最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

3/09/2011

『ヒアアフター 』のとても大切な “嘘”

 クリント・イーストウッド『ヒアアフター』 Hereafter、2010

『ヒアアフター』の、あえてそこをクライマックスのようには決して見せはしない演出のなかの真のクライマックスで、マット・デイモン演ずる霊媒のジョージが、ひとつの重大な “嘘” をつく。

物語の主題論的に極論するなら、この2時間を越える長尺の作品は、実はこの瞬間のためだけにこそ、あるとも言えるのかも知れない。


イーストウッド映画の、とくに『ダーティーハリ−4』以降、『許されざる者』『パーフェクト・ワールド』『真夜中のサバナ』『ミスティック・リバー』、硫黄島二部作といった、善と悪の区分けの曖昧さを追及して来た系譜は、このまったくシンプルでささやかな「嘘」の瞬間にこそ、最終的な結論というか、いわば “悟り” に近いものへと、到達しているのかも知れない。



イーストウッド映画における倫理をめぐる問いかけは、これまで主に「正義」のための暴力の執行と、その暴走、生と死と殺人の問題として展開して来た。

それがイーストウッドが監督としての映画作家になる前に、まず作家的な俳優であった時代から継承されたものとして解釈されるものだったことはいうまでもない。

つまり ”ダーティー" ハリー・キャラハン刑事が法の執行を時に無視してまで「正義」のために44マグナムを撃つ姿、あるいは西部劇という「正義」のための暴力の執行を中心とするジャンルの最後のスターであったことの延長で、イーストウッドの自問自答の文脈という解釈され得るものであり、また現にそう解釈され、評価されて来た。

   『ダーティー・ハリ−4』
   『グラン・トリノ』
   『許されざる者』
   『パーフェクト・ワールド』
   『ミスティック・リバー』

またその問題意識は、実際に銃を撃つという暴力行為が正しいのか誤っているのか、その境界が混沌として判然としなくなる状況として表現されて来もし、それはこと『許されざる者』以降、アメリカが国家の「正義」のために執行する暴力行為への鋭い問いかけでもあり続けて来た。

『許されざる者』は米国においてやっと銃規制が議論され始めた時代に撮影が始められ、公開直前に92年のロサンゼルス暴動という、正義であったはずの復讐の暴走する現実が、映画の主題とそのままパラレルになった映画であり、『パーフェクト・ワールド』はケネディが暗殺される直前に設定された物語であり、またもや復讐の暴走が無関係な人間を殺してしまう『ミスティック・リバー』は、2001年の同時多発テロがなぜかイラク戦争へと雪崩打つ時代への警鐘ともとれる映画だ。

そのイラクでの戦争が泥沼化された時代に発表された硫黄島2部作においては、「正義の戦争」であったはずのものを生き延びた者たちの体験が、もはや俗世の正義不正義とは無関係の、彼らにしか共有されえない煉獄の記憶として提示される映画である。

  硫黄島二部作、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』

正義のための暴力の究極であるはずだった戦争の実際が、単に究極の暴力的体験に過ぎないこと。その生死の狭間の体験が、「正義」や「悪」などで理解することが絶対に不可能であること。

そのことを示すためにイーストウッドは米側、日本側の体験を合わせ鏡のような二部作としたのだろう。そして双方が「敵・味方」ではなく、同じ生死の境界で同じことを体験したに過ぎないことが、第二部の『硫黄島からの手紙』のラストにおいて負傷した二宮和也が米軍の負傷兵たちのなかに横たわる姿によって、確かに示されていた。



『ヒアアフター』は、こうした正義の暴力性が悪へと点ずる…いや、もはやそこに正義も悪もなく、ただ暴力の破壊性のもたらす倫理の混沌だけが残されているようにも見える映画群とは、一見無縁に見える。イーストウッドの映画を見続けて来た観客や批評家の多くにとっても、これは『マディソン郡の橋』と同様かそれ以上に、あまりに意外な作品にも、見えるかも知れない。

また奇しくもこのどちらもが、スティーヴン・スピルバーグがイーストウッドにオファーした企画だ。



この映画でおこる直接的な、暴力的な出来事といえば、2004年のインド洋の大津波であり、2005年のロンドン地下鉄の爆弾テロ事件だが、前者は女性、後者は子どもという、「正義のため」の暴力の執行者ではない主人公達にとって、たまたまふりかかる文字通りの「出来事」に過ぎず、それを執行するものの倫理的な問いかけとは無縁の描写でしかない。

前者の暴力性の主体は天変地異だし、後者においてもテロ事件はただ偶発的に起るだけで、テロリズムへの言及はそこには一切ないどころか、フランスでニュースを見る人たちの反応の陳腐さによって、テロの正義や悪を論じることそれ自体が、まったく鈍感な連中が云々しているだけのまるで下らない話であるかのように、この映画では示されている。


にもかかわらず生と死に関わる状況において倫理を問うというイーストウッド的な主題は、それでも確かに『ヒアアフター』のなかにあるだけでなく、映画のクライマックスに確実に設定されている−ただしこれまでとは異なる、遥かに慎ましく静かな、それだけに本質的な問いかけとして。

しかもこれまでの彼の映画の、観客を完膚なきまでに打ちのめして、その「正義」そのものを問いかけ揺さぶる不穏なものとしてでなく、むしろ安らかで、人間性へのあくなき希望にすら、満ちあふれた瞬間として。

それがジョージ(マット・デイモン)のつく嘘なのだ。

ジョージは自分の能力を「才能じゃない、呪いだ」と思って来た。

「嘘をついてはいけない」というのは、無論もっとも基本的な倫理規範のひとつである。

死者たちが生前に隠し持って来た「真実」を伝えることがジョージの役割であるはずであり、人々はそれを求めて彼の能力にすがる。

生きることのしがらみから解放された死者たちが、生前に隠していた真実を知る−たとえば映画で最初に登場する相談者は、亡き妻が真実に気づいていたことを知ってほっとできる。

『マディソン郡の橋』で亡き母の真実の告白の手紙を知ることで、子供たちが彼女を理解し、生きることや愛することに寛容になれるように。最初は火葬に抵抗していた長男が、ラストでは遺灰を思い出の橋と川に、自分たちを解放するかのように撒くことが出来るように。

   『グラン・トリノ』遺言の朗読

あるいは『グラン・トリノ』のラストで読み上げられる父の遺言の、車を相続したタオにかける言葉とタオの微笑みに、振り返って彼を見た長男が、その一瞬のうちに父が孤独ではなかったこと、父の死の意味を悟るように。


すでに『グラン・トリノ』でも、イーストウッドは「分かる人に分かればよい」と言わんばかりの演出をしている。長男を画面の左端に捉え、その表情の変化をクロースアップにすることなど決してない。長男役の俳優の、微妙な表情の変化だけにすべてが委ねられる−極端な話、この映画が本当に理解されるかどうかまでも含めて。


だが人の手を触れるとその人に憑いている死者が見え、その声が聞こえてしまうジョージは、死者の言葉を正確に生者に伝えること、自分に課せられた真実の重荷に、疲れている。

料理教室で知り合った女性(ブライス・ダラス・ハワード)とも親しくなりかけたところで、彼女に憑いている亡父を見てしまい、「真実は言わない方がいいこともある」と断ろうとしても、やはりその真実を伝えるしかなくなってしまう。

「お父さんは『許してくれ』と言っている」のひとこと。

ちなみにこの映画のイーストウッドの演出が円熟の極みに達しているのは、彼女のそれまでの不自然なまでにはしゃいだ態度と、あとは父親が謝っているというジョージが伝えたことだけで、彼女に過去に何があったのか、彼女が何を背負って来たのかを全て悟らせてしまうところにも現れている。最も重大な真実は、おいそれとひけらかせるものではないのだ。

それがまた、そう簡単に口にできる真実、映画で簡単に見せられることではないのはもちろんのことだ。

父親による性的な虐待などということは。


ジョージの部屋を出た彼女は、階段で泣き崩れる、その姿をイーストウッドはただ淡々と、しかし普通では脇役に割くのにはあり得ない時間をかけて見せる。この瞬間、彼女は映画の主役になるし、またそれだけの資格があるほどに重いものを背負っている。『ヒアアフター』はただその重みを受け止め、見せる。

果たして彼女に真実を伝えたことは、よかったのか?彼女が部屋を出てしまってる以上、ジョージには知る由もない。死者は見えても、生者を見ることができない、死者を見ることなしに生者の手にふれることすらできないのが、ジョージの “呪い” なのだ。

我々は泣き崩れる彼女の姿に、トラウマからの解放を期待することが出来るが、ジョージにはそれは無理だ。自分が知ってしまった真実の暴力性に、ただ打ちひしがれるしかないだろう。

こうした体験を数限りなく繰り返して来たジョージにとって「才能を他人のために生かす」「真実を伝える」といった倫理が恐ろしい重荷になって、人間として生きられなくなっているであろうことは想像に難くない。

無論イーストウッドはそのことも、決して安易な説明で分からせたりはしないのだが、人間的な想像力があれば誰にでも分かることであろうし、イーストウッドはここでも観客を信頼している。

…というか、分からない観客がいるのならそれはそれでいい、と言わんばかりの堂々とした品位だ。

ジョージの安らぎがディッケンズの小説の朗読(つまりはフィクションの、人の声による語り)を聴くことであり、そしてジョージの役柄自体が霊媒という極めてフィクショナルな設定で、またイーストウッドがその人物にリアリティを持たせるために彼の能力に様々な説明や証拠めいたシーンを一切入れていないことも示唆的だ。

映画はただ、手を握ったときにその相手に憑いた死者を見るというフィクションを、提示して我々にとりあえず受け入れるよう促すだけである。

あたかも「本当のこと」のような説得力を持たせようとすらしない。そんなことは重要でなく、この映画の真理とはなんの関係もないと言わんばかりに。


そのジョージが、双子の兄を失ったロンドンの少年(考えてみればディッケンズの小説の現代版のような設定だ)に根負けして、もう二度とやらないはずだった霊媒、死者の言葉の仲介者となるときに、その兄から弟へのメッセージについて、あえて嘘をつくのだ。

ここで彼が嘘をつくことが、ことさら演出上で示されるわけでもない。ただマット・デイモンの演技だけに、イーストウッドはこの重要な瞬間を任せている。気がつかない観客だって多い、それはそれで構わないと言わんばかりの演出しか、そこにはない。

ただ演技を…いや演技ですらない、人間の顔をきちんと見て、説明されるのでなく直感するだけの瞬間が、黙って提示される。

このジョージの “嘘” を「嘘」と断じてよいのかどうかすら、ためらわれる。

確かにこの時、ジョージは死者である双子の兄が言わずに去ってしまったことを、あたかも彼の言葉であるかのようなフリをして言っている。霊媒=仲介(英語ではMedium)としてやってはならないこと、「嘘」のはずだ。

だがそれは、弟を叱咤激励しようと思っていた兄が「言えなかった」ことでしかないかも知れない。「僕の帽子をかぶるな」「地下鉄の駅で帽子をとったのは、お前が僕の帽子をかぶってるのが気に入らなかったからだ」と兄は言うのに、そのすぐ後で「助けるのはあれが最後だ」、すべて弟を思う兄の気持ちが言わせているはずのことだ。


いや本当に帽子をかぶられるのがイヤだっただけじゃないか、と主張する人もいるかも知れない。だがその杓子定規な受け取り方自体が、その鈍感さが、すでに間違っているはずなのだと、イーストウッドはこっそりと言っているかのようだ。

逆に言えば、兄の言葉を「励まし」と受け取るかどうかは、それを聴いた人間の主観に任される。ジョージは明らかにそう受け取り、自分がその言葉を聴いた死者のために、そして目の前にいる生者のために、自分の決断で嘘をつき、自分の言葉を伝えるのだ。

この瞬間、ジョージは「仲介」ではもはやない。特殊な能力の入れ物に過ぎず、ただ死者の言葉を「正直に」伝えるだけの存在ではない。

彼はこの瞬間に人間になり、ただの「仲介」ではなく「仲介者」になるのだ。

それが杓子定規の倫理ごっこの自己満足、「ルールを守ったから自分は正しいはずだ」ではなく、人間として明らかに正しいことだから。その正しさは彼自身が主観で判断し、自分の巡り会った死者たちと生者たちのために選びとったものだから。

ここに我々は、イーストウッドが目指して来たものの到達点、ほとんど「悟り」と言っていい境地を見いだすべきなのだ。

我々が「暴力と正義」の問題、あるいは「倫理や正義の曖昧さ」と思い込んで見て来たこの映画作家の主題体系は、実はそれを遥かに越えたものだったのである。

たとえば公開当時にイーストウッドの忠実なファンですら戸惑った『マディソン郡の橋』もまた、『許されざる者』や『ミスティック・リバー』と一貫した探求の主題体系に位置する映画だったのだ。


イーストウッドにとっての真の問題とは「暴力と正義」ではなく、杓子定規の字面のルールに従うことでは決してない人としての正しさとは何かだったのだ。

だからイーストウッドは一見不倫メロドラマに過ぎないようにも見えた物語を、ヒロインの子供達がその彼女の真実を聴く映画として構成していたのだ。そして彼らは母を断罪するのでもなく、字義通りには「裏切り」に見えることを許すのでもない。ただ理解し受け入れることで、彼ら自身が解放される。人間として “より正しく” なれる。


あるいは『パーフェクト・ワールド』の繊細さと、あれが途方もない傑作であったことも、『ヒアアフター』から遡ることで初めて明らかになり、あれがいわば『マディソン郡の橋』と表裏一体の関係にあることも理解できるのかも知れない。

自分の意思、自分のとっさの主観で正しい「嘘」をつけたことで、ジョージは死を背負った仲介 Medium から、人間になる。人間性を取り戻す。それはたとえば『グラン・トリノ』のウォルト・コワルスキーが、死ぬことで到達したことと等価の “何か” なのかも知れない。


あるいは『パーフェクト・ワールド』のラスト(冒頭のタイトル画面でもある)で、ブッチ(ケヴィン・コスナー)がなぜか大草原で昼寝しているような顔をしているのと、同じことなのかも知れない。

いずれにせよそれを言葉にしようとするのは、無益なことだろう。映画なのだから、イーストウッドは映画でしか表現できない “何か” をやっているのだから。

『ヒアアフター』のジョージは、この時にやっと本当に生きることを始める。その本当の人としての人生の始まりを確認して、クリント・イーストウッドの最新の傑作は終る。


いやこのラストシーンの瞬間にこそ、この映画は真に “始まる” のかも知れない。


『ヒア アフター』は全国公開中。上映情報は公式サイトへ。

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