最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

9/03/2014

現代日本社会の差別の構造


先頃、国連の人種差別撤廃委員会が日本に勧告を出したのだが、日本メディアの対応・報道は、ほとんど詐欺まがいに見える。

たとえば、これがその件で毎日新聞の出した社説だ。

http://mainichi.jp/shimen/news/20140902ddm005070033000c.html

最近「藤原くんは使う言葉が厳し過ぎるからかえって伝わらない。同じことでももっと気を遣って言えばいいこと言ってるのに」と親身になってくれる知人に忠告されたので、一生懸命気を遣ってみた。「ほとんど」と「まがい」でぼやかしてみたが、こんな文章は事実関係だけで論評すれば「詐欺まがい」ではなく「詐欺そのもの」であり「欺瞞」だ。 
それも毎日だけの問題ではなく、日本中のメディアどころかネット上の個々人の無視出来ないパーセンテージまで、この欺瞞を共有しているか、無自覚だとしてもわざと騙されている。

どこから指摘を始めたらいいのか困ってしまうレベルの、何重にもの歪曲に満ちているのだが、まず語彙の定義のおかしさから始めてみよう。

「「殺すぞ」「出て行け」といった乱暴な言葉をまじえた主張を集団で公道などで繰り返す行為は」

と言うのはただの犯罪性の高い暴言であって、ヘイトスピーチとわざわざ言う必要がない。

このブログでは再三指摘して来たことだが、「ヘイトスピーチ」とは虚偽や歪曲によって差別偏見に基づく憎悪を煽動する発言のことで、具体的にはたとえばネット上やメディア、国会で歴史修正主義を言いふらすことであり、こと欧米のいわゆるヘイトスピーチ規制の諸法はまず第一に、明確にネオナチと歴史修正主義を対象にしていて、たとえばカナダやドイツではホロコーストを否定する言説自体が懲役刑の対象である。

「朝鮮学校を運営する学校法人が起こした訴訟で(中略)学校周辺の街宣禁止をヘイトスピーチを行う団体に命じた」

と加害行為の具体的な中身は曖昧にしている上に、その主体・主語もうやむやな文体を選び、そもそもその団体名をなぜか明記していない。

街宣が禁じられた、とだけしか書かないのはなぜか?

なぜ「在日特権を許さない市民の会(略して「在特会」)が、朝鮮学校に対する差別的で暴力的な脅迫をスピーカーでがなり立てたことが違法とみなされた」と、はっきり言わないないのだろう?

少なくともこの「在特会」なる団体に関しては、

「ヘイトスピーチを直接罰する法制は日本にない。このため、法規制の必要性が今焦点になっている。差別的な言論をどうすれば社会から締め出せるか。冷静な議論が必要だ」

と毎日が言っていること自体がとんだ偽善だし(違法とみなし賠償を命ずる判決すら出ているのに「法制がない」?)、国連人種差別撤廃委員会も人権理事会も、「差別的な言論」を「社会から締め出す」類いの規制法の必要性なぞ、まったく勧告していない。

そもそも

「「殺すぞ」「出て行け」といった乱暴な言葉をまじえた主張」

と言うのなら、それは主張ではなく脅迫であり営業妨害だ。

現行刑法では脅迫行為の訴追起訴に関して、個人が特定される被害者が必要だと言う解釈もあろうが、ならば解釈運用レベルでなんとでもなる話だし、立件訴追で有罪判決とまでならないかも知れないからといって、違法性が高いこのような行為に「デモ」として道路使用許可が出ること自体が警察の怠慢であり、人権理事会もそこを問題視している(のは今年が初めてですらなく、以前の勧告でも再三指摘されて来たことだ)。

人種差別撤廃委員会の勧告は、もし必要があるなら刑法の条文を修正して「個人」ではなく「少数民族」などの他者・マイノリティ集団が被害者でも有罪になるよう明記すべきだ、という意味あいの勧告にまで踏み込んでいるわけだが、これも「ヘイトスピーチを法規制しろ」という話とは次元が違う。

「対象とされた人たちは恐怖も感じる」

という言い方も呆れた偽善だ。ならば「恐怖」を感じなければいいのか?そんな感情論で「弱者」と認定するまでもなく、営業妨害であり、どう考えてもただの迷惑行為だろう?

仕事と商売の邪魔、朝鮮学校だったら子どもの勉強の邪魔の社会の迷惑でしかない。そんなものにデモ許可が出ていること自体がおかしく、警察や行政当局の恣意的な判断や悪意が疑われて当然のことだ。

挙げ句に

「政治家は、個人の尊厳を脅かす差別にこそ真剣に向き合うべき」

という無茶苦茶な差別の新定義まで登場してしまっているが、差別の問題であれば「個人の」ではない。

なぜ「他者の」、人種民族差別であれば「他民族の」とはっきり書かないのか?

そして「尊厳」という重い言葉がいつのまにか「傷ついた」にスリ替えられるのも現代日本の欺瞞的な偽善の常であり、「恐怖も感じる」と同様、被差別の立場にある「マイノリティ」を「弱者」と恣意的に誤訳して、強弱の関係性において下位にみなす、そのこと自体が差別意識でしかない。

その上

「両国との関係が冷え込んでいることもヘイトスピーチの背景にあるのではないか」

とまで言い出すのだから呆れる。

話はまったく逆で、自国の歴史責任をきちんとして欲しいと言われているだけなのに、虚偽や歪曲によって差別的憎悪を煽動するヘイトスピーチが国内で繰り返されていることが外交関係を破綻させている。日本側が差別意識に満ちた欺瞞で過去の歴史責任を曖昧に済まそうとするあまり、被害の相手国に対して侮辱的な発言まで繰り返していることが、両国との関係を悪化させているのだ。

それに対し中国も韓国も、政府当局は極力冷静な対応に徹して来ている。

韓国政府が今問題にしているのは従軍慰安婦問題だけで、それさえ誠実に解決されれば外交問題は解消するはずだ、とまでパク・クネ大統領が光復節(独立記念日、日本にとっては終戦記念日であり、つまり同じ日付けが認識の主体によって異なった意味を持つ)の演説で述べている。

韓国は侵略や植民地支配による国家・民族の総体の被害は今更問わず、あくまで個人の人権が差別的に侵害されたことへの真摯な反省を日本政府に求め、うやむやにしようとする言説に抗議しているのだ。 
決して自国の外交的利益を狙っているのではないことになる。あくまで問題は個々の被害者の奪われた人権であり、尊厳だ。 
もちろん、そうやって自己の正当性をきちんと担保した方が、実は外交的に圧倒的に有利なわけで、そんなことにも気づかない日本側があまりに子どもなのだ。

それを「中韓は反日だ」とか、韓国を「告げ口外交(って、米国等諸外国や国連を「先生」にでも見立てた小学生の発想にはついて行けない)」とか、慰安婦問題を「韓国のでっち上げ」で「朝日新聞が在日に支配された反日で」などと言うことこそが、典型的な「ヘイトスピーチ」である。

いやその「在日特権を許さない市民の会」にデモなどで対抗する「カウンター」側がネット上で「ヘイトスピーチの定義」で、その在特会メンバーと目される匿名アカウントと言い争っていることに至ってはお笑い草だ。 
「『殺せ』はヘイトだ」とか言い出す以前に、「在日特権」なるありもしない言い草で、不公平感を煽り差別的憎悪を煽動することは、定義通りのヘイトスピーチである。

そもそも、今年の人権理事会勧告でも、人種差別撤廃委員会でも、日本についてもっとも問題にされたのは慰安婦問題に対する日本政府の不誠実な対応であり、強制で軍相手の性行為を強要されていた以上は(そして日本政府の公式見解である「河野談話」は、その事実を認めている)「性奴隷」だとはっきり認めろ、とかなり強い調子で迫っている。

厳しく批判されたのは現在の日本政府や高官が差別をおおっぴらに公言すらしてしまっていること、そして日本の様々な法制度が未だに差別的であり是正される気配すらないこと、刑法などが差別犯罪にきちんと対応していないことであり、つまり政府の責任であり政府の問題である。

それをたとえばこの毎日の社説は、国民相手の「ヘイトスピーチ規制」に話をスリ替えている。

これを欺瞞、詐欺と言わずしてなんと言うのだろう?

だいたい当たり前の大前提として、国連の諸委員会が勧告を下すのは国民に対してでなく国家に対してだ。毎日新聞の優秀な解説委員の皆さんは、国連という組織の機能と役割すら知らないのだろうか?

人権理事会でも人種差別撤廃委員会でも、日本政府があまりに怠慢で人種差別を放置しているだけでなく、自らも差別的であることが問題だ、と言われているのだ。

それを「ヘイトスピーチを許すな」と一部国民の問題にスリ替え、「在特会」をスケープゴートにして、実はその「在特会」と深いつながりがある‪安倍晋三‬などの自民右派、検察当局、警察公安部を免罪し、日本政府の責任をうやむやにしようと言うのだろうか?

実際の勧告では(国家政府対象である以上、当たり前のことで)そんな「在特会」などの特定団体を名指ししているわけもないし、「在特会」が国際問題になっているわけでもない。たとえば韓国が外相会談で彼らの「デモ」の件を持ち出したのは、諸外国や国連諸機関が当然ながら、「在特会」のような団体と安倍晋三が密接に関わっていて、行政当局の一部が協力関係にあることすら知っているからだ。その種の団体が安倍の街頭演説に日の丸を持って参集することは、日本のメディアでは慎重に排除されているが、BBCでもCNNでもきっちり放映されている。

「『表現の自由』という国民の基本的人権を持ち出して擁護することはできない」

などと毎日が書いているのもこれまた酷過ぎる欺瞞で、両方の勧告とも検閲に相当しかねない「ヘイトスピーチ規制」なぞ要求していない。むしろそうなる可能性を慎重に排除した上で、実害のある脅迫や営業妨害を取り締まれないように刑法が恣意的に解釈されていること、ないし取り締まる意志を見せないどころか「デモ」と認めて道路使用許可を出している行政当局を批判しているのだ。

戦後の「一億総懺悔」が欺瞞に終わったのに近い状況が日本の世論に産まれているのではないか? 国連人権理事会にも差別撤廃委員会にも、日本国家とその法制度、及び政府が人種差別をやっているから是正すべき、と勧告を受けたのであって「在特会」を処罰しました褒めて下さい、では通用するはずもない。

ところが現代の日本人は、常に自分自身もそこに属する民族の総体としての国家の責任、主権者たる国民の付託を受けその責任を果たす第一義的な責務を追う行政や立法、司法機関のこととなると、常に問題を曖昧にし、責任の主体をぼやかし、たとえば「在特会」のような一部を責めれば、それで「反差別、正義」の側に立てたかのような錯覚を共有し、本質的な問題にはまるで切り込まない。


客観的には、結局自分のその一端を担うことになる責任から逃げているだけだ。 
逃げながら、この場合なら「在特会」をスケープゴートにして貶めることで、自分たちの「正義」だか批判されない安全圏を守っている気になっている。

先頃、札幌市の市議会議員が「アイヌ利権」なるこれまた典型的なヘイトスピーチを発言して物議をかもしたが、なぜか問題にされているのはその市議が「アイヌ民族はもういない」と、百科事典や過去の自身もアイヌであるアイヌ文化研究者の発言を引用して主張したことだけだ。

肝心の「利権」なる不公平感の捏造と差別煽動が、なぜ無視されるのだ?

開拓博物館の展示が、元々アイヌの土地であった北海道に日本人が入植したことが「侵略」である、と分かるように変更されたのは、別にアイヌへの配慮でも「利権」でもない。学術的な正当性の問題だ。 
アイヌが「いない」つまり日本に同化されたと言うのなら、アイヌの過去の文化は現代の日本文化を構成する歴史的要素とみなされるはずであり、だったらその無形文化を形式だけでも保護(踊りや祭りなど)するために補助金などを出すことは、当然の文化政策だ。 
在日コリアンやアイヌの子孫、いわゆる被差別部落出身者の生活保護の受給率が高いとしても、それは就職差別などがある結果でしかなく、収入によって決まっていることに過ぎない。
「利権」っていったいなんなんだ?

実際には公平な施策の一部に過ぎない、ありもしない少数者の「利権」を歪曲デマで言い立てるなら、それこそ差別的憎悪の煽動、つまりヘイトスピーチである。

まずこの市議は、「民族としてはアイヌ民族は(ほぼ)消滅した、ないし消滅しつつある」という学術的見解の意味が分かっていないで引用している点で、お話にならない。

「民族として存続」つまりその民族のアイデンティティが担保されるに十分な形でその民族の文化が継承されていて、今後も存続され得るとみなせることと、実際にその民族の血統を引く、子孫であると自己認識している個人がいることは、まったく別次元の問題だ。

それに明治以降の日本政府の苛烈な差別同化政策の結果アイヌ民族が「もういない」とみなされ得る現状があることは、現代の日本国家と日本人という民族、その代表者である日本政府の責任であって、「もういないのだから民族の存続と公平性の担保のための諸政策は不要」などと言い張るのは、あまりに無責任な、完全な倒錯だ。

「アイヌが(多数民族である日本人からの一定の独立性を持った少数民族としては)もういない」と言うのなら、それでも現に少なくとも「アイヌの子孫である」とは確実に断定できる個々人はいる以上、彼らが主体となってアイヌの民族としての存続と民族文化の継承の可能性を一刻も早く回復させるよう促し重点的に支援することが、当然の倫理的かつ論理的な帰結として、日本が即刻始めなければいけない責任の果たし方のはずだ。

ところが現状では、アイヌ側の自助努力も袋小路で、実生活ではやはり血統的な出自を隠して日本人に同化した方が楽な現実はほとんど変わらないまま(せいぜい、カミングアウトしたらいちおう建前では「褒めて」もらえる程度のこと)、民族をいかにして維持し得るかの啓蒙も十分になされているとはおよそ言えず、政府行政の主体ではそれこそなにもやっていない。

アイヌの民族文化の継承の要であるはずの少数民族の母語としてのアイヌ語が継承存続される可能性は極めて低い。ネイティヴな、つまり生きた言語・母語としてアイヌ語を使える人は高齢者に限られ、大人になってから自分のアイデンティティに気づいて学び始める人はいても、子どもの頃からネイティヴ・スピーカーとしてアイヌ語を習得することはまずない。

少数民族の言語で子どもを教育することこそ、少数民族の権利の国際標準の要だと言うのに。

ことアイヌ語はもともと文字がない、アイヌ民族の生きた母語として使われていた段階で文字表記の習慣がなかったので、ネイティヴ話者が存続し続けることは言語の継承の文字通り死活問題になる。発音規則やニュアンスどころか、語彙や文法すら正確に残すことが出来なくなる。

言語との関連で重要とされるのはまさに自身のアイデンティティに関わる「名前」であるが、アイヌでも琉球でも日本国籍を取得した在日コリアンでも、民族の言葉による名をつけることは戸籍法で原則許されていない。昨今、日本人が外国風などの変わった名前をつける流行への対応で、たとえば「アイヌ風の名前」「実はアイヌ名ともとれる名前」が辛うじて許容されているに過ぎない。

日本人にとっては日本語で教育を受け、日本名を名乗ることは自然なことなのでその重要性を意識できないのかも知れない。だが、同じことを「公平性」「同じ日本国民」を騙って他民族・他者に押し付けてしまえば、それは明らかな不公平・不平等であり、どうみても対等ではなく、すなわち差別に他ならない。

同じ客観的・外形的事実でもどちらが主体で、その事実を見ている主体が誰なのかによって、その意味することはまったく異なってしまう。このことに日本人はあまりに鈍感なのか、自身も所属するが故に自身もその責任の一端を追う社会のやっている差別から眼を逸らそうとしているのだろうか?

「アイヌ民族はもういない」とだけ言ってしまえば、あまりに説明不足で乱暴な言い方なのは間違いない。そこでは「日本がアイヌ民族をほぼ消滅させ、同化を完了した」ないし「アイヌ民族は日本に消滅させられ同化されたか、消滅させられようとしている(時間の問題である)」という歴史的事件の主体と、その責任が無視されている。

そう言ってしまえることは差別意識の反映だ、とも判断出来るし、そのことで札幌市の市議を批判することは正当だが、それは「アイヌ民族はいない」と言うのは「差別だ」ということは意味しない。

議論の次元がまったく異なる低レベルの怠慢だし、だいたい差別とは言葉尻ではなく意識の構造の問題であり、文脈から判断するべきものだ。

差別とは「弱者が傷ついてかわいそう」という感情論の問題ではない。

不当であり、そこで奪われた公平性や対等性を担保するためには、安易な感情ではなく社会の構造と意識の構造を論理的に考えることが人間社会の理知的な良心のはずだ。ところが、日本では「反差別」の「運動」ですら、その基本が踏まえられていない。

人間が正義、正しくあり得るとしたら、それは自分の意志で正しい行いをした時にのみ担保される。そして被害者であったり被差別者、いわば「弱者」である立場とは、その主体的な行動の権利を予め奪われてしまっていることに他ならず、それは人間として恐ろしく屈辱的な状況であり、およそ正義なぞ名乗る気になれるものではない。しかも自分の力でそこから抜け出すことが恐ろしく困難なのだが、そこから抜け出し主体性を取り戻すことこそが、「尊厳」が本来なら意味するところのはずだ。 
だが「マイノリティが傷ついてかわいそう」だから「ヘイトスピーチをやる奴らを叩け」「日本の恥」だけでは、その主体性が奪われていることは無視されたまま、つまりは二級市民か「ペット」として同化隷属させていることにしかならない。 
それで自分達が「反差別」で「正義」であると思い込むのなら、それもまた被差別者の搾取でしかない。

国連人権理事会や人種差別撤廃委員会の勧告の内容をスリ替えて「政府の権威でヘイトスピーチを言う奴を処罰しろ」と言い始めてしまった毎日新聞の社説が典型のように、「差別をしている」と断定した他者を叩くことで自分との差異を強調し、自分が「差別している」とは言われない安全圏を確保しようとすることそれ自体が、むしろ差別と同じ心理的動機から来る行為であり、それは自己欺瞞、いわば自分の周りに「バカの壁」を作った気分になっていることでしかない。

たとえばアイヌや琉球人のように、近代化以降の日本がほぼ同化を完了させてしまった(ないし、しまいつつある。例えばアイヌ語のネイティヴ話者であるアイヌがいなくなってしまい民族の言語文化が継承されなくなるのは危急の時間の問題だ)と客観的にはみなせてしまう現状がある時に、それを日本人の「運動」が「『アイヌ民族はもういない』なんて言ったらアイヌが傷つくから差別だ」と言い張ることは、二重の意味で欺瞞・偽善であり、一皮剥けばオブラートにくるんだだけの差別になってしまっている。

第一に、それは実際にその民族浄化の同化をシステマティックに実行して来てしまった日本人の側の責任をうやむやにすることになる。

いやだからこそ、良心ぶった偽善者がこっそり自分の差別意識を隠蔽・温存するために、恣意的にこの発言だけを問題にするのだろう。

むしろ例の札幌市議が「アイヌはもういない」と言ってしまって初めて、日本がやって来てしまったことの現実の結果に気づき、慌てて叩いている、そしてそれでも少なくともアイヌの子孫であるとは確実にみなせる人たちが(彼らが民族的アイデンティティを担保するものをほとんど失わされてしまっていることには眼をつむったまま)出て来てくれることに安心しているだけのようにしか見えない。

第二に、そうやって日本人の側が自らの主体的責任をうやむやに誤摩化す言動の延長が、相手民族の主体性を奪っていることに気づこうとしない欺瞞がある。

「そんなこと言ったらアイヌが傷つく」と言いつつ、実はその民族の側が自分達がシステマティックに日本政府と日本社会によって同化消滅させられようとしているか、実際問題として実質完全な同化を強要され民族として消滅している現実を訴えることすら、実は封じこめてしまってもいる。

差別とは確かに「尊厳」の問題ではあるが、だからこそそれを「弱者が傷ついた」にスリ替えることこそ差別的な欺瞞、今風の流行語でいえば「上から目線」の傲慢であり、つまりは差別意識の発露である上に、この場合はおためごかしの恩着せがましさで、実はその受けた被害に関する発言権すら奪っているのことになる。

これまでの歴史的経緯で被害と加害の関係性がある以上、被害者の側である在日コリアンにせよ朝鮮民族の総体にせよ、アイヌにせよ琉球民族にせよ、その歴史をきちんと、彼らの主体的な歴史叙述で語る権利があり、それを奪うことは二重の意味での侵略行為に他ならない。

ところが現代の日本社会では、その歴史の叙述すら、「そんなことを言うのは反日だ」と言ってマジョリティの強圧で黙らせることが定例化している。

アイヌはこれまで日本の国家と民族にやられて来たことは我慢して黙り、ただ札幌市の間の抜けた勉強不足市議を叩くことしか許されないとでも言うのか? 
在日コリアンならこれまで100年以上の差別の歴史は言うな、たかが「在特会」を叩くことに満足しなければ「反日」と言われ脅されるのか? 
しかもそうしたバッシングの主体すら結局は日本人マジョリティで、少数民族はお手伝いだかお飾りだか、子分扱いしかされていない。ペットないし奴隷、お飾り、都合のいいエクスキューズでしかない。 
「尊厳」を言うのなら、そういう立場に置かれるが「尊厳を傷つける」なのに、その現実を口にしたら「マイノリティが傷つくから差別だ」と言い張るのが、現代日本の標準的な「反差別(のフリ)の偽善だ。

ここに毎日の社説が言う「個人の尊厳を脅かす差別」という珍妙な新定義の詐欺性がある。

日本人個人であれば、確かにたとえば自分の祖父や曾祖父が南京事件の直接加害者であったり、慰安婦を抱いていた、あるいは慰安婦になるよう強要することに関わっていた事実を指摘されれば「傷つく」だろう。だがそれなら、だからこそ子の世代が過去を克服することで、その新しい世代の「自己」を獲得しなければならないはずだし、そういうことこそが「民族の存続のための歴史と文化の継承」の意味するところだ。

本来の「尊厳」とは、このように個々人の主体性に関わる問題であるにも関わらず、「傷ついた」という表面的に「被害」にも見えることだけの感情論に逃げてしまいつつ相手には「受け身」の立場しか許さず、歴史問題を明白にすることすら「差別だ」と言えることにもなってしまう…というか、現にそうなっているから、日本国内ではここまで慰安婦をめぐるデマ的な隠蔽歪曲が花盛りなのだ。

そういう意味で、日本人の総体自体が、自ら自分達の「尊厳」を奪っている、投げ捨てているとすら言える。

我々の尊厳とは本来、その向き合うのも困難な過去とどう向き合い、受け止め、あるいは克服出来るかを、自らの意志と自らの努力で成し遂げることのはずだ。

アイヌや琉球人、在日コリアンですら、その尊厳のもっとも基本的な部分すら担保されていない

そこから逃げておいて言葉狩りに終始すること、「ヘイトスピーチを言う奴を処罰しろ」と言うこと自体…だいいち、それは「お上」への責任丸投げか、集団性に埋没して個人の責任をうやむやに出来る安心感に耽溺したリンチになってしまう。

そうやって自らの属しアイデンティティを埋没させる多数派集団の優位や優越感を、他者を貶めることによる相対性で担保しようという態度こそ、差別そのものなのは言うまでもない。

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