最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

3/11/2011

『ヒア アフター』、手にふれること、生きること

 クリント・イーストウッド『ヒア アフター』

承前。『ヒア アフター』の、生者に寄り添う死者を見てその言葉を取り次ぐ仲介(英語では Medium で、霊媒の意味でもある)のジョージ(マット・デイモン)は、手を握ることで、その死者を感知する。

生きる者どうしのもっともありふれたふれあいのあり方が、彼にとっては死者と接することになってしまうこと、そこにジョージが「才能なんかじゃない、呪いだ」ということの不幸が、この映画において集約されている。

彼は生きる者にふれることの官能性や愛から、遮断された人間である。

手をふれること、ふれあうこと。このモチーフは『ヒア アフター』を貫く主題でもある。既に冒頭、休暇中にインド洋・スマトラ沖大地震の大津波に遭遇するニュースキャスターのマリー(セシル・ドゥ・フランス)は、逃げる時にお土産屋の少女の手を握って走る。


実を言えばその前に、恋人の子供達のためのお土産を買う時に、マリーの手は既に少女の手に軽くふれている。一方でその前の、恋人とのホテルの部屋のシーンでは、男が彼女にスマートフォンを手渡す瞬間はあるが、二人の手がふれることはない。

津波に飲まれたときも、彼女は必死で少女の手を握り続け、助けようとする。

しかしその手は振りほどかれ、「Give me your hand!」の声も虚しく、マリー自身が頭を強打し、臨死を体験する。

  クマのぬいぐるみは、津波の直前に少女が抱いていたもの

無情な自然現象の猛威で手を振りほどかれて、少女を助けられなかったことの欠損体験こそが、マリーが自分の臨死体験の意味を追及する真の動機になっているとも言えるのではないか。


だから彼女は再び自分の手にふれ、その手を握り返し救う相手を、求め続ける。それこそがこの映画におけるマリーの旅路なのだ。

振り返れば、手がふれるというモチーフは、たとえば『マディソン郡の橋』でフランチェスカ(メリル・ストリープ)の膝すれすれに、ロバート(イーストウッド)が車のグローブ・ボックスに伸ばした手が接する瞬間にも、すでに現れていた。

 クリント・イーストウッド『マディソン郡の橋』

そしてフランチェスカとロバートの秘かな、二人だけに分かる別れのシーンで、この手のモチーフはロバートが十字架のペンダントにふれること、フランチェスカがドアのハンドルを握りしめることの密やかな交歓によって、繰り返されていた


その前作にあたる『パーフェクト・ワールド』で、逃亡犯ブッチ(ケヴィン・コスナー)と保安官レッド(イーストウッド)の手がふれ合うことは決してない、彼らが近づく瞬間すらないが、一方で少年フィリップがブッチを救おうとするとき、フィリップは彼と手とつないでレッドの前に現れる。

   クリント・イーストウッド『パーフェクト・ワールド』

象徴的なことに、彼女が別れることになるプロデューサーの恋人と彼女が抱擁しキスするシーンはあっても、手がふれ合う場面はない。一方でスマートフォン、つまりは “ハンディ” 式の電話(とその広告)が、二人の関係の破綻を示す小道具となる。

携帯電話、つまり “ハンディ” 式の電話は、ロンドンで双子の兄ジェイソンを失うことになる少年マーカス(一卵性双生児の兄弟をフランキー・マクラーレン、ジョージ・マクラーレンの兄弟が交互に演じている)のエピソードでも、重要な小道具になる。

ジェイソンが携帯電話で弟と話しながら薬局に買い物にいくシークエンスは、ただ子供が携帯で話しながら道路を歩くという、そのことだけで、いつ電話に気を取られて車に跳ねられるんじゃないかと思わずにはいられない、胸が潰れるようなサスペンスで演出されている。


携帯電話は不安をかきたてる不穏な小道具であり、そしてジェイソンは死んでしまう。

ただしその死は、それまでのサスペンスの演出からすると意表を突くことになる偶然で起る。なんの脈絡もなく、意表をついて起る偶然の、しかし考えてみれば当然の帰結が、この映画の人物たちを翻弄する。

考えてみれば、それが我々が生きることの現実でもある。マリーが大津波に遭うことに始まって、そこには人間的に理解可能な理由なんて、ないのだ。


一方で映画の後半、マリーが出版社から電話を受けたり、マーカスがジョージに電話するとき、電話で本当に意味がある情報が人物間で伝えられるとき、茶目っ気あふれる心憎いディテールとして、そこで使われているのはちゃんとした固定電話だったりする。

マーカス少年のエピソードでも、手は重要だ。双子の母が子供たちを心から愛し、二人も母を愛しながらも、それでもこの母がおよそ二人の母としては失格であるという厳しい現実は、なによりも注射針の痕だらけの彼女の腕によって痛々しく象徴される。

子供に手を差し伸べられない、その手が母の役割を果たすにはあまりに痛み過ぎてしまった女なのだ。


世界にふれる手、生きることを取り巻く現実にふれられるのかどうか−物語上の生と死のテーマは、『ヒア アフター』ではそのことに凝縮される。

ふれることの意味を見失った現代の世界のなかで、ふれること、ふれられる体験を喪失してしまったが故にその意味を自覚し、再びふれることを求める主人公たちは、孤独にさまようしかない。

生者に生者としてふれることが出来ない(それは彼にとっては死者との接触になってしまうのだから)ジョージが、サンフランシスコ市の市民教養講座「10週間で学ぶイタリア料理」に通うのも、生きている自分として自分を囲む世界にふれ、実感することの、生の歓びを探してなのだろう。

そこではいかにも生きることを楽しむことを奨励する講師のコックが、「料理とは感覚を解放することだ」と、生徒たちにまずワインを薦め、BGMにオペラをかける。

二人一組のパートナーになった女性メラニー(ブライス・ダラス・ハワード)とジョージが、お互いに目隠しをして食材を味見してなんなのかを当てっこするシーンは、この映画のなかでも最も官能性、ことさら性的な意味とは限らず、ただ単に生きて行く上で世界を感じることの歓びがもっとも発散されるという意味でも、この映画のなかでもっともエロティックなシーンだ。


『ヒア アフター』は「死」の観念に取り憑かれた人々の物語だからこそ、我々が忘れがちな「生きること」の本当の意味と歓びを際立たせる。

それは理屈でも観念でもなく、映画なのだから見ることで実感されるものでなくてはならず、つまり映画そのものが生き生きとしなければならない。

すでに『マディソン郡の橋』でも、フランチェスカとロバートの関係の官能性をまずとりもつのは、ワインであり料理だった。


イーストウッドの映画において、この二人の恋愛は単なる不倫メロドラマではない。日常に疲れた主婦が生きる歓びを取り戻すのは、自分が見失っていた五感の、世界に対する感受性を取り戻すからである。

だから映画はアイオワの風景を彼女の退屈な日常として映し出すのではない。

目を取り戻し、世界にふれるその手の感触を思い出せるならば、世界の美しさも、生きることの官能性も、身の周りに満ちあふれている。


ロバートはフランチェスカの人生に、外の夢の世界を持ち込んだのでは決してなかった。むしろ日常の中にあるささやかな奇跡の美しさに気づく感性を、そこに手をふれることの意味を、取り戻させたのだ。

生と死の狭間にあることは、イーストウッドの映画のオブセッションのようなものであり続けて来たわけだが、『許されざる者』までの系譜の、主人公が生者なのか死者、幽霊なのか判然としない系譜のあと、『パーフェクト・ワールド』を契機に、『マディソン郡の橋』以降その方向性は明らかに変わって来ていたことに、『ヒア アフター』を見ると改めて気づかされる。

メメント・モリ、死の瞬間を考えることでこそ生きる意味を見いだせる。

人間がいずれ死ぬ存在であり、元々生と死の狭間にあるからこそ、生きていることそのものの貴重さを実感すべきこと−『グラン・トリノ』の主人公がその生きる意味の回復の過程を、自分の死によってこそ完成させたことを経て(これは俳優イーストウッドにとっての「遺作」でもあった)、『ヒア アフター』はこのことのひとつの到達点にある。

『グラン・トリノ』でも、主人公があえて死を選ぶことでその生きる意味を完成させる瞬間を、手のしぐさの細やかな演出が際立たせている。

それも映画という「見ること」が大前提の表現を用いながら、「目隠し」という状況をあえて用いること。

たとえばアントワーヌ・ド・サンテグジュペリの『星の王子さま』の、「ほんとうに大切なことは、目に見えない」という哲学を、イーストウッドは映画でどう見せるのかを探求することで再確認しているかのようだ。

いずれ死ぬからこそ生きることの価値があるように、「見ること」がすべての映画だからこそ、「見えない」ことも大事なのだ。

『グラン・トリノ』、イーストウッド演ずる孤独な老人ウォルトの心を解きほぐし、彼が再び人間と関わり、触れ合って生きていこうとする大きな契機は、近所のモン族のホームパーティーに招かれ、その料理をすっかり気に入ってしまったからである。

とはいうものの、この目隠しをしたテイスティングの、一見エロティックなまでに生の歓びに満ちたシークエンスには、ある不穏さがつきまとう。

まずメラニーのあまりにはしゃいだ風情が、シャイな女性が男性とパートナーになったことに照れているというには、あまりにやり過ぎであること。

そしてスプーンで食材を彼女の口まで運んだとき、ジョージの手が偶然に彼女の手にふれてしまう。


こうした偶然がこの映画では度々起っては、予想外の、しかし考えてみたら当然の展開につながるのだが、その手にふれてしまった瞬間、ジョージは生者であるメラニーにふれるのではなく、彼女に寄り添った死者を見て、彼女の背負ったあまりに重い過去を知ってしまう。

彼女との出会いもまた、偶然のいたずらによって、自分は生きることのもっとも大切で基本的な歓びを感じられない、生者にふれられない人間である、呪われているのだということに、ジョージを追いつめてしまう。


霊媒の稼業を再開させようとする兄を避けてロンドンに逃げたジョージは、ディケンズの住んでいた家を訪ねる。ここでも手でふれることのモチーフが、実にさりげなく、しかし印象的に浮かび上がる。

この英国文学を代表する作家の小説の朗読テープを聴くことだけが喜びであった彼は、ガイドが出すクイズの答えをもちろん全部知っているのだが、小声で、自分にだけ言い聞かせるようにしか答えない。

そうした普通の熱烈なファンか、観光客らしい振る舞いの代わりに、ジョージはディケンズがそこで数々の小説を産み出したデスクに、そっと手をふれる。

だからと言ってそこでディケンズの霊が見えて、彼に語りかけるというようなことは起らない。

ジョージはそれを期待していたのか、なにも起らなかったことにホッとしたのだろうか?

…恐らくは、その両方なのだろう。

  ディケンズ記念館で撮影中のイーストウッドと娘

続けてイーストウッドはまたもや、映画という表現の歴史と本質そのものを転倒されるような大それた仕掛けを、しかしあまりにも呆気ないほどのさりげなく、あたかも軽いユーモラスなタッチのようにやってのける。

ディケンズ記念館で、ジョージはディケンズの朗読CDのキャンペーンでサー・デレク・ジャコビが朗読会をロンドンのブックフェアでやるというポスターを見る。


三人の主人公が、それぞれに偶然にもブックフェアを訪れるのは、彼らを出会わせるプロット上の仕掛けであるように思わせながら、必ずしもそうはならないのがこの映画だ。

観客に予測と期待を喚起しておいて偶然の出来事でそれをズラす、クライマックスを持って来るようで避け続ける構造が、この映画で繰り返されていく。

それはこの世に生きることが偶然の不意打ちの連なりに過ぎないことの反映でもあるのだが、たとえばマーカスが偶然にも地下鉄テロ事件に巻き込まれずに済むことを、マーカス自身は亡き兄のジェイソンが助けてくれたのだと思うしかない。


この世界を生きて行くことに必然的に満ちあふれる様々な偶然は、受け取り方によっては必然にもなる。


そしてその偶然でもありプロット上の必然でもある出会いの場に見えたブックフェアに、イーストウッドは今度はプロット上の役割とはまったく別次元の重要さを、平然と持ち込む。

デレク・ジャコビがデレク・ジャコビ自身として登場し、ディケンズの朗読会だけでなく、自分の朗読CDのサイン会までやってしまうという、いかにも平凡な日常の現実が、突如ハリウッド映画(それもジャンルとしてはファンタジー)に介入して来る、いわばお遊びにも思える仕掛けだ。

だがまったくなんの気負いもなく、さりげないお遊びとしてやっているからこそ、かえって「映画とはそもそもなんなのか」と考えさせずにはおかない。

それも「死」と関わるレベルにおいてであり、ジャコビの登場はジョージがディケンズのデスクにふれる(そしてそこでは何も起らない)ことと、明らかに密接に関係している。

その机にふれても見えなかった「死者」のディケンズが、しかし俳優デレク・ジャコビの声のなかには確かに生きていて、自分の心にふれるのだから。

死んでしまった兄のジェイソンが、マーカスにとって「ヒーロー」になっているように、ディケンズはジョージにとっての「ヒーロー」だった。

ではヒーローとはなんなのか?

俳優としてのクリント・イーストウッドは「ヒーロー」を演じ続けて来た「最後の西部劇スター」だ。

同時に、彼が自身が監督・主演して来た西部劇の主人公ではとくにそれが強烈に意識されることとして、「ヒーロー」とは「死者」でもある。

 クリント・イーストウッド『アウトロー』

『アウトロー』は、冒頭で妻子を虐殺され自分も殺されかけた(殺された?)主人公が、亡霊のような復讐の鬼としてのヒーローになる物語だった。

 クリント・イーストウッド『ペイルライダー』

『ペイルライダー』の “牧師” に至っては恐らく幽霊なのだろうし、『許されざる者』のウィル・マニーの豹変もまた、再び “死” の側に足を踏み入れたのではないかと思わせる、それ以外に説明のつかないクライマックスの展開だ。

西部劇スターとしてのイーストウッド自身、「死人の顔を持つ」としばしば形容される俳優であり、演じ続けて来たのは、彼岸を越えた故に死神めいた超越者となるヒーローである。

 クリント・イーストウッド『許されざる者』

それが『許されざる者』で監督としての評価を確立するまでの、クリント・イーストウッドという存在のイメージでもあった。

大女優サラ・ベルナールが晩年に映画に出演したのは、自分が死んでも演ずる自分の姿が生き続けるからだとよく言われる。

映像のなかでは死者もまた生き続けるという神話は、映画史の根源にあり、そして現代から見る古典映画とは常にそうしたものでもあり続けている。その意味で、映画とは幽霊的な、あるいは霊媒的な表現なのではないか?

 『許されざる者』死神として去って行くウィル・マニー

こと大衆娯楽としての映画におけるヒーローとは、ある意味で生者を越えたもの(スター)だからこそ、ヒーローと認識される。

そこに映画の大衆性の神話性の根幹があり、古典映画から現代映画に股をかけた世代に属するイーストウッドは、その生と死を越境する映画の神話性に自覚的にならざるを得ない作家であり、そしてそのことを自覚した映画を作り続けて来た。

チャールズ・ディケンズというヒーローは、すでに「死者」であり、すでに歴史上の人物、死者だからこそヒーローだとすら言える。

そして文学的なヒーローとして、ディケンズの言葉は現に生き続けている。

一方で「硫黄島二部作」は現実の歴史の記憶の中にそうした死線を越えた、「生者」には計り知れない「生き残り」たちの記憶をたどる。

 クリント・イーストウッド『父親たちの星条旗』

『父親たちの星条旗』はなにも語らずに死んだ父の記憶を、息子が辿ろうとする物語に、父自身の語り得なかった記憶の断片がさらに入れ子構造になる映画であり、『硫黄島からの手紙』は文字通り死者たちの手紙だ。

 クリント・イーストウッド『硫黄島からの手紙』

「死」を越えて生き残った者たちの記憶は、生者たちと分ちあえたり、理解されうるものではない。生者は彼らを「ヒーロー」として見るが、彼ら自身は「ヒーロー」とはほど遠い存在だった。ただ「死」を体験して生き延びたことが、彼らをある種超越したレベルと、それ故の孤独のなかに置く。


ただ芸術、たとえば映画や文学だけが、その後の人生を生と死の狭間に生き延びた者たちのことを伝える “霊媒” となりうる。例えば『父親たちの星条旗』の、兵士たちがその時だけ「生きる人間」に戻れた、ラストの海水浴のシーンのように。

俳優デレク・ジャコビは、「歴史・過去」「死者たち」に属するディケンズの、その言葉を朗読することで、ディケンズを生きた者として伝える媒介=Medium (「霊媒」の意味でもある)だ。

と同時にデレク・ジャコビ本人という一人の人間のままであるが故に、ただの仲介でなく仲介【者】であり、だからディケンズの言葉を朗読するだけで、ジョージ自身を始め多くの人間の心にふれることが出来る。

その人間とは映画のなかの人物たちだけでなく、現実世界からこの映画のフィクション世界を見る観客も含まれる。


俳優デレク・ジャコビが『ヒア アフター』に、まったく軽やかに、デレク・ジャコビ本人として現れることで、スマトラ沖大地震の津波やロンドン地下鉄の爆弾テロ事件、マリーが当初出版社に持ちかけるミッテラン元大統領の伝記本と言った現実世界の諸事件や、グーグルやYoutubeといった実在のウェブサイト以上に、この映画を我々が生きる映画の外の現実世界とつなげ、ディケンズというヒーロ化した現実の死者と我々をも、映画的に繋げているのである。

またジャコビが体現するものは、映画のフィクションの中の霊媒であるジョージに、それまで欠けていたものでもあり、その欠如ゆえに彼が苦悩して来たものでもある。俳優は役柄や、この場合はテクストを、自分のなかに生かし、自分の言葉として語ることで「仲介【者】」になりうる。

死者と生者の単なる仲介でしかなかったジョージは、死者を見てその言葉を聴き、それを生者に伝えるとき、そこに自分自身がいなかった。そうやって自分の人生を生きることが出来なくなってしまった以上、彼の力は彼の呪いでしかなかった。

『ヒア アフター』 、ロンドンのブックフェアで、マリーはこの映画と同じ題名の、臨死体験を扱った著書を発表する。

プロット上の必然としての出会いの場になると観客に期待させながら、その期待を巧妙にズラすブックフェアの場面は、しかしジョージにとってもマリーにとっても、そしてまったくの偶然にそこを訪れるマーカスにとっても、とても重要な転機になるし、それは単に物語展開上のことではない。

なぜならブックフェアは静かな場でありながら、サンフランシスコ市の市民講座のイタリア料理教室と同じくらいか、それ以上に、華々しい生命力の溢れる色鮮やかなシーンとして、我々の眼に迫るのだ。

我々はそこで必然的に、「五感で世界の楽しさを受け取るのだ」というイタリア料理教室の講師の言葉を思い出さねばならない。

ワインをたしなみ、オペラを聴き(プッチーニの『トゥーランドット』の「決して眠ってはならない」)、目隠しをして食材そのものの味と匂いに集中すること、あるいは白の内装に際立つ食材の華やかな色が眼を射ること。ブックフェア、本とそこに託される言葉たちの祭典は、料理と同じように生きていることの歓びの一部であり、世界を感じて人間となることの体験の場なのだ。


ブックフェアでマリーが自分臨死体験の本を朗読するのを聴き、その本を買い、彼女の手に触れたとき、ジョージはそこでも彼女に取り寄り添う死を見る。

だがその手の接触は、決して彼女に憑く「死者」という他者にふれてしまうだけで彼女自身にはふれられない、これまでの霊視のような体験ではない。

ジョージはその時、確かにマリー自身にふれているのだ。



過去と現在の、様々な死者たちと生者たちの命の言葉を凝縮した本に囲まれたこの場で、死や死者たちに触れてしまった三人、生きることの意味に迷っていた三人は、本当に生きることの意味、他者の手にふれ、手を握り合うことに向かって、歩き出すのである。


  『ヒアアフター』公式サイトはこちら

1 件のコメント:

  1. 匿名3/28/2011

    一連のヒアアフター評やそれ以外の記事を興味深く拝見いたしました。一連の記事で問われている「死者」という他者への関心を私自身も自分の中で考えている最中だったので。これからも記事を拝見することになると思います。ありがとうございました。

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