最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/10/2008

これは悪質な冗談か?

「映画人九条の会」が声明を出した旨、案内のメールが来た。まずはその引用(声明文はタイトルをクリックして下さい)。

    映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題が社会問題になっ
   ていますが、3月27日、自民党の有村治子参議院議員は、
   参院内閣委員会で映画「靖国」問題を取り上げ、専門委員
  (審査員)の思想・信条にまで立ち入り、一委員が「映画人
   九条の会」のメンバーであることを問題にしました。
    有村議員は、「映画人九条の会」を特定の政治的イデオ
   ロギーに立つ活動であると断じ、「映画人九条の会のメン
   バーであることを知らないで選んだのか」「(その委員の)
   政治的、思想的活動が当該映画の助成金交付決定に影響を
   与えたのではないかという疑念を払拭せよ」などと執拗に
   文化庁に迫ったのです。

なんだそりゃ? 

えーと、まず「日本国憲法を守りましょう」というだけで集まっている任意団体が「特定の政治的イデオロギー」なんでしょうか? 憲法を守ろう、ということを問題視することの方がよっぽど「特定の」…っちゅうか奇妙なイデオロギーですし、特別公務員の憲法遵守義務に違反してませんか? こんな言いがかりをやってちゃ、「本物の自治」を求めてるだけのダライ・ラマを「分離主義」「偽りと欺き」と無根拠に罵ってる北京外務省を笑えませんよ。我が国の誇るべき憲法を守ろうと言ったらいけないなんて、それこそ「反日」じゃんか。

それ以前に、もっと原則論の問題として、文化政策の専門委員といえば文化政策の援助金でなんら客観的な基準などあるわけもなく、複数の審査員それぞれの専門知識と美的センスの個人の判断の総意として助成金を出すかどうかが決定されるシステムでしょうに。そもそも美的・ないし芸術的判断が政治的な思想信条と切り離され得るものだとか、自身の政治的思考もない人間に現代に作られる作品についての判断ができると考える時点で、無知と教養のなさ丸出しではないか。ノンポリを決め込むこと自体、それもまた政治的スタンスである。

先日もちょっと本ブログで問題にしたが、その委員の判断力つまり能力ではなく「思想」のレッテル貼りで人選をするのなら、その時点で文化政策なんてプロパガンダにしかならない。政治家、それも与党の議員がそういうことを国会で問題する時点で、この国には表現の自由なんてありませんよ、と天下に曝け出しているようなものである。しかしそれにしても、自民党の女性議員って、なんでこうも恥知らずで非常識な人ばかりなんでしょう? ピンクの服来た勘違いおばさんとか元ミス東大がここまでブスになるかと呆れるバブリー・ファッション女とか、大臣になったら勘違いのど派手で安物のポリエステル製イヴニングドレスで就任式に出ちゃう教授夫人とか、「銀座のホステスかお前は」(といったらホステスさんに失礼だが)みたいな媚売りメイクの上にそのメイクにセンスのかけらもない、狸顔を無理矢理ダイエットさせたみたいなおねえちゃんとか、元アナウンサーのくせに日本語が不自由なバービー人形の出来損ないとか、揃いに揃ってオジさんに媚を売るしか能がない珍獣ショーか出来損ないの場末芸者の溜まり場にしか見えません。まともに知性とセンス、いくばくかの信念がありそうな女性といったら、ついこないだまで件のいんちきホステスのライバルという立場になってた野田聖子くらいしか思いつきませんがな。いんちきホステスまがいが元幹事長の武部あたりと並んだ画なんぞ、いまにも「パパ〜」としなだれかかり、鼻の下伸ばした武部が「ガハハハハ」と笑い出しそうで、なまなまし過ぎて目もあてられない。それでも国会議員、「選良」かよ? とてもじゃないけど品性がなさ過ぎるし、だいたい今時女性が男に媚びるか、客寄せパンダか、男の手先の使いっ走りしかできない、ってのはあまりにも、あまりにも…。

有村治子議員は『靖国』に出演している刀鍛冶の老人にも “問い合わせた” らしく、圧力を感じてしまったらしいご老人と家族が、「刀鍛冶の技術を撮らせて欲しいというから応じた。約束が違うから削除して欲しい」と言い始めてしまった。ちなみに表現と言論の自由を守るための法的な慣例、かつ法理論的にも正当な考え方として、実際にキャメラが廻っていることをその人が認識し、従って自由意志で撮影に応じていることが明らかな状態でなされた行動や言動に関しては、当人が撮られていることを承知しているのだから、後で見せて了承を得ることなどの約束を事前にしていない限り、削除などを要求する法的根拠はない(まして国会で問題にすることは、それ自体が稚拙すぎる)。とは言っても、こういうことが起ると本当にドキュメンタリー製作においてもっとも重要な対象との信頼関係がいよいよ作りにくくなる。そもそもは法的な問題などそこに持ち込んでは成り立たない関係性、信頼の問題なのだから。相手が権威・権力のある公人ならともかく、「これが映画になることであなたを裏切るようなことはいたしません」という信頼があって初めて映画に使えるインタビューなんて撮れるのだし、それをぶちこわしてくれるのは本当に迷惑だし、あんたら日本の文化をそこまでぶっ壊したいのかとあきれ果てるばかりだ。刀鍛冶の老人とその家族も本当に迷惑していることだろう。よくもまあ、国会議員の職権を濫用して、ここまで恥知らずでハタ迷惑なことをやりますね。お年寄りを針の筵に追い込んでなにが楽しいんだろう?

癒着を防ぐ必要は、とくに狭い世界のわりには派閥抗争の多い日本の映画界では確かにあるものの、芸術文化振興基金の審査員の氏名を非公表、守秘義務をかけている(らしい)のは、こういう時には本当に困る。そこで国会で問題にされた委員は、名前を公表していない以上、反論のしようがない。ほとんど欠席裁判みたいなものではないか。で、こういうところにも日本の官僚的メンタリティに浸食された社会制度の問題が浮き彫りになる。そもそも個々人の専門委員のそれぞれの個人としての判断を議論しあって決定することなのが、その判断を担っている個々人の責任がまったく無視されて、なぜそこに公金が助成されるのかの正当性と裏付けがまったく不透明になってしまう。本来ならその企画を選んだ委員たちが、「自分たちはこの企画がかくかくしかじかこういう理由で優れた企画になると信じたので助成を決めた」と、堂々と擁護すべきことなのに。

文化庁の出したコメントもかなりおかしい。「特定の政治団体や宗教団体の宣伝」云々にあてはまらないから問題がないって、だって応募された企画のすべてにそんな問題があるわけがない。そうでなくて「なぜ選んだのか」を堂々と主張しないで、文化も芸術表現もへったくれもないでしょうに。映画でもなんでも、表現行為というのは個人の表現であると同時に、それを受け取る側にとっても本質的に個人的な体験であるはずだ。なにかを「良い」と判断し、その意見を公にする時点で、その判断した主体もまた問われるのが筋であり、『シンドラーのリスト』を素晴らしいと表明すれば「ダッセー、あんな人工的な作り事のお涙ちょうだいの偽善に騙されて」と思われてもしかたがないのであって、そうではなく『ショアーSHOAH』を擁護しなければそれはみっともないことであり、『ショアーSHOAH』よりも『ソビボール1943年10月14日16時』がはるかに優れていることを表明すべきであり、あるいはマルセル・オフュルスの『憐れみと哀しみ』と『終着駅ホテル』をこそ評価しなければ「あいつはホロコーストも映画も分かっていない」とこき下ろされても文句が言えない(反論してもいいけど、『シンドラーのリスト』だったら恥の上塗りでしょう。『ミュンヘン』を持ち出さなければ映画も分からず政治的にも稚拙すぎると言われてもしょうがない)。そういうことが言えない社会というのは、要するに不自由な社会に他ならず、んでもって文化政策に言論と表現の不自由がつきまとうなら、それは文化の自殺行為だ。

まさか助成金の選考で落とした企画と比較しろ、と言っているのではないので誤解のなきよう。そうではなく、なぜその企画を擁護したのか(なぜ「落とさなかったのか」ではなく)をきちんと主張できない状況で専門委員の審査員に助成金の出す先を決めろというのは、そりゃ無責任になること、反論もなにもできない欠席裁判に追い込んで、権力に文化を屈服させることにしかならないと言っているのだ。自民党のバカ議員さんは、専門委員が非公開で守秘義務をかぶらされている立場だと知っていてあんな国会質問をしたのだろうか? まあ頭が悪過ぎてかつ倫理観も責任感もゼロだから、知っていてそもれがおかしなことだとも考えもせずにああいう卑劣なことをやったのかも知れないが、こういう不自由から文化政策を守るためには、専門委員を公開にするなり、少なくともそれなりの知的レベルの高い文化人が文化庁なり文化振興基金のトップ/総責任者になって、国会に出向いて稲田朋美とか有村治子とかがいかにバカで非常識で文化政策なぞなにも分かっていないことを論破し、連中がヒステリーでも起こせばしめたもの、国会議員なぞやらしておくべき責任感のある人間ではおよそないことを天下に曝け出してやった方がよっぽど健康だ。それで専門委員なり責任者の優秀さが示されれば、彼らが公金で行われる文化助成に責任を追うだけ優秀な人間であることもきちんと証明され、公金で文化芸術の創造に援助することの正当性も担保されるというものだ。結果として現制度は責任の主体/判断の主がどこにあるのかが不明瞭過ぎて、お上のお情けにすがる隙間産業のもの悲しさすら漂って、自分たちを護れないようになってしまっている。

日本の文化はほとんどの場合、反骨の反権力が作り、革新して来たんですがね…。それはもう、歴史的に。

緊急記者会見で田原総一朗氏が「偏向でもなんでもない」とか「反日でもなんでもない」って言っていたが、それもヘンだよなぁ。かつて『愛のコリーダ』裁判で大島渚が「猥褻なにが悪い」と堂々と言い放ったことが思い起こされる。なんというか、向こうのペースにのせられてそれに応じているだけってのも、喧嘩のやり方が下手すぎるようにも思う。「反日」かどうかは、南京大虐殺の写真があるだけで反日だという輩もいるくらいだし、稲田代議士は「靖国神社が戦死したら神様になるからと、天皇のために死ねと言う装置」であるという「メッセージ」を感じたのだそうだ−−ってそれって,靖国神社の教義そのものでしょうが(笑)。国の文化政策の支援に値するだけの映画として問題があるとしたら、もし本当に映画『靖国』がその程度の誰でも知ってる薄っぺらさに留まっているだけだとしたら、そのクオリティの低さのはず。なんら新しいことを我々の世界や社会や人生に新しい視野を広げることがないとしたら、そりゃ公金を投じる正当性がないんだろうが…。

靖国神社の「英霊」にせよ特攻隊の「神風」にせよ、本来なら誰でも思い浮かべるであろう疑問は、「本当にそんな明らかなご都合主義の迷信を信じられたのか?」「信じていたとしたら、それはなぜなのか?」だろう。ただそこに切り込んで行ったら、ますます「伝統と創造の会」に「反日ダ!」とぶっ殺されそうな…。だって、恐らく本気で信じていた人なんてほとんどいなかったのだろうから。たとえば教養あるエリートであった学徒動員塀が、信じられるわけがないでしょう。フィクションだと百も承知で、信じ込む努力はしていた、あるいはフリはしていたのだろうが、だからといって「強制」だったとも言い切れない。本音を言えば「しょうがない」というのが正直なところだろう。その言葉にならない微妙さにこそ、映画であれば切り込むべきだというのが個人的な意見だが、実をいえばその意味で「戦前戦中の日本軍国主義」というのは、決してそんなに異常なことでも、明らかな狂気でもなかったように思える。なにしろ「しょうがない」って、今でも我々がつい口にしてしまう言葉だ。

もちろんそういったことすら言い訳であって有村治子だの稲田朋子だのといった連中レベルのおバカさんの真意は、要するに中国人が靖国を撮ったことなのだから、それと同じレベルで争ったってダメでしょう。「偏向」にいたっては、「偏向」と言われてもいいくらいの自分の視点があってはいけないなんて、じゃあブニュエルはどうする?? むしろ「反日」「偏向」と言われかねない内容でも支援するくらいの方が、日本の文化政策の度量の広さを見せられてけっこうじゃないか、とくらい言いたくなる。

攻められている側の方に、どういう立場で対抗できうるのかの整理ができてない。映画『靖国』それ自体を擁護するのか、言論と表現の自由を護るのか、国の文化政策のあり方の独立性を論ずるのか、日本の右傾化に対抗して闘争するのか? 協力はしあっていいが、整理をしておかないと反論が散漫な繰り返しになってパンチ力が弱すぎる。映画作家がそんなことやる必要はないし、そもそも必ずしも向いていないだろうが、大物ジャーナリストもいるし、配給宣伝があるのはもちろん、支援しているなかにはプロデューサーも活動家もいる。彼らは擁護して戦う戦略をたてて組織化するプロでなきゃだめなはずなんだが。ちゃんと整理しないと、テキは「サヨクがまたサヨクなことを言っている」で終わってダメージは与えられない。

だいたいテキのやってることがそもそもおかしいどころか愚かしく醜悪なのだから、はっきりそう言えばいい。遠慮したところでテキは映画『靖国』を潰せば、彼らの内輪では彼女らの点数は上がるのだ。そろそろ最終兵器とも言える切り札を使うことだって考えてもいいのではないか? そりゃこれを言うのはとくに李纓監督には躊躇や不愉快さはあるだろうが、しかし…だって、はっきり言って、中国人の監督が靖国をテーマにしただけで「反日」とわめいてこの日本映画を潰そうとしていることの本質は、人種差蔑でしょ。

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