最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

2/19/2014

「思う」だけでなく、少しは「考えて」みよう


昨今の日本における議論では、政治でもなんでも、たとえばネット上のそれでも、酒席などでも、ある違和感を覚える展開が、最近はとても多い。「私は○○と思う(から反対です)」で話が事実上打ち切りになってしまうのだ。

なぜそう「思う」のか、その理由は一切語られもしない。そして捨て台詞が「人それぞれ、いろんな思いがあっていいじゃないですか」となる。

「なんとなくそう感じる」のでもない(ちなみにそうした直感は、経験則からすれば案外と当っている場合も多い)し、「考えた」その結果の結論でもない、ただ「思い」という言葉ばかりが飛び出し、それが絶対化され、あとはコミュニケーション拒絶。

いやそれどころか、「私は思う」で話を終わらせる人たちは、自分のその「思い」が理解されないと「拒絶された」と感じ「お話にならない」と言い出し、場合によっては「罵倒された」ということにまでなってしまう。

なんなのだろう、この「思い」という曖昧な感情の奇妙な絶対化は?

たとえば鬱病を患っている場合、自分が陥っている思考のパターン(しばしば悲観主義の堂々回りに、鬱病患者は陥っている)の認識が、別の見方をすればストレスとならないかも知れない可能性を提示されても、それを感覚的に受け入れられない場合がある。

理屈で考えれば別の理解が可能だとしても、イニシャルなショックが強過ぎると感覚としてそうした別解釈をリアルな、あり得ることとして受け取ることが、どうしても難しくなるのだ。この場合、それが誤解だった場合でも、どんなに説得をしても当面は無駄である。患者自身がそのショックから回復し、別の解釈で現実を受け入れるようになれるまでには時間がかかるし、場合によっては投薬治療で脳の機能そのものの作用を変えるしかないのかも知れない。

だがここで現代の精神医療に念のため警鐘を入れておくなら、薬物で脳の機能を左右するのは、要するに麻薬だということは、忘れてはならない。 
短期的には回復したように見えても、結果として脳内の化学反応の自然なバランスを壊す危険性を常に秘めているのだ。 
ある程度の回復に至ったところで思考のパターン自体を見直すか、ストレスの原因自体を生活から取り除くか減らすかしない限り、自律的に脳内のバランスを保てるように出来なければ、薬であったものは麻薬となり、依存症にもなり得る。

こういう場合の感覚、個々人それぞれの気持ちというのは案外と絶対的なものであり、そう簡単に変えることは出来ないし、おいそれと評価を加えることに意味もない。だが一方でなにかを感じるのは基本、純粋に個人的な体験であり、他者はせいぜい「こういう気持ちなのだろうか?」と類推することしか出来ないし、だから自分の感覚を他人に無節操に押し付けることは、本来なら誰もが躊躇する。

一方、「考える」というのは客観性を伴った論理構造を内包しているものだ…

…というとお勉強めいて難しく聞こえるかもしれないが「AはこうだからBになる」「Aがこう動けば結果としてBはこう動く」程度の客観論理は、我々の日常生活のそこらじゅうにある。

その論理性、筋が通った話の共通認識と共通理解が社会を支え、言語による意思疎通を可能にする。そうした社会性の基盤にある共通理解がなければ、そして他者についてもその程度のことは考える努力なしには、我々の社会は維持出来なくなる。

英語での議論でよく使われる表現に、We agree to disagree というのがある。直訳するなら「合意しないことで合意する」、それが可能になるのは、お互いの異なった結論に至るそれぞれの論理構造を双方が理解した結果、「自分の考えは違うが、お前の考え方も間違っているとは言えない」という結論が共有されるからだ。

たとえば「神は存在するか否か」ないし「どの神を信じるのか」という問いは本来なら、最終的にはこの結論に至って、争いにはならないはずだ(歴史が示す通り、宗教者や哲学者どうしの対話はほとんど常にこの結論に至ると同時に、社会的・政治的なレベルの宗教においてはめったにそうはならない)。なぜなら、それなりに思考を重ね経験も積み思想を豊かにして来た歴史があり、その結果多くの信仰を集めているちゃんとした宗教ならば、それなりに論理的な整合性を持った世界の解釈の在り方があるし、異なった信仰の認識体系とは別の解釈の世界観に他ならず、同じ世界の事象に対して異なった説明がそれぞれに成立するならば、どちらかが間違っているとは言えないし、最終的な結論が、そもそも有限な人間の生命のタイムスパンのあいだに出るとも、やはり有限でしかない人間の認識の範疇に収まるとも、限らないからだ。

無神論と信仰の唯一の違いは、科学的な論理と偶然と無神論者が呼ぶものを、信仰者が「それこそが神の働きである」とみなす、その解釈の違いに過ぎないとすら極論できる。 
人が生まれ、そして死ぬというプロセスの理解に輪廻転生を介在させようが、そんなものは信じないと無視しようが、人が生まれ、そして死ぬことに変わりはない。 
霊魂の物質的な存在を証明できなくとも、ある出来事がなにかの祟りだと信じようが信じまいがその出来事は起こっているのであり、祟りを信じた方が人間の行動を律するには役に立つとすら言えなくもない(つまり祟りが怖ければ、そう簡単に人を殺したり、まして大虐殺なんて簡単には出来ない。織田信長以前の日本史に大虐殺が滅多にないのは、祟りを恐れ死者を鎮撫する信仰文化が生活の一部だったからだ)。 
自然現象や偶然が常に我々の想定を凌駕し、その現象を構成する要素のすべてが科学的に計測可能であるわけもないのなら、「荒ぶる神」を恐れる感覚が合った方が災害に強い社会にだってなる(安政の大地震は規模自体は関東大震災より大きい。だが幕末の江戸の方が近代都市東京より被害は遥かに少なかった)。

ころが今の日本では、こうしたお互いの正当性や限界性を認識した議論が、まったく成立しないように思えてならない。

なにかの議論が始まれば、論理展開と事実関係の把握は早晩どうでもいい話になり、成熟した世界観としての「信仰」とは似ても似つかぬただの思い込みのぶつかり合いが「勝った」「負けた」「どっちが正しい」の意地の張り合いになり、論理的にどうにも勝ち目がなくなった側が突然「思い」を口にして、対話そのものが成立しなくなるのだ。

そして自分たちの「思い」を絶対的な根拠であるかのように振り回して「論破した」と言い張るのである。

いやそれは、あなた達の「思い」というか「思い込み」でしかないのだが…。

あなたや私が「感じたこと」、その「気持ち」は、個人的な体験だ。だからおいそれとその共有を他人に押し付けることは出来ない(そもそも、そう簡単に理解されてはたまったものではない)。

「考えること」は論理性に基づく展開があるぶん客観的であり共有される論理構造によって相手を説得可能であると同時に、同じ事実関係を元に異なった論理体系も構築し得るし、勘案されず抜け落ちていた事実がある可能性を潜在的に内包するため、さしあたりの結論が相対的である余地を、常に残すことになる。

この両方においては、他者の、時に対立する感覚や考え方は、共存が可能になる。

「自分はこう感じるが他人がああ感じることはあり得る」のだし、一方で同じような感覚が共有されることもしばしば、実人生にはある。人間は個々人に個性があると同時に、そこまでかけ離れた存在でもないからだ。

だが最近流行りの「私の思い」には、そこに他者の存在や異なった「思い」への理解が併存する可能性がまったくないから、困ってしまう。

いや「人それぞれにいろんな思いが」と言ってるじゃないか、認めているではないか、とあなた方は言い張るのかも知れない。だがその様々な他人の、異なった「いろんな思い」は完全にあなた自身の外部に放置され、あなた自身の思考や世界観に組み込まれたり影響を与える可能性は、最初から排除されているではないか。

それではそんな他者の「思い」は、自己閉塞したあなた自身にとって、存在しないのと同然ではないか。

「思い」しか語れず、自分の感覚と、その自分が感じたことを元になにかを考える意識の階層構造が出来上がっていない人たちの場合、よくても「あなたがそう思うなら勝手にどうぞ、私はこう思います」にしか至らないし、異なった「思い」なり「感覚」や「考え」を持つ他者を説得するか納得させようという努力も、最初から放棄されている。

これは「Agree to disagree」に見られる、双方の感覚と思考の尊重とは、まるで真逆な態度、実はただの拒絶と、一方的な別離の宣言でしかない。

いやこれならまだマシな方で、「私はこう思うのにその私の思いを理解しないあなたはひどい」と、自分がその相手の異なった「思い」を理解し許容する意志なぞまったくないくせに、いやむしろその異なった「思い」を拒絶するために、平然と「思い」を喚き出す人が多いのが、最近の日本の現状だ。

こうした「思い」とはその実、まるで定義の定まらない、しごく曖昧なものであり、主観であるのか客観であるのかすら判然としないし、そう「思う」主体は誰なのかすら明示もされず、むしろ主観なのか客観なのかが曖昧なまま、そう「思う」主体の身勝手な都合で、ときに主観であるかのように、あるいは客観であるかのように、極めて恣意的に使い分けられてしまう。

その概念の定義が曖昧な故に、こうした「なんとなく」でしかなく、主体もよく分からない「思い」の情動は極めて危険なものにも、社会的にはなり得る。

「私はこう思う、なぜなら」の論理構造をすっ飛ばしたままでいる結果、ある事象に対する解釈や意見が対立しているはずが、そこに自分をやり込めている相手への個人的な敵意の感覚が入り込んでも、本人はまったく無自覚なままでいられるし、「なにが正しいのか/なにが美的なのか」の思考を根本的に欠いている結果、手放しの敵意や憎悪の集団ヒステリー化を無防備に招いてしまうのだ。

「思い」の共有だけで固まった集団は、なにしろ感覚と思考が未分化なままなので、その共有される「思い」の強化にこそ無批判に最大のエネルギーを注ぐことになる。「自分たちが信じていることが正しい」のか「自分たちは正しいと思いたい」という欲望なのかの区分けが認識すら出来ていないため、後者があっけなく前者を乗っ取ってしまう。

いったんこうした「思い」の集団化という悪循環の構造に巻き込まれてしまうと、抜け出すことはなかなか困難だ。あくまで私的な体験である「感覚」「気持ち」によって個人が集団から分化され自立が担保されるのではなく、なんとなく「みんなの思い」がそこに優先されてしまい、そこから自分の感覚が外れていることの認識すら、無自覚に拒絶する状態にまで簡単に至ってしまう。

そうならざるを得ないのは、「思い」が自分とは異なった他者との交換可能な、交信可能なものではないからだ。

異なった「考え」であれば、共存し双方から学ぶことは理知的な意識のプロセスで可能だし、異なった「感覚」は自身の感覚の限界性(つまりそう「感じ」ているのはあくまで私個人でしかない)故に倫理的に共存可能なのだが。

だが「思い」にしか固執しない人間がなにかを共有し、なにかを交信し合える相手は、同じ「思い」を持った相手ないし集団しかない。異なった「思い」の持ち主には「人それぞれですね」と言うだけで、それ以上の関わりを持つ必然がなくなってしまう。

かといって自身の意識や認識がしっかり階層化されて自我の感覚がある程度確立しているわけでもないからこそ「私の思い」にこだわるしかない以上は、「その『思い』を持っているのは私だけだ」という孤独に耐えることも出来まい。

言い換えるなら「人それぞれ」だからこそ、その「人それぞれの思い」のうち「同じ思いを持った多数派」になることでしか、こうした人たちは自分の居場所を担保出来なくなってしまうのだろう(それが究極、差別排外主義に陥るしかなくなるのもまた、言うまでもない)。

そして「同じ思いを持つ共同体」の維持の材料として、こうした人々はその思いを補完し正当化するように見える情報だけを共有する「事実」として認識する。その「事実」が、視点を変えればどのように見えるのかも、なにしろ「考える」プロセスがないのだから思いつきもしないし、「今はこう感じるがそれは現時点での私の感覚に過ぎない」とも思わないし、「あくまで自分が感じているだけなのだから、それを他者に伝えるには相応の手続きが必要だ」と考えもしないのだ。

なにやら抽象的なことを延々と書き連ねて申し訳ないのだが、実はこの曖昧なる「思い」の共有の心理メカニズムが、日本社会のあらゆる局面を実は支配しているように思えてならない。

いやこう言ってみたのは単なる「思い」ではない。そういう前提で世の中を見てみれば、あまりにいろんなことがぴったり当てはまってしまうではないか。

たとえば、社会全体に責任を負うはずの総理大臣が、最近やたらと客観性や他者性・社会性に欠いた「思い」という言葉を、連発してはいないだろうか?

野田前首相がそうであったし、現首相の安倍晋三氏に至っては、本当にもうその「思い」の表明しかない。

一方で、ではその安倍晋三を批判する側もまた、「思い」の共有だけで結束している場合があまりにも多い。

山梨で観測史上120年ぶりという豪雪が起こっているときに安倍氏が支持者と高級天ぷらを食していた、という話がやたら批判されるのなぞは典型だ。豪雪における地方と中央政府の役割や責任の分担や、その場合の首相の役割や責任をめぐる議論はすっぽかされ、どこで首相が無責任なのかが議論され、なにが批判されるべきなのかを詰めることもなく、ただ「安倍憎し」の「思い」だけで結束する。

論理的な思考や議論は介在しない。一方で、肝心の、豪雪で苦しむ山梨県の人々を慮る感性も麻痺している(原発事故発生直後に「フクシマ」が連呼されたのにも通じる)。

もっとも、それで批判される安倍氏自身が、他人を責められる立場にない。

なにしろ就任早々アルジェリアで日本人が反政府イスラム過激派に拉致監禁された事件への対応に、「思い」のアピールだけが目的で外遊を切り上げ、なにができるわけでもないのに東京に戻って緊急対策本部とやらを作っていたのが安倍氏だ。

むろん事件の解決はアルジェリア政府の管轄で、日本政府が出来るのはアルジェリア政府の提供する情報を被害者家族や関係者に速やかに伝え、場合によっては渡航を手配などすることだけだ。 
首相がわざわざ陣頭指揮する話ではない。「国民の命を守りたい」という「思い」の表現のつもりなのかも知れないが…。

いや安倍氏たちの最大の「思い」とはなによりも、日本を戦争が出来る国にしたい(「国を守る」などと言い換えているが、武力で国を守るとはつまり戦争である)、過去の戦争について日本が悪いと言われたくない、日本が一番の国でありたい、といういずれも極めて子供っぽい「思い」しかなく、その正当性を他者(国民、そして国際社会)に説明して伝える努力など、一切していないのがこの政権である。なのに理解されない、と毒づくのだ。

いやむしろ安倍氏たちがやっているのは「他者」、異なった考えや感じ方をする可能性を持った相手を「反日」と称して排除し(外国だけでなく、国内でも)、そうすることで自分と同じ「思い」を共有する共同体の結束に奉仕することだけだ。

そこにはまっとうな人間的な「感覚」もなければ、論理性を担保し多面的にものごとを検証する「考え」もない。

たとえば「慰安婦問題で韓国に責められたくない」という安倍氏らの「思い」に反し、今彼らが主要な論点にしている「慰安婦になるよう強制されたことがあったか否か」(いや、これ自体は本来ならそんなに主要な論点ではない)、つまり「強制性」にしても、まともな「感覚」と理性的な「考え」があれば、結論はとっくに出ている。

日本政府の調査で、慰安婦の徴集に軍の同行が義務づけられている命令書が出ているのだ。安倍氏たちの「思い」がいかにそこに書かれた「不正の防止」という文言に固執しようが、では具体的にどんな「不正」をどう「防止」したのかすら、彼らは「考え」ようともしないのだから困ってしまう。

これでは同じ「思い」を共有するどうしで慰め合う以外には、誰に対しても説得力を持たない。

ちなみにどんな不正かといえば、軍の委託した民間の業者に任せていただけでは、とにかく軍に注文された(というか軍に力づくで課せられた)ノルマを一生懸命に満たすために、「工場で働く、お国のためだ」などの噓で騙すことが横行し、問題になったのだ。

日本軍相手の性奉仕なんて喜んでやる若い娘が、そうたくさんいるわけもない––自分の「感覚」を大事にすると同時に、だからこそ他者の「感覚」も尊重しちゃんと想像出来るなら、こんなのは分かり切った話だ。金を積んだくらいで若い女性の貞操観念や恐怖感がそう克服できるわけもないなんて、ちょっと当たり前に人間的な「感覚」で想像力を働かせれば分かる(それが出来ない幼稚で身勝手で女性を大切に出来ない男なんて、よほど「非モテ」なんだろうね)。

で、そうした「不正」を防止するために軍の同行が義務づけられた…となれば、ちょっと論理的に考えれば防止された「不正」とはこうした「騙す」行為であり、騙さずとも慰安婦を確実に徴集できる手段が軍の同行であった、というだけの話ではないかと、まともな知性と論理性があればたいがいはすぐに推論出来るはずだ。

だが安倍氏たちの「思い」は、そういった論理的な可能性の検証を一切拒絶する。あるのは「ボクたちの思い」だけなのだ。

個人の良心的な感覚に集団の「思い」が優先され(「みんながそう『思って』いるのに反対するのは和を乱す」)、論理性と客観性が必須で含まれる「考えること」も無視されている。かくして、残るのはただなんの正当性もなく内輪でのみ絶対化された「ボクたちの思い」だけになる。

武装した軍が同行していれば、女性たちたちはそれこそ軍が怖くて、命が惜しくて断れない。だから「騙す」必要がなくなっただけのこと。ちゃんと論理的な思考さえ働かせれば、要するに実態は強制連行だったわけではないか、という論理展開は、本来なら誰でも、少なくとも検証の対象にはする。

「強制連行と直接書いてないじゃないか」といかに安倍氏たちの一方的で自己閉塞的な「思い」で言い張ったって、なんの説得力もない。なにせこれに補完し合う史料として実際に強制連行された元慰安婦の証言があり、しかも慰安所の警備(つまり逃亡防止)も軍の任務、慰安婦の移送も軍が行い、性病の検査も軍医の仕事だったとなれば、徴集の現場でだけは妙に日本兵がやさしく、悪徳業者から女性たちを守ったのだなどという整合性のかけらもない絵空事は、これはもう考えるまでもなく一瞬の直感だけでも「バカバカしい」で終わってしまう。

だが一方で、こうした個に根ざした「感覚」も、客観性論理性を持って「考えること」もないままに、ただ同じ「思い」を共有する集団に埋没する浅はかさは、安倍氏とその周辺以外にもあちこちある。たとえば福島第一原発事故をめぐる、被災地以外の世論のパニックと暴虐ぶりは、その典型だろう。

原子力発電所の事故は科学事象であり、しかも「見えない」以上は、データからの論理的な推論で判断する以外の対処は本来なら出来ないはずだ。だがデータに基づく論理的な推論を専門の科学者や技術者が行えば、「原子力ムラの隠蔽だ」と袋叩きに合った。

彼らの「思い」としては、原発事故はSFマンガで聞いた「メルトダウン」や「核爆発」のハルマゲドン的状況でなければ、満足できなかったのだろう。前者の「メルトダウン」に至っては、その論理的な定義付けも曖昧なまま

一方で、そうやって叩かれる側(政府や東電本店など)もまた事実関係に目を向けるよりも、「反原発なんてサヨクのマスコミが」という被害妄想めいた「思い」に耽溺するばかりだった。

データに基づく政府や東電や専門家の推論が気に入らないのなら、その元のデータの数値は東電が記者会見のたびに資料を出しているのだ。だが、そのデータをもとに客観的な論証で政府発表等とは多少異なった推論を発表した専門家も最初はもてはやされたが、なにしろ政治的な都合や配慮に左右されないからこそそんな一匹狼が出来る人たちだけに、論理的にしっかりとしたことしか言わず「分からないことは分からない」ともはっきり言うので、いつのまにか「しょせん元原子力ムラだ」という「思い」だけのレッテル貼りで、追放されたり袋叩きにされたりした。

そうした専門家の推論が、論理的にどれだけ整合性があるのかどうかの検証なんて、ほとんど誰も興味を持たなかった(実際に事故に巻き込まれた人たちは除く)。

一方で、避難を強要されることになった周辺住民や飯舘村に関しても、論理的にすぐ思いつくようなことすら無視されたし(20Km圏内の津波被災地には当然生き埋めになった生存者がいたはずだ、避難といっても寝たきりの高齢者などはリスクが高いはずだ、地震で道路が破壊されているのだから避難が順調に進むわけはない、受け入れ先もなく避難を命じられてもおいそれと動けない、等々)、ずっとそこで生活して来たその場を離れることの辛さや躊躇、故郷を失う痛みへの共感も、当たり前の「感覚」さえあればすぐに思いつくはずなのが、まるでなかった。

思い返すなら、原発事故直後のとくに東京の世論にあったのは、もしかしたら福一が東京電力の発電所だったこと、つまり自分たちこそがこの原発の最大の受益者だった責任と、なのに福一の存在すら知らなかった後ろめたさから逃れたいという身勝手な「思い」だけだったのかも知れないし、大地震と大津波と原発事故で、私たちの生活がそこに依存して来た文明と社会構造の限界が突きつけられたことへの不安から、ひたすら逃げたい「思い」だったのかも知れない。

こうした不安の裏返しとしての「思い」もまた、安倍晋三氏たちと実はそっくりの鏡像である。

安倍氏のような子供じみた自称「愛国」の「思い」の共有がなぜこうも増幅したのかと言えば、中国が経済規模で日本を抜いて世界第二位になり、日本だけでなく韓国製の電気製品や自動車もまた世界市場で歓迎されて独占が崩れ「中国と韓国に抜かれる」その不安がある一方で、バブル以降経済が安定しない不安と不満がこの国と社会を苛みながら、そのことについてなにか抜本的な対処をしようとする意志や勇気を、この国が過去20年以上まったく持って来ていない現実、その自信喪失と将来の不安ゆえ、に他ならない。

いやもっとぶっちゃけて言ってしまうなら、双方の共通する真の「思い」とは、将来、未来が見えない停滞した現在のなかで、ひたすら刹那的に「ボク悪くないもん」と言い続けたいことでしか、実はない。

そこにあるのは、批判されることは否定されることだから、だから耐えられないという「思い」だけだ。

恐ろしく浅はかなことではあり、そして実はもの凄く恐ろしいことでもある。

2/09/2014

『無人地帯』について宮台真司さんと語る



昨日8日の『無人地帯』の上映後、宮台真司さんを招きユーロスペースで対談があった。

その昨日の宮台真司さんの指摘で、恐らく今日的な文脈でいちばん重要だったのは、この映画は「誰が悪い」とも言っていないし、「誰が正しい」と主張する映画でもまったくない、ということだ。

人類の文明を超えた事態なのだし、原発事故は現代文明の構造それ自体の問題でもあるのだから。

こと原発の存在自体が日本社会の構造の一部であり、戦後日本社会が選択した構造から、ある意味必然的に産まれたものでもある。

「250Km離れた東京」が福島の電力の消費地であったことが「悪い」のではない。

しかし日本社会の構造のなかで、実はその東京が一方的に得をして来た、いちばんその恩恵を受けて来たという現実は消せない。

『無人地帯』のなかで飯舘村で炭焼きの話が出て来るが、近代以前から農村は副業で炭を焼いて都会の燃料を供給して来た訳で、その意味では電力のためのダムや原発もその歴史的な延長にあり、それがダムなどを故郷を田舎が諦めてでも受け入れた素地にもある、という宮台さんの指摘も鋭かった。

一カ所だけ僕の声で、「警戒区域」発令に関するナレーションが入ることについてわざわざ質問頂いたが、もちろんこの政府の決定には僕たち20Km圏内に映像を撮りに行った人間も無関係ではなく、「僕たちが悪い」というわけではないにせよ責任の一端はある。

もしかしたら僕たちも軽卒であったかもしれない可能性は逃れ得ないわけで、少なくともそれはちゃんと考えなければならない。

だからこの映画では決して作り手もまた「正義」の側に自らの立場を偽装しようとしていないことを明確にするために、この言葉だけは監督自身の声になっている、というのも宮台さんが予想した通りです。

その上で、監督自身の声も入ることで、アルシネ・カーンジャンの声によるナレーションとの位相の違い、差異化が出来る。このナレーションの機能について、今まで欧米の批評でほとんど論評が出ていないことに宮台さんも驚かれていたが、言われてみれば僕も驚いた。

『無人地帯』予告編

トークのあと、ロビーで話した、いわき市の四倉の出身の若いお客さんもそのことに驚いていて、「津波で流された自動車は見てもその背後の水田を見ていないとナレーションが指摘する、それに尽きるではないか、そのことを書けばいいのに」と言われたけれど、まさにその通りなのである。実は極めてシンプルな、誰にでも分かる役割を果たしているわけなのだが。



津波に流されたこの車は 
誰にでも見えるが

車の背後の荒れた水田が
見えるだろうか?

言われずに
分かるだろうか?

海水に浸かった水田は

塩分で何年も
耕作不能になるのだが

今では日本人にも
説明が必要だ

この1時間 私たちは
ただ映像を見て来た

映像が撮影され
記録されたことで

この光景の存在を
 認識できるのか?

“百聞は一見にしかず”

だが本当は何を見たのか?

地元の人ですら
この映像にとまどう

どこで撮られ 何があったか

すぐには判らない

(ナレーションの字幕翻訳より) 


「見えていること/見えないこと/見ていないこと」「規定可能なこと/規定不可能なこと」という認識の問題は、たとえばフランスの哲学や現代思想では重要なテーマなのに、フランスの批評家でもそこに注目して論じた人がまだいないのは、確かに宮台さんの言う通り、不思議なことでもある。

意地悪を言ってしまえば、映画を「見る」ことがプロである批評家に「いやあなた、見えていないでしょ」とナレーションがさらっと指摘してしまうのは、いささかプライドを傷つけることになるから、なのかも知れない。

実はその四倉出身のお客さんも、富岡駅の津波被害のシークエンスで、何ショットか四倉で撮ったショットが紛れ込んでいることには気づいていなかった。




津波による破壊、破壊の映像とはこのように、同定がとても難しいものなのだ。「見えなかった」ことが「悪い」とか「恥ずかしい」とかではなく、見えないことが実はそれが当然であり、それに気づくことこそが重要なのだと思う。



いずれにしても、この三重の破壊の状況を前にして「正しい」立場など人間にはあり得ない。

「中立」な立場も、宮台さんが指摘した通り、どこかにキャメラを置いた時点で、あり得ない。キャメラはフレームの中しか見せない、あるアングルから見たことしか見せないが、常にその視野の外にも、世界はひろがっているのだ。

それに福島第一の事故を前にして、「私は正しいのだ」といった立場を求めること自体、実はなんの意味もない。

ではこの状況を前にして意味がある価値とは、なになのか?

宮台さんは「美しいこと」と「誠実さ」だと指摘した。

それはまさに、『無人地帯』で僕たちが目指したことだった。映画として徹底して、津波による破壊の風景ですら、美しく見せること。

放射能と現代文明の無自覚な悪意に犯されて行く風景だからこそ、その美しさに気づかせること。

そしてこの映画に出て来る人たちの、誠実さである。


映画の登場人物は、フィクションでもドキュメンタリーでも、自分という存在について誠実でなければならない。そうでなければ、映画の提示する世界のなかで息をする「人物」にはなれない。


『無人地帯』を宮台さんは「SF的な美学の映画でもある」と指摘したが、それも正しい。とくにタルコフスキーのSF映画、『ストーカー』、『惑星ソラリス』『サクリファイス』、そして時代劇なのだが実は極めてSF的である『アンドレイ・ルブリョフ』。

アンドレイ・タルコフスキー監督『ストーカー』

SF、サイエンス・フィクションであって、決してファンタジーではない(『スター・ウォーズ』はたとえば、実はSFではない。スピルバーグの『A.I.』はアメリカ映画で最後の本格SF映画かも知れない)。

SFの世界のなかでは、登場人物はしっかり「人物」でなければならない。決してファンタジーのヒーローではない。しっかりと人間存在であるからこそ、それはSFの世界のなかでのヒーロー、ないし主人公になる。

アンドレイ・タルコフスキー監督『アンドレイ・ルブリョフ』

ちなみに例えば、メルヴィルの『白鯨』の映画化で、ジョン・ヒューストン監督はあえてSF小説家レイ・ブラッドベリに脚本を依頼している。

ジョン・ヒューストン監督『白鯨』


原発事故とは、誤解を恐れずにいえば、SF映画の設定が現実になってしまった状況だ。

『無人地帯』はその意味で、SF映画がドキュメンタリーになってしまった映画だ。

だからその現実となったSF的世界設定の変容のなかでこそ、確固として自分たち自身の存在に誠実であり、そのことに堂々した登場人物が必要になる。

『惑星ソラリス』

『無人地帯』の出演者はいわば行き当たりばったり、偶然に出会った人たちばかりだが、その人たちは映画が必要としているのに十二分過ぎるほど、そうした映画的な登場人物になったと思う。

まるで大女優のような貫禄を見せる人もいる。



キャメラの前の人たちは、その意味で、凄い人たち、まるでスターだ(普通の福島の庶民ではあっても)。

これはある意味、数年来映画化したいと思いつづけている村上春樹の『アンダーグラウンド』で春樹さんの取材を受けたサリン事件の “体験者” たちが、紛れもなくその人たち自身であり、一人一人が東京の一庶民である自分の存在に誠実でありながら、だからこそもっとも完璧な村上春樹的フィクションの主人公達ともなっていることにも、通じるのかも知れない。

サリン事件や大震災、原発事故といった “危機” がその人々をそこまで自らの存在に対して誠実にしたのか(ちょうど大スターがしばしば、鬼監督のしごきで最高の演技を見せるように)、我々が元から凄かった人たちにたまたま出会えたのかは分からないし、今さらそれを問うてもしょうがない。

『無人地帯』の終盤に登場する、飯舘村の比曾の十三仏が、聖なる岩だから仏が刻まれたのか、仏が刻まれたから聖なる岩として祀られているのか、今さらそれを問うても意味がないのと、同じことである。


「美」と「誠実さ」はそれ自体が価値であり、目的であり、超越である。

少なくとも映画という作品においてはそうであるべきであり、『無人地帯』という映画がドキュメンタリーとしてはいささか「面食らう」映画であるのも、まず映画として出来うる限りの作品であることを目指した映画だからかも知れない。

なにかを「悪」と名指しして「告発」したりすることは、この映画の役割ではない。「誰某が悪い」と言いたい目的もないし、映画を作っている我々が「正義」や「正しい」側にいるはずもない。

こと重要だったのは、記録映像としてのこの映画の意義・存在理由ないし賞味期間がなるべく短命であることが、僕たちの個人的な希望であり期待だったからでもある。

この原発事故の映画が「現状報告」としての意味を持つのは、短ければ短いほどよい。

言い替えれば、映画に出てもらった人たちをはじめ、浜通りや飯舘村の人たちが直面している困難な状況が少しでも早く変われば、好転してくれれば、この映画がそれを伝える役割を終えるのが早ければ、それは絶対に早い方がよかった(3.11からまもなく三年になるが、まったくそうはなっていない)。

その一方で映画は映画として、それなりに「使い捨て」で作るものでもない。ならば作品それ自体としての価値を高めるしかない。だからこそ「美」と「誠実さ」はこの映画において、映画それ自体が目指した映画的価値であり、目的であった。美と誠実さこそが人をもっとも感動させ、アートがその鑑賞者の人生を決定的に揺さぶる契機を産むものだからだ。

アートは決してただ「教養」ではない。今の日本の政治家のほとんどが芸術や文化、哲学を語れないのは、ただ「教養がない」からではない。 
政治商売の専門職ではあるかもしれない、永田町という内輪に属してはいるかも知れないが、人間として未完成で自分を突き詰めていない、そういう自己を高めたり変えたりする体験を求めてすらいないで、ただ上昇志向で「えらくなりたい」だけだからではないか?


だが考えてみれば、これも宮台真司さんが指摘したことなのだが、「美」と「誠実さ」こそが、日本の現代社会において、とくに日本の政治において、決定的に欠如しているものでもある。

美意識のない政治、誠実に正しさと信じれるものを希求するのでなく、どこかの「正義の側」に所属するための方便でしかない「正しさ」(の偽装)、そんな「正義」のいずれもが実のところ行き着く先は、社会構造のなかでなんらかの自分のアイデンティティを確保出来るかりそめの場を希求する、利害損得でしかない。

それは徹底して、人間世界の世俗の構造のなかに埋没し、その構造に完全に依拠した「正しいフリ」でしかなく、たとえば「反原発」「脱原発」という正義を装う者たち自身がしばしば、その実原発によって支えられて来た自分たちの豊かさの構造のなかにしか、存在しえない。

…と、ここまで書いたところで、都知事選のあおりを食って新聞の紹介がなかなか出ない今回の『無人地帯』の興行なのではあるが、都知事選のことを考える気がまったくなくなってしまった…。

だって美学も誠実もかけらもないネズミ男が、すでにほぼ当確なんですよ。ある意味で「美学」はそれでもまだあるかも知れない陣営は(脱原発は東京にとって、本来ならこれまでの自分たちの浪費して来た “豊かさ” を問い直す倫理的、かつ自己存在をめぐる美学的な選択だ)鳩山さんが首相だった時と同様、冷笑を気取るマスコミに揶揄されるだけだ。 
そして実はただの権威主義俗物たちとその盲信者カルトでしかない代々木が、上昇志向と俗物的プライドに執着する対立候補を熱烈支援している。赤旗新聞の売り上げと自分たちの「得票数」を自慢するためだけに。



「美」と「誠実」が意味も価値もまだ辛うじて持っていた世界は、日本にもあった(「日本はもはや農民の国ではなくなってしまった。ここを除いては、この人たちを除いては」映画のナレーションより)。そして今、それは、原発事故と言う現代文明の暴走を前に、その暴走が解き放った現代社会の無自覚な悪意を前に、消えようとしている。

だからこそその記録は、SF映画的でなければならなかった--タルコフスキーの映画のように。

『無人地帯』は14日までは12時35分〜 渋谷ユーロスペースで上映しています。

2/07/2014

映画とプラグマティズムについて〜『無人地帯』東京公開中



完成お披露目は2012年のベルリン映画祭だから、もう2年前の映画、撮影はそろそろ東北の震災から3周年なので3年前になる最新作『無地地帯』が、(やっと)劇場公開中だ。

映画館は渋谷のユーロスペース http://eurospace.co.jp/detail.html?no=535 
明日2月8日からは、12時35分からの上映です。 
明日の土曜には上映後、評論家・社会学者の宮台真司さんをお招きして、監督(僕)との対談もやります。 
※今後の地方での公開情報は、公式サイトをご覧ください http://mujin-mirai.com



この写真は、『無人地帯』のなかで、現場にいた我々が今見ても、もっとも辛いシーンのものである。

福一から10Kmほど南の常磐線の富岡駅、2011年の4月21日、ここを含めた20Km圏内に「警戒区域」が発令される前日のことだ。

常磐線が海に接近したこの場所は41日前、津波の直撃を受けていた。


実はこのとき撮れなかった、あまりにも壮絶な光景がある。映画の作り手のすけべ心として、今でも目に焼き付いたその光景が映像では残っていないことはちょっと悔しかったりもする。

駅のホームから一望した海側は、ほとんどすべてが流されてなにもなくなっていた。そこを一面、無数の、白い防護服姿の人たちが、さまよっていた。今でもはっきり憶えている、それは悲しさすら吹き飛ぶ、ゾっとする光景だった。

まるであまたの幽霊が、あまりに破壊が激しく全てが消えてしまった原子野をさまよっているかのように見えた。

“幽霊” に見えてしまったのは、福島県警の捜索の警察官のみなさんである。

地震国日本の常識で、瓦礫の下の人の生存限界はだいたい72時間と言われている。本来なら出来れば当日か、翌日には真っ先に捜索に行くべきだったはずだ。いや「べきだ」以前に、この福島県警の皆さんはそんなこと百も承知で、真っ先に救援に来たかったはずだ。

だがそれが実現したのは、ここが津波で破壊されて1ヶ月以上経ってからだ。

40日前ならば、助けに来られたかも知れないはずが、遺体を探さなければならない。なんと虚しく、辛い、それでも必死でやり遂げなければならない作業だったことだろう。

白い防護服だから幽霊に見えたのではあるまい。魂の抜け殻のように、身体の力が抜けてしまった、鬱病患者のような身体になってしまっていたのだろう。

映画で使っているのは、駅のホームから我々に声をかけられた時の映像だ。「どちらの方ですか」と問われ、映画を撮影していることを伝えた。メガホンを持った隊長さんに「どうか撮らないで欲しい」と、命令でも禁止でもなく、頼まれた。

「ここの人たちの家族が、私たちのこの姿を見たら、どう思うと思いますか?どうかこんな姿は撮らないで下さい」

線路を挟んだ向こう側のホームだったが、その目の涙が、僕には確かに見えた。

もちろん、これも映画では撮れていない。キャメラの加藤孝信が僕のそばにいても、やはり撮れなかっただろう。


“震災もの” のドキュメンタリーでは、やたらと作家の倫理的な姿勢が語られて来た。僕は正直にいうとそんな話は苦手だ。僕たちの倫理的な規範は僕たちの内輪のものであり、それをただ満たしたところで、ただの自己満足にしかなるまい。

僕たちの仕事はあくまで、映画を作ることだ。道徳の先生を気取ることではない。そしてこと記録、ドキュメンタリー映画は、必然的に他人様の命を自分たちの作品の命のために搾取する、吸血行為の側面を持つ。

それをあたかも、自分たちが倫理を守るために苦労したかのように語るのは厚かましく、だいたいお客さんには関係のない話だ。そんなことで皆さんの同情を買いたくもないし、批評家にそういうことで褒められるのは、もっと嫌だ。

それに『無人地帯』は、そんなところが褒めるポイントである映画ではない。


だがそれでも、このシーンの「倫理」については語らねばなるまい。

僕たちははっきりと、キャメラの前の人に「撮らないで欲しい」と言われた。その映像は本来で使うべきではないのが基本ルールだし、「撮らないで欲しい」と言った隊長さんの気持ちは痛いほどよく分かる。離れた距離でも、その目の涙は今でも目の底に焼き付いて消えない。

でもだからこそ、「撮らないで下さい」の声をやはり聴いたはずの加藤孝信はキャメラを止めなかったし、編集のイザベル・インゴルドも「絶対に使うべきシーン」と言ったし、僕自身が使うことに最初からまったく迷いはなかった。

なぜか?

このお巡りさんたちには本当に申し訳ない。いずれこの映画を見る機会があって「自分たちだ」と分かったら、ぜひ声をかけて下さい。皆さんの辛さを自分の映画のために使ったことは、お詫びしなければなりません。

しかしこの映像がなかったら、この人たちが体験した辛い体験も、20Km圏内の津波被害地域で多くの人が結果として見殺しになったことも、その意味も、すべてがなかったことになってしまう。

『無人地帯』予告編
用いている証言は、浪江町・請戸でやはり救援が行けなかった事情について

現に死者数の統計データが実はあってもあまり注目もされていないか、下手すれば興味本位のグロテスクな逸話として語られてしまいさえする。

だが映像があり、その記録が映画として残れば、そこに確かにあってキャメラが見たこの悲しい現実が、データの、「何人が死んだ」という数字とは別の、明らかに強い意味を持って、少なくとも見た人の記憶には残る。

恐らくは、僕が確かに見た(人の気持ちなんて目に見えるものではないが、それでもこの時には確かに「見た」)この人たちの辛さ、そしてここで多くの人が見殺しになった悲劇の重みは、少しは伝わるはずだ。

それを伝えなければ、この原発事故の映画を撮ったことにはならない。

これは、最初から考えていた重要なテーマでもあった。

福一20Km圏内からの強制的な避難が発令されたとき、僕がまず思ったのは「生存者はどうなるのだろう?」だった。なかなか避難が進まず「早く逃げろ」とかインターネットで叫ぶ人が多い中、僕が考えていたのは「8万前後の人が慌てて家を離れれば大渋滞になるし、道路で道もガタガタなはずなのに、この人たちはなにを言っているのか?」ということだ。

福一が東京から250Km離れている、トウキョウから遠く離れたフクシマのことだから想像が及ばない、とは言わせない。ちょっと考えれば分かるはずのことだ。だがこの原発事故の最初から、トウキョウの人たちは「フクシマから遠く離れて」とか「フタバから遠く離れて」を気取ったまま、その人たちを人としてみようとすらしなかった。

その点では、官庁も、政治家も、東電も、メディアも、そしてネット上の一般市民も、同じことだ。事故は福島で起こっているのに、僕たちの圧倒的多数は東京の、自分の周囲のことしか認識すら出来ず、「フクシマ」という記号はテレビの映像か新聞やネットの文字列でしかない「他人事」になった。

このズレの認識は最初から僕らにあったし、最初からそのズレを意識して映画の基本構造に組み込んで撮り始めた映画が、『無人地帯』だと言ってもいい。

福島浜通りは、僕たちにとって実際の縁はない場所だった(送電線でつながっていたこと、電気を使っていたことを除けば)。

一度、2004年に原子炉の耐用年数延長が突然決まったとき、ここで映画を撮れないかと思ったことはあった。 
当時、そのポートレイト映画を作っている最中だった土本典昭にも何度か相談したが、土本さんともいろいろ議論した結論は、結局は何を撮れば映画になるのか分からない。それで終わってしまった。

だから僕たちは、20Km圏内が避難地域になってからの双葉郡しか実は知らない。

それでも僕たちは、出来る限りここでずっと暮して来た人たちのまなざしを想像しながらこの地域を旅し、その美しい春を記録しようとだけは決意していた。


これもちょっとしたズレはあるかも知れない。地元の人にとっては毎年見ている春だろうが、こんな美しい日本の春、絵に描いたような風景は僕たちは見たことがない。「まるで黒沢明の『夢』の “狐の嫁入り” みたいだね」と、大熊町の山側から20Km圏内に入った時に、僕は冗談半分で言ってすらいた。



この美しい春の来るふるさとを失ってしまうことは、生活の基盤のすべてを失う現実的な問題としてのショックだけではあるまい。価値観と、アイデンティティすべての喪失にだってなり得る。そんな拠り所にふさわしいほど、浜通りの春は美しい。それはこの春を見せれば、わかること、伝わることだと思う。


だから『無人地帯』は最初から、どんなに悲惨な破壊の風景でも、“美しく” なければならない映画だと、撮影初日から決まっていた。

「美」は単に「きれい」とは違う。「美」は超越的な感覚だ。 
それは文字通り、人と人との垣根、人と世界との垣根を超え得る。 
そして悲劇の現場でもあるからこそ、春の美にウキウキする感情もまた、殺してはならない。

現代の僕たちは、当事者のことは当事者にしか分からない、ということをあまりに気にし過ぎている。

なるほど、確かにたとえば激しい差別を受けて来た在日であるとかいわゆる同和の人たちの気持ちを安易に語ったり、「弱者」相手を気取って同情や憐れみや理解を押し付けるのは傲慢だ。身障者の実際の不便は、やはりリアルな細部では僕たちが気づかないことだらけであり、そうした自分たちの認識の限界については無論、分かったフリなどせずに謙虚にはなるべきだ。

道徳律のお説教の問題ではない。分からないということも分からなければ、会話すら成立しないというプラグマティズムの問題だ。

ところが逆に、そこでどうしても理解が及ばない部分もあることを、現代の僕たちはむしろ自分の怠惰や自分たちの身勝手の言い訳にしてしまっている。

そうやって「分からないんだし」と最初から思ってしまうことそれ自体が、断絶を引き起こし、想像力の欠如は不毛な対立どころか戦争にだって結びつきかねない。

くどいようだが、僕は道徳律として「寛容」とか「理解」を説きたいのではない。『無人地帯』はまるで “道徳的” な映画ではなく、映像の倫理を説く映画でもない。むしろプラグマティズムの映画であり、倫理があるとしたらそれはサミュエル・フラー的なプラグマティズムの倫理だ。

僕たちの、この惑星の上での生存の必然のために、完全には分からないまでも、理解出来るところまでは理解する努力をすべきなのだ。

そして、違いはあまりにも多様であるとはいえ、僕たちは同じ人間でもある。ちょっと考えるだけで分かることはいくらでもあるはず、簡単な知識だけでも、もっと分かるはずなのだ。

撮影中はまったく考えなかった影響が、『無人地帯』には散りばめられているが、昨年5月にロサンゼルスで上映した時に初めて気がついたのが、サミュエル・フラー監督の影響だった。ロサンゼルス郊外の大学での上映に、サムの奥さんのクリスタが駆けつけてくれて、サムの映画をちょっと引用しながら、質疑応答やその後の会話で、この映画の意義を雄弁に語ってくれたのだ。


そう言われて気づいたのは、スタイル的にはほとんど影響がないと言っていいサミュエル・フラーの映画と、なぜか学生のころにサムにずいぶん話を聴かせてもらった体験の、自分にとっての意味の大きさだった。

『ホワイト・ドッグ』撮影中のサミュエル・フラー
サミュエル・フラーの映画の撮り方や構造それ自体は、乱暴なまでにシンプルであることはよく知られている。必ずしも僕の映画の美的だったり、形式への意識を重んずるスタイルとは、似通ったものではない。

 サミュエル・フラー監督『夜の泥棒たち』

だが乱暴なまでにシンプルだからこそ、サムの作り出した映画は複雑だ。

『裸のキッス』

犯罪映画では犯罪者に堂々と自分たちの論理すら語らせるフラーは(たとえば『拾った女』では、リチャード・ウィドマーク演ずるスリがFBIの「愛国」をせせら笑う)、人種差別の問題にも常に果敢に挑んだが、そんな時の彼は大胆にも「差別される側」に映画の視点をあえて置いた。ユダヤ人とはいえ自分は白人の側なのに、差別される側の自己差別コンプレックスの問題ですら『クリムゾン・キモノ』や『ショック集団』で痛烈に描いている。

サミュエル・フラー監督『ショック集団』

巨匠をサムと愛称で呼ぶことに厚かましさを読まないで欲しい。もちろんもの凄く偉い人だし、僕が会った時には下手すりゃ孫の年齢だ(実際には、娘さんのサマンサと僕はほとんど歳が変わらないけれど)。でも「ミスター・フラー」とは呼ばしてくれない雰囲気なのである。

サミュエル・フラーは驚くほどに、人間をまったく分け隔てしない人だった。いや「good guy」と「son of a bitch」の区分けだけは、はっきりしていたかも知れないが。

『ホワイト・ドッグ』
調教師(ポール・ウンィンフィールド)は、人種差別主義者によって黒人を襲うよう調教された白いシェパードを、再調教しようとする。
だから自分とは異なる、差別される「他者」でも、たとえば『ホワイト・ドック』では導入はクリスティ・マクニコル演ずる白人の若い女優の視点の物語が、黒人の調教師ポール・ウィンフィールドの視点に横滑りする(この人物は、サムの映画のなかでもっとも直球にヒロイックな人物だ)。

『ホワイト・ドッグ』

そのサミュエル・フラーの影響というか教訓が、自分の無意識に刻印されて、それが『無人地帯』という映画にも反映されていてよかったと思う。これは“道徳的”な問題ではない。サミュエル・フラーの映画作りのあらゆる局面と同様に、プラグマティックな生存のための必然なのだ。

人間は、ある程度までなら必ず理解し合える。

もし理解し合えないのなら、最低限の想像力すら相手について働かさないほどに我々が怠惰であるのなら、我々がこの狭くなった惑星の上に生き延びることは、現実の問題として限りなく不可能になる。

「好きになる」ことではない。たとえば「やさしくする」ような話ではない。「敵味方」の問題でも、もちろんない。

具体的に理解し想像する必然のプラグマティズムであって、場合によっては戦争をする、戦う敵だからこそ、その行動を理解し動きを予想しなければ、勝つことはできないというのも、実際に第二次大戦の激戦を生き抜いたサムの教えてくれたことだ。

「映画を撮る時の準備は、戦争の準備と同じだ。あらゆるリスクの可能性に対応出来なければいけない」

『最前線物語』

もっとも、現実は常に想定を凌駕するのも、東日本大震災の教訓であって、それは天変地異だけではない。『無人地帯』はこの劇場公開の前に、まだ完全には完成しない段階で、実は2011年の秋に東京で一回だけ公開上映している。この際に起こったことは確かに、想定すべきはずがまるで想定していなかった「リスク」だった。

ゴダール『気狂いピエロ』にゲスト出演したサミュエル・フラー

東京フィルメックス映画祭でコンペ部門で上映したい、と言われ、早く現状を伝えることは重要だと思い、喜んでプログラム・ディレクター市山尚三氏の好意を受けたのだ。

結果からすれば、これは僕と、それにもしかしたら市山さんの「想定外」、言い換えればその限界を突きつけた出来事になった。僕はともかく、市山さんはとても誠実で善良でやさしい人だ。まさかこの映画を見て、彼も信頼する自分の映画祭の観客のだいたい半分が、剥き出しの敵意すらこのシンプルな映画に向けるとは、二人とも思ってもいなかった。

いや実は僕は上映中には気づいていた。そばにその後まもなく亡くなったドナルド・リチイさんがいて、この映画であちこちに写る寺社仏閣や道祖神や地蔵や石仏などなど、それにお墓にちゃんと反応なさるのを見て、リチイさんには分かってもらえたと思うのと同時に、客席の半分ぐらいの雰囲気が、どんどん彼ら自身にとっていたたまれない、ナーバスなものになって行くのも、肌で感じていた。

この辺りが僕が市山さんほどに良心的な人間ではない部分なのだが、こうなると半ばおもしろがっていたりもする。 
なるほど、確かに相当に厳しい部分があることは、自分でも分かっている。その意味では「東京の観客を試す」ことにはなる映画ではあり、ある意味でその当然の結果になったわけだから。

河北新報でインタビューをしてくれた齋藤敦子さんには「この無視の仕方は、日本の映画マスコミがここまで駄目だとは思わなかった」と、まるで僕の代わりに怒って頂いて恐縮してしまった。日本経済新聞はこの映画祭のまとめを、朝刊最終面の文化欄で大きく掲載したが、3.11と福島原発事故を扱った日本映画が出品され、一応は審査員スペシャル・メンションを受けていることにまったく触れなかったのだから、さすがに恐れ入る。

いくらなんでも「大手メディア(それも日経)は原子力推進派」だからではあるまい。

ある意味、想定の範囲内ではあった。東京のメディアがいかに被災地の不信感を買っていたかは、それが現実であり、またこの映画の基本構造として最初から認識している「そこ」と「ここ」のズレの典型である以上、避けては通れない。それが新聞社やテレビ局の人には、言われたくない批判に見えた、聴こえた、僕を「反マスコミ」の敵だとくらいに思われたのかも知れない。

慰安婦問題で日本人の一部が韓国を「反日だ」と思い込むのと同様の、どうしようもなく自己中心的な認識の歪みではあるが、大手新聞社のいわばエリートって、案外とそこまで弱々しく、こう言っては悪いが妙に子供っぽいものなのだろうか?
それにしても市山さんには、申し訳ないことをしてしまった。 
市山さんのような善良で誠実な人には、「人の悪意」というものに対して、ほとんど想像がつかない面がある(それはこの映画の撮影の加藤も、関係者も全員共通する)。なにせそういう悪意が自分たちにまずない感情なのだから、「自分だったらこう」という想定を、働かせようがないのだ。

結果論からすると、やらない方がよかった上映だった気がする。

ただ強いて言えば利点は、この段階で、いささか窮屈な、僕の映画にしてはゆとりやユーモアの部分が足りないのと、無人の20km圏内はもっと徹底して無人であるべきこと、音がドキュメンタリーでは普通のステレオ音声がこの映画のためにはふさわしくないことが分かった。

そこで5.1チャンネルのサラウンドで音を作り直し、より感覚的な部分を重視し、いくつかのシーンを「息抜き」で付けたし、やっと映画としてのフォルムに到達したと思えるのが、ベルリンで初上映した完全版だ。

ある意味で「別の映画」にもなっているかも知れない。

ユーロスペースでの公開は、このサラウンド音声も含めて完全なバージョンの上映になる。 
批評家であるだけでなく字幕翻訳でも日本の第一人者の一人である齋藤さんに指導してもらってナレーション部分の日本語字幕も全面的に作り直した。

とはいえそれでも、『無人地帯』が東京の人の一部には「耳が痛い」「ムカつく」映画になるのは、変わらないかも知れない。


東京の政府は
救援を許可しなかった
 
警察や自衛官が
重度に被曝した場合
 
自分達に責任が及ぶことを
政治家たちが怖れたのだ
 
また何もなかったとしても 
原発事故の不安と興奮に
浸りきった世論は
 
やはり政府を攻撃しただろう  
(ナレーションの字幕翻訳より)


なぜなら、震災当初から僕たちが気づき映画の基本構造にしたズレ、福島浜通りの人が実は最初から気付いていたこちらの側の無自覚な “悪意” というか、悪意ですらなく単に「福島が見えていない」ことの非人間性はまったく変わっていないどころか、もはやあの時あれだけ騒いだ「フクシマ」すら、もう忘れようとしている。

都知事選の争点は、細川護煕さんと小泉純一郎さんタッグの出現で「脱原発」になったはずだった。だがそこでも「福島」も「フクシマ」もなかなか語られず、小泉さんがいくら街頭演説で口にしても、それは報道に結びつかない。

福島浜通りは、皆は「250Km【も】離れて」というがそれは違う。

本来なら「【たった】250Kmしか離れていない」と考えるべきなのだ。

こと今の段階で、東京の僕たちがまずその努力をしなければ、あえて言うならこの国が国と民族として生存すること自体が、どんどん困難になる。

サミュエル・フラーが第二次大戦中から持っていたベル・ハウエルの16mmカメラ

クリスタ・フラーが公開に合せて「この映画は重要なステートメントだ。単に日本にとってでなく、この惑星の上での私たち皆の生存のために」というコメントを寄せてくれた。

彼女の夫サミュエル・フラーの映画のほとんどに、僕の映画以上に当てはまることだとも思う。


そして、映画というのは、「他者に興味を持ち、理解できる範囲では他者を最大限に理解する」ためのとても役に立つ道具でもある。映画のキャメラは原理的に、なによりもまず「他者」に向けられるものであって、映画は決して直接的に「自己表現」の手段ではない。


農耕の神の御社が
農村を見守っている
 
普通なら
牧歌的な農村風景だ
 
だが この農村は
まもなく消えていく
 
ここ以外の日本が
存在を許さないのだ
 
ここは無人地帯の南端で 
放射能は 北西に広がったはずだ
だが例外は許されない 
個々の村落など
些細なことなのだ
 
この農村もまた些細なこと 
些細なこと… 
それが生活すべてを
左右するのに


私たちはそれぞれに異なっている。だからこそ映画が存在する意味もあるし、映画を作ることも出来るのだ。

東京の文化と福島浜通りの生活文化は確かに違う。飯舘村の農村文化は、海に面した浜通りともまた少し違う。それでも僕たちは、分かる範囲では分かり合えるはずだ。映画はその役に立つはずだ。

原子力のことはもちろん重大な問題だ。

なによりもこれは「見えない」そして「分からない」不安と恐怖の問題である。


役場から長泥に向かう峠では 
晴天なら40Km先の
福島第一原発が見える
 
だが見てどうする? 
原子炉の中のことは
データでしか分からない
 
この事故では
データは極度に断片的だ
 
停電で ほとんどの計器が
止まったからだ
 
放射性物質も目に見えない 
その見えない微粒子が
偶然 風に運ばれて
 
雨と共に この風景と
人々に降り注いだ
 
それでも見たいのは
ただの悪趣味か
 
あるいは このすべてに
意味を求めるせいか
 
見えない破壊の不安から
何か見たいだけなのか
 
他には何も見えないのだ


でも「見えない」、そして「分からない」からこそ、そこに向き合う僕たち人間どうしでまず分かり合う努力をしなければならない。

いや僕たち東京がまず、これまで40年間 “ここ” の電気を作るために原発と共に生活して来た人たちを、分かる努力をしたっていいはずだ。


福島浜通りには 原発が1つでなく 2つ
火力発電所も4つある 
いずれも地元のための
電力でなく
 
250Km先の東京のためだ 
これは福島第二の4基の
原子炉の1つの煙突だが
 
西洋なら巨大な力を表す
大きな建物にしただろう
 
日本の原発は見えない 
東京の皇居と同じだ 
森に囲まれ
外からは見えない
 
“見えないもの”…


実は “そっち” の方では、我々のことはすでに我々自身以上に理解していることも含め。

僕たち東京の側の無自覚な悪意や薄情さ、軽薄さも、実は “その人たち” はちゃんと見ている。その目を僕たちは恐れてはならない。

恐れて逃げたって、なにも始まらないのだから、そんなのはプラグマティックじゃない。



なによりも、東京の世論が放射能パニックで浮き足立った結果、救出されずに亡くなった、20Km圏内の津波被災地の死者たちが、自分たちの犠牲から僕たちがなにかを学ぶことを、静かに見ているのかも知れない。