最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

3/23/2009

お彼岸スペシャル

Robert Altman's A Prairie Home Companion (2006)



There’s a land that is fairer than day,
And by faith we can see it afar;
For the Father waits over the way
To prepare us a dwelling place there.

In the sweet by and by,
We shall meet on that beautiful shore;
In the sweet by and by,
We shall meet on that beautiful shore


アメリカでも「向こう岸」に行っちゃう、つまり「お彼岸」なわけですね。この大傑作を最後にあっちに行っちゃった巨匠も含め、最近もいろんな方が「向こう岸」に行っちゃいましたが(というか、遺作のラストでこれをやってた巨匠っていったい…)、どうせならこれくらい明るく賑やかに向こう岸に行っちゃう方が正しいのかも知れない…。

少なくともみなさんこんな感じで行っちゃったと考える方が楽ですか。

まあ巨匠は、39年前にコレで有名になった方でもあるが…。

   

自殺は痛くない。いつでも好きなときにこの世とおさらば…。

3/13/2009

こっそり官僚支配・衆愚ファシズムの時代が始まった?

晩年の黒木和雄監督が、お会いする度に「今の日本は、僕の子どもの頃とそっくりです。だから気をつけて下さい」とよくおっしゃっていたのを思い出す。黒木さんは1930年生まれ、つまり「子どもの頃」というのは第二次大戦前夜から戦争の時代にかけてのことだ。

毎年ギリギリの確定申告のついでに実家に寄ると、父親がまったく同じことを言っている。小沢一郎の「政治資金疑惑」と称するものについてである。そういえば田中義一や原敬など、戦前の自由党政権が金権疑惑でどうこう、と言うのも思い出すが、そこまで言えるかどうかは分からないにしても、検察の動きも異常ならマスコミの報道も異常、小沢による政権交代阻止を狙ってるのはほぼ間違いないとは思う。母は「日本ってやっぱり怖い国だと思ったわ」だそうだ。

新聞・テレビの日報的なマスコミは「政局オセロ」とか言って自民対民主の構図で無理矢理読み取ろうとしていて、そこに結局はとくに政権与党に情報源を依存している政治記者の都合かあるいは発想の限界が見えるわけだが、秘書の逮捕時に小沢が「国家権力」、とくに「検察権力」と言ってるのにも気がつかなかったのか? 少なくとも小沢はこれが自民党・麻生政権が背後にあって、とは見ていないし、そしてその読みはたぶん正しい。昨日や今日くらいから出ている週刊誌がそろってこの件を取り上げると、さすがに週刊誌は日々の検察リーク情報(「関係者の話によると」報道)に惑わされないぶん、事態を鳥瞰できているようだ。

小沢が最初から言ってるじゃん、とは思うけど。

結果として現政権には基本的に有利にはなる。なぜなら麻生政権は基本的に官僚にとって都合のいい、使いこなし易い政権だから。与党で狙われたのは良くも悪くも族議員、利権もあるが一方でその得意分野において官僚に指図も意見も、反論もできれば圧力もかけられるだけの実力や知識、情報源のある人々、それも自民党のなかでは官僚出身等のエリートではなく叩き上げ系統の二階氏、さらに古賀さんまで名前が出て来た模様だ。一方で疑惑で名前は出ても能力がないぶん人畜無害(その無能さでキングメーカー気取りが有害ではあるが)な森元首相には捜査の動きはない。

それどころか小沢の秘書出身の若手議員、石川氏への事情聴取に至ってはあまりにえげつない。まだ若くて将来もある人間をこうも派手に潰すかというだけでも人情としてどうかと思うが、石川氏の選挙区は酩酊会見で次の選挙で当選が危ない中川昭一と同じ。これでやはり官僚には使い易くとくに検察や公安警察にはまことに都合がいい中川氏に、恩を売ったことにもなるわけで。

まあなんともえげつない話だ。

検察は絶対の正義でもなんでもない。あくまで法務省所轄の一行政機関であり、それ自体の握っている権力もあり、権力闘争になるような力はある意味政治家以上にある。なにしろ市民を拘束してそのプライバシーを洗いざらい調べる捜査権をもった行政機関であり、しかも今の日本の裁判では起訴されればほぼイコール有罪判決、逮捕されるだけで社会的ダメージは絶大だ。

さてその検察に対し、たとえば民主党は捜査取り調べ段階での完全可視化を要求していて、部分可視化に留めたい検察と対立している。弁護士出身も多くて裁判員制度自体も見直すと言っているし、裁判員制度に向けたショーアップされた刑事裁判も問題視している。検察有利の現在の裁判や今度施行される裁判員制度にとって、民主党は批判勢力、政権につけば少なくとも現在の検察には不利だ。

さらに小沢の政権交代構想は、100人からの民主党議員を政務官に任命して格省庁に送り込んで監視することと、予算配分を旧来の各省庁からの要請額を財務省がまとめてそれを政権が認定するという自民党の旧来の方式を改め、政権の政策優先順位に沿って割り振りすると言っている。これは官僚組織にとって、マスコミがそこだけとりあげている天下り禁止と人事システム改革よりももっと怖い晴天の霹靂だ。そして他の民主党幹部はともかく、小沢一郎は少なくとも本気でこれをやろうと試みくらいはするし、それだけの知能や政治的腕力もある。だから官僚機構にとっては、小沢政権だけは避けたいことだというくらいは、簡単に分かる。なのにテレビや新聞は、これまで霞ヶ関批判を繰り返して来たというのに、あたかもこの騒動が自民対民主の政権闘争なのだ程度の報道しかしていない。

なぜなんだろ? 

そして内容は捜査当局のリークに頼りっぱなし、今後の裁判員制度導入に向けていかにも不安になるような報道手法に依拠しっぱなし。

そのリークの出し方も凄い。

裁判とか法の執行よりも、政治的に小沢を葬り去ろうという情報操作があからさまだ。まず小沢事務所から「西松建設宛」の請求書を押収という「関係者によれば」報道をやらせていったんは「確認していない」と否定。そういう情報は大きく出ないところで、今度は「住所が同じ請求書」が出たとのリークを報道させる。これであたかも小沢事務所が西松に献金を無心していたかのようなイメージだけが広がるのだが、ダミーとされる政治団体は西松のOB有志の団体。ダミーでなくても企業のOBなどの団体が独自の事務所等を借りたりすることはめったになく、本社の秘書室などを連絡先住所にしていたりするのは昔からよくある話だ。法的証拠としては小沢氏の秘書の逮捕容疑である「虚偽記載」の要になる「ダミーと認識していたかどうか?」の物証になりようがない(住所が同じでも当たり前だと思うはずだから)のだが、あたかも決定的証拠のようなイメージだけは振りまかれる。

実際には、現行の政治資金規正法にのっとって収支をオープンにしようとすれば領収書はちゃんと出すし請求書だって出して手続き的にきっちりするだろうし、口約束で頼むよりもちゃんと文書で献金を頼んだ方が、本当はスッキリしてむしろクリーンなほどだ。

個人的には企業献金がいいことだとは必ずしも思わないが、現実には企業のような資本力なしに政治献金なんて出来る人間は限られているし、個人が献金するような社会では日本はない。企業献金はダメだと言う人は自分で支持政党や支持する政治家に献金する気があるのかと言われれば、答えようがない。資産があればするかも知れないが、政治よりはユニセフにでも寄付してしまう方がすっきりするし。

実際には自民党も民主党も、国民新党も、ほとんどがなんらかの企業活動や経済活動を代表する組織からの献金だろうし、それぞれの業界と縁の深い政治家に献金するのは、直接の見返りはなくてもその業界の政治におけるプレゼンスを大きくするだけで間接的にはその業界の利益になるが、それが国民にとってマイナスだから止めさせるべきだとまでは言いきれない。経済活動だって世のため人のためという側面もあるのだし、戦後日本なんてそれこそ「日本をよくしよう」と思って会社戦士たちは頑張って来てもいたのだし。その価値観自体に疑問を持って共産党や社民党のいう企業献金全面禁止を支持する選択もあるのはもちろんだけど。

でも共産党や旧社会党、社民党に政権担当能力はなんとなく期待されないのも日本の政治風土だ。差別的な言い方で恐縮だがそういう理想主義政党はやはり「女子供が支持する」みたいに見られ、現実に対応できない代わりに批判者としての役割を期待するのがぶっちゃけた話一般常識だろうし、実際にそういう政策能力がある政党では必ずしもないだろう。

一方で政治にはお金がかかるのだ。

政治マスコミは政治家に入るカネは批判しても、出るカネについては偽善に走って、選挙事務所を取材しポスターやCM作りまでテレビで流しても、そこでどれだけお金がかかっているのかは報道しない。もちろんお金のかからない選挙にした方が国民にはいいと思うが、それだと選挙期間のニュースや新聞で報道するネタが減るのはマスコミじゃないか。

いや選挙でかかるお金は減らして欲しいが、政策を作るのだって情報がなければ作れない。野党だって政府の政策の問題点や疑惑を追及するのは相当な情報収集が必要だ。与党であっても、官僚とのバランスをとるためには独自の情報網を持たなければ、官僚からの情報を鵜呑み・丸呑みにして政策立案をすることになってしまう。ちなみに共産党が疑惑追及になるとがぜん調査力を発揮するのだって、あそこにはけっこう資金源が(赤旗しんぶんの売り上げだとか、党費だとか)あるからでもある。たとえば民主・長妻議員が年金問題や建築偽装を追求するのなら、まず様々な書類を入手し、その膨大な資料を読み込まなければあそこまで出来ない。そのためにはスタッフが必要だし、スタッフには人件費だってかかる。事務所などのスペースも必要になるだろう。いずれもお金がかかることなのだ。逆にそうした資金源を断つことは、官僚が政治判断に関する情報を独占して政治の判断をも左右できる力を与えることにもなる。

そりゃ数億の資金を持って政治活動ができるのはうらやましいけれど、ポケットマネーにしてるわけでもなし、やっかんでヒステリックになってみたところでかえって国民が損することになるんじゃないか。

世の中そんなもんである、良くも悪くも。

3/05/2009

高山明演出『雲。家』

一昨日からの真山青果『元禄忠臣蔵』つながりで日本ナショナリズムの検証ってことですと、昨日から友人の高山明さんによるイエリネクの『雲。家』の日本語舞台版が再演されています。初演で見たときには異様な迫力に圧倒され、今回の再演のためにこんな解説を書きました。

今週末まで公演してますのでぜひ。
http://festival-tokyo.jp/program/clouds/


高山さんには今度は日本ナショナリズムのテクストで舞台を作ってもらいたいところ。たとえば『元禄忠臣蔵』の第二篇、極度に理屈っぽいのに理屈が通ってない論理劇「最後の大評定」なんておもしろいんじゃないかと。無責任な思いつきではありますが、一見みごとな理屈のようでいて、なんでそうなるんだというこの妙なド迫力…

溝口健二『元禄忠臣蔵・前篇』(1941)
河原崎長十郎(大石良雄)


忠義とはなんなのか、なにが忠義の道なのか? 吉良を打ち損じた主君・内匠頭の遺志を継ぐのは主君への忠義だが、一方でより上位の忠義の対象となる将軍・幕府の名誉を内匠頭は損じたことになるし、なにしろ勅使御供応役の職務の最中だったんだから天皇に対して非礼ということにもなるし、と延々と議論が繰り広げられるのだが、結論はこんな感じ…。

小野寺十内:まだある、内蔵助どの、御聞きなされ。これはお噂申すも勿体なき事ながら、貴き御簾(おんみすだれ)のうちよりのお言葉に、内匠頭一念達せず不憫なりとの、御声を洩れ…承った者があるのじゃ 。
(真山青果『元禄忠臣蔵』
岩波文庫版、上巻84ページ)

この言葉に内蔵助は感極まって思わず御所の方角にひれ伏し、仇討ちを決意するわけですが、「漏れ承った」って、要するに単なる噂ぢゃんか…。映画版に至っては、依田義賢の脚色で「噂を漏れ聞いた」という台詞で、ただそれだけ、噂があったという報告だけで、それでもこの写真のようなことに…。

いやもっとわけが分からないのが「御濱御殿綱豊卿」。儒学者・新井白石を重用した次代将軍候補・甲府公綱豊の説く忠義と天下公論のもののふの論理って、妙に説得力があって言語化不能な日本的倫理を見事に言語化しているとも言えるのだが、でもよく考えるとまったくの倒錯にも聞こえるし…。なんなんだこれはいったい?

溝口健二『元禄忠臣蔵・後篇』(1942) 徳川綱豊(市川右太衛門)富森助右衛門(中村翫右衛門)

真山版忠臣蔵の白眉ともいえるこのパートは、他の忠臣蔵にはないまったくのオリジナル。ものすごく美化されているのだけどものすごく不条理。またそこで甲府公が演ずる能の演目が舟知盛、っていうのが気が利き過ぎているほど皮肉なのだが(この場合、念頭にあるのは謡曲以上に、忠義をめぐる異様な論理が展開する浄瑠璃『義経千本桜』の舟知盛なんだろうな…)、この論理を超えた倫理の不条理にこそ美を感じる我々日本人って、いったいなにものなのだろう?

吉田喜重『戒厳令』(1972) 三國連太郎(北一輝)


あるいは北一輝が最近注目されているが、国家主義・天皇主義なのになんだか共産主義でもあるという、よく考えるとわけが分からない…。

写真はそのわけの分からなさがそのまま映画になった吉田喜重の異様な傑作、『戒厳令』、北が「天皇の目が怖い」と叫ぶ不条理映画。

大島渚の未撮影の脚本『日本の黒幕』(共同脚本・内藤誠)も、舞台にしてもかなりおもしろいかも…。

溝口健二『元禄忠臣蔵・前篇』(1941) 連行される浅野内匠頭

3/03/2009

『元禄忠臣蔵』溝口健二/国立劇場/歌舞伎座

映画『元禄忠臣蔵』は松の廊下のシーンのために江戸城本丸御殿を実物大で再現してしまったとか、討ち入りシーンがないとか(ちなみに上のスチル写真の内匠頭が吉良を斬りつけるところも、原戯曲では襲ったその後しかない)、溝口健二の演出そのものを論じるわけではない表層ばかりで話題になる呪われた映画である。美術・水谷浩の指揮下に「建築監督」なる異例の役目を勤めた新藤兼人氏が著書『ある映画監督』(岩波新書)などで、男性を描けない、とくに武士を理解できない溝口が実物大セットの表面的なリアリズムに逃げたと言わんばかりの酷評をしていたり、陸軍省のスポンサードで日米開戦の直前に公開された国策映画だとか、しかも興行的にはヒットしなかったせいで溝口の戦中戦後スランプ期の始まりのような受け取り方が一般的評価になってしまっている。

江戸城実物大セット建設を指揮する新藤兼人

溝口がこの映画にえらく悩んだのは事実らしい。岩波文庫版の原作の解説では、著者・真山青果の娘・美保氏が、溝口が真山邸をしょっちゅう訪れては父と話し込み、「しかし先生、いかにも大変な仕事です。手にあまる仕事でございます」と繰り返していたと述懐している。その真山美保氏の演出、初演時の伊藤喜塑の美術(ちなみに映画美術では溝口の戦後の名作『雨月物語』『山椒大夫』を担当)を再現した舞台が、今月の歌舞伎座の三月大歌舞伎で昨日から上演中。2005年に国立劇場で上演されて同劇場史上最大のヒットとなったので、好評に付き再演といったところか、悪評プンプンの歌舞伎座建て替え前の、現・歌舞伎座さよなら公演の一貫。

国立劇場版では大石内蔵助を赤穂城最後の大評定までを中村吉右衛門、山科隠遁期の内蔵助を襲名したばかりの坂田藤十郎、江戸に移動してから討ち入り、終幕の大石最後の一日までが松本幸四郎のキャストだったが、今回は完全上演ではなく、赤穂苅屋城・最後の大評定と終盤・大石最後の一日を幸四郎、山科隠遁期の部分は上演されず、南部坂雪の別れを市川団十郎、仙石屋敷は片岡仁左衛門というキャスト。仁左衛門は御濱御殿綱豊卿で徳川綱豊も演じていて、ちなみにこの役は溝口の映画版では市川右太衛門。映画では他に大石最後の一日でうら若き高峰三枝子もゲスト出演しているが、主なキャストは松竹映画だというのに前進座総出演−−前進座と言えばPCL映画(のちに東宝に発展解消)製作の、山中貞雄の遺作『人情紙風船』など、東宝系と提携した映画が多く、だいたいそもそも松竹と袂を分かって独立した前衛的(というか社会主義的)歌舞伎集団である。挙国一致の体制もあるだろうが、前進座を選んだのは溝口の慧眼であろうか?

大石内蔵助良雄を演ずるのは河原崎長十郎。その抑制され尽くした演技が素晴らしい。前進座のもうひとりの重鎮、中村翫右衛門は濱御殿綱豊卿が大きな見せ場になる富森助右衛門。今の中村梅雀さんのおじいさんですね。長十郎・翫右衛門コンビといえば、『人情紙風船』の浪士・海野又十郎と髪結い新三、やはり山中貞雄の『河内山宗春』や、他にも『阿部一族』などの映画で有名。

まあそんなキャスト紹介などの解説なんてどうでもよく、誰がなんといおうが『元禄忠臣蔵』は傑作である。溝口の最高傑作かも知れない。真山青果の戯曲も当時の江戸城や吉良屋敷の図面やら地図やら、資料がたっぷりついての出版で非常に歴史考証が細かいのだが、溝口の映画がセットだけでなく衣装、髪型など徹底的に時代考証と史実にこだわっているのも、進藤兼人が言っているような理由よりは、真山青果の精神を踏襲しようという試みと考えるべきだろう。討ち入りがないのも、実は原作の通り。

御濱御殿綱豊卿 徳川綱豊(市川右太衛門)
富森助右衛門(中村翫右衛門)


映画版ではあえて時系列を無視して、後編の冒頭に配された濱御殿綱豊卿で、右太衛門の見せ場としてちょっとした立ち回りがある以外はアクションがほとんどないのも、真山青果の原作が重厚な論理劇、政治的/倫理的ディスカッション・ドラマとして構築されていることをそのまま踏襲している。この前にもこの後にも忠臣蔵は映画でもテレビでもさんざん映像化されているが、恐らくここまでリアルな忠臣蔵はなく、そしてそれは単に表層の問題に留まらない。赤穂浪士、ひいては江戸幕府体制が確立した元禄期の武士の精神と倫理の構造について恐ろしくリアリであり、そして国策映画として忠君の精神を盛り上げるために陸軍省が関わった映画でありながら、その忠義について恐ろしく冷徹でもある。

溝口健二 (1898-1956)

今見ると江戸時代中期という時代精神についてだけでなく、この映画が作られた第二次大戦直前の日本という社会を覆う精神についても、これほど見事な作品はといえば、あとは文学でやはり忠臣蔵神話を扱った(というか見事なまでに呆気なくひっくり返した)野上弥生子の『大石良雄』(岩波文庫刊)を挙げられるくらいかも知れず、それは集団的狂気とか忠君愛国ファナティズムといったかっこうで片付けられるものではまったくない。2005年国立劇場公演の『元禄忠臣蔵』では忠義と自己犠牲の論理が繰り返されることが、とくに第一部の吉右衛門の心を打つ名演で観客の号泣を誘ったのだが、これと比較すると溝口の演出と、大石役・長十郎のやっていることの凄さがより際立つ。まったく泣かせてくれないのだ。

南部坂雪の別れ 遥泉院(三浦光子)にご機嫌伺いを装って同志の仇討ち血判状を届ける大石(長十郎)

むしろ内蔵助たちの忠義の論理が議論で戦わされ、言葉で繰り返されれば繰り返されるほど、その論理自体の空虚さ、それが論理であって決して本心の心情ではないことが、溝口一流の引きのロングテイクによる凝視のなかに浮かび上がる。「心情が分からない」だから「共感できない」などの苦情はよく聞かれ、この映画を評価するごく一部の人々ですら主に溝口的な長廻しの形式的完成によってこの映画を讃えているのだが、いやこの映画の凄さは実は単なる形式の問題ではなく、ドラマの必然なのだ。溝口がここで映し出すのは、武家社会の倫理という論理にがんじがらめにされ、そこから逃れることが出来ない人間たちなのである。彼らは彼ら自身が口にする言葉によってがんじがらめになっているだけでなく、厳密な時代考証で再現された彼らの生存空間によってもがんじがらめにされている。実物大のセットもまた、江戸城という巨大な威圧的空間のなかに押しつぶされて人間性を失った武士たちを見せるための必然なのだ。

残菊物語
(1939)


戦前の溝口のなかでとりわけ評価の高い『残菊物語』でも、献身的なヒロインお徳の顔がほとんど映らない。お徳の献身に素直に感動してもいいように『残菊物語』はまだ作られているのだが、『元禄忠臣蔵』の溝口はそれを許さない。江戸城御本丸松の廊下での内匠頭刃傷事件のあと、内匠頭に切腹の沙汰が下される時、決定を読み上げる幕府側の使者に対してそれを聞く浅野家側は、10分近い長いフィックスショットのシーンの間、ずっと平身低頭状態だ。一見垂直の線と水平の線だけで構成される日本的建築空間にはしかし必ず上位の場と下位の場、上座と下座があり、そのなかの人間の位置関係が常に、身分と社会的・政治的に上位か下位かが反映されなければならない。我々は未だに、ほとんど無自覚にそのような位置の感覚を日常的に実践している。

大石最後の一日
内蔵助(河原崎長十郎)、堀内伝右衛門(中村鶴蔵)、おみの(高峰三枝子)


その社会の構造を常に映画に反映させる溝口の演出は『残菊物語』でもかなり徹底されているのだが、『元禄忠臣蔵』では顔が写るのは主に後編でいわばゲスト出演の右太衛門と高峰三枝子くらい。溝口が注目するのは感情表現の表層としての顔ではなく、むしろ背中を見せるショットが多いのは、武士の背中であれば着物に家紋が入っているからではないか。個人よりも家、人間は自分自身よりも家と身分を体現している、そういう社会を、そしてそこにがんじがらめにされた人間たちをこそ、この映画は見せる。

大石最後の一日で、男装に身をやつした高峰三枝子が大石に恋人の助命を必死で訴えるときだけ、この映画でほとんど初めて、サイレント時代の『瀧の白糸』や『折鶴お千』のように、あるいは戦後の『雨月物語』や『近松物語』のときのように、溝口のキャメラは突然、流麗な移動を開始する。

泉岳寺 左から富森助右衛門(中村翫右衛門)、大石内蔵助良雄(河原崎長十郎)、不破数右衛門(加藤大介)

3/02/2009

闘う映画/旅する女優/ジュリエット・ビノシュ

東京日仏学院で女優ジュリエット・ビノシュを特集するそうです。今年のフランス映画祭の団長さんなんだそうで、だから特集しなければならない事情だったりもするんだろうが、フランスのスター女優としての有名作品だけでなく、女優ビノシュの挑戦とも言えるハードコアな、それも外国の作品をちゃんと潜り込ませているのがさすがは日仏学院映画部門です。

しかもそのうち一本はたぶん、これが日本初上映。最近日本でまったく近作が公開も上映もされないアベル・フェラーラの超弩級問題作『マリア Mary』。いやこれがおもしろいんだ、相変わらずのフェラーラ流、ぶっきらぼうにして豪速球に過激で。

苦悶するカトリック映画作家アベル・フェラーラがとりあげるのは、マリアはマリアでも聖母マリアではなく元娼婦マグダラのマリア。実は聖書考古学の最新研究では初期キリスト教ではマグダラのマリアがペテロ、パウロと並ぶイエスの最重要弟子だったという仮説が有力になっているらしく、この映画はそれを前提に,かなり傲慢なアメリカ人映画監督(マシュー・モディーン)が主演も兼ねたイエス伝映画の撮影を終えるところから映画が始まる。

   

監督はニューヨークに戻るが、監督の恋人でマグダラのマリア役を演じた女優(ビノシュ)は割り切れないなにかを感じてロケ地のイスラエル、パレスティナに残る。ニューヨークではTVの人気キャスター(フォレスト・ウィテカー)がキリスト教の意味を問い直すトーク番組を企画、監督に出演をアプローチする。三人の彷徨のなかに中近東、アメリカそれぞれの現実を覆う暴力の罪と罰を問うフェラーラの、『バッド・ルーテナント』以来の渾身の,荒々しい力作。

もう一本は東京フィルメックスで一昨年に上映されて絶賛された傑作ながら、やはり公開はされそうにないアモス・ギタイの『撤退 Disengagement』

   

そういえばどっちもイスラエル/パレスチナがらみですが、ビノシュ女史は中近東問題にもすごく関心が高いそうで、ギタイの前作『フリー・ゾーン』も当初は彼女が主演候補だったそうですが、自分が登壇して質疑応答をやる映画に選んだのも、『撤退 Disengagement』。日仏学院で、フランス映画祭関連イベントでも、イスラエル映画をクロースアップするというのは根性あります、この人(あともちろん、日仏学院の坂本さんもエラい)。

「ジュリエット・ビノシュ レトロスペクティヴ - 映画と共に旅をする女優 -」は今週末から。詳しくはこちら http://www.ifjtokyo.or.jp/agenda/festival.php?fest_id=56