に触れず、非公開のまま、ひっそりと、かつての東叡山寛永寺の北端に、石垣と木々に囲まれて佇んでいる。

常憲院殿(五代綱吉)墓所 宝塔と銅門

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