最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

2/07/2014

映画とプラグマティズムについて〜『無人地帯』東京公開中



完成お披露目は2012年のベルリン映画祭だから、もう2年前の映画、撮影はそろそろ東北の震災から3周年なので3年前になる最新作『無地地帯』が、(やっと)劇場公開中だ。

映画館は渋谷のユーロスペース http://eurospace.co.jp/detail.html?no=535 
明日2月8日からは、12時35分からの上映です。 
明日の土曜には上映後、評論家・社会学者の宮台真司さんをお招きして、監督(僕)との対談もやります。 
※今後の地方での公開情報は、公式サイトをご覧ください http://mujin-mirai.com



この写真は、『無人地帯』のなかで、現場にいた我々が今見ても、もっとも辛いシーンのものである。

福一から10Kmほど南の常磐線の富岡駅、2011年の4月21日、ここを含めた20Km圏内に「警戒区域」が発令される前日のことだ。

常磐線が海に接近したこの場所は41日前、津波の直撃を受けていた。


実はこのとき撮れなかった、あまりにも壮絶な光景がある。映画の作り手のすけべ心として、今でも目に焼き付いたその光景が映像では残っていないことはちょっと悔しかったりもする。

駅のホームから一望した海側は、ほとんどすべてが流されてなにもなくなっていた。そこを一面、無数の、白い防護服姿の人たちが、さまよっていた。今でもはっきり憶えている、それは悲しさすら吹き飛ぶ、ゾっとする光景だった。

まるであまたの幽霊が、あまりに破壊が激しく全てが消えてしまった原子野をさまよっているかのように見えた。

“幽霊” に見えてしまったのは、福島県警の捜索の警察官のみなさんである。

地震国日本の常識で、瓦礫の下の人の生存限界はだいたい72時間と言われている。本来なら出来れば当日か、翌日には真っ先に捜索に行くべきだったはずだ。いや「べきだ」以前に、この福島県警の皆さんはそんなこと百も承知で、真っ先に救援に来たかったはずだ。

だがそれが実現したのは、ここが津波で破壊されて1ヶ月以上経ってからだ。

40日前ならば、助けに来られたかも知れないはずが、遺体を探さなければならない。なんと虚しく、辛い、それでも必死でやり遂げなければならない作業だったことだろう。

白い防護服だから幽霊に見えたのではあるまい。魂の抜け殻のように、身体の力が抜けてしまった、鬱病患者のような身体になってしまっていたのだろう。

映画で使っているのは、駅のホームから我々に声をかけられた時の映像だ。「どちらの方ですか」と問われ、映画を撮影していることを伝えた。メガホンを持った隊長さんに「どうか撮らないで欲しい」と、命令でも禁止でもなく、頼まれた。

「ここの人たちの家族が、私たちのこの姿を見たら、どう思うと思いますか?どうかこんな姿は撮らないで下さい」

線路を挟んだ向こう側のホームだったが、その目の涙が、僕には確かに見えた。

もちろん、これも映画では撮れていない。キャメラの加藤孝信が僕のそばにいても、やはり撮れなかっただろう。


“震災もの” のドキュメンタリーでは、やたらと作家の倫理的な姿勢が語られて来た。僕は正直にいうとそんな話は苦手だ。僕たちの倫理的な規範は僕たちの内輪のものであり、それをただ満たしたところで、ただの自己満足にしかなるまい。

僕たちの仕事はあくまで、映画を作ることだ。道徳の先生を気取ることではない。そしてこと記録、ドキュメンタリー映画は、必然的に他人様の命を自分たちの作品の命のために搾取する、吸血行為の側面を持つ。

それをあたかも、自分たちが倫理を守るために苦労したかのように語るのは厚かましく、だいたいお客さんには関係のない話だ。そんなことで皆さんの同情を買いたくもないし、批評家にそういうことで褒められるのは、もっと嫌だ。

それに『無人地帯』は、そんなところが褒めるポイントである映画ではない。


だがそれでも、このシーンの「倫理」については語らねばなるまい。

僕たちははっきりと、キャメラの前の人に「撮らないで欲しい」と言われた。その映像は本来で使うべきではないのが基本ルールだし、「撮らないで欲しい」と言った隊長さんの気持ちは痛いほどよく分かる。離れた距離でも、その目の涙は今でも目の底に焼き付いて消えない。

でもだからこそ、「撮らないで下さい」の声をやはり聴いたはずの加藤孝信はキャメラを止めなかったし、編集のイザベル・インゴルドも「絶対に使うべきシーン」と言ったし、僕自身が使うことに最初からまったく迷いはなかった。

なぜか?

このお巡りさんたちには本当に申し訳ない。いずれこの映画を見る機会があって「自分たちだ」と分かったら、ぜひ声をかけて下さい。皆さんの辛さを自分の映画のために使ったことは、お詫びしなければなりません。

しかしこの映像がなかったら、この人たちが体験した辛い体験も、20Km圏内の津波被害地域で多くの人が結果として見殺しになったことも、その意味も、すべてがなかったことになってしまう。

『無人地帯』予告編
用いている証言は、浪江町・請戸でやはり救援が行けなかった事情について

現に死者数の統計データが実はあってもあまり注目もされていないか、下手すれば興味本位のグロテスクな逸話として語られてしまいさえする。

だが映像があり、その記録が映画として残れば、そこに確かにあってキャメラが見たこの悲しい現実が、データの、「何人が死んだ」という数字とは別の、明らかに強い意味を持って、少なくとも見た人の記憶には残る。

恐らくは、僕が確かに見た(人の気持ちなんて目に見えるものではないが、それでもこの時には確かに「見た」)この人たちの辛さ、そしてここで多くの人が見殺しになった悲劇の重みは、少しは伝わるはずだ。

それを伝えなければ、この原発事故の映画を撮ったことにはならない。

これは、最初から考えていた重要なテーマでもあった。

福一20Km圏内からの強制的な避難が発令されたとき、僕がまず思ったのは「生存者はどうなるのだろう?」だった。なかなか避難が進まず「早く逃げろ」とかインターネットで叫ぶ人が多い中、僕が考えていたのは「8万前後の人が慌てて家を離れれば大渋滞になるし、道路で道もガタガタなはずなのに、この人たちはなにを言っているのか?」ということだ。

福一が東京から250Km離れている、トウキョウから遠く離れたフクシマのことだから想像が及ばない、とは言わせない。ちょっと考えれば分かるはずのことだ。だがこの原発事故の最初から、トウキョウの人たちは「フクシマから遠く離れて」とか「フタバから遠く離れて」を気取ったまま、その人たちを人としてみようとすらしなかった。

その点では、官庁も、政治家も、東電も、メディアも、そしてネット上の一般市民も、同じことだ。事故は福島で起こっているのに、僕たちの圧倒的多数は東京の、自分の周囲のことしか認識すら出来ず、「フクシマ」という記号はテレビの映像か新聞やネットの文字列でしかない「他人事」になった。

このズレの認識は最初から僕らにあったし、最初からそのズレを意識して映画の基本構造に組み込んで撮り始めた映画が、『無人地帯』だと言ってもいい。

福島浜通りは、僕たちにとって実際の縁はない場所だった(送電線でつながっていたこと、電気を使っていたことを除けば)。

一度、2004年に原子炉の耐用年数延長が突然決まったとき、ここで映画を撮れないかと思ったことはあった。 
当時、そのポートレイト映画を作っている最中だった土本典昭にも何度か相談したが、土本さんともいろいろ議論した結論は、結局は何を撮れば映画になるのか分からない。それで終わってしまった。

だから僕たちは、20Km圏内が避難地域になってからの双葉郡しか実は知らない。

それでも僕たちは、出来る限りここでずっと暮して来た人たちのまなざしを想像しながらこの地域を旅し、その美しい春を記録しようとだけは決意していた。


これもちょっとしたズレはあるかも知れない。地元の人にとっては毎年見ている春だろうが、こんな美しい日本の春、絵に描いたような風景は僕たちは見たことがない。「まるで黒沢明の『夢』の “狐の嫁入り” みたいだね」と、大熊町の山側から20Km圏内に入った時に、僕は冗談半分で言ってすらいた。



この美しい春の来るふるさとを失ってしまうことは、生活の基盤のすべてを失う現実的な問題としてのショックだけではあるまい。価値観と、アイデンティティすべての喪失にだってなり得る。そんな拠り所にふさわしいほど、浜通りの春は美しい。それはこの春を見せれば、わかること、伝わることだと思う。


だから『無人地帯』は最初から、どんなに悲惨な破壊の風景でも、“美しく” なければならない映画だと、撮影初日から決まっていた。

「美」は単に「きれい」とは違う。「美」は超越的な感覚だ。 
それは文字通り、人と人との垣根、人と世界との垣根を超え得る。 
そして悲劇の現場でもあるからこそ、春の美にウキウキする感情もまた、殺してはならない。

現代の僕たちは、当事者のことは当事者にしか分からない、ということをあまりに気にし過ぎている。

なるほど、確かにたとえば激しい差別を受けて来た在日であるとかいわゆる同和の人たちの気持ちを安易に語ったり、「弱者」相手を気取って同情や憐れみや理解を押し付けるのは傲慢だ。身障者の実際の不便は、やはりリアルな細部では僕たちが気づかないことだらけであり、そうした自分たちの認識の限界については無論、分かったフリなどせずに謙虚にはなるべきだ。

道徳律のお説教の問題ではない。分からないということも分からなければ、会話すら成立しないというプラグマティズムの問題だ。

ところが逆に、そこでどうしても理解が及ばない部分もあることを、現代の僕たちはむしろ自分の怠惰や自分たちの身勝手の言い訳にしてしまっている。

そうやって「分からないんだし」と最初から思ってしまうことそれ自体が、断絶を引き起こし、想像力の欠如は不毛な対立どころか戦争にだって結びつきかねない。

くどいようだが、僕は道徳律として「寛容」とか「理解」を説きたいのではない。『無人地帯』はまるで “道徳的” な映画ではなく、映像の倫理を説く映画でもない。むしろプラグマティズムの映画であり、倫理があるとしたらそれはサミュエル・フラー的なプラグマティズムの倫理だ。

僕たちの、この惑星の上での生存の必然のために、完全には分からないまでも、理解出来るところまでは理解する努力をすべきなのだ。

そして、違いはあまりにも多様であるとはいえ、僕たちは同じ人間でもある。ちょっと考えるだけで分かることはいくらでもあるはず、簡単な知識だけでも、もっと分かるはずなのだ。

撮影中はまったく考えなかった影響が、『無人地帯』には散りばめられているが、昨年5月にロサンゼルスで上映した時に初めて気がついたのが、サミュエル・フラー監督の影響だった。ロサンゼルス郊外の大学での上映に、サムの奥さんのクリスタが駆けつけてくれて、サムの映画をちょっと引用しながら、質疑応答やその後の会話で、この映画の意義を雄弁に語ってくれたのだ。


そう言われて気づいたのは、スタイル的にはほとんど影響がないと言っていいサミュエル・フラーの映画と、なぜか学生のころにサムにずいぶん話を聴かせてもらった体験の、自分にとっての意味の大きさだった。

『ホワイト・ドッグ』撮影中のサミュエル・フラー
サミュエル・フラーの映画の撮り方や構造それ自体は、乱暴なまでにシンプルであることはよく知られている。必ずしも僕の映画の美的だったり、形式への意識を重んずるスタイルとは、似通ったものではない。

 サミュエル・フラー監督『夜の泥棒たち』

だが乱暴なまでにシンプルだからこそ、サムの作り出した映画は複雑だ。

『裸のキッス』

犯罪映画では犯罪者に堂々と自分たちの論理すら語らせるフラーは(たとえば『拾った女』では、リチャード・ウィドマーク演ずるスリがFBIの「愛国」をせせら笑う)、人種差別の問題にも常に果敢に挑んだが、そんな時の彼は大胆にも「差別される側」に映画の視点をあえて置いた。ユダヤ人とはいえ自分は白人の側なのに、差別される側の自己差別コンプレックスの問題ですら『クリムゾン・キモノ』や『ショック集団』で痛烈に描いている。

サミュエル・フラー監督『ショック集団』

巨匠をサムと愛称で呼ぶことに厚かましさを読まないで欲しい。もちろんもの凄く偉い人だし、僕が会った時には下手すりゃ孫の年齢だ(実際には、娘さんのサマンサと僕はほとんど歳が変わらないけれど)。でも「ミスター・フラー」とは呼ばしてくれない雰囲気なのである。

サミュエル・フラーは驚くほどに、人間をまったく分け隔てしない人だった。いや「good guy」と「son of a bitch」の区分けだけは、はっきりしていたかも知れないが。

『ホワイト・ドッグ』
調教師(ポール・ウンィンフィールド)は、人種差別主義者によって黒人を襲うよう調教された白いシェパードを、再調教しようとする。
だから自分とは異なる、差別される「他者」でも、たとえば『ホワイト・ドック』では導入はクリスティ・マクニコル演ずる白人の若い女優の視点の物語が、黒人の調教師ポール・ウィンフィールドの視点に横滑りする(この人物は、サムの映画のなかでもっとも直球にヒロイックな人物だ)。

『ホワイト・ドッグ』

そのサミュエル・フラーの影響というか教訓が、自分の無意識に刻印されて、それが『無人地帯』という映画にも反映されていてよかったと思う。これは“道徳的”な問題ではない。サミュエル・フラーの映画作りのあらゆる局面と同様に、プラグマティックな生存のための必然なのだ。

人間は、ある程度までなら必ず理解し合える。

もし理解し合えないのなら、最低限の想像力すら相手について働かさないほどに我々が怠惰であるのなら、我々がこの狭くなった惑星の上に生き延びることは、現実の問題として限りなく不可能になる。

「好きになる」ことではない。たとえば「やさしくする」ような話ではない。「敵味方」の問題でも、もちろんない。

具体的に理解し想像する必然のプラグマティズムであって、場合によっては戦争をする、戦う敵だからこそ、その行動を理解し動きを予想しなければ、勝つことはできないというのも、実際に第二次大戦の激戦を生き抜いたサムの教えてくれたことだ。

「映画を撮る時の準備は、戦争の準備と同じだ。あらゆるリスクの可能性に対応出来なければいけない」

『最前線物語』

もっとも、現実は常に想定を凌駕するのも、東日本大震災の教訓であって、それは天変地異だけではない。『無人地帯』はこの劇場公開の前に、まだ完全には完成しない段階で、実は2011年の秋に東京で一回だけ公開上映している。この際に起こったことは確かに、想定すべきはずがまるで想定していなかった「リスク」だった。

ゴダール『気狂いピエロ』にゲスト出演したサミュエル・フラー

東京フィルメックス映画祭でコンペ部門で上映したい、と言われ、早く現状を伝えることは重要だと思い、喜んでプログラム・ディレクター市山尚三氏の好意を受けたのだ。

結果からすれば、これは僕と、それにもしかしたら市山さんの「想定外」、言い換えればその限界を突きつけた出来事になった。僕はともかく、市山さんはとても誠実で善良でやさしい人だ。まさかこの映画を見て、彼も信頼する自分の映画祭の観客のだいたい半分が、剥き出しの敵意すらこのシンプルな映画に向けるとは、二人とも思ってもいなかった。

いや実は僕は上映中には気づいていた。そばにその後まもなく亡くなったドナルド・リチイさんがいて、この映画であちこちに写る寺社仏閣や道祖神や地蔵や石仏などなど、それにお墓にちゃんと反応なさるのを見て、リチイさんには分かってもらえたと思うのと同時に、客席の半分ぐらいの雰囲気が、どんどん彼ら自身にとっていたたまれない、ナーバスなものになって行くのも、肌で感じていた。

この辺りが僕が市山さんほどに良心的な人間ではない部分なのだが、こうなると半ばおもしろがっていたりもする。 
なるほど、確かに相当に厳しい部分があることは、自分でも分かっている。その意味では「東京の観客を試す」ことにはなる映画ではあり、ある意味でその当然の結果になったわけだから。

河北新報でインタビューをしてくれた齋藤敦子さんには「この無視の仕方は、日本の映画マスコミがここまで駄目だとは思わなかった」と、まるで僕の代わりに怒って頂いて恐縮してしまった。日本経済新聞はこの映画祭のまとめを、朝刊最終面の文化欄で大きく掲載したが、3.11と福島原発事故を扱った日本映画が出品され、一応は審査員スペシャル・メンションを受けていることにまったく触れなかったのだから、さすがに恐れ入る。

いくらなんでも「大手メディア(それも日経)は原子力推進派」だからではあるまい。

ある意味、想定の範囲内ではあった。東京のメディアがいかに被災地の不信感を買っていたかは、それが現実であり、またこの映画の基本構造として最初から認識している「そこ」と「ここ」のズレの典型である以上、避けては通れない。それが新聞社やテレビ局の人には、言われたくない批判に見えた、聴こえた、僕を「反マスコミ」の敵だとくらいに思われたのかも知れない。

慰安婦問題で日本人の一部が韓国を「反日だ」と思い込むのと同様の、どうしようもなく自己中心的な認識の歪みではあるが、大手新聞社のいわばエリートって、案外とそこまで弱々しく、こう言っては悪いが妙に子供っぽいものなのだろうか?
それにしても市山さんには、申し訳ないことをしてしまった。 
市山さんのような善良で誠実な人には、「人の悪意」というものに対して、ほとんど想像がつかない面がある(それはこの映画の撮影の加藤も、関係者も全員共通する)。なにせそういう悪意が自分たちにまずない感情なのだから、「自分だったらこう」という想定を、働かせようがないのだ。

結果論からすると、やらない方がよかった上映だった気がする。

ただ強いて言えば利点は、この段階で、いささか窮屈な、僕の映画にしてはゆとりやユーモアの部分が足りないのと、無人の20km圏内はもっと徹底して無人であるべきこと、音がドキュメンタリーでは普通のステレオ音声がこの映画のためにはふさわしくないことが分かった。

そこで5.1チャンネルのサラウンドで音を作り直し、より感覚的な部分を重視し、いくつかのシーンを「息抜き」で付けたし、やっと映画としてのフォルムに到達したと思えるのが、ベルリンで初上映した完全版だ。

ある意味で「別の映画」にもなっているかも知れない。

ユーロスペースでの公開は、このサラウンド音声も含めて完全なバージョンの上映になる。 
批評家であるだけでなく字幕翻訳でも日本の第一人者の一人である齋藤さんに指導してもらってナレーション部分の日本語字幕も全面的に作り直した。

とはいえそれでも、『無人地帯』が東京の人の一部には「耳が痛い」「ムカつく」映画になるのは、変わらないかも知れない。


東京の政府は
救援を許可しなかった
 
警察や自衛官が
重度に被曝した場合
 
自分達に責任が及ぶことを
政治家たちが怖れたのだ
 
また何もなかったとしても 
原発事故の不安と興奮に
浸りきった世論は
 
やはり政府を攻撃しただろう  
(ナレーションの字幕翻訳より)


なぜなら、震災当初から僕たちが気づき映画の基本構造にしたズレ、福島浜通りの人が実は最初から気付いていたこちらの側の無自覚な “悪意” というか、悪意ですらなく単に「福島が見えていない」ことの非人間性はまったく変わっていないどころか、もはやあの時あれだけ騒いだ「フクシマ」すら、もう忘れようとしている。

都知事選の争点は、細川護煕さんと小泉純一郎さんタッグの出現で「脱原発」になったはずだった。だがそこでも「福島」も「フクシマ」もなかなか語られず、小泉さんがいくら街頭演説で口にしても、それは報道に結びつかない。

福島浜通りは、皆は「250Km【も】離れて」というがそれは違う。

本来なら「【たった】250Kmしか離れていない」と考えるべきなのだ。

こと今の段階で、東京の僕たちがまずその努力をしなければ、あえて言うならこの国が国と民族として生存すること自体が、どんどん困難になる。

サミュエル・フラーが第二次大戦中から持っていたベル・ハウエルの16mmカメラ

クリスタ・フラーが公開に合せて「この映画は重要なステートメントだ。単に日本にとってでなく、この惑星の上での私たち皆の生存のために」というコメントを寄せてくれた。

彼女の夫サミュエル・フラーの映画のほとんどに、僕の映画以上に当てはまることだとも思う。


そして、映画というのは、「他者に興味を持ち、理解できる範囲では他者を最大限に理解する」ためのとても役に立つ道具でもある。映画のキャメラは原理的に、なによりもまず「他者」に向けられるものであって、映画は決して直接的に「自己表現」の手段ではない。


農耕の神の御社が
農村を見守っている
 
普通なら
牧歌的な農村風景だ
 
だが この農村は
まもなく消えていく
 
ここ以外の日本が
存在を許さないのだ
 
ここは無人地帯の南端で 
放射能は 北西に広がったはずだ
だが例外は許されない 
個々の村落など
些細なことなのだ
 
この農村もまた些細なこと 
些細なこと… 
それが生活すべてを
左右するのに


私たちはそれぞれに異なっている。だからこそ映画が存在する意味もあるし、映画を作ることも出来るのだ。

東京の文化と福島浜通りの生活文化は確かに違う。飯舘村の農村文化は、海に面した浜通りともまた少し違う。それでも僕たちは、分かる範囲では分かり合えるはずだ。映画はその役に立つはずだ。

原子力のことはもちろん重大な問題だ。

なによりもこれは「見えない」そして「分からない」不安と恐怖の問題である。


役場から長泥に向かう峠では 
晴天なら40Km先の
福島第一原発が見える
 
だが見てどうする? 
原子炉の中のことは
データでしか分からない
 
この事故では
データは極度に断片的だ
 
停電で ほとんどの計器が
止まったからだ
 
放射性物質も目に見えない 
その見えない微粒子が
偶然 風に運ばれて
 
雨と共に この風景と
人々に降り注いだ
 
それでも見たいのは
ただの悪趣味か
 
あるいは このすべてに
意味を求めるせいか
 
見えない破壊の不安から
何か見たいだけなのか
 
他には何も見えないのだ


でも「見えない」、そして「分からない」からこそ、そこに向き合う僕たち人間どうしでまず分かり合う努力をしなければならない。

いや僕たち東京がまず、これまで40年間 “ここ” の電気を作るために原発と共に生活して来た人たちを、分かる努力をしたっていいはずだ。


福島浜通りには 原発が1つでなく 2つ
火力発電所も4つある 
いずれも地元のための
電力でなく
 
250Km先の東京のためだ 
これは福島第二の4基の
原子炉の1つの煙突だが
 
西洋なら巨大な力を表す
大きな建物にしただろう
 
日本の原発は見えない 
東京の皇居と同じだ 
森に囲まれ
外からは見えない
 
“見えないもの”…


実は “そっち” の方では、我々のことはすでに我々自身以上に理解していることも含め。

僕たち東京の側の無自覚な悪意や薄情さ、軽薄さも、実は “その人たち” はちゃんと見ている。その目を僕たちは恐れてはならない。

恐れて逃げたって、なにも始まらないのだから、そんなのはプラグマティックじゃない。



なによりも、東京の世論が放射能パニックで浮き足立った結果、救出されずに亡くなった、20Km圏内の津波被災地の死者たちが、自分たちの犠牲から僕たちがなにかを学ぶことを、静かに見ているのかも知れない。

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