最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

9/17/2011

『NoMan's Zone 無人地帯』ワールド・プレミア決定

©2011, denis friedman productions and aloicha films
映画自体はまだ画面の編集が終わった段階で、音声の作業はこれからですが、最新作『NoMan's Zone 無人地帯』を第12回東京フィルメックス映画祭(11月19日〜27日)に出品することが決まりました。

上映日程の詳細は決まり次第、またこのブログで報告するか、東京フィルメックスのウェブサイトでご確認下さい。

『無人地帯』 No Man's Zone 
 日本、フランス / 2011 / 100分(予定) 監督:藤原敏史(FUJIWARA Toshifumi) 
 【作品解説】『映画は生きものの記録である~土本典昭の仕事』を監督した藤原敏史が原発事故後の福島で撮影を行ったドキュメンタリー。住民が避難し無人地帯となった田園の、それでも美しい春の風景と、周辺地域に住み続ける人々、そしてまもなく避難させられ無人地帯となる飯館村の人々との出会いから福島の現状が浮彫りになる。 
製作:ヴァレリー=アンヌ・クリステン、ドゥニ・フリードマン
監督・脚本:藤原敏史
撮影:加藤孝信
編集:イザベル・インゴルド
音楽:バール・フィリップス&エミリー・レスブロス 
*テクストの朗読(ナレーター)はまだ公表出来ませんが、「日本のシネフィルがあっと驚く女優」であるとだけ申し上げておきます。




率直に言えば、海外ならともかく日本の映画祭でのコンペティション上映には、かなり躊躇があった。扱っている主題が同じ国に住む人たちの、それも直近の、あまりに大きな悲劇であり過ぎる。

そして半年経った今でもその人たちの抱える問題は深刻になりこそすれ解決にはほど遠いのが現状だし、それは11月末の上映の時にも、恐らくなにも変わっていない気がする。

編集中の8月初旬に郡山と会津若松に追加撮影に行き、避難先の人たちに会ったときにも、問題はもっと複雑化・深刻化していて、展望がなにもないことは痛感した。まだ4月5月のメイン撮影時の方が、先が見えないなりの楽観性とは言わずとも、「負けてたまるか」的なものがあった。 
我々は避難所では撮影は一切していない(これは最初から決めていた方針だ。あまりに失礼に思えたし、いい画が撮れるとも思えなかった)。だがそれでも8月に取材した際には、5ヶ月6ヶ月と続いた「避難所暮し」が惰性となり日常となり、地域の絆にも深い亀裂を及ぼしつつある現状は痛感した。プライバシーがあまりにないことなどさえ気にしなければ、三食まったく無料で生活し、なにもしないでもなんとなくは生きていけてしまうのが避難所であるのも確かなのだ。
老人たちならともかく、働き盛りの世代にとって、避難所に暮らし失業状態でも食うには困らないということは、その覇気や尊厳さえ蝕んでしまうものでもあり得るのだ。それはまた、避難したものの先行きの展望がなにもなく、一時期の「兵糧攻め」的状況ではないものの経済や産業の面でははっきり言えばお先真っ暗な状況に追い込まれている福島県ではなおさらだろう。なにしろ、どうせ仕事を探したところで見つかるわけがない、というのも現実なのだ。 
ならば仮設住宅に移って生活再建を始め、光熱費も食費も自分で払う、ということを回避するために避難所に留まる人だって出て来てしまう。だがそれは、たとえばより上の世代からすれば「情けない」そのものだろう。 
問題はより悪くなっている。補償にしても除染にしても、政府や東電が口では言っているようなことになるとは、ほとんどの人が思っていない。そして無人の地とされた故郷に戻ることの困難さも、リアルな問題として認識されつつあった。たとえば地震で痛んだまま半年も放置されたインフラをどうするのか?

題材の重要さだけでコンペティションで評価を受けるとしたら、そこからして決してフェアな話ではない。映画祭というのはそういう基準で映画を評価する場所ではないはずだし、ことドキュメンタリー映画とは他人様の苦しみを作品に搾取する残酷さを常に孕んだ存在であることが恐らくは避けられないのだとしても、国外ならともかく国内でそれでコンペでの評価というのも、さすがにちょっと違う気がしていたのだ。

「その考えは分からないではない。だがそういう見方をするべきではないのではないか」と言ったのがアモス・ギタイだった。「お前の撮る映画なのだから、ただのルポルタージュではなく、映画としてのクオリティがちゃんとあるはずだし、フィルメックスだってそれを信頼していなければ、お前の映画を選ぶはずがない」

「それにお前がその映画を撮った理由のうち、倫理的な問題、社会的な役割を言うのであれば、コンペティションで上映した方が大きな注目を集める可能性が高い。お前が日本で無視されている人たちのことを映画にするのだと言うのなら、その声はより大きく響いた方がいいはずではないか」


そう言われてみればその通りだと思う。

「他人様の不幸で栄誉を得たりするのは」というのは倫理的にそれはそれとして正しいだろう。しかし一方で、それはただ自分のことだけを考えているだけの、相当に狭い倫理ではないかと言われれば、それもまた、まったくその通りなのだ。要は映画作家としての覚悟の問題なのだろう。

もちろん自分の映画としてちゃんと作っているのだし、「緊急的な作品なんだから」と言って映画としてのクオリティについてのことを怠けてしまっては、それこそ映画を作る人間として、出てもらった人たちに失礼でもある。

なにせ飯舘村では避難直前の忙しいときにわざわざ出演してもらって、お茶で家のなかに上がり込んだりしてまで時間を割いてもらってるのだし。

我々がやるべきことは「代弁する」とか恩着せがましいことではなく、誤解を恐れずに言えば「感謝して自分のやることにありがたく利用させて頂く」であることでしかないはずだし、それは「よりいい映画にする」ことであって、「いい映画」であればその人たちを裏切ることにも、ならないはずだ。


なによりも我々が決して忘れてはならないであろうのは、この映画に出演している浜通りと飯舘村の皆さんは、いずれも「被災者として重要だから」映画に出ている以前に、極めて魅力的な人間たちでもあることだ。

もちろん地震があって津波がなければ原発事故がなかったのと同様に、この映画も地震があって津波があって原発が事故にならなければ起こらなかった映画だ。我々があの人たちと出会うことも決してなかっただろう。

だが地震がなかったから原発の問題がなかったわけではないのと同様に(と言っていいのかは分からないが)、その人たちもまた地震がなくても原発事故がなくてもそこにいたのだし、その意味では地震と事故はひとつの「きっかけ」に過ぎないとも言えるのかも知れない。


…というわけで、『無人地帯』はフィルメックスではコンペティション部門での上映です。

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