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6/14/2011

自分の旧作を見直す…そして何も分かってなかった自分にイヤになる…

 藤原敏史『映画は生きものの記録である〜土本典昭の仕事』(2007)

16日の木曜まで開催中の、オーディトリウム渋谷の大津幸四郎特集で、最終日に大津さんと僕双方の現時点での最新作となる『フェンス』を上映するのだが、その後のトークで司会をしてくれる葛生賢君のために、2007年の旧作(もう4年前か…『映画は生きものの記録である〜土本典昭の仕事』のDVDを焼きながら、なんとなく久しぶりに全編を見直したのである。

映画の公開の翌年に土本が亡くなって以来、ちゃんと見直すのはこれが初めてだったりする。

ちょうど大津特集に合わせて、映画美学校が製作した土本と大津についてのドキュメンタリー『まなざしの旅』も公開中で、これに較べて『映画は生きものの〜』の方が遥かに厳しい内容になっている自覚はずっとあった。

『まなざしの旅』を見たら「ドキュメンタリー映画を自分も作ってみよう」という気になる若い人も多いだろうが、『映画は生きものの〜』を見て土本のような生き方に憧れる人はあまりいないと思う。

むしろ映画のなかでの土本の結論が、水俣の月浦(1956年に水俣病が最初に発見された場所)の漁港にたたずみながら、「自分がここではよそ者であったことを、ある寂しさを持って噛み締めている。だがだからこそ、記録が撮れたのだとも思う」であるところなど、もし映画を作りたいと思っている人が見たら、ここで要求されるのはむしろ、ある種の絶望的な覚悟なのかも知れない。


 土本典昭『不知火海』(1975) 水俣・月浦

それにしても我ながら、『映画は生きものの記録である』は、よく分からない映画だ。作った本人にもよく分からない…というか、実は自分がなにをやったのか、まったく分かっていなかったのだと、見直してみてやっと気づいた。

作った当時は、土本の大変にまじめで倫理的な人間性と、そこから導きだされる彼の映画作りの倫理、記録を撮る人間としていかにそこで記録される人々と向き合うのかが一方の軸であり、もうひとつの軸として土本が『ある機関助士』や『ドキュメント路上』を撮った60年代、水俣で傑作を連発した70年代から、土本自身が、そして日本社会が、どのように変貌したのかもうひとつの重要な軸だった。

土本の水俣シリーズ最初の傑作『水俣 患者さんとその世界』が撮影された1970年は、自分が生まれた年でもある。それくらいのことには自覚的に作った映画だ。そしてこれが映画による映画論、映画作り論であることにも、過剰なほど自覚的だったと思う。

これがある意味、土本自身にとって厳しい映画ともなるのも、むしろ土本が希望したこと、この映画を撮ることを承知した時に真っ先に出した条件だった−「決して僕を褒め讃えるような映画にはしないで下さい」。

それがいわゆる「土本ファン」の多くにとって、むしろ不快な映画になるのは仕方がない。結果、土本自身よりも土本が水俣で再会する人々の方がより人間的に偉いと思える瞬間すらいくつもあるのだ。実際、土本のことをそれまでほとんど知らずに見たうちの母やその友人知人は、たとえば緒方正人氏の方が土本よりもっと立派な人なのではないかと率直に思ったらしい。

   『映画は生きものの記録である』の緒方正人さん

土本にしてみれば、彼の厳しい倫理観からして、それこそが本望だったろうし、またたとえば水俣病のような主題を撮ったとき、たとえ土本であろうとも、自分の身体と生活で水俣病の苦難を背負って来た患者さんたちが到達する人間性に、そう簡単にかなうはずがないのだ。

それはそれで、いいのである。「映画ファン」の一部が不愉快になるのだとしても、それもまたよし。僕には自分の仕事でもあることをそこまで美化する気にはなれないのだし。

しょせん、たとえば患者たちが到達した生き方のある崇高さに較べれば、やはり「たかが映画」なのだし、映画監督なんてものがそんなに偉いはずもないのだ。

とはいえ、そのあえて自分にも課した厳しさからだけでは説明のつかない居心地の悪さが、自分にとってのこの映画にはずっとあった。

別にこれが注文仕事に過ぎず、まったく僕の企画ですらなく、土本自身の指名で演出を担当したものの、その土本への恩義というか敬意というか義務感以上の動機があまりなかったせいでもない。注文だろうがなんだろうが、作り始めたら自分の映画である。


その居心地の悪さの正体が、4年も経って見直してやっと分かったのだから、なんとも間の抜けた話ではないか。

なんのことはない、土本の撮った過去の日本(とくに水俣)と現代を常に比較する構造をとったつもりが、そこで比較されているのはむしろ、最盛期に活躍していた土本と、糖尿病などの健康上の理由でもはや映画作りを諦めていた晩年の土本だったのである。

この映画が本当に見せているのは、記録映画作家の職業倫理でも、そこを突き詰めようとした土本の偉大さでもなく、一人の男が老いること、そしてどんなに偉業を成し遂げた人間でもいずれ死と向き合わなければならないことの、悲しみだったのだ。

この映画でおそらく(水俣ロケはプロデューサーがキャメラマンのぶんの旅費をけちったので、自分で撮影しなければならなず、どうにも稚拙なキャメラを除けば)もっとも成功しているシークエンスは、土本が2004年の水俣を再訪した時に、『水俣 患者さんとその世界』で愛くるしい少年だった胎児性患者の小崎達純さんを訪ねるシーンだろうと思う。

 『映画は生きものの記録である』の小崎さん

実際、音の仕上げを担当してくれた土本の盟友・久保田幸雄さんもここがいちばんいい、と言っていたし、公開してみればここでは涙が止まらなかったという感想も多く頂いたことだし、なによりもここがいちばん直感的に編集構成できてすぐにつながったシーンだ。

だが直感でやっているだけに、逆にそのシーンの意味が、やった本人にまったく分かっていなかったのである。

水銀中毒から来る肝障害が悪化して体力も言葉も衰え気味の、40代後半の、今はもう外出も出来ない小崎さんと晩年の土本、そして息子さんの病状の悪化をそれでも朗らかに語るお母さん(自身も患者)の三人だけで画面は構成しつつ、他の土本の同行者たちはオフの声だけで処理したこのシークエンスを、『患者さんとその世界』の小関さんのシーンとモンタージュすることで際立つのは、考えてみたら当たり前のことだが、1970年と2004年の違いだ、30余年の歳月の重さだ。

 『水俣 患者さんとその世界』の小崎さん

お母さんの一貫して朗らかな、いまさらこれも日常であり悲劇などと思っていては生きていけないと言わんばかりの態度と裏腹に、いやだからこそ重々しさを増していくこのシークエンスが見せている悲劇とは、「水俣病の悲劇」や「障害の苦難」ではない。

小崎さんも老い、土本も老いて来ていることが、1970年との比較で痛烈すぎるほどはっきりしてしまう、その老いることの悲劇、年齢とともに衰えてゆくことの哀しさこそが、このシーンの中心主題だったことに、今回見直してやっと気づいたのだから、間の抜けた話としか言いようがない。

そして『映画は生きものの記録である』という映画自体が、副題の通りの「土本典昭の仕事」についての映画ではまったくなかったのだ。

これはむしろ土本の老いと、そして遠くない死をこそ、撮っている映画だったのだ。いや主人公が土本典昭であることすら、この映画の本質にとっては、たいして重要でないのかも知れない。

「老い」と「しのびよる死」、自分たちの時代が終わってしまうことの、かつて生き生きと活躍し仕事をして来た人間だからこその悲劇性。

その背景に日本という国がその人生のあいだにどれだけ変貌し、それも必ずしもそれが進歩とは言えないこと、その変化に対して結局は無力であった自分と向き合うある老人の、真摯だからこそ「悟る」ことの出来ない重さとしての老いと衰えこそが、我々が撮ってしまったことだったと、いまさらになってやっと気づいた。

 チッソ水俣工場、百聞排水溝前の土本典昭(1928-2008)

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