最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/04/2014

本当に「巨悪」「原子力ムラ」が問題なのだろうか?


福一事故発生後、とにかく悪者にされているのだが、東京電力の本店社員や経産省の官僚や取引銀行等などが「推進派の陰謀」で事故を無視したり、恣意的に過小評価したことなぞ実はない。

なぜそんな馬鹿なことを思いつく人がいるのかも理解に苦しむ。

事故直後の刻一刻を争う現実のなかでは、空想科学小説だか松本清張じみた陰謀なんて考える余裕があるはずもなく、速やかに必要な判断を下すべく、遮二無二に働いていたに決まっているだろうに。現状では被害はなんとか最低限に押さえられているとはいえ、どれだけ危険な事故だったか、「原発はもの凄く怖いんだ」と言って反対しているはずの人たちが実は認識していないのではないか。


世論のヒステリックな魔女狩りに浮かれるお祭り騒ぎで不当に叩かれている面は確実にあるし、現実問題としてそういう報道の大衆の残酷で無自覚な横暴へのおもねりが、現代の社会では著しく本来なされるべき行動をしばしば制約するだけでも、苛立たしい話だ。


真面目な、責任感の強い、仕事をちゃんとこなす人間ほど、無益に追いつめられてしまうだろう。


メディアに露出して分かり易い例では、医学者にしても、山下俊一さんへの見当違いなバッシングを見るだけでも、怖くなってなにもできなくなってしまった医師も少なくないはずだ。 
そんななか、しかも一刻を争う決断が必要ななかで、経産省のお役人や東電本店の一部だって、本当に頑張ってくれた面はあるはずだし、それがまったく報道されないのもさすがにアンフェアだとは思う。

とはいえ現行制度の枠内でさえ(しかも原発災害ではその制度が役に立たない可能性も考慮に入れるのが当然だ)、限界のかぎりやり抜いたのかと言えば、それはやはりまったく違う。そもそも福一原発事故への政府・官僚の対応が、その第一歩からして大間違いなのだから。


報道で見る限り(といってひどい偏向で、事実関係を抽出するのがかなり難しいとはいえ)、東電本店は実はその誤りに気づいていたのが分かる。だがなにが必要なのか分かっていても、権力への配慮(というか怖さ)から押し切れなかったようなのだから、政府・権力側のやっていることがまったくよく分からない。



失礼な言い方を承知でいえば、かなり珍妙な、物事の前後がひっくり返ったような、倒錯した話だ。

東電も、あるいはそのメインバンクなども含め、今の資本主義下の株式会社の経営原則からすれば極めてイレギュラーな決断を一度は下している。つまり、原子力発電所は電力会社の「資産」でもあり、会社の資産を実質放棄するという決断は、いかにそれが恐らくは遠からず資産価値ゼロになるかも知れない施設であっても、もの凄く難しい。ところがその彼ら自身には不利であっても敢えて下した決断をひっくり返したのが、その決断を命ずる(資産を取り上げる)立場にあったはずの政府なのだから、わけが分からない。


このブログでも何度も取り上げたことで恐縮だが、原子力災害緊急対策法では、この種の大規模原発災害では原子力発電所の管理権を国が電力会社から取り上げて、政府が事故処理を指揮することになっていたはずだ。

それが菅直人首相の独断だったのか、経産省の意向にのせられたのかは不明にせよ、その責任から政府が逃げた結果、福島第一原発事故はこうした規模の原子力災害について法律に定められたこの当然の手続きすら踏まえないまま進行することになり、現在に至っている。そして事故処理の管理権・指揮権が民間企業の東電にまかされたままであることが、今に至るまでさまざまな事故対応の無駄や瑕疵、限界を引き起こしている。


ところが報道だってそれが分かっているはずなのが、経産省と官邸が事故処理の責任から逃げたことについてまったくコメントすらしない。 
マスコミで菅おろしのバッシングが始まった時にもこの肝心の問題をスルーしているため、菅首相のなにが問題だったのかは結局よく分からないまま、なんとなく辞任に追い込まれたようにしか見えず、そして菅氏は未だに「東電が撤退すると言うのを止めたのはオレだ」と威張っている。


これには東京電力やその取引銀行、大口株主などがウンザリしてしまっているとしても、それはよく分かる。しかも世論には「原子力ムラの利権」だの「推進派の隠蔽」だのと言ったレッテルで叩かれ続けるのだから、さすがに理不尽だとも思う。


たとえば、実際には炉心の緊急冷却に海水を用いることに待ったがかかったのは、菅首相がなぜか懸念を示したからだ(「再臨界の可能性」ねえ…)。 
しかも当時の福一の吉田所長の決断で中止はされていない。 
しかしその海水注入が止められたと最初報道された時には、東電が廃炉をしぶったからだとまことしやかに語られた。 
東電にしてみれば、とっくに福一という「資産」を放棄するつもりだった、そう政府に提案していたのに、最初からとんだ理不尽な叩かれ方もしていたのだ。 
その後、株主総会で廃炉を正式決定したら「遅すぎる」と批判の嵐。いやそれは、単なる手続き上の問題で、最初から廃炉のつもりですって。

事故直後に4号炉の使用済み核燃料タンクの冷却水が不足し、自衛隊のヘリコプターで注水するというメディア好みのアクロバットに防衛省が執心した(そんなことやってるヒマないよ、まったく…)。東京電力が法的に一民間企業である以上、いかに馬鹿げたことだと分かっていても断れない。おかげで最初からこれが最適だと分かっている東京消防庁スーパーレスキューの特殊消防車「きりん」の導入が、一日遅らされた。


東電がいわば「自腹」覚悟で下した決断の通り、政府が全権を握り、あとは官邸の指揮系統がしっかりさえしていれば(その調整が官房長官の最大の仕事であり、枝野氏がやったように日に何度も記者会見をやることではない)、このような茶番に丸一日を浪費することはなかったはずだ。


管理権が民間企業のままでは、さまざまな許認可制度に縛られた原子力発電所内では、事故に必要な対処をすることすらしばしば困難になる。

原子力発電所の敷地内では、なにを作るのでも原則、経産省の許認可の対象になる。その認可が下りるのに通常手続きでは2〜3ヶ月はかかるのだとか、民間企業である東京電力が事故処理の責任者であるままなので、今の福一の敷地内で事故の対応のために建てられた汚染水タンクや排水システム、配管の大部分が仮設である。


事故一年目の冬には、仮設であるがゆえに防寒対策ができなかった、経産省の権限を恐れる東電がその予算を組まなかったそうで、ゴムパイプが凍結して破断した、という話だけ聴けば思わず笑ってしまいそうなトラブルまで起こっていた。


いや笑いごとではない。こと東電はともかく、実際の作業に当たっている下請け・孫請けの地元企業の作業員は、いかに浜通りが温暖とはいえ、冬場には凍結の恐れがあることは百も承知している。だが東電や経産省の「エライ人」たちはそんな現実をちゃんと認識することよりも、自分たちの制度上の内輪の世界を優先してしまった。



そんな人間世界の権威権力構造なんて、物理学や化学の科学事象である原子力発電所のトラブルには関係がないのだが…。

こんな不条理のなか、現場は本当に自分たちで出来る限りのことをやりながら、文字通り命がけで、しばしば上に立つ人間の不見識にイライラしつつ、なんとか「ニッポンを救おう」と一生懸命…だなんて、そんなカッコつけたことを言って胸を張っている余裕は東電本店や経産省、しょせん遠く離れた東京でふんぞり返っていられる者にはあるのだろうが、現場にあろうはずもない。


そんな現場の人たちや、原発事故で避難を強要され生活を失った被災者を無視して、事故処理に必要な判断の権限と責任を負うべくして負っている(それが彼ら「エリート」の仕事のはずだ)中央官庁や東京電力本店の経営陣、株主や取引銀行などの人たちが「俺たちは一生懸命」云々と言いだすのは、やはりどうしようもなくおかしい。


なるほど、東京のメディアや、国会を取り囲んだデモは彼らを叩いただろう。恨み言や愚痴が出てくるのも分からないではない。だが「菅と仲がいいサヨクのマスコミが」などと、ネット上の右翼気取り連中の陰謀論じゃあるまいし、そんな思い込みに耽溺して自分たちが「傷ついた」ことに慰めを求めている中で、なにか根本的なことが抜け落ちてはいないか?


なるほど、原発事故をめぐる現状がここまで想定外に無茶苦茶になっているのもうなづける。

いや実際のところ、恐るべき「現実感覚」の喪失、「他者」の不在の世界観なのだ。彼らは自分たちでは社会を動かしていたり「原発事故からニッポンを救った」つもりでも、単に自分の周囲半径5m程度の内輪に引きこもった、その実、無責任に陥ってはいないか?


…というか「ニッポンを救ったんだ」なんて本当に言ってるらしい話はよく聞くんだが、本当だとしたらたとえ酒の席だろうが、安倍晋三なみのボキャブラリーの貧困が凄いんだけど…。

「なにも知らないで生意気を言うな。俺たちは現実を見ているのだ」と彼らが言い張るのだとしたら、もう悪質な冗談にしかならないことに気づかないのだろうか?僕たち一般の国民や、なによりも被害当事者である被災者が「なにも知らない」のだとしたら、政府や東電の広報がしっかりしていないから、もっと言えばあなた達自身が隠しているからではないか?原発事故につきものの風評防止の配慮があるにしたって、少なくとも被災者には伝えるべきだ。


無論、現実はそうはなっていない。 
たとえば飯舘村に「計画避難」が決定されたとき、なんと村民の皆さんは、枝野官房長官のお昼の会見でいきなりそれを聞いたのだそうだ。村役場にはさすがに打診があったが、ほとんど脅し同然に口止めをされ、各地区の区長に伝えることすら出来なかったという。 
結果、菅野村長が村民の一部を不信を買う事態にまで、そうでなくとも汚染され、避難を迫られて大変な小さな農村が、不必要に追いつめられてしまったのだ。
どう考えたっておかしな話だと思うのだが…

半径5mの、その5mがどんなに権力の中枢だか上部構造だかにあろうがしょせん自分たちの内輪でしかない世界の、その外にある実際の社会に対する自分たちの責任すら、実はよく分かっていないのではないか?
自分たちでは「現実を動かしている」「エリート」のつもりでも、象牙の塔に引きこもっているに過ぎないのではないか?

2011年の5月末に、飯舘村で出会った農家のおじさんは、「インタビューなんて答えたって俺たちに都合の悪いことが世間に広まるだけだ」と言って僕たちの撮影は断りながら、それでもずいぶんいろいろと話してくれた。


なかでももっとも印象的な、痛烈な一言は


「画面を見てオタマジャクシをいじってるだけじゃ、現実は見えないんだよ」

…だった。オタマジャクシ?つまりパソコンのマウスのことである。


このおじさんの言った通りだ。よく考えればまるで子供の遊び、実際に事故処理の全権を担ったエリートであるはずの人たちがやっていたのは、醒めた目で言ってしまえば画面をにらんでオタマジャクシをいじり続けるただのゲームにも見えてくる。


しかし現実から切り離された象牙の塔だか白亜の殿堂の住人たちがやっているその「ゲーム」が、結果として実際の社会を動かし、彼らが直視しようとしない多くの人々の生活を左右している。彼らにはその画面の向こう、オタマジャクシのしっぽのその先にある現実を感じられず、自分たちが持っている権力がなんであるのかに気づいていないのだとしたら、そのことがいちばん恐ろしい。

いや結局のところ、半径5mしか見えていないのに、画面を見てオタマジャクシをいじっているだけの人たちが原発事故の最大の責任を負っていることに、そもそも無理があるような気もする。

どうにも社会や政治を動かす責任を負っている人たちが、その責任を自覚していないことの問題が、やはり福島第一原子力発電所の事故をめぐってあからさかに浮き彫りになったことは否めない。

結局は自分たちの内輪の論理でしか考えられず、そのプライドを死守したい。その気持ちは分からないでもない。だが一方で、あなたたちのその「権力中枢」であるはずの内輪の外では、多くの人たちが現に被害に遭っていることを、忘れていいのだろうか?なぜ無視出来るのだろう?


目の前に被災者や、被災地の出身者がいても、見えないのかも知れない。その人たちがどう自分たちの言動を受け取るのかを、考えもしないのかも知れない。

ぶっちゃけて言ってしまうなら、福島第一原発事故が浮き彫りにしたのは「ニッポン全国引きこもり」であること、いつのまにか日本社会が何重もの断絶でズタズタに分断され、それぞれの内輪のなかに孤立して来たことなのだろう。そしてなによりもこの事故では、直接の責任を負うはずの人たちや、直接にその現状を伝える報道の任にある人たちまでもが、絶望的に現実から断絶されている(しかもその自覚がない)。

無論、東電とか経産省の人たちだけの問題ではない。生活そのものが奪われてしまった地元・被災者・避難民以外は皆、自分たちの半径5mだけしか見えていず、どこかで自分たちのその内輪を最優先で考えてしまっているのかもしれない。

しかも力と責任を持った人たちが、「弱者」ぶって被害者意識を口にすれば自己正当化出来ると思い込んでいる。つまり結局は「自分たちは正しい」が、イコール「ボクたちは被害者なんだ、一生懸命なのに」となり、肝腎の事故やその被害者はリアリティとしてでなく、画面の中や書類の上でしか見ていないように、どうしても思えてしまう。

確かに経産省や東電や取引銀行等の人は「一生懸命やっているのに叩かれてばかり」で「傷ついて」もいるのだろうし、同情はする(実際、世論のヒステリックさと報道の姑息さには相当に問題がある)。だがあなた達が奪われたのがプライドであるのに対し、被災者は生活そのものを奪われたのであり、その生活を守ることが、あなた達の仕事なのだ。そこで忘れられている福島浜通りの被災者のなかには、福一の現場で黙々と、立場上なにも言えずに、不条理と闘っている人も少なくない。

そのもっとも直接的にこの原発事故に直面した人たちがひたすら無視された「ニッポン全国引きこもり」状態とは、実はそれぞれの自分の半径5mの内輪に引きこもり、断絶してバラバラになった社会のそれぞれのクラスタの、保身というよりもしょせんはプライドの保守にこそ、引きこもっていることでもある。電力会社にせよ、経産省にせよ、官邸にせよ、政治家にせよ、そして東電叩きに終始するメディアにせよ、「原子力ムラの陰謀」論に固執する反原発運動にせよ、実は自分たち自身の人間性の欠如からこそ、逃避しているのではないか?

実は皆が、ものすごく殺伐とした世界観の中に、無自覚にいる。そこでは人間の社会に不可欠だったなにかが、絶望的に見失われている。

「俺たちは一生懸命やっているんだ」とどんなに言い張ったって、現に被災者が無視され、明らかに政府や東電や取引銀行の不作為ないし能力の限界の結果で苦しめられている以上、「一生懸命」やっていたとしても「責任に見合う能力がない」、そこで開き直れば「無責任」とみなされて終わりなのだ。売り言葉に買い言葉で敢えて冷酷に言わせてもらうなら、あなた達の「実績」とは、客観的にみればその程度のものでしかない。

しかももっと絶望的なのは、こうした売り言葉に買い言葉的な言辞くらいしかその人たちに伝わらない、そのプライドにダメージを与えるような言葉以外は、彼らに無視出来てしまうことでもある。

経産省とか東電、取引銀行等々の人に、ただ直接に生活を奪われた地元の人たちが無視されてる現実を指摘しただけでは、「斜めからものを見ている」とか言い出して、見当違いなお説教が始まるらしい。これでは信頼されないのも自業自得だ。これで自分たちは有能なエリートだと思い込み続けられるのだとしたら凄い。


…と、こういう当然の指摘をされてしまうと、反論出来なくなったのか「批判するだけなら簡単だ、お前達はなにも知らないくせに、俺たちはこんなに仕事をしているんだ」とますます議論放棄どころか対話拒否に走るのだから、そりゃ「あまりに世の中が見えてない無責任でしょう」と、自称有能なエリートさんたちが、福島の農家のおばちゃんに呆れられても、そりゃ理の当然でもある。
これではどんなに「俺たちは実績がある!」と叫んだって、感謝も尊敬もされるわけがない。いや彼らが固執する「実績」が、しょせん自分たちの内輪の業界でのみ通用する「実績」にしかならないように、自分たちで無自覚に仕向けていることになる。 
だがその対局には、現に原発事故に巻き込まれた十数万の直接被害者がいて、その人々の、この三年近くのあいだほとんどなにも変わらない、過去を失い、未来がなにも見えないままの、宙づりの現実がある。

まったく他人様や、原発事故が起こっているときに現場の労働者や避難させられた被災者のことを考えられずに、自分たちの半径5mしか見えていない人たちが「俺たちは有能なエリートだ」と思い込んで、批判されただけで「傷ついている」「俺たちは被害者なんだ」としか思えないのだとしたら、それを平然と口に出してしまってあとは引きこもるだけなのならば、このお子様レベルのもうひとつの日本、「そこ」以外の日本の現実は相当に怖い。

本人たちはその怖さをまったく自覚してないで、「俺たちが日本を救ったんだ」と本気で思っているらしいのだが、それこそ安倍晋三が「強い日本を守るんです」と言っているのと同等の、まさに子供の遊戯のレベルの意識でしか実はない。


もし彼らが「菅と仲がよかったサヨクがボクたちを責めるんだから」と本気で言うのなら、安倍晋三たちの中国や韓国を病的に敵視する主張の根幹が、「戦争責任なんて追究されたら日本人だって傷つくじゃないか!」でしかないことの幼稚さとも、大差があるとは思えない。 
安倍の靖国参拝の余波で、アメリカの雑誌が、靖国神社の遊就館の展示を報道してしまったと、赤旗新聞に載っていた 
この米国での報道で興味深いのは、「20世紀の出来事をめぐり『日本を被害者』とする信じられないほど偏向した解釈を提示している」と指摘していること、つまり決して「日本は正しかった」ではなく、「正義の戦争を闘った」ですらなく、「日本は被害者」だと言い張る偏向であることだ。 
「被害者」だから「正しい」のか? そんな幼稚な倒錯もない。加害者が間違っているだけだ。 
「日本は強い国」にせよ「我々は有能なエリートだ」であるにせよ、そんなに自信があるはずなのが、自身の正当性の行き着く果てが、「僕たちは被害者なんだよぉ」という泣き言しかないのだとしたら、それが「強い」あるいは「有能」な者たちの言っていいことなのだろうか?

この「有能なエリート」たちが、人類の総体の現代文明の能力をも遥かに超えているのかも知れない原発事故の帰結を左右する立場にあるのだろうか?

福島第一原発事故は、「原子力ムラ」とか「巨悪」の問題ではまったくないのではないか? 

僕たちがしばしば「原子力ムラ」「巨大利権」「巨悪」と錯覚しているその対象は、原発というポテンシャルには大いに危険な巨大エネルギーの扱いも含めて驚くほど事の重大さの実感が乏しい、リアリティの感受性に欠けた、引きこもりの、「魔法使いの弟子」の坊や達に過ぎないようにも思える。



ウォルト・ディズニー製作『ファンタジア』より
「魔法使いの弟子」

「有能なエリート」を自称する、しかしその実しょせん魔法使いの弟子さんたちが、日本を救った気分でいるのだとしたら、原発事故収集の実態は、「画面とオタマジャクシ」と見事に本質を言い当てた、飯舘村のおじさん達の見抜いた通りだった。

彼らはまったく「巨悪」「原発マネー」でも「原子力ムラ」でもない。

その巨悪イメージで東電なり経産省なり取引銀行なりを批判する…というか叩いて鬱憤晴らしをしてきた自称反原発世論もまた、彼らが自称「有能なエリート」であるのと同様に、自称「正義」ごっこでしかないのは言うまでもない。結局はこの社会のどこを切ってみても、断面に見えるのは子供じみた「ゲーム」になってしまっている。

官僚主義の問題だ、と指摘するのすらいささかピントはずれに思えてくる。その実、「妙に子供っぽい」とすら思える。

そして「妙に子供っぽい」ことに付随する重大な問題として、本質がお子様であるせいか批判に対してものすごく脆弱で、打たれ弱く、ちゃんとした説明が出来ないのは、権力の行使にも言論にも説明責任が付随しなければならないはずの、民主主義の国では致命的だ。

原発事故の対応に当たった東電とか経産省とか取引銀行の人たちが、僕らが作った映画『無人地帯』(来月1日よりロードショー)をみたら、彼らが「菅と仲いいサヨク」と蔑視したがるいわゆる「反原発」的な報道を読むよりも、遥かに「傷つく」のだろう。 


それは東京・中央の、大手メディアの人たちにしても同じことだ。 
なにしろそうした自称「有能なエリート」よりも田舎の百姓や漁師、それも生活のすべてを失おうとしている人々の方が大人であり、冷静であり、知的でもあることが、はっきり見えてしまう。 
だが少なくとも、僕たちが浜通り飯舘村で見た現実は、そうだった。

被災地を除く日本中のあらゆる場所で(そしてこと東京で)、根本的にボタンがかけ違えられているのかも知れない。


僕たちの誰もがそろって、根本的な勘違いをしているのかも知れない。


巨大な天変地異の結果、社会と文明の限界が曝け出されたときに、そこに「自分は正しいのだ」と思える立場なぞ、どこにも存在しないはずなのだ。


また、そんなことで言い争っている場合でもない。

東京電力や経産省を叩くことで「自分たちは正義だ」と思ったところで、現実はなにも変わらないのはその通りである。だがそうやって自分たちを叩くメディアや世論を「市民運動出身の菅なんかと親しいサヨクの新聞が」などと言って叩き返しても、あなた達が「ものすごく優秀なエリート」であるのなら当然負っているはずの責任はなんら果たされず、「ものすごく優秀なエリート」本来のプライドも満たされないはずだ。


メディアの側でも、自分たちの報道の瑕疵や能力不足や勘違いを批判されたら「原子力ムラの隠蔽工作だ」と言ってみたところで、報道の中身が間違っていたことに変わりはない。本来ならその中身にこそ、職業的なプライドを賭けるべきなのに。

誰を責めたところで、原子力発電所の事故は起こってしまった現実である。


そこでなにかに怒った素振りを見せるのは、現実が我々の認識や能力を遥かに超えてしまっていることの、逃避のためだけなのかも知れない。


だがこれが想定外の事故だと言うのなら、そこまでの想定しか出来なかった我々の文明の限界なのだ。



決して「想定外なんだから僕らは悪くない」と言って済むことではないはずだ。 
というより、そんなことを気にしている場合ではない。

その限界が曝け出されてしまった今、人間社会の権力構造のなかで、誰かを叩くことで自分の立場を担保する権力のゲームに耽溺したところで、恐ろしく虚しい話でしかないことに、なぜ気づけないのだろう?



もの凄くシンプルな話のはずだ。
ちょっと気づけば簡単なことではないか。哲学の基礎中の基礎でしかない。 
そこで棄てるべきプライドや虚栄は、失ったところで生きて行けないことではない。 
少なくとも、生活のすべてを奪われながら、もう3年近くただひたすら待たされている避難民の置かれた境遇とは、比べ物にならない。

福島第一原子力発電所の敷地は、戦時中までは陸軍の訓練用の飛行場だった。それが戦後コクド開発に払い下げられた。コクド、つまり西武グループ、堤康次郎は衆議院議長をつとめた政治家でもあった。塩田開発を名目に安価に払い下げられたその土地は、なぜか塩作りには使われないまま塩漬けにされ、気がつけば正力さんと堤さんが裏で握手して、東京電力の原子力発電所建設が、浜通りからみればまるで天から降って来たように決まった。

1965年のことだ。いかにも「巨悪」な話である。


福一の建設が決まったのは東京オリンピックの翌年。つまりその直前まで、首都圏の再開発工事で働くため、浜通りでは多くの農家の男手が東京に出稼ぎに行った。給料の格差は、地元の道路工事の10倍くらいあったという。福一の建設工事の日当はそれよりちょっと少ない程度。家から通えるのだし…と、このような話を「地元は原発マネーで潤ったのだ」と糾弾する前に、ちょっと考えて欲しい。浜通りと東京では給金の格差が10倍。そんな格差があるような社会にしておいて、地元を責められるのだろうか?


そうでなくとも福一の建設は、堤さんと正力さんのあいだで決まった既定事項である上に、戦後の日本で市民や地元の反対運動がなにか国が決定した計画を覆すことが出来た事例があっただろうか?



たとえば三里塚闘争を見て欲しい。 
反対した農民を「左翼過激派」と断じて潰して行ったのは誰なのか?またそのような世論誘導にみすみす乗るように突っ走った当時の(三里塚の地元以外の)学生や市民や政治家の運動に、反省点はなかったのか?


この原発事故に端的に現れてしまった今の日本の本当の問題のひとつは、今の日本が高度成長時代の巨大な遺産(よくも悪くも福一と、東京が40年間その電気で潤って来たこともそのひとつだ)をどう使いこなして行くのかに当たって、それを作り出した人たちに比べてあまりに「子供」であることなのかも知れない。

だからつい「魔法使いの弟子」という寓話を思い出してしまう。

ただしあの寓話では、師匠の魔法使いの老人が最後にことを丸く収めてくれるのが、その師匠に当たる老人のオッサンたちもまた、日本社会全体と一緒に、老成して円熟するよりも、ただ老化して退行していたりもする。

なにしろ「これだけ豊かな国になったのは誰のおかげだと思っているんだ?」だけがプライドの拠り所になっているようにしか見えないのだから、それはそれで「人間性の劣化」がかなり恐ろしい。

ではその世代の人たちにあえて尋ねるが、あなた達の世代が作り出したと胸を張る「日本の豊かさ」には、結局なんの意味があったのだろうか?


僕自身は原子力発電所にはずっと反対だったし、福一の4つの(いまは事故を起こしている)原子炉の寿命が2004年に唐突に延長となった時には既に、浜通りで映画を作るべきではないかとも考えた。



結局なにを撮っていいかわからずに終わってしまったのだが…作っていたら、それがなんらかの形で原子炉の寿命延長の決定を撤回させることにつながっていれば、この事故は起こっていなかったことになる。

だが反対は反対として、実際に福島第一原子力発電所が、まさに東京で生まれ育った僕自身にとっても含め、ずっと電気を供給して来てくれたことは決して否定出来ないし、「東京の電気は日本全体が豊かになるためだった」と言われれば、断れなかったことは痛いほどに分かるつもりだ。


だからこそ問わねばなるまい。その「豊かさ」とはいったいなんだったのだろう?その「豊かさ」の結果が、これなのだろうか?

福一を浜通りに押し付けた世代の人たちが、自分たちは「豊かさ」を最前線で支えたのだと胸を張り、「これだけ豊かな国になったのは誰のおかげだ?お前らにそんなこと言う資格はない!」の議論放棄、対話の拒絶にのみ終始するプライドに固執しか出来ないのだとしたら、そんなものが「豊かさ」の成果なのだろうか?

その程度の「豊かさ」のために浜通りは原発を受け入れ、今はその原発の事故で、住めないかも知れない場所にされてしまうのだろうか?


福一事故が「想定外」なのであれば、その誤った想定を立てた側の責任は問われるはずだ。いや組織や個人を糾弾しろというのではなく、その想定が生まれ、それを信じた文脈自体が問い直されなければならない。そんな当然のことにも気づけずに「サヨクのマスコミが」と言い張るのが、世界でもっとも教育水準が高いとされる部類の国の「エリート」なのだろうか?

高度成長の時代が産み出した豊かさ、それ自体を批判するのではない。

問題は、その豊かさをあなた達はどう生かして来たのか?日本は今でも、世界でもっとも豊かな国のひとつだ。我々はそのなかで安閑と暮らしていられるのは…しかしそれは本当に「ありがたい」のだろうか?僕たちはそれを本当に「ありがたい」と思っているのだろうか?なぜ「ありがたい」と思えないのだろうか?

その世代の(というか僕たちからすれば父の世代の)人々が、この問いに答えようとせずに、結局はカネと儒教論理で他人を黙らせようとしているだけであるのなら、その程度の自信しか「豊かな日本」を作り出したはずの人々が持てないのだとしたら、それもまたあまりに悲惨なことだ。

その人たちが老境、というよりはっきり言えば人生の秋を迎えているとなれば、「この人たちの人生はいったいなんだったのだろう?」とさえ、つい思ってしまう。

そう思われてしまうことを、この人たちは「これだけ豊かな国になったのは誰のおかげだ?お前らにそんなこと言う資格はない」だけで封じ込められると思っているのだろうか? 
まさかとは思うが、年下だろうが息子の世代だろうがなんだろうが、他人は他人であって、その他人がなにを感じどう思おうが、それは自分の欲望や願望の延長上にあるのではない、別個の、独立した人格なのだという当然の人間存在の実存すら、理解出来ないまま70の大台に乗っているのだろうか?
豊かな人生体験を積み、押しも押されぬ「実績」もあるはずの人々が、これでいいのだろうか?

その子供くらいの世代である、福島第一原発事故の直接の対応に当たった東電とか経産省とかの人たちは、確かに頑張ったのだろう。そして理不尽さのなかで鬱病などで倒れた人も大勢いるそうだ…というところで、しかしそこで彼らが「俺たちはこんなに辛かったんだ」と言って同情を買いたいのだとしたら、その被害者意識が「俺たちは有能なエリートなんだ」というごたいそうなプライドと、あまりにチグハグである。

ましてそれを被災者の困難との比較で持ち出すのなら、比較すること自体がおかしい。

ところがどうも、こういうことを平気で被災者の前で言ってしまう人は多いらしい。しかしメディアの前では決して言わない。そこではどこか、人間性のネジだかタガだかが緩んでいるか、外れている。



総理大臣が「中韓は反日国家だ!日本が嫌いなんだ!」と思い込む幻想に浸る国では、一流大学に行き、大企業なり大官庁に勤めて「俺たち日本を動かしているのだ」と胸を張るわりエリートのはずの人たちが、自分たちが批判されるのは「サヨク」のマスコミが悪いのだ、とか(当のマスコミの前では決しておくびにも出さない割には)言い出すのだとしたらちょっと… 
「俺たちは有能なエリートなんだ」と威張るんだったらそれはないでしょう、そんな子供じみた陰謀史観めいた幻想で(というか「ネット右翼」並の馬鹿馬鹿しさである)、結局「ボクたちは被害者なんだ」っていう落としどころは。 
ならばせめて「我々は正しかった」くらいも言えないのなら、いかに高給取りで、ベンツかなにかに乗っていても、気の毒になって来る。

一方で、彼らの視界にはもしかしたら絶対に入らない現実では、双葉郡で人口8万強、飯舘村が確かだいたい6千、総計で十数万、原発事故と関係ない被災地を含めても30万だから人口の0.3%とはいえ、生活を奪われた人たちがたくさんいる。

そして福島県では、家を失ったり避難にはならなくとも、いわき市で、南相馬市で、伊達郡で、郡山市や福島市で、浜通りから中通りにかけて、原子力災害の不安に苛まれ、風評被害や差別を恐れ、「放射能より怖いのは人の心だ」とこれまたあまりに鋭いことをそっとつぶやきながら、多くの生活者が今も生きている。

それともやはり、東京のエリートである人たちにとっては関心がある、視野に入るのはしょせん、同じ東京で「一流大学出身者」が多数を占める「サヨク」だけ、そこへの対抗意識だかルサンチマンだかから先は、考えられないのだろうか? 

世論が原発反対に向かうのは、原発事故が起こってしまったからには当然の流れだ。原発が最大の雇用先であった地域ですら…いやそこでは原発が生活のすぐそばにあるからこそ、今までのやり方に疑問を持って当たり前なのだとも気づかずに、「反原発なんてサヨクが」という幻想に浸り続ければ、それでいいのだろうか?




肝腎の被害者/被災者は、しょせん「田舎の百姓」だか学歴がないだかなんだか、つまりは差別蔑視対象、だから無視して済んでしまうのだろうか?

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