最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

2/20/2011

自分から逃げる続けるために体制に順応する者たちの肖像〜ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』

年末年始にイメージフォーラムから始まった『暗殺の森』のリバイバルが、この週末から京都みなみ会館と大阪シネヌーヴォに巡回しており、3月には横浜シネマ・ジャック&ベティでも上映される。

ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森 Il Conformista』(1970)

『暗殺の森』は現代日本でこそ極めてアクチュアルな映画だ。

原題は「体制順応者」。1937年のファシズム体制下のローマで、主人公マルチェロ・クレリチは「普通」「平凡」を求めてファシズム体制に自ら志願し、パリに派遣される。

クレリチの病んだ体制順応は、実はその順応しようとする体制の実態が「正常」でも「健全」でもなく(それどころか退廃し腐敗しており、最後には暴力・殺人に至る)、そこに順応することが自分にとってなんの解決にもならないことを百も承知で、それでもその体制の「普通」に身を投じ、順応してしまう。

病理だと分かっているのに、なぜその病理に自ら染まろうとするのか?

これは今の日本でそこらじゅうに見られる現象であり、たとえば率直に言ってしまうなら、奇しくも今上映されている現代の大阪の中産階級男性の多くが陥ってる現状でもあるようだ。

またローマ並みに歴史があって、しかし首都になれずに明治以降の中央集権化の行き着く先として、今や完全に東京に隷属しながらコンプレックスを溜め込み、かつ自分たちの歴史を差別対称に貶めて隠蔽している自分殺しの街になってしまっているのだから、ますます『暗殺の森』の状況に重なる。

しかしそれはただ、日本の現状の精神の悲惨が、こと大阪に凝縮されているのに過ぎないだろう。

晩年の黒木和雄監督にたびたび「今の日本は僕たちが少年時代の頃にそっくりですから、注意して下さいね」とさんざん言われたが、菅直人の時代の今、まさにこの映画とそっくりの状況に日本がなっている。

『暗殺の森』は「人並みの男でありたい」とのコンプレックスに囚われた男が自分を偽り見失ってファシストになる物語だ。

 『暗殺の森』あまりに象徴的な盲人たちの舞踏会

主人公マルチェロ・クレリチは、いわば「男らしくない」とみなされる人間だ。

少年時代に男性の運転手と性的な関係を持ってしまったことがトラウマとなっている彼は、様々なコンプレックスを抱えて自分を見失っている。

哲学の博士号を持つインテリであることすら、「男らしくない」点で彼のコンプレックスになりかねない。

こういう歪んだ自己逃避と体制順応の欲望に取り憑かれてしまう圧力は、こと大阪のような都市では非常に強い。向上心をまるで失った社会では、インテリであることは逆に排除される理由になる。うわべだけはマチズモを装いたがる地方都市では、とくにそうだ。

嫉妬やっかみに根ざす小市民的なポピュリズムがファシズムへと暴走する瞬間は、イタリアにもドイツにも、戦時中の日本にもあったし、今の日本はその前夜の段階にある。

コンプレックスにがんじがらめの自分から逃れたいあまりに、まさにそうした自分自身を支配し抑圧し、差別し排除しようとすらしかねないファシズムという父権的な体制側に同化(原題は「体制順応者」の意味)しようとする。

その「体制側」であることを証明するために、彼は恩師でありインテリゲンチャーであるという意味では本来なら自分にも近いはず…というよりかつては父的な存在であったはずのクワドリ教授をスパイし、暗殺するために、新婚旅行を装って教授の亡命先であるパリに向かうのだ。


「パリ」という憧れの都市(「ヌーヴェルヴァーグの首都」であるパリは、イタリアに産まれたベルトルッチ自身の憧れでもある)と、そこに亡命した教授とその妻に、クレリチは(彼らを暗殺する指令を受けているのに)、自分の憧れる居場所を見いだす。

こうした首都であるとか外国への憧れは、しょせんは自国や自分の街の後進性へのコンプレックスの裏返しに過ぎないのだろうが、これも今の日本にありがちだ。「大阪」なら東京に憧れ、英語も出来ない自分たちだからと「世界」にコンプレックスを抱きながら、その外国や海外に憧れるだけで本気で学んだり知ろうとは決してしない。

都合の悪いことは「知識がないからよく分からない」で誤摩化す。

しかし一方で彼は、ファシズム体制下の「普通」のイタリア人でなければならないと自らに課している圧力から逃れることができず、そこに順応しようとする。

実は「普通」ではない自分を自覚しているからこそ、「普通」でなければ侮蔑され排除されることの恐怖。


一方で、マルチェロ・クレリチは盲人たちにも惹かれる。唯一信頼している友人のイタロ・モンタナーリは盲人で、ラジオでファシストの宣伝番組を担当している。

ラジオ局のシーンでは、イタロがナチスとの同盟を称揚するスピーチを(点字原稿で!)朗読している。

そのスタジオのガラス窓に主人公が映り込んでいるショットの、映像と音声の多層的な写り込みと重なりが示唆するものは極めて不穏であり、『暗殺の森』のテーマが凝縮されている。

まずは障害者であるイタロ(盲人)が、ナチスとの同盟の「力」を賞讃する文章を読み上げることに見るファシズムの本質。そして身体的な盲人であるイタロに対し、自らを精神的な盲人(なによりも自分自身について盲目)にしようとする主人公のマルチェロ・クレリチ。


続いて彼が出頭する指令部には、ドミニク・サンダ演ずる娼婦の姿がある。「健全で普通」なファシズムとその実態の性的頽廃は紙一重なのだ。

ドミニク・サンダは主人公が暗殺に使う銃を受け取るヴェンティミリア(地中海岸の保養地)でも、顔に傷がある白痴の娼婦として登場する。いわば不具者である彼女だからこそ、クレリチは抱きしめる。

ファシズムの上辺の「男性的な力の健全」と裏の性的な頽廃、盲目のイタロに表象される不具。

自分が潜在的に「不具」「キズがある」人間であることを隠しているからこそ、より明白な「不具者」「キズもの」である相手には優越感が担保されることへの安心感。

「男性的な力の健全」の歪み、その歪みがあることを百も承知で、その実は病的で歪んだ「普通で平凡」に、それでも所属願望を持ち続けてしまう…


ドミニク・サンダ演ずる二人の娼婦は、彼の幻想なのかも知れず、現実なのかも知れない。一度目は彼の主観ショットにも見えるが、いずれにせよこの映画はあえてその点を曖昧にしていることが重要なのだ。

自分の目で現実を見ることを棄てて集団で幻想を見ることこそがファシズムの根本なのだから。自らの視線を棄てて盲目になることで、人はファシズム全体主義に染まるのだから。


「普通」の「健全」を上辺だけは求めながら、その実その幻想は性的な誘惑なのだ。

その頽廃の共同幻想を求めることは、コンプレックスに苛まれてしまう個からの逃避にとっては巨大な誘惑である。

盲人のイタロ、発狂した父と麻薬中毒者の母を持つ頽廃したブルジョワの、実は同性愛者であるクレリチ、ヤクザもののマンガニェッロ、いずれも元々は社会の「普通」の「健全さ」からはみ出す者たちが、「健全」な「普通」の社会の権力の側になれる誘惑。ことゲイであるクレリチにとっての、娼婦を囲うような力強い男らしさのイメージ。

「健全」「普通」でありたいクレリチの望むその社会の「普通」は、歪んだものである。まさに彼のような自己逃避に他ならぬ歪んだ欲望によってこそ、ファシズムは成立するのだ。


告悔の神父に、彼は結婚することも「普通になりたい」からだという。実は「男らしくない」自分だからこそ「普通の結婚」に固執し、自分が愚かだと思っている平凡な女と結婚するというのだ。

その婚約者ジュリアのアパルトマンは、表現主義映画のように照明された密告と覗き見と差別的な誹謗の空間である。女中もまた主人たちの会話を覗き見ている。爛熟し退廃した階級社会の成れの果ての姿だ。

実のところクレリチがそこに所属したいと思う「普通さ」の空間は、「健全」とかけ離れたものである。

発狂した父の入院する精神病院とこの頽廃した階級社会のどちらが「正常」なのかさえ分からないし、クレリチがそのことに気づいていないわけでは決してない。

にも関わらず、彼はその体制にこそ順応し、そこで「認められたい」と欲望するのだ。

退廃し腐敗したブルジョワジー、婚約者の家

マルチェロ・クレリチは、矛盾しきった人間だ。

彼は自分の望む「普通さ」の世界と、彼のコンプレックスとなっている自分自身(発狂した父と麻薬中毒の母、自分は同性愛者であるかも知れない)のどちらもが、必ずしも「正常」で「健全」と言えないことが、分かっているし、自分がその体制から排除されかねない人間であることも実は自覚している。

ここに『暗殺の森』の凄みがある。

ファシストになることも、結婚することも、決して自分が求める「普通さ」「健全さ」を得られる手段ではないことが分かっている。自分がやることが誤りであることも分かっている。それでも彼は、その体制に順応したいのだ。

あるいは盲人であるイタロと、自分が所属したいところの「普通さ」の世界のどちらがより盲目であるのか?


婚約者の家庭と父のいる精神病院のどちらが本当は「正常」なのか?

クレリチには実は分かっている。分かっていながら、その盲目さに軽蔑すら感じながら、そこに身を投じるのだ。

彼は告悔の神父に対してでも、これから結婚しようとするケチなブルジョワジーを、腐敗して堕落し腐臭漂うものだと言い切り、軽蔑を隠さない。そしてパリで教授に再会し、プラトンの洞窟の比喩を語る場面でも、ファシズムが病理の扇動体制であることがクレリチには実は分かっていることが示される。

『暗殺の森』告悔、平凡さへの軽蔑を隠さないクレリチ

彼が所属したいと願望する「普通さ」の世界もファシズムも、病的な幻想でおよそ健全でも正常でもない。それでもクレリチは、そこに所属したいと願望する。病理だと分かっていても、そこに身を投じてしまう。

盲人たちを友としつつ、彼ら障害者への優越感も持たなければ自分の立場を確保できない彼は、自分自身を精神的に盲目としていることを自覚できないまま、自分の本当の居場所になったかも知れないパリで、完全に自分を見失う。

こうして自己逃避する自分自身の本質からもまた逃げようとして、ますますドツボにはまり、もう逃げられなくなってるのに逃げ続けるしかない病理は、僕が大阪で映画を撮ってずっと目撃して来たことにそっくりだ。



2/19(土)からの京都や大阪での上映で『暗殺の森』を見る人は、もしかしたら自分も主人公と同じかも知れないと思って見て下さい。

映画って本当はそうやって見るものだし。

*この項目は
『暗殺の森』その2・パリ
『暗殺の森』その3・父殺しの主題
に続く。

0 件のコメント:

コメントを投稿