最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

9/20/2011

僕は今、猛烈に怒っている

昨日、東京で数万人規模の反原発デモがあった。

 大江健三郎氏がスピーチしたりで話題性を作り、古典的なデモとしてはようやくそれなりのデモになったことは評価すべきだろう。2003年2月のアメリカのイラク開戦に反対する世界同時デモは、僕が参加したベルリンでは15万人、それが東京ではたった5千人だったそうだし。

ただし今「反原発」でデモを行うのなら、古典的なデモでは済まない状況にあることを忘れてはいけない。

まだ震災からたった半年で、死者たちの喪に服す人たちや、その余裕もなく避難所で暮らす人も多く、仮設住宅に入っても今後の見通しがつかない人が9割を越えているという調査結果もある。

こと福島第一原発の事故で避難を余儀なくされている人たちの置かれた事態は深刻だ。 そして「反原発デモ」をやるのなら決して忘れてはならないのは、事故は東京ではなく福島で起こっているということだ。

東京には「我々は被害者だ」と言う人たちはいるが、実際の被害はあるのか?あるとしてもそれは福島県の、こと第一原発から北西方向の人たちとは比べ物にならないはずだし、生活の基盤をすべて失った20Km圏内や飯舘村などの人たちとも比べ物にならないし、農産物の放射線汚染だけでなく風評被害に苦しめられる農業者・漁業者とも比べ物にならない。

「我々は被害者だ」というのは一応、構わないとしておくが(ただし同時に加害者でもあることを忘れてはならない)、もっとひどい現実の被害を受けている人がいることを無視するのはさすがにおかしい。

そしてそうした被災地から見れば、「デモなんてやってるんだったらボランティアに来て除染を手伝ったらどうだ?原発事故は現実であって、『原発止めろ』と言ったら解決するもんじゃないんだぞ」といった怒りの声が出て来ることは当然予想されるべきだ(そして現にあった)。

ところがデモに参加するならそれくらいの想像力と覚悟を持ってるもんだろうと思ったら、そうでもないらしい。

僕自身は先述のベルリンでのデモで「イスラエルぶっ殺せ」という集団もいたのがいわばまあ、トラウマでして、デモに参加する気はない。また故・土本典昭の教訓「映画を撮っている時は運動はするな。運動する時は運動だけして映画は撮るな」をもっともだと思うし肝に銘じているので、今『無人地帯』という映画を作っている以上、デモに参加することはない。

まあそれに青少年の頃から20代にはそれなりに参加したことも多いし、今は他の表現の手段を用いるべき立場にいることもあるし、もともと、こと日本における集団主義・集団行動は性に合わない。はっきり言ってデモに参加するのは退屈だし苦痛なのだ。 
だからといってデモに参加すること自体は批判するべきだとも思わないし、ちゃんとやってれば評価すべきだ。 
ただしあくまで、ちゃんとやっていればの話だ。 
僕は皮相なマスコミではないから、「大江健三郎氏が来ました、何万人参加しました」だけの皮相な理由でデモの成功を評価することもない。 

そしてはっきり言っておくが、まず「参加もしてない奴が文句を言うな」と参加者が言い出すデモはまったくダメなデモであることは断言できる。

そもそもデモの目的が分かってないだろうに、そんなことほざくのは。

なんのためのデモだ?


社会にアピールするためだろう?


それは特に「参加していないその他の人たち」に対して自己の主張をアピールすることだろうに。


 批判を受けても自身の主張の正当性を堂々と発言するなら立派だ。どんどんやって欲しい。

だが「参加もしてない奴が上から目線で文句を言うな」って、あんたらの内輪の集団マスターベーションだけが目的のデモならぬ「デモごっこ」なら、ただの社会の迷惑だろうが。自分らの「デモに参加した俺ってえらい」の上から目線こそまず反省しろ。

 だが、それだけならまだ可愛いもんだったりする。

それに今時の日本では40歳過ぎてもデモ初参加とか、つまりそれまでデモだとかの社会運動が未成熟だったわけで、だから参加者もまだ未熟なのは仕方がないだろう(つったって、あんたらじゃあこれまで在日コリアンがデモをやったり、釜ヶ崎のおっちゃんが暴動やったり、元従軍慰安婦のおばあさんたちのデモとか、どう考えてたわけ?どうせゲイ・プライドなんて軽蔑と差別のまなざしで見てただけだろうにどういうダブスタだよ、とかちょっと言いたくもなるけど)

 しかし今やってるのは、福島第一原発事故に誘発されての「反原発」デモなんでしょ?そうでなければ、福一が事故るまでの40年間なにも言わなかったってのは、おかしいよね?

ならばその事故の直接被害者やその周辺から、「そんな暇なことやってるなら除染手伝いに来い、こっちは必死なんだ」と文句を言われることくらい、甘受するのが当然だろう。

少なくとも誠意を持って答えるのが筋というものだ。

 だいたい、そんな当然の想定の範囲内の苦情にも対処出来ないのでは、東京電力の「想定外でした」を笑えないはずだし、しっかりとした主張の誠実なデモをやっているのなら、自ずからそんな苦情も出て来ないだろう。

少なくとも、デモが表現行為である以上、それくらいのことは万全の努力をやっておくべきことだ。
それは我々の映画だって同じことだ。別に原発事故についての映画を作る義務なんて誰も主張していない。作ったからエラいなんてこともない。 
ただし原発事故が起こって、それが東京の電力のための原発で、そして多くの人たちが避難を余儀なくされているときに、その人たちを無視して平然としてられるなら、映画云々以前に人としておかしい。 
被災地に映画を撮影に行く以上、「迷惑だ」と言われることも「そんな暇あったら瓦礫の片付け手伝え」「あんたの映画に出ることで我々になんの得があるんだ」と叩かれることも覚悟して行って当然だし、そう言われないような行動は自ずから考えなければ、撮れるはずがない。 
現に基本、「ただの迷惑」なのだから。 
ただし我々が福島浜通り飯舘村で撮影した時に、そんな体験はまったくなかったことは、ここに報告しておく。 
二度だけ「映画に出たってなんのとくにもならない。損するだけだから」と撮影は断られたことはあるが、それでも撮影はしないでも話はずいぶんと聞かせてもらえた。 
…と書くと「自慢だ」とか言い出す卑屈な人がいるに決まってるから先手を打っておけば、我々はなにも特殊なことはやってない。むしろ浜通りや飯舘村で我々が出会えた人たちが、それだけ人格の高貴な方達だっただけのことだ。
ところが一部の、「反原発デモに参加して来ました」と言いたがる人たちは、ひたすら自己陶酔だけなのか、こういう当然の人間としての他者への尊重がまるで欠如しているらしい。

だから福島県民からさすがにウンザリの批判が出たら…なんと単純に怒り出すのである!

これはびっくりしたわ。あんたらどこまで愚かで傲慢なんだ?

  だいたい「原子力はこのままでいい」なんて思ってる人なんて、今の日本でまずいない。「そこから先」がないから相手にされないんだ、ってことにそろそろ気づくべきだろうに。

もう事故から半年も経っているのに、その程度の学習もないのか?そんな程度だったら、誰にも真面目に相手にされなくたって当然だ。

 しかも40過ぎて人生初デモに参加したのが勲章で「俺は引きこもりじゃないんだオタクは卒業したんだ社会参加したんだ」ってのがプライドになるとしたら、相当に虚しい…っていう自覚すらないらしい。

 あるいは47歳で初めてデモに参加して興奮しちゃってることをからかわれたら「上から目線だ、許せん」とか叫んでるオッサンってのは、あまりにも人間が小さいわけだ。

いやこれだけじゃ言葉が足りません。そんな奴らってまさに無思慮なマジョリティの小市民の偽善そのもの。その歳までマジョリティであるが故にデモとか社会への怒りとか感じずに済んだ幸運を感謝しろ、とくらいは言いたくなる。 

原発それ自体はポテンシャルに危険で倫理的問題もあるものだけど、その存在が大きなこの国の構造の中でであり、もはや我々の生活が否応なく原発と持ちつ持たれつの関係にあることをどう意味論的に乗り越えて行くのかの意識も持てないなら、半年もなに寝ぼけてたんだってことにしかなるまい。 

まして福島の原発は、東京の電気を作り続けていたのだ。柏崎の原発が中越地震で止まったのと前後して、福一の原子炉の耐用年数が延長されると報道されたときに、あなた方は新聞を読んでいなかったのか?柏崎停止で電力危機が懸念された結果、福一では耐用年数を過ぎた原子炉が稼働し続け、そしてそれが今事故になっているのだ。

「東京のため」だよ。

東京の電力危機が懸念されていなければ、福一の1号か3号までの原子炉は、もうとっくに止まっていたんだよ。そうしたらこの事故だって起こっていない。この事故が起ったのは、東京のため、我々のためでありあなた方のためだったんだよ。

そんな今、東京で「反原発」デモをやるときに、原発事故でいちばん直接被害を被っている人間たちのことを無視できるなんて、東京の人間ってどこまで身勝手になれるのか?というかどれだけ世界観が矮小なんだ?

だいたい、40過ぎるまであんたらの電力が福島に原発を押し付けることで供給されて来たことを忘れるな。 我々は、あなた方は、立派に加害者でもあるのだ。

それが後ろめたいからって言い訳のように「今日のデモには福島の人たち専用のコーナーがあって」って、それって福島からのデモ参加者を自分たちのエクスキューズの人寄せパンダに使ってるだけじゃん。もっと酷い搾取だよ、あんたらのその人たちの存在の利用の仕方は。

デモというのがその程度の上っ面のパフォーマンスを必要とするのは認めよう。だからって無批判を強要するのはただの幼稚な独善だろうに。 

しかも「デモには福島の人もいた」をいいわけに、福島から上がって来る不満や批判を無視できるのだとしたら、それが自分たちにとって都合のいい(=自分たちに服従し、脅威にならない)「福島県民」しか認めない、ってことに他ならないではないか。

それってまさに植民地主義者が「植民地民だって感謝してる」と言うのと同じ論法であり、明白に差別であり、植民地主義だ。 

なおテレビの取材で福島に行って避難させられた人とかを撮影したなかで、僕がこれだけは、と評価しているのは姜尚中さんだ。 
郡山のビッグパレットで避難してるおばさんたちに取材して「東京の人たちにだけは言われたくない」とはっきり言える自由を担保したあの人は、凄い。 
本当はそれが言いたくても、浜通りの人たちって気さくなようで実はもの凄く礼儀正しいから、東京から来た取材者に面と向かって「東京の人にだけは言われたくない」とはなかなか言えないものだ。 
 まして東京にデモに来る人はそれを封じ込めてでないと、来られないんですよ。 
だって東京の残酷冷酷って、マジで怖い。 まさにあなた方のその無神経さは、どんなホラー映画よりも恐ろしい。ナチス並みに恐ろしい。
だいたい、どうもデモに行った自分はエラいんだと興奮してる独善屋さんたちには、人間関係の基本すら想像がつかないらしい。

反原発デモやるからには福島県民の気持ちを踏みにじるべきではない、って決して全面賛成しろという意味でも、「代弁しろ」という意味でもない。ただ君らのやり方が、ハタめにあまりに身勝手で誠意に欠けてるんだよ!とはっきり言っておこう。

【本日の怒りの結論】反原発デモに行った人が福島県出身者にケチつけられたとき、顔を真っ赤にして「会場には福島県民の場所が用意され」だから福島県も代弁されてる、文句を言うなと言い出した瞬間、そのデモ参加者は田舎差別の植民地主義者であることを自ら暴露したことくらいは自覚すべきだ。

だいたい、他人に向かって堂々と正義を主張する気概もないのなら、批判されても堂々と自分の主張を述べるのでなく、ただ批判した相手を罵倒し中傷することしか出来ないようなデモならば、デモなんてするな。まったく情けないったらありゃしない。


ここがそもそも、根本的に間違っているのだ。


その程度の正義ごっこだから肝心の当事者を置き去りにして、ただ自分たちの内輪で集団マスターベーション。なぜその正義を信じてデモに参加するなら、その正義を堂々と主張しない?そんな根性で世の中変えられると思うのか?悩みつつデモするならそれを正直に述べよ。


自分たちの信念を正々堂々と口に出来るわけでもなく、ただ集団でつるんだ安心感が持てる中でしか声を上げられないのであれば、それはデモを装ったただの匿名性のファシスト集団に成り下がるだけ。関東大震災後の「朝鮮人が井戸に毒を」とどこが違うんだ?ただ当時よりは報道機関がしっかりしてるだけで、だから無実の朝鮮人でなく、現実の事故が捌け口になっただけだろう。

なおちなみに、「反原発デモ」などで極めてありがち(今回もあったらしい)な無自覚な差別/植民地主義は、その田舎のなかでの中央集権の側の、福島なら福島市、郡山市などから東京の組織がオルグして来た参加者がいるだけであったりするのに「福島県も代弁されてる」って思えたりするのだとしたら、もっと悲惨だ。

…いやだから、それはいわば…地方都市って、その田舎における東京の出張所みたいなものだよ。

そうやって自分たちと話が合う、東京と価値観を共有できる「福島」だけは受け入れるって…どこまで無自覚で無知で差別意識の固まりになれるのだろう?

まさに「踏み絵の強要」そのものだ。なんの権利があって、あんたらはそんなことが出来るのだ?

まして曲がりなりにも映画なる複雑でデリケートな(かつ一歩間違えれば強烈なプロパガンダ装置)表現体系に関わる者が、そりゃいくら「放射能怖い」で興奮して「放射脳」状態(笑)だからって、そこまで安易かつ無自覚な独善的ファシズム的心理状態にハマっちゃってていいの? 

そしてそういう自分たちの興奮状態をちょっと批判され揶揄されたら「上から目線」だって(失笑)。いい歳してどこまで幼稚なコンプレックスに囚われてるんだ?

いやコンプレックスは誰にだってある。だからってそれが無自覚かつ無批判に放置されていいのかといえば、そ ん な わ け な い じ ゃ ん、あえて名指しは避けるが某映画監督!
まったく、『東京公園』とか作っている映画は立派なのに、本人の言動には心の底から呆れるばかり。だいたい震災後の東京で「生きるのが大変」って…どこが?「一人の国民として映画作家として何が出来るのか」だって? 
自意識過剰で自惚れ過ぎ。 なのに「上から目線が気に入らない?」ああ情けない。
そんなこと誰も、あなたにも、映画にも期待していない。そんなもん芸術の役割でもない。「国民として」なんて言うなら自衛隊にでも入って災害救援にでも行きゃいいだろうに。 
ただいい作品が作れれば、「国民」に限らず見た世界中の人になにかが伝わり、それが原発とはなんなのかを真剣に考えたり、故郷を失わされた人たちのことを慮るための道具にもなるかもしれない、というだけだ。無論やりたくなけりゃやらなきゃいい。 
そんなことで誰もあなたを責めたりしない。そんな卑小な被害妄想なんていい加減にしろ。

まして自分たちが東京にいて、田舎を差別することで自分たちの生活に必要な原子力発電所であるとかを地方に押し付け続けていて、その押し付けられた地方を「原発マネーで汚れた推進派」とか言い募ったり、ただ「推進派」や「東電」を巨悪と決めつければそれで自己満足って…それはファシズムだよ。 

そういった「傲慢なる東京一人勝ち」の構造に東京人は無自覚だとしても、「自覚してないから罪はない」なんてことになるわけがない。

当然ながら例えば福島浜通りにいる人たちの多くは、その傲慢な構造にどこかでは気づいているのだ。

だからあなた方の無神経な行動は身勝手の我欲と受け取られても仕方がない。

まあ震災と原発事故を経て、日本人ってここまで狭量で思いやりのない身勝手な民族になっちゃったの、ってのが僕にはいちばんショックだったわけです。

考えてみれば浜通りや飯舘村で映画を撮ったのは、そのショックに対するセラピー効果でもあったのかも知れません。そこには普通に善良な日本人がまだいたのだ。

9/17/2011

『NoMan's Zone 無人地帯』ワールド・プレミア決定

©2011, denis friedman productions and aloicha films
映画自体はまだ画面の編集が終わった段階で、音声の作業はこれからですが、最新作『NoMan's Zone 無人地帯』を第12回東京フィルメックス映画祭(11月19日〜27日)に出品することが決まりました。

上映日程の詳細は決まり次第、またこのブログで報告するか、東京フィルメックスのウェブサイトでご確認下さい。

『無人地帯』 No Man's Zone 
 日本、フランス / 2011 / 100分(予定) 監督:藤原敏史(FUJIWARA Toshifumi) 
 【作品解説】『映画は生きものの記録である~土本典昭の仕事』を監督した藤原敏史が原発事故後の福島で撮影を行ったドキュメンタリー。住民が避難し無人地帯となった田園の、それでも美しい春の風景と、周辺地域に住み続ける人々、そしてまもなく避難させられ無人地帯となる飯館村の人々との出会いから福島の現状が浮彫りになる。 
製作:ヴァレリー=アンヌ・クリステン、ドゥニ・フリードマン
監督・脚本:藤原敏史
撮影:加藤孝信
編集:イザベル・インゴルド
音楽:バール・フィリップス&エミリー・レスブロス 
*テクストの朗読(ナレーター)はまだ公表出来ませんが、「日本のシネフィルがあっと驚く女優」であるとだけ申し上げておきます。




率直に言えば、海外ならともかく日本の映画祭でのコンペティション上映には、かなり躊躇があった。扱っている主題が同じ国に住む人たちの、それも直近の、あまりに大きな悲劇であり過ぎる。

そして半年経った今でもその人たちの抱える問題は深刻になりこそすれ解決にはほど遠いのが現状だし、それは11月末の上映の時にも、恐らくなにも変わっていない気がする。

編集中の8月初旬に郡山と会津若松に追加撮影に行き、避難先の人たちに会ったときにも、問題はもっと複雑化・深刻化していて、展望がなにもないことは痛感した。まだ4月5月のメイン撮影時の方が、先が見えないなりの楽観性とは言わずとも、「負けてたまるか」的なものがあった。 
我々は避難所では撮影は一切していない(これは最初から決めていた方針だ。あまりに失礼に思えたし、いい画が撮れるとも思えなかった)。だがそれでも8月に取材した際には、5ヶ月6ヶ月と続いた「避難所暮し」が惰性となり日常となり、地域の絆にも深い亀裂を及ぼしつつある現状は痛感した。プライバシーがあまりにないことなどさえ気にしなければ、三食まったく無料で生活し、なにもしないでもなんとなくは生きていけてしまうのが避難所であるのも確かなのだ。
老人たちならともかく、働き盛りの世代にとって、避難所に暮らし失業状態でも食うには困らないということは、その覇気や尊厳さえ蝕んでしまうものでもあり得るのだ。それはまた、避難したものの先行きの展望がなにもなく、一時期の「兵糧攻め」的状況ではないものの経済や産業の面でははっきり言えばお先真っ暗な状況に追い込まれている福島県ではなおさらだろう。なにしろ、どうせ仕事を探したところで見つかるわけがない、というのも現実なのだ。 
ならば仮設住宅に移って生活再建を始め、光熱費も食費も自分で払う、ということを回避するために避難所に留まる人だって出て来てしまう。だがそれは、たとえばより上の世代からすれば「情けない」そのものだろう。 
問題はより悪くなっている。補償にしても除染にしても、政府や東電が口では言っているようなことになるとは、ほとんどの人が思っていない。そして無人の地とされた故郷に戻ることの困難さも、リアルな問題として認識されつつあった。たとえば地震で痛んだまま半年も放置されたインフラをどうするのか?

題材の重要さだけでコンペティションで評価を受けるとしたら、そこからして決してフェアな話ではない。映画祭というのはそういう基準で映画を評価する場所ではないはずだし、ことドキュメンタリー映画とは他人様の苦しみを作品に搾取する残酷さを常に孕んだ存在であることが恐らくは避けられないのだとしても、国外ならともかく国内でそれでコンペでの評価というのも、さすがにちょっと違う気がしていたのだ。

「その考えは分からないではない。だがそういう見方をするべきではないのではないか」と言ったのがアモス・ギタイだった。「お前の撮る映画なのだから、ただのルポルタージュではなく、映画としてのクオリティがちゃんとあるはずだし、フィルメックスだってそれを信頼していなければ、お前の映画を選ぶはずがない」

「それにお前がその映画を撮った理由のうち、倫理的な問題、社会的な役割を言うのであれば、コンペティションで上映した方が大きな注目を集める可能性が高い。お前が日本で無視されている人たちのことを映画にするのだと言うのなら、その声はより大きく響いた方がいいはずではないか」


そう言われてみればその通りだと思う。

「他人様の不幸で栄誉を得たりするのは」というのは倫理的にそれはそれとして正しいだろう。しかし一方で、それはただ自分のことだけを考えているだけの、相当に狭い倫理ではないかと言われれば、それもまた、まったくその通りなのだ。要は映画作家としての覚悟の問題なのだろう。

もちろん自分の映画としてちゃんと作っているのだし、「緊急的な作品なんだから」と言って映画としてのクオリティについてのことを怠けてしまっては、それこそ映画を作る人間として、出てもらった人たちに失礼でもある。

なにせ飯舘村では避難直前の忙しいときにわざわざ出演してもらって、お茶で家のなかに上がり込んだりしてまで時間を割いてもらってるのだし。

我々がやるべきことは「代弁する」とか恩着せがましいことではなく、誤解を恐れずに言えば「感謝して自分のやることにありがたく利用させて頂く」であることでしかないはずだし、それは「よりいい映画にする」ことであって、「いい映画」であればその人たちを裏切ることにも、ならないはずだ。


なによりも我々が決して忘れてはならないであろうのは、この映画に出演している浜通りと飯舘村の皆さんは、いずれも「被災者として重要だから」映画に出ている以前に、極めて魅力的な人間たちでもあることだ。

もちろん地震があって津波がなければ原発事故がなかったのと同様に、この映画も地震があって津波があって原発が事故にならなければ起こらなかった映画だ。我々があの人たちと出会うことも決してなかっただろう。

だが地震がなかったから原発の問題がなかったわけではないのと同様に(と言っていいのかは分からないが)、その人たちもまた地震がなくても原発事故がなくてもそこにいたのだし、その意味では地震と事故はひとつの「きっかけ」に過ぎないとも言えるのかも知れない。


…というわけで、『無人地帯』はフィルメックスではコンペティション部門での上映です。

9/04/2011

カルティエ現代美術財団の『ヴードゥー』展が素晴らしかった件


7月9日から、最新作『NoMan's Zone』の編集でパリに来ている。8月の頭だけは福島県内で、原発事故の避難地域を離れて福島県内にお住まいの人たちの取材で一時帰国していたが、なにしろ休みは日曜だけで朝から晩まで編集室に閉じこもっているのに近い状態なので、滞在している13区のアパートからそう離れていないカルティエ現代美術財団にも、今日になってやっと行って来た次第だ。

ヴァカンス季節のパリなのに美術館にもめったに行かないんですからねぇ。困ったもんだ。

お目当ては4月から開催中の「ヴードゥー Vaudou/Vodin」展である。ヴードゥーと言っても、西アフリカの黒人が奴隷としてアメリカ大陸に連れて行かれて発達したヴードゥー教ではなく、その起源となった西アフリカのアニミズム文化についての展覧会で、主にベナン共和国起源の彫刻などの展示だ。

これが素晴らしいのである。

まずいわゆる解説がほとんどない展覧会なのが、展示してあるものはいわば文化人類学的な角度でのみ見られがちな文物であるのを、あくまで美術展として見せようとする態度として非常におもしろい。展覧会の総監督はデザイナーで造形美術家のエンゾ・マリ。美術の展覧会の常識すら排除して、作品の題名や素材などの表記も展覧会場の作品ごとのそばにはなく、配布される紙である。

歴史文化背景の説明のパネルなんてのも、最小限の地図やアニミズムの基本的な概念が慎ましくかけられているだけで、興味があれば配布される資料を見ればいいようになっている。

だから会場内はとてもすっきりしていて、とくに地下展示室は、壁も黒く塗られた暗がりの中に、立方体のケースに収められた呪術儀礼の彫像が、丁寧に照明されて浮かび上がるのである。


よけいな文字情報もないから、観客はこのひとつひとつの小さな像に食い入るように見入ることになる。そうすると次第に目が慣れて感性が鍛えられて、この独特の彫像がさまざまな素材で作られていることに気づく。基本は木だったり、ときに金属やテラコッタも使われているが、そこに布や縄、鎖、奴隷の足輪から、錠前、薬瓶などがくくりつけられていることに気づく。

そこか気になったら、配布された個々の作品資料を見れば素材は列記されている。さらには鳥のくちばしや頭蓋骨、動物の骨、さらには人骨まで使われている、そのすべてが黒々とした釉薬のようなものに覆われていて真っ黒なかに、ときどき素材本来の色(ビーズなど)や貝殻の白さ、骨の色などが見えて来るのだ。

この釉薬のようなもの、解説にはSacrificial Patinaと書いてあるのだが、これは儀式のときに生け贄の血をかける、その血が凝固したものらしい。

一歩間違えれば植民地主義丸出しの、「野蛮国」の奇妙で野蛮で残酷な風習を紹介するみたいな話になってしまう、普通に学術的にやってもそうなってしまいかねない展覧会なのだが、まったくその失敗はなく、神々しいまでにミステリアスな西アフリカのアニミズム文化に引き込まれて行く計算は、実に見事なものだ。

しかしそれはもちろん、展示されている個々の彫像が、いずれも無名の芸術家の作ではあるが、素晴らしい精神性を秘めて多くのことを訴えて来る傑作ぞろいだからだ。

独特の文化でデフォルメされたその形態のなかに、我々は、そこで識別される素材と、識別される表象対象(男根があれば男であり、乳房は女であり、子供を抱いた女は豊穣の神なのだろうし、男神の像の身体のあちこちに水平に、ひもや鎖がつけられたクイが打ち込まれているのも興味深い)が混然一体となった精神世界に、ぐいぐい引き込まれていく。

このまったく未知でありながら、アニミズムであるからには原初の文明のあり方にもっとも近いだけに、どこかで万人の深層心理にリンクするであろうなにかを秘めた、その世界に没入することは、ある意味で優れた現代美術の展覧会を見るのと同じ意識の働きでもある。

そういう大胆に芸術の本質に迫るところがまた、カルティエ財団のおもしろさでもあるわけで。