最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

5/27/2009

大阪での集団即興劇映画、進行中


このブログに先日、無字幕版(要するに、出だしと最後にクレジットがついている以外はほぼ元の撮影素材のまま)をアップしてますが、英語字幕つきで音声に少し別トラックの音を入れたりして整理したバージョンを再アップしました。Dailymotionでは画質が万全ではないので、こちらのリンクでもQuicktimeのファイルでご覧頂けます

もちろん、元のHD、1080/24pだとこの写真(というかコマ抜き)のような素晴らしくデリケートな画質でして、ウェブに出しているものはどっちにしろ本来のHD、ないし完成予定の35mmとは、較べようもありませんけど。

『ほんの少しだけでも愛を』
 出演 田中健太郎 花村周寛
 製作/編集 桝井孝則
 美術 花村周寛
 録音 谷口譲 石田未来
 演出助手 安川有果
 監督/撮影 藤原敏史
2009年/カラー/HD(1:1.78)/9min

自分の映画をウェブ上で無料で見られるようにするというのは基本的にはやりませんが(せいぜい予告編)、この場合はこの短編自体が長編の一部を転用しているだけでして、その長編を作るのに必要な資金を募集したり、出演してみたい人もまだ一応募集中でもあるし、その宣伝としてあえて公開しております。つまり、完全即興でキャストは大半があえて素人というと「そんなことできるのか?」とそもそも誰も信用してくれないでしょうから、「実際にこのくらいのことは平気でやってのけますから」といういわば証明としてあえてアップしているわけです。

というわけでご興味をお持ちの方は、この作品の最後のクレジットで出てくるe-mailアドレスか、当ブログのコメント欄を通じて連絡して見て下さい。

企画書(仮のものですが)もお読み下さい。本ブログの以下の項目もご参考まで。

4月21日
4月23日
4月29日
5月 4日
5月14日

この短編は本当にこのやり方で撮りました。ウソはまったくついてません。脚本はありませんし、出演者も一名は完全な素人で、もう一人だって素人に毛が生えた程度のものです。

上の短編の主人公で、この映画に純粋なゲイのちょっと美少年(?)の、たぶん群像劇(10〜12人)のなかでもたぶん特に主役級、もっともテーマを担った役柄の一人として出演することになる田中健太郎君は、実生活では右の写真みたいな感じの、ちょっととっぽい(失礼!)フツーの童顔な青年。まあかわいいといえばかわいいんだけど…化けようと思えば人間、化けるもんです。

田中君はこの上のシーンを撮るまでは演技についてはまったくの素人でした、本当に。それでもこれくらいは一日で出来ます。なにせこれが撮影初日だったんですから。

「そんな映画作りなんて、ほんまかいな?」と思った方、嘘だと思ったら現場覗いて見て下さい。6月7日から撮影開始予定です。

Youtube.comで見たい人はこちら。こちらの方がDailyMotion.comほど変換で明るくなってません。動画投稿サイトって便利だがいささか一長一短で、Youtubeだとワイドの埋め込みプレーヤーの幅が当ブログに合わないで画面向かって右側がはみ出すか、ブラウザによっては切れてしまうんですよね…(以下参照)。



それがDailyMotion.comだとほぼぴったりなので、このブログではDailyotionを使ってます…。Google Videoも試してみるべきか? このブログのホストであるBloggerってGoogleのやってるサービスだし。

5/14/2009

大阪での集団即興劇映画、とりあえず撮り始めました

承前。なにしろ脚本なし、フィクションの人物を巨大都市の現実に放り込んだらどうなるか、となるとまずは撮り始めないとはじまらない、というわけで報告遅ればせながら、5月6日と7日に、ものは試しで大阪での集団即興劇映画を撮影開始、とりあえず二日かけていろいろ試してみました。上の写真は全長2.6キロとかで、日本一長いアーケード商店街だという天六をさまよう、数年ぶりに大阪に帰って来た世捨て人役の俳優・谷口勝彦さん。この混雑した商店街を数百メートルにわたって二往復、力技の手持ち移動で腕はクタクタ。でも谷口さんは一往復ですでに自分の役柄の歩き方を創造してしまい、幸先はいいのかな? 

あいにくの雨でしたが、中崎町でまるでアントニオーニか吉田喜重のようなミステリアスなショットを撮ってしまいました(こちらの安川有果さんは本当は自身がインディーズの監督)。

本格的に撮影に入るのは6月に入ってからなので、まだ出演希望者は受付中。今週末は再び大阪で、金曜日にプラネット+1の下の素敵なカフェ太陽ノ塔企画発表と撮影したもののお披露目をやりさらにリクルート、週末は大阪ですでに決まっているキャストと話をつめたり、オーディションの続きをやります。関西方面で興味ある人はぜひ、まずは金曜日に太陽ノ塔にいらっしゃるか、compass_films@mac.comにメールを下さい。

あともちろん、出演という形でなくてもサポート、あるいは出資などをご提案下さる方も…是非…。これがないと完成できるかどうかは、もう僕の体力勝負としか言いようがありません。

地下鉄中崎町駅前で電話でカレシにブチ切れる女子大生を演ずる市田美和さんは、すでに「爆弾娘」とのあだ名を出演の決まったメンバーからちょうだいしてしまいました。元気がよくて頭の回転が早い21歳の提案したストーリーは、コメディ・タッチながらも「満たされているのが不満」というなかなか実存的かつ現代的なテーマ。

大阪でのプロデュースはインディーズ集団・思考ノ喇叭社のメンバーで野心的処女作『罠を跳び越える女』(まあストローブ=ユイレの猿真似と言ってしまえばそれまでですが)を発表している桝井孝則君。ストローブ=ユイレの方法論を本気で日本語で日本でやりながら相当な毒気とユーモアを忍び込ませる自称「ドSの鬼畜」の才能ある若手映画作家ですが、こういうムチャな現場を取り仕切るプロデュース能力も相当なもので感服。なにしろ天六商店街で手持ちを合計で1Km半もやらせたのは、ひたすら桝井君が「もう一回やるでしょ」「だからもう腕の筋肉がパンパンで」「だからもう一回やるでしょ」「だから腕が…」「だからもう一回やるでしょ。ほら腕ならマッサージしてやるから」…ってなわけでもう一回やりました。確かにやってよかった…。だから桝井君が正しいのだが、しかしオレの腕はどうなる?

以上は二日目の街頭撮影テスト、文字通りの行き当たりばったり撮影ぶん。

撮影一週間前くらいから滞在して桝井君と一緒にキャスティングをして、初日には即興とはいえけっこう仕込んでかなり凝った7〜10分(テイクによる)のワンショット/ワンシークエンスの力技、しかも360度パン、しかもヌードありのラブシーン? まあここまで派手に力技をやらないと、「脚本もなし、出演者の半分は素人、しかも基本的に長廻しのワンショット・ワンシークエンスばかり」というムチャな実験が成立することを納得させられませんから、ということで…。

PanasonicのHVX205という新しいHDキャメラで24コマ撮影(キャメラは京都ディーユーの提供。Thanks)。この光のデリケートさや肌の質感は、デジタル撮影とは思えないニュアンスだと素直に感動…。

フォーカスを浅くした際のボケ具合も絶妙です。しかしどういうラブシーンなんだか…。出演は大阪大学でランドスケープデザインなどの講師をしているアーチストの花村周寛さんと、プラネット+1で映写スタッフをしながら映画作家を目指す田中健太郎君。どちらも俳優としては素人なのはまだ分かるとして、しかもゲイでもないそうです。なのにここまで演じきれるか? まさに体当たり。

この煙とか湯気もなんとも…。ただし生データで1分あたり1GBくらいあるというとんでもないデータ量の多さと、どうにもそろそろ5年になる我がPowerMac G5 dual 2.5GHzとの相性の悪さがネックで、なかなか正常に再生できない…。

この初日撮影分(いちばんいいテイクは約9分の長廻しワンテイクのワンシーン)は、近々短編として完成させてウェブ上でアップします。なにしろまったく資金なしで始めているので、これぐらいいろんな意味で派手かつ過激(?)な見せ金(?)を発表すれば、信用してお金を出してくれる人もいるのではないかと…。イヤ本当に、往復の交通費だけでも大変なことになり、なかなか他の仕事をやってる余裕もなくなりそうで、Macも買い替えねばならないかもしれず…ご支援のほどぜひ…。未だかつてない日本映画になることは保証します。

舞台が変わり、土地が変わって参加する人がちがうと、同じ方法論を使った『ぼくらはもう帰れない』とは主題的にはまったく異なり、社会のなかのバラバラの個人がすれ違い続けるのが主体の社会劇的なコメディだった東京版とはうって変わって、家族や愛、恋愛といったよりパーソナルな、人と人とのつながりをめぐる物語が大阪中を右往左往しつつ並行して展開するような映画になりそうな気配。持ち込まれたストーリーの多くが、一見平凡な生活の風景のようでいて驚くほどディープでもあるので、どう展開するのかが楽しみ。

今からでも参加したい方、興味のある方はこちらのエントリーをご覧下さい。連絡先なども書いてありますので。
http://toshifujiwara.blogspot.com/2009/04/osaka4.html

映画全体の題名はいまのところ『ほんまかいな? Is It All True?』。初日撮影分だけで作る短編(ワンカットのみの9分間)は『ほんの少しだけでも愛を For a Little Bit of Love, even for Just This Little Instance』(露骨にさるドイツ人映画作家へのオマージュです、はい)。

5/11/2009

ジョン・フォード論19本♪

John Ford's Cheyenne Autumn (1964)

国際映画批評家連盟のウェブ・マガジン「Undercurrent」(地下水脈、とでも訳しますか)の最新号はジョン・フォード特集。世界中からの18人もの選りすぐりの論者が、映画史上最大最高の映画監督を論じております。編集はわがアメリカの従兄弟(笑)クリス・フジワラ

日本からの参加執筆者は蓮實重彦先生の『香も高きケンタッキー』論と、僕の『シャイアン』についての分析です(英語)。

フォードはもちろんほとんどの作品が大好きですが、とくに『シャイアン』『馬上の二人』『最後の歓呼』あたりの後期の、必ずしも人気があるわけではない映画が最近はとくに…。もっとも考えてみたらこの論考の元ネタになっているワーナーブラザーズの一次資料(台本、製作レポートなどなど)って、93年にUSCに留学中に調べたものだったんだっけ? 大学生のときの研究が16年ぶりに日の目を見たわけではあるのか…。

5/10/2009

おかしなことわざ…

高校生のころ、保護者会から帰って来た母がなにか怒っている。当時の担任だったか学年主任だったかの、旧制松本高校を経て東京帝大出の先生の言ったことが気に入らないらしい。
「どうしたの?」
「◯◯先生ったら、『受験教育の流れに棹さして』なんて言うのよ」
「またバカ正直な開き直りだねぇ。でもいいんじゃない、あの学校たしかに進学率あまりよくないし(とまるで他人事)」
「なに言ってるのよ、あの学校では受験教育偏重はやらない、という意味で言ったのよ!」
「へ?」
そう言われてみればしょうがないなぁ。棹で川底をつっついて手動で舟を動かしてた江戸時代じゃあるまいし、「流れ」に「棹」ならともかく「竿」がささってるイメージなら、「流れに逆らって」という意味に勘違いするかも知れんなぁ、現代人だもの。
「でもあの先生は旧制松本高校出身が自慢で、しかも国語の先生でしょ!」
はいはい、母は常にまったく正しいのである、反論できない末っ子のマザコン甘えん坊には(汗)。

まあ「竿」じゃなくて「棹」なんだけど、と言ったって現代生活ではほとんどピンと来ないだろうから、この慣用句の意味が正反対になってしまうのは分かる。もっとも、川の流れに「竿」を突き立ててなんの意味があるのかさっぱり分からないんだけど。釣りで水のなか、つまり流れに入る部分は、竿ではなくて糸だと思うんだけどなぁ。

それでもこの程度なら罪はないと思いたいが(しかし確かに、旧制松本高校出身で東大出がウリの国語教師だもんなぁ←ひつこい)、同じことわざの勘違いでも「情けは人のためならず」にまつわる誤解だと、どうにも理解できない誤解(どうやったらそう考えられるんだ?)があまりに世の中に蔓延して、今や正しい意味で使う人が少数派になってるほどだ。

ちなみに正しい用法は、たとえば駅で重い荷物を持ったおばあさんに「持ちましょうか」と言ったときなど:

「すみませんねぇ。見ず知らずの方にこんなに親切にして頂いて」
「いえいえ、情けは人のためならずとも申しますし、困ったときはお互い様ですから」
「あらお若いのに感心ねぇ」

このフジワラはこの種の手練手管で高齢者の女性の心をつかんで『フェンス』のような映画を作ってしまう偽善者…というわけでもなく『フェンス』に出て来る旧池子村・柏原村出身の女性となると健康すぎて重い荷物でもとっとと担いで歩いて行ってしまいそうなのだが(笑)、閑話休題。

もしかして上で「他人事のように」と書いたト書きも、「たにんごと」と読む人がいたら困る…。これはもちろん「ひとごと」と読みます。「情けは人のためならず」も本当は「他人のためならず」と書いて「ひと」と読ませた方がまだ誤解がないのかも知れないけど、どうも最近ではテレビだとかのコメンテーターでもまったく正反対の意味で使ったりしているのだから怖い。

日本語の「ひと」には「他人」つまり自分と直接関わりのない不特定多数の他人様(よみは「ひとさま」ですよ)の意味があって英語でいえば「パブリック」(不特定多数の他人どうしが構成する社会全般)に近い意味だったりするのだけど、明治になって「パブリック」を「おおやけ」だけならいいけど「公」と、官僚国家主義的戦略もあって意図的に誤解させたんじゃないかとも思わなくもないのだけどこれはますます話がそれるので再び閑話休題。「情けは人のためならず」に話を戻せば、現在に流布する誤解はどうも、言葉の意味をとれてないという問題だけでないような気がする。

だって今や、ほとんどの人が「人を甘やかすとその人のためにならない」という恐ろしく倒錯した意味にとって、そうやってこのありがたいことわざの意味をねじ曲げることで他人に親切をできない自分への言い訳に利用しているようにしか見えないのだ。元々は巡り巡って自分に帰って来ることもあるから、他人には親切にしなさい、という教訓なのに。

たとえば障害者の人が困っているときにちょっと荷物を持ってあげるようなことまで、否定されるような世の中になりつつある。いやもちろんご本人のプライドもある、他人の情けに頼っては自分がダメになって自立できないとか、リハビリの一貫と考えて努力されている時もあるだろう。でもそんなときには「結構です」と言うだろうし、言われればこっちだってただの小さな親切なんだから「ああそうですか。ではお気をつけて」と言えば済むだけの話。「この人のためにならない」なんて考えて手伝おうとしないとか、「結構です」と言われて怒るようなことの方がよほど傲岸不遜で他人様(「ひとさま」ですよ)への配慮の欠けた自惚れた話、精神医学でいえばほとんど人格障害のレベルに達する精神のゆがみじゃないかとすら思えて来る。なんというか、人格障害かどうかはともかく、そういう発想ってすごくいやらしくありません? 誰のために親切をやってるんだか。「いい人」である自分のイメージに自己陶酔するため?

いやな世の中になったもんだなぁ。どーってことない小さな親切でやたら恩着せがましくしたがることの裏返し、その小さな親切が出来ない自分への言い訳として、こうもありがたいことわざ「情けは人のためならず」の意味を変えちゃうなんて。これってけっこう人生における倫理的真実を突いている言葉だと思うんですけどねぇ。

日本のことわざで、英語にそんなことわざがあるかどうか知りませんが、このアメリカ映画でもっとも愛される古典だってまさに「情けは他人のためならず」という教訓についての映画ですしねぇ。



いや、奇跡が羽根をもらえない二級天使のクラレンスという形で現れるおとぎ話以上に、イーストウッド『グラン・トリノ』こそ本当はそのシンプルな真実についてのもの凄くディープな映画なのかも知れない。イーストウッドの場合の奇跡は、たまたま目の前に鏡があってイーストウッドがその鏡のなかの自分に向かって自嘲的に「Happy Birthday!」と言う瞬間にあるのだからとんでもない哲学的ディープさなのだが。

しかも別に巡りに巡ってでもない。素直にやさしい(でもないか、見た目は相変わらず苦みばしった毒舌ガンコ親父だし)おじちゃんになることで、『グラン・トリノ』の主人公の、戦争のトラウマに苛まれ他人を嫌い続けた人生は初めて本当の意味を持つのだから。

5/04/2009

明後日から撮影だぁ。

承前。大阪での即興実験劇映画の撮影は5月6日・7日の濃厚なラヴシーン(?)からクランクインです。

いきなりヌードに360度パンに10分間長廻しだぁ。…って本気か?