最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

7/04/2013

日本人と韓国と在日コリアンと…


新大久保、通称「イケメン通り」
日韓両国共に新政権になって初めての外相会談が、ASEAN総会でやっと実現した。

いわば速報のかっこうで報じたNHKの月曜9時のニュースは、なかなか滑稽だった。ブルネイからのレポートは、韓国側を待つ緊張しきった我らが岸田外務大臣の、いかにも落ち着かない顔のアップから始まった。そこへにこやかに現れた韓国外相は紳士的に握手を求め、そして会談の冒頭に切り出した歴史問題の(これが今の日韓のほとんど唯一にして最大の懸案、これをクリアせずにはなにも始まらない話である以上、真っ先に出て来ないと思う方がどうかしている)、その持ち出し方が凄い。

「今さら詳細を我々が言わずとも、日本側でもなにが問題かは、もう十分にご承知でしょう」

NHKがそこですかさず、麻生副首相が今春靖国神社を公式参拝する姿を挿入するのだから、珍しく政府におべんちゃらでない報道を、われが公共放送様はやっていたわけだが(速報だったので上層部などの「自粛」圧力がかかる時間がなかったのだろう)、岸田氏は安倍首相の国会答弁などの内容の説明に終始したそうで…

…呆れた。韓国側のイヤミなまでに配慮を効かせた、余裕な大人の外交に対し、こちらはまるで子供の遣いだ。

いやまったく、ここのところ日本の外交はあまりに子供じみているとしか言い様がない。 
日本のマスコミが一生懸命馬鹿にしようとする北朝鮮の、どうしようもない三代目であるかのような偏見丸出しで報道されて来た、金正恩第一書記にしたって、そんな差別蔑視と願望がないまぜになった我々の「期待」に反し、権力委譲は成功させ、若き指導者として堂々としている。外交手腕もたいしたもので、日本なんて飯島総理補佐官の極秘だったはずの訪朝を公表されるなど、完全に手玉にとられた挙げ句、もはや相手にすらされていない。 
北朝鮮を敵視するならするで、自らの差別的傲慢さで相手を見下し、見くびって、まともな分析すらできないほど目が曇って情勢を見誤るようでは、これこそ「平和ボケ」としか言い様がない。

その我が日本政府と来たら、もはや同盟国であるはずのアメリカ合衆国に、新政権の極右歴史修正主義が嫌悪され、露骨に警戒と無視の使い分けで遇されているほどだ。

もう日本のマスコミは忘れたつもりらしい、橋下徹大阪市長の慰安婦問題をめぐる発言でも、日本では自民党に対して維新の党代表である氏の失点かのように報道されたが、海外から見れば同じ危険な、当然批判されるべき兆候に属することでしかない。

誰が見たって、韓国外相の弁の通り「なにが問題かは、もう十分にご承知」なはずなのだ。

日本側が、自分で墓穴を掘って国際的な信用を失墜させた一連の領土・歴史問題について、きちっと解決するよう動く以外にないのに、その日本政府はまるで子供のように駄々をこね続けて、マスコミが一生懸命持ち上げてくれる国内に引きこもり、たまに海外に出れば岸田氏に至っては叱られた子供のようなしどろもどろに終始する。

68年前にやっと独立を回復し近代国家としての第一歩を踏み出し、ほんの20年ほど前にやっと現代的な民主国家になった若い国相手に、近代国家の独立国としてだけでも140年以上の歴史を持つ超大国であるはずの日本は、相手が大人であるのに対して、どこまで子供、幼稚なのか?


大人としての最低限のこと、配慮するにせよ敵対するにせよ「相手の立場や、相手の視点から見たら事態がどう見えるか」を考慮する、建前にせよ相手に通用する筋論はちゃんと通す、ということが、まるで出来ていない。

まるで説得力のない子供の駄々を繰り返し、自分たちが過去に他国に対してやったことを自分は勝手に忘れたか、自分だけの都合でいい加減な歪曲を平気で言い、相手の感情を踏みにじり、建前上でもさすがに黙っているわけにはいかない状況を日本が作りながら、その誤った歴史認識を問われると「反日だ」と駄々をこねる。

幼稚であると同時に、相手を人間として見られていないことが、ミもフタもなく差別意識丸出しである。

我が国はいったいいつまで、アジア蔑視を続ける名誉白人でありたいのか?もはや世界は変わりつつあるのに、途方もなく時代錯誤だ。

とはいえ戦後も日本が延々と続けて来た朝鮮半島蔑視や、国内の在日コリアンへの差別感情は、この10年20年で劇的な変化を遂げた。



昨年の日本映画を代表する作品『かぞくのくに』ヤン・ヨンヒ監督など、在日の友人らに言わせれば、昔では考えられないという。実際、ヤンは『かぞくのくに』のモデルになった、脳腫瘍の治療で一時帰国したもののすぐに北に戻った兄に(ちなみに今でも病気は悪化せずに元気だそうで、映画を見た人は安心して下さい)、この変化を説明しても信じてもらえないほどだ、という。
今や通名でなく民族名を堂々と名乗るヤン・ヨンヒが2012年の日本を代表する映画作家になったり、姜尚中氏が日本を代表する知識人の一人で政治学だけでなく漱石などを論じ、震災後の日本人の琴線にもっとも踏み込んだベストセラーの小説家−これは確かに以前は想像すら出来なかったことだ。

日本人の在日コリアンや、韓国への感情は明らかに変化している。

結局、韓流ブームの力なのよね、とヤン・ヨンヒはいう。

ことさら我々日本人が「差別撤廃」の努力をしたわけでもなんでもなく、在日である彼ら自身と、そして韓国芸能界のしたたかな戦略と努力の成果であることは、我々は謙虚に受け止めなければならない。

と同時に、有り体に言えばペ・ヨンジュンとカン・サンジュンという二人のモテ男に日本のおばさんがキャーキャー言いたい欲望に率直になったこと、そして我々の胃袋に素直に訴える韓国料理の、色男&胃袋効果は、どんな政治理念や「意識の高い」人たちよりも、差別撤廃に有効だったと認めざるを得ない。



5月に、ロサンゼルスで拙作『無人地帯』を上映した時、招待してくれたトラヴィス・ウィルカーソンが、ウィルシャー大通りとヴァーモント大通りが交叉する近辺の、LAのコリアタウンに、弟のディランと一緒に連れて行ってくれた(兄弟でトラヴィスの映画『殊勲十字賞』に出演している)。

僕がこのすぐ南のサウスセントラルの南カリフォルニア大学に通っていた、92年5月の暴動の直後とはえらい違いだった。バスしかなかったのが、ダウンタウンに直結の、地下鉄の大きな駅も出来ていたし。


ある意味、暴動で半ば廃墟にまでなったことが逆に、いちから建て直すきっかけになったのかも知れない。今やコリアタウンは週末の夜など、もっっとも安心して出かけられ気楽に楽しめる地域のひとつだ。チャップマン・プラザの韓国焼肉店Kang Hodong Baekjongは、韓国系だけでなくあらゆるアジア系で大繁盛だ。


ここでも、女性がいい男を見てキャーキャーいいたい欲望と食欲に忠実であることが、人種偏見を乗り越えることに最も有効な戦略であることが、ベタに実践されていたりする(笑)。

もはや東京のリトル・ソウル化している新大久保も、20年前にはラブホテル街で夜歩くにはちょっと怖かった(フィリピン人の娼婦にすぐ声をかけられる街だった)、次第に韓国からの新移住者が根付き始めた頃とは、とんでもない違いだ。

つくづく、男の性欲というのはしばしば後ろ暗く、暴力的で差別的になりがちで、相手の人間性を無視する強引な支配願望とごっちゃになってはロクでもない結果に結びつくのに対し、女の素直な欲望は、むしろポジティブで現実主義な知性を産むものなのかも知れない、と思ってしまう。

韓流ブームでまずおばさんが集まり、K-POPなどの人気で若い女性も韓国人イケメンにキャーキャー言いたい欲望に素直になり、手軽にうまいものを食べたい我々の欲望に応えて韓国料理の店が立ち並ぶ今、ここは週末にもなれば東京でもっとも気楽なデート・スポットであり、家族連れも多い。

それだけ「韓流ブーム」はもはや一過性の「ブーム」を越えて、我々の文化に定着し、日本と韓国が知ない国になり、在日コリアンという少数者が、我々の対等の社会の成員に少しは近づいたのか、でもある。

戦後は闇市から始まった大阪の鶴橋も、建物の雰囲気は昔のままでも、人が集まり楽しむ賑やかさは、過去とは別世界だ。


藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』2013、編集中)より

大阪市生野区、御幸通り商店街および鶴橋駅前

だが繰り返すが、これは決して我々の日本社会が意識的に、良心的に、差別の問題をなんとかしようと努力したことではまったくない。努力したのは彼ら在日であり、あるいは韓国側であり、我々の側は彼らに、徐々に偏見を取り除いてもらっただけなのだ。

そんな街で、最近、「韓国人を殺せ」だの「在日は出て行け」だのと叫ぶ “デモ” が行われ、ちょっとした話題になっている。


いや以前から職安通りには右翼の街宣だとかががなり立てることはあったし、たまたま遭遇すると単に迷惑だし、感じのいい韓国料理店の人たちにも悪いしで、「飯の邪魔だ、うるさい。ちたあ場を考えろ!」とつい怒鳴りつけてしまったこともなきにしもあらずなのだが、最近の騒ぎは「在日特権を許さない会」とやらが主催の自称では「デモ」なんだそうで、ネット上で人を募り、それに反応したネット上の人たちが「カウンター・デモ」を組織し、かなり注目されているかのように見える。


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先述の日韓首脳会談でも、韓国側から日本側に対処が要請されている。

とはいえ、これが日本のネット空間の特異さでもある。

実際にそうした「デモ」が行われ、「カウンター」との激突があるらしい週末に新大久保に行っても、それはたいがいごく少数の、一過性の出来事に過ぎない。いわば在日や韓国人ニューカマーを「守る」つもりのカウンター側も含め、新大久保なら新大久保のリアルから浮いた存在なのだ。

これを欧米にはびこるネオナチの極右のヘイトクライムと単純に比較するのもどうかとは思う。


アモス・ギタイヴッパールの谷で』より、ドイツ、ヴッパタールのネオナチの若者たち

あちらの極右運動は、実生活で追いつめられたり(労働者階級では職の奪い合いにもなる)する庶民の不満が、人種差別の排外主義に結びついたものであり、露骨に暴力的だし、広がる危険性も高い。フランスではそうした排外主義を掲げる国民戦線が、かなりの得票を得て、大統領選挙で決選投票まで残ってしまったりすることもある。

この「在特会」とやらにせよなんにせよ、現実から遊離した大人になれないコドモたちのおままごとに過ぎず、彼らの敵視する「在日」や韓国人も、決して新大久保で日々商売に専心するリアルな生活者であり商売人の人々ではなく、彼らだけが内輪で共有するネット上のファンタジーにしか見えない。

彼らが言い張る「在日特権」とやらもお話にならない絵空事であり(被差別部落差別をめぐる「同和利権」などと言った偏見デマの、本気でどす黒い都市伝説からすれば、パロディにしか見えない)笑ってしまうほどだ。

下手すれば「韓流イケメン」がモテること、女達がキャーキャー言うことに、非モテ君たちが焼きもち焼いてるだけなんじゃないか、と思えてしまうくらいに、魅力どころか存在感もなにもない。



新大久保はともかく、鶴橋であんな「デモ」やっていたら、地元の本物の地回りさんが怒り出した日には、彼らの身の安全の方が心配になりそうなほど…こう言っては悪いが喧嘩に弱そうでもある。

…なんというか、欧米のネオナチやスキンヘッドが暴力集団の匂い(と魅惑)を本気で秘めているのに対して、あまりに子供っぽいのだ。 
とはいえ「殺せ」などと叫ぶは、いかに喧嘩に弱そうな年増の坊やたちとはいえ、徒党を組めば看板を蹴飛ばして壊すくらいの危害はあるし、だいたいみっともないし、単純に社会の迷惑だから、とっとと黙ってもらいたい、カウンターでもなんでもいいから叱りつけて懲らしめてやった方がいいのはもちろんだ。

…とは思いつつ、「我々は反レイシズムの正義だ」と吹聴する方にも、違和感を覚える。

彼らがしきりに主張するような、そうした「反韓デモ」とやらが日本の危険な右傾化を代表する、闘うべき「巨悪」であって、自分達は日本の危険なレイシズムの勃興と闘う尖兵なのだ的な現実は、そうしたデモや衝突のある新大久保や鶴橋の現在には、まったくないのではないか。


今日本で起こっていることはたぶん、古典的なナショナリズムや排外主義をめぐる理論だけでは、完全に説明できない。

これは右派排外主義の発露ではない。批判者になるかも知れない他者を恐怖し、その認識を拒否して内輪に引きこもる者達が、必死にそのパロディを演じているだけなのだ。

だから「反レイシズム」を自称する側も含めて、むしろネット上での彼らの「子供の喧嘩」が、ただ現実の路上にはみ出しただけにも見える。


その現実の路上にあるはっきりしたリアルとは、身近な異文化を素直に楽しむ、遥かに大勢の日本人の姿であり、そしてなによりも、自分達に向けられて来た長い差別の歴史を、多くの苦労を重ね、屈辱に耐え、犠牲を払いながらも生き延びて、逞しく生き続けている在日や、韓国から来て働く人たちの姿だ。



それは今さら「いろいろご苦労もあったのでしょう」「差別されて大変ですよね」と声をかけるのもためらわれるほどに、ポジティブだ。


今までの連綿たる差別の歴史をなにも知らないままに(知らないのもどうかしてるし、その無神経なままに差別して来た側の日本人が「仲良くしようぜ」をスローガンにするのも、とんだ厚かましさだが)、突然ネット上の「反差別」ブームにのった日本人が、どんなに「正義」をツイッターかなにかで訴えたり、己の「意識の高さ」を気取ったところで、どっちがよりえらいのか、現実の世の中で人を動かし、成果を上げているのか、人間として高級なのか、存在として有無を言わせぬ説得力があるのかは、明らかだろう。


大久保通りから職安通りにぬける路地のなかでも、とりわけ賑やかな通りは、料理店の呼び込みにハンサムな韓国人の若者(まさに「韓流イケメン」)が多いことから、「イケメン通り」と呼ばれている。

カレシ連れの女の子でもばっちり呼び込めてしまうんだから、まあたいした商売である。



ズケズケものを言う韓流おばさんによれば、やっぱり軍隊で鍛えられているから違う、どこか引き締まっているのだという。その真偽のほどは不明だが、おおむね日本人の同世代よりはしっかりしてる、男っぽい、これはやはり軍隊なのか、身体の動きのキレがいい、ってことにはなるのかも知れない。

いやまだ若い国であり活力があり、民主化以降の世代は、自国の抱える虚構のナショナリズムのアイデンティティの歪みを冷静に見つめられているから、だとも思うが。

この通称「イケメン通り」は、新宿から高田馬場まで徒歩で帰る時や、食事に行ったりでちょくちょく通る道なのに、こないだの日曜日に初めて、この通りに二年前から掲げられているのだろう垂れ幕に気づいた。


なるほど、日本人が考え出した「震災復興」のどんなスローガンよりも、圧倒的にリアルな説得力と共感力がある。

いろんな苦労を生き延びて逞しく堂々としている人たちの知性の本物っぷりは、まことたいしたものなのだ、というところなのだろうか。


そんな人間らしさこそが、我々が先進国の、豊かで恵まれて文明化されたぬるま湯の生活のなかで失ったものなのかも知れない。いや安倍晋三首相を筆頭に、今や自民党の圧倒的多数を占める二世、三世議員なんてその典型みたいなものなのだろうが…

…いかに過保護で世間知らずとはいえ、あまりに子供っぽ過ぎるだろうに。



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