最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/12/2015

藤田嗣治の戦争画はプロパガンダだったのか、戦場の狂気を伝える反戦画なのか?



明日13日(日)までの展示をギリギリで取り上げるのは恐縮なのだが、藤田嗣治の東京国立近代美術館が所属する全作品が、同美術館の常設展で展示されている

宣伝広報のメインビジュアルは乳白色の時代の『五人の裸婦』だが、油絵作品25点のうちパリでの無名時代1点、乳白色の時代3点、30年代の中南米旅行時2点、日本に帰国後の戦争画でない絵画が『猫』1点、戦後のフランス亡命後作品が3点、といった構成のなかで、戦争画14点の一挙展示、つまり戦後70年企画こそが、真の目的なのだろう。

藤田嗣治『五人の裸婦(五感)』1923年 嗣治37歳
これまでも同美術館は、とくに日本の「右傾化」が危惧される昨今、昭和18年の『アッツ島玉砕』や同20年の『サイパン島同胞臣節をまっとうす』をしばしば常設展のなかで取り上げて来ている。

だが藤田の戦争画の時代は、彼が日中戦争の頃から軍の依頼で戦地に旅し、陸軍美術協会の理事長まで務め、戦後にはその「戦争協力」を咎められフランスに亡命した(まもなくカトリックの洗礼を受け「レオナール・フジタ」として81歳の生涯を閉じている)と言った史実こそ知られているものの、この画家が1920年代のパリで名声を博した「乳白色の時代」など白を基調とした画風で知られる中、この時代だけは画面が暗くまるで対照的であることが「らしくない」とみなされる程度で、あまり見られても来なかったし、絵そのものについては評価も批判も、ほとんどなされたことがない、いわばタブー扱いであり続けて来た。



「戦争協力」という1940年代前半の日本絵画の主流自体が戦後の日本美術史でタブーの時代になり、わけても肩書き的にもその中心にいたとみなされる藤田嗣治の戦争画は、美術ファンにとってだけでなく、研究者にとっても、長らくタブーそのものだったのかも知れない。

藤田自身が画壇の戦争協力の全責任を負う、いわばスケープゴートになるよう促され、「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」と言い残してフランスに亡命、二度と帰国することなく「日本を棄てた」と言われながら、亡命に至る事情すら語るのが憚られたのは、ただ「戦争協力の画家」という過去がただ藤田嗣治本人にとってのみ汚点となるからではあるまい。

藤田嗣治『アッツ島玉砕』昭和18年 嗣治57歳
たいがいのプロパガンダ絵画やポスターが、それでも戦時下の世論操作の実例としては頻繁に例示されるなかで、藤田の戦争画の場合は作品そのものがタブーになった理由は、もうひとつ考えられる。『アッツ島玉砕』や『血戦ガダルカナル』『サイパン島同胞臣節をまっとうす』など、いずれも見るだけでも恐ろしい、目を背けたくなるほどの禍々しい絵なのだ。

小栗康平監督作品『FOUJITA』で引用された『血戦ガダルカナル』
嗣治の父は陸軍軍医総監であり(フランス留学は前任者・森鴎外の助言があったとも言われる)、もともと軍と関わりの深い家系だったのが、軍の求めに応じてこれらの絵を描いたのは、彼が軍国主義者だったのだと単純に理解することも出来なくはなく、彼の戦争画は見られないままにそうしたプロパガンダ作品として片付けられがちだったし、また実際には14点の作品のなかには「嗣治謹画」といった署名が見られるものもある。だからそういうものだと思ってしまえば楽だし、また帰国した嗣治が日本画壇にかなり冷遇されていた事実もあり、一種の過剰同化として日本的なるものを目指したこともあった彼が、積極的に愛国主義に奉仕したという見方も成り立たなくはない。

藤田嗣治『秋田の行事』昭和12年 秋田県立美術館蔵 嗣治51歳 
実際、とりわけ『アッツ島玉砕』は全滅に至った惨敗と兵士の犠牲を逆に「玉砕」として称揚した最初の事件を題材とし、この敗北の半年後に発表された時には新聞報道などでも絶賛されている。その意味では嗣治が軍情報局のいわばメディアミックス世論操作に貢献したのは、表面上まったくの事実ではある。

『アッツ島玉砕』を賞賛する当時の朝日新聞の記事
陸軍はこの絵を目玉に戦意高揚の絵画展を全国に巡回させ、50代の半ばも過ぎた嗣治自身が各地で絵の傍らに国民服姿で立ち、観客が賽銭を投げ、画家が最敬礼したという嘘のような逸話も伝わっている。

だが実際に『アッツ島玉砕』を見ると、これが本当に戦意高揚画だったとは、とても思えない。

2012年に常設展がリニューアルされた以前の展示だと、時系列展示でなんの説明もなくこの作品が目に入り、画家の名を確認する余裕もなくこの暗い画面に凝縮された凄惨な暴力と殺し合いに圧倒され、戦争の狂気と陰惨さを圧倒的な迫力で描いた作品にしか見えなかった。

明らかにこの絵には、描かれた時代背景やその成立の文脈を超えた、絵そのものとしての恐るべき力があり、時代を超越している。それは描かれているものそれ自体を見る限り、画家の創作の野心として意図されたものだ。



日本兵なのか米兵なのかも判然としない、遠景に雪を頂いた山が仄かに白く浮かび上がる以外は、暗褐色の空間のなかにひしめき合い殺し合う男達の身体、今まさに人体に突き刺されんとしている銃剣や刀、そして画面の下のいっそうの暗がりのなかには、両軍の兵士達(いやほとんどは日本兵なのだろうが)の屍が積み重なる。画面左には、倒れすでにこときれた米兵に銃剣を上から突き刺す日本兵の残虐な行為も描き込まれている。


もっとも目を引くのは画面の中央やや上の、相手の顎をつかみ刀を突き刺そうとしている男だ。刀を使っているからには日本兵なのだろうが、そこには「神兵」ないし「英霊」と言った美化はかけらもなく、暴力に取り憑かれた人間の野蛮で狂気に満ちた形相は、しかもずいぶん下卑なものでもある。


殺す側、殺される側すら判然としなくなる暴力描写の凄惨さ、プロパガンダ絵画のはずなのに敵、味方の区別すら無効化する特徴は、翌年の『血戦ガダルカナル』や『○○部隊の死闘-ニューギニア戦線』にも共通する。

これが本当にプロパガンダ絵画なのだろうか? どうやったらこんな陰惨で狂気にあふれた絵が、戦意を高揚させ得るのか? 戦争推進のためだけなら、こんな絵を描くだろうか?

藤田は愛国的な熱狂を持ってこれらの絵に心血を注いだのか? 義務感、ないし大勢に従う同化意識でこうした絵を描いたのだろうか? 普通ならそのように考えて済ますこともできようが、しかし20年代のパリでわざと自分の日本人というナショナリティを誇張して、有名な、つまり売れる画家としての売名行為にも熱心だったのが嗣治だ。ただプロパガンダへの貢献だったら、もっとうまくやったはずだ。とりあえずもっと明るく見易い画面とか、敵味方の区別くらいはいくらでも分かり易く出来ることを、あえて逆の方向にどんどん進んで行ったのが、「乳白色の時代」と対置して「暗褐色の時代」と呼んでもよさそうな、藤田嗣治の1940年代前半である。

藤田嗣治『血戦ガダルカナル』昭和19年 嗣治58歳
同時代に描かれた他の多くの戦意高揚画は、軍が求める勇ましい意匠や、戦場の悲惨さ大変さ(「兵隊さんたちのご苦労」)を大衆のセンチメンタリズムに訴えるパターンなどを、実直に踏襲している…が、絵として「たいしたことがない」のもその通りで、作品的な価値が低いことから、美術史でそれらの絵画が無視されがちだったのは、ある意味当然なのかも知れない。

だがその点、藤田嗣治の戦争画は傑出した例外だ。

まずとにかく絵画としての完成度が異様に高い。「フジタ=乳白色」だから暗褐色のトーンが「フジタらしくない」と言うような先入観を棄てたとき、これらの絵に注ぎ込まれた技量は圧倒的で、その画家としての全キャリアのなかでもっとも完成度が高く力強い作品群となっているだけでなく、戦争末期に近づけば近づくほど、暗闇の表現などの実験性も凄まじい。

藤田嗣治『○○部隊の死闘 - ニューギニア戦線』昭和18年 嗣治57歳
藤田嗣治の技法とスタイルの変遷からこの戦争画の時代を見て行くと、すぐに気付くことがある。いわゆる「乳白色の時代」と比較して、単に色調が正反対なだけでない。パリで人気を博した時には藤田は日本画の面相筆や、墨を油彩画に取り込み、女性の顔も浮世絵を思わせる線だけで表現し陰影をあまりつけないなど、意図的に東洋的と見られる画材やテクニック、意匠を用いていた。

藤田嗣治『自画像』1929年 嗣治43歳
対していわば日本的愛国表現であるはずの戦争画はすべてクラッシックな油彩画として描かれ、「日本的」あるいは「和」の要素はほとんどない。

敵味方の区別がほとんどつかないのも、ひとつには日本兵の顔を「東洋人」として描いていないことも大きい。日本軍兵士の表情がはっきりと、それなりに人間らしく描かれた絵は、14点の戦争画のなかで一枚だけだが、この『薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す』は日本人が主役ではない、台湾先住民族の空挺落下傘部隊を描いたものだ。

藤田嗣治『薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す』昭和20年(部分)
遠景を明るめにして中景を省き、前景のアクションを暗闇に沈めてほのかに浮かび上がらせる手法は、言うまでもなくルーベンスや、特にレンブラントのバロック絵画に想を得たものだろう。東京国立近代美術館の学芸員の指摘では、『アッツ島玉砕』のエンブレマチックな、相手の顎をつかんで銃剣を突き刺すポーズは、イタリアのルネサンス期の戦争画に同じものが見られるという。同じポーズは角度を変えて『血戦ガダルカナル』でも用いられている。

まだ無名だったころのパリの藤田は、毎日ルーヴル美術館に通って古典絵画を片っ端から研究したことを自ら語っていた。わざと「和」のモチーフを多用してフランスで評価と人気を獲得したのは、いわゆるエコール・ド・パリの時代には画家の個性が分かり易いスタイルが好まれることを計算して言わば自ら日本人としてのエキゾチシズムを「演じた」からでもあった。だが画家・藤田嗣治の本質、その創作の根底そして中枢にある西洋絵画史の継承者として、その西洋の同時代の画家達こそライバルとみなして勝負する表現が、もっとも結実した作品群こそが、これら戦争画なのではないだろうか?

藤田嗣治『サイパン島同胞臣節をまっとうす』昭和20年 嗣治59歳
あるいは、軍の依頼で描いた最後の作品となる『サイパン島同胞臣節をまっとうす』の中心モチーフは玉砕する女達であり、むろん参照されているのは西洋絵画のもっとも基本的なモチーフである聖母子像だ。



小栗康平の映画『FOUJITA』には、『アッツ島玉砕』を嗣治(オダギリジョー)が「ちゃんばら」と呼び、戦争画について「動きがあるから、画家の腕が必要だ」と言うシーンがある。

ちなみに名声を博した「乳白色の時代」の裸婦達には、ほとんど「動き」がない、その静的なイメージをまばゆい乳白色と面相筆の端正な輪郭線で描くことが、いわば当時の嗣治の「売り」であり、西洋絵画では中世期にはよく見られたものの、ルネサンスと同時に消滅した表現でもあり、それがまた藤田(あるいは親交のあったモディリアーニの人物画)の“新しさ”でもあった。

ルネサンスで西洋絵画はどう変わったのか? 例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』はイエスが同席する使徒たちのなかに裏切り者がいると言った直後のドラマチックな瞬間を捉えているし、とりわけ未完に終わったフィレンツェ市議事堂の壁画『アンギアーリの戦い』が好例となろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『アンギアーリの戦い』の下絵とみなされる板絵
レオナルド・ダ・ヴィンチ『アンギアーリの戦い』のための習作
激しい運動の一瞬を捉え、本来なら静止した一瞬である絵画画面に、時間性と運動性をその一瞬を表現することでこそ描き込むことが、ルネサンス以降西洋絵画の王道であり続けて来た。藤田嗣治の戦争画は、題材こそ日本の「愛国」でありながら、その実あらゆるレベルでこの西洋絵画の王道をこそ20世紀に踏襲していて、およそ「日本的」な表現とは言い難い。

藤田嗣治『薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す』昭和20年(部分)
嗣治はなぜ戦争画に熱中したのか?

一見「フジタらしく」見えないながら、その実最も表現の技巧と挑戦に満ち、完成度も恐ろしく高く、要は「メチャクチャ巧い絵」であることにこそ、その本当の理由があるように思える。画家として、戦争は難しいからこそ最高の題材であり、西洋絵画の伝統の最高の完成度で仕上げれば仕上げるほど、ルネサンス以降リアリズムと美的バランスの端正さの出会うドラマチックさにこそ要点があった西洋絵画の根本的な在り方に忠実であればこそ、おのずから現代の戦場の狂気にこそ表現が収斂していくのは、藤田嗣治が「メチャクチャ巧い画家」であればこそ、当然の帰結だったように思える。

レオナルド・ダ・ヴィンチが『アンギアーリの戦い』で敗北の瞬間の絶望の感情にこそドラマの凝縮を見たのがその当時の戦場であったとしたら、その名を自らの洗礼名として名乗ることになる藤田嗣治、後のレオナール・フジタが画家として描かずにはいられなかったのは、現代の(とくに日本の)戦争の「狂気」だった。

『アッツ島玉砕』
戦争の本質に優れた芸術家が全力で迫ろうとすれば、当人の政治信条や愛国的感情ないし反戦意識すら超越して、戦争の真実がそこに描き込まれる以上、自ずから客観的には「反戦」にならざるを得ない。戦争とはそこまで常軌を逸し、狂った、悲惨なものであり、日本が戦った15年戦争は、とりわけそうしたもの狂った戦争だった。

ここで、もうひとつ考えなければならない問題がある。戦場の狂気そのものの表現である藤田の戦争画が、なぜ戦意高揚画として当時は絶賛されたのか?



賽銭が投げられたという逸話から、小栗康平の映画『FOUJITA』では、狂気の殺戮、つまりは死の瞬間そのものを描いたそのことで、『アッツ島玉砕』がいわば「カミ」となってしまい、そこに顕現した日本人の潜在意識に潜む「カミ」崇拝の伝統が、嗣治自身にも取り憑いていく。小栗にとってデビュー作『泥の河』への原点回帰でもあり、この映画作家の関心が向かっていくのは「狂気」よりは「死」、つまりは「彼岸」への意識だ。だから「狐」が小栗の映画の重要なモチーフにもなるのだが、そういえば『アッツ島玉砕』で銃剣を突き刺す日本兵の形相は、狐か狐馮きのようにも見える。

だが凄惨な暴力が重層的に凝縮する、その狂気の側面から藤田の戦争画の受容を考えると、より空恐ろしい仮説も成り立つ。



狂気だからこそ、この絵は見る人々をの心を動かしたのだ。つまりは当時の日本の全体が、狂気の状態にあったのではないか。

そのような集団的な、常軌を逸した興奮状態であったとしたら、悪鬼のような形相の日本兵すら、その表現が肯定的と見えるのか、忌み嫌うべき否定的な人物なのかも、意味を持たなくなるだろう。嗣治が『アッツ島玉砕』で表現したのが暴力、狂気、そして死(殺戮)そのものであったならば、玉砕、特攻、集団自決の報に興奮し、ついには一億玉砕とまで言い始めてしまっていた日本人にとってはアンフェタミン、刺激剤、麻薬の効果すら持ってしまいかねない。

そんなすべてに対して、それだけの絵を描きながら、藤田嗣治本人はどこか醒めていたのかも知れない。

そんなことも思わせるのが、例えば昭和19年の『ブキテマの夜戦』だ。

藤田嗣治『ブキテマの夜戦』昭和19年 嗣治58歳
夜の暗い林を凝視すると、夜襲に慌てふためいたのであろうか、兵士達が投げ棄てた軍装品や所持品が地面に散らばり、さらによく見るとそのなかに、まるでモノのように転がる屍に気付く。戦死者に涙したり兵士の苦難に共感させるには、あまりに突き放した表現ではないか。

まだ日米戦争が始る前、最初は海軍の依頼で日中戦争の前線を旅したりした頃の藤田の絵はまだ色調も明るく、横長の画面の大パノラマで前景に戦車や飛行機など大きな兵器を配する構図が特徴だった。

藤田嗣治『哈爾哈河畔之戦闘』昭和16年 嗣治55歳
その一枚、ノモンハン事件を描いた『哈爾哈河畔之戦闘』には、記録によれば藤田に依頼した将軍が私的に所有した別バージョンがあった。現存する公的なバージョンでは日本兵が匍匐前進する姿が描き込まれているが、その地面には兵士達の屍が累々と転がっていたという。

国内ではひた隠しにされたが、満州の関東軍が偶発的にソ連軍と衝突したノモンハンの戦闘(昭和14年夏)は、15年戦争で最初の日本軍の致命的な惨敗だった。それでも国民にはなにも知らせぬまま、日本政府はこの翌年、日独伊三国同盟を締結する。外務大臣松岡洋右は実はソ連も巻き込んだ四国体制で米英や国際連盟加盟国に対抗する構想を持っていたらしく、ノモンハンの惨敗からしても、ソ連が敵国となることは日本にとって致命的な打撃となるとの考えはさすがにあったのだが、しかしやっとその念願の日ソ不可侵条約を締結したところで、やはりソ連と中立条約を結んでいて日本の意図に同意していたかに見えたナチス・ドイツに、既に日中戦争の泥沼化でにっちもさっちも行かない立場に追い込まれていた日本は呆気なく裏切られる。独ソ戦の開始だ。



こうして日本は、妙に楽観的というか奇妙に希望的観測に固執した外交の、予め十分に予期出来たはずの失敗で、自らを追いつめて行くことになる。ただでさえ日中戦争で日本への態度を硬化させて来たアメリカの日本への不信は、三国同盟で決定的になった。

当時、日本は鉄鋼も石油もアメリカからの輸入に依存していた。つまり、アメリカ相手に戦えるわけもない。だが陸軍が東南アジアを侵略することで資源を確保出来ると主張し、それが実践されてしまう。

この日本の呆れるほどの自己中心的な動きさえ、国家の存亡を賭けているのだから日本を先進国と認めるアメリカも理解してくれるはずだという、呆れる他ない「希望外交」で、日本は国際的な孤立を決定的にする。

その結果が真珠湾攻撃、米英との開戦。平和主義などの理想を持ち出すまでもなく、単純に現実的な選択の問題として、太平洋戦争は最初から狂気の戦争だった。



フランスで画家として地位を築き、1929年のウォール街大暴落がヨーロッパに波及したことでフランスを離れ、アメリカ大陸も旅行した藤田嗣治が、日本がアメリカと戦争をしてしまうことの意味を理解していたとしてもなんの不思議もない。むしろ分かっていなかったらその方がおかしい。だからかも知れないが、真珠湾攻撃を描いた一枚は、戦争画のなかで唯一、呆れるほどに凡庸な作品だ。

それでも藤田は表面上は軍の注文に従順に応じ、戦争画を描き続けた。陸軍芸術協会の理事長すら引き受けたのは、わざと貧乏くじを引いたとしか思えない。ただその結果、物資が絶望的に枯渇する日本で、藤田が大作の油彩画を描き続けられたことも確かだ。



戦争画の時代の最後の作品となった『サイパン島同胞臣節をまっとうす』(昭和20年、嗣治59歳)は、藤田の戦争画の集大成とも言えると同時に、それまでとはいささか異なった要素を持っている。

大作の宗教画を思わせるシンメトリー構図に、人によってはここに、後に彼がカトリックに正式に改宗する意識の萌芽を見るかも知れない。



この絵の主人公は兵士ではなく民間人、とくに女たち子どもであり、『薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す』の台湾先住民部隊を除けばほとんど初めて、その人物達には個性と人間らしい表情が描き込まれている。

一方で、これまでの戦闘を描いた絵以上に、軍服姿の兵士の顔からは人間的な表情が排除され、まるで亡霊のようにさえ見える。

もしかしたらやはり兵士なのかも知れないが、裸の男達の筋肉の表現はこれまでの戦争画には見られなかったもので、ミケランジェロやカラヴァッジオなどの歴史画の影を強く感じさせる。


戦闘の狂気と凄惨さが凝縮される一瞬を捉えた『アッツ島玉砕』などの作品と異なり、サイパン島の民間人も巻き込んだ集団自決(昭和19年7月)を主題としたこの絵では、中景を抜き近景で肉体が壮絶に絡み合うバロックないしマニエリスム的なダイナミックな構図ではなく、横長の大パノラマ画面に大群像が左右対称で古典的に構成されており、異時同図法も用いられている(これも古典的な宗教画でよく用いられた手法だ)。

画面右の中景から遠景にはアメリカ軍に追いつめられる日本軍と日本人達が点景で描き込まれ、画面左中景色では断崖から見を投げる女達が見える。

シンメトリーの構図の中央前景を占める群像には、これから自ら命を絶とうとする者達、お互いを刃にかけるその瞬間、そして既に死んでいる者達の屍が配され、その多くが女であり、子どもだ。赤子の遺骸を抱く母親なのか、人形を抱いた女の子なのか、その腕に抱かれた幼子らしき顔だけが、暗褐色の支配する画面内に妙に青白く浮かび上がって目を射る(残念ながら写真や複製ではうまく再現できないので、実際の絵をぜひ見て頂きたい)。

前景中央の右端に描かれた少年の顔は、とりわけその真摯な眼差しが、これまで戦場の殺戮の狂気を凝縮させて来た藤田の戦争画と明らかに異なった表現として、目を引かずにはおかない。



画面の外側方向に向けられた彼の目線の先少し下には、軍刀で刺し違える半裸の男達がいる。軍服は着ていないが、軍刀を持っているからには兵士なのかも知れない、その肉体の運動は克明に描かれているが、顔の表情は虚ろだ。そのことが少年のしっかりした表情と、凝視する目を、一層際立たせている。

カンバスの外、その彼方に向けられた少年の眼差しは、なにを見ているのだろう? その顔から下に視線を向けると、彼の膝には、自決のための手榴弾が置かれている。




NHK-BSプレミアム 英雄たちの選択「藤田嗣治“アッツ島玉砕”の真実」 
12月17日夜8時〜 http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2015-12-17/10/27218/2473057/

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