最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/17/2012

全体主義国家へようこそ

戦後史上最悪とたぶん言っていい総選挙が終わった。最初から争点なき総選挙という前代未聞の事態だった。それもかつてないバカバカしさという意味での前代未聞だ。

与党民主党と自民党は、3年前にはあれだけ明確な争点で闘ったのが、今回はその政策にほとんど違いがない。ただの泥仕合で、なにが理由か分からないまま「信を問え」「解散しろ」とのかけ声だけが政治マスコミを駆け巡り、野田総理は肝心の政治はそっちのけ、政局だけで「解散の時期は寝言でも言わない」等々…そして突然、負けるのが確実な、準備不足の総選挙だ。


一方で政界では、年内には総選挙はないと誰もが思っていた。だいたい、選挙が出来る状態ではないのは民主党も自民党も、その他のバラバラな政党の萌芽も同じこと。


それが突然、党首討論で解散の爆弾発言、討論相手の安倍自民党総裁も、「いつ解散するのか」「信を問え」と政治マスコミ引き写しで勇ましいフリを必死で演じていたのが、首相が解散を言ったとたん、狼狽える狼狽える。


これがコメディ番組なら大爆笑なのだが、残念ながら我が日本国の現実の政治だ。


だいたい、安倍晋三が自民総裁をやっているのがけったいな話だ。強行採決連発で先代小泉の遺産史上最大議席を食いつぶし、参院選で惨敗すると「お腹が痛い」と揶揄される謎の辞任会見で突然政権投げ出し、日本中に呆れられた史上最悪総理が、なぜか悪びれることも、同じ党の面々の不興を買うこともなく再登板。


まあ安倍さんがあの時に辞めた裏事情はいろいろあるのだろうか、政界では誰も「投げ出した」とは思ってないのだろうが、選挙の顔では通じない。そんな事情は国民は知らない、本当に「お腹が痛いから辞めます」としかみんな思っていない。


それでも自民が大勝なんだからおかしな話だが、民主政権の官僚に敗北・屈服したていたらくの上に、公約すら準備せずに突然解散した野田氏にイヤけが差して政治不信、低投票率と候補者乱立でばらけた票が、腐っても鯛の自民党集票マシーンの基礎票・組織票だけはまとまっていた、ということだろう。


ちなみに今回の総選挙の安倍自民党の得票数は、前回総選挙の麻生自民党の得票数とほぼ同数だという。比例では僅か2議席増に過ぎない。

安倍晋三が支持されたわけではまったくない。本人もそれに気づいていればいいのだが…


それにしても低調な選挙戦だった。あれだけマスコミさんが望んだはずの選挙のはずなのに、選挙戦の報道も少なく、ゴシップ程度の扱いでしかない。2009年総選挙に向けての活発な議論が嘘のように、投票日まで各党の理念や公約も、理解出来た人はどれだけいただろう?結局どこに入れるか決めようがなく、民主はさすがに懲らしめたい、で自民党という流れもありそうだ。その自民党や安倍晋三の政治的主張も、よく分からないまま。

安倍は突然、争点は憲法だと言い出したが、自民党の準備した草案の中身もほんとんど無視されたまま。


ちょっと内容を把握してみて、驚いた。


前文が薄っぺらな似非ナショナリズム、「日本の歴史・伝統」を言葉だけ繰り返しながら、そんな重みはなにもないのは想定の範囲内(中国憲法の前文にそっくりだ、という指摘まであった)、自衛隊を「国防軍」も新鮮味はない。それにしても軍事組織の法的な地位の定義も杜撰ななか、「国防軍」とかアニメででも出て来そうな名称は、三年野党をやってたあいだに自民がいかに子供っぽい政党に劣化したのかを如実に表しているわけで、失笑しか呼ばない。


驚くべき問題は、基本的人権に関してだ。


日本国憲法では、人権が制約を受けうるのは「公共の福祉に反する」ことだけだ。たとえば犯罪者を処罰(人権を制限ないし剥奪)できる根拠はこれだ。平たく言えば「みんな(そして一人一人)の幸せの向上」、それに反しないこと、それに貢献するようそれぞれに努力することを条件に、言いたいことやりたいことは、自らの良心の自由でやっていい。

「公共の福祉」「みんなの幸せ」、適確な言葉だ。人間が良心に基づいて行うすべてを指しうる概念で、社会の維持のための制約として最低限、それもそれは「公共」つまりあらゆる人間ひとりひとり(現在だけでなく未来/過去も内包する)のためであって、特定の誰かや集団、組織、制度などではない。


自民党案はこれを「公益および公の秩序」と書き換えている。


「公」の字が同じだからって騙されないで、意味をよく考えよう。
「公益」の「公」は公権力の「公」だ。そして秩序、それも「公権力」「公式」の「公」の「秩序」だ。個々人の集合ではなく、その上の全体であり、その「益」「秩序」とは、ぶっちゃけ国家権力の追及すること、しばしば権力側の都合に他ならない。

それに反することであれば、人権の自由は制約されるか、剥奪もできる(日本国憲法だって死刑の憲法上の根拠は、「公共の福祉に著しく反する」からだ)。


「公共の福祉」ならいい。これは国民とすら限定されない、全人類か全世界の幸福の向上だ。国家権力や社会秩序を担う制度・機構は、どうしたって指し得ない。


あらゆる人間のあらゆる利害を内包するのが「公共の福祉」であり、それに反してはいけない−−当たり前の道徳律である。

憲法とはなんのためにあるのか? 国家の権力を定義付け、その行使を制約するためだ。


憲法を頂点とする法体系の論理性に従ってでないと権力は行使出来ないとするのが、法治主義、日本は法治国家だ(というか、そういうタテマエには少なくともなっている)。


そのなかでも最も重要な、我々の権利・それも基本的人権に関わる条項で、自民党案はそれが国家政府の都合や方針、意思に反しない限りでしか認められない、というのだ。


言い換えれば、国民に対し行使される権力を制約することを、この憲法は考えてすらいない。


大日本帝国憲法ですら天皇が最高権威で、そこに実質権力があるわけでもなければ天皇個人意志の親政でもなく(上奏されたことを承認しか出来ない)、天皇の権威によって国家権力が統制される構造だ(天皇機関説)。


自民党の憲法草案には、そうした枷、制約がまるでない。これでは国家政府の権力が完全にフリーハンドに、国民の人権をコントロール出来てしまう。


これは法治主義の憲法ではない。この憲法の国家像は、法治国家ではない。


そしてこれは民主主義の憲法ではない。全体主義国家の憲法だ。


これが安倍新総理のいう「争点」だったのだそうだ。なのにその安倍自身も含め、内容はほとんど論じられなかった。


そりゃそうだ、お粗末過ぎて恥ずかしい。中学校の社会科レベルで、「こりゃ変だよ」と分かるような話なのだから。


いったいこの国の政治はいつからこんな茶番になったのだ?不真面目にも程がある。


いや不真面目と言えば、近代民主主義国家、自由主義陣営の雄、非白人国家として唯一の先進国として第三世界や中国などの憧れと敬意を集める日本国、世界第三位の経済大国の、成熟した文明国の憲法に、こんな時代錯誤で法学者の物笑いのタネになりそうな憲法草案を、それが全体主義と警戒され、時代錯誤と軽蔑されることに気づきもせずに準備していた自由民主党の、呆れる程の無能っぷりだ。


3年前までの自民党政権のていたらくもこのブログではずいぶんからかって来たが、あの自民党は決してここまで無能では、さすがになかった。


落ちれば落ちるものだ。いかに3年間の野党暮らしで勉強するにも官僚からの情報も入らなかったとはいえ、ここまで人材がいないことには驚く。


それにしても、どうしてこんな選挙になってしまったのか?


鳩山由紀夫政権の数ヶ月はつかの間で、菅直人以降、日本の政治はたぶんに官僚にコントロールされて来た。それはそれで困ったものとはいえ、さらに困ったことに、この解散劇と自民党大勝には、なんの政治的意図も、コントロールも見られない。


ただ辞任を迫られていることを自分で言えない、辞任を迫られていることを報道できない総理大臣が、癇癪を起こしただけのような解散劇だ。

まるで事故のような偶発性の連鎖の結果の、新しい自民党政権で、
恐らく官僚機構はこれまでになく巨大な権限を掌握するだろう。

やむを得まい。こんな憲法草案を作ってしまう自民党には、法案作成能力も、政策立案も、期待できない。霞ヶ関のガヴァナンスに依存するしかない。


その霞ヶ関にとっても、この顛末はアウト・オブ・コントロールだったことだろう。


の選挙の結果が「全体主義国家へようこそ」になってしまった最大の責任は、政治マスコミにある。


野田がなぜ解散総選挙に持ち込んだかの理由も報道しなかったし、その前にこの夏以降は特に、ずっと国民を騙すための下らない政局報道しかやっていない。

その報道に踊る政治家もどうかとは思うが、なにしろ選挙になっても争点をきちっと報ずることもしない。政策を論ずる能力を政治マスコミが失っているくせに政治家には「政策だ政策だ」と迫る(報じられないくせに)。

まあ確かに、今回の選挙は野田がヤケになって突然解散と言ったわけで、それまで「解散しろ解散しろ」と言っていたマスコミは強くなった気分に浸れたのかも知れない(首相がマスコミの言うことを聴いたんだから)。

しかし野田がやけっぱち解散に走った理由を、まさか政治マスコミの誰も気づいていなかったわけもあるまい。新聞をよく読めば、別の記事にとはいえ、書いてあるんだし。

ただ怖くて報道出来なかったのだろう−それまでの自分たちの報道が2年以上越しで誤った偏向だったと、認めざるを得なくなるのだから。

つまり、実はこのすべての背後にあるのは尖閣諸島問題だ。

二年前の菅直人政権時の「船長」騒動から偏向報道の、全マスコミ金太郎飴状態で、日本国民の大半は、薄っぺらなナショナリズムに煽られたまま、事態を正確に把握出来ていない。

もはや虚偽を虚偽、嘘を嘘と認めることから逃げ続けるためだけに自己再生産され続ける反中ナショナリズム、その結果が、国内政治の問題ですら、本当のことが報道されない状況を産み出してしまっている。

もはや「誰かの利益を守る」ための歪曲ですらない、嘘を信じ続けるための嘘でしかない。

尖閣諸島は確かに、日本領だ。それを主張するのは日本としては当然だ。

しかしそれは、あくまで私たちの主観であり、領土問題がある以上、その全体像を客観性を持って把握しなければ、我々はデリケートな外交問題で失態を演じることにもなるし、国内政治でこれを利用したプロパガンダに載せられて判断を誤ることもあり得る。

あくまで他者、相手がいる話であるときに、自分の主観だけで判断することが許容され得るのは、幼児だけだ。政治の実務や外交は大人の仕事である。

二年前の顛末はこのブログの過去ログで復習してもらいたいが、その失態にも懲りずに野田が日中関係をここまで悪化させたとき、国際社会のどこも本気で日本を支持する気がない、アメリカのオバマ政権に至ってはもはや野田相手にせず状態であることに、突然気づいたのだろう。

マスコミも一切触れようとも、論評もしないが、今夏からの尖閣諸島問題は、客観的に見ればひたすら日本側が仕掛けたものであるし、二年前と同様、中国側が本格的に反発するまでに一定のタイムラグすらあった。

その間に日本が今やっている挑発を自ら止める時間を、ちゃんと与えてくれているのだ。

このことを政治マスコミは一切指摘せず、ひたすら中国敵視、日本は正しいとだけ報じ続けた。

すでにこの時点で、日本は全体主義国家に成り下がっていた−−それも明らかに誤った、偏向報道の、全マスコミ金太郎飴状態に載せられ、ある“嘘”を皆で信じようとする共同体を形成してしまっていた。。

財務省の言うがままに消費増税に「政治生命を賭ける」と言ってしまって不人気に焦る野田は、この偽りを共有することで成立する内輪向けだけのナショナリズムの共同体におもねるためだけに、あろうことか国連演説で、尖閣問題を語ってしまった。

それも無邪気にも外務省も実は本気では信じていないであろう公式見解そのままに、司法の場でとか言ってしまったのである。

(国際司法裁判所には提訴出来ないよ、公式見解は「領土問題はない」なんだから、「ない問題」を裁判には持ち込めない)

中国は即座に行動した。「国際法=第二次世界大戦後の世界秩序」と声明を出し、この時点で外交的には、野田が国内向け人気取りだけで騒いだ尖閣問題は、あっというまに決着してしまったのである。

しかも実は日本は「負けて」などいない−−どっちにしろ実効支配している。

だから余裕で中国の顔を立てていればいいところ、あまりにも不人気の野田には、より不人気になる外交は出来なかったのだろう。

野田は前回の尖閣「船長」問題での菅直人の哀れなまでの事態収拾のような姿を、自分は演じたくなかったのかもしれない。あの時も、菅のあまりもの外交センスのなさに、ことを納めてくれたのは相手側、中国の首相・恩家宝だった。

野田が責任をとってこの事態を収拾することを先延ばしにした結果、この夏にIMF総会を東京で開催したとき、それが世界金融危機回避のために日本と中国のキャッシュの利用を決めるはずの会議だったのにも関わらず、日中関係がこの状態で、しかも政権代替わりを控え国内引き締めに尖閣問題をちゃっかり利用しデモなどを演出していた中国政府は、日本が頭でも下げない限り閣僚を派遣できないかっこうになってしまっていた。

結果、IMF総会はなにも決められずに終わった。ラガルド議長の顔を立て、日本経済の再生には女性の力を、という提言がまとめられ、NHKで生出演の特別番組までやったものの、日本が原因の失態は目を覆わんばかりだ。

一刻も早くユーロやドルの金融危機を収集しなければならなかった時にだ。

この野田の失態をとりわけ許さなかったのは、アメリカのオバマ政権だったように見える。

再選を決めたオバマへのお祝いの電話すら、野田は断われた。最重要の同盟国のひとつの首脳を相手にしないという、このあまりに異例な対応を受けたのが、野田が追いつめられて解散を決める前日のことだ。

一方で民主党内では、あまりに不人気な野田では総選挙は闘えない、小沢一郎らの大量脱党ではますます不利であり、小沢を追い出した形の野田を退陣させて次の首相/代表で小沢らを呼び戻す動きは、あって当然だろう。

だから年内の解散はない、と政界でも誰もが思っていた。民主党自身がその体制が出来ていない時に、選挙に持ち込むなぞ、常識では誰も考えまい。

次の総理で日中関係もカタをつけて、小沢派も再合流して年明けで総選挙というのが誰が見ても自然な流れだし、実際、野田の突然の解散宣言が、あまりに予想外の事態として受け止められたことをみてもそれは分かる。

党首討論相手の安倍ですら、あまりの意外さに狼狽えていた。

かくしてぐちゃぐちゃの総選挙である。

いちばん困惑したのが野田をどう辞めさせて、予想が外れてアメリカも味方してくれそうにない尖閣問題(と言って、二年前には分かっていたはずのことだが)を収集できる新総理を立てさせ、そこで選挙のあとは民主・自民の大連立を目論んでいた勢力、霞ヶ関である。

安倍が自民党総裁になってしまった時点で、霞ヶ関もここで解散、自民大勝はまったく望んで望んでいなかったのが当たり前だ。

安倍が総理大臣では危急の課題である(しかも国民には知らされていない)日中関係の修復や、竹島と従軍慰安婦問題の再浮上で関係がぎくしゃくした韓国との外交再建も心もとない。

しかもアメリカがそれを要求しているのだから逃げ場はない。かくして誰もが(安倍以外は?)望んでいない暴走のなか、総選挙になり、すべてがボタンの掛け違いのなか、乱立する新党は主張の整理ができず、解散した主体のはずの民主党すら公約もなかなか決められない、世にも出鱈目な選挙戦で、そこは腐っても鯛の自民党の集票マシーンだけは機能した結果が、 この全体主義国家へようこそ」なのである。

自民党が国会で例の憲法草案を実際に審議することはまずあり得ない−−不幸中の幸いに、我々が2009年の総選挙で望んだはずの「政治主導」が儚く消え去った今、日本はすでに官僚全体主義国家になっているのが実態だ。

そしてこと、これだけ能力が低下した自民党では、官僚のコントロールなしには政権は動かない。

その官僚は、こんなみっともない憲法草案をおおっぴらに議論するわけにはいかないことは百も承知だ。

憲法の要である基本的人権の条項すらここまで杜撰なのだ。そこらじゅうに法理論上の不備や矛盾があるだろう。内閣法制局がそんな憲法案を通すはずもない。

外務省も財務省も経産省も、こんな稚拙で時代錯誤で、国際社会の警戒心を呼ぶだけの憲法草案を、世界のニュースに流すわけにはいかないことは、分かっていて当然だ。日本の国際的信頼は失墜し、外交関係や経済にも影響する。

というかぶっちゃけ、世界にバカにされる。

それにしても困ったことである。

今日の総選挙で、国民はそうとも知らずに全体主義の憲法草案をはずかしげもなく提案するほど無能な、無自覚な全体主義政党に政権を与えてしまった。

だがその前に、官僚から政治を取り戻そうとした2009年の総選挙が徒花になって、日本の政治はもう全体主義に限りなく近づいてしまっている。

そこへまるで無能な野党から政権に返り咲いた自民党では、霞ヶ関は否応なしに、かつてないほどの巨大権力を持たざるを得ない。

なにしろ新内閣の最初の課題が、国民がその必要性をまったく知らされていない、中国との手打ちである。

それもバックにあるのはアメリカの圧力、日本が中国と和解しない限り、アメリカは日本を相手にすらしない、という大統領直々の強硬さだ。

普天間基地問題で「アメリカを怒らせた」のが、実はせいぜいが国務省東アジア課とペンタゴンの一部、あとは今の米政権では中枢から外れた冷や飯食いの共和党系シンクタンク(すべて、日本がオバマと直接連携さえすれば無視しようと思えば無視出来た程度のもの、オバマ政権自身が排除したがっているもの)であるのと、えらい違いである。

しかも日本の稚拙な外交の迷惑をこうむったのはアメリカだけではない。

唯一日本が難色を示せるカードも、封じこめられている。

二年前には、理論上は確かに尖閣諸島は安保の範囲内だが、安保の対象となる有事が起こることをアメリカは望まない、と菅直人政権は呆気なく梯子を外された。だからこそ、日本はアメリカに「だが中国と和解して謝罪したら、尖閣諸島を守れない、中国が領土を強行に要求したらどうする」と言えた。

しかしアメリカは、もう議会で尖閣諸島を安保の対象とみなすという決議まで、やってくれている。

無論、本来は不必要な、不自然な決議だ。米国の公式見解は一貫して、自身の沖縄占領時代から、尖閣を沖縄の一部としてみなしている。わざわざ確認するまでもなく、自動的に尖閣諸島で有事があれば、安保は適用される。

これではもう、日本が中国への謝罪を拒否する理由はなにもない。駄々をこねるわけにはもういかない。

ところがそのための新首相が、よりにもよって極右と目されその方面からの支持も強く、今回は「日本を取り戻す」という標語でナショナリズムを煽って選挙戦を戦った、安倍晋三なのである。

霞ヶ関は日本の国益を守るため、安倍の首を取る覚悟で説得するか、強引にでも中国行きを呑ませるしかない。

安倍が否定したがっている河野談話だって、踏襲するのは必須だ。靖国公式参拝なぞ、当分は論外である。

霞ヶ関はそうでなければ安倍を許せない。日本の重大な国益がかかっている、安倍が吹聴した「大幅な金融緩和で景気回復」どころか、対外需要頭打ちの安倍不況になる。

安倍が拒否するなら、また安倍は「お腹が痛い」と会見するしかないだろう。

ここまでの権力の大きさに、官僚機構自身がおののいていることは想像に難くない。

独裁者すらいない全体主義、主役の顔が見えない官僚とマスコミの全体主義という現代日本独特の歪んだシステムの過程で、人間が作ったはずのシステムにそれを作った人間たち自身がそろって振り回され、誰の意志も反映されず、誰も納得できないような状況の全体が暴走し、気がつけばこのカオスである。

あえて言ってしまえば、原発事故の出来の悪いパロディにすら見える。

もう一点、やはり繰り返しておかなければならないのは、政治マスコミの怠慢、政治言論の不在だ。

自民党は右派で民主は中道というステレオタイプに自らが足を掬われて正確な分析が出来なくなっていたのだろうか? 気がつけば菅直人、野田佳彦の二代の総理大臣が、かつての自民党のどの政権よりも極端なナショナリズムの、反中国、反韓国の外交を行って来たことに、なぜ気づけないのだろうか?

アメリカか中国かという馬鹿げた二項対立で外交を論ずるのもお粗末過ぎて、およそ現実の国際社会の動向を反映していない。

そんなマスコミ頼りの国内人気とりで対中関係を無茶苦茶にし、IMF世銀総会を失敗させた野田は、アメリカから相手にされなくなっていたから辞めさせられそうだったということ。

この争点さえしっかりマスコミが報道していて、そこで議論していれば、自民党が大勝してさて困った、最も不適任な総理を選んでしまった、ということにはなっていない。

報道がしっかりしていれば、こんな事態にはなっていない。これも原発事故をめぐる右往左往に共通する。情報発信のずさんさで、どれだけの混乱と苦しみが、被災者にのしかかって来たことか。

マスコミの支持が作り出したのではなく、マスコミの怠慢の不作為の結果の偶然が作り出したという、これまた前代未聞の珍品政権は、大丈夫なのだろうか?

12/09/2012

イラン・イスラム共和国の首都、テヘラン訪問

私事で恐縮だが(といって、blogなんだから私事だろうに)、今年はずいぶん国際映画祭ドサ廻りをやって来ている。

先月はイランのテヘランに12日間、タイのバンコクに5日間行っていた。

テヘランには、イラン国際ドキュメンタリー映画祭、通称“シネマ・ヴェリテ”で、『無人地帯』を上映するだけでなく、国際コンペティションの審査員も兼ねて招待されたのだが、考えてみればイランの核兵器開発はたぶんに眉唾とはいえ、民生用の核開発、原子力利用なら国策で進めている国である。


映画祭の主催は政府の映画機関のひとつであるDEFC(ドキュメンタリー実験映画センター)。どっちにしろ政府公認の「オフィシャル」なものしか、原則あり得ない体制である(まあ「原則」ということは、この国の場合どこにも増して、例外がいくらでもあるわけなのだが)。僕を審査員として招待するのは、福島原発事故を扱った、反原発的な文脈にある映画を招待上映するための大義名分、というか官僚的なエクスキューズでもあったのだろう。

こちらはこの新作が映画祭をいろいろ廻るのを利用して、いろんな国を見てやろうと言う心づもりでもある。ことテヘランに行けるなんてチャンスは滅多にない上に、イランといえば1950年代に黒澤、溝口、小津らの日本映画が世界の映画祭に紹介されて衝撃を与えたように、1990年代の国際映画シーンに突然登場して、その独自の文化に根ざした映画が席巻した国でもある。自分はそれをリアルタイムに体験した世代、アッバス・キアロスタミ、モフセン・マフマルバフ、アボルファズル・ジャリリといった、若い頃に憧れた巨匠や鬼才映画作家たちの国に行けるのだから、とてもありがたいわけだが、とはいえ話はそう簡単ではなかった。

アフマディネジャド政権は、ジャファール・パナヒを逮捕・自宅軟禁状態にしているのを始め、マフマルバフですら国内で活動できなくなってロンドンに事実上亡命。イランでの立場を狡猾に担保して来たアッバス・キアロスタミでさえ「今のイラン国内では映画は撮れない」と言って近作2本はイタリア(『トスカーナの贋作』)と日本(傑作『ライク・サムワン・イン・ラブ』)で撮影している。イラン領内に居続けることが困難になってイラクとトルコのクルディスタン地域に移ったバフマン・ゴバディは、最近兄が逮捕されたそうだ。

ジャファール・パナヒ、『これは映画ではない』予告編

自国を代表するような映画人たちを弾圧しているイランの現政権に抗議するため、政府機関の主催するこの映画祭について、『無人地帯』の国際配給会社ドック&フィルムでは、パナヒらへの連帯の意志を込めてボイコットすることを基本方針にしていた。

とはいえそこは、国際配給権を持っているとはいえ、作家に理解のある会社だ。監督がそれでも行きたいといえば、監督の意志を尊重してくれた。

また僕の方でも自分のルートで、内外の旧知のイラン映画人たちにアドバイスを求めたところ「なぜ行かない?」「なぜ来ないんだ?現実を見るべきだろう?DEFCは良心的な機関だから心配するな」と揃って言われた。

DFEC(ドキュメンタリー実験映画センターの本部)

また国際世論の批判を集めるイラン政府といったって、敵視の急先鋒はイラク戦争が行き詰まったジョージ・ブッシュJr政権が、イランには核兵器開発疑惑があると騒ぎ出したアメリカ、その疑惑を理由に対イラン戦争もちらつかせることで、どうにもつれないオバマ政権の支援を取り付けたい瀬戸際外交の真っ最中のイスラエルのネタニヤフ政権だったりする。そっちの流れの味方というのは、これはアフマディネジャド政権よりももっとやりたくない。

というわけで、イラン入りである。

これがビザをとるだけでもひと騒動で、政府機関の招待でもあるんだからとたかをくくっていたら、ホメイニ空港で取得すればいい、いややはり日本の大使館で、とたらい回しのすったもんだで、結局は出発三時間前に駆け込みで発行…となると途端にビザが出るのだからやはり政府機関の招待だなぁ…と、よくも悪くもお役所仕事である。

そしてこの時から、イランという国の今が、実はどんな社会なのか、なんとなく分かり始めて来た。

世間では、1979年のイスラム革命でパーレビ王朝を倒した後のイランは、イスラム主義の宗教国家とされている。大統領はいるものの、国家元首であり最高指導者は大アヤトラ、議会や大統領は最高意思決定機関ではない。21世紀に入りイスラム主義が「イスラム原理主義」と呼ばれテロリストと同一視されるような欧米主導の国際世論のなか、イランと言えば国民揃ってヒズボラみたいに思われているか、先述のように自国の誇る国際的な映画作家ですら弾圧する強権全体主義国家に見える。

だからこそ、「たぶん実態は必ずしもそんなものではあるまい」という嗅覚が働かなければ、こっちだって映画を作るという稼業を、とっくの昔に返上してるだろう。

空港というのは普通、入るときにセキュリティ・チェックがあるものだが、ホメイニ空港では国際線の出口で手荷物のX線検査があるから珍しい。

酒類の持ち込みを防ぐためだ。

イスラム法が法律の基本になっている国なので酒の持ち込み自体が禁止…ところが、たとえばイラン古典文学を代表する詩人ハフェーズの作には、ワインの酔いと官能への言及がそこらじゅうにあるわけで、古典なんだから発禁になるわけもなく、ペルシャ細密画を挿絵にした豪華本がごく普通に、それもけっこう安価に入手できるし、英語、フランス語、ドイツ語などへの対訳本もある。

だいたい、イランでは本はさほど高くない。むしろ経済水準に関わらず教養は身につけられるようにと、安めにすることが政策なのだそうだ。

テヘランが他の現代都市と大きく異なっているのは、教養レベルの高さだ。

今時町中の本屋に行って、その入り口近辺の平積みやショーウィンドウに、ペルシャ文学だけでなく、シェイクスピアの全集だのドストエフスキーだの、ベケットまで並んでいる国も珍しいだろう。

大統領が「同性愛者はいない」と言ったはずの国の洋書売り場…

アメリカ映画は輸入できないしされてないはずが、『ヒッチコック/トリュフォー』のペルシャ語版まで、日本のように書店の隅っこの映画書コーナーではなくて、目立つところにディスプレイされていた。

映画関係者と話せば、一緒に審査員を務めた映画大学の教授のアフマド・ジャローミ先生の、黒澤明の映画への深い造詣だとか、いくら僕が黒澤ファンではないとは言え、日本人でもかなわないくらいだ。ヨーロッパ映画でもアメリカ映画でも、映画史の教養に圧倒された。しかもとても理知的な紳士で、映画についても、政治についても、世界ついても、問題意識がとてもシャープだ。


今さら別に驚くようなことでもないが、テヘランは高層ビルも高速道路もショッピングモールもある普通の現代都市だ。中心街の建物には60年代70年代の様式のコンクリ打ちっぱなしが多く、いささか殺風景な印象はある。

考えてみたら当然の話だが、革命で政治体制が変わったからといって、町並みまでまるごと変わるわけもない。

とはいえ宿泊先の、いかにも60年代テイストなエンゲラーブ(ペルシャ語で革命、ないし反乱)という名のホテルが革命前の建物なのはすぐ分かったものの、元の名前がロイヤル・ガーデン・ホテルであったことがレストランの食器のロゴで分かった時には、驚いてさすがに笑ったけれど。


エンゲラーブはテヘランで外国人が泊まる数少ないホテルでもあり、宴会場では毎晩のように結婚式がある。参列する女性はそろって全身黒いチャドル姿だ。「やっぱり宗教の国なのかな」と思えば、よくみればチャドルの裾から花嫁なら白いぜいたくなレース生地、他の女性たちも色とりどりなスカートがはみ出ていたりする。宴会場のドアを閉めてしまえば、そこはプライベート空間…というのがテヘラン流。

街のショーウィンドウでは、明らかに戒律違反のはずのノースリーブの豪華なドレスも並んでいる。女性たちがこれを着用するのはプライベート・パーティー。パブリックな空間でなければ、ある意味なにをやってもいいのだ。販売が禁止されているアルコールですら、闇ルートでかなり流通しているらしい。

スンニ派のイスラム教徒が多い国では、トルコのように政治は世俗制でも、モスクは重要な役割を持っていた。モスクの前にはお年寄りが集まって世間話に興じていたり、戸は開かれていて、中ではしばしば祈る人も見かけ、門前では物売りが市場みたいに集まっていたり、街や村の生活の一部になっていることが多い。

ところがシーア派イスラム主義を政治社会体制として掲げるイラン・イスラム共和国の首都テヘランのモスクには、あまり人影がないし周囲に普通に人が集まっているわけでもない。イマームの姿をした男性もたまに見かけるものの、普通の日常において実践されている宗教といえば、女性は髪を隠し手首足首まで肌の露出が許されないという戒律だけかも知れない。

だいたいこれだって「宗教」の形式というより、女性蔑視のマチズモの抑圧だろう。

実のところ、これほど宗教性が感じられない社会というのも、欧米でもよほどの大都市でないとあまり見かけない。お祈りの時間にはコーランの朗読が流れるのも録音された音がスピーカーでだし、街の騒音の一部でしかないくらいで誰も気に留めていない。


先進国でもよほどの大都会以外では、教会はそこらじゅうにあるし信仰はまだまだ生活に根付いている。日本人は自分達を無信仰無宗教だと思っているが、その日本でだってよく見れば随所にお寺や神社だけでなく、小さな祠やお堂や石仏などもそこらじゅうにあるし、お供えなどがちゃんと置かれている。

そういう感覚が、テヘランには一切ない。

金曜日にも誰もモスクに行かないみたいで、むしろ休日に郊外に遊びに行く車で道路が渋滞する。

いったいこの国のどこが、「危険なイスラム原理主義の国」なんだろうか?

渋滞と言えば、大都市、とくに昨今の発展途上国の交通事情はたいがい、自動車の増加に道路整備が追いつかずに大変な混雑だが、テヘランの渋滞はとりわけすさまじい。しかも運転はかなり無茶で荒っぽい。


どうも自動車に乗ると乱暴な人種に豹変するらしいイラン人は、しかし車の外ではむしろもの静かで節度ある民族文化で、横断歩道を渡るときの滅茶苦茶さ以外では、街を歩く姿も整然とした感じだ。いささか殺風景で、バラバラの建築様式が混在して破綻して見える町並みも、細部を見れば繊細な気配りが行き届いていて、第三世界の大都市だとたいていはおなじみの、雑然としたごちゃぎちゃな印象は意外とない。

また建物の外側が殺風景だったり醜悪にごてごてしていたりしても、対照的に屋内にはしばしば、洗練されて心地よい、シャレた空間が作られていたりする。


街に落書きが少ないのは政治体制の抑圧もあるのだろうが、代わりに壁画が多い。壁に騙し絵が描かれていたりもして、別にメッセージ性があるものばかりというわけではない。


無論、一方でこんな反米壁画が一面に描かれていたりもするのだが…。


…といって、本気でイラン人が反米で、米国への憎しみに凝り固まっているわけでは、もちろんない。「反米」のポーズはむしろ、国内向けのものだ。その一方で、イラン人はアメリカ政府が自分達を敵視していることはむろん知っているし、現にアメリカを中心とする経済制裁がイラン経済を破壊しようとしていることは、決して快く思っているわけもないのも当然だ。

パーレビ王朝時代のアメリカ大使館は今でも保存されて抗議の対象となるいわば一種の逆偶像で、このような落書きもどきの絵が壁に描かれている。


また見るからにロシア構成主義プロパガンダの影響が強い壁画も見かけた--とはいえ、これらはいずれも、イランの人々の気持ちを反映したものではなく、あくまでただの形式に過ぎないし、そういう意味で本気にすべきでもない。


イスラム文化で抽象的図像が発達したのは、偶像崇拝が厳禁されているからだという話は、スンニ派にしか当てはまらないのだろうか?イランの装飾文字やタイルの抽象パターンもまた美しいものだが、どこが偶像崇拝禁止なんだろうかと呆れるくらいに、アヤトラの肖像や殉教者の絵が、町中の壁を彩っている。

法律で、公的な空間には大アヤトラの肖像を飾ることが義務づけられている。店舗でも、ホテルのロビーでも、事務所でも、映画館や劇場でも、現代美術館ですら。


街路でも屋内でもそこらじゅうにアヤトラがいるのは外国人には最初、とても気になるところだが、数日もいれば「まあ、そんなものか」と慣れてしまう。あまりにそこらじゅうにアヤトラがいると、アヤトラの価値が安売り状態、イメージのデフレーションとか言いたくなってくる。


イランが宗教独裁国家だというのは、国際社会のまったくの誤解だと思う。

確かにイスラム主義を標榜しているが、「イスラム主義」を「社会主義」に置き換えれば、国旗を偏重してそこらじゅうにずらりと並べ、そこらじゅうに指導者の絵を描くのは、文革時代の中国共産党そっくりだ。映画祭の閉会式のようなオフィシャルなセレモニーの出し物も、旗を振る群舞だとか、まさに中国共産党風だった。

国旗の背後には、「殉教者」を讃える壁画

社会に根付いた支配体制も、秘密警察の役割が大きいアラブ独裁国家よりは、官僚的な組織の杓子定規で人々をがんじがらめにする官僚国家のそれだ。

招待先が一応国家機関だったり、僕にイランで映画を撮らせようと思った友人がいたりで、いろいろとつき合って来て、イランの社会機関や組織がどう動くのか比較的分かり易かったのは、自分が普段から硬直した官僚国家・ニッポンに慣れているからでもある。責任逃れのいいわけが延々と続くことにどう対処したらいいんだろう、というような官僚的なパワーゲームのやり方も、制度で決まってることとのつき合い方やそれをうまく避けるやり方も、日本人にはけっこうなじみ深い。

…というか、基本、日本とほとんど変わらない。

テヘランの国立映画博物館

映画祭ゲストがテヘランの映画博物館に行った時のことだ。90年代から世界の映画祭を席巻したイラン映画を讃える一室があり、キアロスタミ、ジャリリ、マフマルバフをはじめ、巨匠達ごとに映画祭のトロフィーやポスター、写真などの記念品が展示ケースに並べられていた。なかにはアフマディネジャド政権が自宅軟禁状態にしているジャファール・パナヒのコーナーもある。

マフマルバフ一家のコーナー

外国人ゲストのなかには、「彼は逮捕されているじゃないの!」と抗議の声をここぞとばかりに上げる者もいた。とたんに博物館ガイドの通訳をしていた、案内役の映画祭の人物が「私は公務員だからその件はコメント出来ない」と、いかにもな官僚的対応。

まあ、こんなのはどっちもどっち、なのである。

いかにもな官僚答弁も「もっとうまく言い訳できないものかね」と呆れるとはいえ、ここで「言論と表現の自由」を叫んで、パナヒの展示を続ける博物館を「偽善だ」となじろうとする外国人の方も、よく分かってないで見当違いな抗議をしているのだし、そこには “中近東のイスラムの国” をまとめて、薄っぺらに、ここは非民主的な野蛮国なんだと思いたい植民地主義まで透けて見える。

むしろ、イラン人から見れば、パナヒが逮捕されているだけでなく、マフマルバフだって半ば国外追放か亡命に近く、彼らに身近だった俳優が映画出演を出来なくなっているような現状があっても、映画博物館は「わが国家の映画史の栄光を讃える」名目で、彼らのコーナーをちゃんと、あえて残しているのである。

ある種の“勇気”が必要なことでもある一方で、縦割り行政だから可能なことでもある。映画人を弾圧する司法当局と、博物館を運営する文化当局は、まったくの別組織で相互間の意思統一などがないし、大きな問題がなければお互いの活動に口を挟むこともない-官僚社会の賢い生き延び方だ。

DEFCの本部でも、当然アヤトラ像の掲示は義務づけ…

イラン社会の権力と支配のあり方は中国共産党に似ているし、強固な官僚機構ががんじがらめにしているお役人社会という点では日本人にとってむしろなじみ深い。ただ中国はどうか知らないが、日本とはまったく違う点もひとつあった。

イランで会って話をしたほとんどの人たちが、自分達の社会や政治体制が問題だらけであることをちゃんと意識しているし、その場その場や言葉遣いさえわきまえれば、こちらの批判的な意見にもオープンに応じるし、自分たちでも厳しい意見を隠さないことだ。

これは日本とむしろ真逆だろう。日本人の多くは、自分達の社会に本質的な問題があることすらあまり意識したがらないし、その問題を明確化して意識し分析する気はほとんどないし、批判的な見解を持つことすら自身に禁じ、かつその自らに課した禁忌にほとんど無自覚だ。


だから逆に不思議でもある。自分達の問題に意識的・自覚的であるだけでなく、イランの人々は基本的に教養水準が高く、勉強熱心でもある。今時の世界では珍しく、世界の文学の名作や古典がちゃんと読まれ続けているであろうことは、先述の通りだ。

これだけ知的で教育水準も決して低くない国、国民の教養レベルを高めるために政策的に書籍の値段も低めに抑えられてい来たような国で、なぜ今のような、誰もが不満を感じ、問題も理解している政権が、維持され得るのだろうか?

ふと思いついたことがあって、訊ねてみた。

「今のイランが宗教国家ではなく官僚主義国家であることはよく分かったんだけど、革命前も実はそうだったんじゃないか?」

「そう言われてみれば、その通りだ」

「指導者は変わっても、実際に支配しているのは同じ人間たちだったりしない?」

「革命があったんだからさすがに同じ人間たちとは言えないけれど、同じような人間たちなのは確かだね」

やっぱりそうだったのか…。このことなぞは、第二次大戦の敗戦で「民主主義国家に生まれ変わった」はずの、実は戦前と変わらない官僚国家・日本の戦後の実態と、とてもよく似ているわけだ。

もうひとつ、さるイラン人映画監督の自宅で、酒の上(といって、瓶を見れば「エタノール」というラベル…薬品扱いなのでこれは違法ではない!)で言われたことが印象に残っている。

「この街では、あらゆることが不可能だけど、あらゆることが可能なんだよ」

これは日本とは逆だなぁ…。