最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/16/2011

双葉町、大熊町、浪江町、富岡町、楢葉町のみなさんへのお願い



我々は今、『No Man's Zone 無人地帯』という題名で、福島県の被災地、とくに「警戒区域」「計画避難区域」といった政府の決定で人が住めないことにされてしまった、無人の場とされてしまった場所についての、ドキュメンタリーを製作しています。

「原発事故が大変だ」という映画をいまさら作る気はありません。なにが大変なのかといえば、それはみなさんが失われてしまったものの大きさでしか、計ることはできません。そこを伝えようとする映画を、目指しています。

4月中下旬の、唐突に「警戒区域」が発令される直前には双葉町、大熊町、浪江町、富岡町、楢葉町と広野町の、当時はまだ「避難地域」「20Km圏内」とされていた土地を撮影し、5月下旬には名目上は「計画避難」が完了する直前の飯舘村を撮影して来ました。

このドキュメンタリーのひとつのきっかけは、テレビなどで見ることが「あまりにおかしいだろう」ということでした。たとえば20km圏内は「無法地帯」といった形容で、「牛が野生化している」「とにかく危険である」という文脈を作り上げてみせられています。案の定、牛はいわば放牧の状態であるだけ、こちらが注意さえしていれば、驚いたり怯えて逃げ出すこともありません。

 福島県浜通り・大熊町の放牧状態の牛

ほとんどの場合、取材に入る人たち自身が防護服に防塵マスクで身を固め、ガイガーカウンターを持ち、なにを撮りどんな話を聞くのかよりも、放射線の値が気になってしかたがないようです。ところがそこで出て来る数値が、案外たいしたことがなかったりする、一年いたって本当に危ないとはとても言えない、まして数日取材するだけで気にする必要はまったくない数値だったりするのですが。

防護服なんて着ても身動きが制限されるだけだし、ガイガーカウンターの数値よりももっと見なければならないものがあるからこそ撮影に行くのです。我々はそんなものはどちらも持っていきませんでした。特別な装備といえば、地震のあとすぐ避難があったのだから道路は痛んだままだろう、そこで四輪駆動の自動車を準備しただけです。

ガイガーカウンターの数値よりももっと見なければならないと思っていたものは、皆さんの故郷である場所に入ったとたんに、すぐ見つかりました。


4月の20日前後で、ちょうど桜の季節です。淡い新緑の芽吹く山々の、その森や林のそばにすっと一本桜が植えられていたりする、その風景はシンプルで、あまりに美しいものでした。

一方で、とくに海岸に近い場所に行けば、そこは津波で激しく破壊されていました。震災から1ヶ月以上経ってやっと県警の捜索が入っている。富岡の駅では、線路を挟んでこちら側は瓦礫と傾いた家が散乱しているのが、駅の向こう側にはほとんどなにも残っていない。


双葉町では、津波に飲まれたかつて田んぼだったであろうところに、よく見れば瓦礫が点在していることでかろうじて、そこに家があったことが分かる。それでも海辺の松の防風林だけは見える。


浪江町の請戸では、橋から海までが一気に見渡せてしまい、住宅の瓦礫のなかに漁船や浮きが転がっている。捜索が入った形跡もほとんどありません。

福島第一原発より5Kmほどの地点、浪江町 請戸港の津波被害
4月21日に撮影 ©2011, 羅針盤映画


それは哀しくも不思議な美しさをもった風景でした。 美しい田園が残っている場所でも、そこに人はいません。みなさんが今まで築き上げて来た生活の痕跡はあっても、それだけでは皆さんが先祖代々生きて来た歴史は、そこはかと感じることしか出来ません。

そこで皆さんにお願いがあります。辛い日々が続く中大変に恐縮ですし、かつてを思い出している余裕もないかも知れませんが、今までこの土地で生きてこられた皆さんの生活の歴史を、教えて頂けないでしょうか?

今の皆さんのお立場が大変に複雑なことも分かっているつもりです。 ですから映画に出演して頂ければむろんありがたいものの、差し支えがあるなら声だけでも十分です。あるいはお話だけでもかまいません。そこから文章を起こして、朗読するだけでも映画に出来るのですから。

皆さんご自身のお話だけではありません。村の昔話などもたくさんあることでしょう。

皆さんが生きてこられた土地には、神社やお寺だけでなく、道ばたのお地蔵さんや道祖神、小さな祠などをずいぶんと見かけました。恐らくそこにはお祭りがあり、歌や踊りやお囃子もあったことでしょう。そうした歌や音楽だけでも、記録できるものなら記録させて頂ければ幸いです。

もしお話をうかがえるようでしたら、ぜひご連絡ください。

また取材に応じて頂けるかどうかに関わらず、我々がいわゆる20Km圏内で撮った風景をご覧になりたい方は、お気軽にお問い合わせください。

記録映画『No Man’s Zone』
監督 藤原敏史
製作 ヴァレリー=アンヌ・クリステン

*このブログのコメント欄は当方が公開設定にしなければ非公開のままに出来ますので、そちらに連絡先を書き込んで頂けましたら、非公開のままこちらから連絡を差し上げます。

6/14/2011

自分の旧作を見直す…そして何も分かってなかった自分にイヤになる…

 藤原敏史『映画は生きものの記録である〜土本典昭の仕事』(2007)

16日の木曜まで開催中の、オーディトリウム渋谷の大津幸四郎特集で、最終日に大津さんと僕双方の現時点での最新作となる『フェンス』を上映するのだが、その後のトークで司会をしてくれる葛生賢君のために、2007年の旧作(もう4年前か…『映画は生きものの記録である〜土本典昭の仕事』のDVDを焼きながら、なんとなく久しぶりに全編を見直したのである。

映画の公開の翌年に土本が亡くなって以来、ちゃんと見直すのはこれが初めてだったりする。

ちょうど大津特集に合わせて、映画美学校が製作した土本と大津についてのドキュメンタリー『まなざしの旅』も公開中で、これに較べて『映画は生きものの〜』の方が遥かに厳しい内容になっている自覚はずっとあった。

『まなざしの旅』を見たら「ドキュメンタリー映画を自分も作ってみよう」という気になる若い人も多いだろうが、『映画は生きものの〜』を見て土本のような生き方に憧れる人はあまりいないと思う。

むしろ映画のなかでの土本の結論が、水俣の月浦(1956年に水俣病が最初に発見された場所)の漁港にたたずみながら、「自分がここではよそ者であったことを、ある寂しさを持って噛み締めている。だがだからこそ、記録が撮れたのだとも思う」であるところなど、もし映画を作りたいと思っている人が見たら、ここで要求されるのはむしろ、ある種の絶望的な覚悟なのかも知れない。


 土本典昭『不知火海』(1975) 水俣・月浦

それにしても我ながら、『映画は生きものの記録である』は、よく分からない映画だ。作った本人にもよく分からない…というか、実は自分がなにをやったのか、まったく分かっていなかったのだと、見直してみてやっと気づいた。

作った当時は、土本の大変にまじめで倫理的な人間性と、そこから導きだされる彼の映画作りの倫理、記録を撮る人間としていかにそこで記録される人々と向き合うのかが一方の軸であり、もうひとつの軸として土本が『ある機関助士』や『ドキュメント路上』を撮った60年代、水俣で傑作を連発した70年代から、土本自身が、そして日本社会が、どのように変貌したのかもうひとつの重要な軸だった。

土本の水俣シリーズ最初の傑作『水俣 患者さんとその世界』が撮影された1970年は、自分が生まれた年でもある。それくらいのことには自覚的に作った映画だ。そしてこれが映画による映画論、映画作り論であることにも、過剰なほど自覚的だったと思う。

これがある意味、土本自身にとって厳しい映画ともなるのも、むしろ土本が希望したこと、この映画を撮ることを承知した時に真っ先に出した条件だった−「決して僕を褒め讃えるような映画にはしないで下さい」。

それがいわゆる「土本ファン」の多くにとって、むしろ不快な映画になるのは仕方がない。結果、土本自身よりも土本が水俣で再会する人々の方がより人間的に偉いと思える瞬間すらいくつもあるのだ。実際、土本のことをそれまでほとんど知らずに見たうちの母やその友人知人は、たとえば緒方正人氏の方が土本よりもっと立派な人なのではないかと率直に思ったらしい。

   『映画は生きものの記録である』の緒方正人さん

土本にしてみれば、彼の厳しい倫理観からして、それこそが本望だったろうし、またたとえば水俣病のような主題を撮ったとき、たとえ土本であろうとも、自分の身体と生活で水俣病の苦難を背負って来た患者さんたちが到達する人間性に、そう簡単にかなうはずがないのだ。

それはそれで、いいのである。「映画ファン」の一部が不愉快になるのだとしても、それもまたよし。僕には自分の仕事でもあることをそこまで美化する気にはなれないのだし。

しょせん、たとえば患者たちが到達した生き方のある崇高さに較べれば、やはり「たかが映画」なのだし、映画監督なんてものがそんなに偉いはずもないのだ。

とはいえ、そのあえて自分にも課した厳しさからだけでは説明のつかない居心地の悪さが、自分にとってのこの映画にはずっとあった。

別にこれが注文仕事に過ぎず、まったく僕の企画ですらなく、土本自身の指名で演出を担当したものの、その土本への恩義というか敬意というか義務感以上の動機があまりなかったせいでもない。注文だろうがなんだろうが、作り始めたら自分の映画である。


その居心地の悪さの正体が、4年も経って見直してやっと分かったのだから、なんとも間の抜けた話ではないか。

なんのことはない、土本の撮った過去の日本(とくに水俣)と現代を常に比較する構造をとったつもりが、そこで比較されているのはむしろ、最盛期に活躍していた土本と、糖尿病などの健康上の理由でもはや映画作りを諦めていた晩年の土本だったのである。

この映画が本当に見せているのは、記録映画作家の職業倫理でも、そこを突き詰めようとした土本の偉大さでもなく、一人の男が老いること、そしてどんなに偉業を成し遂げた人間でもいずれ死と向き合わなければならないことの、悲しみだったのだ。

この映画でおそらく(水俣ロケはプロデューサーがキャメラマンのぶんの旅費をけちったので、自分で撮影しなければならなず、どうにも稚拙なキャメラを除けば)もっとも成功しているシークエンスは、土本が2004年の水俣を再訪した時に、『水俣 患者さんとその世界』で愛くるしい少年だった胎児性患者の小崎達純さんを訪ねるシーンだろうと思う。

 『映画は生きものの記録である』の小崎さん

実際、音の仕上げを担当してくれた土本の盟友・久保田幸雄さんもここがいちばんいい、と言っていたし、公開してみればここでは涙が止まらなかったという感想も多く頂いたことだし、なによりもここがいちばん直感的に編集構成できてすぐにつながったシーンだ。

だが直感でやっているだけに、逆にそのシーンの意味が、やった本人にまったく分かっていなかったのである。

水銀中毒から来る肝障害が悪化して体力も言葉も衰え気味の、40代後半の、今はもう外出も出来ない小崎さんと晩年の土本、そして息子さんの病状の悪化をそれでも朗らかに語るお母さん(自身も患者)の三人だけで画面は構成しつつ、他の土本の同行者たちはオフの声だけで処理したこのシークエンスを、『患者さんとその世界』の小関さんのシーンとモンタージュすることで際立つのは、考えてみたら当たり前のことだが、1970年と2004年の違いだ、30余年の歳月の重さだ。

 『水俣 患者さんとその世界』の小崎さん

お母さんの一貫して朗らかな、いまさらこれも日常であり悲劇などと思っていては生きていけないと言わんばかりの態度と裏腹に、いやだからこそ重々しさを増していくこのシークエンスが見せている悲劇とは、「水俣病の悲劇」や「障害の苦難」ではない。

小崎さんも老い、土本も老いて来ていることが、1970年との比較で痛烈すぎるほどはっきりしてしまう、その老いることの悲劇、年齢とともに衰えてゆくことの哀しさこそが、このシーンの中心主題だったことに、今回見直してやっと気づいたのだから、間の抜けた話としか言いようがない。

そして『映画は生きものの記録である』という映画自体が、副題の通りの「土本典昭の仕事」についての映画ではまったくなかったのだ。

これはむしろ土本の老いと、そして遠くない死をこそ、撮っている映画だったのだ。いや主人公が土本典昭であることすら、この映画の本質にとっては、たいして重要でないのかも知れない。

「老い」と「しのびよる死」、自分たちの時代が終わってしまうことの、かつて生き生きと活躍し仕事をして来た人間だからこその悲劇性。

その背景に日本という国がその人生のあいだにどれだけ変貌し、それも必ずしもそれが進歩とは言えないこと、その変化に対して結局は無力であった自分と向き合うある老人の、真摯だからこそ「悟る」ことの出来ない重さとしての老いと衰えこそが、我々が撮ってしまったことだったと、いまさらになってやっと気づいた。

 チッソ水俣工場、百聞排水溝前の土本典昭(1928-2008)

6/11/2011

記録映画キャメラマン・大津幸四郎

 藤原敏史×大津幸四郎『フェンス』(2008)

今では僕の映画製作におけるかけがいのない最重要スタッフ、『フェンス』の撮影監督であり、三里塚の今とその歴史を撮る企画は二人にとって数年来の懸案である。直接キャメラを担当していない作品でも常に重要な助言を与えてくれる、もっとも信頼する映画人の一人…と大津幸四郎を形容するのは、いささか厚かましい。

映画史において大津幸四郎は、二十世紀後半以降のもっとも優れたドキュメンタリーのキャメラマンとして、燦然としたキャリアを誇る存在だ。

「大津幸四郎、大津幸四郎自身を語る」聞き手:加藤孝信
http://www.yidff.jp/docbox/19/box19-1-1.html

   土本典昭×大津幸四郎『不知火海』(1975)

こと土本典昭との共同作業となった『水俣 患者さんとその世界』『水俣一揆』『医学としての水俣病−三部作』『不知火海』は、ドキュメンタリー監督とキャメラマンのもっとも幸福にして実り多い共同作業として映画史に記憶されるものであり、そして後に袂を分かつことになるとはいえ小川紳介とは『圧殺の森』『日本解放戦線・三里塚の夏』という傑作を撮り、佐藤真の『花子』『まひるのほし』そして『OUT OF PLACE』などなど、戦後の日本ドキュメンタリー史を大津抜きに語ることは困難だ。

その一方で、同じ岩波映画出身の黒木和雄の生涯の親友として、しばしばその劇映画の撮影現場に立ち会い、貴重なアドバイスを与え続けていたのも大津幸四郎の知られざる顔だ(黒木の映画の撮影は『泪橋』を手がけている)。

そんな大津幸四郎の仕事を振り返る大規模な回顧上映が、渋谷に新たにオープンした映画美学校の映画館「オーディトリウム渋谷」で開催中だ。

反権力のポジション―キャメラマン 大津幸四郎
2011年6月3日(金)ー6月16日(木)
上映スケジュールはこちら

   土本典昭×大津幸四郎『水俣 患者さんとその世界』(1971)

ただ大津幸四郎の仕事を「反権力のポジション」とはどうなのだろう?少なくとも大津の初期の作品が学生運動(『圧殺の森』『パルチザン前史』)や三里塚闘争(『日本解放戦線・三里塚の夏』)といった題材を撮ったものだから、ということから想起されるような安易な「反体制」のステレオタイプと大津の一貫したポジションは、その実まったく無縁なものである。

大津幸四郎の生き方と映画作りのやり方は、「反権力」かどうかを超越して、最初から「脱・権力」「非・体制」と言ってしまった方が僕にはすんなりくる。今の日本でのいわゆる「反権力」とは、現実にある権力機構に対抗する(そして結局はそれより遥かに脆弱に終わる)別の権力・権威への服従へとしばしば横滑りして終わってしまうだけのものだし、そんな「反権力」にでも土本はいささかのロマンチシズムを抱いたこともなくはなかったかも知れないにせよ、大津にはそんなところはまったくない。

むしろ世間の権力構造からいかに自らを脱却させ、人間存在そのものの姿をどれだけ撮ることができるのか、大津の興味は常にそこに向かっているように思える。

このせっかくの特集上映が、またまたこのブログでの紹介が遅れてしまい、土本、小川との仕事はすでに上映が終わってしまったのだが、今日は大津が惚れ込み、自らの初の監督作品『ひとりごとのように』の主役とした舞踏家・大野一雄をめぐる、『ひとりごとのように』(大野一雄の踊りと対決して自ら踊りだす大津のキャメラに、すばらしい緊張感がみなぎる)と周辺作品三本の上映、日曜日はアレクサンドル・ソクーロフの『ドルチェ』、月曜には再評価が絶対に必要な佐藤真作品二本(『まひるのほし』『花子』)が上映される。

そしてこのレトロスペクティヴの最後を飾るのが、大津幸四郎の最新作になるので当たり前なのだが、拙作『フェンス 第一部 失楽園 第二部 断絶された地層』、16日木曜日の上映となる。

19時からは大津と僕自身との対談が予定されているのだが、これだけは困った…。いったいなにを話すのだろう?

我々二人だけならいくらでも話すことはあるのだが、『フェンス』に関してはお互いで話し合うべきこと、議論すべきことは映画を作っている最中にやり尽くしてしまったのである。

他人様を前に話すに値するおもしろい裏話などほとんどない。大津幸四郎と組むとき、キャメラのことは完全に大津に任せきりで僕はなんの指示もまず出さないからだ。事前にならさんざん議論しているとはいえ、すべてコンセプチュアルな話で、僕が言えるのは撮影ラッシュを見て期待以上のものが撮れていることに率直に驚いたことくらいだ。

他人様を前にして意味が通じる話といえば、これはハイビジョン作品だから徹底的にハイビジョンにこだわった画にしようということ、70年以上の歴史にまたがる話(それどころか過去は弥生時代まで遡る)で登場人物は80代90代も多いのだからその時間を大切にしようということ、あとは僕がかなり詳細な脚本を事前に書いて大津が意見し、それを受けて僕が書き直すという作業を、2〜3ヶ月にわたって重ねた後、撮影は実働10日という早い仕事だったこと、くらいだろうか?

あとは視覚的なスタイルとしては印象派よりはターナーだろう、ミケランジェロ・アントニオーニの映画の例を挙げて僕が『情事』と『太陽はひとりぼっち』と言うと、大津が「いやむしろ『さすらい』だろう」と言って、僕がなるほど、と思ったことくらいだ。

『フェンス』という映画自体の話になると、すぐに日米関係と日米安保、日本の外交、とくに今では菅政権大批判大会になってしまいそうで…。二人ともほぼ同じことしか言わないし…。

司会を引き受けてくれた映画批評家の葛生賢君の話題さばきに期待する他ないのだが、土本典昭の話でもしますかね…。

 土本典昭×大津幸四郎『不知火海』(1975)

大津/土本の最高峰『不知火海』の、なかでも土本映画最高の名シーンについて、あまりおおやけに語られたことのない意外な裏話とかもあるし…。

あと大津が三里塚に戻ることになる企画の話は、2005年にいちどカメラをまわしているので、そのときの撮影素材なども紹介しましょうか…。

6/10/2011

福島県・飯舘村


本ブログでの報告が遅くなってしまったが、5月の末、政府によれば「計画避難」の期限となる直前に、福島における震災と原発事故をめぐるドキュメンタリー新作『No Man's Zone』の撮影で、飯舘村にロケに行って来た。

むろん現実は、あんな無茶で矛盾だらけの政府命令が、そう順調に進行しているわけもない。避難先が見つからない人も多く、また今さらこの程度の放射能を気にする年齢でもないのだし、残る人もいる。

ひとことで飯舘村と言ってもかなり広い。そのなかで最高の放射線値を記録した長泥の区長さんの家では、5月に子牛が生まれたばかりで、6月いっぱいまでは避難できないという。


一方で避難命令が遅過ぎた、80日近く時間がかかってしまったことも響いている。村から手近な避難先は、原発から20Km圏内のいわゆる「警戒区域」からの避難者ですでに埋まってしまっている。実はそれらの地域より飯舘村の方が数値が高いわけで、なのにわざわざ防護服を着せられての「一時帰宅」を、村の人たちは複雑な思いですらなく、ただもう呆れ果てて見ている。

政府の不備と拙速のしわ寄せをかぶったような格好で、飯館村役場では夜遅くまで電気が灯り、日曜の朝でも人の出入りがひっきりなしに絶えない。

拙速や不備どころではない。計画避難地域の指定を、地元の人々は我々と同じように、テレビや新聞報道の発表で知ったのである。さらに人を馬鹿にした話だ。

実は村役場にはさすがに、事前に通告があったのだそうだ。しかし政府は、村役場上層部のごく一部以外には、この決定を決して漏らさないように命じたのだという。

村役場にしてみれば従うしかないし、菅野村長は避難が必要な子供など、希望者だけは迅速に避難できる一方で、大人、とくに農業者などなかなか離れられない一方で、高齢化も進んでいるのだから放射線の健康影響を心配する必要の少ない人たちは残ってもいいようになんとか手を打とうとしていたのだという。

それが人々の生活等いっさい顧みない「東京」の傲慢による一方的な「計画避難地域」指定で、かえって村長まで不信感がもたれる結果になってしまった。実のところ政府が避難を強行するのだって、東京中心の世論対策、「子供を殺すのか」と叫ぶヒステリックな批判に冷静な反論すら出来ないで、すべての負担を、この田舎の美しい農村地帯の人々に、押し付けているのである。

村役場の隣にある村営の本屋さんには、役場宛の間違い電話やファックスがよくかかって来て、「人殺し、なぜ避難しない」などと罵倒されることもあるという。「避難先でも準備してくれてるんなら相手にしてもいいんですけどね」。


なんとバカバカしくも醜悪な、あまりに人間性に欠如している以前に、呆れるまでに愚かしい話だろう。仮に本気で飯舘村レベルの放射能が命に関わる、避難しなければ死ぬという危機感を持っているのなら、せめてもっと伝わる言葉で言わなきゃ意味がないだろうに。

いやこの手の間違い電話が極端だとしても、「福島の子供を避難させましょう」とか叫ぶ安っぽい国会議員や「命が命が」とネット上で叫ぶ人々も、似たり寄ったりである。

冷静に考えれば、一年二年とこのレベルの被曝が続けば、もしかしたら将来的にがんになる可能性が50%から50.2%にあがるかもしれない、という程度の話であることは分かっているのに、である。

リアリティに基づいたところがなにもない、抽象的な机上の空論としての「命が命が」という騒動が、自我が未発達で周囲に合わせることにしか自分の居場所を見いだせない、いじめや仲間はずれを極度に恐れるあまり自分からいじめっ子になった小学生からなんら精神的に成長していない都会人ならともかく(そんなオトナコドモが母親になって「子供の命を」とか叫んでるのである。教育上あまりによろしくない)、自然や農作物や家畜と向き合い続けて深い人生経験を蓄積してきた百姓たちの知性に、通用するわけもなかろうに。


飯舘村での取材にはいささか躊躇することが多いのが正直なところだ。

山々も美しい田園風景であっても、田畑には作付けもされず雑草が伸び始めている。その草取りも、放射性物質の付着している可能性があるので、控えるように指導されているのだ。その荒れた田畑を見ているだけでも、辛すぎる。

 避難先から戻って来て犬を散歩させている人の話

飯舘村の人々に話を聴くのは、もっと躊躇させられる。

すでにあまりにマスコミで話題の村になってしまったので、そこの人々がいわば “取材ズレ” してるのではないかということ。それ以上に、飯舘村の現在を撮ってしまうこと自体、住民の生活上にとっては害にしかならない情報を流すことになってしまうからだ。

「世界の飯舘村になっちゃったからね」という冗談をよく言われた。

本屋さんでは、「撮影に来てる人いっぱいいますね。みんな放射線に完全防護で笑っちゃいますよ」とも言われた。実際にテレビの取材陣に遭遇もしたのだが、雨でもないのに雨合羽にマスク、下手すれば軍手までしている。

山間部の村で朝晩はまだ冷え込むとはいえ初夏である、暑くないのだろうか?

たかが数日の取材で、なにを考えているのだろう?そんな数日では実際の危険もないところをただ「穢れ」「汚いもの」であるかのようにみなす態度が丸出しで、いい取材なんて出来るわけがなかろうに。


我々はさすがにそこまで傍若無人でも愚かしくもないつもりだが、それでも結局はこの福島第一原発の事故があって「世界の飯舘」になったから撮影しているのだ。事故がなければ、関心すら持たなかったであろうことは、紛れもない真実だ。

ドキュメンタリーの撮影とは、元から犯罪行為の面が否定できない。人々の生活や人生に土足で踏み込んで、その人たちを素材として映画というこちらの勝手な動機のために搾取することに、どうしたってなってしまうのだから。

まして今この場での取材は、「世界の飯舘」=「フクシマの放射能汚染地域」という烙印を押されることの、ダメ押しどうしたってなってしまう。少なくとも地元の人はそう思っていておかしくないし、現にそう言われて撮影を断られたこともあった。

もっとも撮影はさせなくても、そのあと10分も20分も話し続けられたりする。そこで言われていることがあまりに適確で知的な真実なので、しっかり記憶しているので、映画のナレーションには使おうと思う。


4月にいわゆる原発20Km圏内(我々の撮影直後に「警戒区域」指定)といわき市で撮影した際にも、いわき市四倉の漁港で漁師に「インタビューはもうたくさんだ」と言われ、でもその後に結局は話を聞けて撮影もしたわけなのだが。

飯舘村の比曾、長泥、蕨平の、とくに高い放射線値が計測されている三地区では、5月29日の日曜日にごく一部の人を残してほとんどが避難することになっていた。我々は主にこの三地区で撮影したのだが、引っ越し前の忙しい時期に、決して自分たちの得にならないかも知れないのに、それでも多くの方が撮影に応じてくれた。


これがまた、いざ話を聞き始めると思いのほか時間がかかるのが、庭先や畑で一通り撮影を済ませてお礼を言ったところで、「お茶でもどうぞ」で家に招き入れられ、そこで1時間くらい世間話になる。

浜通りでの撮影時にも感じたことだが、福島の農村漁村の人たちはとても礼儀正しく人当たりがよく、素朴でありながら洗練され、東京などよりもずっと知的だとさえ思ってしまう。とくに飯舘村の女性たちは、話もうまいしおもしろく、そのなかに静かな痛みや悲しみを滲ませる姿が感動的だ。

そして飯舘は、とても美しい村だ。農業しか主たる産業はなく、「村」といってもかなり広い村(元々50年前にふたつの村が合併)で、あちこちに小さな集落が点在し、自動車がなければ生活ができないだろう。決して便利なところではなく、実際に過疎化高齢化はかなり進行している。「昔はもっとにぎやかだった」という話はよく聴くし、取材させて頂いたのは若くて60代前半、最高齢は95歳だ。

それでも、過疎高齢化が避けられない「田舎」であることを逆手にとって、飯舘村は農村であることを全面に押し出した村興しに一定の成功を収めていた。

畜産に力を入れて、和牛の「飯舘牛」をブランド化し、子牛の繁殖を軌道に乗せていた農家も少なくない。

明日避難する、という農家

それがこの二ヶ月間、村の農家は仕事ができない。「二ヶ月なにもしないって、体にはよくないわね」と笑う農家の人々はだいたい60歳は過ぎている。

過疎・高齢化の厳しい現実はあるが、それでも後を継いでくれる若い人がいると喜んでいたはずが、突然のこの事態である。「災難だよね、本当に、災難。そうとしか言いようがないよね」

小さな集落ごとの地区では人間関係のしがらみだってあるだろうとも思うが、それでも一緒に生活して来たそのつながりもまた強かったことだろう。「今夜は部落のお別れ会なんです」「寂しいよ。みんなバラバラになってしまうんだから」。

そのすべてが、失われようとしている。


「一年、二年なら夢だと思ってやり直せるかも知れないけれど、五年十年だったら、牛は私たちの歳ではもう無理だよね。若い人たちは牛飼いなんてもうやらないだろうし」

それでも肉牛繁殖をずっとやって来た女性は、「でも乳牛やってた人はもっとかわいそうだよね」と、他人への配慮を忘れない。

その人たちがそれでも、「津波で家を流された人よりはいいと思いたいけど、でも家があるのに避難しなきゃいけないなんて情けない」とこぼすのは、それだけ深刻な事態なのだ。

「今はともかく早く帰りたい。行く前から帰りたいってのもおかしいんだけど」。