最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

10/31/2010

『ほんの少しだけでも愛を』と大阪の人たちの差別について

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)

どうも今の日本の「差別」をめぐる悲劇の根幹は、出自や民族、生まれつきの“障害” などで「生まれながらに差別される人々」がいることではないらしい。

逆に「マジョリティ」の側に自分が「生まれながらに差別する側なのだ」と思い込んでいるビョーキな人が多いことに、本質的な問題があるらしい。

でも本当にそんなことがこの社会の「差別」の本質だとしたら、非常にアホらしいわけで、しかも救いがない。

被害者が生まれるのは一方的に加害者側の責任でしかないが、加害者の側はただ自分の考えを再検証して、差別なんてアホなことをやめればいいだけなのだ。

なんで自分でまずできる、遥かに楽なことをやらないで「俺たちは差別する側なんだと言われるのが怖い」とかの思い込みに、必死でしがみつなければならないのだろう?なぜそんな下らないことに必死でしがみつけるのだろう?

なんで「差別される側がいなければ、せめて目立たなければ、声が大きくなければ、自分たちは差別をしているなんて言われないで済むのに」などと、スーパー身勝手な甘えのまっただ中に自分を貶め続けることが出来るのだろう?

ガキじゃあるまいし、幼児退行か、などと言ったら子どもたちに失礼だろう。子どもの方がまだずっと賢い。

大阪で『ほんの少しだけでも愛を』を撮っていてショックだったのは、大阪におけるいわゆる同和であるとか、在日コリアンの問題を取り上げたとたんに、「東京の人間がそんなことに興味を持つのは、東京のエリートが大阪を差別してるんや」みたいに言われたこと。

しかも「東京のエリートが大阪を差別してるんや」みたいに中央集権コンプレックスを丸出しにした挙げ句、「同和地区なんかで撮影したら、大阪では上映させない」とか言い出したのが、50代のいい歳した大人なんだから、開いた口が塞がらないわけである。

なにそのまったく他人が見えてない超ワガママって?

さらにショックというよりも空いた口が塞がらないのが、「同和地区なんかで撮影したら、大阪では上映させない」と言い出した50代のいい歳した大人というのが、さる自称・「大阪の市民の映画館」の経営者だったこと。

アジア映画の映画祭とかやりながら、韓国本国で保守派が在日コリアンを蔑視しがちなことを、嬉しそうに “教えて” くれたりするんだからやってらんないのである。いやそれくらいのこと知ってるし、だいたい韓国のナショナリズムについて「欺瞞だ」と批判的な発言をソウルの映画祭などで堂々とやってるのが僕なんだが…?

それも小川紳介や土本典昭に心酔しているフリをして、自分の映画館でも良心派・社会派ぶって、自分たちとは無関係の差別をめぐる映画、たとえばイスラエル映画、僕が友達なので関わっているアモス・ギタイの映画を上映したいから協力してくれ、とか言って来る人だったりするのである。

 『ほんの少しだけでも愛を』抜粋

自分たちとは無関係の、たとえば外国の差別をめぐる映画は、上映したいと協力を求めてくるような映画館経営者が、その同じ相手について「同和地区なんかで撮影したら、大阪では上映させない」とか言い出すんだから、こりゃ完全にビョーキの世界なわけだ。

だって偽善なら偽善で、もっとうまくやるだろう、普通? こんなにバレバレなことやって怒られないと思うほどに、甘えてるんだろうか?

でもこういうビョーキな世界は恐らく、別にその映画館経営者個人や、大阪とか関西地区に限った話でもない。日本全国の問題であり、たまたま歴史的経緯で大阪で表出しているのに過ぎないのだろう。

というか、僕が今「ビョーキな世界」と言ったことについては、彼はすかさず「東京のエリートが大阪を差別してるんや」とか言い出すんだろうな。

だいたいそれってあまりに考えが甘い。「東京」?いえ私は半分ヨーロッパで育ち、「お前は日系ユダヤ人に違いない」とイスラエル人にからかわれ、「どこにも属さない」強いて言えばいわば世界市民でしかないし、映画という世界的/普遍的なものに属している人間なんですわ、お気の毒さま。そこまで自分たちのコンプレックスを無自覚にも分かり易くさらけ出して、どうするんだ?

さらに始末の悪いことに、まあ「関西の男性」にありがちな行動原理として、怖いからさすがに僕には面と向かっては言わない。ならせめてバレないところでの陰口で済ませりゃいいようなものを、わざわざ僕の耳に確実に入るところで言う。

気持ち悪いので本人に「そんなこと本当に言ったのか」とわざわざ問い合わせてあげたのだから、その時に「絶対にそんなことは言ってない」と言えば、まだチャラにできることなのに、逆ギレで激怒はしても絶対に否定はしないのだから、じゃあやっぱり本当に言ったんだね。

よくもまあこんなに無意味で、ただ卑劣で気持ち悪いだけのことを、いい歳した大人ができるもんである。

 『ほんの少しだけでも愛を』結論部分(ナレーションはこの内容を膨らませて再録音の予定)

昨晩、ツイッターで「差別する側はしばしば差別される側でもある」と書いたのだけれど、これには訂正が必要だろう。

差別云々でもなんでも、単に自分の限界がつきつけられたときに、相手に対して相対的に劣等な立場になったとコンプレックスに苛まれ「差別された」と思い込める輩が、その劣等感の解消を求め、優越感に浸りたいために、差別する相手を必要としているのだろう。

つまりは自分たちのマイノリティ性に絶対に気づきたくない、マジョリティでありたい人々が、幻想のマジョリティであることの担保として、差別なんてことをするのではないのだろうか?

いずれにせよ、えらく不自由な話である。

しかし自分で勝手に不自由になってるだけの連中の身勝手のせいで、いわゆる「同和」であるとか、あるいは在日韓国朝鮮人の人たち、障害者の皆さんが余計な苦労をさせられるのだから、まったくひどい話だ。

そんなに相対的な優越感が大事なんだろうか?

自分を愛するということが出来ない人々なのだろうね。

だから自信が持てず、他人に認められたいですらなく、ただひたすら批判されたりして「下位」に自分が置かれることが怖いだけなんだろう。

自分を愛するって、大切なことですよ。

それができなきゃ、自分の経営する映画館を大事に出来ないし、だからそんな自爆発言も、無自覚にしてしまうんだろうけど…。

自分を愛すること、愛せるだけの自分になれることを本気で目指していれば、差別だのいじめだの、やってるヒマもなくなるし、その必要も、動機もなくなるのだし。

逆にいえば、差別をし続けたり、いじめをやる人というのは要するに、本当はそういういやらしいことを、やりたくてしょうがない、そうやってくだらない優越感に浸りたいか、自分が「下」に見られるのを恐れているだけなのだろう。

10/21/2010

本日 19:00〜『フェンス』上映


【ドキュメンタリー・ドリームショー山形in東京 2010】
本日 19:00〜 ポレポレ東中野にて

『フェンス 第一部 失楽園/第二部 断絶された地層』
2008、監督:藤原敏史、撮影:大津幸四郎、製作:安岡卓治

http://www.cinematrix.jp/dds2010/diversity.html#bk479

上映後トークあり:藤原敏史(演出)、大津幸四郎(撮影監督)

10/18/2010

『ほんの少しだけでも愛を』追加撮影終了


土曜、日曜と、『ほんの少しだけでも愛を』の追加撮影で大阪に行ってました。

上の写真は、日没のタイミングにうまく撮れてしまったワンシーン。

このラフカットの一部で、9分10秒から…


ここ、吉本のお膝元の千日前は、かつての千日墓地の前だったから「千日前」なのだそうな。


偽りの、偽善の「差別対策」の風景… 日本の行政って本当に怖い。

10/13/2010

尖閣諸島騒動とはいったいなんだったのか?(2)

承前。

今回の騒動での日本側の致命的な失敗はしかし、中国がどう動き、そこにはどういう理由があるのかを、まったく理解していなかったことにある。

だから中国が「強硬だ!」とパニックに陥り、国内世論は見当違いなナショナリズムに盛り上がり、政権はといえば前項に書いた通り、アメリカに頼るしかなくなる。

無論これは、菅直人政権だけの責任ではない。

いやだからこそ菅直人は始末が悪いわけで、日本国内の実態は、完全に外務省(現在の主流は対米従属派)と防衛省ペースに、政治家たちが「粛々と」乗っかっただけだということ。国内法に粛々と、ではなく霞ヶ関に粛々と従っただけ。

挙げ句に検察に外交判断をさせてしまうという…

どこが「政治主導」?政権交代をした意味はどこにあったのか?

昨年には議員訪中団を率いたり、中国政府とパイプもあり、また外交において「筋を通すこと」の意味が分かっている小沢一郎が首相になっていれば、まだ異なった事態の進展になっていたのかも知れないが、後の祭りなのは言うまでもない。

小沢一郎だったらどうだったかはともかく(とはいえ結局、関係修復のために小沢の信頼の篤い細野議員が訪中したのを見れば、なにをかいわんやなのであるが)、日本側の根本的な誤解とは、中国がそもそも今回、まったく「強硬」などではないのを、まるで理解できなかったことだ。

いやそもそも、中国の根本的な形式上の立場すら、日本は理解していなかった。

驚くほど簡単な話だというのに!

中国は建前だけにせよ、尖閣諸島の領有権を主張している。

そうである以上、今回の一件は中国から見れば、自国領内で操業していた漁船を侵入してきた日本の官憲が拿捕し、拉致監禁したということになる。

もちろん日本は立場が異なるのだから、公式には日本の立場を繰り返せばいい。しかし外交とは相手の動きを計算しなければ成立しないことなのに、中国側の立場がどういうことなのか認識もせずに「粛々と」とは!

これでは引きこもりクンがネット上で匿名で、社会生活上ではあり得ないようなわがままな暴れ方をするのと大差ない幼稚さだ。

しかもほとぼりが醒めたところでやっとマスコミでも出て来るのもおかしいのだが、鄧小平の時代に日本、中国、台湾のあいだでは、尖閣諸島の領有問題は日本の実行支配のまま棚上げにすること、中国や台湾の漁船が操業するのも日本は追い返しはするが逮捕などはしないという暗黙の了解が、ずっと有効であったのだ。

たとえば小泉政権時代に台湾の活動家が上陸したときに、当時の福田康夫官房長官は即座に強制送還の決断をしている。

一方で日本のこれまでの方針はといえば、中台にほとんど不必要でやり過ぎな配慮として、土地は地主から借り上げて膨大な賃貸料を払って無人島にし、近隣の石垣島の漁民には尖閣諸島に近づかないようにという強制的な「指導」まで、やって来ている。これはこれで間の抜けたやり過ぎである。


中国側の立場からすれば「自国領内で操業していた漁船を侵入してきた日本の官憲が拿捕、拉致監禁」という事態になるにも関わらず、中国側の動きはむしろ驚くほど大人しかった。

逮捕された船長の日本の国内法の勾留期間が切れるまで、中国側は日本の大使と面会し懸念を伝えるなど以外の、通常の外交ルートの儀礼にのっとった形式上の手続き以外は、なにもしていない(もちろんさすがに、主権国家なんだから、なにもしないわけにはいかない)。

一部報道では丹波大使が深夜に呼び出されたという扇情的な報道があったが、これも嘘である。

大使のスケジュール調整上、合う時間が夜になっただけであり、中国が本気で強硬なら、そんな調整はせずに「即刻来い」とまず言って来る。深夜までズレ込ませたりしない。

最初の勾留期間まではそんな感じである。普通の形式上の手続きか、下手するとまことに抑制された動きしかない。

つまり中国は形式上の抗議と懸念以外はなにもするまでもなく、日本の国内法の相場で勾留終了とともに処分保留で釈放するだろうと予想していたのだろう。

言い換えれば、形式上の抗議程度で、実質的な対立はなにも望んでいないし、それが双方にとって最良の解決であることを、中国側は理解していたわけである。

というか、今日中関係を悪化させるのは双方にとってデメリットしかないことを日本政府が分かっていないとしたら、この国は大バカものである。

まず最初の逮捕の判断自体が、菅直人、前原国土交通大臣(当時)、岡田外務大臣(当時)による稚拙な「慣例、約束やぶり」だったにせよ、タテマエでは日本政府は「尖閣諸島に領有権問題はない」が公式見解なのだから、ごく普通に国内法の運用をして、公務執行妨害ならば相場どおりに勾留満期で釈放し、改めて「尖閣諸島は日本領である」と公式なステートメントでも出しておけばよかったのである。

中国側の態度が激変したのも、日本の側に原因がある。

勾留期間があたかも自動的に延長されたことである。

ちなみに被疑者の長期勾留が自動的に認められる日本の現状自体が、人権侵害と冤罪の温床として、国連人権委員会やアムネスティからさんざん批判されていることも、中国は知っている。

だから対外的な話題になりかねない今回の一件では、ますますもってそんなことはしないだろうと考えるのが、普通だ。

当然、中国側もそう考えていたし、日中関係を悪化させたくないから、法定の勾留期間のあいだは、なにもしていない。

日本じゅうが「強硬だ!」と驚き震え上がりパニックになった中国の動きはすべて、勾留期間が終わっても延長されてしまってから、その後で初めて、である。

しかもそのあいだ、日本の政権も報道も、やれ代表選挙だ、そして菅直人続投が決まればやれ内閣改造だ、そして菅直人自身の「国連デビュー」と、どうも船長の扱いについてなんの対処も判断もしていなかったとしか、思えないのである。

中国側からみれば、日本はなにを考えているのかさっぱり分からない。いや日本人である僕から見ても、菅政権がなにをやりたかったのかさっぱり分からないのである。

防衛省と外務省の狙いは分かる。財政再建圧力が大きい中で、思いやり予算という利権を確保すること。だからアメリカに頼るよう内閣を誘導するのも、彼らの利害からすれば理にかなっている(国民は大損だが)。

その上、内閣改造では「逮捕」という慣例破りな判断の首謀者である前原が、今度は外務大臣に任命され、得意満面に「国連デビュー」が楽しみでしょうがない顔をしている。

これでは最悪のサインを相手国に送ったことにしか、ならない。

しかも恐らくは、日本側としてはまったく無自覚に。

さらには蓮舫大臣がうっかり、政府の公式見解とは異なり「領土問題」と発言してしまったこともあった。

蓮舫さん自身の発言は、大臣としては確かに失言である。だがだからって外交を考えれば、いや外交を考えた時には、これは黙殺すべき類いのことだ。

ところが日本のマスコミも政治家も、この「失言」にのっかって蓮舫さんへのバッシングを始めたのである。

言うまでもなく蓮舫さんは父親が台湾人である。台湾もまた尖閣諸島の領有権を主張している。

だから彼女をこの問題でバッシングすることは、「お前はやっぱり中国人だろう」という濃厚な人種差別の色彩を帯びる。少なくとも中国人、台湾人はそう思う。

なにしろ某野党の大物が彼女を「日本人じゃない」と批判したのも、ついこないだのことなのである。

ここまで無意味に敵意をむき出しにした日本の外交力、しかもそれがすべて無自覚で、なんの戦略性もないことに、我々日本の市民は、もっと愕然とするべきなのだ。

そして挙げ句に、頼る相手はいつもアメリカなのである、嗚呼。

拙作『フェンス』(2008)のなかで、郷土史家の篠田健三氏と僕とのあいだで、こんな会話がある。

日米安保をめぐる一連の米軍特別法の話の文脈で出て来ることなのだが、

藤原「それってだって、日本が独立国じゃないということじゃないですか!?」
篠田(平然と)「独立国じゃないですよ、はい」


『フェンス 第一部 失楽園/第二部 断絶された地層』(2008、監督:藤原敏史、撮影:大津幸四郎)は、現在開催中のドキュメンタリー・ドリームショー山形in東京 2010上映されます
10月21日(木)午後7時から
会場:ポレポレ東中野

10/09/2010

尖閣諸島騒動とはいったいなんだったのか?(1)

このブログでは以前にも、日本がなぜ外交音痴なのかを考察したことがあるのだが、それを再確認させてくれる事態が、今回の尖閣諸島をめぐる騒動だったといえるだろう。

他者の都合を推測すらできない、だから相手の動きがなにを意味するかも分からず、過剰に恐怖したり過剰な期待をしたり。この問題の解決が実は日本と中国でなく、日本とアメリカのあいだで決したことなのは7日の本ブログで考察した通りだ。

これも他者の都合を推測すらできず、アメリカの国益からしてアメリカがどう動くかを考えもしないで、「日米安保」に過剰な期待をした、無惨な結果である。

いやもっと根本的な問題がある。

この程度の衝突で「日米安保」の適用範囲に尖閣諸島が含まれると確認したくなること自体が、アメリカにしてみれば呆れるような話でしかない。

安保条約はあくまで、武力の行使などの重大な安全保障上の危機に適用されるものだ。

そしてアメリカから見たら、いや誰から見たって、日中のあいだでこれが戦争などに至るような危機では、まったくなかった。また仮にそこまでエスカレートする危険があったとしても、日中で武力衝突が起こる事態の方を、アメリカは真っ先に阻止する。

米中関係もアメリカにとって極めて重要な外交関係なのだ。経済的な結びつきは言うに及ばず、中国はアメリカ国債の最大の保有国である。そんな関係をアメリカがみすみす危機にさらすはずがない−−それも自国の利益となんの関係もない話で。

日米安保の適用自体が絵空事なのに、そこで確認を求めてくる前原はなにを考えているのか、クリントン国務長官もさぞ呆れたことだろう。

平和ボケも甚だしい。戦争なんてそう簡単に起こるわけがない。出来る限り回避するのがあらゆる国の外交にとって至上命題であるはずが、わがニッポン国だけは違うらしい。

北朝鮮相手だってそうだ。「ミサイルだ、ミサイルだ!」って興奮してる場合じゃない。

すわ戦争だと言わんばかりの敵視と、ゴシップまがいの「金正日の息子」がどうこうだけで、本気で拉致被害者を取り返せるだとか、思っているのか?

平和ボケのあまり、「戦争」という言葉の英雄的な響きに、すっかり思考停止で興奮状態にでもなっているのか?

10/07/2010

菅直人首相の「高度な政治的手腕」?

来日したキャンベル国務次官補が、尖閣諸島をめぐる日中間の対立について、菅直人首相の高度な政治的手腕を評価したのだそうだ。

褒めてもらえるのはありがたいことながら、菅直人首相は例の船長の釈放は、あくまで「検察の判断」だと言っている。うーむ、キャンベル氏は、では一体なにを褒めてくれたのだろう?

まあこの褒め言葉がリップサービスに過ぎず、アメリカが日中間の対立を望まず、領土問題でどちらかに与する可能性はゼロであり、だから双方が「冷静な交渉を」というのが肝心のメッセージなのは、誰が見ても明かなのだが。

まだ国務省はマシ、まだ紳士的である。

国防総省の方は先週にやはり次官補を派遣し、「尖閣諸島は(前原外務大臣の言う通り)日米安保条約の適用範囲内です」という見え透いたリップサービスの裏の本音で、「守ってやるんだから思いやり予算は全額寄越せ。普天間問題もこっちの有利な条件を沖縄県民に納得させるように」という恫喝をやっているのだから。

一方、すっかり面目を潰したのが前原外務大臣。

先週の記者会見で、「尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲内」というのは自分からクリントン国務長官に確認を迫ったものであること、その際には戦後沖縄が米国の施政下にあった際にそこに尖閣も含まれていたことも指摘し(これを言われればアメリカも形式上、反論はできない)、そこでクリントン氏が「領土問題にはコメントしない」と断った上で認めたという話だったことを、フリージャーナリストの岩上安身氏の質問への答えで、バラさざるを得なかった。

こうなると「中国の強硬姿勢」に屈する形で、裏で政治介入があったにせよなかったにせよ(ってなかったわけがない。検察が自ら泥を被るような越権判断をする動機がない)、例の船長の釈放が決まったのだという一般的なマスコミの分析は、だいぶ事実とは違うのだと分かって来る。

今朝の毎日新聞では、国連総会中のASEAN首脳との会合を控えて、オバマ大統領やクリントン氏にとって日本が中国を刺激したのは迷惑でしかなく、クリントン氏が「すみやかな soon」解決を求めると前原氏に言っていたことまで指摘されている。

民主党リベラルの現オバマ政権の基本的な姿勢と、米中間の経済関係を見ただけでも、少なくともアメリカの国益が、日本に与する「日米同盟の強化」で中国に対決姿勢を強めることではないくらいの予測は、もしかしたら前原氏や外務省は思ってなかったかも知れないけれど、ふつうに考えれば誰にでも分かることだ。

いや前原氏だって分かっているから、沖縄の日本復帰以前の状況まで持ち出してクリントン氏に確認を迫ったのだろう。

国連総会中の両者の会談のあとの会見で前原氏が語ったことが、本人の主張とはまったくニュアンスが違ったからこその必死の強弁であることも、最初からだいたい分かっていた。

クリントン氏はみごとに、前原氏の梯子を外したのだ。

それは引き続き行われた菅首相とオバマ大統領の会談で、オバマ氏がこの問題への言及を避けて「中国は大切な国だからアメリカも日本もお互いにちゃんと注視していきましょう」と言ったことを見ても、明らかだった。

日本の外務省がわざわざ、「observe」を「監視」と訳して、マスコミにブリーフィングしたことを見ても、

オバマ氏もオバマ氏で、日本側が期待した梯子をあっけなく外したのだ。

そしてその直後に、日本中が唖然とした船長の釈放決定である。

この騒動は日中間で決着したのではない。日本がアメリカの動きを見誤った結果として、ああいう決着になったことは、ちゃんと憶えておいた方がいい。。

…といって、この場では後付け話になって恐縮ながら、このブログの筆者子は、オバマ菅会談の直後にそれを予想して、Twitter上ではその旨を発言しておりますm(_ _)m。

こうなると映画作っているよりも政治評論家にでもなった方が商売になるんじゃないかまったく?

…というより、政治の専門家でもない映画作家が簡単に予測できることを、なぜ日本の大手マスコミの優秀な政治記者や解説委員の皆さんは気づきもせず報道もしなかったのか、その方が不思議だ。

僕程度の、普通の情報ソースしかなくても気付くのくらいだから、彼らが気付かなかったわけがない。

マスコミだけでなく、それこそプロ中のプロである外務省の皆さんも同様なはずだ。

つまりは国民は恒常的に騙されているのだ、そう考えた方が妥当だ。

あとで「騙されていたんだ!」とパニックにならないためにも。

10/06/2010

朝青龍の「断髪式」、小沢一郎が「強制起訴」

先週日曜日に、朝青龍がついに断髪式。

ところで朝青龍が引退させられた理由って、誰かちゃんと説明してくれる人はいるんだろうか?ニュース報道見ながら、さっぱりわけが分からなくなった。

ううむ、要するに「生意気」だったから?

それにしても、朝青龍って日本語うまいよね。同年代の日本人の男の子で、あれだけ巧みに言葉を選んで自分の気持ちを表現できる人は少ないと思うよ。ニュアンスだとかも適確で豊かだし、あれを「日本の心が分かってない」とか「品格」批判ってなんなのだろう?

そして翌日には、小沢一郎氏にまさかの検察審査会の「起訴相当」議決である。

被疑事実自体が、要は資金繰りで一時期個人資産を流用したことをわざわざ記載しなかった程度で、それで裁判やるんですか、という感じであるのだが(裏金疑惑が被疑事実になってるわけじゃない)、それにしてもマスコミの報道はメチャクチャである。

なんとも「事実」が軽んじられる世の中だ。それは例の尖閣諸島をめぐる騒動でも同様なのだが、事実をきちんと分析することもなく、ただ雰囲気に薄っぺらなレッテルを貼ってしまうだけで、世の中が動いている。

この二つの件についていろいろ思ったことを書こうかと思ったのだが、ほんの数ヶ月前の2月のブログで書いたことそのままだと思うので、そのリンクを貼っておくことにする。

2/4/2010 「日本という泥沼」
…こと21世紀に入ってから、「日本という泥沼」という言葉は実際の日本社会を見るとき、より痛切な言葉として響くし、その響きの恐ろしさは最近とりわけ際立って来ているように思えるし、とくにここ数ヶ月に至っては、日々激しくなって来ているのが正直な実感だ。… 【続きはこちら】



それにしても、このポスターにしても言葉はすべて本人のものらしいのだが、本当にうまい。「自業自得」というのは、痛烈な皮肉にしか読めないが。

そういえば民主党代表選では、小沢一郎の演説の説得力、言葉の重みと明解さが際立っていた。代表選当日の演説では、生中継のNHKのキャメラに、小沢の顔からキャメラが離れて議員席の切り返しを入れる余裕など、まったく与えていない迫力。それでも「最後の演説で決める」と言っていた議員が多かったわりには、落選なのである。

まさか菅直人の412人内閣という薄っぺらな甘言に、「だったらオレも活躍の場あるんじゃね?」と思った本気でのっかってしまった議員がいるとも思えないのだが。

なんとも言葉の重みを軽んじた話ではないだろうか?

それにしても、自分のあまり期待してない悲観的な予測が当たるというのは、まるでいい気のしないものである。そういえば小沢氏については、選挙の前日にこんなことも書いていた。

10/01/2010

『ほんの少しだけでも愛を for a little bit of love just for this little instance』荒編集

9月5日の本ブログでも紹介したのだが、けっこう手直しが入ったので新しいラフカットを再掲。一部のナレーションも仮吹き込みし、これで多少は論旨が明確になったと思うのだが、どうだろう…



『ほんの少しだけでも愛を』ラフカット冒頭

これは冒頭13分ですが、全編をご覧になってご意見いただける方はこのブログのコメント欄に書き込んで下さい(公開はしませんので連絡先があれば、残りのリンクを送ります)。ただし4時間半もあるので…。

昨日自分でも通しで見たのだが、中盤がまだまだ未整理な感じは…。