最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

5/28/2010

それでも世界は、ときに簡単に変わることもある


そう簡単に世の中は変わらない、確かにそうだろう。

過去20年間、この国は変わる必然もあるのにまったく変わろうとして来なかった。

20数年前にはアメリカに向かって「Noと言える日本」をベストセラーにした石原慎太郎(当時のSony会長と共著)が、今ではアメリカに対してはNoとは絶対に言えない日本の代表みたいになってるのはお笑いにもならない。

今日中に決着がつくらしい普天間騒動は、終わってみればアメリカに軍隊を「置いてもらう」ことに関しては、日本と日本人たちは絶対にNoと言えないのだと、国民に再確認させるための儀式に過ぎなかったのかも知れず、我々は国民は体よくそれに納得させられようとしている。

そんなバカな話があってたまるものか。

駐留米軍という威圧感をこそ最高権威に置いているらしい日本の官僚機構には決してNoと言ってはいけないのだと思わせるための遠大な策略で、昨年の政権交代もまた演出されていたのかも知れない––二度と国民が「お上」にたてつかないよう、民意による政権交代など今後絶対に夢見ないようにするために。

そうも思いたくなるほどの悲惨を漂わせているのは、実は鳩山政権ではない。「安全保障は国のあり方の根幹」などという世迷い事を信じ込まされている我々日本人の総体の悲惨であり、それをお人好しのお坊ちゃん総理というスケープゴートにすべて押し付けているだけである。

そんなバカな話があってたまるものか。

おいおい、「安全保障が国のあり方の根幹」であるわけが、ないだろう?

安全保障は現実に対する対処であって、それ以上でもそれ以下でもない。国のあり方を担保するための様々な手段のひとつに過ぎず、それも外交という大きな手段のなかでの比較的マイナーなカードに過ぎず、「国のあり方」という大きな目標を念頭に、現実に合わせて常にやり方を変えて行かなければ、「安全」なんて保証できるわけもない。

なのに日本は、冷戦が終わってもう20年になるのに、冷戦時代の国際政治の構造をそのまま引きずった日米安保条約が、あたかも絶対不変の金科玉条のように勘違いさせられている。国のあり方の根幹を決めた日本国憲法の改正論議さえあるのに、この状況を世迷いごとの倒錯と言わずになんと言うのか?

そんなバカな話があってたまるものか。

今この日本の安全を強大な軍事力で脅かす勢力なんて、東アジアのどこにある? 千葉県の予算なみの国家予算しか持たず体制維持も難しい、まともな軍事艦船も持たない北朝鮮? その国にとって最重要の経済パートナーが日本である中華人民共和国? バカも休み休み言って欲しい。

それでも中国が脅威だと言うのなら、だったら在日米軍は役に立たない。だってアメリカに中国と対立する気なんてまったくないし、米国債を大量に引き受けている中国相手にできっこないのだから。

「中国は共産主義国家で体制が違う?」だから冷戦はもう20年前に終わってるんだってば。いつまで寝ぼけてるつもりなんだか。

「安全保障」を言うのなら、ベタに現実を考えてみよう。

北朝鮮情勢が不安定化した場合にアメリカが一番頼るのはもちろん中華人民共和国だし、その中国の立場は、体制崩壊が万が一にも起ったら、大量の難民流入という大きなリスクを負うのがまず地続きの中国と韓国であり、東シナ海を小舟で渡るのが危険であるぶんいささかリスクは下がるにせよ、日本である。

だから金正日体制を急激な崩壊に追い込むようなことは、絶対にやってはならないのが、日本と中国に共通する国益になる。

だいたい崩壊でなく、単なる権力委譲でも、その時に真っ先に命の危険に晒されるのは、北朝鮮政府にとって現政権/前政権の負の遺産となる、犯罪の証拠となる拉致被害者たちではないか。

なのに日本のマスコミは、韓国のあまりに不人気な現政権が選挙対策で大騒ぎに祭り上げた哨戒艇撃沈事件を、あたかも「北朝鮮の陰謀」のようにとりあげる。タイミングと場所からみて、事故でないとすれば北朝鮮の仕業であった場合、あり得るのがせいぜいが組織末端の暴走か、誤発射程度のことであり、あえて冷静に対処して貸しを作った方がいいことなのは、分かり切っていると言うのに。


20年前には終わっている国際政治の状況のための安全保障体制を、変えようともしないで放置して、それを変えようとしたら猛抵抗する日本。それに対しアメリカは、駐留経費を日本が「おもいやり予算」で見てくれるからという予算上の利害に過ぎないからタカをくくっているだけ。

そんなバカな話があってたまるものか。

日米関係を重視するのはあくまで日本人の利益のためであり、その国益を代表するために政権があり、その政権が連立のはずだ。その連立内の合意も、移転先となる地元の合意もなしに日米共同宣言なんて出してしまうのは、日本国政府がアメリカの奴隷であることに他ならない。

選挙によって国民の意思を代表するはずの「政治」がこの国の行く末の決定に実はなんの力も持たず、すべてを決めるのはお役人、彼らの権威は国民によって選ばれた国会や政権与党ではなく、在日米軍によって保証されていることを国民に示威しているに過ぎないのだし、それに黙って従うのなら、我々日本国民の総体が、自らを奴隷の精神に貶めているということの、再確認になるだけだ。

そんなバカな話があってたまるものか。

だからあえて言おうと思う、「それでも世界は、ときに簡単に変わることもある」のだと。

この状況を変えるのは、実は簡単である。単に我々日本人が、目を覚ませばいいだけのことだ。

「そんな難しい話」などと怖じ気づく必要もない、というかそれこそが我々が思い込まされて盲目にさせられている最大の理由であるのだから、そこで素直な発想の転換ができれば、それで済む。

真の問題は安全保障でも東アジアの国際情勢でもなく、実は我々一人一人の、「知ったかぶり」をしたがる無駄なプライドにあり、つまりは子どものように「なぜ?」と素直に訊ねる自由を取り戻せさえるするだけでも、状況はがらりと変わるはずなのだ。

「なぜ」空軍や海軍ではなく、海兵隊が沖縄に必要なのか?

鳩山由起夫氏は今月初旬の沖縄訪問で「いろいろ学んだ」と言っていた。そうやって沖縄から海兵隊を動かさないことが既定路線になったことを誰もが納得しているようだが、では鳩山がいったいなにを「いろいろ」と学んだのか、誰も彼に訊ねようともしない。

つまりは誰も、「なぜ」普天間基地が沖縄に必要なのかという、肝心な質問の答えを求めすらしていないで、知ったかぶりで「必要なんだ」とか思い込んで諦めているだけなのだ。

そんなバカな話があってたまるものか。

ぜひとも教えて欲しい、なぜって「なぜ沖縄に海兵隊が必要」なのか、「抑止力」という観点からってだけではなんのことかさっぱり分からないし、冷戦まっただ中となにも変わらない「核の傘」「抑止力」論理がなぜ冷戦が終わって20年も経ってるのに通用するのかとまると、ますますよく分からない。

分からなかったら聞けばいい、ただそれだけの話であってしかるべきはずだ。

なのになんで、誰も訊こうともしないのか? 

優秀な官僚の皆さんや、総理大臣だから、我々が知らないことでも知ってるはず、いろいろ経験しているはずだから、まず従うべきである、なんて思い込まされていてはいけない。

そんなバカな話があってたまるものか。

もっともバカげているのは、冷戦が終わって20年、こと「安全保障」に関しては、この国はとっとと考え方を根本的に変えなければならなかったはずなのに、そうする意思も度胸も、誰も持たなかったことである。

なぜ沖縄や、あるいは横須賀を中心とする三浦半島であるとか、横田厚木などの首都圏に、米軍基地が必要なのか? 別に必要であったわけではまったくない。単に歴史的経緯でそこに置き易かったから、旧日本軍の施設を引き継ぐのが簡単だったから、それが今まで続いているからに過ぎず、「安全保障上の理由」などではまったくない。

「安全保障」を本気で言うのなら、たとえば対米戦争の最終的な本土決戦のために要塞化された三浦半島が、まったく状況が違う現代において、軍事要塞であって言いわけがない。

人口密集地域の首都圏に有事となれば集中的な核攻撃を受ける可能性の高い施設があるなんて、だいたい危険過ぎる。

第二次大戦中に使われていたような兵器、当時の戦争のやり方ならともなく、大量破壊兵器がふんだんに使われる可能性がある現代の戦争において、国際法上に合法な攻撃目標であり、戦略的にも真っ先に叩くべきである大規模軍事基地(しかも司令部機能付き)を、都市周辺や市街地に隣接して置いている横須賀だの横田だの厚木だの、もちろん嘉手納だの普天間などがあるなんて…


そんなバカな話があってたまるものか。

この際、福島瑞穂・社民党代表には最後まで意地を貫いてもらいたい。アメリカと約束したことに反対するなんて、という倒錯した論説に騙されてはいけない。

アメリカのご機嫌を損ねるから、日本の首相が自分が任命した大臣のクビを切るというのでは、属国根性以外のなにものでもない。とても現実のこととは思えないのが、この日本の現実になってしまっているのは、単に我々がまったく現実を認識できないほどに感性を鈍化させられているからに過ぎない。

そんなバカな話があってたまるものか。

だから福島瑞穂氏には意地を、いや正論を最後まで貫いて欲しい。なぜなら、そういう一人一人の意思の総体が、やがては世界を変えることになるのだから。

よく考えて欲しい。未だにこの世界の文明も政治も社会も、問題は山ほどある。人類の一人一人が安全に、自分らしく生きられる世界にはほど遠い。それでも過去に比べれば、世界は豊かになったし、少しずつ人類は進歩して来てはいる。遅々たる歩みではあっても、確かに人類はよりよい方向へと世界を変えて来たのだ。


福嶋氏の正論を貫く意地を揶揄したりするものは、しょせん「なにが正しくてなにが間違っているのか」を考えることからすら逃げていて、現実の変化を直視することも,そのなかで変わることも恐れて、現状の停滞のなかでの自分の立場を保守することにしか興味がない、プチブル保守の卑劣な臆病者たちに過ぎない。

「きれいごとで現実が分かってない?」じゃあまず、いったいどのような現実の下で、沖縄に海兵隊を置く必要があるのか、だったらちゃんと説明して欲しい。

その前に念のため訊いておくけれど、台湾海峡有事が仮に起った場合(という可能性自体が限りなくゼロに近いのが現状だが)、海兵隊をいったいどこに上陸させるんでしょう? その場合に使うえるのは、海軍と空軍だけど、上陸切り込み部隊である海兵隊には、使い道なんてありませんよ。

米中全面戦争でも始めるのでもない限り…って、だったらやっぱり海兵隊を使うどころの話じゃありませんけどね。


世界を変えるのが本当に難しいわけではない。ただ卑劣な臆病者にならない意思を持つのが、難しいだけである。

卑劣な臆病者に過ぎない人々は、せめて自分たちが卑劣な臆病者で思考能力の欠如したバカであることくらいは自覚して、あまり偉そうなツラはしないで頂きたい。虫酸が走り過ぎて、精神衛生上極めてよろしくないので。

だから自殺率だって上がるんだよ。

まるで国民全体に、うわべだけの嘘偽りの偽善と欺瞞をこそ保守するように、じわじわと真綿で首を締めるように強要する、精神に障碍を来してもおかしくない状況が日々押し付けられているようなものなのだから。

繰り返し言おう、「それでも世界は、ときに簡単に変わることもある」のだと。

たとえば安全保障に関しては別に難しい専門知識など必要ない。ただ単純に「よく分からないけどなんかおかしいと思うので、ちゃんと説明してくれないか?」、それをひたすら訊ね続けるだけで、変わる可能性は充分にある。

ただおかしな知ったかぶりに毒されている連中には、それが訊けない。説明できない奴らに限って、「なんにも分かってないクセに偉そうなこと言うな」とか逆ギレするか、「なんにも分かってないクセに」と言われることを怖がっているだけなのだ。どっちも、なにも分かっていないクセに。


とくに若い人々に言いたい。そんなバカな大人を許容して、歳上だから、知識や経験が自分よりもあるはずだからと思い込んで、まともな説明もしない連中に唯々諾々と従ってていいのか?

「裸の王さま」の童話を思い出して欲しい。「王さまは裸だ」と言えるのは、まずなによりもあなたたちのはずなのだから。

5/27/2010

偽善のにおい

伊藤大輔『忠治旅日記』

一人横綱になった白鵬が、朝青龍のいない二場所連続で全勝優勝で本場所がまああまりおもしろくもなくも無難に終わったと思ったら、また大相撲スキャンダルである。なんでも山口組系暴力団の幹部が、さる親方の手配により砂かぶりの席で観戦してたとかなんとか。

やれ暴力団と決別できない大相撲が、「国技なのに」とか「公益法人なのに」とか。

別に暴力団の味方をする気も、相撲協会を擁護する気もないが、なんだかスキャンダル騒ぎにするのにも違和感のある話ではある。だって相撲は興行だろう? 多少はその世界と切っても切れない縁が残るのは、ほんの少し前まで、良くも悪くも当たり前の話であった。

むろん今日の暴力団・闇社会は、過去にこの社会にあったある種の二重権力の構造の裏面を担って来たことは否定できないかつての「ヤクザ」とはずいぶん質の異なった組織になっている。

麻薬覚醒剤の密売や、それ以上に高金利の町金、ヤミ金など、市民の生活を脅かす反社会的な集団なのは確かだろう。

暴力団対策法は一定の効果を示して来ていると同時に、それが暴力団をより危険な反社会的犯罪集団としてしか存続できない立場に、追い込んでもいるなかで、今さら興行なんだからヤクザ屋さんとも多少の縁は、という時代ではない。

    マキノ雅弘『昭和残侠伝 死んで貰います』

だからといってそう暴力団イコール悪というレッテル貼りに終始し、だから暴力団と癒着する相撲協会はけしからんというのも、なんとも一方的な決めつけの議論だとは思う。

組織犯罪はなぜ生まれるのか? アメリカのマフィアは常に、少数民族のお仕事であり続けている。

かつてはアイルランド系、そしてイタリア系、今では黒人にヒスパニックのギャングと、新興勢力としてのし上がりの著しい中国系マフィアを中心とするアジア系。


マーティン・スコセッシの『ギャング・オブ・ニューヨーク』は南北戦争の時代のニューヨークのスラムで、アングロサクソン系のヤクザと新たな移民のアイルランド系のヤクザの抗争を見せる映画だ。

アイルランド系移民が暴力集団を組織するのは、まず自衛のためだ。




マーティン・スコセッシ『ギャング・オブ・ニューヨーク』

そのスコセッシの親の世代になると、彼自身の出自もそこであるイタリア系のマフィア全盛期になる。

『ゴッドファーザー』の世界だが、そこで出て来る悪徳警官のスターリング・ヘイドンはアイルランド系。半世紀くらいで、新移民のアイルランド系は非合法暴力組織から警察という合法的暴力組織にアップグレードしていたわけである。

    マーティン・スコセッシ『グッドフェローズ』

なぜ少数民族の新移民から組織犯罪が出て来るのか? 差別を受けて官憲の保護をまともにうけられないからだ。

時には非合法移民でもあったりして、「非合法移民だから犯罪者なんだ」と決めつければ、密入国であっても新天地で真面目に働いて新しい人生を切り開こうという意思があったところで、少なくとも自分達の身はまず自分で守らなければならなくなるのは必然だ。プリミティブな力の論理が支配する社会では、その自衛のための暴力がもっと複雑な犯罪組織になるのもある意味、必然であろう。

   フランシス・コッポラ『ゴッドファーザーPART II』

だって食ってかなきゃならないんだから。命がけなんだから。

いや、「食っていかなきゃ」だけの同情に留まっていては、まだまだ「差別する側」の多数派の論理にのっとった偽善、きれいごとにしかならない。

なぜマイノリティだからというだけで「食って行くため」の最低限で満足しなければいけないのか?

    マーティン・スコセッシ『グッドフェローズ』

特定の社会の多数派の都合で不利に低い地位に置かれていたからといって、より上の地位を求めてはいけない、上昇志向を持ってはいけない、最下層でただ生存の必然の最低限だけに甘んじていなければいけない、野心を持ってはいけないのだと言うのなら…

…その発想自体が差別そのものだ。

彼らがのし上がる手段がいわゆる「合法」の範疇ではほとんどないとしたら、それは「合法」を決める多数派の都合であり、少数派、マイノリティにその「合法」に服従することを要求する前に、まず平等を保障しなければ筋が通らない。

  マーティン・スコセッシ『ギャング・オブ・ニューヨーク』

その「多数派の合法」が少数派にとっては圧倒的に不当なら、少数派にそこに従う義理なんてない。

多数派の決めた「合法」の範囲内ではのし上がる権利が与えられないのなら、しょせん自分たちを差別する連中が勝手に決めたこと、そこに従うべき倫理的な理由なんて、見いだせなくて当たり前だろう--そもそもそんなもの、ないんだから。

    マーティン・スコセッシ『グッドフェローズ』

日本の暴力団、というかヤクザさんたちの起源はもちろん、江戸時代の杓子定規な武家の官僚支配下に庶民たちのなかから生まれて来たものであり、こちらもやはり庶民の自衛・自治組織に、口入れ屋など人材派遣業みたいなものがくっ付いたもの。杓子定規な武家階級が見て見ぬ振りする問題をいろいろ処理するために、ある意味必要なものでもあったし、『国定忠次』や『清水の次郎長』などなどの例は枚挙に暇もなく、優れたヤクザの親分さんは庶民の英雄にもなった。

あまり大きな声でいうと誤解を招きかねずかえって差別を助長することにもなりかねないが、今日でも暴力団構成員になる者には、いわゆる「同和」出身や在日コリアンの比率がかなり高い。

別に荒くれ者の不良少年がヤクザに憧れて、なんてロマンチックな世界ではない。未だに就職差別が陰険に存続するなかで、非合法組織が多くの人にとって数少ない食って行ける道だったりするからだ。

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010、編集中)

ほとんど冗談みたいな本当の話なのだが、大阪・天王寺近くのさる同和対策地域のなかにある自衛官募集事務所は、大阪府内でダントツのトップ成績なのだと、当のその事務所の自衛官から聞いた。

関西の同和対策の市営住宅にはなぜか共通する建築様式(っていうほど美しいものでもないが)があって、細部に凝って無駄に建設費が高くなるような設計になっていたり、意味不明に装飾的だったりで、そういう裏読みを要求する記号を散りばめてなんとなくそこが「特殊な場所」だと分かるようにして、かつカネだけはかかっているので「これだけしっかりお恵みを与えてあげてるんだから、同和利権だ!」とかこれまた極めて陰湿で陰険ないいわけを行政が自らに与えているわけであるが…

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010、編集中)

  マーティン・スコセッシ『ギャング・オブ・ニューヨーク』

一応「地域振興」の体裁は整えるため、一階二階部分は一応第三セクター的なショッピングセンターを計画しておきながら、絶対にもうからないようにしておいて、案の定シャッター街。

そのシャッター街のなかにある自衛官募集事務所には、なぜかトロフィーがズラっと並んでいるのである。「あのトロフィーはなんですか?」と訊ねると「いやこの事務所が、大阪府内でいちばん成績がいいもので」と教わった次第なのであるが、埼玉県の朝霞通信基地からの出向だというその自衛官氏は、なぜそこが大阪府内でダントツに成績がいいのか、その理由にはあえて気付いていないフリをしていた。

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010、編集中)

未だに暗澹たる気持ちにさせられる現実は、この国にはあるのだ。

そんななかで「暴力団=危険な半社会集団」とレッテルを貼って、たとえば大相撲に「暴力団と縁を切れ」とうわべだけの合法性というきれいごとを要求したところで、なにか話が問題の本質からズレているような気がしてならない。

5/20/2010

信仰なきカルト集団としての団塊ニッポン?

カール・ドライヤー『奇跡(御言葉)』

天理教の教祖・中山みきは、毎朝誰も起きないうちにこっそりご近所の掃除をしていたとか、そうやって人に見られず知られもしないことで善行をすることを「陰徳を積む」というそうで、教祖さまはそういう立派な人だったんだと、天理教の子どもむけ教本に書かれていた記憶がある。

父の実家が神戸の天理教の教会だったもので、祖母に読まされた絵本だったんだと思うが、子ども心に素朴に疑問だったのは、誰も見ていないところで秘かにやってたことが、なんで本に書いてあるんだろう? 本気で「陰徳」を積むのだったら、教祖様たるもの、もっとちゃんと隠さなきゃだめじゃんか。

記録映画作家・土本典昭に長期に渡る連続インタビューをして、それをベースにしたドキュメンタリー『映画は生きものの記録である〜土本典昭の仕事』を演出し公開して次第に気がついたのは、演出つまり自分自身と恐らく土本自身もそうであったのに対し、製作中はこちらのスタッフ(とくにプロデューサー)や、完成後はとくに映画の専門を自負する観客、というか映画評論家その他とのあいだの認識のギャップである。

藤原敏史『映画は生きものの記録である』(2007) 予告編

演出からすれば土本が語る「ドキュメンタリーのあり方」は土本が自分自身に課している倫理的な規範であって、土本自身が自分の仕事のなかで出来る限りそれに則ったことをやろうとしていたことは確かにせよ、それは土本自身の欲望に対する自己規制であり、だから土本の「自作解説」だけでは彼の映画の本質は分からないであろうことを、前提としていた…というか「作品」というのは常に、そういうものだし。

だが「映画専門」を自負する「土本ファン」はそうは見ていない。小川プロの元製作部だったプロデューサーの伏屋博雄らも、そうはまったく思っていなかったし、「土本を尊敬する」から見に来る人々も同様だった。

だから立派なことを語り続ける土本の言葉をそのままに受け取って神のように崇め奉る。あたかもその「教祖様」に賛成=同化することで、自分の評価まで確立できるのだと幻想するかのように。

いやだって、土本は土本以外のなにものでもないし、それは終戦時に17歳だった世代ならではの疑念であり真面目さであり、あなたたちとは違うでしょう? もちろん昭和45年生まれのこの演出が、昭和3年生まれに同化できるわけもないし。


あるいは逆に、土本の発言を「きれいごと」と断じ、「きれいな部分しか見せていない」ことを批判する人もいたわけなのだが、ポートレイト・ドキュメンタリーなので「土本PR映画」かのように見える製作の枠組みにかなり無頓着だったのは反省しなければならないにしても、映画なんだから伝えている情報は言葉だけではないんだし、加藤孝信キャメラマンが執拗にアップで撮り続ける土本の顔とその発言のあいだの対位法的な画面構成と、映画の時間軸上構成で現代(2004年当時)の水俣を訪れる土本と、自宅で過去を語る土本が相互に出て来ることのはざまから、そんなに単純ではないことは見えて来るはずだ。

さらにダメ押しとして劇場用パンフレットでは土本の親友であった岩佐寿弥監督との対談で「無神論者のダライ・ラマ」という、土本本人が決して自分では語らないし語れなかったパーソナルな部分も、強調しておいたはずなのだが…。


いや「土本教」の「教本ビデオ」を見に来た人は、そんな「自分の目でちゃんと見る」なんて考えもしないのだろうし、逆にこちらが現代映画のドキュメンタリー作品、それも「映画についての映画」であるからには、対象の他者性を印象づけるよう、印象づけるように撮っているし編集もしているやり方をとったことには、不満しか持てないのだろう。

一般の観客、とくに土本が水俣作品を作ってた時期には仕事なり子育てなりに忙しくて見る余裕もないどころかリアルタイムでは知らなかったかもしれない観客(とくに女性)には「土本という人間」と「土本の世代」をちゃんと見てもらえた自負はなきにしもあらずなのだが、とくに「映画の専門」の人々相手には、無自覚にも「土本教」という宗教の「教本ビデオ」を作っていたのであり、その「教本ビデオ」としては非常に出来の悪い代物を作ってしまったのかも知れない…。

…って、元からそんなこと、もちろん狙ってなんていなかったのだけど(苦笑)。

『映画は生きものの〜』とほぼ並行して製作した
『ぼくらはもう帰れない』(藤原敏史、2006)

しかし、現代の日本では特定の宗教の信者であることを自覚している人はごく少数派であるにも関わらず、なにかの信仰を持っていることがなんだか恥ずかしいことのように忌避される社会であるにも関わらず、人々の実際の行動や言動は極度に無自覚に宗教的で、かなり簡単に宗教的な雰囲気に染まって、その同じ信仰者のあいだの暗黙の了解的な教義でしか語り合えない感覚が、こと団塊の世代以降は大きいように見えてしまうのは、僕の気のせいなんだろうか?

まあだいたい、「全共闘」なんてのはカルトの集団ヒステリーみたいなもんだし。

曖昧な集団の内輪しか許容できない転向した「団塊」が主力観客となるなかで、大島渚が「個」と「個」としての二人の人間存在に徹底してこだわった『愛のコリーダ』は海外資本で製作され、その後20数年以上海外でしかまともに上映できなくなるのも、ある意味当然の運命だった。

巨大で曖昧な「時代の空気」の宗教的恍惚のなかで、さらにそれぞれにセクト分派した小集団のなかの内輪しかなく、そのなかで集団ヒステリー密度をあげていって破綻したのが彼らだし、思想性や倫理性、その思想や倫理と個人の欲望のあいだでどう折り合いをつけるのかについて、団塊の世代以降彼らが子どもに押し付けた「ゆとり教育」まで、まったく無頓着だったのがこの国のバブル以降の失われた20年だろうが。

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010-編集中)

まあ現実のほとんどの宗教が、なぜか「神」という超越的存在が自分たちのご都合主義に全面賛同してくれてるという謎の思い込み(そんなわけないじゃん、「神」という究極の他者なんだから)に基づいている点では、結局はオウム真理教とも、イスラム主義過激派とも、アメリカの宗教保守派の「神は同性愛者とコミュニストとムスリムとユダヤ人を憎んでおいでである」という思い込みとも、結局のところ大差はないんだろうけど(苦笑)、その共通する問題点はそうした彼らの世界観にまったく「他者」が存在しないことなんだろう。

「社会的弱者」とやらに目を向けたフリを装うのも、だいたい「弱者」でなく単に「マイノリティ」つまり少数派が多数派が主導する社会のなかで不利な立場に置かれたり偏見で見られたり差別されるだけなんだけど、全共闘崩れが「差別はいけない」と正義派ぶったところで、その「他者」への、ニーチェの言うところの「遠きものたちへの愛」ではまったくなく、ただ無自覚な自己正当化の欲望の投影先に過ぎない。

だから一皮むくと下手すりゃ「支援してやってんだから感謝しろ」とか「感謝の気持ちがない」みたいな話にさえなりかねないわけで、全共闘の失敗以降の日本のいわゆる市民運動なんて、うまくいくわけも、ないんだけど。

『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)のワンシーン。団塊の病弊を無自覚に引き継がされている若い世代:「他者」が見えていない情緒的自己正当化に過ぎない「差別反対」の論理

「他者」への説得の必然性とかまったく考えないから自分が他者にはどう見えるのかも考えられず、結果として自分のこともなにも見えていない。

他者から客観的に見たら批判されてしかるべきことをやってしまって現に客観的な批判を受けたとたんに「人格攻撃された」とヒステリーを起こして、議論が成立しない。「なるほど、こんな人たちだから日本のマルクシズム運動は破綻したんだ」と思わざるを得ない…ってだって、マルクシズムの哲学的にもっとも基本的な部分、「自己批判」の意味がまったく分かってないんだから。


「自分自身の他者性」という感覚がまったく抜け落ちていて、「パブリック」という客観性の次元がまったく見えていないのだろう。厳しく精神分析的な批評をしてしまうなら、精神の発達において不可欠な「他者性の認識」は本来なら思春期に経過すべきものであるはずなのが、精神年齢が中高生レベルのまま20代になって革命ごっこをやったのが全共闘の世代。

しかもなにしろ、精神の発達が中高生レベルなだけに、「自分の信念でなにかをやり抜く」ということを自身の倫理的規範として貫く修行ができてない(中高生なら普通は、まだまだ「親に/先生に言われたから仕方なくやる」のレベルなんですが、歳をとってもそこからまったく進歩してない…)から、ちょっと挫折したとたんに「マスコミの否定的報道が」とか自分の認識外の「他者」という幻影に責任転嫁にしておしまい。

敗北と、自分たちの責任をちゃんと認識できない点で、ボロ負けした大東亜戦争を「植民地主義との闘いだった」とか、「中国や韓国にはいいこともしてやったのに恩知らずだ」と言ってる極右のおバカさんたちと、いい勝負である。

さらにはあっけなく体制の従順な下僕に転向しながら、そういう転向する自分達を「現実をちゃんと見ている自分」と自己陶酔できるオメデタさ。


問い:こんな日本に誰がした?
答え:そりゃ世代の問題でいえば、明らかに団塊の世代でしょう。あなた達があまりにおかしいから、後続世代だって身動きとれなくなってるんだし。

保守体制側にこっそり転向したとたんに社会のレールにのかって三種の神器だかなんだかの先行世代の目指した平凡な中流を、まだ中流ならあったはずの慎ましさすらかなぐりすて、経済発展とともに成金趣味に肥大させ、一方で「自分たちはいつまでも青春してる若者で、大人になれないんだ」と開き直る。どこまで卑劣で無責任になれば気が済むんだか。

親になっても「子どもの反抗期を許容する」という親としての最大の責任すら引き受けられない−−のは要するに、規範や信念がないから、そこで最大の価値判断基準となる「他人に嫌われる」「批判される」ことを「下位に見られる」「立場が危うい」とすぐに思い込み、だからそれだけは病的に恐れる。

あなたたちには人間の尊厳という観念がないのか、と問いたくなるほどに、ぶざま。

いやあなたたちが尊厳を持てないのは、自業自得だろうから別にいいんだけど、たとえば社会のなかで差別されるマイノリティに属する人ほど、自分の人間としての尊厳の感覚には敏感なんだから、無神経なことはやめて下さいね…というか、そうした高貴な精神を棄ててない人々を、自分たちの堕落に引き込もうとしたり、「生意気だ」と思ったりするのって…それって露骨な差別意識だよね。

…なんて指摘したら大変なことになるんでしょう。

   藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』(2006)

なにしろ彼らがもっとも恐れるのは、他人に批判されたり嫌われること、というか政治的ないし論理的・思想的な批判と「私怨」の問題で「嫌われた!」「否定された!」とパニックになるのがまったく同次元で認識され、それイコール自分たちが「下位」「不利な立場」になると思い込んでるんだから、始末に負えないわけで。

まして自分の子どもに嫌われたらたまらない。だから「友達のような親子関係」を子どもに押し付け、反抗期も精神的な自立を許さない…のは自分たちが精神的に自律できてないアダルト・チルドレンたちなんだからしょうがないのかも知れないけど(ってそれだったら、ちゃんとカウンセリングくらい受けてくれよな、開き直られるだけじゃハタ迷惑だから)、「封建制」を批判してたはずが単に肥大した反抗期をやっただけでその先がない以上、一皮むけば自分の子どもや、自分の身近な若者たちを自分の所有物のようにしか認識できないまま、親になって40前後の「働き盛り」にはバブルを破綻させ、その後も社会の主導権と責任を担う位置に居座っておきながらなにもせず、いまさら「封建制」と呼ぶにもあまりにも幼稚な「ガキ大将」気分のまま50代後半とか60代になってるだけなんだから、幼稚な無責任もいい加減にして欲しい。

そうそう、念のため断っておくけれど、こちとら小学校の算数レベルくらいは、さすがにちゃんと計算できる。

「戦後の焼け跡から日本をここまで豊かになったのを担って来たのが我々団塊の世代なんだ」なんて大嘘は、単純計算の問題で、通用しませんよ。

なんでそんなバレバレのウソをつくのかな? いくら団塊は人数が多くて徒党を組むとウザいからって、テレビや新聞までそんな大ウソを是認・増幅するんだろうね?恥ずかしくなんないのかな?

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010-編集中)

団塊のいちばん最初の、昭和22年生まれが5歳になったとき、日本はすでに朝鮮特需の奇跡の復興ペースでどんどん豊かになりつつあり、その年に占領も終わっている。

だいたい「戦争を知らずに生まれた」とか、70年代だかに歌ってたのは、あんたらやん。

なぜ日本の若者はデモとかを起こさないのかという疑問が、昨今の政治経済状況のなかではたびたび提起される。そりゃそうだ、ここまでひどい扱いを上の世代からやられていたら、普通は反抗する。

現に反抗は、実は起っている。

2008年6月の、秋葉原の加藤智大被告の絶望に満ちた反抗とか、今年に入ってはその加藤君と同世代であろう引きこもり青年の暴発・家族殺傷事件とか、その他連日報道される、数々の猟奇的殺人。

いや、それはもう、10数年前から起っていたのだ。

青山真治『ユリイカ』、「人を殺してなにが悪いんだ」という少年の問いに、「殺してはいけないから殺してはいけないんだ」としか答えられなくなった、責任ある言葉を喪失している日本の「大人」たち

もうみんな忘れているであろうが、やはり加藤智大君たちと同世代になるはずの「酒鬼薔薇」事件や、その数年後に、やはり同年代の高校生が起こした福岡のバスジャック事件などから、すでにそれは始まっていたのだ。

ではなぜそれが、組織化された運動とか、指針と目標を持った社会を変えようという行動とか、現状打破のために自分を見つめ直して自己更新することには繋がらならず、ひたすら暴力生を増すだけのフラストレーションの暴発と、自己破壊行為にしか、なり得ないのか?なぜ若手の「自主映画」とやらも、そのことをこそ自分たちの映画で見せようとすら思えないのか?

団塊の世代に「今時の若者は」とか言われると、本当は頭に来る団塊ジュニア以降の世代はいるはずだ。とくに今の20代、たとえば加藤智大君の世代の奥底には、実はその行き場のない怒りと絶望が、渦巻いていてもおかしくない。

   藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』(2006)

ただし現代の少年がそのまま青年になったような子供たちは、そのアウトレットとしての社会的な表現手段を持てないどころか、それが持てないように去勢されて育てられ、怯えのなかに生きて行くしかないように、プログラミングされて育ってしまっている。

だから自覚的な表現行為とか政治的アクションではなく、抑圧された無意識の暴力的/自己は快適な暴発としてしか、それは表出し得ない。

現に社会的に彼らの上位にあって生殺与奪圏を握ってるように見える50代以降団塊に至る「大人」たちが、「自分たちが嫌われる」ことだけを恐れ、批判されたらヒステリーを起こすだけの姿を子どもの頃からずっと見ている以上、彼らにヒステリーを起こさせればそれが社会のなかでの居場所を失うことにしか見えないように、育ってしまうしかない。

大島渚『絞死刑』今日、この大島の傑作をリメイクするならば、主人公を在日青年にする必要はない。それでも日の丸であるとかの挑発的な意匠の数々は、そのまま使えるであろう


なんせ「大人」のくせに駄々っ子のようなヒステリーを起こせば済む、免罪されてなにも言われないで済むと思い込んでるらしいのだから(って言うか、言われたって聞かない、耳に入らないんだよね。そこまで極端な選択的不注意って、立派になんらかの精神的な障碍の症状になるんだけど…)。

「団塊」およびその後の現在のニッポンの大人たちは、恐ろしいほどに身勝手でありながら、その身勝手さに開き直って「俺たちは大人になれない世代なんだ」とか「人格攻撃された」とわめくだけである。またそのいいわけの横並びの無個性、均一性が、ひどく不気味でもあるわけなのだが。

「今時の若者は」とか言う前に、「俺たちは大人になれない世代なんだ」(ってそれは、あんたらの自業自得だろ?)とか開き直ってないで、その「大人になれない」自分たちがどのようにこの社会をねじ曲げてしまっているか、下の世代を育てて彼らに自分たちを乗り越えさせるという責任をまるで放棄し、ただ真綿で首を締めるような抑圧の下にずっと置き続けているだけであることを、少しは自覚してみてはもらえないもんだろうか?

    藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010-編集中)

戦後復興は、昭和3年生まれの土本とか、昭和5年生まれの黒木和雄とか、日本映画界では華の昭和8年生まれの大島渚や吉田喜重、有馬稲子とか岡田茉莉子とか若尾文子の世代、あるいは今の天皇の世代から、60年安保をやった世代、つまりは幼少時に空襲に逃げまどった世代(たとえば王貞治の世代)がやったこと。

中卒高卒の集団就職組ならともかく、豊かになった親に大学まで行かせてもらってそこで政治運動と遅れて来た反抗期を混同してた世代がやったのは、上の世代の高度成長の恩恵に全身で浴してバブルで無駄なぜいたくをして、バブルを破綻させ、それまでの国家や社会のあり方を変えなきゃいけない意思もまるで持てないまま、先行世代の敷いたレールに無批判にのっかったままの怠惰さで、低成長かマイナス成長のままのほぼ20年間を自己保身だけ温存させただけ。

あなた方世代が社会の主役であった過去20年間、この日本国はなにか変わっただろうか? 「永遠の若者」を気取るなら、なにかを変えようと言う意思くらい持てないでどうするんだろ?

あなたたちの作った怠惰と停滞のなかで育つしかなかった今の20代に、「夢」とやらを持つことをやんわり強要するあなたたちって、なんなんですか?

もしかしたら早過ぎた傑作であるのかも知れない、大人が子どもを食い物にする残酷--大島渚『少年』は、現代をこそ予告していたのかもしれない

    『ほんの少しだけでも愛を』(2010-編集中)

「信仰なきカルト集団としての団塊ニッポン」の信仰対象とは「身勝手なワタシたちの自己満足への絶対的な信仰」か、「自分たちは大人にならないでいいんだ」という意味不明な確信に過ぎないのかも知れない。

そのなかで自分たちが「嫌われる」「批判される」ことだけを恐れる人々––まるで幼児が親や先生に叱られることを恐れるがゆえに「いい子」であり続けるかのように。

還暦前後になっても「大人」になれないどころか、自分自身という認識すら持てない人々が作ってしまったのは、自分と自己投影先しかない、「responsibility」つまり他者としっかり応答(response)するという責任の基本が、なし崩しになった社会。

そんな夢も希望も持てない状況が子どもの頃から続いている現代日本の若者に、覇気だの夢だのって…だって彼らが生まれたときから、子どもが自分達に反抗することをひたすら恐れるあまり、子どもが子どもであること、若者が若者であることをすらシステマティックに去勢して来たのは、あんたらだろ?

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010-編集中)

…と、こういう「団塊」批判を展開すると、「団塊団塊と一括りにするのはおかしい」とか、論点を逸らして他人に責任を転嫁したり、「お前たちになにが分かるんだ」とか逆ギレのヒステリーを起こす「団塊」なオジさんたちが出て来るのは、目に見えているのである。

そんなんだから「団塊オヤジ」って、ダメなんだよね。「一括りにするな」って、現に一括りにしてもまったく差し支えのない横並びな問題行動に一様に走られるのが、あなた方なんですから、しょうがないでしょう?

「お前たちになにが分かる」って、あなた方がおかしいこと、議論も出来ず他人をまったく見られていないことくらいは、分かりますよ。社会的正義の問題ですら私怨にすり替わってしまうほど、いい歳して社会性が低いこともなどなども含めてね。

他人のせいにするだけのいいわけ人生じゃ、還暦まで生きてたって意味ないでしょう? ↓こちら↓の「若者」の爪の垢でも煎じて飲んでみた方がいいと、思いますよ。

『ほんの少しだけでも愛を』より、「父親」を語るシーン