最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

2/09/2014

『無人地帯』について宮台真司さんと語る



昨日8日の『無人地帯』の上映後、宮台真司さんを招きユーロスペースで対談があった。

その昨日の宮台真司さんの指摘で、恐らく今日的な文脈でいちばん重要だったのは、この映画は「誰が悪い」とも言っていないし、「誰が正しい」と主張する映画でもまったくない、ということだ。

人類の文明を超えた事態なのだし、原発事故は現代文明の構造それ自体の問題でもあるのだから。

こと原発の存在自体が日本社会の構造の一部であり、戦後日本社会が選択した構造から、ある意味必然的に産まれたものでもある。

「250Km離れた東京」が福島の電力の消費地であったことが「悪い」のではない。

しかし日本社会の構造のなかで、実はその東京が一方的に得をして来た、いちばんその恩恵を受けて来たという現実は消せない。

『無人地帯』のなかで飯舘村で炭焼きの話が出て来るが、近代以前から農村は副業で炭を焼いて都会の燃料を供給して来た訳で、その意味では電力のためのダムや原発もその歴史的な延長にあり、それがダムなどを故郷を田舎が諦めてでも受け入れた素地にもある、という宮台さんの指摘も鋭かった。

一カ所だけ僕の声で、「警戒区域」発令に関するナレーションが入ることについてわざわざ質問頂いたが、もちろんこの政府の決定には僕たち20Km圏内に映像を撮りに行った人間も無関係ではなく、「僕たちが悪い」というわけではないにせよ責任の一端はある。

もしかしたら僕たちも軽卒であったかもしれない可能性は逃れ得ないわけで、少なくともそれはちゃんと考えなければならない。

だからこの映画では決して作り手もまた「正義」の側に自らの立場を偽装しようとしていないことを明確にするために、この言葉だけは監督自身の声になっている、というのも宮台さんが予想した通りです。

その上で、監督自身の声も入ることで、アルシネ・カーンジャンの声によるナレーションとの位相の違い、差異化が出来る。このナレーションの機能について、今まで欧米の批評でほとんど論評が出ていないことに宮台さんも驚かれていたが、言われてみれば僕も驚いた。

『無人地帯』予告編

トークのあと、ロビーで話した、いわき市の四倉の出身の若いお客さんもそのことに驚いていて、「津波で流された自動車は見てもその背後の水田を見ていないとナレーションが指摘する、それに尽きるではないか、そのことを書けばいいのに」と言われたけれど、まさにその通りなのである。実は極めてシンプルな、誰にでも分かる役割を果たしているわけなのだが。



津波に流されたこの車は 
誰にでも見えるが

車の背後の荒れた水田が
見えるだろうか?

言われずに
分かるだろうか?

海水に浸かった水田は

塩分で何年も
耕作不能になるのだが

今では日本人にも
説明が必要だ

この1時間 私たちは
ただ映像を見て来た

映像が撮影され
記録されたことで

この光景の存在を
 認識できるのか?

“百聞は一見にしかず”

だが本当は何を見たのか?

地元の人ですら
この映像にとまどう

どこで撮られ 何があったか

すぐには判らない

(ナレーションの字幕翻訳より) 


「見えていること/見えないこと/見ていないこと」「規定可能なこと/規定不可能なこと」という認識の問題は、たとえばフランスの哲学や現代思想では重要なテーマなのに、フランスの批評家でもそこに注目して論じた人がまだいないのは、確かに宮台さんの言う通り、不思議なことでもある。

意地悪を言ってしまえば、映画を「見る」ことがプロである批評家に「いやあなた、見えていないでしょ」とナレーションがさらっと指摘してしまうのは、いささかプライドを傷つけることになるから、なのかも知れない。

実はその四倉出身のお客さんも、富岡駅の津波被害のシークエンスで、何ショットか四倉で撮ったショットが紛れ込んでいることには気づいていなかった。




津波による破壊、破壊の映像とはこのように、同定がとても難しいものなのだ。「見えなかった」ことが「悪い」とか「恥ずかしい」とかではなく、見えないことが実はそれが当然であり、それに気づくことこそが重要なのだと思う。



いずれにしても、この三重の破壊の状況を前にして「正しい」立場など人間にはあり得ない。

「中立」な立場も、宮台さんが指摘した通り、どこかにキャメラを置いた時点で、あり得ない。キャメラはフレームの中しか見せない、あるアングルから見たことしか見せないが、常にその視野の外にも、世界はひろがっているのだ。

それに福島第一の事故を前にして、「私は正しいのだ」といった立場を求めること自体、実はなんの意味もない。

ではこの状況を前にして意味がある価値とは、なになのか?

宮台さんは「美しいこと」と「誠実さ」だと指摘した。

それはまさに、『無人地帯』で僕たちが目指したことだった。映画として徹底して、津波による破壊の風景ですら、美しく見せること。

放射能と現代文明の無自覚な悪意に犯されて行く風景だからこそ、その美しさに気づかせること。

そしてこの映画に出て来る人たちの、誠実さである。


映画の登場人物は、フィクションでもドキュメンタリーでも、自分という存在について誠実でなければならない。そうでなければ、映画の提示する世界のなかで息をする「人物」にはなれない。


『無人地帯』を宮台さんは「SF的な美学の映画でもある」と指摘したが、それも正しい。とくにタルコフスキーのSF映画、『ストーカー』、『惑星ソラリス』『サクリファイス』、そして時代劇なのだが実は極めてSF的である『アンドレイ・ルブリョフ』。

アンドレイ・タルコフスキー監督『ストーカー』

SF、サイエンス・フィクションであって、決してファンタジーではない(『スター・ウォーズ』はたとえば、実はSFではない。スピルバーグの『A.I.』はアメリカ映画で最後の本格SF映画かも知れない)。

SFの世界のなかでは、登場人物はしっかり「人物」でなければならない。決してファンタジーのヒーローではない。しっかりと人間存在であるからこそ、それはSFの世界のなかでのヒーロー、ないし主人公になる。

アンドレイ・タルコフスキー監督『アンドレイ・ルブリョフ』

ちなみに例えば、メルヴィルの『白鯨』の映画化で、ジョン・ヒューストン監督はあえてSF小説家レイ・ブラッドベリに脚本を依頼している。

ジョン・ヒューストン監督『白鯨』


原発事故とは、誤解を恐れずにいえば、SF映画の設定が現実になってしまった状況だ。

『無人地帯』はその意味で、SF映画がドキュメンタリーになってしまった映画だ。

だからその現実となったSF的世界設定の変容のなかでこそ、確固として自分たち自身の存在に誠実であり、そのことに堂々した登場人物が必要になる。

『惑星ソラリス』

『無人地帯』の出演者はいわば行き当たりばったり、偶然に出会った人たちばかりだが、その人たちは映画が必要としているのに十二分過ぎるほど、そうした映画的な登場人物になったと思う。

まるで大女優のような貫禄を見せる人もいる。



キャメラの前の人たちは、その意味で、凄い人たち、まるでスターだ(普通の福島の庶民ではあっても)。

これはある意味、数年来映画化したいと思いつづけている村上春樹の『アンダーグラウンド』で春樹さんの取材を受けたサリン事件の “体験者” たちが、紛れもなくその人たち自身であり、一人一人が東京の一庶民である自分の存在に誠実でありながら、だからこそもっとも完璧な村上春樹的フィクションの主人公達ともなっていることにも、通じるのかも知れない。

サリン事件や大震災、原発事故といった “危機” がその人々をそこまで自らの存在に対して誠実にしたのか(ちょうど大スターがしばしば、鬼監督のしごきで最高の演技を見せるように)、我々が元から凄かった人たちにたまたま出会えたのかは分からないし、今さらそれを問うてもしょうがない。

『無人地帯』の終盤に登場する、飯舘村の比曾の十三仏が、聖なる岩だから仏が刻まれたのか、仏が刻まれたから聖なる岩として祀られているのか、今さらそれを問うても意味がないのと、同じことである。


「美」と「誠実さ」はそれ自体が価値であり、目的であり、超越である。

少なくとも映画という作品においてはそうであるべきであり、『無人地帯』という映画がドキュメンタリーとしてはいささか「面食らう」映画であるのも、まず映画として出来うる限りの作品であることを目指した映画だからかも知れない。

なにかを「悪」と名指しして「告発」したりすることは、この映画の役割ではない。「誰某が悪い」と言いたい目的もないし、映画を作っている我々が「正義」や「正しい」側にいるはずもない。

こと重要だったのは、記録映像としてのこの映画の意義・存在理由ないし賞味期間がなるべく短命であることが、僕たちの個人的な希望であり期待だったからでもある。

この原発事故の映画が「現状報告」としての意味を持つのは、短ければ短いほどよい。

言い替えれば、映画に出てもらった人たちをはじめ、浜通りや飯舘村の人たちが直面している困難な状況が少しでも早く変われば、好転してくれれば、この映画がそれを伝える役割を終えるのが早ければ、それは絶対に早い方がよかった(3.11からまもなく三年になるが、まったくそうはなっていない)。

その一方で映画は映画として、それなりに「使い捨て」で作るものでもない。ならば作品それ自体としての価値を高めるしかない。だからこそ「美」と「誠実さ」はこの映画において、映画それ自体が目指した映画的価値であり、目的であった。美と誠実さこそが人をもっとも感動させ、アートがその鑑賞者の人生を決定的に揺さぶる契機を産むものだからだ。

アートは決してただ「教養」ではない。今の日本の政治家のほとんどが芸術や文化、哲学を語れないのは、ただ「教養がない」からではない。 
政治商売の専門職ではあるかもしれない、永田町という内輪に属してはいるかも知れないが、人間として未完成で自分を突き詰めていない、そういう自己を高めたり変えたりする体験を求めてすらいないで、ただ上昇志向で「えらくなりたい」だけだからではないか?


だが考えてみれば、これも宮台真司さんが指摘したことなのだが、「美」と「誠実さ」こそが、日本の現代社会において、とくに日本の政治において、決定的に欠如しているものでもある。

美意識のない政治、誠実に正しさと信じれるものを希求するのでなく、どこかの「正義の側」に所属するための方便でしかない「正しさ」(の偽装)、そんな「正義」のいずれもが実のところ行き着く先は、社会構造のなかでなんらかの自分のアイデンティティを確保出来るかりそめの場を希求する、利害損得でしかない。

それは徹底して、人間世界の世俗の構造のなかに埋没し、その構造に完全に依拠した「正しいフリ」でしかなく、たとえば「反原発」「脱原発」という正義を装う者たち自身がしばしば、その実原発によって支えられて来た自分たちの豊かさの構造のなかにしか、存在しえない。

…と、ここまで書いたところで、都知事選のあおりを食って新聞の紹介がなかなか出ない今回の『無人地帯』の興行なのではあるが、都知事選のことを考える気がまったくなくなってしまった…。

だって美学も誠実もかけらもないネズミ男が、すでにほぼ当確なんですよ。ある意味で「美学」はそれでもまだあるかも知れない陣営は(脱原発は東京にとって、本来ならこれまでの自分たちの浪費して来た “豊かさ” を問い直す倫理的、かつ自己存在をめぐる美学的な選択だ)鳩山さんが首相だった時と同様、冷笑を気取るマスコミに揶揄されるだけだ。 
そして実はただの権威主義俗物たちとその盲信者カルトでしかない代々木が、上昇志向と俗物的プライドに執着する対立候補を熱烈支援している。赤旗新聞の売り上げと自分たちの「得票数」を自慢するためだけに。



「美」と「誠実」が意味も価値もまだ辛うじて持っていた世界は、日本にもあった(「日本はもはや農民の国ではなくなってしまった。ここを除いては、この人たちを除いては」映画のナレーションより)。そして今、それは、原発事故と言う現代文明の暴走を前に、その暴走が解き放った現代社会の無自覚な悪意を前に、消えようとしている。

だからこそその記録は、SF映画的でなければならなかった--タルコフスキーの映画のように。

『無人地帯』は14日までは12時35分〜 渋谷ユーロスペースで上映しています。

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