最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

11/17/2009

実は元特攻隊員、田英夫氏死去


前参議院議員で、その前にはベトナム戦争中に西側メディアで初めてハノイに入って取材(同時期に「メディア」ではなく政治映画でヨリス・イヴェンスと妻のマルセリーヌ・ロリダン、ロバート・クレイマーらのニューズリールや、後では女優のジェーン・フォンダなんかもハノイ入りしているが)、自民政権の圧力でキャスターを辞めさせられると今度は参議院議員選挙に立候補、社会党、社会民主連合、社民党で計6期を努めた田英夫さんがさる13日に亡くなっていたことが分かった。

「特攻隊」の生き残りについてのドキュメンタリー企画が数年前からあって、ぜひ一度お話を撮影させて頂きたかったのだが、こちらの出資がなかなか集まらず、田さんのご健康状態もあって実現せぬままでした。冥福をお祈りします。

11/16/2009

お天道さまありがとう



宗教とか神仏なんてまったく信じませんけど、ときどきこういうことが起るときは起るんだなぁ。

ただの自然現象の偶然に過ぎないんだけど。

ちなみに最後に右にパンするところで分かるように、人工照明は一切使ってません(見りゃわかるようにその場所がない)。もっとも、これだけの効果を人工的にやるならかなりの規模の照明部が必要だし、それだけカネかけても決してここまでキレイにはならないわけで。

11/10/2009

Robert Kramer (6/22/1939-11/10/1999)

ベルリンの壁崩壊二十周年の翌日は、ロバート・クレイマーの没後十周年だった。


http://www.windwalk.net/afterlife/sortie.htm

12年前にとったロング・インタビューがまだウェブ上で読めるようになっているので、今だからこそあらためて、ぜひ読んで頂きたい。


この惑星で、 生き延びるために トーキョー=ヤマガタ、ロバート・クレイマー インタビュー
Chapt.1, Chapt.2
Chapt.3, Chapt.4, Chapt.5




この20世紀の終わりに、本当に難しいことは、自分の考えで考えることだ。あらゆることが既存のチャンネルにあてはめれ、一般論で言えば、皆のために経済的な利益を生ずる方向へと収斂されてしまう。だからもしその外側にありたければ、極めて狡猾でなくてはならない。現在ある社会構造を避けて回り道を覚えなくてはならないし、誰が同盟者なのかを見極めなくてはいけない。

現代の映画作りで最重要な問題は、時間だ。なぜなら時間はそのまま金であり、だから自分のやりたい仕事をするのに必要な時間をどう確保するかが問題になるのだ。例えば『ディーゼル』のときの問題のひとつは、私がこのことにまったく気づいていなかったことだ。だから、撮影が終了したとき、題材の3分の1が未撮影だった。プロデューサーが残りも撮らせてくれると期待していたが、プロデューサーにしてみれば、そんなことは一瞬だって考えることがなく、結局映画はその部分が欠けたまま無理やりつなぎ合わせることになった。こんなことは二度と起こらない。自分をどう守ったらいいか、ずっとよく学んでいるからだ。一定額のお金があるとき、その二倍かかる映画を想像することは非常によくない考えで、始終時間との戦いに悩まされることになる。

例えば、今ではほとんど映画をうちのビデオで編集する、ビデオで編集を初めて、フィルムで完成させるのだ。理由のひとつは、私自身の給料は映画一本当たりのものだから、自宅でやっている限り、製作会社の出費になる編集者や編集設備を使わないので、好きなだけ時間をかけても構わないのだ。だから自分が映画をコントロールできていると感じてから初めて、実際の編集過程に入れるのだ。そう言うと、ビデオで編集なんて絶対にできないという人に遭遇する。それに対する私の答えは、確かにビデオで編集するのはフィルムで編集するのとは違う。だがビデオで編集することで、膨大なフィルムの中から何が必要で何が要らないかを見極め、必要なぶんだけラッシュをプリントすればいいのかを決めることができるのだ。これで金の節約になるだけでなく、製作会社から何週間遅れている、何カ月遅れていると催促される苦痛から解放されることができるのだ。例えば『ルート1』のような大きな映画の場合、私は3、4カ月はひとりでビデオで編集し、そのあいだに映画を理解することができたから、実際の編集に強い立場で入ることができた。

私にとって映画作りのイメージというのは、戦争なんだ。あるいはサムライのイメージ、軍隊の演習のイメージだ。自分を守らなくてはいけない。攻撃態勢でなくてはならず、さらに自分を守らなくてはいけない。一本の映画にどれだけ時間がかかるかを把握しなくてはいけない。今はよく、同じ連中と組むようになっているが、彼らは私のやり方を知っている。だから撮影スケジュールを見て、私がこれでいけるだろうと思っても、彼らが「いや無理だよ。君ならこの倍の時間が必要だ」と言ってくれる。私も「OK、君の言うとおりだ」というわけで、別のやり方を探すことになる。こうしたことすべてが、生き残りの戦略なのだ。




私は自分の傷つきやすさを感じて、生き延びるために立ち上がるような人間の方にずっと関心があるんだ。自分を守るために立ち上がる人。それは我々の大部分がこの世界でおかれている状況でもある--極端に、傷つけられる立場にあることだ。この世界は個人個人の欲求にいちいち心を配ってくれる場所ではなく、人間はただ定まった男である在り方、女である在り方にあてはまって生きるように求められているが、それは一人一人の本当の体験にとって正直なこととは言えない。たとえば父親の役割を要求されてるある人の、その内面が崩壊しつつあることだって少なくない。だから私の映画の人物たちが傷つきやすいというのは真実だ。彼らは「俺は知らない」と言ってしまう立場におかれているし、自分の置かれた状況のなかでどう行動したら分からないように準備されている。その代わりこの彼ら、いわばささやか人間たちは、ただその分だけより正直に生きようとしているのだ。

私は服従なんて信じない、子供の親の支配に対する服従とか。

これはときには、弱さに見えることもある。だが私の描く人物たちは傷つきやすいかもしれないが、弱者とは程遠い。そして自分たちの持つ力の多くを注いで、自分自身の尊厳を守ろうとしている。基本的にまったく尊厳とは無関係のこの世界のなかでね。

私は多くの映画に、本当の"人物"を見いだせない。見えるのは図式だ。ただ現在ある階級構造を甘受すること、性的役割分担をそのまま甘受すること。そうしたものを何か別のやり方で再定義しようという努力を映画のなかに見いだせないのだ。これは大ざっぱに言ってハリウッド映画と、我々の生きる世界との関係にも言えることだろう。炎の壁をくぐり、交通事故でも切り抜ける人々--さて現実には、私には交通事故や自然災害、暴力で傷つく人間しか見えない。これは実は、私がドキュメンタリーとフィクションの違いについて悩んでいることでもある。リアリティとフィクションの違いは、物語り形式を取るか取らないかに関わらず、現実の世界の在り方についてか、そうではないかだと思う。ドキュメンタリーでもまったく我々の生きる現実と無関係なものを作ることができるし、実際いつもテレビでやっているのがそれだ。

一方で、世界は大変急速に変化している。人々はいまや、伝統的な家族とは異なった様々な人間関係のなかに生きているのだ。たとえば日本では、テレビで見ていることと、実際の街で見ていることの違いは驚くほどだ。連続ドラマや、東京を映した映像にでさえ、実際に私が見ることとのあいだになんの関係を見いだせない。




シネマとは特別なものだ。ムーヴィーとは違う。我々の知っていた映画はまた、我々がどういう考え方をするか、世界をどう分析するかと関係があった。そしてあの手の大きな映画がまず絶対やらないのは、世界を分析することだ。世界について何か言ってはいるかもしれないが、基本的に最も強烈な印象だけを混ぜ合わせているだけだ。たとえば"愛"はこうした複雑な宇宙ではない、だれも愛のディテールにまで入って行く暇がないから、愛は"電撃"ということになる。暴力とはこういうものだ、権力とはああいうものだ、というように、単純なゲームのように将棋のコマを動かしていく----これは分析じゃない。そして人々は生活のなかで、分析をしようという忍耐をどんどん失って来ている。読書は減ってマンガを見るだけになり、テレビもまた分析とはなんの関係もない、 ただニュースや連続メロドラマ、ときたま映画を混ぜ合わせた自己満足的な映像の流れに過ぎない。その意味で、世界を理解することという映画本来の投企は、すでに死んでしまっている。

Q それでもあなたは、この世界をよりよく理解するために映画を作り続けている。

まだ作ろうとしているし、続けて行くつもりだ。自分はそのやり方を知っているし、自分の全能力を注ぎ込んでも、それをやり続ける立場を守って行くつもりだ。そして何が起こるかを見極める。それがこの人生をつかってなすべきことだからだ。まさにウォーク・ザ・ウォーク(笑)、人生の歩みを歩くことだ。

Q あなたの映画の一本一本が、映画の表現の上でも、世界に対する考え方の点でも、新しいこと、別のことへの挑戦になっているのではないでしょうか。それはあなたが常に今、現実の世界との関係のなかで映画を作っている以上、当然そうなるしかないことではあるのですが。

この世界で、誰であろうと人に、何か違うことをやって欲しいと思う人間はほとんどいない。"違うこと"とは普通--そして何よりも私の場合は絶対に--自分が何をするのか正確に、前もって言えないことだ。どのような物語になるか、どの程度の量のフィルムを使うかさえね。ああした映画は途方もないギャンブルなんだ。

ボブ・ディランの歌詞に「ハイウェイはギャンブラーのためだ、チャンスに賭ける者の」とかいうのがあった。後半は「偶然から手に入れられるものは全てを手に入れろ」だったかな。すべてがこの問題、どう歩いて行ったらいいかを模索すること、簡単ではない状況の中で生きるための別の道を探ることについて展開する。

人生は楽ではない。リスクはたくさんあり、まだ若くて、自分のキャリアが何であるか定まっていない者にとって、これは決して容易なことではない。若いということは、年上の人達のなかで自分のキャリアを切り開くことが深刻に限定されるということだ。だが君が自分のなりたいような人間になりたいと思ったら、そのリスクは受けて立たねばならない。
これが私が、本当に語りたかったことだ。

ここには大きな矛盾がある。私の映画は本当に若者達のためなのに、映画の形態は本当に若者達にとって分かりやすいものではない。この問題は私がずっと考えていることだが、その答えはまだ見つからない。私の映画はまだ若い世代、自分の人生について、自分の人生を変えること、自分の夢に生きることができるだろうか、など諸々の問題について真剣に考えている人々のためのものだ。だが一方で私は確実に年をとっていき、私の映画作りはある面で洗練されていっている。私の60年代70年代の映画は若者にとって取っ付きやすいものだったが、今ではその判断が見えない。

子供は親の世代が生きた経験を自分が生き直すべきなのか、すでに生きられた経験から何を学ぶことができるのか。普通、父と子の関係というのは、親父が「息子よ、俺の経験からいって、俺はこれこれこういうことを知っているから、お前はこうするべきだ」と始まる。だが私は、「我々がやってしまったことのこのひどい結末を見ろ」という立場にいる「お前は自分の道を自分で見つけなければならない」とね。同時に、私も私なりの経験があり、その知恵は伝えたい。だからこの関係にはまだ豊かな鉱脈があり、まだ私がその可能性を探り尽くしたとは思っていない。新しい映画でもまた始めようと思っている。

Q『マント』で息子的人物に当たる少年は、父親像にあたるあなたの人物よりも実は強いし、あなたたちが世界をめちゃくちゃにしたが、我々が戻ってくる、と言いますね。

まあね、それは・・・それは本当だと思う。これからがもう我々の世界ではなく、君たちの世界であることを期待している。ただしまだ確信は持てんがね(笑)




この10年、ないし12年で世界は大きく変わったはずだが、実はなにも変わっていないのか…。12年前の「説教親父」の言葉は今でも十二分に有効に思える。

説教親父…と未だについ冗談めかして言ってしまうのには、上に一部を引用した4時間に及ぶインタビューというか大説教(笑)以外にもわけがある。

このときの来日の後、クレイマーは二本の日本で撮る企画を考え始めた。その一本は戦後間もなく広島に軍医として駐留した父のことからインスパイアされた『Ground Zero』というかなりの大作。もう一本がとてもパーソナルな製作規模で日本の若者の現実をドキュメンタリーとジャン・ジュネにインスパイアされた象徴的なフィクションのあいだのスレスレの一線上で撮ろうとする野心作『Lust For Life』


実はこの企画のシノプシスで、初老の画家の「ユキオ」(もちろん三島を意識しての名前だと思うが)とはクレイマー自身のことであり、「The Boy」は僕がやることになっていて、二人がそれぞれにキャメラを持って二人の主観ショットだけの映画にする、という斬新というかめちゃくちゃなアイディアの映画だった(当時もスチル写真はやってたので、鍛えりゃムーヴィーも出来るだろうということらしい)。当時はまだ「自分は映画なんてまだまだ撮れるほど成長した人間ではない」と思っていて批評とインタビュー取材ばかりやっていたのが、まず「お前は映画批評なんて世界の動きから一歩引いた立場に居続けてはいけない」とかなんとかさんざん説教され…。って、でもすぐに「じゃあ頑張るわ」と言ってしまっていたわけなのだが。

1998年ごろにはずいぶんやりとりをして、時にはクレイマーから見て僕が言ったことの考えが足りないと思ったところを容赦なく、プリントアウトしたら5枚に及ぶ大長文で緻密に分析かつ指摘されたり。「説教親父」の面目躍如と言ったところだが、そんな体験が大変だけど面白過ぎて準備してたのが、ロバートがその遺作になった『平原の都市群』の編集中に突然倒れ、わずか一週間後に帰らぬ人になってしまったのが10年前の11月10日だった。

それから10年、世界は変わったのか? たぶん今みたいにSkypeとかあったら、長文の説教が届くよりももっと大変だったかも知れないけど…。でも『Lust For Life』が撮影にも入れなかったのは今もって心残りなことではある。

2001年の「ロバート・クレイマー特集」会場で、バール・フィリップスと筆者。バールはその後筆者のデビュー作『インディペンデンス』の音楽を担当。

11/08/2009

ジャン・ルノワール、自作を語る。

60年代初頭にルノワールが自作のテレビ放映のために撮影した一連のイントロダクションです。いろんな逸話や自身の映画への考え方を闊達に話してますが、ただし仏語版、字幕無し…(日本でDVD出すときにおまけにつけたりしてくんないもんかな…)。

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『ゲームの規則』

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『大いなる幻影』

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『フレンチ・カンカン』

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『素晴らしき放浪者』

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『ボヴァリー夫人』

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『黄金の馬車』

出所はフランスのINA。他の作品のイントロも含め:
http://www.ina.fr/recherche/recherche?search=jean+renoir&vue=Video

11/04/2009

山形国際ドキュメンタリー映画祭の20年

昨日はアテネ・フランセ文化センタークリス・フジワラによるアメリカ映画連続講義で、数年ぶりにロバート・クレイマーの『ルート・ワン/USA』を見ることができた。



恐ろしく美しい映画であるのはもちろん、僕にとって個人的にも親分(笑)であったことも含めてもっとも影響の大きかった映画作家の、恐らく最高傑作だというのに、4時間半におよぶこの大作が今回はとても疲れる映画であったことは正直に認めるしかない。5月から撮り続けて来た大阪での即興長編劇映画で身体的にも精神的にも疲労困憊で、撮影を一時休止するしかなくなったほど、疲れが溜っていることもある。山形映画祭に行ったら少し寒かったせいか風邪気味になったのがその後とんでもなく長引く風邪になって帰京後にぶっ倒れ、未だに咳き込んでは喘息みたいな呼吸困難になる症状がぜんぜん抜けないから体力的にキツかった、というのはもちろんある。

だが、それ以上に気がつけばまもなくロバート自身の十周忌(1999年11月10日没)、そしてこの『ルート・ワン/USA』がちょうど20年前の映画であること、そこに写っているアメリカという国の姿に、もはや耐えられないほどウンザリしてしまっていることが大きい。


二人の主人公のうち画面に見えている方のドク(ポール・マクアイザック、ちなみにもう一人の「見えない」主人公はキャメラを持っているロバート本人)が、10数年ぶりに戻って来たアメリカについて「なにも変わっていない。同じ内戦がいまだにずっと繰り返されている」と述懐するのだが、その20年後のアメリカは、オバマ大統領の出現でチェンジを始めたように見えて、やはりなにも変わっていないし、同じ内戦が未だに繰り返されているし、強いて言えば「テキ」側がもっと醜悪でもっと極端にそのぶざまさを曝け出していて、それが激化しているのかも知れないという程度だ。


言い換えれば、20年前の方がまだマシだったとすら思えてしまう。またインターネットなどのコミュニケーション技術だけは発達したおかげで、アメリカの本当にどうしようもない部分の意見とかが直に見えてしまうからますますそう思うのかも知れないが…。

自国の戦争や虐殺行為よりも「妊娠中絶」と「同性婚」は「神に反する」云々かんぬん、『ルート・ワン』の時代にはパット・ロバートソンを大統領候補として支持する教会のミーティングで南アフリカの反アパルトヘイト闘争を「黒人と黒人の争いが本当の問題だ」「共産主義の影響が」と笑っちゃうような議論が大真面目で論じられていたりするのだが、現代のアメリカでは「オバマはケニア人でアメリカ人ではない」「バラク・フセイン・オバマはイスラム教徒だ」「オバマはアメリカを社会主義国家にしようとしている」とか。


オバマ政権のどこが社会主義なのか、もう少し社会民主主義に舵を切らないとアメリカが崩壊するだろうとハタ目には心配になるほどだが、いやまったく、イラクとアフガンでベトナム戦争の過ちを繰り返していることにも端的に現れているように、あの国の愚かさの部分はまったく変わっていないか、ますます酷くなっている。もうその現実を見ること自体がウンザリして来てしまうのだ。

『ルート1』の音楽を即興で創り出したミュージシャンたち、バール・フィリップス、ミシェル・ペトルチアーニ、ピエール・ファーヴル、ジョン・シャーマン

だが今日の久々のブログの本題はこの「アメリカにうんざり」話ではない。

『ルート・ワン』が20年後の今でも日本語字幕入りのプリントが日本にあって上映できる(ちなみに20年経ったとは思えないほど、保存状態はとてもいい)のは、これが1989年、20年前の第一回山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペ出品作品だったからだ。


それから20年の、今年の第11回の山形映画祭「ニュー・ドックス・ジャパン」部門『フェンス 第一部 失楽園/第二部 断絶された地層』を出品したのだが、いささか個人的な恨み節というか自慢話の自己満足になりかねない話ではあるけれど、台風一過で遅れに遅れた新幹線でなんとか山形に行ったその晩に、さる映画祭関係者に「本当は藤原さんの映画はコンペに入れるべきだったんですけどね」と言われた。その時にはあまり意味が分からずに、お世辞としてありがたく拝聴していたのだが、映画祭が本格的に始まってみてその人が言いたかったことがよく分かって来た気がする。

地元だけでなく日本各地からも集まった若いボランティア(久々に再会した畏友ハルトムート・ビトムスキーにアテンドしてたドイツ語ができる女の子が、日本語が関西弁なのにびっくりしたとか)が熱心に働いていたり、2003年まで映画祭のメイン・スタッフだった小野聖子・アーロン・ジェロー夫妻のご子息イアン君もボランティアで客の呼び込みをやっていたり、予算が制約されているのならそれで手作りで映画祭を盛り上げようと言う熱意が手書きの上映告知看板などでそこかしこに感じられるにも関わらず、なんだか盛り上がらずに中途半端で、あまり興奮しない映画祭になってしまっているのだ。

 2001年審査員作品、ハルトムート・ビトムスキー『B52』(抜粋)

いろんな意味でこの映画祭の役割は曲がり角に来ているのは確かだ。20年前にまだデジタルビデオなる便利な映画作りの道具が登場する前(山形のコンペで初のDV作品は、97年のジョン・ジョストの傑作『ロンドン・スケッチ』)、映画作りの手段がないアジアの映画作家を応援するというわけで始まったアジアの若手プログラム、「アジア千波万波」は、アジアの映画とくにドキュメンタリーが今では世界のドキュメンタリー映画の台風の目となり、山形でも中国の王兵(ワン・ビン)とかタイのアピチャッポン・ウィーラーセタクンらがコンペ部門で高く評価され続けている今、ほとんど役割を失っている。というか、必然的に「誰でも映画が撮れる時代にアジアでも映画を撮ってますけど、ビデオなのも含めて映画として中途半端」な感じの、そこまでの才能や情熱があるわけではないプログラムにしかなり得ないだろう。今や「アジア映画」を保護育成するのでなく、世界レベルで評価するのがほとんど当然の時代なのだから…と思ったら今年のコンペは、ものの見事にアジア映画がほとんど入ってない。

いやそれよりも問題なのは、コンペだけでなくアジア部門でも、かつて山形を世界でも有数のスリリングな映画祭にしていたような映画、ドキュメンタリーについての既成概念をゆさぶり、映画とはなにかという問いをぶつけて来る、たとえば『ルート・ワン』や『ロンドン・スケッチ』のような、「映画とはなにか」を豪速球で問うて来る野心作や、ドキュメンタリーにおけるインタビューの意味を再定義することで「事実」そのものの信憑性を覆し続けるエロール・モリス、いつも同じ方法論のようでいていつも驚愕する他はない映画的知性と完成度にみなぎっていて、だからいつも新鮮なフレデリック・ワイズマンの新作であるとかに匹敵するような映画が、まるで意図的に排除されているとしか思えないのだ。『パリ・オペラ座のすべて』の日本公開が決まってるからと言って、山形で先行上映したっていいじゃないか。いや、山形のプログラムが変に保守化して来たことに気付いているせいか、ワイズマンは『州議会』も山形に出品する前に日本で上映できるようにしてしまっていた。逆にかつて『コメディ・フランセーズ 演じられた愛』が山形への出品をきっかけに劇場公開になったのとはすっかり様相が変わり、もはや山形なんて関係なくワイズマンのこの新作はヒットしているようだが…。

 1999年コンペ出品のワイズマンの傑作『メイン州ベルファスト』

現代映画である以上、完成された方法論を見せつけるワイズマンの映画ですら(…というかワイズマンの場合その方法論それ自体が)、「映画とはなにか」という問いを必然的に浮上させることになる。とくに「現実にキャメラを向け、切り取る」というお約束があるドキュメンタリーにおいては、我々の世界におけるリアリティとはなにか、リアリティとは現代においてどのように認識され、それを映画という必然的にフィクショナルな再構成を含むメディアで表象するとはどういうことなのかを、映画を作ろうとする以上常に意識しなければならない−−90年代において山形映画祭はそうした現代映画の最前線の映画祭であり続けていた。

ところが今年の山形映画祭では、アジア部門では王兵やアピチャッポン・ウィーラーセタクン、あるいはジャ・ジャンクーがすでにやって来たような新たな映画のフォルムにおける挑戦の焼き直し(その模倣をやればヨーロッパの批評家中心にウケることを、中国や東南アジアの若手はしたたかに見抜いている)か、今さらなにをと言わんばかりに、手持ちのビデオキャメラでただ対象をおっかければいいみたいな安易な「情熱」だけの映画か、現代アートの駄目なビデオインスレーションめいた一発ネタ的で本質的な創造の意思が欠如したような作品がほとんどだし、コンペに至っては…。もしかして今年の山形に選考に関わった人々は、ヨーロッパや北米大陸が未だに世界の「最先端」であってアジアや日本が世界映画の発展途上国であるかのような植民地主義的幻想に,未だに足を引っ張られているのだろうか?

2001年コンペティション作品、アピチャッポン・ウィーラセタクン
『真昼の不思議な物体』


「世界のドキュメンタリーの最先端」ねぇ…。最近の傾向としてヨーロッパやカナダを中心にテレビ局がドキュメンタリー映画製作の重要なスポンサーになっているのだが、だからってこのコンペティションの選考はいったいなんなのか? どうせテレビのドキュメンタリーやるんだったら「NHKスペシャル」の方がまだ、ちゃんと丁寧にリサーチして真面目に作ってるじゃん(というかコンペ出品の一本はもともと、NHKにしては粗製濫造感の強かったハイビジョン特集の合作番組だし)、と言いたくなるような作品だらけではないか。

これでは山形国際ドキュメンタリー「映画」祭には見えない、「国際ドキュメンタリー番組祭」じゃないか、とあえて言ってしまいたくもなるほど、テレビ的なフォーマットの作品の数々は、うちでテレビで見る分にはうっとうしいほど下品な音楽の使い方でもそう気にならないだろうが映画館で2時間凝視するには退屈すぎる。

 99年コンペ出品、エロール・モリス『死神博士の栄光と没落』

どうしてこうなるのか、その内幕事情はさっぱり分からないが、いったいあの90年代のとんがった、コンペは世界映画の最先端を行き、アジア部門は未来を先取りしていたようなプログラミングは、いったいどうなってしまったのか? どんなに「熱意」で頑張っても、映画祭のクオリティは出品作品と、その選考の背後に映画祭側が匂わせる、その映画祭の個性、というかほとんどその映画祭の映画哲学と呼んでも差し支えないものによって決まる。それは表層的で杓子定規な「選考基準」などで言語化したりできるものではなく、ディレクターと選考委員の個性と感性と知性によってこそ、映画祭の価値は決まるのだ。その山形映画祭を山形映画祭たらしめていた価値を、今年の山形はほとんど見失ってしまっているように見える。なるほど確かに、こういう山形だったら、『フェンス』のような映画がコンペだとかに入ることはあり得ない。出来不出来はともかく、これが山形映画祭がもっとも輝いていた時代の精神を引き継ごうとし、実際に山形をエキサイティングにしたワイズマンとかクレイマー、ジョストであるとかソクーロフ、エロール・モリス、21世紀に入って王兵とかペドロ・コスタであるとかに刺激され、吸収されたものを相当に反映していることもかなりあからさまな映画で、なおかつ徹底して「アジア的」、というか東アジア的な映画であるからこそ、ああいうコンペだとかではおよそ場違いな映画にしかなり得ないだろう。

   2001年コンペ出品作 ペドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』

実をいえば昨年の正月にすでに、飯塚俊男さんの『映画の都ふたたび』の東京上映にかこつけて、山形国際ドキュメンタリー映画祭の今後についていささかの危惧をこのブログで書いているのだが、その時に想定した以上にとんだ曲がり角での失速が起ってしまった気がどうしてもしてしまう。では20年間にわたって山形の文化政策としてドキュメンタリー映画祭をやって来た意味はいったいどこにあるのか? こういっては山形市民に失礼ながらあえて言おう、結局は保守的な田舎者が田舎者であることから一歩も出られず、「国際映画祭をやるということ」の意味を勘違いしたまま20年が経ってしまったのではないか? 

どうも「国際」とか「海外」に強烈なコンプレックスを持ち続けている日本国の、そのなかでの地方都市というか田舎となると、「国際映画祭」とは世界のいろんなことが日本の片田舎にいる自分達に紹介される場なのだと思い込んでいはしないか? 田舎田舎といい加減失礼ながら、それってすさまじい田舎者根性、「世界の素晴らしいものをフィリピンの貧しい民に紹介する」と外遊しまくったイメルダ・マルコスのお土産外交並にダサい話だ。

山形で国際ドキュメンタリー映画祭、それも90年代から21世紀の初頭にかけてやって来たこととは、「山形から世界に文化を発信する」行為であったはずだし、現にとてもスリリングにそうなっていた。山形映画祭は今後もそういう映画祭でなければならないはずだし、それが山形の人々の誇りにもなり、明治以降の中央集権のなかで単なる片田舎に貶められてしまって来たアイデンティティの回復の一翼を担うことにもなり得たはずだ。だが悲しいかな、肝心の山形の人々がそういう「田舎者からの脱却」の意思、日本文化の東京中心の権力構造をひっくり返すような意思なんてまるで持とうともしないまま、20年が過ぎてしまったのではないか?

     2003年のグランプリ作品、王兵『鉄西区』

一方で山形映画祭に行くことを「自分は映画通である」というステータスにして来た観客の側にも、問題は大きい。20年やっていて彼らが山形映画祭の観客の主流であり続けて来たのなら、別に山形が自民党の支持基盤の東北地方の農業地帯だから保守的なだけでこうなってしまうわけではあるまい。そこに通ってる観客もまた20年のあいだに山形詣でが惰性になり、感性が鈍化して保守化し、山形で「映画とはなにか」という先鋭的な問いにエキサイトしていた時代をすっかり忘れてしまってはいないか?

自作のことを持ち出すのは自己満足みたいで恐縮なのだが、『フェンス』はある一定世代以上の日本人にとって常識だとしてもたとえば僕の世代だって普通は知らないようなことを、あえて「当たり前の前提」として説明は一切しない映画にしてあるのだが(映画とは説明のためのメディアではないはずだと頑固かつ純粋主義で思い込んでいるもので…)、初の国内上映であった山形では、むしろ山形の一般市民であろうお客さんの方が適確に映画の構成とか仕掛けを見抜いていたし、とくに若いお客さんの反応が、映画をちゃんと見て自分なりの理解(見る人によっていろいろ考えられるようにあえてしている、こちらの「メッセージ」は表立っては主張しないのが僕の映画の常なので)をしてそれなりに評価してくれていた。

その一方で、20年間やってる惰性になるとわざわざ通ってる観客(というかセミプロ、プロ観客)まで感性が鈍化してくるのか、いわば「常連」さんたちからのまあいろいろ間の抜けた「批判」はけっこう聞かされたた。たとえば池子基地で戦後間もなくあった爆発事故について、「土本の弟子なんだから新聞記事を引用すべき」だとか、調べなかっただろうとか(唖然)。誰が土本の弟子なのか知りませんが、池子問題については逗子市が音頭をとってすでに分厚い網羅的な資料集を発行していて、そういう記事も簡単に見つかるのだが、この映画がそもそも大文字の歴史の政治性の偽善にむかって個人の記憶の人間性で立ち向かおうとしている映画だと気付いてもいないとか、お笑いにもならない。

    藤原敏史『フェンス 第二部 断絶された地層』

なんで僕が土本典昭の真似をしなきゃいけないんだか、意味が分からん。土本を尊敬するにせよ映画についての考え方において必ずしも影響を受けているわけではない、むしろ意見が違ったりするからこそ、あえて土本が自分のポートレイト・ドキュメンタリーの演出に僕を推薦したことも気がつかないんだろうか? そういえば死んだとたんに土本を神格化するかのような空気が蔓延するのも、ちょっと気持ち悪く、『フェンス』の撮影監督・大津幸四郎と「我々はお呼びじゃないみたいだね」と隠れてたりしてたわけだが。

あとこれも土本の真似をしろってことなんだろうけれど、地図を入れろとかって、米軍基地が柵の向こうに垣間見えるものでしかない、「見えない」ものなのがキモだというのに、地図でなんとなく分かったつもりにされてたまるもんか。それこそ個人の記憶、個人の体験なんだから地べたを動くだけの人間の視点だけで、フェンスの向こうに隠されて見えない風景をこそ、意図的に撮っているというのに。

というか、『フェンス』という映画自体を「見えない」こと(米軍基地が機密によって見えないだけでなく、だいたい過去についての映画であり、過去である以上現在においては見ることができないし、その過去の個人個人の体験については記憶しかない)と「語れないこと」(たとえば戦後間もなく、黒人の工兵部隊が配置された池子で、地元住民にどんな被害があったのかは、誰も直接には語らないし、語れることでもない)をこそ、そのフォルムと構造・構成の基本に置いているのは、あからさまなのに。そこで「映画で見せること、語ることとはどう言うことなのか?」という問いを必然的に内包した作りになっているのは、それこそ「見りゃ分かるだろう」レベルの話だと思うのだが…。

20年間やってるとわざわざ通ってる観客(というかセミプロ、プロ観客)まで感性が鈍化してるのだとしたらそれも危惧すべき問題だ。自分の映画のことだと自分の作り手の思い込みで話が歪んでしまうし自己満足になりかねないので、コンペ作品で「これなら山形でやって当然だ」と思わせてくれたたった二本の作品を例にあげてみよう。


         アヴィ・モグラビ『Z32』

まずアヴィ・モグラビ『Z32』で主人公とその婚約者の顔が常に凝ったデジタル処理で隠蔽されているのが、現代のメディアで多用されるモザイク匿名処理のパロディであることすら気付かないとか。

      ハルトムート・ビトムスキー『塵 - ダスト』

ビトムスキーの極めてパーソナルながら、それだけに突き詰められた傑作である『塵ーダスト』が、人間の営みとその文明の虚しさをこそつきつけている、その哲学的なレベルがあることにすら、まず考えが及ばないとか…。

どっちも皮肉と逆説たっぷりなことくらいは、好き嫌いに関わらず最低限気がつくべきだろうし、その皮肉がイヤだから嫌いだというのなら分かるのだが、笑いすら起らないんですからいったい映画の何を見てるんだか、というのが今年の山形映画祭の全体的雰囲気を象徴しているように思えたわけである。



それにしても「映画とはなにか」と同時に「アメリカとはなにか」を先鋭的に問い続けてその本質をみごとにえぐった『ルート・ワン』の20年後、山形国際ドキュメンタリー映画祭のグランプリが、チョムスキーなどのインテリが新自由主義を批判するインタビューをただ繋げただけ、現代の北米大陸を代表するインテリたちが書いている言葉ほどには人間的には魅力的でなないことを確認させて頂きながら「本にしてくれた方がよかった」程度の、さしたる知的・感性的な突き詰め方もなければ映画にした意味がよく分からない映画に与えられるとは…。

これだけ書いてしまったら当分出入り禁止かな、といってどうせ二年後の次回の映画祭までにドキュメンタリー新作を仕上げるなんてことはまずあり得ないので、あえて山形国際ドキュメンタリー映画祭の今後のためにも、厳しいことを書きまくった次第です。