最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

7/28/2012

大津の中学校いじめ事件をめぐる言論の倒錯

大津市でいじめの被害に遭った中学生が自殺していた事件−−というより、報道される状況を見る限り、自殺ではなくリンチ殺人であった可能性も否定出来ない−−について、インターネット上に加害少年やその親、「やり過ぎるなよ」と言っていたらしい教師の実名が流出し、インドネシアのスカルノ元大統領の第三夫人根本七保子氏が自分のブログに掲載して叩かれるなどしているらしいが、話が根本的におかしい。

スカルノの妻だっただけで大きな顔して芸能人、だなんてまったく好きにはなれない人物であるが、今回の根本氏の行動で本当に問題なのはほぼただ一点、事実確認を怠ったことだけだし、これとて本来ならジャーナリズムが報じていておかしくないのに報道していないことの結果に過ぎない。取り上げられていれば、根本氏はただコメンテーターとして加害者を厳しく批判できただろうし、根本氏の責任はその意味で、些細な問題でしかない。

なるほど少年法では、犯罪少年のプライバシーは保護することになっている。

だがこれは、あくまで犯罪少年の将来への配慮から、ちゃんと反省し更正するのなら過去を引きずって名指しで責められることを免除してあげなければかわいそうだという立法精神に基づくものであって、「違法だからダメなんだ」あるいは「事実確認を怠ったデヴィ夫人は許せない、極悪人だ」と言わんばかりに批判すのは、まず叩きたい欲望が先にあって、近代法治主義が分かってないで法律に叩く理由を見つけて理不尽に他人を攻撃したい欲望を満たすだけの、いわばいじめの心理にそっくりの言動だ。

そして我慢ならないほどいやらしいのが、根本七保子氏を必死で叩く人々の動機が透けて見えていて、それが極めて卑しく姑息なものであることだ。

それは今回の事件でいじめが問題になったとき、毎度おなじみであるかのように「識者」の多くが呪文のように繰り返すだけの偽善も、同じ動機を持ったものだとも思う。

これらまことしやかに語られる偽善というのは、たとえばまず、「いじめ被害に遭ったら、学校に来なくていい」「学校に行かなければ死なないで済むじゃないか」という言い草である。

いじめられっ子は邪魔だから、お前が来なければいじめは「解決」するよ、と言わんばかりの言い草なわけですが、差別事件と同様、問題は被害者の側にあるとして、その被害者を徹底的に排除することで解決を図るわけですね。

被差別部落問題在日コリアン問題でもこれを延々とやり続けているのが、ここ何十年かの日本社会の毎度おなじみのパターンである。左翼や市民派を気取った人々も、やっているのは「被差別者の支援」であって、決して差別の問題解決のためのアクションではない。

子供がいじめを解決しようとしない学校や教師、いじめをしてくる同級生らへのあてつけとして、いわばボイコットとして登校を拒否するのなら、どんどんやっていい。それもひとつの身の守り方であり、抗議のやり方だ

登校拒否児が出れば教師の査定や学校の評価にも響くんだろうし、それくらい困らせてやらなければ割が合わないし、だいたい動こうとしないだろう。

なにしろちょっと真面目に教師をやっていれば気づくはずのいじめを、見て見ぬフリし続けておいて、問題になったら「気づきませんでした」とか平気で言うのが今時の…というかいじめが社会問題化して30年来の「教育者」サマたちの、極めてありがちな姿だ。

だが「学校に来なくていいよ」はおかしい。まあなんとも分かり易い排除の論理、いじめの完成の欲求の表出でしかないことも自覚出来ないのだろうか?いじめの原因はいじめた側にはない。あくまでいじめをやった側と、それを許した教師・学校側の問題だ

ところがその肝腎の原因の側の責任が、世論ではなぜか無視されがちなのである。最悪、加害者が責められると「いじめと同じだ」という暴論まで飛び出して来る。どう考えても異様な事態だ。

あるいは、これは総理大臣の野田まで言ったらしいが、「信頼できる大人に相談しろ」という話がある。

おいちょっと待て! なに寝ぼけてるんだ?

大人がそんな信頼にふさわしい行動をとっていれば、少年が自殺するほどの絶望に追いつめられるなんてことに至っていないだろうが!

子供に相談される前に教師がいじめに気づき発覚していなければ、教師はいったい子供のなにを見て教師をやっているのか、というだけでも責任は逃れ得ないし、そんな見て見ぬフリを決め込んで来た大人たちを、信頼出来るほどにお人良しな子供なんているわけないだろうに。

当の野田さんがおよそ「信頼できる大人」に見えないことは言うまでもなく、小沢一郎グループの離党・新党結成に至った野田の党内運営なんて、個別に議員の携帯電話をかけて小沢の陰口を吹き込み圧力をかけるって…それっていじめっ子の行動パターンそのものじゃないか。

国家政府の代表者の総理大臣が、あまりに軽々しくふざけたことを言うもんじゃない。 
だいたい国家が文部省で管理する国の教育制度、それも憲法上の義務が国家にも課せられている義務教育課程における、学校運営の失敗である。国の代表者たるもの、まずその最高責任者として子供に謝ったっていいだろう。

どちらの偽善も根本的におかしいのは、なぜかいじめの問題解決を、被害者の方に求めていることだ。

そして過去30年、いじめが社会問題化して、「葬式ごっこ」などをやられた少年が自殺したりした80年代前半から今に至るまで、この倒錯は延々と続いている。解決につながるわけがない同じ「解決」策だけを延々と繰り返しながら。

だから今の日本でいじめ問題が解決するはずもないのは、理屈では最初からほぼ分かり切った話であり、そして現実にまったく解決していない。

一方的に被害に遭っているだけの被害者に問題解決を丸投げして、そのいじめという行為をやっている加害者の側の問題を学校が先頭を切って無視し不問に伏し続けて来ているのだから、原因の方への対処をなにもして来ていない以上、いじめがなくなるはずがない

なんでこんな分かり切った単純な話を、この国の教育現場や「識者」たちはずっと気づきもしないままなのだろう?

いや、恐らく、本当は気づいているのではないか?気づいていながら逃げているだけなのではないか?

人間の集団があれば必ずいじめは起こる、と言いたがるのも昨今の「識者」の特徴だ。これには二つの誤謬と倒錯が含まれているわけで、まず仮に「必ず起こる」からと言ってそれが許されていいかどうかはまったく別次元の問題である。

なのに、そこを恣意的に誤摩化しているのがこれら「識者」たちの偽善なのだ。

もうひとつ、誤謬であり倒錯であるのは、人間の集団があれば必ず避けられないのはあくまで「葛藤」であって、「いじめ=葛藤」ではないことだ。

「いじめ」は葛藤のひとつの表出の形でしかなく、避けようと思えば避けられることであるか、あるいはむしろ別の、より本質的な、集団の分裂を招くような葛藤を起こさせないためのいわばガス抜きとして利用できるのが「いじめ」であったりする。

こんな話は政治学では古典も古典、基礎中の基礎に属する話だ。ヒトラーのドイツがユダヤ人を敵視し排除することでドイツ国民の統一を図ったとか、スターリンのソ連や旧大英帝国などが、支配する植民地の境界線をわざと民族対立が起こるように引っぱったとか、世界史には枚挙に暇がない手法。

日本史では(これは最新の研究を踏まえれば、史実とはいささか異なるにせよ)江戸幕府が最下層身分としてえた・ひにんを置いた理由はこれだった、とそれこそ当の学校の先生が社会科の授業で教えている。

だから学校の先生には、「先生がやっていることは江戸幕府の差別政策と同じじゃないか」くらい、いじめの被害に遭っている子供は言ってやっていい。まさにこの古典的な分断支配の方法論を使って「学級運営」をやっているのが、1970年代以降の日本の教育現場の主流なのだから。

…というか、あまりに皮肉なのは、学校教育にこれを持ち込んだのが、表面上は左翼リベラルぶった日教組だった、ということだ

参考文献として、原武史著『滝山コミューン一九七四』をお薦めしておく。何を隠そう、これは東久留米市立第七小学校の話だが、僕は同市立第九小学校の卒業生です。まったく同じことは目撃している。

日教組の教研で推奨された、「連帯責任」を重視したり、班分けで集団ごとに子供を競わせつつ「団結」を強調する、その一方で強引な平等主義で優劣を含む子供の個性を無視しようとする手法が蔓延したことが、70年代末からいじめの蔓延につながり、80年代に自殺者が出るまでに表面化したのではないか。

一方で教育労働者としての権利の確立と、国家権力の教育への介入を排除するのは結構とはいえ、教育者としての能力や矜持に欠け、当然ながら指導力がない教師すら組合で保護され、熱心で優秀な若い教師を教員室や職員会議における「いじめ」的な手法で潰す、ということも並行して起こっていたのである。

こうなればいじめが起こり、それが悪化して蔓延するのは当たり前ではないか。最悪な話(でもなくけっこう蔓延していることとして)、教師がいじめをあからさまに誘発しているか、少なくとも利用している場合すら、ある。

指導力の低い教師は親になんとか胡麻を擦ることで自分の地位を守ろうとする。

その時にはより地域等の有力者である親、他の親に影響力がある親にすり寄るのが最良の選択だし、その親がライバル視したり敵視できる別の親を仕立て上げるのは、もう当たり前の生存本能に近い。

そうやっていじめを誘発することすら、教師のその場しのぎの保身にはなってしまうのだ。子供相手でさえ、たった一人のいじめ被害者と、多数の味方があるいじめ加害者、そのどっちの側におもねった方が「学級運営」は楽になるか。矜持がなく保身が最優先される教師なら、答えは分かり切っている。

過去30年日本で社会問題となって来たいじめの特徴は、誰がいじめられるか分からない、というより普通ならいじめの対象になりにくい、いわば活発な優等生だったりする子供が「生意気だ」としていじめの対象になるのも多いことなのだが、その集団心理のメカニズムの背後にあるのが、実は親のプライドとそこに取り入る教師の共犯行為だったりする実例は、かなり多いはずだ。少なくともその典型例のひとつを、僕は実地で知ってますよ。『滝山コミューン』から分かれて出来た第九小学校ですからね。
またその「いわば活発な優等生」が、平気で教師に向かって「先生がやっていることは江戸幕府の差別政策と同じじゃないか」と言ってしまう子供なんだから、あまりに分かり易い話でしょう。

実は歴史をちゃんと検証すれば、日本でずっと問題になっているようないじめの原因と対策は、極めて分かり易い話なのだ。

なのにほとんどど誰も言及しないし、すぐに出来ることもやらないで、いじめ事件で自殺が起こるとニュースになり、そしてなにも変わらないままの繰り返しで、もう30年である。

だがこれは日教組(と言って、もはやたいした組織率でもなく力もないが)も文科省も絶対に認めないだろう。

自分たちの誤りを認めた瞬間に容赦なく叩かれるのが怖い、だから必死で誤摩化す、逃げるというのが彼らの行動パターンなのだから。

80年代の後半になって「日の丸」「君が代」があたかも日教組と文科省の重大な対立軸になったかのように見えるのも、実はこのいじめの温床となる馴れ合い体質から国民世論の目を逸らす偽装なのではないか、とすら思えて来る。それくらいにあの国旗・国歌論争は本質的にバカバカしいわけで。
ここまで読んでいて、今いじめに遭っている子供、あるいはいじめの被害に遭った人、いじめの傍観者だったり加担者だったりした人は、もう気がついただろうと思う。

そう、「自分たちの誤りを認めた瞬間に容赦なく叩かれるのが怖い」という、この30年間に日本の子どもたちが常に学校の現場で感じさせられて来た恐怖感というのは、実は偉そうな顔をした大人たちも、文科省のお役人も、先生たちも、親でさえ、まったく同じなのだ。

だからこそ「識者」も、「原因の方への対処をなにもして来ていない以上、いじめがなくなるはずがない」という当たり前のことに、一生懸命に気づかないフリをしているのではないか?

「いじめの原因は加害者のいじめる側にある」と本当のことを言ってしまったとたんに、「加害者のいじめる側」の人たちは、それを認めてしまったらそれこそ…そう、「自分たちの誤りを認めた瞬間に容赦なく叩かれるのが怖い」、だから必死で、なりふり構わず、攻撃性をムキ出しにしてまで、否定しようとする

その「加害者のいじめる側」の方、いじめを実は自分たちが利用さえして来た側、だから「加害者」が糾弾されることを恐れる人たちこそが、大人も含めれば現状の日本社会では多数派なのだ。

だからそれこそスカルノ第三夫人、通称デヴィの根本七保子さんのように、「悪いことは悪いのに、こんなことが許されてたまるもんですか」と怒ってしまったら、なにしろ「お前が悪い」と言われていることにつながる話なので、もう必死で叩くしかなくなる。

デヴィ夫人のあの発言は、「世界のセレブ」の「元大統領第三夫人」のイヤミな発言ではないでしょう。あれは八百屋の娘の素朴な庶民の義憤ですよ。

始末の悪いことに、差別の問題であれば差別する側のマジョリティの方がはるかに数が多いのと同様に、過去30年間ずっとこうしたいじめが社会問題であった結果、世の中の多数派の方こそが元は「加害者の側」「いじめる側」であり、いじめをなくすために対処しなければならない「原因」の側そのものなのだ

でも、だからこそ、元は「加害者の側」「いじめる側」であり、今でもいじめをなくすために対処しなければならない「原因」の側のまま、大人になってしまっている人たちに問いたい。

あなた方はその程度の下らない我が身かわいさの身勝手な保身で、子供がいじめで追いつめられて自殺するという悲劇が連続することを見過ごして行けるんでしょうか?


そんなに自分だけがかわいいという態度で、子どもたちに何が教えられるんですか?人間として恥ずかしくはないのでしょうか?


自分の過去のあやまりを、今の子どもたちに繰り返させれば、「自分だけが悪いんじゃない」「みんなやってるじゃないか」といつまでも誤摩化し続けられるとでも、思っているのですか?


こういうズルい大人たちが、いじめられている子どもたちに絶対に教えない知恵を、ふたつほど教えておきます。 
まず、「正当防衛」の権利は誰にでもあります。だからいじめられても、自分を身を守る範囲ではやり返しても、あなたはまったく悪くありません。 
そこでまたズルい先生は、「いじめじゃない、喧嘩だ」として、「喧嘩両成敗だ」と誤摩化そうとするでしょう。その理由はもう分かるだろうと思います。いじめっ子を叱ったりしたらその親がクレーマーになるのが怖いから、そして「いじめ」が発覚したら上司が怖いからです。でもそんな先生には「先生って、正当防衛も知らないんですか」とはっきり言ってあげましょう。さすがにメンツが潰れて言い返せなくなりますから。
「自分は非力だからやり返しても適わない」と思ってるとしたら、心配はいりません。ちゃんと抵抗することのもうひとつの目的は、あなたがいじめられているという事実をあからさまに露見させることだからです。やり返して大騒ぎになれば、先生はさすがに見て見ぬフリはできなくなります。 
そしてそれでも誤摩化す先生には、「出る所に出ます」と言うか、親に言わせましょう。これを言った途端に、先生はあわててあなたの機嫌をとるか、いじめを解決しようとするでしょう。上司にバレたら、立場がなくなりますから。
上司の校長や教育委員会だって同じじゃないか…って思うかも知れませんけど、「だからこそ」騒ぎは大きくした方がいい。無視できない騒ぎになれば、そういう卑怯な偉い大人は、その先生に責任を押し付けることを選びますから。
それでも逃げるなら、マスコミがあります。インターネットがあります。2ちゃんねるなどに投稿するのはあまり感心できませんけど、あなたがいじめを告発することそれ自体は「正義」であるか、少なくとも立派な復讐です。卑劣で臆病な連中のやる理不尽ないじめなどとは、人間としてレベルが違います。 
もうひとつ、これも日本の大人はなぜか子供に教えたがらないのですが、それでも社会科の授業で教えなきゃいけないことになっているので、一応は授業に出て来ます。この世界で民主主義という、今の日本でも採用している、もっとも正しいとされる政治制度の起源と、そこで最も尊重され尊敬されないければならない人間の権利の話です。
民主主義を作って来たのは、理不尽な圧政に対して起ち上がって抵抗して来た勇気ある人たちです。あなたが今遭っているかも知れないいじめと同じようなことです。 
だからこそ、圧政に対して抵抗する権利は、民主主義の社会で最も尊重されるものなのです。これを「抵抗権」と言います。 
先生も学校の中ではプチ権力者です。その先生が間違った、理不尽なことを許してあなたを苦しめるなら、先生は圧政を行う悪い権力者です。そんな先生に抵抗する権利はあなたには生まれながらあるんですから、先生が知らないなら教えてあげましょう。 
「先生、『抵抗権』も知らないで教師やってるんですか?恥ずかしくないんですか?」って。
過去30年間、ここまで社会問題化した「いじめ」をまったく解決出来ていないことは、この国のあらゆる大人の責任であることから、これ以上この社会は逃げてはいけないだろう。

30年と言えば、もはやいじめに怯えて育った世代が、人の親になっている時代だ。こうして悪質で卑劣ないじめの病理が親子で連鎖するのなら、日本社会自体に未来がなくなる。

そしていじめを解決するのなら、唯一真に有効な「いじめ対策」とは、加害者の側にやめさせ、反省させ、原因を取り除くことからしか始まらない。いつまでもその基本の第一歩すら踏み出せないで、このあまりに当たり前の話をなんとか誤摩化すのなら、明日にもまたもう一人子供が自殺するかも知れないことくらい、危機感を持って当たり前ではないか?

いつまで逃げ続けるんですか?

7/21/2012

被災地で映画を撮るということ・その2




7月17日から飯舘村の長泥地区が、「帰宅困難地域」としてバリケードで閉鎖されるので、先々週の日曜日、『無人地帯』の出演者であった長泥在住の鴫原さんに、ご自宅に連れ行ってもらった。

一年の歳月は重い。昨年、桃源郷の春と見紛うばかりの長泥は、農地には雑草が生い茂り、同じ風景でもどこか別のものに変わっている。日本の自然というものが、人の営みと寄り添ってこそのものなのだと、改めて痛感される。鴫原家から見える山の一部は、害虫が発生したらしく、木が枯れてしまっていた。自家用の菜園では、アスパラガスが灌木のように育ってしまっている。ハウスで栽培していた花は、避難後、手つかずのままだ。「なにもする気がなくなってしまって」と鴫原さんは言う。

それでも、それは立派な造りの鴫原家は、ほぼ元のままだ。しょっちゅうここに戻っては、掃除をし、風を入れ、仏壇の花も欠かしていない。

だがこれからは、地元の人だけは立ち入りが許可されるとはいえ、そういつでも戻るわけにも行かなくなる。なによりも、5年間はこのまま…ではその5年後にどうなるのか、政府が今言っているように除染が終わっているのか、その結果住めるようになるのかも、なにも分からないのだ。

『無人地帯』の、いわば続編の撮影である。

当初は富岡町の夜の森の桜をクライマックスに、一年後の春を撮る、というコンセプトで進めていた。町の人たちが地元の誇りである夜の森の桜で花見をしたい、花見の時だけは帰らせて欲しい、と要望していて、町長も最初は乗り気だったらしいのだが…結局は報道陣には公開…つまり「テレビで見て下さい」という形でお茶を濁されてしまった。

テレビで見たからいいでしょう、で気が済むものでもあるまい、かえって辛くなるんじゃないかとすら思うのだが、テレビ局などは律儀に「被災者の皆さん、見て下さい」と、あたかも「いいこと」をした気分である。ひどく虚しい。

皆さんが戻って花見をする姿に、失われた過去を未来への意思につなぐシーンで終わらせるはずだった映画も、終わらなくなってしまった。

そもそも3月末に避難区域の見直しがあるという話だったから、夜の森は線量からして、日中の立ち入りは自由になるはずだった。それが結局、先延ばしになった。時々、政府や行政は、地元の人々が諦めるよう、気力を失うように、わざとイヤがらせでこういことをやってるんじゃないか、とすら思えて来る。

映画の方は映画で、こちらも思うように予算が集まらないこともあり、春、夏、秋、冬と少しずつ、震災一年後からの一年間を記録する映画にしようと、企画を作り直しているわけである。

夜の森にご自宅があった西原さん(今はいわき市泉玉露にある富岡町の仮設の自治会副会長を務めている)の奥さんは、「一年間ずっと、非日常が続いている。これは決して日常ではない」と言う。過去を奪われ、未来の展望はまるで立たない宙づり状態の「非日常」が続くなか、原発事故で避難させられた人たちは、その「非日常」のままが延々と続く現在の、弛緩した時間が、大変な重荷になって来ている。

西原さんは夜の森の桜についても、こうはっきり言っていた--「あの人たちは分かっていない。望郷の念なのだ。テレビで見るだけで慰めになるはずがない。」

思い返せば、事故発生から40日前後に撮影した『無人地帯』の時の方が、ある意味で皆さん元気だった。立ちはだかる巨大なこんなを前に覚悟を決めた直後の人間の強さといえども、それがそのまま何ヶ月も一年以上も、なんの展望もないのに、そう簡単に維持出来るわけがない。

6月には、浪江町に一時帰宅したスーパー経営者の男性が、そのスーパーの倉庫で首吊り死体で見つかった。自殺してしまいたくなる気持ちも、痛い程わかる。なにも変わらぬ非日常が、ただひたすら持続することは、それほどに耐え難い。

人間の社会とは滑稽なものだ。現状、放射能汚染とはいえ相当に低濃度なもので、この程度の被曝によって将来がんが発生する確率はそんなに高くない。本来なら生存本能の延長としてそうした危険を警戒し、然るべき対処を行うことのストレスが、鬱病などの精神疾患や、様々なストレス性の病を引き起こすことの確率の方が、このままだと恐らくは確実に高くなるのではないか。

現状のような低線量被曝の被害はもはや、科学的な次元の問題ではない。純粋に社会的な問題であり、こうした危機に対応できない我々の社会の構造的な脆弱さが、呆気なく曝け出されているとすら言える。

事故を起こした発電所の現状は、よく言えば、まあここ数ヶ月は「安定している」…というよりも冷却サイクルが一応出来上がって以来数ヶ月、基本的に何も変わらないままだ。もっとも、溶け出した燃料を冷やすだけで10年はかかるというのだから、新しいことなど滅多に起こるわけもないのだし、そうなると発電所のことはニュースから消える。

原発事故は継続する事態、持続する非日常であって、なにか新しいことが起こる度にそれで騒げる現代の報道のあり方とは、根本的に矛盾するのだ。

「ニュース」とは文字通り「新しい出来事」であって、持続し継続する状態を報じる仕組みにはなっていない。だから「ニュース」は、やれ4号炉のポンプが故障した、やれ倒壊の危険がある、やれ放射性キセノンが検出されたから再臨界の可能性がある、といった発表には飛びつくが、キセノンの量が分かった結果再臨界はあり得ないこととか、ポンプがあっけなく復旧したこと、汚染水の再利用処理システムがまだ万全でなく、増える汚染水で敷地内がタンクだらけになっていること、そうした事故対応施設が現段階ではどれも仮設であること、作業員の雇用の問題などは、注目を集めることも滅多になく、すぐに忘れられるか、最初から話題にならない。

新たな「危機」がなければ報道が続けられない、だから何かあった時だけは大騒ぎしては数日後には忘れるニュースと、その報道によって福一のことに関心を取り戻す我々の「その他の日本」、その一方には非日常が持続する日常となってしまったまま宙吊り状態の実存に置かれた現実の被災者たちがいて、その間の温度差は、開くばかりだ。

こと我々の側がそのことに無自覚である限り、これは大きな断絶へと繋がって行くだろう。日本の人口は1億3千万、原発事故の避難者10万超、東北三県の津波地震被害も合わせても、たかが30万だ。無視しようと思えば、無視するのは容易い。

宮城以北の津波被災地でも、「過去が失われ、未来が見えない」宙吊り状態の実存は、同じだ。かつて海辺の町並みがあったことを知らない全国の視聴者は、一応は瓦礫が片付けられた(一カ所に集められた)風景を「更地」と勘違いするし、その更地に見える一カ所に瓦礫がうずたかく、丁寧に分別されたまま山積みになっているのを見ても、なんとも思わない。そこが決して「更地」ではなく、ただ今後も利用出来る土地にするのかどうか、決定が先送りにされたままだから、なにも出来ない。待っているしかない。

被災者は無視されるか、自分たちのために政府や社会を動かすには、自分達自身をいわば「見せ物」に供するしかない。だがそれは常に、逆に自分たちの利益に反することに利用されるリスクを負ってもいる。

浪江町や双葉町の町長は、あえてそれをやろうとしたが、本当にそんなこと言ったのかと驚くような発言も、町長が言ったとして話題になった。「毎日鼻血が出て、脱毛もしている」。これはほぼ確実にインターネット上のガセだろうが(急性放射線障害が出るような事態でないことは、地元の人はみんな知っている)、こと双葉町の場合は町役場が埼玉の加須、町民の大半が今はいわき市など福島県内への避難と、ただでさえ「溝」が出来ている。そこへこのような発言をしたということが流れれば、存亡の危機にあるコミュニティに疑心暗鬼を引き起こすだけだ。

そして彼らが国会などで証言したことが話題になったのはほんの数日間だけだ。世間はすぐに、別の話題に飛びつく。

宮城以北の瓦礫処理にしても、瓦礫の有効な活用法を被災地の町長・市長が提案するたびに「被災地は広域処理に反対しているじゃないか」と誤解が広まる…いや誤解ではなく、恣意的な虚偽で被災地を利用しつつ、自分達は被災地の代弁者であるかのように装う、はっきり言えば「人でなし」が多すぎるのだ。

被災地で映画を撮ると言うことは、そんな複雑な困難に直面する地元の人に、直接的に貢献することにはなかなかつながらない。我々が映画で見せることで問題が認識され、それで解決が図られることがあればいいのだが、残念ながら滅多にそうはならないのだ。

映画は速報性のあるニュース・メディアではないし、完成させるだけで早くても数ヶ月はかかるし、リアルタイムで困っていることを世間に伝えて改善を促すような役割は、なかなか果たせない。そのことが起こってから映画が見られるまでには、だいたい1年以上のタイムラグがあるのだ。

あえて言ってしまえば、我々はたかが自分の映画のために出演している人たちを利用しているに過ぎない。

最低限の倫理として、だから我々は、仮に出演してもらった人と必ずしも意見が合わなくとも、それはそれで一人の人間の正当な意見として誠実に伝えることと、仮に意見は相反しても決してその人たちの不利益になってはならない、という倫理的な義務だけは、背負わなければならない。

そのことには、一見矛盾するようだが、ある種の発言は映画では使わないという高度な判断も含まれる。

誤解を招いたり、結果としてその人たちへの観客の評価が不当に低いものとなりかねない発言を、本来の文脈から外して用いてしまうことは、不利益にもつながる。平時ならともかく、今たいへんな困難に向き合っている人たちだ。そこになんの意味もない(誤解が理由でしかない)ネガティブな評価が殺到してしまっては、ただでさえ大変な非日常の生活が、ますます脅かされることになる。

これは映画作家でないと判断出来ないことだ。我々の映画には、魅力的な登場人物が必要なのであって、魅力ある現実の人間というのは必然的に、言うことにも(仮にどんなに意表をつく発言でも)説得力がある。それを見極め、場合によっては引き出すという、ドキュメンタリー映画をやる場合の基本中の基本を、これほど求められるテーマも、「被災者」以外にはめったにないのかも知れない。

一年以上も「非日常」の「宙づり状態の実存」が持続するなかでは、さらに大きな問題がある。「被災者」とひとくちで言っても、立場も様々だし、こと原発事故で避難させられた地域コミュニティでは、今後は「帰れるのか、帰れないのか」「帰らないのか、帰るのか」によって、対立しかねない状況は確実に生まれる。

報道や、ドキュメンタリー映画の撮影が、その対立の火種に着火させてしまったり、その火を煽ることは、やはりあってはならないことだし、それ以前に「撮れなくなる」、つまり撮影は遠慮してくれといわれる事態だってあり得る。

だからといって、あたかも理想的に、皆が仲良く暮して何の問題もないかのように美化することもまた許されない。ドキュメンタリー映画にフィクションの要素が入り込むのは構わないし、むしろ当たり前のことだ。だがそれはそこに登場する人々の真実としてのフィクションであって、決して我々の側のファンタジーを押し付けるものであってはならないのだ。

そして7月16日の深夜、鴫原さん達のかけがいのない土地、長泥は封鎖された。5年間はこのままだという。5年後どうなるのか、誰にも分からない。宙づり状態の非日常は続く。


7/03/2012

映画上映のデジタル化、インディペンデントにとっての利点と問題点

これを言うとたぶん業界内で袋だたきにされるんだけど…ミニシアターの経営者の皆さんには申し訳ないんだけど…僕らの作っているような小規模な、独立系の映画が生き残って行くのに必要なのは、実はシネコンでも上映されるようになることです。


いやかつてフランス映画社配給作品専門館だったシャンテ・シネや、ユーロスペース、今はないシネヴィヴァン六本木など、ミニシアター文化最盛期にいろいろな映画を見ることがで育って来た世代としては、非常に恩知らずな話なのだが、資本の論理というものはそういう冷酷なものだし、時代は技術的にもメディアのあり方的にも激変してしまった以上、仕方がない面がある。


ミニシアターとは、小規模の公開でプリント数が少ないが、いい映画が評判さえ良ければ長期間上映することもできる前提で繁栄したものだ。それはフィルムによる上映ならではの文化だったとも言えるが、今ではことインディペンデントの、僕らの作っているような映画は、フィルム上映が前提ではなくなっている。システムの構造が技術的な根本部分から変わってしまったのだ。


映画とて経済的には資本主義の論理のなかでの商売である。シネコンが入場者数の損益分岐点が低い上にヒット作一本かぶりで黒字になり、立地条件もよく「映画ファン」でないお客の目にも触れる機会が増える。「シネコンなんて」と口にしがちだが、映画作品それ自体にとってのメリットは、実はけっこう大きい。


損益分岐点が低いということは、平たく言えば多少の博打でも経済的なリスクが製作・配給側に少なくなるわけだし、かといって劇場側のリスクも高くなるわけではない。シネコンの多くの損益分岐点は、観客動員が劇場座席数の10%代前半の水準であるらしいのだ


これがミニシアター系の配給興行のサーキットだと、劇場がブランド化しているぶん配給がより多く負担をかぶりがちで、その配給は経営上、製作側に負担を求めざるを得ず、気がつけばいちばんなけなしの金で映画を作っている作家や製作がいちばん負担が大きかったりもする。


損益分岐点の部分を予め劇場が配給に払わせる保証興行なども少なくないし、そこで提示される数字が観客動員にして40%とか50%の数字だったりするが、これはもうインディペンデント映画に「死ね」と言っているに等しい。


4週間のたとえばレイトショー興行なら、それだけで140万くらいの現金を予め準備する、借金でもしなければ映画がかけられない、という計算になってしまうのだ。さらに宣伝に最低で150万くらいはかかるとすると、300万…。しかし有名ブランド化したミニシアターでも、そこまでの集客能力を劇場自体が持っているわけでは、必ずしもない。席数100の小屋でほぼ8割の入りで、やっと劇場公開が黒字、製作費の回収なんて一銭も出来ない、という計算になる。


日本の資本主義制度では、土地・不動産の資産価値がいちばん大きいから、劇場という不動産を持っている興行側がいちばん力を持ってしまう、という面もあるし、逆に言えばミニシアター側もその不動産資産の減価償却をこなさなければ破産しかねないわけで、だから採算分岐点がどうしても高くなってしまう


そしてこと今年ぐらいから決定的になってしまった要素もある−−デジタル・シネマ・パッケージ(DCP)上映対応の2Kや4Kのプロジェクターがあるかどうか。映画館で「デジタル上映」と書かれている場合、シネコンならばそれはDCP上映なのだが、これがミニシアターだとせいぜいがブルーレイや、下手するとDVDだったりする上に、プロジェクター自体DCPのそれに比べれば格段に性能が落ちるのだ。「いい映画をいい環境で見られるのがミニシアター」という文化は、これでは完全に崩れてしまう。


ブルーレイやハイビジョン受像機の普及で家庭でも高画質が楽しめる時代、映画館がよりよいサービスを提供できないとかなり苦しい。観客は千数百円というかなりのお金を払って、日常の家庭では体験できないはずの体験をしに、映画館にやってくるのだ。だから欧米の独立系の、日本でいえばミニシアターにあたる小屋は、最近では設備にもかなりの投資をして快適な劇場空間と美しい映写を確保しようとしている(またそういった劇場への補助金制度も、あったりする国がある)。


今ではほとんどがハイビジョンのカメラを使ってデジタル撮影される低予算映画を、より製作意図の通りに上映出来るのが実はシネコンになってしまっているのであって、日本のミニシアター系はこの点で完全に出遅れてしまった。


極端な話、シネコンでないと正しく上映できないインディペンデント映画も増えているのだ。


たとえばDCPで仕上げるのなら、6チャンネルや、場合によっては8チャンネルのサラウンド音声を、ドルビー・エンコーディングを経ずに、直接に個々の独立した音響トラックをそれぞれのスピーカーから出す、という形で実現できる。これはドルビーに対応したスタジオを高い賃貸料で借りなくても、6チャンネルなら6チャンネルの上映施設があって、そこの音響システムに音声編集用のツール(たとえばProTools)を接続することで、サラウンド音声の映画が作れることを意味する。しかもかなり高価なドルビー・ラボラトリーのライセンス料を支払う必要がない。


僕の最新作の『無人地帯』もこのやり方で、ほとんどお金を使わずに5.1チャンネルのサラウンド音声を作った映画だ。これはまさに上記のやり方で、東京日仏学院の映写施設を借りて、音響デザインとミキシングの臼井勝の職人芸でProToolsを持ち込んで音を作っている。設備使用については日仏学院の好意もあり、ほとんどお金はかかっていない。


昨年『カルロス』の三部作・5時間版が東京日仏学院で上映された際にも、監督のオリヴィエ・アサイヤスは音声も映像も本来意図したものではないことを上映前に断っていた。ブルーレイ用の素材での上映だったのだが、この映画もフィルム撮影で完成フォーマットはDCP、ドルビーではない独立形式の5.1チャンネルだったのだ。


そしてこうした5.1チャンネル音声の映画はDCPを導入した劇場でないと正確には上映できない。


僕らのような映画の場合、ぶっちゃけた話、今では海外の映画祭だとたいていシネコンの会場での上映が一回はあるわけで、上映それ自体のクオリティから言えば僕らのようなお金はかけられないしデジタルだが映画の職人仕事の面ではいろいろ凝って作り込んでいる低予算映画だと、シネコン上映がいちばんよかったりもするのは実体験済みである。


しかし日本のミニシアターのなかには、ハイビジョン上映ではHDCAM(業務用のハイビジョンの標準仕様)すら対応していない映画館も少なくない。民生用の、圧縮率が高いHDV方式に対応している劇場ですら稀だ。ほとんどがブルーレイ上映であり、つまり映画館ではなく大きなホームシアターとあまり変わらないのが実態なのだ。いかにブルーレイが最近ではとても高画質だとは言っても、である。


ミニシアターでも最近は複数スクリーンで客単価あたりの経費を抑え、番組数を増やして個別作品ごとのリスクを下げるなどはしているが、それが配給・製作側の採算リスクを下げるまでには至ってないのが現状で、ただでさえ小規模な会社が毎回毎回大きなギャンブルを打つことになる。ところがかつて「あのミニシアターでやる映画はいい映画だから必ず見よう」という客がついているような、有名ミニシアターのブランド力は、地方興行のブッキングが増える程度には残っているものの、観客動員それ自体に関しては20年30年前ほどの力は失ってしまっている。


インディペンデント映画はミニシアターで興行するもの、という既存の固定観念に留まっているだけでは、いかにこうした映画の製作が経済的にハイリスクどころかどんどんジリ貧になっているか分かって頂けただろうか?


しかもまたミニシアターの側でも、自劇場の番組作りでのブランド・イメージや価値の確保に必ずしも成功しなくなっている場合が多い。いい映画が作られていないわけではないのだが、海外作品も含めてそれがなかなか国内で上映されない、劇場が欲しくても配給されない場合も少なくない。インディペンデント映画でも保証興行等で公開の初期投資が高いなら、どうしても手堅いというか、いわば(こういっては悪いが)俗っぽい、あまりオリジナリティのない作品、映画の中身でリスクを負わないものが多勢を占めてしまい、プログラムが保守化し、かつてのミニシアター文化を支えた「最先端の映画が見られる」という魅力がどんどん失われるという悪循環だ。


今、このような既存の状況をさらに悪化させる上で決定的なのは、やはりDCPによるデジタル上映が急激に普及しながら、初期設備投資が高い、制度上の問題などで、ミニシアターがそこに立ち後れてしまったことだろう。


皮肉なことに、デジタル撮影機材の進化で、今では低予算でも相当に画質がいい、見ていて素直にきれいな映画はどんどん作れるようになった。しかしそれを完全な形で上映するにはDCPが必要…となるとシネコンの方が環境がいい、ということになっているのが、隠しようもなくなって来ている現状なのだ。


またそこで、ミニシアター系の興行が確立したバブル時代末期(もう20年以上前)から変わっていない、当時の映画上映態勢や社会情勢には適確だったが、今では時代に合わない慣習が多い。


たとえばフィルムだと上映プリントがあまり作れない関係上、東京での単館から順次地方で、というシステムが出来上がってしまったままだ。これはネットでの口コミや宣伝効果のメリットが極めて低い一方で、上映素材の複製が簡単なデジタルではほとんど意味がない。


ネットで話題になれば北海道の人でも熊本でも、「この映画、見たいな」と思うだろう。ところがその土地での上映ははるか数ヶ月先で、となると、やっと上映された時にはもう忘れられていたりする。


大手の大作ではDCPの登場で大量の上映プリントの作成および輸送経費が劇的に減ったので、DCPは大手に有利なだけだと思われがちだが、発想を逆転させれば、小規模で低予算の映画でもより多くの上映素材で同時に何カ所でも上映が可能になるのだ。


なのにこういうやり方がなかなか変わらないのには、映画宣伝が過去の、東京中心の雑誌出版に頼った枠組みを棄て切れていない問題も、たぶん大きいのだろう。



困ったことに、日本では新聞テレビですら実態はかなり中央集権的だし、雑誌も基本的に「東京で作られるもの」だから、地域に密着した健全なメディアが育ちにくい。文化も東京発信の中央集権的なものであり続けた歴史があり、インディペンデント映画などは完全にその枠組みで消費されて来た。

かつてミニシアター文化の確立に大きな力を持ったのが、たとえばマリー・クレールといった雑誌に蓮實重彦氏が映画評を連載し、おしゃれに気を遣うだけでは飽き足らなくなった女性たちがミニシアターの映画を見出したことも大きい。そこで上映される映画が、芸術的な先進性という「高級感」を持っていたのだ。


だがこれは今のミニシアターで上映されるとくに日本の(デジタル撮影の)インディペンデント映画には、まったく当てはまらない特質、商品イメージだ。つまりかつて蓮實氏がヴェンダースやゴダール作品の映画評を中心に確立したり、タルコフスキーの晩年の作品、テオ・アンゲロプロスの映画などによって作り出されたミニシアターのブランドイメージは、今そこで上映されている映画のほとんどに当てはまらない。今こうした劇場サーキットで繰り返されるのは、「映画への愛」といった誰も本気では信じないし、そもそも興行という観点からすれば後ろ向きで内輪向け過ぎる観念だ。


そうやって東京でまず「おしゃれなもの」として発信され地方に広がって行くというバブル時代的な考えも、ミニシアター文化の、今となっては負の面として、しかもその「おしゃれなもの」の商品価値を失った今でも、残り続けている。


東京での発信と地方での上映の時間差をなくすのなら、デジタルなら上映コピーの作成は極めて安価なのだし、ミニシアター系でも全国公開という選択肢とか、逆に地方から始める映画興行だってあり得るのに、業界の体制が今のところそこに対応しようともしていない。小規模な映画だからプリント数が少なく、だから単館上映で逆に付加価値をつける、という高級ブランド的な発想は、今では意味がないというのに。


デジタル上映であれば全国同時公開も理論上はすぐにでも出来ることなのに、誰もそういうやり方を試してみようとしない。それが今自分達が配給し興行している映画の特性を生かしたやり方になるかも知れないとしても、試してみないからうまく行くか分からず、分からないから誰も手を出さない。

東京が先行でなく全国公開とか、わざと地方から公開を始めるとかやったら、東京の有名ミニシアターがいやがってブッキングしてくれないかも知れない、という恐怖感だって、配給も製作もないわけではない。ミニシアターの興行システムに頼ってると、かえって自由がなくなることにもなりかねない。


だが僕自身の作家としての感覚でいえば、とくにデジタル製作の映画をちゃんとDCPで、つまりHDフォーマットなら2Kで十分に美しいし今後はREDだとかも使えれば4Kも、という高画質で上映できることは、業務用液晶プロジェクターでホームシアターと明らかな違いがない程度のミニシアターよりも、魅力になってしまう。映画とはたしかに映画館の漂わせる文化的雰囲気も大事だが、やはり基本は科学技術的な芸術メディアなのだし、技術的にきちんと上映されるのがなによりも重要になってしまうのだ。


とにかく映画上映の急激なデジタル高画質化の流れに、いささか出遅れてしまった日本のミニシアター系の興行だが、これまでのやり方やシステムの抜本的な見直しも含めたことを考えないとかなり苦しいし、今までのやり方だと真っ先に経済的に潰れるのが僕ら作り手であることは、忘れて欲しくないと思う。


とはいえ現状決して経営が楽ではないミニシアターの多くがDCPを導入するのは困難だろうし、シネクラブ等はさらに苦しいだろうが、ここは日本の映画文化を守るという観点から、文化庁などの政策的な戦略、補助金などがあって然るべきだし、要請すべきだと思う。


一方で僕らのようなインディペンデントの、より先鋭的な映画がシネコンに参入できるように、たとえば9スクリーン以上の施設であれば1スクリーンはインディペンデント系の映画の上映を義務づけるみたいな制度も、文化庁などで考慮して欲しいと思う。


日本の映画業界は、どうにも戦時中の反省から国や地方の行政からの支援を受けたくないと考える傾向がまだまだ強いし、それは精神論としては正しいとも思うが、現代の、見返りが即要求される経済システムでは文化としての映画を守ることはかなり難しいのだし、意識の大転換は必要だと思う。また行政や、議員などの政治家の側でも、文化を守るということは政治の重要な責任なのだという意識を持って欲しいとも思う。


先日参加したエジンバラ国際映画祭では相米慎二監督の回顧上映が大いに評判になった。日本の映画というのは世界的にみてももの凄く高い文化水準にあるものなのだ。それは政治的にも、守って行くべき価値のあるもののはずだ。文化とは国のアイデンティティに他ならないのだから。


文化の創造と継承こそが、国家の歴史的継続性を担保するものであることは、忘れてはならない。