最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

6/21/2017

いったい何のため?誰のため?加計学園、共謀罪、安倍政権の止まらない暴走




安倍政権の暴走と腐敗が厄介なのは、安倍晋三本人にいわゆる普通でいう私利私欲がほとんど見えないところだ。

森友学園、そして加計学園との不透明な関係をめぐる相次ぐ疑惑にしても、安倍自身が贈収賄に問われるわけではないし、カジノ法案の強行採決でも、今国会に突然持ち出した「共謀罪の構成要件を厳しくした(ことになってない)テロ等準備罪」でも、彼自身が利権や利得、恣意的に用いられる権限を確保できるわけでもない。

安倍晋三が執着しているのは単に、「いちばんエラい人」の地位にあること、そのことで周囲に褒めてもらえ、尊敬されたいだけのようにしか見えない。

強行採決を連発した問題法案も、ただこれまで自民党が断念して来た立法を自分の政権は成し遂げたのだ、と言いたいだけなのかも知れない(ただしカジノ法案だけは別で、あれは明らかにトランプのアメリカへの媚び売り)。

森友学園のいわゆる「安倍晋三記念小学校」でも、8億の国有地値引きが安倍たち政治家にキックバックされたわけではない。ほんとうに総理の権力でただ自分が理想とする小学校を作りたかっただけのようだが、ならなぜそれまで幼稚園経営しかしていない、弱小の、たぶんに風変わりで、採算性や経営の継続性に疑問符がつくような学校法人に頼ったのかも、わけが分からない。

第一次政権の時には教育基本法を改正(?)したではないか。 
なぜ教育勅語を理想とする教育が日本に必要だと考えるなら、自らの政策として提起しなかったのか? 反対が多いと思うのなら、粘り強く誠実に、丁寧に説明して訴えるのが政治家の最大の仕事だということが、どうもこの人にはまったく理解できていないらしい。

加計学園の獣医学部は、今治市に37億円相当の市有地を無償譲渡され、国家戦略特区が通ればさらに市と愛媛県から100億規模の補助金が動くとされている(ただし愛媛県に詳細の話は一切いっていないし、県もなにも約束していない)が、これらの補助金だって安倍が横領できるわけではもちろんなく、金銭的に得するのは加計孝太郎サンと、安倍と加計双方につらなる日本会議人脈の土建屋等々だけだ。

安倍サン本人はこのオトモダチ連中にひたすら尽くすためだけに、行政を私物化して官僚相手に権力を奮い、恫喝さえ繰り返しているのが、このスキャンダルの本質的な構図なのだから頭を抱えさせられる。

森友学園スキャンダルも加計学園問題も、いったいなんのために安倍さんはこんなことをやったのか?

そうでなくとも加計学園の獣医学部の新設は、相当に無理がある計画だ。その推進に深く関与して「総理の意向」だと文科省に迫ったらしい内閣府の藤原審議官すら、その実現性にはかなり疑問も持っていたことが分かっている。学生が集まるのか、という共通した懸念は、今治市議会からも出ていた。

萩生田官房副長官も、昨年10月上旬の段階では、平成30年4月開学は無理ではないか、と疑問を呈していたはずだ(10/7付けメモ。文科省調査では未確認)。

だいたい、閣議決定された獣医学部新設の要件である、既存の獣医学部では対応できない高度な最先端の研究教育なんて、はっきり言えば三流大学でしかなお岡山理科大に出来るとは、誰も思っていない。それどころか教員がちゃんと揃いカリキュラムが組めるのかさえ不安がある学部計画を最終的に認可するのは、獣医学部なら獣医学の専門家を中心とする委員が揃った審査会だ。

なのに安倍の意向を忠実に実践したいらしい地方創生大臣の山本幸三は日本の獣医師業界を侮辱中傷までしているし、安倍の周囲からは獣医師会を抵抗勢力だ、既得権だと、名指しで中傷する言説も後を絶たない。ここまで反発を買っても、それでも審査会が公正な審査を心がけようにも、計画自体が元から認可を出せるような代物でもないのだ。

国家戦略特区の審査に提出された計画もたった2ページだったそうで、一応はもっともらしく最先端っぽいことを列挙してみたら、MERS(中近東呼吸器症候群)をMARS(惑星の火星)と書き間違えて国会で問いつめられるお粗末さだった。

「行政が歪められた」という文科省の前次官・前川喜平氏の告発に反論したかったのなら、安倍政権はこの獣医学部計画がいかに素晴らしいもので、新設の要件ももちろん満たして、最先端の施設を揃え、気鋭の研究者や臨床医が教育に当たるものだとでも示せば、「総理のオトモダチだから優遇された」という疑惑は払拭できたはずだ。なのにその肝心の反論は一切ない…というか、出来ない。

だいたい、そんな獣医学の最先端の「ライフサイエンス」や「人獣共通感染症」研究なら…というか、これはどちらも獣医学の専門ではなく、医学部や生物学、遺伝子工学、情報工学の最先端を横断する分野だなのだが、だからこそ新設の獣医学部で対応するよりは、既存の獣医学部のなかでもトップクラスの医学部や理学部を持つ、たとえば旧帝大系の国立大や、北里大などの理系で超一流の私大にやらせた方が、どう考えても政策として合理的だ。そうした超エリートの研究成果なら、そのまま日本の「成長戦略」として売り出し得るのだし、ならば「国家戦略」にもふさわしかっただろう。

だいたい獣医師の需給の問題がどうやったら「国家戦略」に当たるのかからして意味が分からない。安倍氏にはぜひ説明して欲しいが(和牛の輸出を増やす、とか言い出すならまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」だ)、確かに家畜医に関しては慢性的な不足が東北や北海道では深刻だとされる。

ならば新設する獣医学部はとくに家畜の専門医の養成に重点をおいたカリキュラムを提案すれば、まだ国家戦略特区として通す理由にもなるだろう。

だがそれを言った瞬間に軍配が上がるのは、今回の疑惑で不透明な手段で応募できないようにされた京都産業大の方だ。ここの計画の目玉のひとつは、京都府内の酪農地帯に設置して、地元の牧場と連携して実際に牛を診る実習がたっぷり出来ることだった。

一方、加計学園の計画はどうかと言えば、先ごろ文科省の常磐高等教育局長と萩生田光一官房副長官とのやりとり(2016年10月21日付け)をまとめた部署内共有のメモを文科省が公表したが、ここには驚くべきことが記されている。

愛媛県は、ハイレベルな獣医師を養成されてもうれしくない、既存の獣医師も育成してほしい、と言っているので、2層構造にする 
「ハイレベルな教授陣」とはどういう人がいるのか、普通の獣医師しか育成できませんでした、となると問題。特区でやるべきと納得されるような光るものでないと。できなかったではすまない

(同メモの全文はこちら

「誰が言ったか」以前に、まずミもフタもなく、あられもなく、「加計ありき」そのもの…どころの話では済まない。

加計孝太郎氏が獣医学部を新設したがっているから「国家戦略特区」に獣医学部を含め、政策として実行するにはさすがにそれが許容される条件がつくのは当たり前なのだが、加計学園の計画はおよそそんなレベルにない。さてどうしてあげたらいいのかと、と政府で解決策を話し合って知恵を探してあげているわけだ。

いったいどこまでサービスがいいんだ安倍政権?

萩生田氏は自分は一切なにも言っていないかのような印象操作を必死に言い張っているが(実際には、一部に自分が言っていないことが紛れ込んでいると主張しているだけで、その先をねじ曲げて文書全体が噓であるかのように言い募っている)、こんなのは「誰が言ったか」の問題ではない。安倍政権自体の「政治主導」のいい加減な不透明性こそが問われてしまう。

閣議決定を経た要件に対応できていない加計学園の計画について無理矢理に辻褄を合わせる手段すら思いついていないことをそのまま文科省の官僚に丸投げしてその頭を悩まさせながら、一方で「国家戦略特区」なのにその目的に反する県の要望を聞き入れるような会話まで交わされている。これでは日本の「成長戦略」のための「特区」ではなく、むしろ(こう言っては悪いが)僻地で経済が伸び悩む地方の県を保護する新たな規制を作っているような話だ。

それが悪い、というのではもちろんない。むしろ必要な支援策に属するものにすらなり得る。ただしそれなら「構造改革」「規制緩和」で経済成長を促す新自由主義的な政策とはむしろ真逆な、社会民主主義的な施策のはずだ。

愛媛県の産業振興や、タオル製造のブランド化だけは成功したものの、従来の工業中心の産業構造が過疎高齢化もあって衰退している今治市への救済処置的な政策的援助なら、必要だ。だがそれは「成長戦略」のための「構造改革」で「岩盤規制」を打ち破るのとは、まったく異なった、むしろ正反対の政策的方向性になる。

それに少子化で全国で大学経営が苦しい現状があるのに、「学園都市構想」が有効だとも思えない。

まだ学力的にもトップクラスの有名校とか個性的な教育が売りになるブランド性があればいいが、こう言っては悪いが「たかが岡山理科大」ではそれも無理で、「そもそも学生が集まるのか?」という当然の疑問が出て来ると、途端に「学歴差別だ」「一生懸命やってるじゃないか」と、妙に浅薄な情緒論が飛び出すのも、安倍政権とその熱烈支持層の常だ。

加計学園・岡山理科大の獣医学部構想は、どう見てもごく一部の関係者以外には誰の利益にもならない計画で、「国家戦略」とは真逆に国民や日本経済にはなんのメリットもない。

愛媛県にとっても今治市にとっても、同じ労力と金をかけるならより実効性のある振興策を検討するのも、トップダウン政治主導の「国家戦略特区」ならせめてそれくらいは政府が考えなければならないはずだ。

これではこの安倍政権の売り物政策のひとつだったはずのものが、完全に羊頭狗肉と化す。

しかも、そのごく一部の利益を得る関係者に、安倍晋三首相自身が含まれるカラクリも想像がつかないのだ。萩生田氏ならば落選中に加計学園系列の千葉科学大学に客員教授として雇ってもらって救われたらしいが、それだってそんなにたいした金額でもない。

では安倍さん達はいったい誰のためにこんな無理な、自分達でその政策的な正当性を説明すらできない計画をゴリ押ししたのかといえば…安倍さんが「腹心の友」の加計孝太郎さんのために尽くす、純情な友情物語くらいしか、動機が思い当たらない。

厄介なのは私的なレベルなら「腹心の友」にひたすら尽くした熱く麗しい友情になることでも、行政府の長(「立法府の」ではない、念のため)には許されない政治の私物化、行政の公平性を著しく損なう「えこひいき」になってしまうことに、安倍にもその周辺にも、熱烈な支持層にもまったく理解できていないらしいことだ。

いやむしろ、彼らは「日本でいちばんえらい人」の友人であったり味方である自分達が「反日」の「敵」よりも優遇されて当然だ、と信じて疑わないでいる。

昨年暮れのプーチン露大統領来日時にも安倍の誇示したい「首脳どうしの信頼関係」や「外交成果」を言われるがままにテレビで垂れ流したジャーナリストの山口敬之がレイプを警視庁にもみ消してもらった疑惑も、「日本のため」に首相に尽くして来た山口氏がそんな訴えで逮捕されることこそ彼らには許し難いことで、被害者の若手ジャーナリストの詩織さんこそ「反日」のハニートラップだということになるらしい。

この事件は密室内の合意の有無が争点になる微妙な準強姦罪になるが、それでも被害者の証言に悪質性を見て取った所轄署が緻密な捜査で証拠を積み重ね、裁判所が逮捕令状の発行に踏み切ったという客観的な現実と、法があくまで公正に執行されるべき社会の根本倫理は、彼らにはどうでもいいことなのだ。

これは「テロ等準備罪」と偽装された、実際にはテロとまったく関係なさそうな罪でも共謀に基づく準備段階で処罰するからには「共謀罪」以外のなにものでもない、正式には「組織犯罪処罰法改正案」についても言える。

強行採決の参院本会議では野党の反対討論に「共謀罪で逮捕してやるぞ」という野次が与党席から飛んだ。

安倍を取り囲む人たちはこの法にそんな欲望とファンタジーを投影しているし、安倍政権はそんな周囲の人々の願望を満たすために、この新法を強行することを自らの使命として課していたのだ。

安倍がいきなり今年の憲法記念日に合わせて打ち出した「改憲案」も、同じような不可思議な、妙に感情的で薄っぺらに情緒的な動機ばかりが見える。

憲法9条2項の戦力不保持・交戦権否定の条項を変えるという元々の自民党草案なら、多くの国民にとっては賛成はできないし「改悪」にしかならないにせよ、「改憲」することの意味はある。既存の自衛隊の憲法上の制約を変えて日本の安全保障を強化し軍事力を拡大することには、確かにつながるからだ。

「改憲」によって国と社会の有り様がどう変わるのかなら、国民的な議論の価値は確かにある。だが安倍の満を持してのはずの改憲提案は、まったくそうではない。安倍の言う通りに9条の1項2項はそのまま、つまり今の憲法上の制約と同じ限定をかけたまま「自衛隊」を書き加えたところで…

「現状維持ならどう憲法に書こうがただの無駄です。日本の安全保障が高まることは1ミリもない。自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません」長谷部恭男・早稲田大学名誉教授(憲法学)
http://digital.asahi.com/articles/ASK6L5QP6K6LUTFK00K.html?rm=1299 

…となってしまう。

だいたい安倍が改憲派の集会へのビデオメッセージや読売新聞のインタビューで述べた改憲の理由が、まさにそのセンチメンタルな情緒論で、憲法学者の一部が自衛隊を「違憲」という状況を変えたい、というだけの内容だった。

この安倍改憲案には、単に「改憲」をやった功績を自分のものにしたい、自民党の長年の悲願だった9条に手をつけることを自分は成し遂げたのだと言いたい、という安倍自身の願望も動機としては確かに見える。だから「改憲」ありきで、なにも変わらないのだから「自衛隊」を書き加えるくらいならいいだろう、という開き直りの理屈だ。そしてそんな子供染みた名誉欲以上には、安倍自身がこの改憲で得られるものはなにもなく、日本の将来を安倍の望む方向に変えること(「美しい国へ」ですか?)にもならない。

共謀罪もやはり自民党右派の「悲願」で、これまで再三廃案となってきたものだが、その強行の恩恵で巨大な捜査権力を手にするのも一部警察官僚であって安倍ではない。

むしろあまりに広範囲な罪状に適用されるこの新法は、逆に安倍の周囲や「味方」に対しても適用できてしまう内容になっている。

たとえば「組織的信用毀損罪」までがなぜか「テロ等」に含まれ対象犯罪になっているのがこの新法だが、自民党は「ネットサポーターズ・クラブ」とやらを組織していて、その会員を自称するネット・ユーザーはさかんに組織的・集団的に野党議員であるとか政権の批判者を「炎上」させようと嫌がらせや中傷を続けている。

その中傷や攻撃の中身は、たとえば加計学園問題で与党を追及する議員が獣医師会から政治献金を受けていると言った、そうしたいわゆる「ネトウヨ」の能力では得られそうにない情報を連呼していたり、一部のジャーナリストが官邸筋の情報として言及する噂を、それがテレビ等で発信される前から先取りしている。

こうした外形的な事実だけでも「自民党ネットサポーターズ・クラブ」の会員たちに自民党から情報が流され、その「炎上」騒ぎが組織的に特定個人や団体の信用を毀損する目的で共謀されたものであることが、容易に推測できてしまう。

いざ「共謀罪の要件を厳しくした(ことに実はまるでなっていない)テロ等準備罪」の適用第一号を全国の警察が競い合った場合、真っ先に目をつけられそうなのが自民党とその一部支持者、という冗談みたいなことも起こりかねないのが、この法の実際の中身なのだ。

ちなみにこのことに遅ればせながら気づいたのか、政府では成立ギリギリになって、SNSのやりとりだけでは共謀の証拠にならない、という解釈を言い始めた。 
だがそう解釈する条文上の根拠は見当たらない上に、そういう限定された運用ならば現代もっとも危険視されるISIS(イスラム国)やアルカイーダ系のテロは対象外になってしまうので、元々既存の予備罪にほとんどなにも付け加えないこの新法は、ますますもってテロ防止にはなんの役にも立たなくなる。

警察の中枢・上層部はもちろん、当分は安倍に恩義を感じて安倍の敵を潰すためにもこの法律を使うことも考えているだろうが、いくら安倍やその熱烈支持層が「反日」と断じようが、野党と北朝鮮政府やら全共闘崩れのかつての革命集団との「共謀」なぞ立証できるわけもなく、野党議員を潰すことなぞ出来なしない。

だいたい、共謀罪の適用第一号が政治性を持つ団体や市民運動になれば、国連人権理事会の特別報告者から示された懸念が現実になってしまい、政府は激しく非難され、政権支持率も暴落するだろう。

安倍政権にしてみれば共謀罪を成立させた直接のメリットは実のところその程度しかないし、むしろこれまでも政敵潰しに協力してくれた彼ら(たとえば前川喜平氏にしてもなぜまったくプライバシーに属する夜の行動が官邸に把握されていたのか?台湾政府が蓮舫氏の台湾戸籍を破棄していなかったと調べたのは誰なのか?)に報いたいのと、安倍にとってより重要なのは、これまで自民党右派が念願しながら廃案になって来たものを自分は実現したのだ、という自己満足しか見当たらない。

これは特定秘密保護法でも、安保法制つまり集団的自衛権行使の合法化でも同じことだし、憲法改正こそその最たるものなのは、既に述べた通りだ。

自民党の先輩達ができなかったことを自分が実現したという、その先輩達への奉仕の献身と、彼らを超えたという自己満足だけが、彼をこうした強行手法へと突き動かしている。

だからどんなに腐敗していても、安倍本人には古典的な政治腐敗の動機である金銭欲などは、その無茶苦茶な政治の私物化の政策には関わっていない。

一方で、現行の刑法は、政治腐敗についてはそうした古典的な私利私欲しか想定していない。

金銭欲に目がくらみ行政をねじ曲げれば犯罪だが、安倍が行政をねじ曲げる動機はある意味でとても「純粋」だ。オトモダチや自分を助けてくれた者たちへの恩返しは、個人の私的なレベルだけで見れば、うるわしい友情物語になる。

だから加計学園にせよ森友学園にせよ、これほどのスキャンダルでも、贈収賄がらみの刑事罰には問えない。

だがもちろん、安倍自身が贈収賄などの刑法犯には問われないことを持って「違法性はない」というのは詭弁だ。

安倍個人の法的な刑事の責任、というか犯罪は問えないからといって、行政府として法令とその根本精神に違反していることに変わりはない。

ちなみに森友学園スキャンダルに至っては、動機はもうあまりに笑ってしまう子どもっぽさだった。要するに安倍は「安倍晋三記念小学校」ができることが嬉しくてしょうがなかった、その喜びを自分に与えてくれた籠池泰典氏(というか、その周囲の日本会議人脈)に恩義を感じて、一生懸命に助けてあげただけなのだ。夫人の安倍昭恵は幼稚園児の「安倍首相がんばれ」に感動して感涙してしまうほどナイーヴだったが、同じ子どもっぽさを安倍晋三も共有している。

安倍晋三内閣とは「ブタもおだてりゃ木に登る」政権なのだ。ブタは一生懸命に果物がいっぱいなった木に登り、下で自分をおだててくれるオトモダチのために一生懸命にその果物を落としてあげることに、無情の喜びを感じているのだろう。

そのために安倍が注ぎ込んでいる努力は途方もない。彼自身の損失だけで済むのならまあ身から出た錆というだけで別に構わないのだが、国会の審議時間が安倍のくだらない時間稼ぎの珍答弁で浪費され、行政の実務を担う官僚が振り回されるのは、国民的かつ国家的な、重大な損失になりかねない。

3/10/2017

「教育勅語」が日本の伝統なのか?



安倍晋三首相の夫人が「名誉校長」まで務める癒着っぷりが効果を発揮して、国有地が異常な大値引きお買い得価格で(しかも異例なことに分割払いで)払い下げられた大阪の学校法人・森友学園の運営する塚本幼稚園では、子どもに教育勅語を集団で暗唱させている。

これは自民党大阪府連が提案したことだそうで、またその幼稚園での講演会や、親向けの配布物に名前や文章が出ている面々が、分かりやすく「日本会議」の重要メンバー、天皇の退位の意向をめぐる有識者会議やそこにヒアリングで呼ばれた、なんの専門知識もない「専門家」とまったく同じ人脈であることとか、これでも払い下げについて「関与していない」「無関係だ」「政治的な働きかけはない」と言い張る安倍氏の無茶苦茶は相当なものだ。

「日本会議」系の政治家による口利きがあっただろうと誰でも想像がつくところへ、金銭の授受つまり賄賂まで介在した可能性すら出て来ているが、それがなくとも総理やその周辺に連なる人脈があるというだけで議員が官庁に口利きをしてくれるというのでは、政治の公平性が根幹から崩壊する。

そんなものは近代民主主義の法治理念以前の問題で、過去の、歴史上の名君とされる者は常に不公平の排除に腐心して来た。 
公平であることは政治倫理の一丁目一番地のはずであり、封建制などの身分制社会であってもその身分内での公平性を担保できない、為政者が公私混同に陥った政治は、常に結局のところ瓦解しているのが歴史の教訓だ。

財務省もついに「様々な働きかけ」に政治家も含まれる “可能性” は否定できなくなったが、議員が陳情を聞き入れるならば、あくまでその中身に正当性が見出せた場合のみのはずだ。

ところがこの森友学園の場合、教育内容が教育基本法や憲法に反しているとも指摘できるのに、妻が名誉校長をやっていた安倍首相でさえ、この学校法人をなぜ支援して来たのかの理由すら議論の俎上に乗せることから逃げている。

当の安倍首相に至っては、最初は森友学園について「教育方針が素晴らしい」と聞いていたはずの、「私の考え方に共鳴している方」だったのが、掌を返したように理事長が「しつこい」人で自分の妻は名誉校長職を押し付けられただの、一時は「安倍晋三記念小学校」だったのも「名前を勝手に使われた」とまで言い出しているが、ならば総理の名が騙られていたこと自体が国民の不利益になる以上は、とっくの昔に出入り禁止・絶縁くらいはしておかなければ筋が通らないし、それも出来なかったのでは国政を左右する大きな責任を負った政治家としての資質そのものが疑わしい。

繰り返すが、広く国民の生の声や要望を聴くのは議員の仕事だが、取り次いでいいのは正当で政治的に必要だと判断するものだけだ。それとも議員たろうものが陳情を官庁に自動的に取り次ぐ使いっ走りに成り下がっているのだろうか?

ならば公選制の政治家なんて不要だ。近い将来には政治は人工知能に任せるのがいちばんいい、ということになる。

森友学園のように学校法人の陳情を取り次ぐのなら、最低限でもその教育内容や方針に賛同するか価値を認めていなくてはならないし、賄賂を持って来られて「無礼者!」と痛罵したという鴻池参議院議員のように、相手に人格上の明らかな問題があると判断すれば「出入り禁止」にするのが筋だ。逆にそのような自立的な判断能力も持たない人間に、誰が議員としての職権を信託するというのか?

有権者を愚弄するのもほどほどにして欲しい(松井大阪府知事、あなたのことです)。

陳情を受け官庁に取り次ぐ側が側について、一部のメディアでは「金銭の授受がなければ問題がない」「陳情を受けるのは議員の通常の業務」などと言い出す者たちまでいるに至っては、現代の日本の政治には、為政者は常になによりも公平性に腐心すべきというモラルが欠如しているのだろうか?

たとえ金銭の授受がなくとも、身内だから、知り合いだからと言うだけで優遇をしてしまうだけでも政治家失格であり、政治道徳の欠如そのものだ。

だいたい、あらゆるまっとうな宗教の倫理体系は、人間は生まれながらには平等であると説いて来たはずだ。

仏教となると、人間だけに限らずあらゆる生命が、究極的には平等になる。

陳情して来た側の理念を共有したり支持するのであれば、その理念を堂々と述べてその正当性を論じないことには始まらない。議会制民主主義ならば、その行政府の政策はまず立法府の監視を経なければならないのに、そうした正論のルートではなく国有地払い下げ手続きをねじ曲げて悪用するようなやり方は、あまりに姑息過ぎる。

賄賂を拒絶したと証言した鴻池議員はそこまでの党内権力者ではないものの、「任侠」的にざっくばらんなぶん親切な人柄で人望は篤いと言われる。

賄賂を持って来たのを「無礼者」と追い返したような相手であれば、鴻池氏は党内の同僚議員にも「あんな奴とつき合ってはならん」くらいのことは忠告していると思われる。なのに鴻池事務所が断ったはずの森友学園の働きかけは、ことごとくその思い通りの結果を実現している。

ならば鴻池氏の忠告も無視されるほどの党内権力の意向が働いていないとおかしいわけで、ではそれが誰かといえばもちろん、最大の容疑者は妻が「名誉校長」をやっているほどこの学園との関係が密接な自民党の最高権力者、安倍晋三首相だ。

安倍自身が財務省や国交省に働きかけるとは、いくらこの首相が愚かだからといってさすがに考えにくいが(と思っていたら安倍自身が、妻が「名誉校長」になる二日前に、異例なことに財務省の担当の理財局長を、財務大臣を飛び越えて自ら呼び出しているらしい)、それでも森友学園側がこの安倍とそこに連なる日本会議人脈をひけらかすだけでも、財務省や国交省が特別な配慮を考えざるを得なくなるのは当たり前だ。

籠池氏の人脈に安倍夫妻が直接含まれる時点で、すでに関与は十分にしている。まして首相夫人が「名誉校長」をやることの影響力も考えられないほど愚劣な世間知らずなのか、と思えば、なんと総理夫妻の名が出ることで忖度されることなどあり得ない、実例の証拠を出せ、という呆れた答弁まで飛び出した。

いったいなにを言っているのやら。

安倍首相の「正論のつもり」が一般市民の感覚からかけ離れが絵空事でしかないことは呆れる他はないし、安倍内閣の閣僚でも若い頃に下着泥棒をやっていたのが、国会議員の息子だという「忖度」で被害者が泣き寝入りになっている事例まであっただろうに。

だが「警察が事件化していないのだから証拠はない」と言い出しそうなのが安倍総理だ。「関与があれば首相どころか国会議員も辞任する」というのも、自分の権力があれば証言が出て来たり官庁から証拠文書が発見されることはない、とたかをくくっているのではないか?

だとしたら、この総理大臣には倫理観がまったく欠如し、主体的な倫理観と規則への盲従を混同している。法制度を運用するのが責務の行政府の長としてまったく不適格だ。

森友学園をめぐる疑惑の関係者の参考人招致も「違法性があるかどうか分からない」と拒否しているのが自民党だが、その理屈を真に受けるなら、この人たちは道徳で自らを律するということが一切なく、法律の縛りさえなければどんな反社会的で非人道的なことでもやり出しそうだ。

ちなみに違法行為が見つかれば国会の国勢調査権では済まない。もう検察と裁判所の仕事だ。この人たちは国会議員のくせに、三権分立、立法府と司法の役割分担も分かっていないのか?

かくも不道徳で自らを律する意識に欠けた人たちが、「教育勅語」に書かれた徳目は正しいので、子どもに暗唱させるのは素晴らしいのだという。ここから分かることは、教育勅語にどんなに立派な徳目が書かれていようが、道徳教育の効果がほとんど認められない、ということだろう。

安倍は自分の名前を冠した名称を「知らなかった」「すぐに断った」はずが、フジTV系がすっぱ抜いた幼稚園側の内部映像では、たとえば2014年4月の段階でも園児たちが「安倍晋三記念小学校、よろしくお願いします」と園長に言わされる姿に、安倍昭恵氏が涙ぐんで喜ぶ姿が映っている。これでは夫が総理になったから昭恵氏に断わられたという森友学園側の説明にすら矛盾するはずだ。
首相は森友学園の籠池理事長とほとんど面識がないと言うが、籠池氏側は安倍首相が幼稚園を訪れていることも過去におおっぴらに言及…というか自慢しているし、昭恵氏が2014年12月に幼稚園でやった講演では、彼女がそう言っている。首相は妻や籠池氏が噓つきだというのか? 
噓をついてまで自分の名前を利用されたのなら、最低限でもとっくに絶縁・出入り禁止にしていなければおかしいし、ならば国会に呼び出し白黒をはっきりさせなければ、それこそ首相の名誉が問われる。

安倍夫人の昭恵氏によれば夫が「素晴らしい」と言っていた(首相は妻が噓つきだとでも言うのか?)教育方針の「教育勅語」の暗唱だが、その信奉者を見る限り道徳教育の効果がまったくなさそうであるだけでなく、政治的刷り込み以前の問題で、幼稚園児にやらせる、それも集団での暗唱を強要するなら、それだけでも発達心理学、児童心理学、精神医学の見地から、立派に虐待でしかない。

子どもの教育はその年齢年齢での発達段階に合わせて体系的にやらなければ無理が出て虐待になるなんてことは、西洋では18世紀には完璧に理論化されていることだ(アンリ・ルソーの『エーミール』)。

また別にそんな教育学や啓蒙思想の歴史を知らなくとも、まともな感覚さえあれば、よほどの天才児でもない限り擬古文調・擬漢文調の教育勅語を現代日本語で育っている幼児にいきなり強要するだけでも無理があると分かるだろう。

しかも塚本幼稚園では明治維新の「五個条御誓文」まで集団で暗唱させているという。 
国家という概念が意識されているとも言い難いどころか、江戸幕府があって明治維新のクーデタによる政権交替と体制変換があったという歴史理解や、150年前とか200年前という時間感覚すらまだ未発達な幼児に、文脈もなにも示さずに教え込むのもおかしい…というか無理があり過ぎる。

「神道に基づいた日本の伝統を教える」のなら、「古事記」のなかから「因幡の白兎」でも子ども向けに書き直し、集団で暗唱させたいのならこの話を基にした小学校唱歌の「大黒さま」の合唱ならまだ分かる。


大きなふくろを かたにかけ
大黒さまが 来かかると
ここにいなばの 白うさぎ
皮をむかれて あかはだか 
大黒さまは あわれがり
「きれいな水に 身を洗い
がまのほわたに くるまれ」と
よくよくおしえて やりました 
大黒さまの いうとおり
きれいな水に 身を洗い
がまのほわたに くるまれば
うさぎはもとの 白うさぎ 
大黒さまは たれだろう
おおくにぬしの みこととて
国をひらきて 世の人を
たすけなされた 神さまよ 
小学唱歌「大黒さま」作詞 石原和三郎 作曲 田村虎蔵


因幡の白兎と大国主命をめぐる物語では、意地悪な兄の神々が全身に怪我をした兎を騙して体中の傷に塩を塗り込ませ、それで激痛に泣き叫ぶ兎をやさしい大国主命が哀れんで、正しい治療法を教わった兎の傷はめでたく全快する。

このお話ならばまだ、子どもに道徳を理解させ教えることになるだろう。

ちなみに実際の「古事記」では、大国主命に救われた兎は突然カミ的な存在になり、大国主はそのお告げに従って妻を娶る、という展開になる。今では大国主命を祀る出雲大社が「縁結びの神さま」になっている由縁だ。 
まあここまでは、幼稚園児に教えることもあるまい。

この逸話のメッセージは「弱いものにやさしくしなさい」なのだろうが、しかしそれをただお題目として覚え込ませるだけなら、中身がどんなに正しいことだとしても、幼児相手には押しつけでしかない。

幼児にはその道徳がなぜ大切なことなのかの因果関係や因果応報、良い行いがどんな良い結果を産むのかをまず理解させなければ、それが「良い行いである」という説得力を持たないし、だからこそ物語の形式、童話というかたちが幼児教育では重要視されて来たのが、人類共通の普遍的な知恵ではないのか?

教育勅語に並んだ徳目は親孝行や勤勉など立派なことばかりじゃないか、と言い張るのはあまりに「教育」が理解を出来ていない時点で、そんな者たちがこと幼児教育に口を出すこと自体がすでに虐待の構図だ。

しかもその人々は、文章はまずその字面に書かれた内容を把握するという当たり前の読解能力も欠如しているし、いかに擬古文調ないし疑似漢文書き下し調の、現代人にはなじみのない文体で書かれているとはいえ、文法構造も理解できないらしい。

教育勅語のロジックは、単に列挙された徳目を、一人称の主語「朕」(つまり天皇)が守れと国民に命じているだけだ。「なぜ」そうすべきなのかの理由と来たら、まず日本が天照大神以来の長い歴史を通じて徳を樹立して来た国だったから云々と言っているに過ぎない。まずそれ自体が史実に反する上に、抽象的過ぎてそもそもなんのことか、国家どころか社会の認識すらまだまだ未成熟で抽象概念の理解も育っていない幼児には、分かるはずもない。

そもそも、教育勅語でただ列挙されただけの「十二の徳目」とやらは、ちっとも日本のオリジナルではない。


基本、儒教の引き写しで「論語」から理論・論理構成を無視してただ題目のスローガンだけを引き写し列挙した劣化ダイジェストでしかなく、十二番目に至っては「義」の解釈がおかしい。

「義」は普遍的な道徳概念、正義であって「国」を超越するものだ。むしろ国家の統治を担う側が「義」を体現しなければならない、とするのが儒教の論理なのが、教育勅語ではその逆に、「皇国イコール義」となっている。

使われている言語の点でも、教育勅語の擬漢文調の悪文を無理矢理覚え込ませるくらいなら、まだ本物の漢文で文学性や韻律の上では名文の「論語」を暗唱させた方が遥かにマシだろう(だとしても幼稚園児には無理で、どんなに英才教育でも小学生が限度、現代なら早くとも小学校高学年だろう)。

賛否や好悪はともかく、儒教がひとつの政治的思想の道徳体系として歴史的に大きな役割を果たしたことは否定しようがなく、また論理的にも破綻しないように構築されているからこそ、それが可能だった。

一方「教育勅語」はといえば、そもそも論理的な根拠に乏しく、たいした論旨展開もないにも関わらず、歴史的な儒教とその受容の伝統に反する上に、思いっきり論理的な欠陥も露呈している。

なにしろ儒教倫理を援用・列挙しながらその全体の論理構成が非儒教的というか、儒教のロジックのもっとも肝心な部分が欠落しているどころか、倒錯的に逆転しているのだ。

長幼の順や親孝行などの家庭内の私的レベルに始まって、忠義などの社会的レベルまで上下関係により人間社会の全体をヒエラルキーで理論化しているのが孔子の思想の基本だ。だからこそその権威・権力の最上位(ヒエラルキーの頂点)がどこに定義され、それが人間であるのなら、その行動がどう道徳的に規制され得るのか抜きには、儒教は政治思想としても哲学としても、成立もしなかっただろうし相手にもされなかっただろう。

上下関係を基本に社会を見た場合、そのなかでひとつの権威・権力が恒久的に上位にあるのなら、それが専横に走ることに歯止めがなくなるし、そんな権力体系のなかでは、逆に下位にあるものが上位に従う理由が恐怖か抑圧への隷属以外にはなくなってしまう。

むろん実際の政治に当てはめれば、これでは腐敗と政治体制の硬直・形骸化、ひいては独裁と没落の温床にしかならない。

孔子がそこで導入したのが「義」と「仁」を追及することの「徳」と「天命」、そして「易姓革命」の原理であり、ここにこそ儒教の本質があるとすら言える。

ただ「上にある者は偉いのだから従え」だけなら、孔子の思想は無能な独裁専制君主以外にはおよそ相手にされなかっただろうし、そんな王朝は早晩死に絶えたはずだし、実際に中華帝国の歴史では、一時は優れた政治で隆盛を極めた王朝であっても、やがて淘汰されては交替を繰り返して来た。

例えば前の王朝の臣下が忠節の義務を覆して新王朝を樹立することをどう正当化し得るのかといえば、最上位の権力・権威を皇帝が持ち得るのは自らの「徳」によって「天命」を受けるからであり、「徳」を失った瞬間にその権威は消失し、別の一族(姓)が天命を受け、「徳」を失った皇帝とその一族は新たな「天命」を受けた新王朝に淘汰されるのが「易姓革命」だ。この原理によって儒教は権力の淘汰と更新を理論化し、権力者にこそより厳しく道徳的な抑制を課すことで、辛亥革命までの数千年にわって中華帝国の統治理念として機能し続けた。

日本に儒教が伝わったのは「日本書紀」の記述によれば5世紀だ。

より後の6世紀に伝来した仏教の方は、排仏を唱えた敏達天皇が疫病で急死したことへの畏怖もあり(この辺りがいかにも日本的だ)、また尊仏派の蘇我系の皇子・厩戸王(聖徳太子)が四天王に祈願したところ物部氏との内乱に勝利したことが決定的になり、7世紀初頭にはすっかり定着していたことが明らかだ。それも当時の国家中心だった大和地方(奈良県)に残る、蘇我氏の氏寺だった飛鳥寺とその系譜を継ぐ奈良の元興寺や、聖徳太子ゆかりの法隆寺や、摂津の四天王寺だけではない。

元興寺極楽本坊金堂 外観は鎌倉時代
元興寺極楽本坊金堂 鎌倉時代の和様建築だが内陣の柱などは奈良時代
元興寺 金堂と禅堂の屋根瓦の一部は飛鳥寺のものだと言われる

全国各地でも長野の善光寺はもちろん、なんと東京の浅草寺も推古朝の時代に遡る。

そんな仏教の受容定着の早さに較べて、伝来はより遡る儒教はといえば、本格的に統治原理に導入されたのが確実だと言えるのは8世紀初頭まで待たなばならないだろう。天武天皇の命で編纂が始まった「古事記」がその妻の持統天皇の代に完成されたはずが、そのほんの数年後には「日本書紀」が新たに作られて正史となった経緯は、律令国家の完成期に儒教が本格導入されたことを示唆していると考えられる。

「日本書紀」は完全に儒教のロジックに則った歴史書であり、その編纂によって排除された「古事記」とは、世界観や善悪の概念がかなり異なっているのだ。

結果、「古事記」は永らく私的文書として省みられないか、カミ信仰の縁起としてのみ生き残った。 
今でも多くの神社の由来が「古事記」に基づいていること、つまり民俗信仰と深く結びついていることからも推測できるように、儒教的に論理化された「日本書紀」に較べて、「古事記」はより文化的な潜在意識というか、民族的な集合記憶に親和性が高い物語体系と価値観を表現しているとも言えるだろう。
それがいわば「神道」の起源であり、その論理は必ずしも儒教的なものではない。
というか儒教とはかけ離れている面こそ多々あるわけで、ヤマト王権に滅ぼされたり淘汰された出雲系の神々もいるし、その長の大国主命は儒教的な長幼の順に反して末っ子だ。後にカミとなった者も、朝廷に左遷された菅原道真を祀る天神信仰や、逆臣だった平将門が神田明神の祭神、金比羅信仰は廃位・流島に処せられ狂い死にした崇徳天皇が祭神、と言った具合だ。

だが儒教に併せて書き直された神話と古代史とみなせる「日本書紀」の、つまり律令国家の完成期のロジックでも、「易姓革命」だけは受け入れていない。

天皇の地位が「古事記」的世界観の、カミの子孫という神秘的な位置づけで維持されたままでは、その血統が「徳」を失えば淘汰されるという原理とは相容れないからだろう。

「易姓革命」がない儒教を統治理論とすることは一種のダブルスタンダードであり、また厩戸王(聖徳太子)の推古朝から律令期、奈良時代を経て平安時代の半ばまで、日本は対外的には中華帝国の朝貢国でありながら、国内的には土着の神話体系に基づく祭司王を「天皇」としたことにもダブルスタンダードが見られる。

逆に言えばだからこそ、カミを先祖とする天皇家が「徳」を失うことを許さないのが、このダブルスタンダードを破綻させないための日本の統治原理となった。

天皇が天皇だから偉いのではなく、天皇だからこそ「徳」を保ち続けなければならない。私欲ではなく民の幸福を願い臣下に耳を傾け、徹底して無私で、自らの利のための罪に手を染めるなぞもっての他となり、もし天皇が「徳」を失っても、淘汰されるのでなく自らが身を引かなければならないことにもなった。

中国の三国時代の歴史に基づく「三国志演義」は儒教的な世界観、政治観が凝縮された物語だが、とりわけ日本で人気がある劉備玄徳は、日本で受容されたその無私で仁愛にあふれたイメージがかなり「天皇的」だとも指摘できるだろうし、だからこそ三国の君主のなかでとくに人気があるとも思われる。 
実際の三国時代で最大の覇権国は曹操の魏だったし、オリジナルの中国では三国それぞれの君主の勇敢さや知略、政治力や「徳」がかなり平等に受容・評価されている。 
もちろんそれでも、諸葛孔明や関羽など、道教で神格化された臣下を持った劉備は、その意味ではやはり別格だが。

まず日本の律令制が完成したときには、中華帝国の統治制度の模倣でありながら、肝心の天皇には、権力が集中するようには必ずしもなっていなかった。

最高権力者として機能するよりは、権力の直接行使から一定の距離を置くように制度が作られていたのだ。権力闘争からある意味切り離された天皇であれば、権力闘争の主役・主導者とはなりにくいので自らの個人的野心から権力を行使しにくくなるので、その「徳」つまり道徳的な権威を維持するには、むしろ都合がいい。

現に7世紀後半の、天智天皇の没後であれば、壬申の乱でその天智帝の弟が兄の子を滅ぼして天武天皇となったように、まだ天皇家の内部で直接に殺し合っていたのが、8世紀の長屋王の変では天皇家それ自体が皇位継承をめぐって手を血で汚したわけではなく、長屋王を滅ぼしたのはあくまで臣下の立場の藤原氏だ。

つまり天皇が直接に、権力行使に伴う「悪」に手を染めることを避けることができ、天皇が自分の野心や権力欲で行動することもなければ、「無私の、有徳の権威」としての天皇の地位が守られるわけだ。

その藤原氏の娘を皇后とした聖武天皇は、即位の直後には首都を内政、外交、宗教という三つの機能に分けて三つの都を設けるといった自分なりの国家像を具現する野心もあったようだが、その計画が疫病や天災で頓挫すると、大仏造営を発願し、権力の行使よりは国とその国民の安寧を祈った天皇のイメージが強い。

東大寺大仏殿 度重なる戦火を経て江戸時代の再建

言い換えれば、「象徴天皇制」はなにも戦後憲法で出て来た新しい概念ではない。

むしろ日本という国家の原型ができあがったときにはすでに天皇は多分に象徴的な、世俗権力よりは神仏と連なる道徳権威を担う君主になっていたし、歴代天皇で「親政」を敷いたと言える例が数えるほどしかいないのを見ても分かるように、天皇は権力の行使や権力をめぐる闘争の主体とはならないことでこそ「徳」を保って来られたのだとも言えよう。

平安時代の大半で政治を主導したのは藤原摂関家だし、平安末期の社会とその経済構造の転換期にその律令的な官僚制が機能不全になると、退位した元天皇(上皇・法皇)が政治を主導したのも、絶対的な「徳」を維持しなければならない天皇位にあっては政治権力を左右することが難しかったからだったとも考えられる。

戦国時代に政治的に無力だった朝廷の 後奈良天皇宸筆の般若心経
先ごろ皇太子が誕生日会見で言及した

後醍醐天皇の建武の親政を最後に、天皇が自ら政治的野心を持つことは事実上の禁忌となり、国民になにかを命ずる存在というよりは、「徳」を保ち続けることで実態権力を握った政治的支配層の倫理的権威付けとなると同時に、その倫理的な歯止めとしても機能し、ふだんは学問や風流に専心し教養を高めることで自らの「徳」を保ち範を示す存在であり続けたのが、幕末の孝明天皇までの役割だった。

紫衣事件で徳川幕府と対立して退位した後水尾上皇の修学院離宮
普段の御座所である壽月観 洗練はされているが簡素な造り
皇位を退いた後水尾上皇は風流・趣味の世界に没入したとも言えるが
この離宮は一般庶民にもしばしば開放されていたという
修学院離宮には水田も広がり 農家が耕作に当たっている
奥に見えるのは上御茶屋・浴龍池を形成する堰 石垣は緑で覆われている
上御茶屋・浴龍池 実は山の中腹に水を堰き止めて造営された人造湖
後水尾上皇が具現化した詩歌と風流・文化の理想郷
上御茶屋の御座所 窮邃亭 風景こそが最大の贅沢とはいえ極めて簡素な造り

孝明天皇に関しては、過去に流布した俗説では尊王攘夷運動はこの天皇が西洋人嫌いだったからと言われがちだが、史実はかなり異なる。孝明帝はむしろ西洋列強の進出で幕府の権力基盤が流動化したことを憂慮し、国民のために平和が続くよう幕府や諸大名を戒め、政治の安定を求め続けたという方が正確だろう。

後水尾天皇の中宮 徳川秀忠の娘・徳川和子建立の鐘楼 京都 六地蔵

最初は以前からの決まりごとだからと鎖国政策の維持を求めた孝明天皇だが、それは非現実的だと一橋慶喜に説得されると納得し、妹の和宮を14代将軍家茂の妻とする公武合体に同意し、慶喜が15代将軍とって徳川家を中心としつつ外様の有力大名も加えた新体制の成立を模索したことにも協力を惜しまなかった。

だがその孝明天皇が急死し、少年だった明治天皇を味方につけて(「傀儡にした」という方が精確かもしれない)、その先帝の信頼が篤かった徳川慶喜の江戸幕府を倒したのが明治維新だ。

その政府が明治21年に天皇の名で出したのが「教育勅語」である。

すでに述べた通り、そこに列挙された(「皇国」の子どもが守るべきとされた)徳目は、最後のひとつを除いて儒教の引き写しだ。江戸時代でも朱子学は武家の公式学問だったので、一見歴史伝統を引き継いでいるように見えるが、基本的な一点で決定的な逆転があることに気づく。

江戸幕府が朱子学を学ぶように定めたのはあくまで武家相手、つまり支配階層に対してだ。

儒教的な論理が最初に直接日本史に登場するのは「日本書紀」に書かれた聖徳太子(厩戸王)の「十七条憲法」だが、これも官吏の服務心得であって、国民に向けて発せられた国家理念ではない(この辺りは現代では誤解が多い)。

聖徳太子の古代から(ただし「十七条憲法」は「日本書紀」の創作とみなす説もある)江戸時代の朱子学まで、儒教の倫理はまず支配階層相手のもの、統治する側が自らを律し範を示すものであって、統治者の側から一般人に課されたものでは必ずしもない。

だいたい、その道徳に従えば敬われることになる側が「これが道徳だから従え」というのでは自己撞着の手前勝手に過ぎるし、江戸時代に寺子屋で論語の素読が一般庶民レベルで普及しても、それは「聖賢の教え」だから将軍家が筆頭になって(範を示して)尊重したのであって、上位にある者が自らに従えと言いたいことの自己正当化で儒教の徳目の遵守を命じた(押し付けた)わけではない。

だが教育勅語は、こういう当たり前の論理にはまったくなっていないのだ。

まず「朕」つまり天皇自身が、2600年近く日本という国が存続したのは天皇家(つまり自分の一族)が君臨したからであり、そこで儒教引き写しの徳目を列挙した上で、国民がそれを守ることで天皇家が今後も維持され栄えることに貢献せよ、と結んでいる。

何重にも奇妙な話だ。

天皇とその一族に「徳」があるとしたら、その「徳」はその行いから自然ににじみ出るものでなければ「徳」とは言い難いはずが、逆に自分たちが栄えるために国民は道徳を守れ、と命じていることになっているのが、教育勅語の転倒した論理だ。

これでは「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」とも喩えられたような日本的な「徳」からはほど遠い。あまりに厚かましくて「徳」どころではなく、「あさましい」し、あまりに「はしたない」。

明治政府が公式に信じていたことにしていた通り、天皇家が2600年間(記紀の記述を単純計算で加算すると、初期の天皇が極端に長寿なのでこうなる)日本の単独王朝として維持されているとしても、それは歴史上の然るべき、複雑にからみあった理由が積み重なっているからであって、天皇がいたから日本が2600年続いたというのではまるでカルト信仰だし、ましてこれだけ続いたのだから天皇の系譜には(自動的に?)徳があると言うのでは、話がアベコベの論理倒錯だ。

今の政界でこれもひどく揉めていて、これまた自民党の特に右派にとってはおもしろくないらしい「天皇の生前退位」問題にしても、明治維新の以前には天皇は退位できるのが当たり前だった。
ほとんどの場合、その理由は「徳がなくなった」、つまり自らが天皇の位にふさわしい「有徳の君主」であり続ける自信がなくなったから位を譲ったとされている。 
だいたい謙譲の美徳も確か教育勅語に入っていたはずだが、なのに命じている天皇が「自分には生まれからして絶対的で不滅な徳がある」とふんぞり返っているのなら、なんとも謙虚さに欠けた増長慢・傲慢でしかないだろう。

そもそも徳目を尊重することで自らを高められるから道徳、モラルというのであって、上位にあるものが「これを守れ」というのはただのルール、命令で、従ったところでその本人の「徳」とはなんの関係もない。

「徳」とはあくまで自らの内から発するものだからこそ他者からの尊敬に値するわけで、命令に従うだけならその本人の人格の良し悪しにはなんの関係もなく誰でもできること、本来「徳」とは無縁の話だ。

まただからこそ、儒教は本来なら封建的社会構造においてまず統治する側に課せられた倫理規範だったわけでもある。従うだけの統治される側が「徳」を持つことは、そもそも原理的に不要だった。

江戸時代には朱子学の倫理観から不貞は「不義密通」として処罰対象だったが、これは武家および一部の格式を与えられた豪商には適用された罪だったが、一般庶民は自由恋愛を楽しんでいた。 
夫に愛想を尽かした妻から切り出した離婚の成立も、考えようによっては現代よりも通り易かったとさえ言える。

近代の意識変革で、明治政府が個々の国民が「徳」を高めれば結果として社会全体がうまく行くはずだと考え、それを国民に提案したのならまだ分かる。

だが教育勅語では十二番目の徳目つまりは最重要の結論の位置づけで、天皇の国家をなぜか「義」として論理を歪め、そのためにいざというときは死ぬことを「徳」とみなしている。天皇が自分とその一族のために死ねというだけでもおよそ「有徳の君」とは言い難い厚かましさであり、「義」の概念を自分の一族が繁栄することと掏り替えているのは公私混同も甚だしい。「有徳の者」となることを命じられた国民の側にしても(そもそも命令するものではない)、普遍的な社会的正義(「義」)ではなく天皇自身の私的な一族のために、それも死んでしまうのでは、なんのインセンティヴもなければ本来の「義」つまり社会正義にも貢献できないわけで、ますます持ってえらく厚かましい公私混同、天皇家による国民の私物化でしかなく、「徳」のかけらもない。

歴史的な天皇制の(それ自体人間的には不可能に近い)原理は、天皇が完全に「私」を棄てて「公」の存在になることを要求するものだったと言えるが、明治の新体制のなかで教育勅語はこれを逆転させて、国とその民の「公」を天皇とその一族の「私」にスリ替える公私混同に基づいている。これでは、それが国民に道徳的な範を垂れる天皇の言うことか、という話にしかなるまい(もちろん一人称が「朕」つまり天皇であるのは、単に天皇がそう「言わされている」だけだろうが)。

まっとうな信仰や宗教といわゆるカルトをどう見分けるのかにはいろいろな価値基準があり得るが、まず不合理があからさまで論理的に破綻しているもの、そして教組なりなんなりの教団トップが自らを神と同一視して、その身勝手を神格化によって野放しが許されてしまう、崇拝される側の人間に一方的に都合が良いものを、危険なカルトとみなすことには、まず異論はないだろう。

だとしたら「朕」つまり天皇の一人称で国民に命じる形で書かれた教育勅語のロジックは、カルトそのものだ。

だいたい「自分のために死ね」というのを道徳として言って来る側こそえらく不道徳ではないか、としかならないわけだが、それ以外の(儒教模倣の)11の徳目にしても、個々に文句をつけるほどのものでもない一方で、およそ絶対的なものでもないのも分かり切ったことだ。

親孝行が道徳だからと言ってDV虐待親だったり反社会的な犯罪者だったりしたら「親に従え」もその限りではないし、夫婦和合でもそれが夫唱婦随を前提とするなら、夫の側が自制心(つまりは徳)を持っていて始めて成立するものだろうし、どちらも逆にうまく行っている家庭ではわざわざ言うほどのことでもない。

だいたい、いくら親孝行が道徳と言ったところで、親が子、特に父親が子らに親孝行を直接に要求するのは控えめに言ってもあまりに手前勝手ということになろうし、一方では子が親を、とりわけ男子が父親をなんらかの形で超えることは、少なくとも父権優位の社会では成長の過程で避けられないと同時に、それがなければ社会の進歩もない。

儒教の孔子のロジックに立ち返れば、孝養の義務は子にある一方で、より大きな社会的な大義や天命があれば、横暴な父が子に排除されることもあり得るはずだ。

ちなみに今では戦国武将といえば織田信長や豊臣秀吉が圧倒的な人気を持っているが、かつてもっとも尊敬され崇拝された戦国大名は軍神・武田信玄だ。 
その武田晴信(信玄は出家後の名)は父・信虎をクーデタで排除した「親不孝もの」でもある。さらにちなみに言えば、信虎が亡くなったのは信玄の死の翌年だ。 
親より先に死ぬのも、まあ親不孝そのものだろう。

教育勅語に列挙された徳目それ自体にしても、「日本人として当然」でもなければ、決してそんな絶対的なものでも、反論の余地がないものでもないのだ。

道徳的な項目というのは自ずから限界があるか、普遍的な倫理規範であってもそれを解釈する個々の人間の側の限界の壁が常に立ちはだかる。だから儒教ですら「易姓革命」のロジックを組み込んで道徳の絶対的な金科玉条化は避けているし、それでもおよそ普遍性のある思想とは言い難いのが率直なところだ。

たとえば仏教のようなより普遍的な思想体系は、より成熟した哲学体系にこそ裏打ちされている。歴史的に生き残っている思想や宗教の体系は、基本論理や基本的な倫理は絶対的かつ普遍的であるとしても、現実への援用は常に相対的で解釈の幅を持つと同時に、その人間による解釈はどれひとつ絶対的にならないように出来上がっているのだ。

ではそういったさじ加減(釈迦によれば中庸の道、中道)を見極める知恵はどこから得られるのかと言えば、その規範こそが倫理道徳の本質であり、近代科学以前には哲学と宗教が担って来た領域だ。だからこそ倫理・道徳的なメッセージは古代の神話以来、常に物語や説話にこそ託されて来たのでもあって、倫理道徳を説く説話構造の物語というのは、なにも子ども相手に限ったことでもない。

本当に子ども達に道徳を教え込みたい、現代の教育には道徳観が欠如していると危機感を抱くのなら、幼児には幼児に分かるレベルの物語(それこそ「因幡の白兎」だっていい)を教えた方がいいし、もっと言えば自分達が教わった道徳が現実の世界で有用であることを大人が範を示すことで理解させなければ、どんなに立派な「道徳ルール」を連ねようが、子どもだましにしかならない…というよりも、子どもこそ騙されないだろう。

いやこの森友学園をめぐるスキャンダルを見ていると、教育勅語だの五個条御誓文だの、あるいは「十七条憲法」よりも遥かに簡単に子どもが覚えられる日本的なモラルがあったことを思い出さずにはいられない。

「噓つきは泥棒のはじまり」

この極めて単純な道徳が、日本では危機に瀕しているどころか、完全に崩壊してしまっている。

12/17/2016

「北方領土」「日露平和条約」の同床異夢(にすらなっていない)


承前 (12/14/2016 北方領土は帰って来るのか 
        12/16/2016  山口県へのプーチン訪問と沖縄でのオスプレイ墜落の皮肉な偶然

いったいなにがなんだったのかよく分からないが、安倍さんがどんなに「個人的な信頼」を強みにしたつもりだろうが、経済援助つまりロシアに金をバラまくのと引き換えに北方領土が返って来ることはどうもないらしい、というのがこの度のプーチン露大統領訪日の顛末のように、なんとなくは思われている。

今年の5月から安倍が言い始め、9月には「手応えを感じ」たはずの「新しいアプローチ」とはなんだったのかの正体もよく分からないが、それでも中には、今度は「特別な制度」という言葉が飛び出したことに、安倍さんがなにか凄いことをやってのける実行力があるように期待した人もいるのかも知れない…のだが、その「特別な制度」がなんなのかも、なぜそれが必要なのかもよく分からないままでは、なんとなく「安倍さん凄い」と思う国民がいることに、安倍政権は一縷の期待をかけているのかも知れない。

二日目の東京での首脳会談のあとの日露共同記者会見でも、北海道新聞の質問に安倍はまともに答えず話をそらし、「特別な制度」がなんなのかはさっぱり分からなかったし、「旧島民の高齢化が進んでいる」ので「人道的な見地」を今回の交渉の大義名分に掲げているはずが、いつ頃までに実現できるのかの目処どころか、「私の任期中にぜひ」という程度の決意や目標くらいあっていいはずが、ただ逃げて誤摩化しただけだった。

夜のTVニュースにわざわざ生出演しても「前例がないから説明が難しい」と言い逃れをしただけだ。もちろんそんな「前例」があろうはずもない。そもそもそんな「制度」自体が、あり得ない話だからだ。

すでに前夜の山口県長門市での首脳会談後に、安倍が「特別な制度」を自慢げに発表したのとほぼ同時に、ロシア側では「ロシアの法律に基づく」と大統領補佐官が発表している。即座に両者のズレが鮮明化していたにも関わらず、二日目・東京での首脳会談でも、この認識の違いの擦り合わせは行われなかったようだ。

いやそもそも日本の世論では、この北方四島での経済活動や旧島民の訪問について、なにやらロシア側の問題で四島への日本人の立ち入りを禁じているから、「特別な制度」や交流拡大の交渉が必要なのだと思い込まれているが、これは大きな誤解だ。

ソ連時代ならともかく、今でも旧島民を含む日本人が北方四島に行くことも、日本企業が経済活動を行うことも、禁じているのは日本政府だ。ただ罰則は特にないし、罰することが出来る法的な根拠がない。国への忠誠、愛国心、政府に逆うなというような曖昧な理由だけだ。

日本政府が一方的な理屈で、ロシアの国内法に基づき日本国籍者がロシアのビザを受けて北方四島に行くことは、理屈の上ではロシアの施政権を認めることになるから行ってはいけない、としているだけなのだ。

確かにパスポートには、それが正式には他国政府に自国民の法的な保護を求める文書であることが明記されているから、日本人がその日本パスポートでビザの発給を受け北方四島に行けば、ロシアの法的管轄権を認めてその保護を求める格好になる。

もっとも、領土紛争がある土地について、公職にある者ならまだしも、このような理由で自国民の渡航・入域を認めない、という例を、他に聞いたことがない。

国境線の変更で元々自国だった土地が他国のものになったり元に戻ったり、というのは世界史上どこにでもある話だが、たとえば普仏戦争でドイツ領になったアルザス=ロレーヌ地方のフランス人は、第一次大戦まではドイツの支配下でそこに住み続けたし、ヴェルサイユ講和条約でこの二地方が再びフランス領になれば、今度はそこでの生活を保護する法はフランス国内法、警察権を持ち住民を保護し治安を維持する役割を担うのはフランスの官憲となった。「ドイツ領と認めないからフランス人はそこに住んではいけない」などとフランス政府は言わなかったし、そこにフランス人がいなくなればフランス政府は戦勝によりアルザスとロレーヌの返還をドイツに求める根拠を失っていただろう。

ナチス・ドイツの時代になりヒトラーがヨーロッパ各地に領土を拡張したのも、第二次大戦の勃発以前のその正当化のロジックは、「ドイツ人が住み続けているからドイツの土地だ」だった。

北方領土には1948年以降日本人はまったくいない。だから旧島民がより自由に行けるようにして、企業の経済活動で足場をつくる、そのための「特別な制度」という安倍のロジックは一見もっともらしく聴こえるが、これは二つの点で荒唐無稽だ。

まず第一に、当たり前の感情論として、将来的に日本領にするためにまず旧島民の日本人と今の島民のロシア人の交流を深め、旧島民がより自由に渡航できるようにして、日本企業の経済活動をやれば、ロシア人も日本の支配を受け入れてくれるはずだ、なんてことがあろうはずもない。

いったいどこの国に、「これからお宅の領土を乗っ取ります」とやってくる外国人や外国企業を歓迎して理解し、「だから仲良くしましょう」と真に受けて交流を深める国民なんてものがいるのだろうか?

「いずれ日本領にするために日本から来ました」などと言われては、ロシア人住民が旧島民ですら受け入れるわけもなく、一部にある旧島民への同情論や、ロシア人全般にある親日本感情なぞ一瞬にして消し飛ぶし、日本企業がそんな前提で進出すれば激しいボイコットが起こって当然だ。

これは日本外交がしばしば失敗する大きな原因で、安倍政権の場合は特に顕著なのだが、他国民、他国政府のいわば他人様の立場からは物事がどう見えるか、想像力どころか当然の論理的帰結すら考えられない日本側の独りよがりが、外交で通用するわけがない。

第二に、安倍が「前例のない」というのも当たり前で、そんな「特別な制度」は法の支配の基本論理にまったく矛盾し、そもそもあり得ないのだ。

安倍は主権、施政権といった国家の権利を為政者が気ままに権力を行使することだと勘違いしているようだが、主権、施政権というのはその土地の治安を守り住民の生命財産と生活を保護する責任を意味する。安倍のいう「日本の法的な立場」がいかなるものだろうが、その土地での法的な保護が担保されないところで生活をしようとするのは狂気の沙汰だし、ロシアの法に基づく保護のないところでの経済活動とは、つまりは日本企業がロシア人住民による略奪に遭おうとも文句が言えない、ということにすらなる。

安倍が時期的な目処を言わなかったのも当然だ。どう逆立ちしようがそんな「特別な制度」なぞあり得ない、「制度」というのならその制度を施行し運用に責任を持つのは誰なのか、それが保証されない「制度」は「制度」ではない。

「特別な制度」をどちらが言い出したのか不明だが、ロシアが提案したのならそれはあくまでロシア政府が運用の責任を負う経済特区とかそういうものでしかあり得ないし、ロシアが最大限妥協しても共同統治で、これとて双方が主権を認め合う、つまり日本もロシアの主権を一定部分で認める、ということにしかならない。

首脳のみの単独会談で安倍が言い出したことならば、プーチンは「なにを馬鹿なことを言っているのだ」と呆れつつ、安倍の言うことも考えてみるとその場で話を合わせただけだろう。そもそも安倍があり得ないことを言っているわけで理解する義理すらないのだし、今回の会談については、表面的だけでも話がまとまったように見せかけることがプーチンの戦略の一つでもあり、だから「特別な制度」とはロシアの法制下での新たな制度的枠組みの話だと誤解した風を装い続けつつ、誤解を解こうとはしなかっただけだろう。

それにしても今回の日露首脳会談や北方領土の問題を巡っては、こうした基本的な前提も含めて、あまりにも日本側の(政府が分かっていないはずはなく、分かっていながら世論操作で国民を騙している)誤解が多い。

今回の首脳間交渉の結果を「ロシアの食い逃げ」と酷評するのも誤解で、これは5月以降他ならぬ安倍政権自身がさんざんそのような誤解を振りまいて来たのに、日本での首脳会談が終わったとたんに「誤解だ」と安倍自身が言い出している。

日本が提案し、今後は約束するのは決して経済援助ではなく、安倍政権が発展途上国相手に繰り返して来たバラ撒き懐柔外交とは違う。あくまで相互の経済協力であり、ロシアは日本の企業などの経済活動にロシア領内での便宜をはかり、日本は日本企業によるロシア東部(シベリアやサハリンつまり旧樺太)への投資や進出を後押しする、というのが基本だ。

「協力」つまり日本企業にとってのビジネス・チャンスを日露双方で整備し、便宜を図ることであり、「食い逃げ」批判は当たらないし、儲けのチャンスがなければ日本企業は進出しないし、ロシア側からみればことシベリアなどロシア東部には、豊富な地下資源など、日本企業にとっての十分なメリットがあるはずだ。

現に安倍政権が提案している具体的な経済協力プロジェクトには、日本企業がすでに独自に立案して進めている事業も多数含まれている。 
領土問題を動かしたいからといってこんな見え透いた欺瞞の恩着せがましさは、相手国の不信を買いかねないのだが。

ソ連崩壊後の混乱期なら経済援助もロシアは確かに必要としていたが、時代が違う。

ウクライナ情勢やクリミア併合の経済制裁は大きなダメージではあっても、大統領がわざわざ援助をせびるか懇願しに来日するほど、今のロシアは落ちぶれていない。

いや今さら安倍が「誤解だ」と言ったところで、同じ誤解に基づいていたのが、安倍が今年の5月から「新しいアプローチ」で北方領土交渉を始めたきっかけ、最初の動機だったし、今に至るまで安倍自身が同じ誤解を引きずって、ロシア側の狙いを完全に読み違えているではないか。

プーチンが狙っているのは、現在の経済的な苦境の最大の、というかロシアからみればほとんど唯一の原因であるG7を中心とした対ロシア経済制裁を崩壊させるか、少なくとも日本を籠絡して対日本に関してはその制裁を事実上無効化することだ。

それが分かっているから日本でも外務省は他のG7諸国、とくにアメリカとの関係を理由に当初から安倍のこの計画に納得しておらず、だから安倍はこと夏の参院選以降は外務省を事実上蚊帳の外におき、世耕経済産業大臣にロシア担当大臣を兼任させ、経産省ペースでこの話を進めて来た。

その結果にっちもさっちも行かなくなったのも、世耕氏にも安倍に近い経産省官僚たちにも(たとえば経産省から出向している今井首席秘書官)、そして安倍首相自身にも、そもそも現在の世界情勢だけでなく、国際法や国際常識どころか、国家とその法の基本的役割についてさえ、基礎的な理解が欠如していたことが原因だと断じざるを得ない。

安倍首相も世耕大臣も経産省も、そもそもプーチンがこの話に乗って来た動機をまったく誤解して「北方領土を取り返して人気回復できる」と思い込んでこの計画に前のめりの極致で迷走を続け、プーチンは安倍の勘違いを百も承知で利用して来たのが、5月以降の日露交渉の全体構図だ。

ではそのプーチンの狙いはなんだったのか?

まずウクライナの内戦に肩入れして以降、G7が主導する欧米、つまりEU諸国とアメリカ、いわばロシアから見れば旧西側諸国との対立関係が深まっている国際的な孤立の打破だ。

今年のG7議長国である日本が自ら擦り寄って来たのだから、こんなにおいしい話はない。

いや「国際的な孤立」というのも、あまり正確ではない。

プーチンのロシアは一方で、かつての先進国であるアメリカやヨーロッパ以外の国々との関係は必ずしも悪くない。たとえば歴史的な怨恨もあったトルコとすら、今もシリア内戦ではアサド政権を支持するロシアに対しトルコがトルコ系住民の反政府勢力を支援していたり、昨年には撃墜事件で一時は対決しそうになったことすらうまく水に流して、連携を深めている。ソ連時代には戦争にまでなった中国との領土紛争も解決した。

またロシア国内では今も後進地域である東部、シベリアやサハリンは、一方で地下資源も豊富で有望なフロンティアでもあり、プーチン政権はこの地域の開発を大きな政策方針、成長戦略としている。そこに日本と中国の資本や技術が導入できることは大きなメリットだ。

だいたい今さらヨーロッパやアメリカとの経済関係にプーチンはさほど期待していないし、はっきり敵視しているのはアメリカと、EUの盟主となったドイツだ。

ちなみにEUのなかでの対ロ強硬派は先頃離脱が決まったイギリスなどで、ドイツのメルケル首相は当初から、人道主義と民主主義の基本理念で妥協はしないものの、話し合いと説得を重視して来た。 
だがそれでも、女だから気に入らないとでも言うのか、ドイツのEU内での覇権を警戒しているのか、プーチンのメルケルへの敵意は相当なものだ。



これにはロシア国民の歴史的な怨恨も無関係ではない。ドイツはなんといっても、第二次大戦でソ連(ロシア)を侵略し、2000万人ものロシア人を殺した国だし(そしてプーチンはその最大の被害を出したレニングラードの出身だ)、東西の和解と相互の尊重による世界平和を信念として冷戦を終わらせた最後のソ連書記長、ミハイル・ゴルバチョフですら、冷戦後にロシアはアメリカに一方的に敵視・差別され、裏切られ続けて来たと考えている(これは必ずしも偏向した、誤った歴史観ではない)。

今のロシアは、ヨーロッパがあまり好きではないし、アメリカには敵視されていると考えているし、プーチン政権が中国との連携を強めるなどアジアに重点を置きつつあることには、ロシアという国と民族自体がヨーロッパであると同時にアジアでもあり続けて来た歴史的なアイデンティティが深く関わっている。

帝政ロシアはこと実はドイツ人だったエカテリーナ女帝以降、目に見えてヨーロッパ化し、そのロマノフ朝を倒した旧ソ連もヨーロッパ起源のイデオロギーに基づく国家で、結局はロシア庶民を苦しめて崩壊したのが、18世紀以降のロシアの歴史だ。


アレクサンドル・ソクーロフ監督『エルミタージュ幻想』2002年

その過程では先述の独ソ戦の惨禍だけでなく、19世紀初頭のナポレオンの侵略もあった。帝政ロシアはナポレオンを撃退したことを誇りとしつつ、風俗や宮殿建築や文化ではそのナポレオンのフランスを模倣したのだから矛盾した話だが、ロシア革命の時代となると、皇帝一族や多くの貴族はフランス語を日常語としていて、ロシア語ができなかった者すら少なくなかったと言われる。

プーチンの標榜する新しいロシア・ナショナリズムは、そうしたヨーロッパ化した過去の支配層・エリート層に一派庶民層が培って来た歴史的な反発も背景に、アジア的なものにシフトする傾向を内包しているし、それはシベリア開発や中国、そして将来的には日本との連携を志向するものでもある。

こうした直接的な実利・国益の一方で、もうひとつプーチンが対日交渉ではっきり目標としている理念がある。これは本人もはっきり、正直に繰り返している通りだが、戦後71年間棚上げになったままの日露平和条約の締結だ。

ここがまた、日露間のボタンの掛け違いというか、安倍側の大きな誤解になっている。

北方領土にこだわる日本側からみると、1956年の日ソ共同宣言も「平和条約締結後に歯舞・色丹が返還される約束」という理解に偏りすぎて、平和条約イコール領土返還だと思い込みがちだが、ロシアが、特にプーチンが求めているのは、平和条約そのものなのだ。

平和条約はぜひとも結びたい、だがそれには色丹と歯舞の返還の約束が伴う。このジレンマをどう切り抜けるのかがプーチンの悩みどころで、そこを考え抜いて来ている点では、平和条約を領土返還の手段くらいにしか考えていない日本はとてもではないが太刀打ちができないのも当然だ。

また平和条約の締結こそが日露交渉の最大のテーマであることに気づいていない時点で、日本側が常にちぐはぐに陥り話が噛み合ない失敗を繰り返して来て、それがロシアの不信を買い続けているのも当然ではある。

プーチンが言っている「信頼関係が必要」とは、そういうことだ。

そんなことすら日本側にはまったく理解されていないこととなると、さすがのプーチンでもどこまで理解できているのかは怪しい。なぜ日本側がこんな当たり前のことすら思い当たらず、人口3000人程度の小さな、こういっては悪いが「僻地」の島が最優先されているのか、客観的には相当に理解不能な感情論へのこだわりでもある。

プーチンの言うように経済協力が信頼関係において不可欠だと考えるのは、別に「金よこせ」ではない。

日露の経済関係が密接になればなるほど、日本としてもロシアとの友好関係が日本企業が儲け続けるためには不可欠になり、結果たとえば安全保障リスクも下がる、という冷静な現実主義に基づく考えであり、平和条約もまたそのためにもぜひ締結したいのだ。

平和条約の締結こそが重要なのにはもう一点、防衛政策の問題があるし、今回の共同記者会見でロシア側の記者の質問に答える形で、プーチンは安倍の目の前で臆面もなくそれを滔々と述べた。

その発言の過激さの意味に安倍が気づかず、反論すらしなかったのは日本側の利害を考えると相当に不可解だ。

その日本からみればあまりにもの過激さに、テレビ中継の日本語同時通訳も大混乱に陥っていたが、だからといって要所要所で出て来た単語だけでも、それでも安倍がさっぱり理解できなかったとしたら、この人の外交センスの欠如は呆れるばかりだ。

プーチンは日露の平和条約締結問題と領土問題の歴史を説明するなかで、はっきりとアメリカを名指しで非難した上で、今後の平和条約締結に向けての信頼関係の醸成で最大の障害になるのが日米関係だ、とまで明言したのだ。

日本の日米安保条約に基づく義務は理解し尊重するとは言いつつも、その枠内でどれだけロシアの安全保障に日本が協力する気があるのかが問われる、とも問題提起をしている。

すでに初日の晩の首脳会談で、ウクライナ問題と経済制裁以降中断している日露のいわゆる2プラス2会議、つまり双方の防衛担当相と外務大臣が定期的に会合する安全保障連絡会議の復活を提案したことからも、今回のプーチンの最大の狙いが日米関係にくさびを打ち込むことであるのははっきりしていた。

日本のメディアの分析がいずれもここを見落としているのもおかしな話だが、共同会見でプーチンはこのポイントを激しくだめ押ししている。

北方領土問題の歴史についても、プーチンのアメリカ批判は激烈だった。日ソ共同宣言とそれに基づく平和条約締結交渉を、冷戦下にアメリカ政府が妨害したと明言したのだ(言い換えれば、そのアメリカの言いなりになる過去の日本政府は信頼されなかった、という意味でもある)。平和条約締結で色丹歯舞のみの返還で納得するのなら、アメリカは永久に沖縄を返還しない、と鳩山一郎政権に裏で圧力をかけたいわゆる「ダレスの恫喝」にも言及した。

また実際、56年の共同宣言から本格化するはずだった日ソ平和条約の構想は、最終的に1960年の日米安保条約の改訂で完全に頓挫しているし、領土問題でも四島一括を日本が国是としたのはこの時からで、だから共同宣言でも色丹と歯舞の返還にしか言及がないのだ。 
この辺りでも現在の日本国内の理解は史実に反しているし、政府が国民を騙してきたプロパガンダだったという誹りは逃れ得ない。

その上で、アメリカの敵意とその軍事覇権にロシアが防衛上は対抗せざるを得ない以上、択捉島・国後島はロシア艦隊の西太平洋への出口を確保するために手放せないこと、色丹島も日米安保に基づきそこに米軍基地が作られるようなことが絶対にないと日本が約束しない限りは返還は難しいとも明言した。

日米安保があるなかで日本はどうロシアが信頼できる国になるつもりなのか、と記者団とテレビ生中継の前で安倍に迫ったに等しい。

こうした論点は95分あったという首脳どうしの単独会談(通訳のみ同席)で出て来たはずだし、そもそもプーチンから見れば当たり前の前提で、安倍がなにも考慮していなかったとしたらそれだけでも「信頼関係」とはほど遠いことになる。

ペルーのリマでの前回の日露首脳会談や、訪日直前に読売新聞と日本テレビの合同インタビューでの発言、さらに同内容のビデオ・メッセージをロシア大統領府のウェブサイトに掲載するなど、ほとんどけんもほろろなまでに極めて厳しく安倍を恫喝するに等しかった態度からすると、プーチンは大遅刻こそしたとはいえいざ日本に来たとたんに、とても愛想がよくなった。日本や長門市へのリップサービスを繰り返し、安倍にも親しみを込めた態度だったのは、すべてこうした思惑から来るプーチンの演出だったと考えるべきだろう。

記者団の前で、日露両国のテレビで生中継され、当然アメリカ国務省やEU諸国の外交担当部局でもウォッチしている共同会見で、以上を滔々と述べたことからも、プーチンの今回の訪日の目的は、日米同盟にくさびを打ち込み、はっきりとアメリカを牽制することだった。

そこに日本がどれだけ乗って来るかまでは、さすがのプーチンにも読めていないだろう。その意味ではこれは大きな賭けの大芝居ではあった。

とはいえ安倍が理解して話に乗って来るならしめたものだし、これまで十数回も日露首脳会談を重ねて来た経験則からして、安倍が自分に向かって真っ向から反論なぞしない(そんな度胸がない)ことまでは読んでいたに違いないし、共同会見でも反論も制止もなく安倍が愛想笑いに終始するしかなかった(というか頭が真っ白になっている、という表情にもなっていた)だけでも、アメリカが日本に不信を抱くことは確実だ。恐らくはそこまで、プーチンは計算している。

そんなしたたかなプーチン相手に、北方領土の旧島民の手紙を読ませたり、会見でもその旧島民の複雑な思いを安易な感情論に言い換えてご都合主義に利用した安倍が、いかに見当違いの勘違いで場違いなことをやっていたか、結果として他ならぬその旧島民を自らの外交手腕の欠如、稚拙さ、自己保身で裏切ったことの無能の罪、身勝手の罪は大きい。

だいたい旧島民の故郷への思いなら、日本が北方四島の主権に形式的にこだわるあまり、渡航を禁じたり難しくして来たのは日本政府なのだ。単に墓参がしたい、故郷の島に泊まりたいだけならロシアがビザ発効要件を緩和して旧島民に優先的な配慮をすればいいだけだし、日本がアメリカの意向なぞ二の次に、平和条約を早く締結しておけばよかった。「ダレスの恫喝」のようなことがあっても、それを国際社会相手に公表してアメリカを非難していれば、解決ないし無効化できた。

択捉・国後はポツダム宣言やサンフランシスコ講和条約で日本が領有を放棄した南千島(ロシア語では南クリル)列島の一部というのもプーチンが共同会見で明言したことだが、ソ連(ロシア)の公的な認識(ゆえに返還の対象ではなく、領土問題にならない)であるだけでなく、そもそも56年の共同宣言以前には日本側でもこの認識を共有していて、だから二島の返還しか求めていなかったのだ。

それが今では四島返還に凝り固まっているのは、「ダレスの恫喝」などを受けた対米配慮というか対米従属の方針転換で、それがあたかも日本の国是のように国民も騙して来た結果、収拾がつかなくなっているのが現状ではある。客観的にはアメリカの妨害が日露友好を阻んでいる(つまりは日本政府の二枚舌外交と対米追従が諸悪の根源)と言う指摘には、反論が難しい。

それにしても安倍はどうするつもりなのだろう?

今回の一連の事態で、アメリカは明らかに不信感を抱いているはずだ。今月末には、安倍はこんどはパールハーバーを訪問し、オバマとの日米首脳会談を控えている。

ここでも曖昧な愛想笑いで二枚舌を誤摩化し、報道に圧力をかけて国内向けに体面を取り繕うだけなのだろうか?

いや安倍は、オバマはどうせもう辞める、これからはトランプのアメリカなのだから、とタカをくくっているようにも見える。夜のニュースに生出演した際に対米関係を問われてはぐらかしたときも妙に余裕があり、そうしたニュアンスが垣間見えた。

だがトランプが選挙戦中にプーチンを偉大な指導者と持ち上げた言葉尻だけをとって、トランプとプーチンで米ロ蜜月が始まるかのように思い込んでいる安倍も日本のメディアも、あまりに考えが甘い。

トランプがプーチンを持ち上げたのは、オバマやクリントン夫妻をこき下ろす比較対象として都合が良かったからに過ぎない。

しかもトランプは人道主義や国際平和よりも自国の利益を最優先しロシアの強さを誇示するプーチンのやり方を褒めて「自分も同じやり方でアメリカ・ファーストを守る」と言ったのであって、アメリカもロシアも自国第一主義を掲げる指導者になるのなら、むしろこの両国が今後対立を深める可能性も十分にある。

プーチンは今回の訪日でターゲット、いわば「戦う相手」を日本ではなくアメリカに設定していて、だから日本との領土問題をあいまいに済ませ安倍への配慮まで見せたのも、オバマのアメリカ以上にトランプのアメリカを見据えた戦略だと考えておいた方が、「希望外交」の大きな勘違いでのちのちひどく後悔することがなくて済むだけ賢明だ。

だいたい、11月のペルーでのAPEC会合の際の首脳会談以降、プーチンが一時極めて厳しい態度を見せていたのも、別にトランプが次期米大統領に決まって米ロ関係の好転が見込まれるからなどではない。安倍がリマでけんもほろろの扱いを受けて記者団相手に半ばパニック状態で弱音を吐く状況にまで陥った原因は、その直前に安倍がNYに寄ってトランプに媚を売っていたから、その姑息な二枚舌の土下座媚び売り外交を「信頼に値しない」とやられただけである。

安倍の自称「地球儀を俯瞰する外交」では、トランプのアメリカになればプーチンとトランプが蜜月になり、そこに日本が取り入ることで「対中包囲網」ができるとでも考えているのかもしれない。だがかくも地球儀を俯瞰できていない、世界情勢がまったく理解できていない勘違いもない。

ロシアは既に述べた通り、そもそもアメリカをまったく信用していないし、歴史的にも信用できない。中国との関係も重視しているプーチンが狙っているのは、西太平洋・東アジアでのアメリカの覇権を低下させることで、その点では中国とも利害が一致している。

シリアやウクライナの情勢からすれば、日本がロシアべったりになることは国としての信義に反するのも確かだし、ことシリア問題でプーチンに擦り寄れば、日本にとって極めて重要な中近東・アラブ諸国の信頼を決定的に失うことにもつながる(ちなみに今回の首脳会談では、ロシア側は「シリアとウクライナについて両国首脳の見解が一致した」との主旨を一方的に報道させているが、日本側はこれもまったく否定できていない)。

だからプーチンの誘惑においそれと乗ることにはまったく賛成はできないが、しかし対アメリカについては、プーチンが提起して来たことを日本は真剣に考えた方がいい。日本の対米従属・対米追従外交の「戦後レジーム」は、もはや成立しないのだ。

そもそも白人至上主義の狂信者が重要な支持基盤で、国防長官にも白人至上主義者の「狂犬」が就任するようなトランプのアメリカに、安全保障や外交で依存するなどというのは、狂気の沙汰だ。まさか日本がそんなことすら理解できていないと知ったら、さすがのプーチンも呆れ、自分の読み違いに困惑するかも知れない。

12/16/2016

山口県へのプーチン訪問と沖縄でのオスプレイ墜落の皮肉な偶然


鳴り物入りのプーチン大統領訪日と日露首脳会談は、事前の予想では思いも寄らなかった意外な展開が起こっている。意外過ぎてその意味、プーチンがなにをやってのけたのかが、日本側では政府だけでなくマスコミも、よく把握できていないようだ。

どうも日本では、ロシアならロシアで専門家、対米外交ならアメリカの専門家、中東なら中東の専門家が出て来る「国別の専門家の縦割り」議論になりがちで、国際情勢のなかで日本はなにをやっているのか、なにをすべきなのかをちゃんと把握することが苦手のようだ。

今回も、ほぼ同時に並行してロシアが深く関与しているシリア問題(というか、プーチンのロシアがアサド政権を事実上傀儡として虐殺と言ってもいい内戦鎮圧を主導している)のことも、その前々日には沖縄で米海兵隊のオスプレイ輸送機の墜落事故のことも、結びつけて考えることができないらしい。

というか、オスプレイ墜落もただ沖縄の問題かのようにしか語られず、これが日米関係の重大な危機であり、米軍と沖縄ではなく日本と米国政府の問題であることすら無視されているのはさすがに異常なわけだが。

だが今回の日露首脳会談の意外な展開は、並行して世界でなにが起こっているのかともちろん無関係ではないし。

結果からみればこのオスプレイ墜落をめぐる日米関係の大問題が、プーチン大統領の言動に大きく関わっているし、プーチンがこの会談で急遽目的にしたのは、日露関係のことではなく、露骨なまでの対アメリカ政府への牽制に、日本を徹底的に利用することだった。


まず長門市での首脳会談に至るてんてこまいと、安倍首相が「膝を突き合わせた本音の会談」の顛末を見て改めて印象に残ったことだが、ウラディーミル・プーチンは思っていた以上に恐るべき政治家だ。

日本の安倍首相が熱望した山口県長門市での首脳会談の当日、プーチンの到着が2時間以上遅れるという報せがあっただけでも、日本中が色めき立った。

首相官邸や外務省は慌ててメディア各社、とくにテレビ報道に、プーチンがこれまでも首脳会談では遅刻の常習犯だとの情報を流し、この程度の番狂わせは官邸の想定内だとのブリーフィングも重ねた。

しかしプーチンが来日直前に日本テレビと読売新聞を呼んだインタビューでは、安倍政権が期待していた北方領土問題の解決については「日露間には領土問題なんてない、日本は(勝手に)そう思い込んでいるらしいが」と断言、日本側の不誠実な二枚舌を突き「信頼できる雰囲気」を作ることが重要、と脅しまがいのことまで言い、日本がウクライナ紛争とクリミア併合を受けた対ロ経済制裁の参加国であることまで挙げて「経済制裁をしておきながら経済協力とはなにごとだ」と非難までしてみせていた。

会談開始の直前までの状況を見れば、安倍政権が鳴り物入りで仕組んだ「総理の故郷へのプーチン大統領訪問」は日本側の大惨敗、首相が恥をかくだけならともかく、北方領土問題を安倍が望んだのとは逆の意味で「私の世代で確定」させることになりかねないことさえ、十分に予想された。

詳しくは先の本ブログのエントリーをご覧下さい  
12/14/2016 北方領土は帰って来るのか?

そしていきなり、2時間以上もの遅れという一方的な告知だ。安倍官邸ではドタキャンの可能性も含めて、さぞ戦々恐々だったことだろう。

そうでなくとも「自分の地元に招きたい」という安倍のラブコールにもプーチン側は「なぜ東京でやらないのか」と難色も示し、一応は折れたものの警備の事前調査団をこれみよがしに派遣し、日本側が長門市の旅館「大谷山荘」の離れの貴賓室を準備していたのが「警備上の問題がある」と本館への宿泊に無理矢理替えさてまでいる。

土壇場で日本側の警備の不備をあげつらって山口行きを拒否し(そうでなくても「仕事にならない」という不満が以前に日本側に伝えられている。プーチンの最大の来日目的は、日本企業への投資呼びかけトップセールスだったので、東京を希望していた)、警備が万全な東京のロシア大使館に泊まるという展開も想定された。

むろん通常の外交儀礼なら失礼千万になる話だ。

だが今回プーチンが相手にしているのは危機管理コンプレックスの安倍首相だ。元KGBエージェントのプーチン、つまりテロ対策など危機管理のプロにそう言われては、深く傷つくというか、ますます下手に出て言いなりになってしまう。もちろん離れの貴賓室を拒否したのだって本当に警備の問題があったり不安になったはずもなく、安倍のコンプレックスを突いてプレッシャーをかけるマウンティングに決まっている。

日本側が沿道に歓迎の長門市民まで手配しているのに、到着はわざととしか思えないやり方で日没後にずれ込んだ。

6時過ぎにやっと「大谷山荘」に到着、首脳会談が始まっても、和やかな雰囲気の挨拶の交換をメディアに取材させようとする日本側に、プーチンは相当に底意地の悪い皮肉を二発、ぶっきらぼうながらも褒め言葉を並べた挨拶に、しっかり組み込んでいた。

まず両首脳の「信頼関係」を褒めるように装い度々会談をして来たことを述べながら「こないだペルーで会ったばかり」(そのペルーでの首脳会談で、安倍はほんとんどパニックのような落ち込みようだった)、安倍が当地の温泉に触れて「疲れが取れる」と言ったことへの返しとして「今日の会談で疲れるつもりはないから」である。

来日前の発言からしても、その前の「こないだペルーで会ったばかり」の会談でのけんもほろろの態度からしても、日本側がまったく楽観視できない雰囲気を作り、大遅刻でどっちがボスかを見せつけるかのような高飛車な雰囲気を演出して、安倍首相がなんとか国民相手にメンツを保つこと、大惨敗になりそうな首脳会談の結果を国民に向かってどう取り繕うのかに必死になっているであろうところだった。

ところがプーチンはそんな安倍の焦りや国内向け人気取りの都合を全部見透かした上で、いきなり予想外の変化球で、うまく持ち上げて喜ばせてさえみせたのだ。

両首脳が個別会談に入ると、その前の90分に及んだ公式会談に同席していたラブロフ・ロシア外相が記者団の前に姿を現し、プーチンからのいきなりの提案を、安倍首相が歓迎したことを伝えた。

プーチンは日露の2+2定期会合、つまり防衛担当相と外務大臣が定期的に会う安全保障会議の再開を呼びかけたというのだ。

日露間のこの安全保障連絡会議は、ウクライナ・クリミア問題を受けたG7による対ロシア制裁と、それまでロシアを含めたG8だったのが冷戦前と同じG7に戻ったのに合わせて、中断されていたものだ。

この日露の2+2の再開を発表したことこそが、今回の首脳会談で出た最も重要な提案であり、合意事項だ。経済協力も、日本側が交渉しているつもりで来た領土問題も、もはやそんなに重要ではない。

通常の外交常識では最重要の議題だった平和条約締結交渉を進めることですら、日本がそれが領土問題を意味すると思い込んで来たのとは、まったく異なった意味を持つが、それにしても領土でも主権でも経済協力でもなく、いきなりこんな安全保障の話が出て来るとは、日本側にはまったく想定外だったことだろう。

しかも2+2の再開、つまり安全保障分野での「戦争と危機管理のプロ」に見える元KGBのプーチンとのと連携は、「危機管理コンプレックス」で「戦争ができる普通の国」への憧れに凝り固まった安倍にとっては、無条件に大喜びして歓迎してしまう話だ。

案の定、安倍氏はすっかりごきげんで、会談後は記者団に囲まれて、この2+2再開と、日本国民相手ではなによりも重要だった「領土問題」での成果になると思い込んだ「北方四島での特別の制度下での日露共同の経済活動」での合意を、大喜びで発表した。

後者の「特別の制度に基づく」がなにを意味し得るのか分からずに嬉々として発表してしまったのを見ると、安倍氏はよほどプーチンの愛想のいい態度に安堵して、2+2会合の再開に舞い上がってしまっているのだろう。


テレビでさっそくこの報道が流れた際には、字幕で安倍が実は思いっきり手玉にとられたことが皮肉にも示されてしまった(またこの画像をツイッターで流したのが、安倍の側近のひとり山本一太参議院議員である)。

この字幕で報じられた通りで、ロシア側の大統領補佐官はさっそく、この「特別な制度」が言うまでもなくロシア法に基づくものであることを確認している。つまり、北方領土の主権は譲らないどころか、日本にロシアの施政権を認めすらさせてしまったことになる。

安倍ヨイショ系の “識者” がメディアで必死に誤摩化しているが、「特別な制度」がロシア側の提案、たとえばロシア政府の定める特別区的な扱いなら、それはどう逆立ちしようがロシアの主権を前提とした議論にしかならない。

むろん「特別な制度の」といういかにも玉虫色の言い草は、双方でいかようにも解釈できる。だから安倍は日本の報道機関にちょっと圧力をかけるだけで、さしあたりのメンツは保てるだろう。しかし北方領土問題は日本側の望む解決から、明らかに後退している。

もっとも、そんな方向での進展そもそも絶望的だったわけだが。

だがこの玉虫色の言い方で済ませたということは、まだかなりの手かげんをプーチンはしてくれてもいる。

正式な発表は翌日東京での共同会見で行い、文書も出すという話なので、日本側の事務方が慌てて修整を要求できるし、「特別な制度」の詳細を今後の交渉で詰める過程で、この失態は挽回とまでは行かずとも、白紙に戻せなくもない。

今回の首脳会談で遥かに重要なのは、2+2会合の再開に安倍が喜んだことの持つ、とんでもないメッセージ性だ。

さらにロシア側では、平和条約の締結で日露が合意し、この締結に向けた作業が今後加速することも、強調するように発表してすでにさかんに報道させている。折しもプーチンの支援を受けたアサド政権が反体制派が守るアレッポの完全制圧を進め、虐殺行為も懸念されている。ロシア側の報道では、このシリア内戦とウクライナ情勢についても、プーチンと安倍の見解が一致したとまで言われてしまっている。

平和条約も合わせて日露安全保障連絡会議を再開というのでは、プーチンが要求してきた「信頼できる雰囲気」というのは単に「日露友好の確認」という建前論以上の意味を持つ。一方でこの議題に関しては、日ソ共同宣言によればこの締結に伴い歯舞群島と色丹島が返還されるという約束について論じられた形跡がない。

肝心なのは、プーチンが露骨に日米関係にくさびを打ち込んで来ていること、安倍首相がそれに乗ってしまったことだ。

こんな展開はまったく予想していなかったが、プーチンは心底恐ろしく、大胆にして狡猾な政治家だと改めて思い知らされた。

今回3時間近く遅刻したあいだに、日本の最新ニュースを知って思いついたことなのかも知れないが、その政治的文脈を考えれば、この首脳会談でプーチンが本当に勝負している相手は日本でも、まして安倍政権でもない。アメリカ相手の揺さぶり、露骨な脅しなのだ。


米大統領選挙の期間中にドナルド・トランプがプーチンを褒める言葉を連発していたことから、プーチンが今後の米ロ関係を楽観視しているかのような報道が日本では多いが、これはあまりにもの短絡だ。 
そもそもトランプはオバマやクリントンらアメリカのリベラル系政治家へのあてつけで支持者を盛り上げるための引き合いにプーチンを出しただけだし、オバマ政権の厳しい対ロ外交よりは好転するにしても、トランプの外交方針は未知数だ。 
ウラディーミル・プーチンはこんな程度のあやふやな話に簡単に乗るような迂闊な政治家ではない。


折しも日本では恐るべき皮肉な偶然で、プーチンがアメリカ揺さぶりに利用できる事態が起こっているのだ。

その絶妙なタイミングでプーチンが狙ったのは、日本からの経済協力でも、この際北方領土をロシア領として事実上確定することでもない。遥かにスケールが大きな、G7つまり旧西側先進諸国の連携への強烈な揺さぶりと、アメリカへの露骨な牽制に、この日露首脳会談の目的自体がいつのまにか変わっていた。

プーチン来日の前々日夜に、沖縄で普天間基地所属の米海兵隊のオスプレイ輸送機が海上に墜落している。日本政府は米軍の通告をあえて鵜呑みにして「不時着」と発表しているが、翌朝には明らかになった機体の大破した状態を見れば、どうみても墜落だ。

ただでさえ日本側、とくに沖縄の不安と反発が高まるなか、なんと沖縄米軍の最高司令官にあたるニコルソン四軍調整官が、事故を抗議しに来た沖縄県副知事に対しても、そして記者会見でも、日本側からみればとんでもない発言をやらかしているのだ。

この事態は本来なら、日本の対米感情を悪化させ、日米関係を危機に陥れる重大な事態だ。プーチンはこのタイミングを見事に利用して見せたのである。

ニコルソン調整官が事故はオスプレイの機体自体の問題ではない、と繰り返ただけでも反発が大きい。あまりに事故が多いことの懸念から、オスプレイ配備に対する抵抗は、普天間基地の辺野古移設と高江のヘリパッド建設への反対運動の大きな要素になっている上に、この墜落事故と同日に、別のオスプレイが普天間基地に「不時着」(胴体着陸)していたことまで明らかになっている。

しかもニコルソン調整官は、墜落事故の直接原因が空中給油訓練中のパイロットの操縦ミスなのにも関わらず、市街地を避けて海上に「不時着」させたことでそのパイロットを誉め称え、副知事に「沖縄県民は感謝すべきだ」とまで言い放っているのだ。


これが普通の国なら、なにしろ沖縄県民を代表する立場の公職にある副知事に向かって、たかが他国の軍司令官がひどい侮辱をやらかしたことになる。

沖縄県が激怒しているだけでは済まず、政府でも当然問題にして、米大使館に抗議文を送付するか、大使を呼びつけて謝罪を要求するような、巨大な外交問題になるのが「普通の外交」だ。

実際にはもちろん(国際標準なら恐ろしく奇妙なことだが)、日本政府は事故に抗議もせず、司令官の日本国民を侮辱する暴言に至っては防衛副大臣らがむしろ理解を示し同調までしてしまっているが、アメリカ政府、とくに国務省は、「なんということをしてくれたのだ」と焦っているし、日本側の反応に戦々恐々としている。

日本政府がとりあえず対米従属を崩していないことまでは安心できても、国民の反発は必至だし、普通の政府なら表向きは冷静でも、実は激怒していておかしくない事態なのだ。

そこへアメリカと現状敵対関係にある(対ロシアの経済制裁を主導しているのはアメリカのオバマ政権だ)ロシアの大統領と日本の首相が会談し、日本が明らかに安全保障においてロシアに接近することを意味する合意が即座に決まったのである。

アメリカ国務省はすでにこのニュースに激怒し、また戦々恐々ともしていることだろう。

もちろん安倍の日本政府はこうした「普通の国」なら当然やるべきことでもなにもやる気はないのだろうが、代わりにプーチンがやってくれたことになるのだ。

アメリカから見れば米軍機の事故と米軍司令官のふるまいに、にわかにアメリカに反発を抱いた日本政府が、安全保障政策でアメリカに距離を置き、アメリカと現在対立関係にあるロシアに接近したことにしかならないのが、今夜の日露首脳会談の結果だ。

日露がこのプーチン来日で大規模な経済協力でも合意に達するのであれば、G7で連携してきた経済制裁の体制も事実上崩壊するし、訪日前のインタビューでプーチンはあえて、経済制裁があっては日本と信頼関係が築けない、と強調もしている。つまり山口と東京での合意は、アメリカ相手に「日本は対ロ経済制裁を事実上解除した」とのメッセージにもなる。

プーチン側では、ロシアのメディアに、ウクライナとシリア情勢について日露両首脳の見解が一致した、とまで報道させているらしい。「日本は外交安全保障でアメリカと距離を置き、これからはロシアに接近する」というメッセージが見事に演出されてしまったのだ。少なくともシリア内戦に関しては、安倍首相にはここで断固としてプーチンに反論して軌道修正してもらわねばならない。

とはいえ個人的には、これも大枠では必ずしも悪くはない結果だ、とは思わなくもない。

これまでも日本の外交の最大の問題だった対米従属の転換点にもなるし、なによりも白人至上主義者レイシスト層の熱烈な支持を受ける超保守主義の独善的孤立主義者トランプが次期大統領に決まり、その国防長官に「アメリカに逆らう奴らを殺すのは楽しい」と公言する「狂犬」が指名されたようなアメリカと、今後も安全保障政策での連携を深め、日本の防衛をアメリカに依存する、アメリカ軍に我が国の国土内で好き勝手をやることを許すなどというのは、日本に取って何重もの意味であまりに危険だし、あり得ないことだ。

プーチンのロシアが経済制裁を受けるのは、国際社会の信義としてはしかるべきことであり、ウクライナ内戦だけでなく、今ではなによりもシリア内戦におけるロシアの態度からすれば、日本は同調すべきではないのはもちろんだ。

とはいえ、それでもプーチンが凋落の激しく独善的な閉塞に陥りつつあるヨーロッパとも、アメリカとも距離を置き、ロシアの将来についてアジアとの連携に外交の軸足をシフトしていること自体は正しい判断だし、日本にとっても対ロシア、対中国の関係を改善して、この三国が東アジアにおける安全保障や秩序の新たな形成のイニシアティブを握ることは悪い話ではない。

しかもロシアの豊富な天然資源(石炭、石油、天然ガス)は日本にとって必要なものだし、ロシア東部(シベリア、サハリン州)は日本経済、日本企業にとっては有望なフロンティア、見返りの大きい投資先である。

ちなみに、だからプーチンが日本と経済協力を議論したいのは「援助」を求めているのではない。ビジネス上のパートナーシップであり、経済制裁の解除だ。

安全保障的でトランプのアメリカに依存するなんて危な過ぎる以上、ロシアとの連携もひとつの選択肢だし、中ソ関係も良好である現状、そこに日本の今後の安全の手段を見出すのも現実的な選択だし、トランプのアメリカを牽制することも日本外交にとっては有益なではある。

とはいえ、心配なのは安倍晋三首相が、プーチンがなにを持ちかけて来たのか、それが日本の今後の外交戦略や安全保障政策にとってなにを意味するのかを、まったく考えていないことだ。

安倍首相はそのプーチンがウクライナ問題はともかく、シリアでアサド政権を傀儡にして虐殺にも等しい蛮行を続行していることに、まったく無頓着でもある。

折しも、今月末には安倍はハワイの真珠湾を訪問し、クリスマス休暇中のオバマとの最後の首脳会談に望むはずだ。

まともな外交能力のある日本の総理なら、オスプレイ墜落と在沖縄米軍四軍調整官の暴言、そして今回のプーチン来日は、この日米首脳会談でアメリカ側にある種の脅しをかける有効な外交カードになるし、トランプ政権に移行したあとも防衛安全保障で過剰な対米依存に陥るリスクも減らせる。

だがそうは言っても、プーチンが安倍をうまくのせた演出は劇薬すぎて、アメリカは当然、自分の立場が極めて拙い(オスプレイの事故も、四軍調整官のあまりに非礼な言動も、責められれば反論は難しい)からこそ、まずは逆に強気な態度で出て来るだろう。

そのときに、安倍首相はどう動くつもりなのだろうか?

慌てふためいて今度は対米ゴマ摺りに専念したところで、それではかえってアメリカの不信感を増すだけで、日本の立場は悪化する。

つまりは安倍はプーチンが西側に揺さぶりをかけるのに利用されたおもちゃどまりになって、日本は国際的に孤立してしまう。

うまく使えば対米交渉で有利な条件を引き出す有効なカードでもあり、またこれ以上はアメリカに依存できない日本にとって、非常に有益な外交政策の転換点にもなるのだが…

12/14/2016

北方領土は帰って来るのか?


端的に言ってしまえば、安倍晋三はウラディミール・プーチン相手に「領土問題」の話をしている【つもりだった】らしい。だが実際に話していたのは経済協力と平和条約の締結だけで、もちろんプーチンはそれが安倍にとっては「領土問題の話をしているつもり」なのだと見抜きはしつつも、なにしろ安倍がはっきり言わないものだから、巧妙に手玉に取って経済協力の約束を取り付けるついでに、安倍が期待していたのとはまったく逆の方向で日露間の領土問題を決着させてしまおうとさえしている。

一点だけよく分からないのは、安倍が本気で自分は領土問題の話をしていると信じ込んでいたのか、プーチンの顔色が怖くてとてもではないが言い出せないまま、日本国内向けには虚勢を張って確信犯で嘘を言っていたのか、である。

まあいずれにせよプーチンは、その安倍の国内向けの虚勢さえもこの際徹底的に打ち砕こうとしているし、それはただいかにもこのマッチョ政治家らしいマウンティングであるだけではない。

プーチンはあわよくば、ロシア政府が現在も有効とみなしている1956年の日ソ共同宣言で約束されていたはずの、色丹島と歯舞群島の返還すら、履行しないで済む決着に、日露首脳会談を持ち込もうとしている。

それにしても、これは安倍に限ったことでもないが、こと領土問題の扱いとなると、日本外交はつくづく苦手であるらしい。

安倍首相が人気取りの思いつきのようにこの5月頃から言い始めた「新しいアプローチ」による対ロシアの北方領土返還交渉は、プーチン露大統領の訪日前にすでにほぼ絶望的な結果になりそうだ、という予測が大勢だが、そもそもこの日露交渉は「領土問題」がテーマだと思って来たこと自体が、日本側の一方的な思い込みだったようだ。

訪日を目前に読売新聞と日本テレビのインタビューを受けたプーチンが語ったのは「四島の返還なんてこちらは一切聞いていないのに日本が勝手に話を進めている」と不信感も露に安倍側の嘘を厳しく非難する内容だ。

日本政府からなんの反論も出ていない以上は、事実関係そのものはプーチンの言う通りなのだろうし、それはこの一連の日露交渉で報道された実際の事実関係を見ても確認できる。

たとえば安倍氏が5月にソチのプーチンの別荘に馳せ参じたり、9月の首脳会談でも「手応えを感じた」などなどと言っていたのは、ひたすらプーチンの機嫌をとることだけを優先させて経済協力を申し出るばかりで、平和条約のことすらロクに交渉せず、まして四島の帰属のことなんてなにも言っていなかったからだったと考えた方が説明がつく。

だいたい「新しいアプローチ」を言い出した時点から、実際に報道されていた交渉の内容は、一貫して経済協力の強化と、1956年の日ソ共同宣言で合意したもののそのまま「棚上げ」になっていた日ソ(今では日露)平和条約の締結に向けた話だけだったではないか。

この時点では、「もしかして『新しいアプローチ』とは二島先行返還論のことなのか?」とでも考えるしかなかった。日ソの国交が正式に回復した1956年の日ソ共同宣言には、平和条約の締結と同時に歯舞と色丹が返還されるという約束が明記されているからだ。 
だがなぜか、「新しいアプローチ」についてそういう分析をするメディアは一切なかった。 
こういう報道しかやらないから世論が領土問題をまったく理解できないままになり、その世論への配慮が優先されるから、いわば「嘘に嘘を重ねる」のに近い格好になり、だから日本の外交は、竹島にしても尖閣諸島にしても領土問題の扱いで失敗ばかり続けてしまう面も大きい。

日本の政界の理屈では、この60年前の共同宣言でもっとも重要視して来たのが平和条約締結と同時に色丹島・歯舞群島を返還する、という部分であり続けて来たので、日本側の認識としては、二島の返還については議論していた、という認識にはなるだろう。

だがそれは、一方的な日本側の認識でしかなく、ソ連(ロシア)がそれを共有して来たわけではない。

少なくとも外交の建前・国際常識でいえばもっとも重要なのは平和条約の締結、つまり第二次大戦が国際法的にはまだ完全に終結したことになっていない状態を改めることであって、外交の建前上は国境地帯の小さな島々の帰属は付随的な、より低い重要性しか持たない。

プーチン大統領は今回、見事にこの部分で安倍外交の揚げ足を取ってみせた。

これまで交渉して来たのはあくまで平和条約の締結とより密接な経済協力のはずなのに、まだ平和条約の締結時に返還と約束して来た歯舞・色丹だけならともかく、いつのまにか日本側が択捉国後という、ロシア側から見ればまったく関係ない問題まで盛り込んだかのように言っているのは不誠実な二枚舌外交でロシアを騙しているではないか、と今や安倍をストレートに非難しているのだ。

繰り返しになるが、「『新しいアプローチ』とは二島先行返還論のことなのか?」と考えるのが最初から日本側の認識でも自然になるわけで、なぜかそう報道はしなかった日本のメディア、そういう議論から逃げた日本の「識者」がおかしい、ということにしか客観的にはならない。 
もちろんそれは、別に「新しく」もなんともないわけではあるが。

この露骨なまでの不信感の表明は、もちろん相手がプーチンであるからには、演技だと考えた方がいい。

その上でプーチンは日露首脳会談については「信頼関係の構築」を強調もしている。つまりは安倍に「誠意を見せろ」イコール「俺を納得させろ」と脅しているのに等しい。

もちろんしたたかなプーチンのことである。

安倍が国内向けの人気取りの二枚舌で北方四島の返還を国内向けでは言っていること、最初から安倍がその二枚舌で自分に接近して来ていることは、最初から百も承知だった。

自分の意図を完全に理解されているのに、安倍はそのことをはっきりとプーチンに伝えたことが一度もなかったのだろう。そうでなければプーチンが11月末のペルーでの会談以降態度を豹変させたことに安倍政権があわてふためくことも、ダンマリを決め込むこともないはずだ。

こんな時に限って日本的な「察してもらう」「以心伝心」の文化をよりにもよってプーチンに期待する方が考えが甘いわけで、明言はしない意図を相手国に見透かされるというのは、外交では揚げ足をとられる弱点・失点にしかならないとういう当たり前のことが、この総理大臣は何度外交上の失態を繰り返しても、未だに学習できないらしい。

で、安倍側がそれでも北方領土の返還に目処をつけることに固執しつつ、しかしプーチンに面と向かってはそれを言えない立場に追い込まれては、一縷の望みにすがって逆に色丹・歯舞の返還の望みすら断たれる話に乗らざるをえなくすらなり得る。

つまりこのままでは、ソ連からロシアへの政権の移譲後も有効性が確認されている日ソ共同宣言に明記されていた、歯舞・色丹の将来的な日本への返還も、「日本側の態度が不誠実」という理由で白紙撤回されかねない。

というか、ウラディミール・プーチンは最初からそれを狙っていたと考えた方が、恐らくは正確な認識だろう。

色丹島は日ソ共同宣言以来、理論的にはいつ日本に返還されてもおかしくない状態にあった。現在3000人ほどの人口があるそうだが、国後・択捉にはメドヴェージェフ大統領、二度目のプーチン大統領の政権下で大規模なインフラ整備などの経済開発が進んでいるものの、「いつ日本に返すか分からない」色丹島ではそこまでの開発は進められず、島は人口減少リスクでも苦しんでいるらしい。

つまりプーチンにとっても色丹の帰属を確定させる必要はあるのだ。ならばこの際、安倍の不誠実な二枚舌ないし的外れな「以心伝心」「配慮」「察する」期待を逆手にとって、色丹・歯舞も返さずに済む大義名分の確立にまで漕ぎ着けることができれば、色丹の住民のための開発事業も進められるし、今ある以上に重要な軍事設備を置くことすら可能になる。

こうした相手国の利害や立場も考えず、つけ込まれる弱みになんの対処もしていなかった安倍外交が稚拙なだけだ

つまりは安倍晋三は自分からプーチンに擦り寄っておいて、逆に足下を見られ、みごとにしてやられたのだが、最初からあまりに認識が甘かったとしか言いようがない。

なにせ安全保障の問題だけでも、ちょっと考えれば分かり切った話なのだ。

なのに安倍政権では今まで、そこを考えもしなかったらしい。だとしたらあまりに呆れた独りよがりの「前のめり」、愚劣な希望外交でしかなかった。

そもそも安倍を落胆させた首脳会談の直後にロシア政府が発表した通り最新の対艦ミサイルの配備が完了している択捉・国後だけでなく、すでにロシア軍の基地がある色丹島も、ロシア側からすれば現状、安全保障の観点から、日米安保に依存する日本には返還できるわけがない。返還したとたんに色丹・歯舞が米国の軍事拠点になることだって、米政府が要求するだけでそうなってしまうのだ。

そもそも、安倍首相はこれまで自民党の先輩達がなぜこの問題で苦労して来たのかもまったく勉強していないらしい。

択捉、国後、色丹と歯舞群島の帰属は、日本側からみれば日ソ中立条約を破棄して終戦間際になって参戦して来たソ連軍に不当に占領された土地、というのが公式見解であり、その主張自体にはもちろん一定の正当性がある。

しかし、日本人や日本外交がひどく苦手なことなのだが、外交とは常に相手国があるものであり、その相手国には自国の利害もあれば、自己正当化の論理付けもあって当たり前なのだ。

ロシア(ソ連)側からみれば日ソ中立条約の一方的な破棄も、自国に二千万の犠牲者を出したナチスの同盟国である日本がいつまでも抵抗を続けていた1945年夏の段階で、世界の平和の回復のための当然かつ正当な判断ではあったわけで、またアメリカを中心とする他の連合国からの要請もあった(ヤルタ会談、ポツダム会議)。

たとえ日本の主張に正当性があるからといって、領土問題で相手国が完全に間違っているなんてことは絶対にあり得ないことが、なぜか日本人には理解できないらしい。  
まして第二次世界大戦で日本やドイツはただ敗戦しただけではなく、人道に対する罪、自らの野心で世界平和を危機に陥れた罪で裁かれた側となるのが、戦後の世界秩序の基本だ。それが「戦勝国の論理だ」というのなら、まずサンフランシスコ講和条約の破棄でも明言することから始めるのが筋であり、それができないのなら黙っているしかない。
だが外務省もそんな二枚舌の欺瞞に無自覚に耽溺する世論に配慮した内向きの政策しか提案できず、だから日本は外交的な惨敗を続けることになる。

そしてロシアからみれば、第二次大戦の敗戦で日本は千島列島と南樺太の領有権を放棄したはずであり、択捉と国後の二島はロシア側の地理的な認識では「南クリル列島」つまり千島列島の一部で、日本が放棄した島々に含まれるという見解になる。

その「千島列島の一部」には地理的に属さないとソ連ないしロシア側も認めざるを得ないのが色丹島と歯舞群島で、だから戦争の過程で一方的に占領領有した領土は平和条約の締結と同時に返還する、というのが1956年の日ソ共同宣言の領土問題に関するロジックだった。

つまり日本から見れば「北方四島」でも、ロシア側から見れば千島列島の一部である国後と択捉の二島と、歯舞色丹では、少なくとも建前上はまったく認識が異なるし、歯舞と色丹についてはだから共同宣言と同時に平和条約の内容を詰める作業が始まったはずで、1956年からみて近い将来に返還されるはずだったし、ソ連も当初はそのつもりだった。

しかもその日本側でさえ、サンフランシスコ講和会議の時点では、吉田茂首相が択捉と国後は千島列島だという認識だったし、普通に地図を見れば確かにそうとしか見えない。

平和条約の締結と色丹・歯舞の返還という流れが完全に止まってしまったのは、ソ連(ロシア)側からみれば日本側の責任になる。

それに日本側でも、日ソ平和条約による戦争状態の最終的な法的終結とこの二島の返還・帰属よりも、別の政策を優先させることで、事実上自らこの二つの島々を見捨てた、取り返すことを諦めたことも、国内の報道ではまったく触れられて来ていないものの、間違いのない史実だ。

1960年の日米安保条約の改正だ。

アメリカが日本に軍事力を置くことを戦後の占領と無関係に認め続け、米軍が自国の軍事背安全保障政策に必要な基地を日本が提供し続けることを約束したこの条約により、アメリカがソ連を牽制するために、返還された色丹島に米軍基地を置くことも可能になる。

当時の冷戦下では、ソ連側からみれば自国領土の防衛の観点から、この二島を日本に返還することが絶対にあり得ないことになるし、岸信介政権もその程度のことは百も承知だったはずだ。

日本政府はそれが分かっていても、日ソの友好関係と平和条約、沿岸の北海道魚民の利益や、なによりも故郷の土地に戻したい旧島民の悲願よりも、日本全体の安全保障政策と冷戦下での日米の連携(というか対米従属と、アメリカの軍事的メリット)を優先させて、いわば歯舞・色丹を見捨てたのだ。

しかも日本政府はサンフランシスコ講和条約と、そして日ソ共同宣言の時点では日本側も色丹と歯舞の返還を求める立場を公式には表明しながら、国内では二島ではなく四島一括でなければ、と言う二枚舌を続けているし、そこにはアメリカの圧力も垣間見え、平和条約締結にアメリカが圧力をかけた事実すらある。これではソ連(ロシア)側から見れば明らかに不誠実で一貫性に欠ける態度にしか見えない(少なくともそこを責め立てる日本側の弱点・失点になる)。

だから60年安保以降、北方領土問題が動くことはまったくなく、こと知床半島と択捉・国後のあいだの海が極めて豊かな漁場であることから、冷戦期にはこの海域で操業していた日本漁船が拉致拿捕される事件も相次いだ。

北方領土の問題と平和条約の締結が再び動き始めたのは冷戦の終結がきっかけだった。

ソ連(ロシア)にとっては軍事的要衝としてのこの四島の価値が低下する、事実上なきに等しいものになる一方で、冷戦を終結させその禍根を清算するという大義名分を果たすべき状況になったからだ。

まずミハイル・ゴルバチョフ・ソ連書記長が来日して海部俊樹首相との交渉を進めたのが、これはペレストロイカが思うように進められなくなっていたゴルバチョフ氏の政権基盤が、この訪日中にモスクワで起こった事実上の無血クーデタに近い政変で揺らいだことで、立ち消えになってしまった。

そのソ連がなくなり、ロシア共和国となった時点で、ボリス・エリツィン初代大統領と日本の橋本龍太郎首相のあいだで再び交渉が始まり、この時には橋本首相がロシアのエリツィン氏の別荘にまで招かれて膝を交えた親密な状況での交渉が進んだが、これもエリツィン氏自身の健康問題(心臓病)の突然の悪化と、それに伴う政権の弱体化で立ち消えになった。

こと橋本エリツィン交渉の時点では、経済的な混乱が収まらないロシアのなかでもとくにシベリアより東の地域は貧困に苦しみ、北方四島のロシア人住民のあいだでも日本の経済力に期待し、自分達の住む権利さえ保証されるのなら日本領になってもいい、というくらいの意見すら出ていたし、冷戦が終わったこの時代の空気のなかでは、繰り返すがこの四島の軍事的な要衝としての位置づけは限りなく低下していた。

あとはロシア国民にとって「貧しさのあまり領土を売り渡した」という形になってしまうプライドの問題が国民の反発を買うのではないかという心配だけが最大の障害になり、ゴルバチョフ、エリツィンの両政権もあと一歩のところで決断に踏み切れなかった、というのがこれまでのだいたいの流れだった。

安倍氏は、こうした自分の祖父も含む、自党の先輩たちの苦労を、まったく知らないのだろうか?

北方四島をめぐる交渉が進められようとしていた過去のいずれの時期と較べても、ロシア側では今この四島の帰属をわざわざ議論することのメリットも、モチベーションも遥かに少ない。

まずゴルバチョフ、エリツィンの二人にとって、冷戦の後片付けが政権の大きな役割だった。

日本との平和条約締結と領土問題の解決はその象徴的な意味を持つし、なんといっても四島は確かにスターリン独裁時代に日本から奪ったものでもあるのだから、旧体制への批判と反省を示し日本との新しい友好関係を確立するという立場からも、共同宣言に明記された二島だけでなく四島も含めて日本に返す、という大義名分は立てられなくもなかった。

しかし今はまったくそんな時代ではない。

冷戦の終結を世界が喜んだのはもう20年以上前のことで、今や新冷戦が始まることすら危惧され始めるなか、この四島の帰属問題は再び強く軍事的な意味合いすら持ち始めている。

ロシアはアメリカやEUとウクライナをめぐって対立を深め、シリア内戦でも立場の違いが鮮明化している。

安倍首相はプーチン氏との「個人的な信頼関係」が通用すると思っていたようだが、ロシアからみればその安倍政権は、昨年新安保法制を強行したのを見ても、沖縄県と県民の反対をおしきって普天間基地の辺野古移設や高江のヘリパッド建設を強行しているのを見ても、対米隷属と米軍の軍事プレゼンスに依存する傾向が以前の日本のどの政権よりも顕著な政権だとしか見えない。

プーチンがそんな対米従属べったりの安倍の日本を信頼して四島を返すなんてことは、防衛政策上絶対にあり得ない。

択捉と国後はそもそも「千島列島の一部」の認識なのだから返還を論ずる対象にならないし、色丹島だけでも米軍の軍事的な要衝になり得る以上は、日ソ共同宣言で合意されている色丹歯舞返還の約束をどう反古にできるのかをこそ、プーチンは真っ先に考えたはずだ。

安倍や世耕対露交渉担当大臣がいかにゴマを擦って下手に出て、すでに民間企業のロシアへの出資まで上乗せして経済協力をアピールしたところで、プーチンは得る者はどん欲に受け取りはしても、そんなことでなびきはしない。

…というよりも、日本が首脳会談で提案する「経済協力」に、すでに日本企業が自身の経営判断で進めているロシアでの事業やロシアへの出資まで勝手に含めて、いわば水増しした内容で交渉のテーブルに出すことは、ロシア側からみればあまりに見え透いて馬鹿げた欺瞞にしか見えない。

確かにウクライナとクリミアの問題で日本も含むG7各国による経済制裁を受けてはいても、経済が苦しいとは言ったってソ連崩壊後の混乱期とは比べ物にならないほど状態はいい。経済協力と引き換えに領土を、というほどにプーチン政権は追いつめられてなぞまったくいないし、強固なナショナリズムがこの政権の権力基盤となる圧倒的な支持率の基礎にある。そもそも、北方四島を今日本に返還するメリットがまったくない。

それどころか、ロシアには経済協力を申し出ながら、アメリカや他のG7諸国相手にも顔色をうかがい歩調を合わせて経済制裁を続けるという安倍政権の二枚舌外交は、相手国の不信しか買わない(というより、相手はプーチンである。こうも分かりやすい欺瞞は絶好の揚げ足取りのネタになる)ことに、日本側はなぜ気づけないのだろうか?

安倍のような「他人様のいない世界観」、相手国の立場や都合や主張を自分たちの側の都合で勝手にねじ曲げてしまう認識の歪みでは、外交なんてできるわけがない。

それに個人的な信頼関係を言うのなら、ゴルバチョフと海部俊樹、エリツィンと橋本龍太郎のいずれをとってもプーチンと安倍よりも遥かに深い信頼関係があった。

ゴルバチョフもエリツィンも政治的な理念や理想主義、誠実さを曲がりなりにも重んじる政治家ではあった(人間的に善良でもあった)が、プーチンとの「個人的な信頼関係」なんて夢想する方が間違っている(またプーチン自身がそういう悪辣な権力者であることを売りにして支持を集めてすらいる)し、こう言っては悪いが安倍氏は安倍氏でプーチンとまったく違った意味で「平気ですぐ嘘をつく政治家」ではないか。

プーチンのような考え抜かれた権謀術数ではなく、ただ行き当たりばったりに言葉に詰まって稚拙な嘘やデタラメを言い出してしまう、プーチンとは別の意味で信頼に値しない「噓つき」の安倍が、二枚舌の不誠実を相手に見透かされておいて、いまさら「信頼関係」もへったくれもない。

今までの流れを見る限り、噓つき政治家どうしの「個人的な信頼(なんてものが成立するなら、の話だが)」は、自分と自国の利益のためには平然と考え抜かれた嘘をつける能力があるプーチンに、無能なのにエゴが強いから苦し紛れに嘘を言ってしまったり、自分の誤摩化しの人気取りで平気で嘘を言ってしまえる安倍氏の二枚舌外交が見事に逆手に取られた、という結果にしかなりそうにない。

11月末にペルーで開催されたAPEC首脳会議での日露首脳会談の結果に、安倍首相が失望を隠せなかったことから、日本のメディアではアメリカ大統領選挙でプーチンを褒めていたドナルド・トランプが次期大統領と決まったことが、日本にとっては不利に働いた(米露関係の改善が望めるのだから日露関係が後回しになった)、とする分析が日本のメディアでは支配的だが、これも相当に眉唾な話だ。

というか、どうやったらこんな幼稚な与太話を真面目な顔で言えるのか、理解に苦しむ。 
日本側の失敗のいいわけにアメリカ大統領選挙を御都合主義で持ち出しているだけだ。

まずトランプ政権がどんな対ロシア外交の方針を打ち出すのかすら見えていない段階でそんな拙速な方向転換をするほど、プーチンは稚拙でうかつな政治家ではない。あまりに相手側の能力を見くびり過ぎ、相手の思惑を自分たちの都合だけで決めつけて誤解するのも、日本の外交が失敗するいつものパターンだ。

しかも安倍が「新しいアプローチ」を言い出した時点で、プーチン政権は色丹島や国後島の軍備の強化を発表していた。なのに日本側はこのことにすら、一切抗議していない。安倍は日本的な「配慮」でプーチンの好感を得たのつもりだったのかも知れないが、これでは相手側に「ナメられる」だけだ。

いやもちろん、日本の外務省だって、ここまで稚拙な判断の連続はさすがにしなかっただろう。

北方四島の問題を話題にすることで夏の参院選も睨んだ人気取りを計ろうという安倍首相に対し、外務省がそうは簡単にいかないことを警告くらいはしたはずなのは、とくに参院選後の内閣改造を見ても分かる。

なんと安倍の側近としても知られる世耕氏が、経済産業大臣だけでなく対ロ交渉の担当大臣にも就任し、外務大臣がやるべき交渉を勝手に進め続けてしまったのだ。これでプーチンに足下を見るなという方がおかしい。

つまり安倍は自分の妙に楽観的な希望的観測に当然ながら異を唱えた外務省を煙たがり、経産省と世耕大臣と官邸で日露交渉を進めることにして、あろうことか経験の蓄積がある外交のプロを排除して、自分の非常識で見事に自滅しただけではない、日本の国益を大いに損ねてしまったのだ。

もちろん日本の外務省だって確かにそれほど有能ではないのは、その通りだとは思う。政権によっては国民の利益を守るためには外務省を信頼するわけにはいかないのも、小泉純一郎政権が最初は外交機密費問題に切り込もうとして失敗したことや、鳩山由紀夫政権時に開示されたさまざまな密約を見ても、ある意味では当然の態度だ。

とはいえそれでも、外務省はまだ外交の専門家集団であり、安倍のようなただのド素人が傲慢にないがしろにしていいものではないし、現に安倍政権はこれまでも何度も外務省の進言や警告、意向を無視した独走の結果、外交的な失敗を繰り返している。

鳴り物入りで「河野談話の再検証」なる与太話を外務省の反対を押し切って私的諮問機関にやらせた結果、安倍は周辺諸国の不信感を買っただけで、「検証」の結果出て来たことといったら従来知られていた事実関係の再確認だけだった。

昨年のイスラム国による人質事件も、外務省が懸命に止めさせようとしたのに、安倍が勝手にカイロでの演説で「イスラム国と戦う国々に援助」という文言を入れてしまった結果起こったことだ。事件が表面化すると、特使としてアンマンに派遣した中山外務副大臣は、この種の交渉は絶対秘密裏で行わなければならないのが外交官の常識なのに、記者団相手のぶら下がり会見を毎日のように開催するという、政権の人気取りを優先しただけの非常識な行動に終始した。

昨年夏の、安倍首相肝いりの「明治の産業革命」の世界遺産登録も、外務省がせっかく韓国との交渉でまとめた話を、世界遺産会議が始まってから安倍首相が自分の身勝手で混乱させた結果、日本は全理事国の全会一致による懲罰的決議まで食らうはめになった。

米議会両院総会でのスピーチという名誉ある場でも、安倍はその内容を外務省にタッチさせず経産省出身の補佐官に書かせたデタラメな代物を読み上げた結果、日本の報道では隠されているもののアメリカのメディアは無視か批判だけに染まり、共和党の重鎮さえ非難声明を出すようなていたらくに陥った。

直近の例では、これも外務省の制止を無視して次期大統領に決まったドナルド・トランプに面会を頼み込み、TPPについて説得できたつもりだったのが、自信満々で行ったペルーのリマでの記者会見の直後に、トランプがTPPの即時離脱を宣言した経済政策ビデオを発表、大恥をかいたうえに、オバマ政権の不信も買ってしまってその誤摩化しに懸命になるあまり、真珠湾を訪問して謝罪外交に走ろうとしているのが現状だ。

日本はなぜ、外交上の失敗を繰り返すのか?

とりわけ安倍政権はその失敗の典型パターンのなかでも極端に稚拙な誤りを繰り返しながら、まったく反省も学習もないようだ。

外務省に限らず、日本人全般にはどうにもうまく認識できないことのようだが、外交は最低限でも相手国がいることであり、場合によっては無数の第三国の利害もからみ、複雑な状況下で高度の判断が要求される分野だ。

日本の外交はそれでなくとも、この相手国の利害や思惑を読み違える、というか自国の都合や主張の辻褄合わせに終始するだけで他国がその都合にあわせて動いてくれると思い込んだ「希望外交」の失敗や、国内世論に気を遣い過ぎた二枚舌の誤摩化しで動きが取れなくなるケースがあまりに多い。

だいたい、75年前の対米開戦こそがその典型だった。日本はアメリカが最後には妥協してくれると信じて強硬態度を貫き、結果最後通牒のハル・ノートを突きつけられたのだ。

尖閣諸島や竹島の領土問題でもこの種の失敗が繰り返されている。

というか、竹島に関しては民主党政権の野田首相が本気で国際司法裁判所に持ち込もうとして、外務省が慌てて止めて腰砕けになったこともある。つまり外務省は、実は日本の領有主張が国際的にはまったく通用しない理屈だと分かっていながら、国民の御機嫌取りのために虚勢のデタラメ領有権を国内向けに言い張っているのだ。

尖閣諸島をめぐっても、安倍の前の民主党政権で菅、野田の二代の首相が大変な失態を演じてしまっていながら、メディアも含めてそのことを国民に正直に言えないまま、安倍政権に入ってから日中関係を取り返しのつかないレベルで悪化させてしまった。

そうはいっても、これまでの日本の外交だって、安倍政権になってからの拙劣さに較べればまだマシ、と言わねばなるまい。

しかもこの総理ときたら外交で失敗しかしていないのに、メディアもまるで批判しないし、周囲でも誰も諌めないらしい。 
いやそれどころか、なまじ現実がそんなに甘くはないことを進言をしたばかりに外務省が排除されるハメになり、その結果が昨年暮れの慰安婦問題についての日韓合意(韓国に守る義務がなにもない空約束に10億払っただけ)のていたらくだったり、今回の日露首脳会談だったりするわけだ。

安倍首相は北方領土の旧住民に面会し、自分の世代でこの領土問題の決着をつけたい、と豪語したそうだ。なるほど、プーチンもこの際自分の代で決着をつけるつもりだ。つまり、このままでは、歯舞色丹まで含めてロシアの領有権が確定する、という結果になりかねない。

だいたい平和条約締結に伴う二島返還だけだったら、冷戦中はともかくその終了後には決着できたことだ。海部俊樹首相も、橋本龍太郎首相も、二島だけではなく四島一括でなければ許されない、という自民党自身が作って来た世論を尊重せざるを得なかったのだし、その後も交渉は膠着したままだったのだ。

もともと旧島民にしてみれば、島の帰属よりも自分たちが故郷に戻れるかどうかの方が重要だ。ソ連時代ならともかくロシアの時代ともなれば、ビザを取得して故郷を訪問することも本来ならできるし、居住も含めたビザの取得ですら、ロシア側はむしろ好意的に対応するだろう。

そして旧島民が故郷に住みたいと思うなら、突き詰めれば日本領だろうがロシアだろうが、そのこと自体は関係がない。戦後の三年間ほどは、択捉、国後、色丹の三島では、ロシア人と日本人が片寄せ合って生活して来た歴史もある。

旧島民が故郷に住むことが許されないのはあくまで日本政府の都合で、日本国民がロシアのビザで北方領土に入ることはロシアの主権・施政権を認めてしまうことになるから、として日本政府が禁じて来たことでしかない。

冷戦終結後の日ソ・日露交渉で、旧島民の墓参のための「ビザなし渡航」がまとまったのは、ソ連やロシアがビザを発行に難色を示したからであるかのように日本国内では誤解されているが、これはまったくの間違いだ。日本政府の都合で旧島民にビザが発行されることを日本側が拒否しているから、「ビザなし渡航」というずいぶんいびつなところで落ち着かざるを得なかっただけだ。 
安倍は今回、この「ビザなし渡航」の拡大もプーチンと交渉したいらしいのだが…。

なのにそこまで旧島民を我慢させて来たはずの主権と帰属の問題を、安倍は今回の日露首脳会談では議論せず、そこは曖昧なままに四島での経済協力まで持ちかけ、旧島民の訪問の機会を増やす交渉をするらしい。

ならば旧島民は今まで70年近く、なんのために我慢させられて来たというのか?

安倍が「避けて通った」つもりでも、プーチンから見れば安倍が四島の日本への帰属を強く主張しない限りは、四島に関するロシアの主権を容認したとみなして当然だ。むろん安倍がそんなつもりではないことは百も承知でも、安倍がはっきり言わない限りはプーチンがそう受け取るのが当たり前なのだ。

このままでは、70年近く待たされて来た旧島民こそいい面の皮だ。ここまで自分の国民、それも高齢の人たちを裏切り続けて、この総理大臣は恥ずかしいと思わないのだろうか?