最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/24/2015

バンドン会議と安倍晋三

(写真はインドネシア、ジャカルタ)

今年のアジア・アフリカ会議は60周年であっただけでなく、開催国のインドネシアにとっては、ついに誕生した本格的な民主政権のジョコ・ウィドド大統領がホストとなった点でも意義深いものだった。

だが日本のメディアの関心は、首脳たちの記念撮影でそのジョコヴィの左右を固めた習近平中国主席と安倍晋三日本首相にしか向いていない。

それにしても安倍晋三首相自身が、ジョコ大統領にも他の首脳達にも目もくれず、ひたすら習近平の握手を求めようと懸命に待ち構えている映像がNHKのニュースで流れたのには、「ああ、なんてこった」と呆れてしまう。

この会議では日本政府の関心が日中首脳会談にしか向いていないのだから、メディアがそうなるのも仕方がないのだろう(こうした外遊では外務省と官邸の差配で報道内容がだいたい決まるものだし)。

しかも安倍氏がわざわざこの会議の参加直前に、戦後70年記念談話について「村山談話、小泉談話を引き継ぐと言っているのだから、その中身を繰り返すことはない」とさっぱり意味の分からないことを言っているだけに、全体会議での安倍の演説でも、関心は日本がこの会議の参加国の多くをかつて侵略・占領した歴史にどう触れるのかに集まった。

戦後10周年にインドネシアのバンドンで第一回が開催されたアジア・アフリカ会議の50周年は日本の戦後60年、60周年記念は日本の戦後70年に一致するわけだが、念のため繰り返しておこう。今年で言えばその70年前とは、あくまで「日本がこの会議の参加国の【多くを】かつて侵略・占領した歴史」である。


たとえば開催国のインドネシアでも、日本が占領するまでのオランダ植民地時代について「オランダ人はそれでも、まだ結婚して子どもを残した。日本は強姦しただけだ」という言い方がなされるし、実際ジャカルタにでも行けばオランダ風の植民地様式の建築物は今でも多く残っているが(=写真参照)、確かに日本時代は目につく遺産をなにも残していない。残したのは圧制の記憶であり、日本軍に徴用・強制労働をさせられた「労務者」が「ロームシャ」、それに従軍慰安婦も「イアンフ」としてそのまま教科書に載っているし、ジャワ島などには元慰安婦の女性たちがひっそり余生を送っているコミュニティもある。

日本のメディアがひたすら注目している中国や、韓国の反応だけではなく、この会議の多くの参加国が、自分達もその被害国であるところの日本の戦争を、日本の首相がどう総括・反省し、謝罪するのかに、当然注目していることを忘れてはならない。

だが演説で安倍晋三首相の口から発せられたのは、予想通りといえば予想通りだが、かなり呆れる他はない空虚で論理的一貫性のない言葉の羅列だった。

「先の大戦の深い反省」とは言っているが、実際の侵略の問題についてはバンドン会議第一回で議決された侵略の否定の原則を「日本も誓った」という、なんともあやふやな言い方で、なにが言いたいのか分からず途方にくれてしまう。

安倍首相演説全文 http://www.sankei.com/politics/news/150422/plt1504220025-n1.html

正確には「先の大戦の深い反省とともに、いかなる時でも守り抜く国であろう、と誓いました」という文言なのだから、その「反省」に過去の侵略が含まれていると読めなくもないし、責められたら安倍はそう言い張るつもりなのだろうが、この様な玉虫色の二枚舌ではかえって不信を買うことには、昨今安倍政権に不利なことをほとんど書けない日本の大手メディアでも、さすがに日本経済新聞が社説と朝刊コラム「春秋」の双方で厳しく噛み付いた。

日本経済新聞 4月23日社説 http://www.nikkei.com/article/DGXKZO86031120T20C15A4EA1000/

「玉虫色の表現は国内では通用しても、外国人にもわかってもらえるだろうか。いまのままでは、戦後70年を平穏に終えるのは容易ではあるまい」という社説の結論は、この会議の参加国の多くと今後もビジネスを続けて行くつもりの日本の経済産業界の危機感を、如実に反映したものでもある。

「春秋」の方はさらに手厳しい。

「春秋」4月23日 http://www.nikkei.com/article/DGXKZO86034440T20C15A4MM8000/

「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない」という安倍演説に対し、「その精神をぜひこの国でも発揮してほしいのだが、現実はどうだろう。自民党がテレビ局幹部を呼びつける姿。あるいは国会で安保法制を「戦争法案」と呼んだ野党議員に修正を求める姿。ここ数日も、法の支配をはみだして「強い者が弱い者を力で振り回す」という、あってはならないことが繰り返されていなかったか」と、その二枚舌の欺瞞を皮肉たっぷりに指摘している。

だいたい「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない。法の支配が、大小に関係なく国家の尊厳を」などと安倍が言ったのは中国を念頭においた牽制のつもりなのだろうが、日本が文字通り「強い者」として無法に「弱い者を力で振り回した」過去に言及しそれを反省した上でなければ言えないはずのことが、まるで他人事なのだ。

こうした地域の日本の占領下では、当時の国際法で定められていた一般市民や捕虜の権利がまったく無視されたことも言うまでもないのに、日本が「法の支配」の代弁者気取り。では「先の大戦の深い反省とともに」とは、いったいなにを反省したつもりなのか?


先日、天皇皇后が戦死者…ではなく「この戦争で亡くなったすべての人」の慰霊の一貫で訪れたパラオ共和国でも、日本風の名を持つ元大統領のクニオ・ナカムラ氏が「忘れてはいけない。我々は忘れてはいないが、許している」と言っている。

両陛下訪問時にほとんどメディアでは触れられなかったが、パラオは戦前戦中の人気マンガ『冒険ダン吉』のモデルとも言われており、最初は国際連盟の委任統治としてこの島々を支配することになった日本が、現地人口の倍近い日本国民を移住させ、現地人を「三等国民」として野蛮人扱いの最下層に置いた過去もある。

ちなみにその際に「二等」だったのは、朝鮮人と沖縄出身者だったという。

「委任統治」とは名ばかりの差別的な同化強要支配を、日本は国際連盟脱退後も続け、その最終局面で、パラオは日本軍とアメリカ軍の最大の激戦地のひとつとなった。

「いや現地人はちゃんと避難させた」と言い張る者もいるようだが、その避難先もまた日本側の軍事施設とみなされ米軍の攻撃を受けて犠牲者も出ているのだし、それ以前にそもそも、自国の戦争のためにパラオ人に避難を強要している。 
その人たちの土地を自国の戦争に巻き込んだ、まさに「強い者が弱い者を力で振り回す」をやった事実も、決して消せるものではない。

「許しているが、忘れてはいない」、それが1955年の第一回からバンドン会議に招かれて来た日本に対する、多くの加盟国の偽らざる立場であり心情でもある。

1980年代以降、次第に中国と韓国が日本政府や日本国内の歴史修正主義的な流れに直接抗議出来るようになったのは、この2国が経済的に発展して力を徐々に着けて来たからに過ぎない。


他の国々は今でも、自国の重大な国益を左右する経済大国であり援助大国でもある日本とその国民に、直接はっきり言うことはやはりはばかられる立場になってしまいがちだし、だいたいこれは中国と韓国でも同じことだが、その国を訪れた日本人に直接戦争の過去を言及することは、客人であったり取引先、出資者、上司や雇用主にもなる相手にはめったにやらない。

大切な人間関係を壊したくないと思うのは当たり前だし、構造的にはどうしても、あちらが遠慮して日本人が一方的に配慮を甘受する関係になりがちだ。 
つまりはコロニアリズム、植民地主義の構造は今でもそれらの国々と我が国の関係に影を落としているし、あちら側はそのことに常に自覚的に行動せざるを得ないが、日本人は配慮される側なので、よほど注意しないと無視・無自覚な傲慢に陥りがちだ。


だからこそバンドン会議での安倍首相の演説には、戦争の謝罪と侵略についての反省がなかったこと以上に大きな問題があるのだが、日本のメディアがそこに気づかないとしたら、かなり危険なことだ。

実際には経済格差がそうとうに激しいアジア・アフリカ会議参加国どうしとはいえ、外交プロトコル上の立場では、だからこそあくまで平等でなければならない。

そもそもバンドン会議は、民族自決権を謳って中国首相の周恩来、インド首相ネルー、インドネシア大統領スカルノ、エジプト大統領のナセルらが開催を提唱し、かつては第三世界諸国会議とも称されたものだ。そんな過去を考えもしなかったのか、安倍はバンドン会議第一回で採択された原則の下に、アジア・アフリカ諸国の「先頭に立ちたい、と決意したのです」と平然と言い放ったのだから、呆れた無自覚の植民地主義、コロニアリズム丸出しである。

反植民地主義こそが、バンドン会議の開催理念だと言うのに。

だがこの演説は、その後がさらに酷い。

なんと安倍はあろうことか、戦後日本がアジア・アフリカ諸国にやって来た援助の類いを恩着せがましく羅列したのだ。


まるで『冒険ダン吉』気取り(南洋の島に流れ着いた日本人少年が  “土人”  を教化してその王様になる話)の最後にとってつけたように「アジア・アフリカはもはや、日本にとって「援助」の対象ではありません。「成長のパートナー」であります」などと言ったところで、「もはや」という時系列の文脈では、そうなれたのは日本の援助のおかげだろう、と恩着せがましく言っているに等しい。


安倍の演説は題名でこそ「多様性」と「共生」を謳っているが、「多様性」と「共生」にあってはならないはずの「先頭」に立つと決意してお前らのために頑張って来たのだ、「お手伝いして来た」のが日本だと恩着せがましく言い張り、しかも将来に渡っての「多様性」と「共生」の必要性の理由として挙げたのは「リスクの共有」、具体的にもっとも強調したのが、今の世界で欧米が熱中しているところの「テロ対策」である。

場をなにも弁えないままにエゴの発散で威張る、「手伝ってやったんだ、守ってやるぞ」と恩を売って「先頭」気取りで自分の父権制的な価値観を一方的に押し付ける、言葉は悪いが、バンドン会議における安倍の演説は「空気の読めないモラハラ親父の自己陶酔と幼稚で自己中な自己正当化(精神的なDV)」と形容するのが、ぴったりに思えて来る。

しかもインドネシア人の歴史認識の喩えを交えていえば、そのモラハラ親父は、かつてのレイプ犯が無反省なまま威張っている構図だ。


それにしても、安倍たちの頭のなかにあるのはいったいどういう共生、どういう多様性なのか?

先頃、参議院で自民党のタレント女性議員と麻生副総理のあいだで「八紘一宇」を称え合う珍妙な会話が交わされたが、安倍の演説のいう「多様性」と「共生」でも「日本が先頭」で、テロを始めとする「リスク」があるから団結しようという論理は、まさに「八紘一宇」の発想そのものでしかないことに、演説原稿を書いた外務省も官邸も、報道している日本のメディアも気づいてすらいないようだ。

「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない」と中国を牽制したつもりであるらしい安倍だが、日本が「先頭に立ちたいと決意した」、強い者が弱い者たちの「先頭」に立って守ってやる、「お手伝い」と称して導いてやっている気分でいることと、力で振り回すことのあいだに明確な線引きなぞあろうはずもないこと、それこそが「大東亜共栄圏」の大義名分を掲げた20世紀前半の日本の誤りの根本にあったことに、気づかないのだろうか?

とはいえこのモラハラ親父の勘違いした似非マッチョめいた、無自覚なコロニアリズム、植民地主義の色濃い差蔑的偽善は、我が国では安倍に限った問題でもない。 
安倍の二回目の首相就任からしばらくして問題になった「反韓デモ」の「ヘイトスピーチ」に対抗するという日本人のカウンターと称する運動も、その大勢は「弱い者」と位置づけた在日コリアンを「守ってやる強い者」の立場で、そうした抗議に参加する在日コリアンには決して「自分達に向けられた差蔑と戦う主体性」を許そうとしないコロニアリズム的な同化主義の傾向も色濃い。
そうした「在日の人たちを矢面に立たせるなんて」「かわいそう」「傷つくからいけない」的な「弱い者」扱いのコロニアリズムであれば、安倍政権や自民右派でもある程度は許容できるわけで、今や自民党が「ヘイトスピーチ規制法」を検討し「弱い者を傷つけない、守ってやる正義」に耽溺している。

同じ論理構造が安倍のバンドン演説にも垣間見える。

呆れ果てた植民地主義者の傲慢と言われても仕方がない上に、その同じ傲慢さで過去に大きな過ちを犯したことにはほとんど触れもせず抽象的な語句で曖昧に誤摩化しただけでは、この演説は他の参加国に失礼を通り越して、呆れられるほどのレベルの低さだ

これは「カウンター」の言動を多くの在日コリアンがむしろ侮辱と受け取ったことにも通じるし、その気持ちを押さえ込んで日本人マジョリティに配慮することが、結局は当の在日コリアンに要求されてしまっている。
今まで以上の差別、味方を気取っている側からも差別される恐怖があれば、従わざるを得ないことはほとんど習い症になる。
なにしろ自称「差別に反対」と言っている日本人に、日本がやって来た過去の差別の歴史を指摘することが、「在日を血に染める」というのだから、これでは差別構造の抑圧に差別をして来た側が胡座をかきつつ、自分たちの差別の隠蔽を差別的な立場の強要で隠蔽しているだけだ。

それでも経済大国である日本との関係を守らなければいけない多くの参加国は、なかなか文句が言える立場にはない。

現代の世界の経済・権力構造的に、日本が上位にあることを前提として考えなければ、現実問題として自分達が損や被害をこうむることになりかねないのだから仕方がない。だからこそ、その「上位」にある側こそが配慮しなければならないはずが、安倍は平然と「日本が先頭」と言い張ってしまったのだ。

一方、安倍が勝手にライバル意識でも燃やしているつもりの中国の習近平がAIIB(アジア・インフラ投資銀行)について演説で触れた際には、実際には自国の発案で、その本部が置かれる自国が大きな役割を果たすはずでも、あくまで他の参加国と「共に」と平等性をちゃんと踏まえている。 
どちらが信頼感を持たれるかは、言うまでもない。


そもそも安倍の演説は、他の参加国の立場や国民感情なぞほとんど考えていない。

なにしろ後段で呼びかけたのが、アメリカ主導で進められ、中国が加わる予定のない、TPPへの参加なのだ。

繰り返しになるがバンドン会議はかつては第三世界諸国会議とも呼ばれ、米ソ二大超大国に合せてヨーロッパ諸国が分断した冷戦体制のなか、そうした既存の世界的権力からの自主独立を掲げて始った集まりである。

その第一回で決まった原則を持ち出して侵略行為を否定したつもりでいながら、安倍はその原則が歴史的にどんな意味を持っているのかを考えもせず、参加国に(現状では実際にはそうならざるを得ない面もあるからこそ、建前では決して認められない)アメリカに寄り添った、アメリカへの従属が前提の発展を呼びかけてしまっている。

さんざん「未来志向の外交」と口では言いながら、今回も安倍の演説にはなんの未来の展望もない、現状是認の旧態依然どころか、下手すれば20年以上前に終わった冷戦構造そのままの時代錯誤の発想だ。

しかもこの連帯の会議の場に、わざわざ米中の分断を持ち込んで、その冷戦構造を再現しようとしている様にも見えてしまう。



いや安倍が他の参加国のことをまるで無視するか愚弄しているようにしか見えない演説をやってしまったのも、ある意味当然ではある。

まさにバンドン会議の理念に対する裏切りと言ってしまえばそれまでだが、安倍がこの会議に今回出席したのは、その後に控える訪米でなんとか成果を挙げたいがための準備でしかない。

だからその訪米で「手みやげ」にするつもりのTPPをこうも熱心にセールスし、前段にもテロなどのリスクを挙げながらやはり訪米「手みやげ」予定の集団的自衛権を露骨に示唆した発言が含まれている。

「先の大戦の深い反省とともに」ですら、安倍政権を中心とする歴史修正主義的な言動に露骨な警戒感を示し続けるオバマ政権への妥協と、安倍の支持層というか “オトモダチ” である極右層への配慮を両立させたつもりの玉虫色なのだろう。

この訪米の下準備としてのバンドン会議への参加で、安倍にとっての最大のミッションが習近平との日中首脳会談だったことは、全体の記念写真でホストのジョコ・ウィドドさえ差し置いて必死に習との握手をしようとしていた安倍の姿を見ても、あまりにもあからさまだ。

野田政権の尖閣諸島国有化以降、ひたすら日中関係を悪化させ続けて来た日本政府に対するオバマ政権の目は厳しく、野田前首相が民主党が絶対に勝てない解散総選挙に踏み切ったのは、オバマへの再選お祝いの電話を、オバマに受けてもらえなかった直後だった。つまり野田は、オバマ政権から相手にされないことを事実上の退任勧告と受け取って自滅解散に踏み切ったのだ。

安倍にしても今のままでは、前回のオバマ来日が国賓だったことへの返礼としての公賓扱いで、議会演説まで出来ることになってはいても、肝心のオバマ大統領がろくにその公賓(元首ではない首相にとってもっとも格が高い受け入れ)である安倍を相手にしない、という、前代未聞の恥さらしな結果になりかねない。

日本のメディアは相変わらず、日中首脳会談を受け入れた習近平側の事情をああだこうだと憶測して報じているが、これは日本側がさんざんラブコールを発信し、中国側が日本に貸しを作った形式的な会談でしかない。

このただ安倍がアメリカに「ちゃんと中国に会った」と言えるためだけの会談の席で、習は昨年の首脳会談(というより首脳「面談」に近い内容)以降、日中関係が一応は修復の流れであることを、あえて「両国の努力」とは言わず「両国民の努力」と指摘し、安倍に痛烈な皮肉を飛ばし、中央電視台はさっそく、報道陣を外したあとの会談で習が余裕たっぷりに安倍に歴史認識の問題で釘を刺したことも報じた。


安倍晋三内閣というのはまことに奇妙な内閣で、全体主義的なオトモダチ集団のはずなのに、利害や方針の一致が見られない支離滅裂な動きが変に多い。

首相が外遊先でなんとか自分の立場を誤摩化しの二枚舌で保身に務め、「村山・小泉両談話を全体的に引き継ぐ」と、悔し紛れの「全体的に」という曖昧化の逃げをなんとか混ぜ込みつつも全面降伏と言える発言すらせざるを得なかったというのに、翌日には閣僚が靖国神社の例大祭に参列してしまうのだから、外から見ればあまりに矛盾していて、ますます二枚舌の不誠実を印象づけてしまう。

安倍が悔し涙を飲んで我慢したのか、ひたすら思考停止で習近平と握手することだけに必死になっていたのかまでは分からないが、これではそのせっかくの苦労も元の木阿弥になりかねないのに、参拝した閣僚たちは、前回の会談に引き続き今回も習近平に圧勝された親分のリベンジでもしたつもりなのかも知れぬ。

しかしこんな国内・内輪の論理に引きこもった真似は、本人たちは単に思慮が足らないだけでただの行き当たりばったりの結果だとしても、日経の社説が指摘しているように、ただ国際社会の安倍とその政府に対する不信感を増大させるだけでしかないのだ。


今の日本政府(安倍政権というより、仕事ができない内閣の実務を掌握している霞ヶ関)は恐らく、二重の意味で大きな勘違いをしているし、それは安倍の歴史修正主義に一応は批判的に見える一部の日本のメディアでも同様だ。

過去の戦争の反省と謝罪をきちんと維持し続けることの表明は、中国や韓国ほどの立場では日本にそれを要求することは出来なくとも、バンドン会議に参加したかつての日本の戦争被害国にとっても、やはり重要であるだけではない。

オバマ政権が安倍の歴史修正主義を警戒するのは、日中関係が損なわれることがアメリカの国益にも反するからだけではないし、オバマはただ日中関係の改善と米中関係の盤石化のために安倍の歴史修正主義を牽制しているのでもない。

日本が過去の軍国主義を自己正当化しようとすることを最も許せない国が、他でもないアメリカ合衆国なのである。

オバマ政権にはまだ、広島と長崎への原爆投下を謝罪する用意があるが、安倍が頼みの綱と思い込んでいる共和党の保守系勢力にとってこそ、原爆投下を正しかったと主張し米国の大量核保有を正当化し続けるためにも、日本の軍国主義は絶対悪であり続けなければならないのだ。 
これはほとんど米国という国家の存在理由、国是そのものに関わる問題であって、TPPと集団的自衛権という手みやげ程度で、大目に見てもらえるものではない。

だが今回の安倍のバンドン会議出席の問題の本質は、もっと根深い。

なによりもの問題は、米ソ超大国からの第三世界の自立を掲げて開催されたという伝統を持つこの会議で、安倍がアメリカしか見ていなかった、そのアメリカへの配慮のために中国と話をすることしか考えていなかったという、呆れ果てた不見識にある。

そもそも第一回のバンドン会議の時から、インドのネルー首相は1950年代前半に既に明確に米国中心の西側体制の一員になっていた日本の参加に反対していたし、インドネシアのスカルノ大統領も日本がインドネシアをはじめ東南アジア諸国に及ぼした暴虐の清算を一切していないことから、難色を示していた。 
そうした反対を粘り強く説き伏せて、日本が参加するようにしたのが、中国の周恩来首相である。

アメリカと中国、大国しか見えておらずその対立を煽ればいいと思っていることそれ自体が、日本にとってやはり大切な隣人であり、過去の戦争はあっても戦後はそこに拘ることなく信頼関係をつくって来れたはずの他の参加国への侮辱になるし、結果として現代の日本が陥っている独りよがりな差蔑性まで透けて見えてしまった。

再び日経の社説を引用するならば、「玉虫色の表現は国内では通用しても、外国人にもわかってもらえるだろうか」。

その「外の世界」を見ようともしないのが今の日本だ。政府だけでなく国民も、そこを認識出来なくなったまま、その関心は国内・内輪にしか結局は向いておらず、だから自分たちが非礼だとも気づかずに傲慢で身勝手に振る舞ってしまう。

こうして無自覚に差蔑性満載であることに、日本という国と民族と社会の劣化を見ずには居られまい。



安倍を支持する層が日本の70年前に終わった戦争を正当化する時に持ち出すのは、日本の戦争がアジアを白人支配から解放するためだった、という「大東亜共栄圏」「八紘一宇」の表面上の論理の盲信なのだが、これも壮大な勘違いの歴史誤認でしかない。

日本の国際社会での台頭がアジアの民族主義を勇気づけたことに「大東亜共栄圏」はほとんど関係がない。

欧米植民地主義が支配していた世界のなかで、アジアの国としていち早く日本がその列強に伍する近代的な大国になったことの刺激と影響は、東アジアではもっと以前に起こっていたことで、1920年代には日本は世界に冠たる主導的な大国のひとつだったし、近代中国の建国の父・孫文や、現代の中国国家の立役者・周恩来、中国近代文学の父・魯迅、あるいは朝鮮民族の民族運動初期の英雄安重根など、日本の強い影響は20世紀初頭には既に始まっている。

だがその一方で、安重根が日本の朝鮮総督伊藤博文を暗殺した構図でも明白なように、民族主義の理念と理想の対象としての日本と、そこに矛盾する民族独立を阻む抑圧的な支配者としての現実の日本があって、「大東亜共栄圏」はむしろその後者の方でしかない。


アジアに民族自決の夢を与えたのが日本だというのなら(その面があることは確かに、歴史的な事実だ)、「強い者」が「弱い者」の「先頭」に立つという傲慢が「強い者が弱い者を力で振り回すこと」につながってしまうことに無自覚な彼らには馬耳東風かも知れないが、なればこそ、アジア・アフリカ会議で日本に期待されるリーダーシップとは、その欧米に対抗する(現代の世界の現実ではすでに凌駕しつつある)新たな経済圏を主導することにある。

無論実際には、TPPは安い労働力を武器に出来る一部の東南アジア諸国には有利な面もあるが、その反面、それらの国では急激な経済格差も広がりつつあり、安定した成長を続けながらより公平で民主的な社会への脱皮が可能かどうかが、この会議の参加国にとって重要な政治課題でもある。

その平和的な発展のお手本としてそれらの国々が見ているのが、戦後、武力に頼ることなく奇跡の復興を遂げた日本であり、だからこそなるべく過去の侵略の歴史はなるべく口にしないのだ。

安倍たちはそうした国々を「親日国」だという、その認識自体は間違っていない(日本は確かに憧れと親愛の対象だ。ただしそれは中国でも韓国でも同じ)が、彼らが見て親しみを感じている「日本」とは、大衆文化でいえば『おしん』と『ドラえもん』、あるいは『一休さん』の日本であって、『冒険ダン吉』の王様を日本に期待などしていないし、まして日本の対アメリカのご機嫌伺いのために自分達の会議を利用されるわけにはいかない。

より現実的に言えば、これからのバンドン会議の多くの参加国の課題は、米国、中国、日本という既存の巨大経済のあいだでいかにバランスをとりつつ、自国の独立性を保ちながらその経済力を自国の成長に取り込んで行くかだ。

中国の急成長に嫉妬しながらアメリカと結びつきその属国であろうとする安倍の日本が、その「先頭」に立とうとしたところで、お門ちがいも甚だしいし、アジアの歴史に果たして来た日本の大きな役割をまったく尊重していないのは、あまりに無様な自信喪失であり、自虐的だし卑屈だ。

植民地主義、コロニアリズムは、既に現代の世界では邪魔にしかならない19世紀の遺産だ。ヨーロッパやアメリカは20世紀以降なんとかその思想的な誤りからの脱皮と過去の清算に務めようとして来たが、ことヨーロッパはそれをなし遂げられないで来たまま没落を始めている。急激な右傾化もそのうまくいかないフラストレーションの反動であり、その動きはヨーロッパの混乱と頽廃をより加速させることだろう。

そこにとって代わる新たな価値の創造の中心として、日本が果たせる役割は本来なら大きいはずだし、それを期待もされているはずが、安倍政権の外交はあらゆる意味で時代錯誤でしかない。