最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

5/30/2013

橋下徹氏の問題発言をめぐって、大阪の飛田新地(遊郭)と性の文化への偏見について

先日の外国人記者クラブでの会見で、橋下徹氏に過去、飛田新地料理店組合の顧問弁護士をしていたのではないか、という質問が飛んだらしい。

「料理店」というのはあまりに分かり易い、兵士の性欲処理のために従軍させた女性たちを「慰安婦」という偽善的な言い換えでで誤摩化したのにも通じる、あまりにあからさまな言い換え語だ。

橋下さんは「違法ならば取り締まられているはずだ」と質問をかわした。

つまりは「取り締まられず現状ずっと営業しているのに、本当に違法と言えるのか」と詭弁で話をかわしたのだが、質問した側には、女性を食い物にする遊郭の弁護士をやるほど倫理観が低いから、例の問題発言をしたのだろう、と批判する意図があるのも分かりきったことであり、橋下さんが論点を逸らし誤摩化したと言えば、それはその通りだろう。

田中龍作ジャーナル「橋下氏会見 海外メディア不満「明確な回答なかった」、失笑もれる」
http://tanakaryusaku.jp/2013/05/0007176

だが一方で、質問した側の発想に見られるその意識も、いかがなものか、とも思ってしまうのである。

売買春の是非を巡る議論では、しばしば女性の人権の問題と、売買春を賎業とみなす父権性の通俗道徳的な倫理観が混同され、告発する側はたいがい、自分たちの差別偏見や蔑視に、無自覚なままで終わってしまう。

内田樹先生がその辺りの問題を分かり易く整理しておいでなので、こちらもぜひ参考にして頂きたい。

内田樹の研究室「セックスワークについて」
http://blog.tatsuru.com/2013/05/29_0836.php

飛田新地は、大阪の天王寺駅の向こう側、西成区にある。隣接する阿倍野地域は再開発が進んでいる(と同時に、こぎれいな第三セクター経営物件の商店街などで、ゴーストタウン化も進んでいる)が、崖を経てその下がかつての鳶田墓地、そこに明治の後半に、難波の大火のあと遊郭が移転して来た場所だ。住所表記の上では、西成区山王になる。


大きな地図で見る

「山王」という地名が、たとえば「太子町」、あるいは「橋下」などの人名と同様に、いわゆるかつての被差別部落地域を暗示するものであることすら、今では大阪の人でも多くが知らないだろう。しかし西成区が日本でも最大級のいわゆる部落であることを、関西の人間は「知らない」としても、やはりどこかで気づいている。

天王寺駅から行った方が、崖の上から見下ろす形で、階段を下りて行く方が近いことは後で知った。阿倍野側の崖の上には、背の高さほどの塀がある。こちら側から見たら向こうが見えるか見えないか程度の壁、だが反対側、飛田の遊郭街から見れば、とても威圧的だ。

最初は新今宮(線路の反対側は通天閣などがある新世界)から、延々と「動物園前商店街」を通り抜けて、いわば文字どおり、地理的に、「同じ高さ」でこの今も残る遊郭の町に入った。



決して飛田の遊郭を肯定するわけではないし、実際、最初に行ったときは「人間ディスプレイ」状態、文字どおり「商品」がライトアップされている状況なのが、凄まじいショックで、気分が悪くさえなった。

でも何度か行ってみて、今編集中の映画『ほんの少しだけでも愛を』のシーンも撮影した後では、そんな単純な話ではない、と言うところまでは分かる。



かれこれ一世紀近い歴史はある飛田の、建物の作りは様々だ。

明治末〜昭和初期と思われる、見事な木彫りの懸魚に眼を引かれるような、豪壮な木造建築もあれば、同じ時代でも簡素な庶民的な造りもあり、戦後のいわゆる「文化住宅」的なものなどなどが、整然と升目状態に区切られた町に混在している。

だが店先は全部同じ様式、看板は必ず正方形で、間口も正方形、その間口の中央に、ライトアップされたお姐さんが座わる。まるで「鎮座している」としか言い様がない、堂々とした笑顔で、昼間でも照らし出されている。
ちなみに飛田遊郭の営業時間は比較的早い。夜の10時ぐらいには閉店するよう、警察との了解があるそうだ。
間口の戸の陰にお客に声をかける「遣り手婆」がいて、反対側には逆側から来る客を見逃さないための鏡がある。

この統一された様式は、無論もともと商売の合理性を考え抜き、「商品」をもっとも売れるように提示する冷酷なものではあるが、ここまで徹底されると、それはそれでひとつのスタイルになっている。


表向きは「新地料理店組合」が管理する町だが、その実態は恐らく、いわゆる「同和」系のやくざなのだろう。好奇心でカメラを向けようものなら、地廻りに止められる。あくまでお客を楽しませる場所で、決して暴力を振るうわけではないだろうが、迂闊にカメラを出してはいけない、という雰囲気は誰もが肌で感じるだろう。

だが飛田で映画や写真を撮る場合の不文律は、「店先を撮ってはいけない」ではない。

決してお姐さんたちを撮ってはいけない、ということだ。

ここでしか稼げない今はここで稼ぐ、彼女たちの将来のために、その記録は決して残してはいけない。

それが分かっているみたいだし、ならいいよ、と僕らは言われた。


その後は、何度撮影に行っても、絶対に店頭の彼女たちが入らないキャメラ位置に、どっしり三脚を構えていれば、一度くらいはなにを撮っているのかフレームをさりげなく確認するようにそばを通られるだけで、なにも言われない。

むろん僕たちが大規模な、商業的なスケールで映画を撮っていたら、話はまったく違っていただろう。こちらに余裕があるのなら、ショバ代を出すのは当たり前のルールだとも思う。ここは警察・官憲が治安を担う「普通の場所」ではない。 
警察・官憲もまた「差別する側」であるのに対し、差別される側の場所において、法律がどうなっていようが、その我々の側の論理でしかないことに、その人たちがただ従うべきだという「正義」は、成り立たない。彼らを差別するものでもある我々の論理は、彼らからみれば「正義」や「倫理」であるはずもないのだから。 
安易な正義感で、告発かなにかを気取ってキャメラを向けていい場所だとは、思えない。

山王の町に限ったことではないが、いわゆる「同和」地域で撮ったりするのはいろいろ面倒だ、と我々の業界ではよく言われる(あるいは言外の言で警告じみた圧力をかけられる)。だが実際には、礼儀さえ守り、なるべく迷惑をかけないように心がけ、声をかけられても最低限の礼儀を守ってさえいれば、まったく問題はなかった。

声をかけてくるにしても、先方も決して威圧的でもなんでもなく、きちっと礼儀を守っているし、そんじょそこらの警備員の慇懃無礼さや、警察官にありがちな、どこか上から目線の高飛車さも、微塵も感じさせない。

阿倍野と飛田を仕切る、崖の上の壁

正直、最初に行ったときは、飛田遊郭の「商品」としてお姐さんたちが完璧にライトアップされた様式美は、搾取のシステムにしか見えなかった。

でもだんだんどういう町か分かって行くと、その照らされたお姐さんたちが毅然としていることに気づく。


決して肯定はしないが、単純に否定は出来ない。



動物園前商店街は、大阪の、こうした地域の商店街の例にもれず、今ではもの凄く寂れているわけなのだが、そこで目立つのが単身者向けの家電の中古販売だ。

やむにやまれぬ事情で覚悟を決めてここで働く、過酷な仕事だけど、短期でカタをつけて、新しい人生を切り開く女性も多いのだろう。

いや、そうに決まっている。本当に喜んで、自ら進んで春をひさぐ女性がいるとは思えないし、そう言い張る女性がいるとしたら、それはそれで心の病などからの自己逃避の場合が多いだろう。



様々な事情があって、やむにやまれず、この仕事を選択している。そうやって貧乏人が一生懸命に生きていることに、余人に後ろ指を指されるいわれはないはずだ。

「恥ずかしい仕事」と見られることはわかっているし、将来の幸福を棒に振る覚悟も要る。そうした社会の差別偏見を抜きにして考えても、決して愉しい仕事ではないし、客のなかには身勝手な、それこそサディスティックな欲望を満たすためにやって来る者もいるし、その判別はほとんどの場合、二人だけの密室のなかで、手遅れになった時でしか、つかない。とても危険な仕事なのだ。



釜ヶ崎と飛田がご近所であることを意識すれば、すぐ分かることだ。男はいざとなれば釜ヶ崎に行けば生きていくことだけは出来る。女性にとってそういう場が、たとえば飛田遊郭なのだ。

その哀しみは、ただ「売春は最底辺女性の人権蹂躙」と言って済ませられることではないし、
だからこの場の存在を無碍に否定はできない。

この飛田の話をツイッターで書いたところ、このような返信をもらった


やりきれない話だ…。私たちの「社会正義」は、本当にそんなに自信を持って正義と言えるのか?「女性の人権の蹂躙を許さない」と言って売買春を杓子定規に否定することが、実はこのような不当な差別の隠れ蓑になってはいないか?

他に働ける場所がないだけではなく、他に行ける場所、存在できる場所がないから、この町が存続しているのだとしたら、橋下氏が「必要」と言ったことや、この町の顧問弁護士であったことを、ただ闇雲に否定はできないのかも知れない。

現代の非合法管理売春では、しばしば娼婦がいったんその仕事を始めたら、決して抜け出せないようにあの手この手を尽くして(もっともよく使われるのが精神・肉体双方の虐待と、麻薬づけにすること)、売春組織に依存する心理でがんじがらめにすることが、よく行われる。

アモス・ギタイ監督『プロミスト・ランド』より

外国人娼婦の場合、パスポートをとり上げることで身動きできなくするのなんて常套手段だ。

国際的な非合法売春組織は、米軍のブートキャンプのようなやり方で、女性たちの人格を破壊する方法論すら持っている。

現代の世界の売春取り締まりのやり方では、その虐待被害者である女性たちをさらに犯罪者扱いして、人格を徹底的に破壊してしまう場合が多い。

飛田では、決してこの場で行われている商売を美化するわけではないが、恐らくそういうことはまずやってないと思う(薬物中毒患者ではここのスタイル、店先に毅然と座ることが難しくなるし、また西成署との暗黙の了解で存続している遊郭で、看過出来ない犯罪行為をやらせるほど、ここの人たちは愚かではない)。


僕が聞いた限りでは、山王組はお姐さんたちがヤクを使わったらお店ごと営業禁止で閉店させて追い出すのがルールらしい。

動物園前商店街を釜ヶ崎方面に向かう


釜ヶ崎に行けば覚せい剤は簡単に手に入るのだが(「あそこの通りは危ないから行ったらあかんで」と釜ヶ崎のおじさんたちに言われた)、それは決してやらせないよう、手を出させないようにしているのだそうだ。

だから単身者向けの、安物の家電が、中古で並ぶのだろう。

むろん、すべての妓楼が良心的であるわけもないし、麻薬に手を出させないのは娼婦の“商品価値”を下げないためでもある。過去には親の借金のカタに「親孝行」となだめすかして娼妓にさせた冷酷も、日本の歴史の一部であったわけだし、逃げ出す者は「それでいい」ということではまったくない。年季奉公で縛り付けることが、日本の遊郭文化の供給源であった事実を、否定する気はない。

ただ杓子定規に私たちの論理、私たちの「正義」で決めつけていいことではない、というだけだ。江戸時代までは、遊郭を無事出ることが出来た女性が結婚することも普通だったのだし、だからこそこうした営業行為が文化として存続出来たのだろう。

必要なぶんを稼げるだけ稼げば、あとは出て行きなさい、出て行っていいよ、というスタンスなら、社会全体の現実が女性たちにとって厳しいなかで、決して単純に売買春の仕切りを「女性の人権を蹂躙した」と否定しておしまいに出来ることではない。

とはいえ、出て行けない人が多いのもまた現実なのだろう。


飛田遊郭の片隅には、ここで亡くなったまま、身寄りや引き受け手もなかった女たちの無縁仏を供養する慈母観音が、ひっそり立っている。



あどけない童子の額は、あまたの人の手がそれを慈しみ、撫で続けたのか、ピカピカに磨きあげられたかのようにみえる。

5/28/2013

お薦めの、必読の記事、郡山の「からから亭日乗」から/ 「区域再編」、それへの限り無い疑問

からから亭日乗: 「区域再編」、それへの限り無い疑問: 今日の午前0時をもって、双葉町の区域再編が行われた。双葉郡は96%の人が住んでいた帰還困難区域と4%の人が住んでいた避難指示解除準備区域とに再編された。 テレビのニュースは言う。「福島県内の警戒区域はすべてなくなりました」と。 それだけを見た人、聞いた人は、もち...

5/27/2013

橋下徹氏「慰安婦は必要だった」発言をめぐる、多層的な差別性


問題発言が叩かれ始めて2週間、「マスコミの大誤報だ」「誤解された」と頑固に言い張って来た橋下徹氏が、「弾丸が雨嵐のように飛び交うなかを走り回る猛者集団にとって、捌け口としての性行為は “必要”」「慰安婦は必要があるから各国実はやっていたのに日本だけ責められる」「米軍は沖縄の風俗産業を活用した方がいい」という一連の主張の、しかしあくまでその一部の撤回を表明した。


極めてピントのぼけた話で、米側がいちばん神経を尖らせているのは、一連の、安倍政権の極右歴史的修正主義的な発言の流れの中で、橋下氏が従軍慰安婦を「必要」としていわば正当化したことであるのは、当然なのに。

だから安倍氏を含む自民党右派がここぞとばかりにライバルの日本維新の会の橋下氏を批判するのは、これまた見当違いな話なのは言うまでもない。

だいたい、慰安婦は「ただの売春婦」であり「強制連行などなかった」、だから「日本だけ責められるのはおかしい」と言い張って来たのは、彼らも同じではないか?安倍晋三は、前に首相だったときに、同様の歴史問題の発言をブッシュ政権(当時)に咎められて謝罪していることを忘れてしまったのだろうか?

「強制連行がなかった」とする論点自体が、彼らがいわば捏造したものに過ぎない。そんなことそもそも慰安婦問題が人道犯罪と断罪され、日本が非難されて来た論点ではない。

戦時中の日本の状況を少しでも知っていれば、慰安婦に強制性があったことなど理の当然、なかったと思う方がおかしい。「お国のため」と言われれば逆らえない、さもなくば官憲が先頭に立って「非国民」とののしられ、最悪特高警察に引っぱられる、陸軍なら上官の命令でリンチされるなどが、軍国主義の時代の日本の庶民の当たり前だったし、慰安婦の存在はさすがに大っぴらに語られにくく、実態が調査されたわけでもなかったとはいえ、戦場を体験した世代がまだ元気だった時代に、今のような慰安婦をめぐる議論もどきの愚論など、ただのナンセンスでしかない。

日本人でさえ「お国のため」に逆らえなかった時代に、蔑視差別される植民地の、それも性労働を強要された女性たち、いわば社会の最下層に置かれた人たちのみそんな特権的な優遇があったなんて、考えるだけ馬鹿馬鹿しい。

「公文書に証拠がない」を持ち出すのも馬鹿げている。

署名捺印の契約書があるからといって強制がなかった証拠になぞなるはずもなく、銃を頭に突きつけて署名させたって、書類の体裁だけは整う。「強制連行を示す命令書の類いはない」と言ったところで、当時ですら日本の国内法で違法となる行為を公式に命令する馬鹿なぞいるはずもなく、しかも慰安婦徴集において強制的な行動をとることを戒めるよう官憲が同行する指令が出されているのだから何をかいわんや、なのである。

ただでさえ、徴集される慰安婦の側にしてみれば、軍隊や警察が徴集する側に同行しているだけで強制になるのは、分かり切った話ではないか。

しかも「お国のため」である

日本政府が今までやったのは、河野談話に妥協でその言及が盛り込まれたような、公文書をざっと調べただけで「強制を示す文言がない」といい加減な結論を出した「調査」が関の山だ。

ホロコーストに関してドイツが行い、当初被害国に思われたポーランドやフランスが自ら加害国でもあったことを立証したような、厳密な歴史・実態調査などまったくやっていない。元慰安婦が民事で訴えれば、形式上賠償請求訴訟になることを逆手にとって「日韓基本条約により、請求権がない」という門前払いで、司法すら事実認定そのものから逃げて来ただけだ。

ロクに調べもせず「なかった」と言い張ることが、被害者を何重にも怒らせ侮辱することにしかならないと、なぜ気づけないのか?

差別される朝鮮民族でありしかも蔑視される性労働に従事した人たちだから、謝る、頭を下げるなんて沽券に関わると言わんばかりに、橋下氏の口から出たのもたとえば「かわいそう」といった、下位に見て憐れみをかける言葉でしかない。

そんな調子で「誤解だ」と言い張る橋下氏に、元慰安婦が面会を拒否したのも当たり前だ。「かわいそう」ポーズで侮辱されてマスコミ対策に利用されるだけではないか。

また当初は面会するはずだったその元慰安婦にテレビ局などが取材した内容もおかしい。なぜ今話題になっているこの時に、彼女達がもっとも訴えたいこと、日本人が知らなければならないことを、きちんと報道しないのだ?

つまり、戦時中に、彼女達になにがあったのか、である。

「かわいそう」で済まされる話ではないし、世代が違って直接責任はないと言ったって、橋下氏を含めた我々の世代(昭和40年代生まれ)だって、加害国の国民である

殺人犯の家族が、被害者遺族を「かわいそう」とだけ言っていればいいものかどうか?同じことではないか。

ただしこれは、支援団体が出した声明文書も出来が悪い。「恐怖すら感じる」などとの文言を入れて「かわいそうな被害者のおばあさん」対「怖い強権的右翼・橋下」イメージを作ったって、足下を見られるだけだ。

ハルモニたちは怒っている、自ら思い起こすのも辛い過去を語り怒るだけ強いのだから、遠慮なくその怒りを突きつけるべきだった。

「かわいそう」と憐れみをかけるどころか、彼女達は我々の敬意すら受けるべき存在ではないか。

そのあまりに陰惨な記憶を生き延びて来た人間性の強さだけでも、尊敬に値する

             ****

だがこの敬意と蔑視の問題、慰安婦問題をめぐる日本国内の無自覚な差別性を考え始めると、橋下氏が「誤解だ」と言い張っていることも、あながち間違いではないのかも知れない、とも思えるのである。

無論、彼の直接の文言とそこに現れたロジックは批判されて当然のものであり、女性蔑視だと非難され、アメリカ国務省が「言語道断」と言うのも無理はないのだが、その発言をしたのが橋下徹であるというコンテクストで考えるなら、ただ「女性蔑視だ」で断ずるのは、アングロサクソン的なピューリタニズムの偽善性にのっとったポリティカリー・コレクトネスでしかない、とも言えるのだ。

僕自身は、橋下氏が「誤解された」というその真意は、実はここにあるのではないかとも思う。

それは大阪市長の橋下徹氏が、いわゆる被差別部落の出身だからであり、大阪では被差別部落と性風俗産業…というか売買春のカルチャーがセットで差別されて来た歴史があるからだ。

本ブログ前項の、大阪・九条の映画館シネ・ヌーヴォの「ロマンポルノ裁判」(地元住民がポルノ映画の上映差し止めを要求)とも併せて読んで頂きたいし、またその文脈で考えたいことでもある。

九条には松島遊郭(橋下氏のいう「合法的な風俗業」ですらなく、はっきり「遊郭」であり本来なら売春禁止法違反)があり、大阪には西成区にもっと有名な飛田遊郭もある。

飛田がかつて鳶田墓地であり、西成区が今日でもあからさまに「被差別部落」の成れの果てのままスラム化すらしていることが分かり易いように、そもそも遊郭など性の文化は、いわゆる部落と、それに墓地とセットで、歴史的に存在して来た

    藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より

ほとんどの人が忘れているようだが、再開発が行われ「グランフロント大阪」ができた梅田北地域(旧北ヤード)は、元は「埋め田」転じて梅田墓地である。梅田一帯で性風俗産業がけっこう盛んなことにも、歴史的な理由があるのだ。 
大阪に限った話ではなく、東京つまり江戸でも上野・浅草から隅田川を挟んで北西方向に吉原遊郭があり、杉田玄白が解剖を行ったことで知られる骨ケ原刑場があり、また上野の東照宮と寛永寺の徳川家墓所に連なって広大な谷中墓地があるのも、同様の歴史的都市構造の名残だ。 
あるいは今なお両国に国技館があるのも、明暦の大火後の都市計画で江戸の川向こうであった両国がまず大火の犠牲者の慰霊の場になり、そこに相撲をはじめ、歌舞伎、見世物小屋などが集中したことに由来しているのだ。 
歌舞伎役者が「かわらもの」「かわらこじき」と呼ばれるようになった起源は京都の四条から六条の河原に同じような興行/性風俗文化の中心地があったこと(そして六条には刑場があった)と言われるが、江戸の場合はたとえば川向こうであったり、寛永寺や東照宮を中心とする鬼門封じであり、その同様の文化の名残は、関東よりも東のほとんどの日本の歴史都市に元来あったものだ。

それが現代でも差別として残り、橋下氏はその差別される側として育ったのだ。

遊郭でも見れば、そこで女性を「買い」に来るのは「差別する側」の人間たちであり、自分達の需要つまり「必要」がある売買春などの性風俗産業なのに、それを差別対象とするのは、「差別される側」から見ればまったく理屈に合わない偽善ではないか?

…と、その差別される側で育った男の子が思ったとしても、それは当然である。

買ってるお前らが差別してるんやん。お前らに必要やから、この差別される場があるんやろが

こうした意識のなかにもまた、自分が差別される職業である売春をやっている女性という当事者ではないことのズレがあり、そこにだって厳密には女性蔑視が含まれるとは言えなくもないにせよ、少年の論理でそこまで理解するのは、それは無理というものだろう。

むしろその不当性を見抜き、差別される娼婦達に同情出来るだけ、そんな場があることも知らず、見ようともせず、性の産業文化自体を「汚らわしい」と思っていることを「モノ扱いする女性蔑視だ許せない」と言い張ることで隠蔽するピューリタニズム偽善の小市民的「正義」よりは、はるかに人間的だ。

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より、
     飛田遊郭の無縁仏慰霊碑

橋下氏が「必要」といい、だから沖縄の米軍にああ言ったのも、その「差別される側」だからこそ気づく不当さへの感情が、どこかに隠れているような気がしてならない。

もっとも、だとしたらますます、どうしようもなく言葉足らずなのではあるが。

ただしここで橋下氏を「弁護士のくせにそんな言葉足らずでどうする」と責める前に、我々が考えるべきことがある。

いわゆるえた・ひにんという権力側の見た差別的呼称以外に彼らを呼ぶ名前すら日本語の語彙になく、明治以降は「被差別部落」、戦後は「同和」と、言い換え語を駆使して差別の問題を誤摩化して来て、今やそのことに言及すること自体が「差別」だと言い出す「言葉狩り」をやり続ければ、「自分は差別をしていない」と言い張れると思い込む、差別される側には通用するはずもない身勝手な偽善性のタブーを続けて来たのは、いったい誰なのか?

実は性風俗産業を “必要” として搾取し続けて来て、かつ「魂が穢れる」「不道徳」と差別して来た我々の社会ではないか?

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より

5/10/2013

「ロマンポルノは文化」はその通りなのだが…/大阪の映画館が裁判に


大阪の映画館シネ・ヌーヴォがロマンポルノの上映をめぐって上部階マンション住民に訴えられているそうだ。

一見、住民側の主張は、トンデモで狭量な保守主義の偽善に見える。

ましてこの映画館から商店街を挟んだ向こう側が松島遊郭であることを考えれば、「ポスターが子供の目に触れる」っていうのだって「だからなんなんだ」と思ってしまう。

だが本当に、そんなに単純に住民を責められる話なのだろうか?

記事にあるようにこの映画館は法的な区分けでは「商業地」になるが、実際には店舗もあるけれど基本、住宅地という立地だ。家族向け住宅も多い。「子育てに悪影響が」と言われれば、一見確かに反論は難しい。

とはいえそれを言うのなら、商店街を挟んだ向こう側の松島遊郭だって、なかに普通に住宅も建っていたり、郵便局もあり、あたかもなにごともないかのように生活と遊郭が隣接しているわけで、やはり偽善に思えてしまう。

いや実際、偽善と言えば偽善なのである。

だがだからこそ、住民の感情には根深いものがあるのだ。

九条という地域全体が「そういう場所」だったのであり、だからこそ商店街を挟んでこっち側は「住環境がよい」つまり遊郭とか性的なものがない、その一線の「こちら側」であることが、ほとんど死活問題なのだ。

「差別意識そのものじゃないか」確かにその通りだ。



このアート系映画館が入る前に、確かこの映画館の設備は、昔はポルノが上映されていたのだし、「だったら今さら騒ぐな」とますます言いたくなるのが、我々「外から」の視点だ。

だが地元の住民にしてみれば、だからこそそんな昔と今は違う、新しい映画館は文化的で高級な映画館なんだ、というイメージこそが、重要なのだ。



繰り返すが、「差別意識」と言ってしまえばその通りである…

…というか、まさに性差別、遊郭やそこで働く女性への差別であり、性への蔑視の問題そのものに他ならない。



だがだからこそ、ここで「表現の自由」「ロマンポルノは(高級な)文化なんだ」という、いわば “外から目線” のその実やはり偽善でしかない議論で、裁判を押し切っていいものには思えない。



遊郭があったり、商店街の地下鉄の駅を挟んで向こう側の部分とかを見れば、ここが歴史的にどういう地域だったかも、ちゃんと見ている人は気付くだろう。

大阪の九条の、松島遊郭から川にかけては、いわゆる「被差別部落」と決して無縁ではない歴史がある地域なのだ。

古来、「部落民」とは実は文化を支えて来た人たちであり、性は日本の精神文化にとって極めて本質的な部分だった。「江戸時代は性におおらかだった」とよく言われるが、「おおらか」である以上に、文化的な生活に不可欠な一部分であり、今のように忌避され蔑視され隠蔽されるものではなかったのである。

いわゆる「部落民」こそがその根幹を担っていた江戸時代の文化の中核にこそあるのが、性であり、遊郭はその重要なキーポイントだった。

そうした日本人の文化をまるごと隠蔽しようとしたのが西洋近代をモデルにした明治維新であり、日本の近代化とは日本文化の西洋化であり、逆に言えば日本人が日本人であることを捨て去ることでもあった。

その最たるものが性と身体性の社会の表面からの排除、たとえば混浴の禁止だった。

明治新政府は当初英国を統治の手本にしたわけだが、まさにピューリタニズムというか、性が徹底して抑圧され社会の表面から消し去られたヴィクトリア朝の価値観が、突然日本人に押し付けられたのである−「近代国家」として認められるために。

北斎や広重を見れば、幕末でも日本は裸体にあふれる社会だった。ふんどし一枚の労働者が当たり前の風景を、突然コルセットで女性の胴体を締め付けるような文化が覆ったのである。

安藤広重、東海道五十三次より、藤枝宿
その意味で、部落差別が本格化したことと性がタブー視されることは、ともにむしろ明治以降、日本の近代化のなかでこそ起きたことであろう。



大島渚の言葉を借りれば、「猥褻とは、明治の役人の下品な造語」なのである。



その歴史的な文脈を照射するなら、この地域住民が「近所の映画館でポルノは上映するな」と言うのを、ただ「差別意識」と糾弾するのは難しい。

まして「文化が分からない」「表現の自由を抑圧するな」と高飛車に批判して済ますわけにはいかない。



まして市民の有志団体という形でここに映画館を作ろうとした時、せっかくの映画館の空き物件があったのに、「九条みたいなところで(遊郭がある、悪所だ)」と反対が根強かったのだから、なにをかいわんや、なのだ。

だからこそ、むしろここが「差別される場所」であった隠蔽された歴史を掘り起こし、映画館の経営側の意識もそこに囚われたままで、住民自身もまたそこから逃れることが出来ないままの差別の構造を明らかにし、解きほぐして行くことからしか、本当の解決はあり得ないと思う。



またそうすることが結局は、「ポルノ」や裸体表現を特別視して忌避・タブー視する日本全体の文化的状況を変えて行くことになるし、ロマンポルノがそんな現実を変えて行く武器になることこそが、本当に映画的な状況でもあると思う。



本当の問題は、明治以降の近代化のなかで、我々自身が自分達のセクシャリティや文化を、蔑視し忌避し、差別するものに貶め、タブー視して来たことなのだ。

その大きな差別の構造が厳然とあるなか、「差別される弱者」として潜在的な抑圧を感じている地域が、商店街ひとつ隔てた向こう側の遊郭との差異化という、どうでもいい偽善にしかハタ目には見えないことであっても、少しでも差別されない、蔑視され忌避されない場所になることを求めるのは、責められるものではない。

これは大きな構造を根底から変えることでしか解消されない意識の限界であり、それが変わるまで「弱者」になる地域は差別から身を守ることしかできない。つまりこの地域の反発を「狭量で野蛮な差別だ」と糾弾してしまうなら、そのこと自体、我々が自分たちの社会の差別の構造を隠蔽する偽善のためにやっている差別にも、なってしまう。

まして商店街を挟んで松島遊郭であることをあげつらって、その商売を蔑視した上で「ポスターくらいなんだ」「売春は見過ごしているのに、映画という文化芸術を理解しない」とか言い出そうものなら、これこそ傲慢な差別意識以外のなにものでもないだろう。

「映画とは、本当はとても役に立つものだったんだ」というのがペドロ・コスタの口癖なのだが、ポルノや裸体表現、性表現というのは、まさにこういう我々の無自覚な忌避感情、差別意識、蔑視を変えて行くのに「役に立つ」もののはずだ。

その意味では、シネ・ヌーヴォでロマンポルノの特集上映が行われ、地元の人も見に行ったりして、映画館とその上映プログラムが受け入れられることは、ものすごく「役に立つ」ことである−あくまで「裁判で勝つ」だけでなく、住民もまた納得するのなら。



それは「映画が自由になる」だけでなく、自由な映画がそれを見る観客を自由にすることでもある。だからこそ、「映画は役に立つもの」のだ。