最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/20/2014

道徳がルールになり法制化される社会の危険


愛知県立美術館の展覧会で鷹野隆大氏の写真が「わいせつ物の陳列」にあたるとして撤去を求められ、布や半透明の紙で一部を隠した形での展示に変えられたそうだ。



本ブログでは大島渚の「猥褻とは明治の官僚の下品な造語である」の一言で刑法175条については結論が出ているとみなしているので、本題から微妙にズレることの詳細は鷹野さん自身が語っているこちらのWEB骰子をご覧頂くとして、非常に気になるのは「匿名の通報」が摘発のきっかけだったことだ。

昨今、警察では一般市民からの通報には必ず対応することが内規になっているらしいが(とお巡りさんに聞いている)、市民の声を無視しないのは大切だとしても、通報があったら自動的にとにかく摘発、というのは法治の原則からして多々問題は出て来る。

同様の問題は学校や自治体の図書館で『はだしのゲン』が書架から撤去されたことや、最初から有罪になるはずがないのが分かっていた小沢一郎の検察審査会による強制起訴の一件などにも通じる。

要は恣意的に、まったくの個人的で身勝手な欲望で、ただ気に入らない相手を潰したり自分にあたかも権力があるかのような錯覚で自己満足欲求を満たすことに、公権力が利用されてしまう(逆に公権力がそういう「一般市民の声」をエクスキューズに利用もしている)、法制度の恣意的施行による無法状態という倒錯すら産み出しつつある。

それが法治社会の死を意味しかねないことに、つまり我々の人権が恣意的に侵害される可能性が増大することに、もっと敏感になった方がいい。こういう形の弾圧は、ただの警察国家の密告社会の全体主義よりも、なにしろ歯止めが利かないしたった一人の言葉でも暴走し易いだけに、より始末が悪い全体主義を生み出しかねないのだ。

もっとも、それ以前に「法治社会」という意味を日本の場合は総理大臣すらよく分かってないで振り回している妙な国だから困るわけで。 
法治とは国家権力がとりわけ市民に対して行使されることを、法の正当で論理的な運用に限定するという考え方だ(つまり内閣が「解釈改憲」になる閣議決定を、なんてことが起こってしまう国は法治ではない)。 
法律はみんなで決めたルールだから守りましょう、なんていうのは法治ではない。「みんな」が正当化の理由になり得るのは法の支配と正義の倫理性・論理性を無視した全体主義国家だけだ。

法治とは国家の行政権の行使を最低限の、法の許容する範囲内に抑える考え方であり、その社会の法もまた社会の維持に必要な最低限の、厳密に論理的で整合性のあるものであることが要求される。

まただからこそ、例えば日本の三権分立制度のようなチェック機能の充実もそこに含まれる。どんなに政権が欲し、国会で与党が圧倒多数で議決した法案でも、法論理の基本を踏まえていなければ最高裁が違憲立法審査権を行使する対象になる。

もっともそれ以前に、そんな法案は内閣法制局が立法事由がないなどの理由で出させないのが、本来の日本の統治システムでもあった。 
だがかつて法制局が「立法事由がない」と国会提出を止めさせた「特定秘密保護法案」「解釈改憲」の集団的自衛権が典型なように、今では有名無実化しつつある。

単に社会の多数派が「不快だ」とか思うだけで法権力が行使されることは許されず、法の支配の範囲をなるべく少なくし、その枠外では社会の健全な運営には可能な限り個々の市民の良心的判断に期待するのが、法治主義だ。

一人一人の個々人に信頼に値する倫理観がある限りにおいては、そうしておいた方がいろいろ安全なのは、人間社会が常に複雑化し、個々の人間がなにをするのかが予想できない上に、しかも人間のやることでしかない以上は立法で誤りを犯す可能性も看過できず、既成のルールでは対応できない事態や、細かく書き込まれ過ぎているからこその法の不備や矛盾が明らかになるようなこともいつだって起こりえるからであり、だから法律でなにもかも決めてしまうのは、社会の運営の観点からみても合理的ではない。

だがこの基本原理が、今の日本では確実に壊れつつある。

鷹野隆大さんの写真を「通報」した者にせよ、『はだしのゲン』を図書館から排除しようとした者たちにせよ、まして小沢一郎に対する「告発」は言うに及ばず、いずれも社会の一員としての倫理観が動機になっているとはとても思えないどころか、確信犯的な制度の悪用だ。

いずれもそこで用いられた法や制度の存在理由(立法目的)とは実は別の理由で、他人や他者が不当に「罰せられる」ことを狙っている。

小沢の強制起訴は法に無関係に小沢に政治的なダメージを与え政治生命を絶つことが目的だ。 
『はだしのゲン』に至っては被爆者が受けた差別のひどさの表現のために使われる言葉が「差別語だ」、戦争の残酷さを指摘する描写がショッキングだというのが表向きの理由になっていること自体がナンセンスで、そうした差別があったことや戦争の残酷さを隠蔽することが目的であると露骨に自白しているような話である。

鷹野隆大さんの写真にしても、本当に問題なのはそれが男性どうしのペア・ヌードであり同性愛を表象していることが気に入らないのを、男性器の露出が「わいせつ」ということで押さえ込もう、はっきり言ってしまえばマイノリティであるゲイが堂々とアートにおいて発言権を持つことが「生意気だ」(自分達が発言権を行使するに値しないコンプレックスがあるからこその匿名であることも含め)という差別意識に基づくいやがらせでしかない。



また鷹野さんの作品がはっきりと恋愛関係を賛美したものであることも、こう言っては悪いがいわゆる「非モテ」であったりすれば、相手がゲイだからこそより激しい嫉妬の対象にもなりえる。

こうした日本社会の現状が極めて皮肉なのは、たとえばこのような「差別はいけません」という良心や倫理観の問題であるべきことが、そうではなくただ「ルール」に過ぎないからこそ、こういう嫉妬やコンプレックスがマジョリティ側に渦巻いてしまい、その鬱憤晴らしでこのような歪んだ事象が起こっているからでもある。

極端な話、「差別はいけない」がルールでとして徹底されれば、そのルールが絶対的に有効な範囲では被差別者・マイノリティはむしろ安泰になるように見えるだろう。 
つまり、あらゆる批判を「差別だ」の一言で排除すら出来そうにも見える(し、実際にそう悪用する者もいないわけではない)。無論実際には、そんな「ルール」でしかない「差別はいけない」は、差別する側が作ったご都合主義でしかない「ルール」に過ぎないのだが。  
むしろそうしたルールを守る自分を率先してアピールしたい知恵者なら、わざと「弱者」であるマイノリティに味方する自分を常に演出するだろう。その知恵が働かないまま「お前は差別している」と言われ続ける側にしてみれば、どんどん鬱憤が溜まる話にしかならない。 
その結果、あたかも自分は差別されているのだ、被害者なのだと装うことに走る者すら少なくない。「ボクを傷つけるのは差別だから許されないんだ」と言ってそれで済むのなら、そんなに楽な話はないように思えるのだろう。

「差別はいけません」が良心の問題であれば、我々が未だに差別的構造を払拭しきれない社会の成員であり、しかも差別意識とはその社会構造が刷り込まれて内面化した、たぶんに無意識なものである以上、自分の言動の差別性が指摘されれば、とりあえず立ち止まって自分を再検証するはずだ。

だが「差別がいけません」がルールでしかなければ、ルール違反を犯したと指摘された者は必死で自分のルール違反の事実を誤摩化すまやかしの自己正当化に専心し、愚にもつかない言い訳を連発してしまう。

始末の悪いことに、マジョリティ側に属していれば潜在的にはみんなその「ルール違反」を咎められる可能性を持っているため、その愚にもつかない言い訳を社会的に受け入れてしまう素地はアプリオリに存在しているし、しかも日本の場合はそのやり方が、すでにルール的にシステム化されている。

たとえば差別発言を咎められた政治家の常套句は、「そうとられたとしたら謝ります」「表現が悪かった」「本意ではない」であり、それでなんとなく免罪されてしまえるよう、「なにを持って差別とみなすのか」までが表層的なルールとして定着までしてしまっているのだ。

差別とは意識構造の問題であり、そうした問題発言のロジックに表出した意識の構造こそが批判されているにも関わらず、ある特定の言葉を用いれば「差別だ」、逆に言い方さえ替えれば差別でないということになってすらいる。しかもその「差別語」指定のほとんどにはなんら論理的かつ道徳的な根拠があるわけでもなく、ただ放送業界の内規に過ぎないにも関わらず、「差別語」の認識は日本人マジョリティに広く共有され、それが「ルール」になっているのだ。

鷹野隆大さんの写真でも「わいせつ」となる “法的” 根拠は男性器が明確に露出していることに過ぎない。
 改変された展示方法では「布団をイメージした」と本人も言っているが、その発想(つまり全裸の男性が同衾しているイメージ)が却って生々しくセックスを連想させそうな気もするところがおもしろい。

こうした社会では、差別を指摘告発することは差別をなくすか解消するか、少なくとも減らすことには、ほとんど寄与しない。

そもそもの動機が「差別というルール違反」を告発することで気に入らない相手を攻撃すること、攻撃によって相手に対する自分の相対的優位を担保することなのだから、最初から差別を減らすこととは実は関係がない…というよりも、この論法を用いる側の論理こそが他者に対する相対的優位を担保したい差別意識以外のなにものでもなかったりする。

昨年秋頃から「ヘイトスピーチ」という言葉がかなり怪しい強引なやり方で一般語彙化されているが、差別主義的な歴史修正主義が批判を浴びる内閣の、その官房長官が「日本の恥」と言ってみたり、今度は自民党が「ヘイトスピーチ規制法案」を議員立法するのだそうだ(これ、思わず「(笑)」とつけたくなる)

その説明として、こうした言動を規制する法が先進国にはたいがいあるから「日本は遅れている」という、これまた白人至上主義の人種差別的コンプレックス丸だしの論法なわけだが、欧米での「ヘイトスピーチ」規制がはっきりと、ある政治性を持った特殊な歴史認識に対抗するための立法であることは、丁寧に無視されている。

無視されるのは当たり前である。

とりわけカナダとドイツが顕著だが、ホロコーストを否定しナチズムを礼賛する言動は、懲役10年であるとかの実刑の対象になる。 
エロール・モリス監督『死神博士の栄光と没落』

ヘイトスピーチとして実際に規制されているのは、まず史実を歪曲する歴史修正主義による差別思想の流布、つまりネオナチとホロコースト否定論デマへの対抗であり、法の平等の原則に従って他の民族やマイノリティ・グループへの差別的思想の流布に対してもその規制が敷衍されるのだ。 
つまりヨーロッパや、そこと同じ民族的系譜を持つカナダが、第二次世界大戦の悪夢とナチズムに対しきっぱり訣別を示す政治性の強い規制でもあり、差別的な歪曲で事実や史実をねじ曲げ、自分達マジョリティ民族の責任を矮小化することが、啓蒙目的も含めてはっきり否定されているわけだ。


一方、昨今では韓国との外交で最大の障害になっている従軍慰安婦問題や、朝鮮と台湾の植民地支配、中国大陸への侵略の責任を曖昧にしようとする、差別的に歪められた歴史認識は、今の日本には広く行き渡っている。

実はそういうものこそが、もっとも典型的なヘイトスピーチなのだが。

なにしろ他ならぬ総理大臣閣下があの調子であり、戦時性暴力はどこの国でもやっているのに日本の慰安婦問題が責められるのは差別だ、とか言い出す輩までいるのだからお話にならない。

今年は国連人権委員会が日本に対する勧告を出す年だったが、そこでも日本のメディアは「ヘイトスピーチ」がとり上げられたと見出しにまでして報じ、その報道もまた自民党までが「ヘイトスピーチ規制法」を作ろうとする理由のひとつになっているようでいて、これ自体が虚報である。

実際の勧告に「ヘイトスピーチ」への直接言及はなく、人種差別を煽動する示威行為などが官憲の許可を得て行われていることが言及されたのは、以前から日本がずっと勧告を受けてはまったく改善して来なかった、いわば「繰り返し」の項目に含まれる。

ちなみにこの問題や、日本の移民・外国人に関する政策や法制度が差別的であること、他にも代用監獄制度などなど、日本は毎回毎回同じことで勧告を受けても一向に改善の気配がないので、その日本に勧告を尊重するよう要求する特別決議まで、今年の人権委員会は出している。

今年の勧告でとりわけ目立つのは(そして国際メディアでもいちばん報じられたのは)、慰安婦問題について、それが「性奴隷」であったことを日本政府が認識するよう、かなり強い語調で迫っていることだ。

そして日本の差別的言動の問題について今年の国連人権委員会が以前よりもさらに重視しているのは、日本政府の啓蒙努力が足りないことであって、「ヘイトスピーチは悪いことだから禁止しろ」なんて話はまったくない。

当然のことではある。

差別とは認識の問題、意識の構造の問題だ。

社会の差別的な構造が個々の市民に内面化され刷り込まれていることが差別意識であり、差別の解消について国家政府が努力できるのは差別的な制度の構造を変えることと、その改善の意味をきちんと国民に伝えることも含め、その差別意識を改めるよう促すことしかない

だいたい欧米のヘイトスピーチ規制自体が、先述の通り「差別主義者を罰する」よりも啓蒙目的の色彩が強いものだ。

だいたい今の日本で「ヘイトスピーチ規制法」が意味を持つだろうか?

「ヘイトスピーチ」が昨年の秋ごろいきなり大手メディアの見出しに踊る語彙になったののは、「在日特権を許さない市民の会」なるネット上の匿名引きこもりクン集団が新大久保のコリアンタウンや大阪・生野区の在日朝鮮韓国人の多い繁華街に営業妨害脅迫活動を行い、それに対して「仲良くしようぜ」という(これはこれで実は差別的意識構造を内包する)標語で立ち向かったグループが、「在日特権を許さない市民の会」やその周囲に対して「お前達の言動はヘイトスピーチだから許さない」と言い出したことに始まる。

この批判というか攻撃のやり方もまた、差別的な意識構造の反映であることは言うまでもない。 
ある属性を他者・相手に押しつけ、その属性を言い訳にして貶めようという魂胆なのだから。

その両者ともたぶんにネットに依存した活動であったので、ネット上では両方が「ヘイトスピーチの定義」をめぐって論争になってない口論というか喧嘩を延々と繰り広げたわけだが、とりあえず「在日を殺せ」は「ヘイトスピーチ」になると言われれば、なにしろ日本は放送禁止用語の「言葉狩り」で毒された社会である。では「『殺せ』と言わなければヘイトスピーチではないだろう」というトンデモな倒錯に陥ったり、そもそも双方とも「差別」ということの意味がよく分かっていないで「いけない」とだけルールを刷り込まれているのだから、まともな話になりようがない。

結局、落ち着いたところが「在特会の言っていることはヘイトスピーチ」「在日が言われて傷つけばヘイトスピーチ」というレッテル貼りと薄っぺらな感情論偽善の野合と言うていたらくなのだが、「在日特権」なるありもしないファンタジーそのものが典型的なヘイトスピーチ(誤謬と偏見に基づく差別思想の煽動流布)であることに気づかないのだから笑い話にもならないのであった

なお「傷つく」かどうかで言えば、僕以上の世代の在日コリアンはその「ヘイトスピーチ」で「傷つく」人よりは「笑っちゃう」人の方が多い。 
子どもの頃にはまだ「言葉狩り」の風習がなく、日本人が平気で朝鮮人に面と向かって「チョン」と言う、「そんなこと言ったら差別になっちゃうからやめなさい」意識がなかった時代に日本人が個々人で彼らに言って来たことが、今では「在特会」とやらが情けない徒党を組むか、ネット上での匿名集団でしか言えないのだ。 
「懐かしいくらい」と冗談を言う人もいれば、「かわいそう」にも見えて来るらしい(「情けない」の裏返しであるのは言うまでもないが)。

さらにややこしいことに、「仲良くしようぜ」と言ってる側が一方では韓国や在日コリアンに対して歴史問題を持ち出すことは日本人と「仲良く」する気がないのだろうと脅し、踏み絵を踏ませる差別的な意識構造も持っているものだから、もう話は無茶苦茶になる。

で、行きつく果ては「差別発言とは言われた弱者が傷つくこと」という、日教組の学級会で教えていそうな誤った感情論(その実これもまた差別意識)の、およそ反差別とは似ても似つかぬ罵倒合戦に陥ってしまっていた。

これでは醜悪な差別性の誤りを指摘された「在特会」の方でも「そんなこと言われたらボクらは傷ついちゃう、お前らはボクらを差別しているんだ」と言い張れてしまう。
しかもその過程で、かくも乱暴な自己満足の匂いが濃厚な自称「反差別」に疑問を抱いた人には「ヘサヨ」なる珍妙な造語で徒党を組んで罵倒するのだから、「朝鮮人」を「チョン」と呼ぶのとなにが違うのか、ということになってしまう。

繰り返し問おう。今の日本で「ヘイトスピーチ規制法」が意味を持つだろうか?

国家の法体系にもその運用にも、未だに人権侵害や差別的な部分が多いことが何度も指摘され、それが改善される気配もないのに、その法体系に「ヘイトスピーチ規制」を持ち込んだところで、ほとんど差別を解消していく意味はない。

もともと啓蒙性の高い立法が、それを運用する国家体制自体が未だに差別的とあっては、ただの偽善のまやかし、エクスキューズであり、隠蔽にしかならない。

しかもよりにもよって、理論も思想も差別意識の構造への理解もなにもないまま「ヘイトスピーチの定義」で言い争い、「とりあえず『殺せ』はヘイトだ(それ以前に脅迫罪になり得るただの暴言)」という結論もどきに陥る延長で出て来る「ヘイトスピーチ規制」である。差別の解消になんの役にも立たなかった、むしろ陰湿化させた「放送禁止用語」「差別語」「言葉狩り」の二の舞になるだけだろう。

再び根本的な問題に戻ろう。差別に反対する、差別をしないことは本来は良心の問題であり、差別とは意識構造の問題である。

その構造の大部分が無意識に刷り込まれている社会構造に基づく価値観だからこそ、誰もが無自覚に差別をやっている可能性はある。つまり本来なら、差別を糾弾なり批判することは、その人間を差別者として断罪することが目的ではない。

断罪はせいぜいが、本人にそれを気づかせる手段でしかない。

重要なのは、自らの無自覚な意識の構造に気づかせること、その意識を変えることであって、「ヘイトスピーチだから許せない」という薄っぺらな記号に安住して相手を下位に見て優越感に浸ることではないし、そうやって他者への相対的な優越感を持つことに満足してしまう価値観こそが、差別意識そのものでもある。

しかし現代日本社会では、「ヘイトスピーチ規制法」を法制化するまでもなく、「差別はいけない」が良心の問題ではなく「ルール」として認識されているそれはルールの逸脱者をいくらでも叩いていい、というこれまた差別することを欲望する心理にはぴったりのカタルシスとセットになっている

「自分はレイシストと戦っているのだから差別しているなんて言われていいはずがない」という、その実なんの意味も持たない主張は、他者を貶めることで自分の立ち位置を確保する差別的な欲望の、極めて分かり易い実例だ。

そんな国の「ヘイトスピーチ規制法」は、そんな他者叩き/優越感担保の欲望に官憲のお墨付きを与える、実のところ国家主導の差別と全体主義を徹底させる機能しか持ち得ないだろう。

その使い道も目に見えている。 
鷹野隆大さんの写真を「通報」した匿名の個人のように、支離滅裂な決め付けで「差別だ」「ヘイトスピーチだ」と難癖をつけ、気に入らない相手を貶め中傷したり、社会的に抹殺することに悪用されるだけだろう。 
そもそも「ヘイトスピーチの定義」がなっておらず、歴史的経緯も無視されたまま歴史修正主義が大手を振って国家権力と野合するような国では、こんな恣意的に運用可能な「ルール」は悪意を持って歪んで使われるばかりだろう。

道徳、倫理は個々人が自らに課し、自らに問うことだ。

「差別はいけない」であれば、同じ人間で一緒に生きている他者をいたずらに排除攻撃する、個人に備わった資質能力や努力、美点で判断するのではなく出自や肌の色や性別で上下を付け、多数派集団の側にばかり都合のいい世の中を作って少数派にそこに隷属する奴隷や二級市民の地位に留まるよう要求することは、明らかによくないことだ。

そんなの子どもでも分かるはず…いや子どもがいちばん分かっていることだ。

自らを多数派に属すると認識する側の勝手で、異なった他者を排除したり貶めたりすることで自分達の優越感に浸って徒党で結束するなどというのは、はしたない行為だし、排除こそせずとも同化・取り込みを狙って、本来なら独立した個であるはずの他者の人格を無視して悦に入る、「かわいそう」だか「弱者」と下位にみなし、その味方を装うことで自らの正当化に利用するのも、相手の人格を踏みにじる行為でしかない。

ところがこんな当たり前の話すら、実際に「差別はいけません」を振り回す多くの人間が分かっておらず、「弱者」の側を「守れ」ば自分は正義の味方なんだと思い込んでいる。 
そういうマジョリティ側のプチ権力者日本人の幼稚な偽善に取り入れば、たとえば在日コリアンがとりあえずは安泰を保てるという意味では、「在日特権」もないとは言えない、という皮肉すら成立してしまう。

「差別はいけない、そんなの当たり前でわざわざ言うことでもないしね」と言ったのは、日活出身の名映画編集者・鍋島淳だ。抽象概念でそれを言うのは簡単だし、鍋島の仕事であればそれこそわざわざ映画で言うようなことですらない。

 原一男監督『ゆきゆきて、神軍』

だが鍋島のこの発言が、彼の映画編集の代表的な仕事である、原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』についての話だと言えば、がぜん意味合いは変わって来る。

ひとこともその直接のメッセージ的な言及はないにも関わらず、『ゆきゆきて、神軍』のあらゆるシーンはその実、「差別はいけない」をめぐるものだとすら言える。

またそれだけ、この映画の主人公奥崎謙三が地獄を見た第二次大戦の南太平洋戦線の日本陸軍は、何層にも重なって複雑に入り組んだ差別関係によって動いていた組織だった。『ゆきゆきて、神軍』の中心の主題となる人肉食に至っては、まず現地人、そして朝鮮兵、そして貧しい出身の日本人歩兵と、順繰りに差別する側に食われて行くという残虐さだ。

「差別はいけない、そんなの当たり前でわざわざ言うことでもないしね」

にも関わらず我々は現実の、差別的な社会構造のなかでしばしば差別する側になろうとしたり、差別される側に貶められて順応して生きることすら要求されてしまう。奥崎謙三が鬼になるしかないのは、その日本陸軍という組織に差別を刷り込まれた自分自身とも闘い、そして自分たちを苦しめた「世の中」そのものと戦わねばならないからだ。


「差別はいけない」とは、だからこそ自らの良心との葛藤が第一に来なければ、他者を自らが不当に貶めたりする社会構造にのっかってしまうことで安心感を得ようとする自身に対する葛藤がなければ、おかしいはずだ。


だが倫理、良心の問題ではなく、決められて従わなければならない「ルール」としての「差別はいけない」は決してそうはならない。そのルール自体が違反者を排除することで自分達が優越感に結束する、差別的欲望を満たすものに、こと今の日本社会ではなってしまっている。

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