最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/23/2008

被害者感情を尊重するということ、あるいは「死」に意味があり得るのか

「被害者側の感情」が、厳罰化や死刑の存続の主たる理由になっている。その象徴的事件が昨日差し戻し審判決が出た光市母子殺害事件であり、あるいは「危険運転致死罪」だったりする。だがこのブログで1月に取り上げたが、マスコミが「危険運転致死罪」の適用を煽った北九州市の公務員が酔っぱらい運転で三人の子どもを死なせてしまった事件で、遺族である母親は、被告の量刑がどれだけだろうが、そのことは亡くなった子供たちの命とはなんの関係もない、と判決後の記者会見で述べた。テレビのニュースの多くがそこは放映しなかったのは残念だが。

昨日のブログで、地下鉄サリン事件で亡くなった駅助役の高橋さんのことに触れた。高橋さんがどう亡くなったのかについては、たとえば村上春樹の『アンダーグラウンド』では複数の証言がある。高橋さんは駅の助役として、部下や後輩に任せず(つまり彼らを守って)自分で危険なサリンの袋を運び出したため、大量の毒を吸ってなくなった。一方で『アンダーグラウンド』には、高橋さんの救急搬送についての重要な証言も含まれるのだが、それは読んで頂くとして、彼がなぜ亡くなったのか、その最大の理由、ニュースに触発されて高橋さんの像を作ったというオーストラリアの彫刻家の言葉を借りれば彼が「英雄」であったことを知り、妻の高橋シズエさんも少しは心が和んだという。実際、証言から明らかになる高橋さんの行動はあまりにも立派であり、高橋さんが命がけで袋を運ばなければ、国会議事堂前駅でもっと多くの死者が出ていただろう。

裁判で「真実を明らかに」という常套句がある。だがたとえばオウムの裁判は、加害者である被告の犯罪を明らかにし、裁くためのものだ。彼らの行為についてのものであって、彼ら以外の人々にとってあの3月20日の朝に本当はなにがあったのかの「真実」を明らかにすることが目的ではない。裁判は加害者がどう殺したかの問題をめぐるものであって、被害者がどう死んだかの問題をめぐるものではない。まさかそんな無茶な弁護をする弁護士なんていないだろうが、「加害者の行為」だけが問題なら、理屈の上では高橋さんが亡くなったのは彼が自分でサリン袋を運んだからであって、被告だけの責任ではない、という言い草すら、たとえば無理にでも被告の責任を軽くしようとする弁護方針の理屈としては成り立ってしまう。司法によって犯罪者の行為を裁くということは、理論的には本質的にそういう残酷な理不尽を含んでいる。

我々は無神経に「加害者」「被害者」と言ってしまうし、裁判、司法手続きはその区分けを前提に成り立っている。そこで構築される犯罪という物語のなかで主体、主人公は加害者であって、被害者とされる側は受動態の脇役にしかなり得ない。殺人が起るとき、被害者は自分がそれまで生きて創造して来た自分の人生という物語を唐突に中絶させられるだけではない。その殺人の真実が裁判のために整理された犯罪という物語になるとき、今度は公の場において被害者の物語は無視され、加害者の物語のなかに組み込まれる。家族がどう死んだのか、家族の物語がどう終わったのかを知りたいという気持ちは、このシステムのなかでは必然的に無視される。犯罪者の残酷さを強調するために被害者の物語が語られれば、今度はその物語までが加害者の物語でプロットを展開させる要素にのみ凝縮され、搾取される。司法のシステムそのものの根源に、この構図が組み込まれてしまっている。

なにもそのシステムを問題視しようというのではない。ただ目的が違うということだけだ。だからと言って被害者の物語は司法の制度になじまないから、被害者感情への配慮を求めることがそもそも矛盾しているのだと言う気もしない。まったく逆に、司法という理論がそうなっていても、それが現実に適用されれば必然的に被害者の物語がそこに組み込まれていく以上、むしろその本質的な残酷さに気づいて、和らげるように、最大限の配慮がなされなければいけない。そして「被害者側の感情」を理由に厳罰や死刑を正当化することにしか利用しないとしたら、それはあまりに配慮がなさ過ぎる。というか、配慮とすら呼べず、究極の搾取でしかないことに、我々はそろそろ気がつくべきだ。

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