最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

10/15/2012

ジャック・ドゥミーとロマンチシズム〜『都会のひと部屋』

『都会のひと部屋』ドミニク・サンダ

承前。ジャック・ドゥミーの映画では、しばしばロマン主義的な意味での「究極の愛」が大きな役割を演ずる。

日本語で言えば「赤い糸」、「運命の人」、プラトン的な神話で言えば「この世界の始まりに分かれてしまった自分の片割れ(それと再会することで人間は元の完全な形を取り戻す)」という意味でのロマン主義的な恋愛神話のことだ。

『シェルブールの雨傘』ではジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドゥヌーヴ)は「あなたなしには生きていけない」と繰り返し(が、実際には恋人の出征後、別の男と結婚してしまう)、『ロシュフォールの恋人たち』の双子の姉妹(ドゥヌーヴと、、姉のフランソワーズ・ドルレアック)は「運命の人」を探し、それぞれに映画のラストでその出会いを果たす。


結ばれるべくして結ばれる二人というモティーフは、ハリウッド映画の物語の基本構造(いわゆる“ボーイ・ミーツ・ガール”)でもあり、こと『ロシュフォール』のエンディングはそのパロディであると同時にオマージュとしてさらりと受け止め易く、この映画が大変な人気作となった理由でもあるが、よく見ればドゥミーの視点にはかなり皮肉も入り込んでいる。

まさに「運命の人」神話のダークサイドとも言うべき、ローラという踊り子が殺された事件の犯人の話が、トゲというよりはワサビのようにちらちらと言及されては、しかし笑い話のように流されて行く。


ドゥヌーヴと彼女の運命の人であるジャック・ペランのすれ違いに至っては、まるで冗談のようなフィックスのワンショットで処理されているし、最後の肝心の出会いのはずのシーンは、驚くほど呆気ない。

 『ロシュフォールの恋人たち』ラストにおけるすれ違いと出会い

結局、この二人が同じショットで同時に画面に現れることは一度もなく、同じショットに出て来てもすれ違うだけだ。

この「運命の人」神話に必ずしも大真面目には取り組まない流し方が、かえってこの映画を商業的に成功させたのかも知れない。

「あなたなしには生きていけない」ということは、愛が直接に死に結びつくわけでもあり、その実かなり重いものでもあるのだ。

ほどよくやっている分にはとても甘味に見えるのだが、徹底してしまうと、それはれはシュールレアリズムが「狂気の愛」として称揚した「愛」と「性」のことでもあるのだ。

…つまり本気でやれば、こういう映画になるわけだ。

 ルイス・ブニュエル『黄金時代』

…というのはいささか冗談にしても…

『ロシュフォールの恋人たち』における “踊り子ローラの惨殺事件” という、グロテスクでシュールレアリスティックな、台詞でしか言及されないエピソードは、ドゥミーの初長編『ローラ』への言及であると共に、マックス・オフュルスの遺作となった『歴史は女で作られる』のモデルである実在のファム・ファタール、バイエルン国王ルートヴィヒ一世が老いらくの恋で身を滅ぼしそうになったローラ・モンテス(エリザベス・ギルバート、ランズフェルド伯爵夫人)も想起させる。

 マックス・オフュルス『歴史は女で作られる』再公開予告編

ファム・ファタール、「運命の女」、究極の恋愛は死と隣り合わせであり、身の破滅をも厭わない話にもなりかねない。


こうなるとロマンチックな恋愛映画として暢気にも見ていられない。

ドゥミーが敬愛したオフュルスの遺作(『ローラ』はオフュルスに献呈されている)は、バイエルン王を本当に愛し、それを失って抜け殻となった、死ぬに死ねないローラ(マルティーヌ・キャロル)の回想として、しかも自らを見せ物にしたサーカスの出し物として描かれる。


案の定というべきか、『歴史は女で作られる』は公開当時、惨憺たる興行に終わった。映画はズタズタにカットされ、本来の構造に復元されたのは製作後50年近く経った21世紀に入ってからだ。

『シェルブールの雨傘』だって、もしジュヌヴィエーヴとギーの恋が本当に「運命の恋」であり、彼女が本当に「あなたなしには生きていけない」を地で行く物語だったら、とてもではないが受け入れられない話になっていたかもしれない。

『シェルブールの雨傘』と同じ「あなたなしには生きていけない」という台詞(というか歌詞)が繰り返されるドゥミーの映画が、『都会のひと部屋』でもある。

そして『シュルブールの雨傘』とは異なり、「あなたなしには生きていけない」という言葉は、この映画では本当に実践されるのだ。

それも一人ではない、様々な人物によって。

主人公フランソワ・ギルボー(リシャール・ベリ)には、元々ヴィオレット(ファビエンヌ・ギュイヨン)という恋人がいて、彼女は心から彼を愛していることを繰り返すが、「あなたなしには死んでしまう」とまでは、さすがに言わない。

 ヴィオレットとギルボー

いわば常識的な恋愛であり、彼女は彼の子供を身ごもり、これで彼も結婚の決心をするはずだと思う…

…というか、常識的な恋愛映画ではそうなるし、それが実現しない悲劇に観客が涙するのが『シェルブールの雨傘』であり、恋人を待ち続けるのが『ローラ』だ。

『ローラ』アヌーク・エメ

ところが『都会のひと部屋』では、最初からどうもそういう「純愛」の話にはならない雰囲気が漂う。

ヴィオレット、スミレの花、ないし紫色という意味の名前の彼女が、本当に紫の服しか着ていないというのはほとんど悪い冗談スレスレの記号化であり、およそこれが成就すべき、映画がその主題とすべき恋愛には見えない。

一方で、このヴィオレットとのデートの前のシーンで、まず間借り先である女男爵/大佐夫人(ダニエル・ダリュー)のアパルトマンを出たギルボーは、通りで夫人の娘エディット(ドミニク・サンダ)とすれ違っている…というか、ほんの数秒の差で、二人はこの時に同じショットのなかで登場するが、同じ場に同時に居合わせることはない。

メロドラマの定番でありドゥミーお得意の、「すれ違い」のモティーフだ。

母を訪ねたエディットは、そこでギルボーの鳥打ち帽を見つけ、鏡の前でかぶってみる。

「運命の恋」に向けたドゥミーの演出は、すでにヴィオレットのシーンの前に始まっているのだ。

だから物語上の、常識的な恋愛のロジックがいかに「妊娠した、気だてのいい娘」の恋愛の成就をモラル的に規定しようとしようが、映画の演出のロジックはそれを裏切るように、最初から仕組まれているのだ。

 エディットとギルボーの出会い

エディットは既に結婚しているのだが、その夫でテレビ販売店経営者のエドモン(ミシェル・ピコリ)は、こちらの方は「私にはお前しかいない」「お前がいなければ死んでしまう」をさんざん繰り返す人物だ。

『都会のひと部屋』ミシェル・ピコリ

一方で性的に不能であり、そして病的に嫉妬深い。

彼の店は全面緑色の内装であり、そして緑のスーツに赤毛。こちらの色彩の図式性は、あたかもまるで狂ったような水準にまで高められている。

 エドモンの死

病的な独占欲、嫉妬深さ、しかしエドモンにとってエディットが「お前なしには死んでしまう」運命的な存在であることも確かだ。

なにしろ港湾労働者のストのデモ隊と警官隊の衝突から始まる映画だけに、階級の問題もここに深い影を落としている。

 冒頭、大聖堂前のデモ

ギルボーの同僚で親友のダンビエル(ジャン=フランソワ・ステヴナン)は、デモについて「正義はもう信じらない。だが友情と連帯は信じる」と言う。

その連帯と友情から、ダンビエルはギルボーが結果として、彼が夫婦で親しくしているヴィオレット(彼のシャツもまた紫色だ)を裏切ってしまうことすら、労働者階級の友情として、受け入れる。

一方、エディットの夫エドモンは成金のブルジョワであり、エディットが彼と結婚したのは金目当てであることを、映画の冒頭に母である女男爵/大佐夫人が明言する。

彼女は彼女で、貴族階級に生まれ、「軍人と結婚することで爵位と幻想を失った」と歌う。


明らかに、結果として愛のない結婚に終わった未亡人であり、そして階級違いの結婚でブルジョワになったことを、おもしろくは思っていない。

その夫はインドシナ戦争ですでに戦死しているだけでなく、彼女は放蕩に育った息子を自損の交通事故で失い、その記憶に囚われたアパルトマンで、夫の遺した年金だけでは息子の借金が払い切れないため、間借り人をとることになったのだ。

 ブルジョワへの軽蔑を歌うダニエル・ダリュー

そこで同居することになったのが労働者階級のフランソワ・ギルボー、という階級構造になる。

夫人はこの階級の差異に戸惑いながらも、彼にある種の親しみを感じていることを隠さない。「私とあなたは住む世界が違うけれど、友達になれないわけではないわ」。

最初はギルボーがデモの先頭に立っていたことをなじって「この家にアナーキストを置くわけにはいかない」というのも、近所の手前の、ブルジョワの体面でしかないことが、すぐに明らかになる(その体面もまた、彼女には重要であり、だから葛藤もあるにせよ)。


彼女は成金ブルジョワである娘の夫よりも明らかに遥かに親しみを持ってギルボーに接っするし、酔っぱらった末に「ブルジョワなぞ富に腐敗して滅びればいい。あなた達(労働者)は自分たちの生存のために闘っている」と心情を告白する。

フランソワ・ギルボーのモデルは、ドゥミー自身の父親だ。ロワール河畔の田舎町からナントに出て来て、最初は間借り人であり、その家主が元は貴族で軍人の未亡人だった。 
フランス映画のヌーヴェルヴァーグの映画作家達で、労働者階級出身は、ジャック・ドゥミーだけである。裕福ではなく私生児だったとはいえ、トリュフォーでさえ貴族階級の血を引く没落ブルジョワだ。

そんな元貴族の血統のエディットと、金属加工の労働者であるギルボーが恋に落ちることは、階級を縦断するドラマだ。

しかも背景となるのは1955年のナントの大ストライキである。フランス社会を分断する階級差の重みは、否応なく社会的な圧力としてのしかかる。

ダニエル・ダリューを筆頭に、それぞれの人物は、自らが属する階級のなかで喘いでいる(彼女に至っては、「ラングロワ大佐夫人」あるいは「女男爵」と、階級記号でしか呼ばれない)。

だが『都会のひと部屋』で重要なのは、いったん出会ってしまえば、エディットもギルボーも、その階級をまったく気にしていない。

階級を意に介する瞬間がまるでない、階級は呆気なく超越されてしまうのだ。

エディットはタロット占いで冶金工と大恋愛をすると出ても、相手が階級違いの労働者だと言われても全く気にしていないし、フランソワはエディットが女男爵/大佐夫人だと分かってもなんの気負いもない。

家主である母親とは、階級の違いでぶつかることもあったのに、エディットについては、まったくなにもない。

だから『都会のひと部屋』は「階級違いの恋愛」をめぐるドラマツルギーの展開はまったく取らない、というよりも小気味いいまでにその想定される筋立てを無視している。

これは階級のドラマであって階級のドラマではない。階級のドラマを無視することでこそ、ドゥミーは徹底した反階級制の、彼なりの革命的な映画を作ろうとしたのかも知れない。


エディットは夫エドモンが吝嗇で、しかも彼女を籠の鳥同然に家に閉じ込めていたため、着るものがなく、毛皮のコートの下は全裸という、これまた狂気じみた出で立ちで登場する。

一方ギルボーは、茶色の革のジャンパーをほとんど常に着ている。

毛皮のコートと革のジャンパー、一見異なった階級を表象するかに見える記号性が、二人が出会った瞬間にまったく異なった意味付けを帯びるのがドゥミーの演出だ。

どちらも素材は動物の革であり、そしてほぼ同じ色合いである。二人の姿はどんどん相似形となっていくのだ。

女男爵/大佐夫人は、ギルボーが玄関のドアをバタンと閉めることに文句をつける。その癖は、二人が恋に落ちると、彼女に伝染する。

台詞(というより歌詞)でも、「君はなんと美しい」「あなたはなんと美しいの」と言ったように、フランス語では形容詞の男性形と女性形が違うだけで、しばしばまったく同じ言葉を、二人がお互いに繰り返す。

エディットとギルボーは、まるで双子だ。

あるいは、プラトン的な神話の、世界の始まりに分かれてしまったお互いの片割れがその相手であるかのように、あたかも二人が揃って完全な姿に戻るかのように。

この運命としか言い様がない、強烈な結び着きを前には、例えばヴィオレットが妊娠しているといった世俗の義務や責任も、まったく意味を持たない。

現にエディットは「あなたとギルボーのあいだに過去になにがあろうが、私のしったことではないわ」とすら断言する。

そして通俗的に期待されるドラマ展開をあざ笑うかのように、母の女男爵/大佐夫人をはじめ、周囲の人間は結局のところ、二人の強烈な結合に、最初は形だけ抵抗を示すものの、結局はすぐに受け入れてしまうのである。

あたかも運命だけが二人を導き、運命によって二人は愛し合うかのようだ。

その宿命論的な構図は、タロット占いによって予め暗示されている。

そしてデモ隊と機動隊の衝突と言う、もうひとつの巨大な、社会的な運命の歯車のなかで、ジャック・ドゥミーの運命の愛のドラマはクライマックスを迎える。

最初のデモは火曜日、そして二度目のデモは木曜日。『都会のひと部屋』は濃厚な運命観、宿命論の空気を漂わせながら、わずか48時間ですべてが凝縮され、決着する。

 『都会のひと部屋』全編

まさにこれは、壮大なオペラとしての映画なのだ。究極の、運命の愛を前に、社会も、常識も、通俗的な倫理も、一切が無力になる。そして死によって、愛は勝利する。

これこそがジャック・ドゥミーの夢見た「革命の映画」「映画の革命」なのかも知れない。

そして人々はそれを、親しい愛情と連帯と友情で受け入れ、最後はただ畏怖を込めて見守るだけだ。

母親ですら、娘が自ら命を絶とうとするとき、「馬鹿な真似はやめて」と口では言うものの、止めはしない…

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