最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/29/2009

大阪で即興劇映画を撮ろうと…というわけでとりあえずものは試しで大阪へ…

しかし「みどりの日」だとばかり思っていたら、いつのまに「昭和の日」なんだそうです。なんだそりゃ? いっそ「文化の日」も「明治の日」に改名しちゃったりして…。

今日はこれから大阪に向かいます。7日か8日まで滞在する予定で、先日から書いてる『ぼくらはもう帰れない』大阪版?、一応動き出すわけですが、さてどうなることやら…。とりあえず今回はワンシーンか、2、3シーン撮るだけですが、なにしろそのひとつは強引に10分間長廻しのワンシーン・ワンカットという野望(汗)。さてどうなることやら…。

もう少し真面目に書いた企画書を、ウェブ上にアップしておきました。このリンクでご覧下さい。

興味ある方は、いちばん下に連絡先書いてありますので、直接ご連絡頂いてもけっこうです。

うまく行ったらウェブ上にアップして、参加者募集と資金集めなどに使う予定です。こちらでも見れるようにしますので、お楽しみに。

ところでこのページの左下に、Youtubeなどで見られる、なかなかDVDなどの入手が難しい映画をリストアップしていたら、すごい量になってしまった…。

なかでも珍しいのはたとえば

『乾いた人生』ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
『人形の家』ジョセフ・ロージー
『夕陽に向って走れ』エイブラハム・ポロンスキー
『シャーロック・ホームズの私生活』ビリー・ワイルダー
『ピンキー』エリア・カザン
『ルナ』ベルナルド・ベルトルッチ
『驚愕の十年間』クロード・シャブロル
『真夜中』ミッチェル・ライゼン
『ウディ・アレンと会う』ジャン=リュック・ゴダール
『フロイト〜隠された欲望』ジョン・ヒューストン
『グリード』4時間半復元版 エーリッヒ・フォン・シュトロハイム
『ファルスタッフ 真夜中の鐘』オーソン・ウェルズ
『三文オペラ』フランス語版(G.W. パブスト)
『殴られる彼奴』(ヴィクトル・シェーストレム)
『笑う男』(パウル・レニ)
『百万ドルもらったら』エルンスト・ルビッチ他
『白貂を着たご婦人』エルンスト・ルビッチ
『くたばれヤンキース』スタンリー・ドーネン


Youtubeで初めて見るのもなんだか、とも思いますし、著作権がどうなってるのか知りませんで、もしDVDとか入手可能なら、決してこれらのリンクで見ないように。でも他に見られないんじゃ…。

なお拙作の短編・抜粋・予告編などはこちらこちらでどうぞ♪ 『ぼくらはもう帰れない』の抜粋も幾つかあります。

4/23/2009

集団即興の映画で “遊んで” みたい人募集@大阪

先日のエントリーより承前。

…というわけで中央駅前に真っ赤な観覧車がある都市、大阪(^^;)で「みんなで作る」集団即興のフィクション映画を作りたい、と考えているわけで、俳優さんでもまったく演技未経験でも、いろいろな人に自薦・他薦を問わず、もちろん僕にとって初対面の人も含めてぜひぜひ参加して頂きたいので、もう少しいろいろと説明を試みてみます。

まずはシネドライヴ2009@プラネット+1での二度の上映を見逃した方のために、『ぼくらはもう帰れない』の冒頭シーンです(いずれ今年中にはやっと劇場公開する予定ですが…)。



 註)QuickTimeを入れている人はこちらのリンクの方が奇麗です。

こちらが2005年ごろに東京で撮った集団即興実験で、2006年にはあちこちの国際映画祭でいろいろ評判になっちゃったわけですが、この延長上にできそうなことを、今度は大阪で実験してみたい、というわけです。

ちなみに『ぼくらはもう帰れない』は即興だけでなく、この抜粋にしても写ってる出演者はみんな演技初体験、いわば「素人」、英語でいえばNon-Actorであることもウリでした。なんで素人がこんなことできるんだ、いや逆に素人でないとできないなどなど、とにかく「驚くべき演技」というようにずいぶん話題にもなったのですが、今回は演技初体験の人もいれば俳優の卵はもちろん、ギャラの目処はまだないものの(あとはプロデューサーがちゃんとついてくれるかどうか次第)、可能なら経験豊富なプロの俳優の人と素人が混ざったらどうなるか、ということも実験してみたい。

参加する人にしてみれば演出(総合演出というかまとめ役、別名「交通整理のお巡りさん」)の側でどういう撮り方、映画の作り方をするつもりなのか…というところを説明されないことには、なかなか参加してみようかとは思ってもらえないのだろうが、しかしさて、どうやって説明すればいいのやら…。「即興」と言うとカッコよく響くのだけど、平たく言うと要はすべて「なりゆき」、怠け者が映画を監督するのには最適な方法だったりするわけですが(汗)。

即興ということはつまり、事前には具体的にはなにも決めない、台詞もなにも、撮影現場で作り上げて行くことです。といって本当になにも決めないと本当になにも撮るものがなくなっちゃうので、どこで撮るどの場面にどの人物とどの人物とどの人物が登場するかまではさすがに決めてますが、もっとも予定してなかった人物を演じる人が現場に一応来ていたらその場の思いつきで出演することになる、というのはあったか…。なんだかはっきりしないですみません。出演者のあいだでだいたいどんな流れかは話していても、相手をダマして裏をかいて突然違うことをやっちゃう、というのはアリ。

というか、その方がおもしろい展開になったりするので、後はキャメラがちゃんとついていけるかどうかですが(汗)。映画はあくまで画でみせるものですから、そりゃちゃんと撮れていないとお話にならないので。

さすがにすべてキャメラの前で起ったことをぶっつけ本番一回きり、ではなくうまく行くまで何度も繰り返すことはあります。一発目でうまく行ったらそれに越したことはないわけですが、一応別のパターンもやっておこう、みたいなことも…出る人次第ですね。基本的にキャメラの反対側、演出の側から「言う通りにやれ」ということは…どこに立ってどこからどこまで動くかくらいは、指示しないと撮れない場合もありますしどうせならカッコよく撮らなければ意味がないので臨機応変に調整はしますが、キャメラが廻ったら出演者が好き勝手やっていいことになります。

んでもって上の冒頭シーン抜粋見れば分かるように、廻り始めたらこの場合3分間はずっと廻ってるので、そのあいだはどうぞご自由に、そうやって好き勝手やったら上の抜粋みたいなシーンが簡単に撮れてしまうんです、どうです楽でしょう?(…ということにしておきます、今のところ。絶対に『ぼくらはもう〜』出演者からは「嘘だ」と言われるんだろうけど…)。

じゃあそこで撮る時に「どの人物とどの人物とどの人物」って、その「人物」ってどういうことよ、と必ず突っ込みが入るんでしょうね。ハイおっしゃる通りです。お話の順番が逆でした、すみません。

登場人物は、参加したい、出演したいという人が、持ち込んで来ます。キャメラのこちら側、演出、つまり僕の側からはなにも提示も要求も、押し付けません。アイディアくらいは出したり、提出されたストーリーについて相談には乗りますが、まず「自分はこういう人物を演じたい」あるいは「自分自身のこういう体験が」が映画の出発点、つまり普通の脚本があってそれに合わせてキャスティングして、という普通の(大なり小なり演劇的な)やり方とはまったく逆のプロセスをやるわけです。

参加したい、出てみたいという人には、というわけで「演じてみたいストーリー」をまず持ち込んで頂きます。

「ストーリー? 人物じゃないの?」と訊かれそうですが、その疑問はまったく正しい。

でも、じゃあ「人物」ってなによ? …となるとよくプロの俳優では自分の演ずる人物の履歴書を作る、というテクを使うのですが、履歴書読んで本当にその人の人となりなんて分かるんだろうかというと…。分からないでしょう。「長所」で「明るい性格、楽天的、協調性がある」と本人が書いても、人が見たらまったくそうは見えなかったりするし、実際に協調性が必要な場面で協調性ゼロで行動したりもするだろうし、「楽天的」なはずなのに壁にぶち当たって暗く落ち込んで鬱病になったりするかも知れない。実は鬱病になってみて初めて自分が真面目で誠実で一生懸命なぶん、鬱病になり易い、精神科医の言う親メランコリー的性向だったことに気づくなんてことも、実はよくあることのようです(だいたいなる人に限って、「まさか自分が」と思っている)。

今時の世の中に蔓延する「個性」をめぐる幻想だと、内面にある個性とそこから来る一貫した意思によってその人間の行動は規定されていて…ということになっていて、いわゆるメソッド演技ではそれを「貫通行動 Main Action」と呼び、その内面から出発して実際の行動が決まってくみたいな方法論なわけですが、たぶんそれは、我々が現実を生きている感覚とは実は異なっているはずだ。だいたい人間の「内面」なんて外からは見えない(まして機械であるキャメラには写るわけもない)わけで、我々は他人の外側に見える行動や表情、しゃべり方などなどによってその人がどういう人物なのかを推測するわけだし、では自分の気持ちはどうかと言えば、それだって本当にどこまで自覚できているのかは怪しいのが正直なところ。だいたい人間というヤツはどうしようもなく言葉で考えるように出来ている生きものだから、自分の気持ちだって頭のなかで言葉を使って自分に説明して納得させているものだ。

小難しく論理学の用語を使えば「帰納法」か「演繹法」の違い(…って中学の数学で習う話だった。えばることじゃない…)ということになるんでしょうが、たとえば自分がどういう人間かを知るときに、心理テストだとかだったら「こういう時にあなたならどうする?」という質問に具体的な行動を推定して答えるわけで、逆に言えばどういう行動をとるかによって初めて自分がどういう人間かが見えて来るというのが、現実だ。しかもそういう人格というもの自体が、周囲で起ったことに対するリアクションとしての行動から決まって来る。

それどころか、下手すると自分で信じ込もうとしていることも多々あるのが実際の人間だろう。たとえば「愛している」という感情なんて、その典型だったり、とくに夫婦の倦怠期だとか、新婚後の幻滅とか(…というときに思い込み、信じ込みに囚われると、鬱病ならまだいい方で、下手するとDVや殺人事件になるような話が、最近とても多い)。実は我々は、自分のことだって自分の行動から理解しているに過ぎないわけで、さらにはハタから見たら分かり切ってることが自分では分かってなかったなんてことすら、後で気づいて身に覚えがある人も多いのではないでしょうか?

…というわけで人物を持ち込んで頂くにあたって、その人物の流れをストーリーとして持ち込んで欲しいわけです。なに、ストーリーといってもどういう形式でも構いません。小説みたいな形でもいいですし、原作権のことは追々考えるとすればもっとも共感した、もっとも自分に近い、「これは私そのものだ」と思った小説を持ち込んで下さっても構いません。もちろん映画や演劇の台本の形式でもいいし、ペラ一枚くらいのあらすじ、こっちの業界用語でいうシノプシスでも構いません。なにも起らない人生だから物語にならない、というのなら詩みたいな形式でも、そこに時間の流れがなんらかの形であればそれでも構いません。お話の展開がなくてもただ「こういうことをいつもやってる人間」でも、そこになにかのアクション(単なる身体の動きでもいい)があれば、それで構いません。

自分のこと、いわゆる自伝的ストーリー、あるいは自分にこんなことが起ったらどうするだろう、と考えて書くのがいちばん楽でしょうし、「実はこういう人間になりたい」あるいは「やってみたい」ということで自分からかけ離れた話でも構いません。心配しないでも「こういう人を演じたい/なりたい」と思っていることそのものにあなたという人格の一部が現れているのですから、出発点としてはそれで十分です。

なに、それがそのまま映画になるわけでなく、そうして持ち込まれた複数の人物が大阪という都市のなかで出会ったりすれ違ったり、並行して参加する人がみんなで話し合ったり相談したり議論したりして映画を作って行くのですから、だんだんいろんなことが見えて来て、人物像が絞り込まれて行くことになるはずですから。心配しないでも、実際にそれが出来て「立派な映画」(黒沢清監督のコメント)として出来上がることは『ぼくらはもう帰れない』で証明してますから(しかも国際的にはけっこう評判になったり…)。

…と、ここまでが『ぼくらはもう帰れない』を始めたときの「ゲームの規則」だったわけですが、今回は大阪でやるに当たってもう少し発展させたいと思ってます。

まず僕は大阪をよく知りませんから、「こういう話だったらここでやろう」というほど土地勘がないので、その人物がどこに住んでいるかどの辺りで仕事しているかして、だいたい大阪のどの辺りで主に出没するのかは、基本的に大阪の人、出演者に決めて頂かなくてはなりません。とはいえ自分で決めなくても、ストーリーが提出されたあと参加者全員が目を通してディスカッションやワークショップみたいなことをするので、そこで他の人から「ここがいいんじゃない?」みたいな話が出て来るのは大いにあり得ますが。

あくまで「みんなで作る」集団製作による即興の積み重ねですので。

大阪地元でキャメラのこちら側で協力してもらう予定の人もいますので僕だって多少は相談し教えてもらって意味がわかるように努力はしますが、一方でなんで今回大阪でやろうと思ったのかと言えば、「大阪という街をもっとよく知りたい」からというのが素朴な動機のひとつですから。

もう一点、これはちょっとハードル高くなるかも知れませんが、持ち込むストーリーにはどこかで「殺す」というアクションを入れて下さい。『ぼくらはもう〜』はコメディだったので今度はちょっとスリラーにしよう、といういい加減な思いつき? う〜む、確かに「思いつき」なのでなぜその要素が、というのは後付けの説明にしかならないのですが、このブログの昨年6月分のこの辺りからちょっと読んで頂いたり、このラベル検索タグでチェックして頂ければ、あとこのエントリーに引用している『ぼくらはもう帰れない』の監督ステートメントを読んで頂ければ、そんないい加減な思いつきだけではないと納得して頂けるんじゃないかと…。一応再引用しておきますか…。

 完成以来2年も経って、まだ日本でほとんど上映していないこの映画に、最近ある空恐ろしさを感じる。もちろん物騒な事件などなにも撮っていないし、どれだけみんなが笑ったかがNGかOKかの基準だったほどの、お気楽なコメディだったはずだ。

 でもたぶんに無意識ながらも、ボクらの記憶に共通する事件があった——宅間守死刑囚だ。子どもを殺すのだけは絶対に許せないという一点を除けば、ボクらにとって、宅間は必ずしも理解不能な存在ではない。

 『ぼくらはもう帰れない』には「ゆとり教育」を信じる気にもなれず、小泉純一郎の狂騒にも付き合いきれなかった日本が写っている。そこには宅間守的な孤独と疎外感に通じるものも確かにある。

 その上で“ああいう風には絶対にならない”方向のギリギリのところを必死で探ったのが、ボクらの即興プロセスだったのかも知れない。

 一方で小泉後の日本はボクらのフィクションとは別方向に進んでしまい、加藤智大容疑者の秋葉原の事件が起こった。ついそう思ってしまう怖さも、このお気楽なコメディのはずの映画に、今は感じてしまう。

藤原敏史、2008年7月

横浜黄金町映画祭のための監督ステートメント


…といっていかに “時代の気分” だからって別に「人殺しを演じろ」というわけではありません。ただ「殺す」だけで誰を殺すんでもなにを殺すんでも、どういうふうに殺すんでも、誰を殺すのかも動機もどうやっても、まったくの自由です。

だいたい、参加者全員が他殺とかテロとかやってたら、スリラーどころか黙示録的スプラッターになってしまいますなぁ…。あと世の中やっぱり、どうやっても殺しなんてやりそうにない人というのもいるんでしょうし、どう見ても「殺し」なんてやりそうにない人に「殺し」を演じさせても、しょせんまったくの作り事に見えて使えないでしょうから、実際に演じ始めちゃったら「思いつく」「ふとそう思う」だけで終わっちゃう人がほとんどになるはずなんでご心配なく。

…と思っていたら、ラストは大阪が大規模テロで壊滅とかになっちゃったりして(^^;)。

…というわけで参加者を募集しますので、なんとなく興味をお持ちの方はコメント欄に書き込んで下さると助かります。こちらで承認しないと公開はされませんので、メルアドなどを知らせて頂いても大丈夫です。その希望を明記して下されば、拝見したあとコメントの方は削除して、こちらから連絡しますのでよろしく。また企画書の方も近々にまとめて、こちらにリンクを貼ってダウロードできるようにする他、開店休業状態の当ページ別館を活用することにします。

演出は現住所東京の出身がどこかよく分からない人間ですが(笑)、こういう方法論でこういう実験をやるからには、大阪が地元の映画にならなければいけない。そもそも映画なんて監督一人の妄想で出来るものだとは当ウェブ日記執筆者はまったく思っていないのだが、この企画はこれまで以上に、「交通整理のお巡りさん」としての能力を発揮することに徹することになるんだろう。

さすがに有名俳優やスターは出てもらえんだろうが…。ときには現実の街の雑踏なかに放り込むという撮り方からして、無理か…。いや意外といけちゃったりもしたりするかも知れないし、今までと違った側面、その人のもっと突っ込んだ本質的な魅力やなんかを引き出す映画になることだけは、保証します。それが今後の商売につながるかどうかは、やってみないと分かりませんが(^^;

まったくの演技初体験の人でもプロの方でも、怖くなったり嫌になってドロップアウトすることがあったり、あるいは途中で自分には合わない、居場所がないと本人が思ったら、それでは演出のしようがないのでこちらとしては止めたくても引き止められませんので。

だって強引にいてもらっても、それで使い物にならない芝居をされたら,演じてもらって撮らせてもらっても意味ないですから。つまり自分に対してもキャメラに対しても、もっとも正直であってもらえればそれでいいし、その環境をつくるのがいわば「交通整理のお巡りさん」としての当方の演出の最大のお仕事ですから、なにかを引き出そうとする(本人が自分で気づいてないことを含めて)ためにいろんな手を使うことはあるかも知れませんが、なにかをこちらの思い通りにやらせようとするプレッシャーのかけかたは、やりません。やったら失敗しますので。

ギャラが払えるかどうかが微妙なところではあるけど、そうか、有名俳優が出たらそれだけ製作費は集めやすく、公開もしやすくなるのか?

なんて夢みたいな冗談ホラ話はさておき…と言って、スターがおもしろがって参加して下さるぶんには本当に一向に構わないのではある。ただし扱いの上ではまったくの素人の出演者がいても分け隔てはいっさい、演出としてはいたしませんし(製作部的にはそれなりの環境はできるだけ提供しますが)、複数の主人公のなかでスターがスターだからより目立つことになるかどうかは、本人次第です。

プロの俳優さんでもその技術としての「演技力」にも、“スターや有名人” ということならそういううわべの、社会的地位のクオリティに頼るつもりはないし、頼れるような撮り方も演出も僕はできないので(ただ「巧く演じてる」だけだと、見ていてイライラしてNGになっちゃうので)、あくまで本人がキャメラの前でどれだけ頭と感性と身体を使いこなして役柄を通して自分のいちばんいいところ、おもしろいところをさらけだして下さるかどうかが勝負です。

映画というメディアは本来、人間としての魅力がすべてだし、作りもので「芝居」をしていると、本来映像に写っているのはその演技をしている人に過ぎないわけで、とくに即興の方法論ではその場で作り込める程度の技巧では、嘘が透けて見えてしまうことになる。もっとも、常に自分を演じている人間という登場人物としてはこういう映画のなかに存在できる可能性はあるのだが、よほどのことがないと必然的に脇役になっていくんだろうと思う。


最後に具体的なスケジュールなどを、今わかってる限りで説明しておきます(ってなんにも決まってないんですが)。

まずGW辺りに来阪(…って言うのか?)して1週間くらいで、この将来の長編のたぶんファーストシーン、とりあえず「こんなことやります」の名刺代わりというかプロトタイプで、10分間くらいのワンシーン・ワンカットを撮ります。ワンシーン・ワンカットだったら一日だろう、どうやって 1週間かけるんだ? いえいえ、5〜6日かけてこのシーンの登場人物の役柄を詰めて、1日で撮るんです。それに合わせて、すでに参加したいという人がいたらぜひお会いして、役柄を詰めるプロセスや撮影にも出来れば立ち会って下さい。

GWに撮るシーンはちょっとヒネって、出演者の実際とちょっと設定がかけはなれて、ファスビンダー『自由の代償』のワンシーンをベースにした即興となります。70年代のドイツと現代の大阪では当然ながらぜんぜん状況が違うわけで、その異質な設定をあえてぶつけたらどうなる、というのも興味の一部でして、ですから参加を考えて下さってる人も、必ずしも現代の大阪に限定して舞台を考えなくても構いません。かけ離れた設定のストーリーを大阪のどこにぶつけるかは、追々考えればいいんで。

だいたい、『ぼくらはもう帰れない』の発想自体が、ロバート・クレイマー『アイス』『マイルストーンズ』を21世紀初頭の東京でやったらどうなる? という出発点だったんだっけ。


  ロバート・クレイマー『ルート1/USA』(1989)

  Robert Kramer's official site http://www.windwalk.net/

*急な話ですが、『マイルストーンズ』は今度の週末に東京日仏学院で上映されます。
http://www.ifjtokyo.or.jp/agenda/evenement.php?evt_id=1437


さてその後はどうするかは…なりゆき…? 

いやまあ、そうとしか言いようがないんですが、これがうまく行けばちょこちょこと大阪と往復して、メーリングリストか掲示板を作るのでそこを使って遠距離でもいろいろ話をしながら、6月くらいから本格的に撮影に入りたいと思います。仕事がある人や学生さんも参加できるように、なるべく週末や夏休みを利用して撮影を進めることになると思いますので、撮り終わるのは秋くらいかな…。

とはいえ大阪と行き来するだけで交通費だけでも大変なので、今回はプロデューサーとか捜さないと…。というわけでGWで撮るものはそのためにも利用できればいいんですが…。

里程標 - あるいはひとつの終わり、そして始まり


ロバート・クレイマー&ジョン・ダグラスのマイルストーンズが、今週の土日に東京日仏学院で上映です。

 2009年04月25日(土) 10時30分
 2009年04月26日(日) 13時30分
 東京日仏学院・エスパスイマージュにて
http://www.ifjtokyo.or.jp/agenda/evenement.php?evt_id=1437
http://www.ifjtokyo.or.jp/agenda/evenement.php?evt_id=1438

昨年のカンヌでお披露目された35mmの修復版だそうで、必見。




しかしアメリカ映画なんだけどね。70年前後のアメリカのある世代の挫折と再生を見事に捉えたすばらしい “青春映画”。



「『マイルストーンズ』は火=空気=土=人間だ。70年代のアメリカを見つめると同時に、過去へ、そして未来へと旅する。これは再び誕生することについての映画だ―思想が、顔が、映像が、そして音が再び誕生することについての」
−−−ロバート・クレイマー


拙作『ぼくらはもう帰れない』(2006)も今企画準備中の大阪で撮ろうとしている映画も、集団即興という方法論からして、早い話がこれとクレイマーの前作『アイス』のパクり? 大阪でやる方はむしろ『アイス』に近い映画になるかも知れませんが。

生前のロバートとのインタビュー:
 http://www.boid-s.com/talks/56.php
 http://www.boid-s.com/talks/55.php
in memorium robert kramer (1939-1999)



あと今週土曜まで、アテネフランセ文化センターで、『フィールド・ダイアリー』『ラシュミア谷の人々』『殺人の闘技場』など、イスラエルとパレスティナの軋轢の本質を通して国家・民族に必然的に内包する矛盾そのものを底意地悪く(^^;)えぐりだす「イスラエルの山賊」アモス・ギタイの、ドキュメンタリーを特集上映中です。

4月23日(木)
14:00〜「ラシュミア谷の人々ーこの20年」(180分)
17:40〜「家」(51分)
19:00〜「フィールド・ダイアリー」(83分)

4月24日(金)
14:50〜「戦争の記憶」(104分)
17:00〜「殺人のアリーナ」(83分)
19:00〜「エルサレムの家」(89分)

4月25日(土)
14:30〜「オレンジ」(58分)
16:00〜「ラシュミア谷の人々ーこの20年」(180分)

ラシュミア谷の人々 - この20年 Wadi Grand Canyon (1981-1991-2001)

4/21/2009

大阪で即興演出の劇映画を撮ろうと考えています

実家の方で家族が入院したりでドタバタしていて放置していた項目をやっと更新です。先日ここで書いたように、大阪で拙作『ぼくらはもう帰れない』を上映しに行ったわけですが、なんだか好評だったようで三年前の映画だというのに賞までもらっちゃったらしい。

英語だと「Film Junky Award」となるのが、なんだか気に入ってます(笑)。以前にペサロ映画祭で「未来の映画」最優秀賞というのをもらっていてこっちはなんだかカッコよかったですが、「junky」ってのもね(^^;。大麻騒ぎぐらいで俳優をやっている息子を「役者を辞めさせる」とまで言い出す俳優の父親がいるこの日本のご時勢で。中村俊太っていう役者さん、サスペンスもののドラマのゲストくらいでしか見たことないけど、悪くなかったんだけどなぁ…。かなりもったいない…。使いようによっては、父親のような人気スターにはならないだろうが、俳優としては父親よりもずっとよくなる可能性も持ってそうな気もするんだけど…。

だいたい大麻をやったからお客の前に出る資格がないなんて言うなら…



このドキュメンタリー映画の主役たちも監督もどうする?

70年代とは時代が違うと言われればそうなのかも知れないけれど、それでもこの渾身の大傑作に至ってはコカインの過剰摂取で本気で死にかけたあとの、リハビリから生まれた映画だったんだが…。ドラッグに手を出すようなレベルなら、踏み越えちゃったからダメというのではなく、どう踏み越えたことをふまえて戻って来るかだと思うが。



そりゃやらないで済むならやらない方がいいものではあるけど、過ちや文字通り地獄を見たことも含めて、すべて背負い込むことからどう表現に生かしていくのかこそが問われるのが、表現者という稼業なわけであって、他人を怪我させたとかそういうことなら話は別だが、麻薬というのは自分を傷つけることだし、自己破壊の衝動みたいなことに敏感であるのは、表現者としてかなり避けられないことだろうに。

閑話休題。大阪の映画ファンの皆さんに衝撃を与えた(?)という『ぼくらはもう帰れない』の、その勢いというわけでもないのですが、この方向性の集団即興による実験的なフィクション映画の試みを大阪でやってみたらどうなるだろう? 大阪に滞在中からろいろ考えたり、人と話したりしていたわけですが、なんだか本当にやる方向になって来ました。

というわけでトップ写真は、たとえばこんな構図で撮れるよね、という見本のつもりで、フレーミングは1:1.85サイズのワイドスクリーン。ちょっと小さ過ぎるかも知れませんが、クリックすると大きくなりまして、そうすると右下に人物が映っているのが分かるはず。『ぼくらはもう帰れない』のとき以上に街並という風景のなかでどう人物を動かすのか、そのアーバンスケープを見せる映画にもしようとは考えています。そういう現代の大阪の街というものを、考えてみたら映画ではめったにみたことがないので。

…と思ったら、そういえば『ぼくらはもう帰れない』も、東京をこういうふうに生々しく撮った映画は珍しい、と言われたような気もするが、まあいいや。もう3年前に完成させた映画だし、撮影なんてあの郵政総選挙とかやってた頃(そこで当時わが地元の東京一区から出馬していた海江田万里氏の選挙演説なんてのも聞こえるわけです)だから、もう忘れた…。

ちなみに上の写真は、4月11日付けのブログでも終わりの方で取り上げた、大阪証券取引所のはす向かい、淀屋橋駅付近で発見した昭和初期モダニズム建築っぽいビル。

大阪証券取引所前。高層ビル化するにあたって、昔の建物のデザインを下のファサードだけはコピーして「伝統」を感じさせようという、その分かり易い発想がなぜかこんなキッチュな風景に。

右の写真もやはりどうも戦前のモダニズム建築がそのまま、当時はたぶん三菱銀行の支店だったのが今では三菱東京UFJ銀行の支店になっているのだろう。場所は大阪の天神さんの近く、アーケード商店街が終わったちょっと先です。

こういう建物がときどきなんの脈絡もなく…って一見ごちゃごちゃに見えながらそれなりに街並に脈絡があるのが東京だったり、多くの地方都市も東京の縮小コピー的な雰囲気があるのだが、大阪って街並の脈絡みたいなものをなんとかブチ壊そう、建物のひとつひとつが自己主張している感覚すらあって、脈絡もなく、ときには周囲から断絶するように存在している気がする。なにしろJR大阪駅/阪急・阪神などなどの梅田駅、つまり大阪の鉄道網の中心ターミナルの方を高速道路に向こうに臨んだら、なぜかビルのなかに観覧車が堂々とそびえ立っているのには驚いた。しかも真っ赤に塗られた観覧車(下の写真)!

しかもこの写真の向かって右手の方が、空襲で焼けなかったのでけっこう昔ながらの狭い路地や町家がかなり残っていたりする中崎町だから、極度に異質なものが極度に近接して存在していたりするわけである。まあそんなことをおもしろがっているのはよそ者の特権みたいなもので、そこに暮らしている人にとっては日常の普通の風景なのだろうけれど、ではそういう日常のなかで人間はどうそこに無意識に反応し、あるいは順応して、この空間的な文脈のなかでどういう行動をするのだろう?

日常の空間や時間というのは、そこにずっといる当事者は気がつきもしないはずだが、アーバンスケープでも田園風景でも、その生存空間というものはやはりどこかで、そこに生きる人間に反響しているはずのものであって、『ぼくらはもう帰れない』でも今回でも、そこをちゃんと捉えたい、撮影の現場をただの背景に終わらせないことが即興という方法論、その場で作って行くことのひとつの大きな動機でもあります。さらに場所だけでなく、そこにいる他の、周囲の人間ともどう反応しあうのか? 人間というのはあらゆる意味で、決して一人で生存し行動しているものではないので、映画のなかだって人間のアクションとはただその人物から一方的に出て来るわけでなく、アクションとは常にリアクションでもある。

実はここまで街並の、というか建物ひとつひとつの自己主張が激しいと、人物たちの背景としてしっくり来るように、映画の展開の邪魔にならない程度にはちょっと大人しくしてもらわなければ、普通に考えると本当は困るわけで。映画とは一方で、最後には一本の作品にまとまらなくてはいけないわけで、この風景まとまることを拒絶しているかのような風景を、その風景の意思みたいなものをちゃんと反映させながら、それでも映画として成立するよう、見ていて目が疲れない程度にどうまとめていけるのかといのは、演出としては大変な挑戦にはなると思う。

『ぼくらはもう帰れない』補正前の生の撮影素材(画面下)と補正してフィルムに焼いたコマ(画面上)。約30%の脱色加工、フジの400のネガ、アグファのポジに、フィルム段階でシアン+1、など。

『ぼくらはもう〜』の東京の場合は、広告が多かったりで色がそれなりに派手なのを除くと、高さであるとかはそれなりの範疇に収まっているところが多いので実はそんなに大変でなく、比較的オーソドックスに撮ってあとは色がうるさすぎるのを脱色したりしただけ(上の写真参照)できれいに行ったのだが、こういう大阪の風景となるとどう撮っていいのか、大阪にいるあいだじゅう外を歩けば考えていたようなわけである。いや難しいよね、と思いながら工夫を考えるのがけっこう楽しかったりもする。

左は福島駅からABCホールに向かう途中、つまりもうちょっと行けば高層ビル街になるのだが、高層ビルの近くに低層の住宅や焦点があるのは東京でもおなじみの風景で外国人なんかは驚くわけだが、東京だとまだ建物の高さを都市計画法や建築基準法でその地区・場所に許される高さにだいたい合わせて建てるので、なんだかんだでそのブロック内では高さが揃って、その同じ高さの低層建築の向こうに高層がそびえるみたいな風景になるのだが、大阪になると見て下さい、この見事なまでの、あっぱれな不統一ぶり。

映画というメディアは、いつもみていて今さら気がつかないことを気づかせる力を持っているものでもあり(…と、ちょっとジガ・ヴェルトフっぽくなって来てしまったかな? まあでもヴェルトフの理論を裏返しにして逆から言えば、要するに「キャメラはしょせん機械ですから」という台詞が『ぼくらはもう帰れない』にもあったんだよなぁ)。だから建物をどう撮るかの工夫だけでなく、こういう風景の前や下、あるいはそのなかで展開する映画の人物たちの生というものが、もう少し自己主張があったりドラマチックだったりした方が、おもしろい映画として成立するように考えている。またたぶんその方が大阪の「リアル」に少しでも近づけるのかもしれない。

興味をお持ちの方はコメント欄に書き込んで下さると助かります。こちらで承認しないと公開はされませんので、メルアドなどを知らせて頂いても大丈夫です。その希望を明記して下されば、拝見したあとコメントの方は削除して、こちらから連絡しますのでよろしく。また企画書の方も近々にまとめて、こちらにリンクを貼ってダウロードできるようにする他、開店休業状態の当ページ別館を活用することにします。

いくら大阪だからってさすがに、この写真みたいに分かり易く、観光的かつ表層的に “大阪っぽい” 映画には、さすがに絶対にする気はありませんけど(笑)。

ノー・コメント…。

藤田まことがこの手つきだと、串カツの串でブスッと盆の窪あたりをやられちゃいそうで、安心して食ったり飲んだり出来ないんじゃないかと…。


むしろこういうアーケード商店街(下の写真)の方が、大阪という街にとって象徴的に思える。いや東京にないから珍しい(まあ中野プロードウェイへのアーケード街くらいしか知らないんですよね)というのではなく、この歩道部分へ店舗と看板が徐々にせり出して行って来てる、この周囲と競う自己主張のずうずうしさ(失礼!)と、あくまで商店街の枠内で自己主張を競って商いの場として成立させていることの、微妙なバランス感覚が。商売が最優先される意思が、独特の合理性をもってこういう具体的な形を生み出している、とでもいうような…。


註)なおこの項目は翌日のエントリーに続きます。