最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

6/14/2014

「中間貯蔵」施設という欺瞞


なかなか福島県浜通りに足を運ぶ機会がなく、『無人地帯』とその続編『…そして、春』(まだ完成資金を集め中)でお世話になった皆さんには申し訳ないことになってしまっているが、いつのまにか除染廃棄物の「中間貯蔵」施設はここまで計画案が進んでいるらしい。


報道が少なかったからとはいえ、「いつのまにか」と言っていいことでは本当はない。決定的に重要なことなのだから。

さらに申し訳ないのは、これだってよく考えれば「いずれこうなるのは分かっていた話ではないか」だということだ。

除染をやってしまえば、置き場所をどこにするかといえば、双葉町と大熊町以外にはあり得ないことも分かり切っていたはずだ。

まさかより汚染が少ないところ、それこそ福島県外に持って行くわけにはいかないのだし、それはただ除染の廃棄物のことだけではない。

使用済み燃料や廃炉解体した原子炉などの核廃棄物の最終処分施設も、青森県六ヶ所村などを政府は一応候補として上げているが、合理的な判断として「今安全なところよりもすでに汚染されているところ」になるに決まっているのに、六ヶ所の人たちに押し付けるのも無理があることは、自分達がすでに同じ目に遭わされている双葉や大熊の人たちには、分かっているだろう。

ここが「中間」で済むわけがないし、「中間」と言ったってそのタイムスパンは数十年単位だ。

いや「中間」と「貯蔵」という言葉が仲良く並んでいること自体に、矛盾と欺瞞が目に見えて現れている。そんなこと当事者の人たちは最初から分かっていただろう−−いや、その人たちだけしか真剣に考えて来なかった。この点でも政府の対応は極めて不誠実で相手を馬鹿にしたものだったが、十分に批判したり止めようと議論しなかった我々の責任も逃れ得ない。

しかし「国民を騙す不誠実な政府」というのは歴史上あまたあるが、すでにバレているような分かり切った噓を言い張って国民を黙らせる今の日本政府のような不誠実さというのは、さすがに希少例だろう。

どうしても誤摩化してはならないことがある。

双葉と大熊の海側に除染の中間貯蔵施設が出来るということは、原発事故で当分は帰れない、何年待つことになるのか、あるいは「皆さんが早く帰れるように一生懸命除染します」と政府が言って来た今までの状況とは、まったく違った話だということだ。

まず「中間」といって何十年か分からない、いや「中間」で済むわけがない「中間貯蔵」施設が出来るということは、大熊の夫沢であるとか原発の直近の人たちが「いつになったら帰れるのか」ではなく、「もう永久に帰れない」ということだ。大熊町では交渉の上では、恒久施設にするなと政府に圧力をかけるために買い上げでなく借り上げを主張はしているが、何十年後かに返還されたところで、住むこともできないしまして農業なんて、と実際にはみんな分かっている。

『無人地帯』より、大熊町夫沢に住んでいた中野さん
強いて言えば借り上げであれば、避難先の人たちの定期安定収入にはなるので、今さら土地をどこかに買っていちから、というのが無理な人たちにはその方がいいかも知れない。だがそれなら、相当な金額を国は準備すべきだ(といって国が払うのか東電なのかも曖昧なままだ)。 
あとこれが恒久施設だと明言されれば、大熊と双葉の地方行政、町役場は存在する意味がなくなり、大熊町と双葉町自体が消えてしまうことになる。

さらに重要な、無視されがちなことがある。

「中間貯蔵」施設が出来れば「帰れなくなる」のは、原発事故がまだ不可抗力の、致命的な過失ではあっても決して意図されたわけではない、要は「事故」であり偶発的だったこととは、まったく次元が違う。これからは双葉や大熊の人たちが「帰れなくなる」のではなく、誰かの主体的な意志で「帰れなくする」のだ。

他に選択の余地がないからといって責任逃れは許されない。ここに「中間貯蔵」施設を作ると言うことは、その土地を社会が全体の利益のために犠牲にしているのだ。

除染には効果がない、という決め付けにも大いに問題があって、もともと今回の事故の「除染」はなぜか農村がモデルでなく、都市近郊住宅地を想定したマニュアルになっていたから、もっとも汚染が危惧される双葉郡の大部分や飯舘村ではあまり効果がない(そんなに効果が出るはずがない)のだが、中通りの郡山市や福島市の市街地や住宅地域なら、確実に効果は出るはずだったし、現に(取り残しのホットスポットはまだ多々あるにせよ)出ている。

それはきちんと評価すべきであり、「福島は危ない」「住んではいけない」と、事故発生当初のパニックの自己正当化で言い続け、挙げ句に未だに「鼻血が」などで騒ぎが起こるのも、ずいぶんと無責任な話だ。

一方で2011年半ばから、福島県の各地で自治体が除染に熱中して不必要な除染まで行われ、結果として必要以上の除染廃棄物が出てしまったかも知れないのも、事故発生直後の社会情勢からして責められることではない。とにかく「福島は危険だ」と大騒ぎが始まり「逃げろ逃げろ」の大合唱が、福島がどれだけ広い県でどれだけ複雑な地形を持っているかも無視して、挙げ句に米軍のとりあえず50マイルを「アメリカは80Kmと言っているから日本政府は安全デマ」という無茶苦茶な話まで飛び出し、放射能汚染の風評が全国を駆け巡ったなかでは、実際の放射性物質以上に「放射能で汚染されている」というレッテルを、農業が今でも重要産業の福島県各地の人々が恐れたのは当然の話であり、差別される立場になった人たちがまずその差別の直接理由を取り除こうとするのは、当たり前の反応だ。

また福島県の各地で、ほとんどの場合事実に反する「福島県には住んではいけない」的な困った言い草の流布への反発から、原発事故を理由に移住することを「故郷を捨てるのか」と批判する、反発を持ってしまうことも十全に理解はできる。

福島県は元々の日本の行政単位ではひとつの「国」ではなく、江戸時代の潘で言えば複数の寄せ集めで面積も広いだけでなく、多くの山で各地域が隔てられている。平野と違って、しかも大量の粉塵が成層圏に舞い上がるほどの大規模爆発ではなかった福一事故の場合、山で隔てられて放射性物質がそんなには広がるわけではないのだが。 
福島県全体が「放射能が」と言う前に、地図と歴史くらい勉強したっていいだろう。

だから決して責めるのでも批判するのでも、「あなた達のせいだ」というのでもないが、だが残酷な現実として無視してはいけないことがあるだろう。

「中間貯蔵」施設が双葉と大熊に作られるということは、他の福島県の諸地域でより安心して生活できるようになるのと引き換えに、双葉と大熊が犠牲になる、ということであり、その予定地に住んでいた人たちが「もう帰れない」と覚悟を決めるのは、故郷を捨てたのではなく故郷を奪われるのだ、ということである。

それが必要だった、避けられなかったという意味では決して安易に責めていいことではないが、それでも「中間貯蔵施設」というのは要するに、原発立地に放射能で汚染されたものを文字通り「押し付ける」ことなのだ。

そこは忘れてはならないし、そこを忘れてしまっては、この原発事故が福島県の全体に作り出してしまった亀裂が、回復不能なまでに大きくなる。

原発事故というのは、「誰某が悪い」と言ったところで始まらない、ほとんどなんの解決にもならない。むしろ誰かを批判することで自らの安全圏を確保し、同じ主張の仲間を増やした気分になることは、問題をより大きくし、直接の被害者の置かれた状況をより残酷なものにすることに、ほとんどの場合つながってしまう。

この私たちの文明と社会が産んだ大変な災厄を前に、「私たち(だけ)は正しい」と言える立場などあり得ない。原発というのはそういう意味でも、人智や人間社会の諸制度を超越してしまっているものなのだ。

この宇宙が存在しているそもそもの根源にあるエネルギーの一端を、人類が「たかが電気」や「たかが戦争」「たかが大量虐殺」のために利用しようとしたのが原子力開発だ。そして戦争や人殺しはともかく、電気のために原子力を使うことは、今の世界では未だに避けられない選択なのかもしれず、他に地球上のすべての人類が少しでも「豊か」に暮らせるのに使えるエネルギー源はないのかも知れない。

なんと56基もあった原発を止めてしまっても、3年近く電力供給を間に合わせられるだけの余力を持っていた経済大国の巨大産業文明立国の日本が、これから膨大なエネルギー源を必要とすることになる発展途上国に「原発は止めるべき」と言ったって、説得力はなかなか持てないだろう。「あんたの国は豊かで権力もあるから。だがうちの国では」と反発されることも、覚悟しなければならないと思う。

実は自分ではずっと中国によるチベットの核開発に反対しているダライ・ラマ14世は、2011年の震災直後の来日時にあえてこの問題を日本人の記者達に投げかけている。 
http://news.nicovideo.jp/watch/nw142265 
さすがは超一流の宗教者だ…。ちゃんと答えられない日本の「フリージャナリズム」は、しょせんその程度のものだった、ということだ。

だがそれでも、その「豊かさ」の結果今福島県で起こっている複雑な矛盾だらけの現実を前にした時、あえて問わなければならないだろう。

人間とその社会の能力を実は遥かに超えていたエネルギー源である原子力に、人類が手を出してしまったことは、本当に正しかったのだろうか?

原発を利用しそれをいわば僻地に押し付けるのは、究極のコロニアリズムである。その人間中心主義の傲慢さで、先進国がこれだけの豊かさを享受して来たことは、全面的に肯定されていいのだろうか?

発展途上国に我々と同じ豊かさを認めないのは、明らかな不公平であり人種差別だ。だがそれをやってしまえば、地球がもたなくなる。

こうした問題を考えること、そしてこの教訓から新しい人類の未来の在り方の指針に到達するには、まずはこの原発災害が引き起こしている複雑さをきちんと把握することから始めるべきだろう。

「誰某が正しい」「誰某が間違っていたからそのせいだ」という図式化のために状況を恣意的に利用するのではなく、まず何が起こって何がどうなってその結果どうなったのか、をきちんと客観性を持ってものごとの全体像を把握すること、恐ろしく複雑で残酷な事態に我々も責任の一端を負っていることから、眼を背けないこと。

もう3年と3ヶ月が経ってしまった。そろそろこの事故の意味を本気で、真剣に、自分達の問題として考え始めなければ、あまりに遅過ぎる。

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