最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

6/24/2008

土本典昭 Noriaki Tsuchimoto 1928-2008


土本典昭さんが今日午前二時に逝去されました。先月に肺癌が発見され、千葉の方のホスピス「花の谷」で療養されていました。昨日から病状が急変して危ないことは奥さんの土本基子さんから教わっていました。一ヶ月あまり海のそばの病院での田舎暮らしを堪能され、とても静かな、安らかな最後だったということです。

ご葬儀は親族のみで慎ましく済ませ、後日盛大にお別れの会をやるそうです。

入院されていたあいだ、基子さんが毎日「花の谷通信」を知人に発信されていたので、最後の日々の暮らし方はだいたい知っていましたが、最後までいかにも土本典昭らしい生き方を貫かれたそうです。さすが! 悲しいよりも感心が先に立ってしまうのが天晴!

京都での特集上映が、追悼特集になってしまった。

http://www.kyotocinema.jp/index2.html


(以下はとりいそぎ海外にBCCで送った訃報)
Mr. Noriaki Tscuhimoto, the great master of Japanese documentary filmmaking passed away June 24th, 2008 at 2:47AM Japan time.

He was 79 years old. In early May this year, Mr. Tsuchimoto was diagnosed of an advanced stage of lung cancer. He has been receiving terminal care since, and according to his wife Motoko-san, his last days were peaceful and even occasionally joyous ones.

Noriaki Tsuchimoto was among the greatests in documentary filmmaking, with powerful and groundbreaking yet delicately touching masterpieces such as "An Engineer's Assistant (1964)", "On the Road; a Document (1965)," "Minamata; the Victims and their Worlds (1971)," "Minamata Disease; a trilogy (1974)," "Shiranui-sea (1975)," "The Afghan Spring (1984)" and so on. His last film was also his 17th entry to the series of films about the Minamata disease , "Minamata Diary (2003)."

Some of you may know that I had the honor of making a portrait documentary on Noriaki Tuchimoto, "Cinema Is About Documenting Lives (2007)." This project, above all, allowed me to know the great filmmaker quite intimately, and discover the profound humanity, the compassion, the kindness, the humbleness of the man, who became, in spite of the difference of generations, a dearest friend. I can safely say that this great documentary filmmaker was a great human being.

His films, which go far beyond "social issue films" or "political filmmaking" are also evidences of this amazing human quality that Tsuchimoto shared so generously with his subjects, his colleagues, and with his audience. His cinematic gaze, sometime quietly classical, sometimes fiercely experimental, often gently observibg but often filled with anger in face of terrible injustices, was always a compassionate one. Today, we are mourning the death of a beautiful man, a representative of a great generation of filmmaking.

I sincerely hope that all of you also would join us spiritually in spite of the long distances that usually separate us in honoring Noriaki Tsuchimoto, and the efforts in continuing to carry the torch of the beautiful art of cinematography as an art form of witnessing the world with compassion and love to all man kind and to all livings. I also hope that the world will continue to discover the body of works that Mr. Tsuchimoto left us, many of them still unknown to the international audience, yet among the highest achievements documentary cinema has ever reached.

6/23/2008

写真は「真を写す」のか? ドキュメンタリーはどうなのか?

あるいは、ぶっちゃけた話「真実」なんて本当に存在するのか、ということにもなる。この週末から開催中の「難民映画祭」で、エロール・モリスの最新作『Standard Operating Procedure』が上映された。


残念ながら国内公開の予定は今のところないらしく、映画祭での上映はこの一回だけだったので、見逃した人にはもうしわけないのだが、あまりにも高級で奥の深い、複雑怪奇な傑作なので、公開なんてしないでもいいようにも思えてしまう。ヘンな言い方だとは思うが、じゃあこの傑作をまともに受け止める度量が今の日本の映画業界と称するところにあるかと言えば…。一般の観客には素直に受け取って深く考える人も絶対にいるだろうけれど、そこに伝わるようにこの映画を論じたり評価したり宣伝できるのか? 最悪、誤解をふりまいて映画を潰してしまうことにもなりかねない気もする。

断っておくけれど、この映画を議論すること自体が恐ろしく高度な知性を要求されることもまた確かなのだろうが、そういう能力の問題だと言うわけではまったくない。むしろ自分の権威主義や「正義」を表明したい自己顕示、映画に詳しいとか「分かっている」フリをしたがる、あるいは超大国アメリカを批判できる自分に酔う、要するにその威張りんぼな自意識をどこまで超えて、「分からないからこそ怖い」と率直に認められるかどうか、その恐怖に肩書きも地位も関係ない一人の人間として向き合えるかどうかの問題だ。

映画というのは本来、見る人ひとりひとりが自分の人生に照らし合わせてなにかを学ぶメディアのはずだ。いちいちアンドレ・バザンの「ミイラ・コンプレックス」やラカン心理学の鏡像を持ち出す気もしないが、要するに映画のなかに見ているる他者から、その他者についてどのように見ている自分について知ることなしに、本当に映画を見たことにはなるまい。現代映画にもなれば我々はほとんど強迫観念のように我々の作っている映画がどう世界を観客に見せているかの視点それ自体を、いわばタネ明かしのように組み込みさえしている。それをあたかも客観的な知識のように分析したフリをすることで、その偽装のなかに自らもまた限界をいっぱい抱えた人間であることを隠蔽してえらぶろうとしたろころで、そのような「映画ギョーカイジン」の自己満足にお客さんがつき合ってくれる必要性がどこにあるのだろう? その必要性がある場所は一カ所しかない−−「映画ギョーカイジン」の欺瞞的な自我のなかだけだ。しかも映画というのは本来、そういう欺瞞をもっとも毛嫌いする表現メディアのはずなのだ。

スクリーンの前にあらゆる観客が平等なだけでなく、映画を成立させている機械のシステムの前には我々もまた万能のクリエイターではない。お客さんも作り手も共に生きているこの世界という空間と時間に対しては、我々もお客さんも同じくらい時には無力な存在でしかあり得ない。もちろん我々の方が作ってるだけ責任は大きいにせよ、それは責任を負うということであってそれを言い訳にこっちが偉くなるようなことでは、本来まったくないはずだ。

Standard Operating Procedure』はなによりもその写真表現、映画表現の本質をまず浮かび上がらせている映画だ。なによりもまずこの映画の関心の出発点は、悪名高いアブグレイブ虐待事件の写真だ。だがここで出て来る写真/映像に写っていることがどこまで本当なのかは、この映画の主人公たちがどれだけ自分たちの証言を「本当だ」と本気で言い切れるのかどうかと同じくらい、あやふやな問題にならざるをえない。それらが何を意味するのか、映画作家自身が、それが自分にとっても深淵な謎であって単一の「真実」ぶった解釈謎あり得ないことを明示している。それを「映画ギョーカイジン」が自分たちだけには真実が分かっているといわんばかりの態度で威張ってしまうためにこの映画を褒めるなら、その時点で「なにも分かってないじゃん」と一般の観客に痛烈に批判されても文句は言えないはずだ。でも一部の人はそれでも文句を言って自己正当化に必死になるんだろうけれど−−この映画の旬人工たち、アブグレイブ事件の当事者だった米兵たちの必死の自己弁護に較べれば、はるかにとるに足らない自己満足のために。


悪名高いアブグレイブ刑務所の米憲兵による収容者虐待事件の真相を探る映画として、政治的にいかにアメリカのイラク侵略が巨大な誤りであったかを糾弾する映画という側面も重要は重要だし、虐待事件に関わってしまった米兵たちが陥った「戦争の狂気」の恐ろしさが、この映画を非常に力強い反戦映画にしているのも確かだ。でもそういう政治的なプロパガンダが目的だったらエロール・モリスはこういう映画にはしなかったろうし、実はそんなことにはほとんど興味がないのかも知れない。むしろ「正義」のプロパガンダを鵜呑みにして「アメリカけしからん」と溜飲を下げたい薄っぺらに政治的な観客には、この映画は不満だらけになるかも知れないし。もっとも「アメリカけしからん」なんて、ことイラク戦争については最初から分かりきっていたことだから、今さら映画でいちいち主張して欲しくもないけれど。

まだ一回しか見られていないから、僕もこの映画を解説したり論評する自信もない。自分がどう考えなにを思ったかすらまとめられない。この我々の世界がいかに混沌としたものであり、「真実」を記録し混沌を整理して理解しようする道具が、逆にその混沌をかえって深い闇にしていることを、この映画は語っているのかもしれない。

いずれにせよ、当事者たちの証言からアブグレイブの真相が明らかになると思ってエロール・モリスがこの映画を作っているのではまったくないのは確かだ。証言はあくまで証言であり、当事者が言ってるんだからたぶん本当なのだろうと同時に、あくまで本人がそういう物語として自分のうちに記憶しているに過ぎない「事実」でしかない以上、それだけですでにエロール・モリスの好む言葉でいえば「人物の内的なフィクション」でしかない。ホロコースト否定論を扱った『死神博士の栄光と没落』、マクナマラ元米国防長官の一人芝居(?)の『フォッグ・オブ・ウォー』、そしてイラク戦争とアブグレイブ事件を扱った『Standard Operating Procedure』と、戦争と歴史に関わるきわどい題材の作品がここ数本続いていながら、彼の映画の根本的な興味は常に「人物の内的なフィクション」であって、初期の怪作・大傑作の『ヴァーノン、フロリダ』以来まったくブレていないとも言える。

とはいえ『Standard Operating Procedure』でモリスが一歩大きく踏み込んでいる点が二つある。フロリダ州の片田舎の寝ぼけたヴァーノン村の人々は勝手に誰にも迷惑をかけずに自分たちの内的フィクションの世界を妄想し続けているだけかも知れないし、自称世界最高の死刑技術の権威「死神博士」ことフレッド・ロイヒターにせよ、『Fast, Cheap and Out of Order』のカラフルな主人公たち(猛獣の曲芸師、庭師、ロボット工学の世界的権威に、動物学者)にせよ、厳然と自分たちの世界を自分で作って護り続けられる意味では個性と自我が完成した人間たちだ。そしてロバート・ストレンジ・マクナマラといえば20世紀最高の知性、もっとも頭のいい人間の一人かもしれない。その恐ろしく頭のいいマクナマラが驚異的な論理性を徹底させながら回想する、彼自身がその積極的な一部であった20世紀の戦争の歴史が、その頭の良さにもかかわらずまったく不条理でばかばかしく、人類史上最大の愚行の連続にしか見えなくなるところに、『フォッグ・オブ・ウォー』のスリリングさがあった。

『Standard Operating Procedure』の主人公たちを加害者と捉えるかシステムの犠牲者と見るか、それを問うこと自体がこの映画を誤解することにつながりかねない。ひとつ言えるのは彼らの誰一人として「自我」と呼べるほど確固たるものをまったく持っていないことだ。アブグレイブ事件に関わった人間たちは皆自分に不安な存在、右も左も分からないまま戦争状況に放り込まれて、戦争という精神状態と軍隊組織という精神構造にすっかり浸食されたなかで自分たちの「内的なフィクション」を作りあげている。これまでのエロール・モリス映画の主人公たちが自己弁護をするとしてもそれは自己表現のための自己弁護だったのが、この映画の主人公たちは必死に社会や周囲、もしかしたらこの映画にも強制された自己弁護のための自己表現をしている。そこが痛々しく、そして恐ろしい闇がそこにある。

この映画を見てもアブグレイブ事件の「真相」は分からない。むしろその真相が到達不能なことを、映画は確信犯的な堂々巡り構造を次第に過激に露にして行き、ダニー・エルフマンがフィリップ・グラスばりの旋回構造的旋律を本家グラスよりもよっぽど執拗にやっている音楽が、その行き場のない永久的な回旋運動を裏付けさえしている。なるほど、複数の当事者たちの証言は一見、事件について一致した見解を示しているようにも聞こえて来る。現場に三台あったというデジタル・カメラで撮られた、同じ出来事の複数のカメラの視点からの写真も、なにが起こったのかを立体的に浮かび上がらせるようにも見える。だが一方で、それでも写真はフレーミングのなかに収まることだけを忠実に記録するに過ぎない。フレームの外になにがあったのか、映像に物理的には決して写らない人間の「内面」がどうなっていたかは、一台でなく三台もカメラがあってマルチアングルで撮られているからこそ、かえってそのフレームの外にあったか、なにかの物体が死角を作って見えなくなっているところにある暗闇の存在を不気味に浮かび上がらせる。

証言も一致しているからかえって不自然だ。取材に応じていない二人の下士官、フレデリック軍曹とグレイナー伍長が首謀者だったことで他の当事者が一致すればするほど、その二人のいい分を聞かないわけにはいかない。だがこの二人がある理由によって取材に応じられない状況であることにも次第に気づいて来るし、実際にその理由は映画のラストで明かされる。あるいはアブグレイブで収容者を尋問していた米政府機関がFBIやCIA、軍情報部と組織が分かっているぶんはまだいい。だがそのリストアップの最後に現れるOGAという略称、「Other Governmental Agencies、その他の政府機関」というカテゴリーの不気味な響き。


ここに浮かび上がる闇は二つある。ひとつは巨大な権力の闇。だがこの映画のなかではもっと恐ろしいかも知れないのが、絶望的な立場に追いやられた当事者たちの個人的な闇だ。反論できない二人にすべてを押しつけ、得体の知れないOGAのせいにすることで、彼らは責任逃れをしているとも受け取れる。だがもっと怖いのは、もしかしたら彼ら自身がなぜ自分たちがああいうことをやったのかをまったく理解できていないし、理解できる精神状態ではなかったとも思わせられるところだ。その内なる狂気におびえながら、彼らはただ必死に自分たいが一応は納得したフリのできる物語を求めているのかも知れない。なかでも「軍の蛮行の “記録” を残しておくために写真を撮る」とアブグレイブで働いていた当時から恋人に手紙で書き送っていたサブリナ・ハーマンが、それでも拷問で殺されたイラク人の死体をいっしょに写真にうつっていることは我々を困惑させるしかない。それも微笑んで、親指を上げた「good」のポーズで。

その真相もまた、なぜ事件が起こったのかの真相と同様に、分からない。言えるのはこの事件が確かに起こったことだ。彼らの撮った膨大な、その多くが目も当てられない中身の写真と、彼らの克明な証言が、その表層的な事実を確かに証明している。だが写真があって証言が積み重ねられれば重ねられるほど、我々は「真実」なるものに到達することなぞできないのかも知れないという究極の真理に行き当たる。それは光り輝いて世界を照らす「真理」ではなく、不気味な影、闇としてすべてを浸食していきそうな、、恐ろしい真理だ。撮影の鬼才ロバート・リチャードソンの生み出す強烈にまばゆい,白い光にあふれた再現映像の輝きも、目くらましにしかならず、光はなにも照らさない−−我々が狂っているのかも知れないという恐ろしいことを指し示す以外には。アブグレイブの膨大な写真たちは事実の断片を写しているのと同時に、我々がその見た目のショッキングさに留まってしまうことによって、なにか大きな闇を隠しながら、体現している。その闇とは、なぜそこで彼らが写真を撮ったのかというもっとも理解不能な動機かも知れない。

エロール・モリスはこの映画を、事件の真相を捜査する謎解きミステリーであると同時に、ホラー映画であると言っている。そのホラーが人間の心なのか、それとも写真という機械制度なのかも、我々に答えはないのかもしれない。実のところ、なぜ彼らは、そして我々は、じっくり見ることもできないほど多量の自分たち自身の写真を撮り続けるのか。そのなかに自分自身の姿を再確認したいのだとしたら、その撮る行為にとりつかれて自分自身を見失ってしまっているのも、デジタル画像時代の皮肉なのかも知れない。彼らの場合、それは悲劇にもなってしまったが。

<<エロール・モリスが映画と写真をいろいろ論じてるブログ。>>

6/17/2008

R.W.ファスビンダー (1945-1982)

ドイツ文化センターアテネフランセの共催でファスビンダーの回顧上映が進行中(詳しいプログラムはタイトルをクリック!)。70年代の「ニュー・ジャーマン・シネマ」の中心的映画作家でありながら、日本ではヴェンダースやヘルツォークに較べてあまり見られて来てないのは、なぜなんだろう? まあヴェンダースの場合は彼の人気のおかげで日本人が小津を再発見することになったので、恩義もあるのかも知れないけれど。あるいはとにかく過激であることに注目が集まる上に、即物的なだけに生々しくて、色彩の使用もしばしば強烈な彼の映画は、日本人のテイストには “濃すぎる” と思われて来たのかも知れませんが。

それとも単に、本数が多すぎてついていくのが大変? なにしろ37歳で早死にしてるのに、監督している作品本数は40本超っていうんだから、まあなんとも忙しい。粗製濫造? いや確かに荒々しい、題材の乱暴なまでの過激さにばかり注目が集まる一方で、極めて直裁なスタイルの作品が多いが、実は相当に緻密な映画作家でもある。最盛期には一年に2本も3本も長編映画を作ってるこのスピーディーさ、少しは見習わないと。一部の作品はDVD上映になってしまうらしいが、フィルムで上映するものは状態もいいし、必見。そろそろニッポン人もファスビンダーを「発見」してもいい頃だ。「ニュー・ジャーマン・シネマ」の後の二人、当時から日本で人気だったヴェンダースとヘルツォークに較べ、ロマンチシズムのかけらも見せない乾いた空気感は、今の日本にはむしろしっくり来る気がする。ファスビンダーの見せる人間はしばしばミもフタもなく身勝手で、なまじやさしさぶりっ子が横溢する日本産の映像には,少なくとも刺激的に新鮮なはずだ。この写真は『マリア・ブラウンの結婚』のファーストシーンだが、いきなりこの強烈なコントラストですからね、のっけから。


『マリア・ブラウンの結婚』は物語自体は戦後の混乱した西ドイツ社会のなかで戦争未亡人になったハンナ・シグラが逞しくのしあがってく女傑一代記、日本が世界に誇る異常人気テレビドラマ『おしん』(世界でもっとも多くの人が見たテレビドラマの部類に入るらしい、とくに発展途上国で絶大な人気を誇る)みたいなものなんだろうが、彼女の直面する困難とその振り払い方が、まあ『おしん』とは正反対と言えば分かり易いかも知れません。公開当時の日本では批評家もみんなひいちゃったらしく、ファスビンダーとしては手抜きとしか思えんこの後の『リリ−・マルレーン』の方がよっぽど評価されたみたいだが、むしろこの逞しさは凄みすらあって(というか凄みそのもので)あっぱれとしか思えんのですが。日本の大人の男って、こういう点ではダメだよねぇ。強い女は母親役割の強さでないと怖くて逃げちゃう、というか、土日の過去ログの続きでいえば、自信に満ちて威張るのは自信のなさを必死で隠してるせいなのかも知れん。

友達にはぜったいなりたくないけれど映画作家としては尊敬するしかない人間の双璧として、ファスビンダーとゴダールがいるのかも知れない。現代日本映画はゴダールの知性には多くを学んで来たが、ファスビンダーの野性からはもっと学ぶべきものがあるようにも思う。ただ非常に疲れるんですけどね。ファスビンダー特集には海外ではしばしば遭遇して来たが、こればっかりは一日で2本も3本も見るのは体力が続かない。『第三世代』を見たときには、ぶっ倒れそうになって24時間くらい心身がマトモに機能しなくなったような。今回はこれは3回くらい上映されるので、2回は見直さないと…。


時節がら異様に強烈なのが、もともとファスビンダーの問題作のなかでも最大の問題作と言われる『キュスタース小母さん天国に行く』だろう(この上と下の写真)。ただし当時攻撃されたのとは別の理由で。フランクフルトの、父の帰りを待つ慎ましい労働者の家庭で、ラジオの臨時ニュースが聞こえる。工場で労働者が上司を撲殺し、機械に飛び込んで自殺したという。その労働者というのがなんと、この家の主だったキュスタース氏で、突然降って湧いたような妻の災難が始まる。ジャーナリストは酒に酔うと暴れる暴力夫というセンセーショナルな記事をでっちあげ、共産党の地方幹部夫妻は彼女を利用しようと、夫は労働者の権利を守るために戦ったのであって方法が間違ってただけだと彼女を説得する。息子は妊娠中のホワイトカラーのインテリ妻の言いなりで、保養のためにアイスランドに休暇旅行で葬式にも参列せず、急を知って舞い戻って来た歌手の娘はでっちあげ記事に協力してその記者の愛人になる始末。

愛と誠実さが意味を持たない社会のなかで家族も身勝手でバラバラになるというのは、ファスビンダー映画に共通する家族像だから今さら驚かないはずだし、ジャーナリストがでっちあげ記事を書き上げるプロセスの描写は見事にシンプルかつストレートで圧巻かつスリリングだが、そのこと自体は現代社会では当たり前とすら言えるメロドラマで、今さら怒るようなことではない。なにが叩かれたかといえば「共産党への中傷だ」ということだったらしい。

だが実際のところ、映画はキュスタース小母さんが搾取されるプロセスを残酷に描き出すことには、さほど集中はしていないし、キュスタース小母さんが搾取されることに苦しんだり怒ったりもしないし、事件で舞い戻った娘が、「工場の殺人鬼の娘!」のキャッチフレーズでフランクフルト・デビューを飾ることすら一種のギャグとしてしか演出されず、小母さんも呆れはするがたいして怒りもしない。彼女を党に巻き込む共産党の幹部も、打算と策略である一方でそれなりに誠実で彼女にやさしいし、夫妻の間では小母さんを騙しているのではないかと悩みを語り合ったりもする。この程度で怒ってどうするのよ、そういう打算が現実には必要であることすら映画はちゃんとフォローしているんだし、共産党の地方幹部夫妻の最大の罪はしょせんブルジョワのインテリ夫婦で、善意はあっても臆病で実行力がないことのように見える。

むしろ映画を突き動かし続けるのは、キュスタース小母さんがなぜ夫が死んだのかの理由、彼が死ぬのに至った納得いく物語を求め続ける執念だ。それは確かに彼女が夫を愛していたからであり、ファスビンダーは彼女に全面的に共感することで映画を進めて行くのだが、一方でその彼女が絶望的に現実から遊離していくことを見逃さない。共産党幹部夫妻に至っては、彼らが「騙してるんじゃないか」と悩んでることなど関係なく、どんどん彼女の方から彼らに近づいて行く。なぜなら、彼らが優しく、そしてなによりも夫の死に、労働者の英雄という物語にしてくれるから。最初は夫は真面目な労働者で、上に立つ人間がいるのは当然と思っていたと自分で言っていたのも、学生運動に不快さを感じていたので娘の進学に猛反対して、娘が家出してしまったことも、彼女の方から自分でどんどん忘れて行く。

『キュスタース小母さん天国に行く』の真の過激さはここにある。皆が夫が死んだ理由を整理した物語を求め続ける。ジャーナリストは紋切り型の薄っぺらな父権批判のステレオタイプの物語をでっちあげ、共産党は労働者の英雄としての物語をでっち上げる。それは私利私欲や打算でももちろんあるのだが、それ以上にこの不可解な事件の理由をなんとか理解したいという衝動に突き動かされているからだと、ファスビンダーの映画は示して行く。しかももっともその物語を求めているのは、でっちあげられた物語に搾取されていると表層上の物語が示しているはずのキュスタース小母さんなのだ。映画はその小母さんの素朴で狂おしいまでの愛に共感しながら、一方でその彼女が完全に誤ってもいることを示して行く。

強烈にいびつなメロドラマの物語構造を映画自体が確信犯的に踏襲しながら、その物語構造そのものを映画自身が同時に裏切り、我々が映画の見せる映像を見て脳内に創り出す物語の正当性を揺さぶって行く。なぜなら、我々が夫の死の正当な物語を求める姿にいかに共感しようと、小母さんの夫がなぜあのような事件を起こしたかは決して解明されないし、死んでしまっているのだから解明できるはずもない。彼には彼の物語があったとしても、その彼だけの物語は誰にも分かち合われることなく、彼の命とともに消えてしまっている。小母さんはその求めても得られるはずもない物語を求めて、いつのまにか自分の持っている夫の記憶すら失っている。そして彼女は不当に搾取されるのでなく、自らの狂おしい愛、夫の物語への希求のために破滅していく。しかもこの究極のロマンチシズムの「狂気の愛」の物語が、極めて凡俗な背景のなかに展開し、主人公は写真の通り、愛すべきただのおばさんなのだ。どうしようもない宙づり感のなかに置かれた我々は、最後に途方もなく大胆な仕掛けによって映画の物語が物語でしかなく、それが虚しい作り事でしかないことを突きつけられ、さらにその仕掛けのドンデン返しとして、我々の社会もまた安直で皮相な物語を延々と再生産するしかないという現実を冷徹に叩き付ける。

なにが辛いって、ついこないだの秋葉原の事件や、事件後20年経って死刑執行となった宮崎勤とか、気がつけば我々は必死で犯人たちの物語を求めてしまっている。映画の共産党幹部が創り出す物語は、考えてみれば秋葉原の事件について派遣労働の不当を訴えるときの論理とほぼ同じものだし、物語作りに関してはこのブログだって同罪だ。どうも映画を作っているときにはほとんど必然的に物語の曖昧化や解体をやっている僕自身が、文章ではどうしても物語の論理にのっとられてしまっている。一方で秋葉原の事件では、犯人自身が孤独な自分という破綻した物語を自分で綴り続け、その結末としてあの事件に行き着いた。一方で宮崎勤の物語は事件の発覚で始まり、我々が納得できる物語を見いだせないことをあざ笑うように、ほぼ確実に詐病であろうでっちあげの物語を次々と作っては20年間我々を翻弄し続けた。まるでファスビンダーがそのすべてを見越していたようにも思えてしまう。まあ、おかげで僕自身は自分の過ちに気づけたわけだが。

ファスビンダー自身が主演も兼ねた『自由の代償』は、残念ながら今回は上映はされず。主人公はこんな顔だが、それでもとても美しくも残酷なラヴストーリー。愛と誠実さが意味を持ち得ない社会への豪速球の批評でもあるのだけど。

ファスビンダーとしては異色作かも知れない、『エフィー・ブリースト』。だがこの一見彼らしくない文学映画もまた、彼の物語へのチャレンジの究極例のひとつなのかも知れない。

まあとにかく、この際だから見直す映画も含めて、いっぱい見ましょう。

6/14/2008

Notes from the Underground

秋葉原の事件を云々するのならドストエフスキーを読むべき、と自分で言った手前、『地下室の手記』(江川卓訳、新潮文庫)を久々に再読中。いや出だしから実に見事なまでのダークな心理の発露、自己嫌悪にどっぷり浸かったその自分に陶酔している40歳の元官僚・現無職の心のなかの不条理が緻密かつ雄弁な名文で綴られて行く。秋葉原通り魔事件犯人の掲示板書き込みを見て釈然としない人は、やっぱりこれを読んでみるべきだと思う。

昨日は心理的・個人の内面的なことからこの殺人犯を解釈してみると書いた気がするが、その気持ちが失せてしまった。だって『地下室の手記』を読めばこれにかなう説明なんて恐らくないのだから。しょせんこの日記は日々のできごとについて思ったことを、愚痴言って好き勝手に書き残してるだけの備忘録のようなものなので、読んでる人はご容赦下さい。

それにしても実のところ、もしあの大量殺人を犯した青年が、なんだかわけがわからなくてもいいからドストエフスキーを読んでいれば、ああいう事件は起こさずに済んだのではないかともちょっと思う。

どんな人間でも、自分のことを最もよく分かってないのは、たぶん本当は自分自身なのだ。

ましてあの犯人の青年や、ドストエフスキーの描くこの根っからの自己否定男のように−−後者は文字通り「地下」に押し込めるかっこうで−−自分のなかに閉じこもっていれば、ますますかえって自分の思い込みと現実に自分がどのような存在でどのように見えるのかの区別がつかなくなるだろう。

遠藤周作のエッセイで占い師を研究したかなり笑えるものがあった。占い師の鉄則は「あなたはいい人だ。いい人過ぎて周りに誤解されている」と言えば、ほとんどの人は「当たってます!」と思うので商売になるのだそうだ。

『タクシードライバー』について、ポール・シュレイダーは「Self-imposed loneliness」という言葉で主人公の精神状態を形容している。トラヴィスが女性と親しくなることを望みながらも、一方で自分でその機会を破壊して嫌われるようなことをやり、案の定嫌われたところで相手とその彼女を含む「世間」への嫌悪をますます膨らませて行くという矛盾した行動であり、本人は矛盾していることにまったく気がついていない。

報道されている写真で見る限り、秋葉原事件の犯人は、掲示板で書き込んでいることとは異なり、そんなに「不細工」というほどのものでもない。

あまりに自分とよく似た問題を抱えた男がその心理の闇を自分でも気がつかないうちに見事な論理で解説している体裁になっている『地下室の手記』や、あるいは『タクシー・ドライバー』を見ていれば、少なくとも自分のような人間が一人ではないことには気づけただろうし、気づいた瞬間にある種の冷静さにもたどり着けたかも知れない。フィクションの効用には、そこに描かれた他者のなかに自分を見いだすことも明らかにある。

ちなみに今日の写真は『ぼくらはもう帰れない』のスチル写真。考えてみればこの映画の主人公たちのほとんどが1984年生まれ、秋葉原の事件の犯人と同世代だった。

劇映画ではあっても設定は出演者が持ち込んだものだし、ストーリー展開はディスカッションと即興で、演出からの介入はどこでどの人物を組み合わせるか程度に限定している。だからこの映画がこの時代のこの世代の “気分” を写し取っていることだけは、それはもう演出における僕の腕の良し悪しとは別次元のことで、単に仕掛けと原理によって、確かなことだろうととりあえずは言えると思う。とりあえず見て頂くしかないわけだが…。

…というわけで横浜の黄金町映画祭での上映予定

   7月26日(土)12:30
   7月28日(月)20:30
   8月 1日(金)10:30

http://www.koganecho.com/program/main/bokurahamou/
会場はこちら: http://www.jackandbetty.net/map.html

もっとも、ではまかせっきりで演出がまったくの無責任でいられるわけではなく、なにかを作ることはしていなくても、そこで写ってることがなにを捉えているかを見抜くのはこっちの仕事なわけだし、別にその世代の “代表的” な人間を統計的にサンプリングしたわけではないし、率直に言ってこの映画にとって「そんなこと知ったこっちゃない」レベルの下らない話だが。

そのプロセスのなかで、『地下室の手記』や『タクシードライバー』、『罪と罰』のことなどこちらからはおくびにも出していない。

しかしそれを考えなければいけないなにかを、ずっと感じていたのは確かだ。結果としてその部分が大きなテーマになっていったのは、そりゃ演出がやったことだろうと言われれば、反論はできない。

正確には演出は気づかざるを得なかったことと言うべき、っていうか映画監督の仕事ってたぶん「何を創り出すか」というファンタジーの範疇ではなく、我々の「思い」なんて観客にとってはどうでもいいはずのことであって、「何に気づくのか」の方がはるかに大きい。

とは言っても、別にこの映画の出演者の誰か個人が、この秋葉原の事件のようなことを起こす感じがしたというのではまったくない。

共通点が皆無というわけではもちろんないが、それ自体はそんなに珍しいことでもないのだし、現代東京版『タクシードライバー』のポラロイドカメラで自分を撮り続ける男は、確かにああいう方向に進みかねない鋭さと孤独な影があるからこそこの役が出来たし、今回の通り魔事件を映画化するなら主役もできる。一方で自分を客観視できてギャグにもできるだけの冷静さもあるからこういう形で演じられたのでもあるわけで、「自殺」の匂いが映画全体を覆っているという批評もあったし言われてみれば確かにそうなのだが、それでも結果として映画はそっちには決して進まない方向にまとめてくれたのだと思う。

『地下室の手記』や『タクシードライバー』、『罪と罰』的な、ある意味この映画の見せる東京であれば秋葉原の事件みたいなことがいつ起ってもおかしくない(と今回の事件が海外でも報道されてから、そういうメールも届く)空気があるのは、個人の資質よりも彼らが育って来た状況にその空気が漂っているからなのだとしか言いようがない。

具体的に言えば、たとえば高校生に『罪と罰』や『地下室の手記』のような本を読ませようとは決してしない教育、それを読むような子どもをむしろ煙たがるような教育だ。

それどころか、こういうものを読めないような教育すらしている。だいたいドストエフスキーのレベルの文学が一回読んだだけで把握できるわけがないし、一回読んですぐにはわけが分からない本で、読んでから相当に考えて咀嚼しなきゃ「読書感想文」も書けないだろうし現代国語の「作家はなにが言いたいのか」の正解も書きようがない。

だいたい、そんなもんを50字とかそこらで書けたり、三択問題で選べるのなら、誰も小説なんて書かんし、映画なんて作らんてば。

あたかもあらゆることに既に存在していて与えられうる正解があるかのような幻想を子どもの頃から押し付けられ、それがおかしいことに気づいていても表現する手段を持っていない。

それを持てるような教育をするのが「ゆとり教育」だったはずだし、『ぼくらはもう帰れない』や、秋葉原事件の犯人も、その教育で育った世代だが、実態が伴ってないから偽善にしかならず、二重三重に世間を疑うようにしかならないし、一方で疑っている自我に一定の自信、そう考えている自分が確かにそこにいることすら確信できない。

『地下室の手記』や『タクシードライバー』に言葉にできない、一見なにがなんだか分からない不気味な共感を演じるスリルが最初から否定されている社会。時間をかけて悩んだり迷う自由もないで「夢を追う」「自分らしく」を強要される倒錯。「分からない」を認めない大人の傲慢。

だが10代にもなればまともな感性があれば気がつくはずだが、実際の人生は、なにがなんだか分からない状況がほとんどなのだ。

古来、人間は偶然を「神の意思」とかとりあえず理解することで人生の意味を見いだして来た。

ニーチェが「神は死んだ」と叫んで科学が宗教にとってかわって、人間が核兵器まで作ってしまってサルトルやカミュが「こりゃやばい」と思っても、世界の大多数はその警鐘を聞きながらも、科学技術の進歩で人類が総体としてはより恵まれた生活を送れることに、ある種の目標を見いだせて来た。

考えてみたら僕の世代だと21世紀はまだバラ色の未来だというように小学校くらいは思えていた。

でも1980年代の半ば以降、そういう進歩という理想はもう終わらざるを得なくなり、この世代がモノを考えるようになった頃にはバブルは弾けていながら、大人たちはバブルに踊ったことのどこが過っていたのかを反省もしないで、むしろ金銭こそが唯一の価値で経済とギャンブルの見分けがつかない非情で不道徳な社会がどんどん進行していく。

だというのに彼ら大人は自分たちの空虚さを反省もせずに、子どもに「夢を持て」とか言い続ける。

適度にまのぬけた「いい子」ならなんの疑いもなく、根拠不明の自信に満ちて「自分らしさ」を発散する。それがどんなに薄っぺらな装いに過ぎなくても、学校が子どもに読ませる本はむしろその幻想を助長する。

だがなまじ頭の働く子どもなら「そんなバカな」とどこかで思っていても、それは言ってはいけないことになっているし、それを言う手段を育てる教育はしていない。

この世代を乱暴に一般化してしまえば、彼らは恐ろしく自信があるか、まったく自分に自信が持てないかのどちらかだと多くの大人は言う。

そりゃお前たちだって同じだろうと言いたくもなるが、大人たちが分かっていないのはこの二つが二分できるものではなく「自信過剰」と「極度の自信のなさ」が同じ人間のなかで裏表になっていることに気がつかないことだ。

まあ彼らバブル以降の大人もまったく同じ問題を抱えているのだけど。つまり大多数の人間の自信過剰は、大人も子どもも、自分たちがもはや変わることも人間として成長することもできないという根源的な自己不信を隠す装いに過ぎない。

あまり感性が働かない大多数は、ゆとり教育世代であれば「自分らしさ」への極度な自信の底にある根源的な自己不信に気づきすらしないし、それはそれで一種の自己防衛本能でもある。

でもそれぞれが「自分らしさ」と称して皆が同じような茶髪にして同じようなタイト系のファッションにすればイケメンとなって適当にはモテる(少なくともそのように秋葉原事件の犯人には見えてたようだ)ことになるが、実は根源的な自己不信があるから自分は決して曝け出さないで周りに合わせることに腐心し、とにかく「認められている」ことに安心する。

だいたい周りに合わせるために童貞や処女を急いで捨てたい子どもが多いという倒錯した時代に、「自分らしさ」もへったくれもあるかよ。

このアホらしさと偽善にどこかで気づいてしまっている人間は孤立するしかない。

言わない方がいいことも言わずにはいられなかったりするから。というか、「ゆとり教育」で「自分らしさ」が大事なら、言えるような状況でないとおかしいのだけど。

『ぼくらはもう帰れない』は小泉純一郎の時代についての映画でもあるが、この気持ち悪さはその後の安倍晋三の最後に「KY」なる言葉が流行るに及んで、「ゆとり」で「自分らしい」のに「空気を読まなければ」いけないって、なんだよそれ?

「ゆとり教育」で育った子どものあいだで「空気を読む」ことが価値観になるというのも、いや「空気」という漠然としたものを読みとれること自体は重要な能力だろうが、実際には「読む」のではなくそこに「合わせ」なければいけないのだから、実際には意識的に「読んでいる」必要すらない。倣い症で迎合していればそれでいい。これがストレスにならなければ、その方がおかしいだろう。

だがこのアホらしさを直感していても、たとえば秋葉原事件の青年は、その直感する自分に自信を持てるような状況で育ってない、人間存在は根源的には孤独であって自分で決めるしかないという開き直りの自信を持つことも禁じられれば、秋葉原の事件の犯人のように追い込まれるしかなくなることだって十分にあり得る。

『ぼくらはもう帰れない』が捉えていることの本質は、もしかしたらその矛盾なのかも知れない。でも一方で、この映画はその矛盾のその先で、恐ろしく楽観的にもなっているはずだから、そこに持っていった交通整理能力くらいは自信を持つべきなのかも知れないね。やったのは交通整理だけで、きっかけになる言葉すらそう聞こえるかもしれないけれどサルトルの引用ですらなく、わたしゃなにも言ってませんが。

一方でその交通整理や、自らをフィクションとして演じることであり得る客観性・自己の他者性の認識は、秋葉原事件の犯人には決して訪れなかったのだろう。

一見異様に見える、彼の掲示板書き込みにある強烈な自己不信は、実は彼が育って来た日本の現代が抱えた病理のロジカルな進展の当然の結果に過ぎない。

そこで「ゲーム」や「オタク」を責めてみたところでなんの意味もないし、やった行為は許せないのは言わずもがなであって鬼畜扱いしたところで始まらない。

恐らくなによりも絶望的な矛盾だったのは、宗教も進歩への奉仕も終わった時代に、そこから解放されて本当に生きることの意味を思春期から深く考えるチャンスに恵まれた世代であるはずの彼らに、まさにそのために考案されたはずの「ゆとり教育」がまったく機能しなかったことだ。

だからといって「ゆとり教育」のせいにしているのではないので誤解なきよう。

悪いのはその理念を使いこなすだけの智慧をまったく持っていなかった大人たち、あくまで人間の問題だ。

考えても見て欲しい。学習するという人間の成長に欠かせないプロセスの目標が、単にいい点をとって子どもの成績を自慢したい親の自己満足に奉仕するだけになったら、その子ども時代というのはどれだけ虚しいものか。『親の品格』とかいうくだらなくも偽善に満ち満ちたベストセラーの著者とやらが、テレビで「親が子どもを愛し過ぎている」とかエラソーなことを言っていた。なに勘違いしてるんだろ? 自分の自己満足のために子どもを搾取することのどこが「愛し過ぎている」のか?

「愛」とはなにかすらまったく分かってないだけじゃん。もっともその親だって、根源的に自信がまったくないから、子ども成績とかにすがって自分の教育に自信を持ったフリを自分相手にやっているだけなんだろうが。

先述のサルトルっぽい言葉というのは「人間けっきょく一人だろうが。全部なにもかも自分でやることは自分で決めるんだよ。そんなことにいちいち寂しいだとか言っていたらキリがないだろうが」というセリフだ。

秋葉原事件の犯人が本気でそう思えたらどれだけ楽だったことだろう、とちょっと思う。

彼の場合、派遣社員の不安定な身分がひとつの要因であることは疑いようがないが、社会的身分がなくなったからって自分の存在がなくなるわけではない。

生きていくだけならなんとかなる。昨年の正月に妹をバラバラ死体にしてしまった歯科医の息子がキレた言葉は、妹に「夢がない」と言われたことらしいが、人生の目標が「夢」だったらそりゃそれで困るし(実現しなきゃ意味ないじゃん)、本当にやりたい/やるべき目標なんてそう簡単に見つかるわけがないじゃん。

まだ二十歳だろ?

無茶な要求し過ぎてるんだよ、それも自分に閉じこもるという以外になんの逃げ道も与えずに。

で、そこに逃げ込めば今度は「引きこもり」「オタク」とレッテルを貼る。秋葉原事件の犯人の「彼女が欲しい」という切望だって、「人間けっきょく一人」なんだから、「不細工だからモテない」なんて他人の目を気にしてコンプレックスに陥った自分に妙な確信を抱くこともなかったはずだが、彼は自分を孤独の中へと切り離すことができなかった。

そこに彼の「孤独」の矛盾がある。孤独であることは、今の世間は絶対に認めないだろうけど、実はそんなに悪いことでもないのだが。

というか、けっこういいものですよ、他人を気にせず自分をみつめなおせるならば。自分って意外とヘンで思ったよりもおもしろいし。「へえ、こんな顔してるんだ」とか、「こんなこと考えてたのか」とか。

しょせん偽善に過ぎない薄っぺらな価値観からこぼれ落ちるだけの自我と感性を持っていながら、「人間けっきょく一人」になりきれず、孤独に追いつめられていくようでいて孤独な自我になりきれないところに、彼らのような青年の悲劇があったのかも知れない。とりあえず不細工不細工と他人の目を前提にしたコンプレックスに妙な自信を持つ前に、携帯電話をネット書き込みに使うだけでなく、カメラもついてるんだから自分の顔でも撮ってみて、じっくり見てみればよかったのに。そんなに不細工じゃないよ。

映画的にはポラロイドカメラの方がかっこいいですけどね。

6/13/2008

自信過剰と極度の自信のなさと

このブログの読者の中には、なぜこの筆者が秋葉原の通り魔犯を擁護するのかと訝しがる人もいるかも知れない。念のため言っておくと擁護などまったくしていないのでそれは勘違い。ただ特異で異常な、我々「罪もない一般市民」と無縁な狂人だと決めつけたところで、それは現実から目を逸らす逃避でしかないというだけのことだ。

殺人が許されないことは言うまでもないわけで、「罪のない一般の通行人を」とコメンテーターなどがことあるごとに言うのだが、そこでハタと立ち止まらざるを得ない。じゃあ「罪がある」のなら殺していいのか? 実際、死刑制度存続派の人は「死をもって罪を償う」とか微妙な言い換えで誤摩化すのだが、江戸時代に詰め腹を切るのならともかく(あれだって実質上は刑罰の形式に過ぎないわけだが)、死刑というのはあくまで、せいぜいが「償わせる」のであって、平たく言えば「罪があるから殺す」ということにしかならない。

で、「罪がある」と司法なり社会が認定すれば殺していいのかと言えば、その資格を我々の社会やその司法制度に誰が与えたのかということになる。少なくともそんな権限を司法に与える資格が主権者の一員である僕自身にあるのかと問われれば、「ありません」と答えるしかない。だってそこまで自分の「正義」には自信が持てませんから。言論や表現での批判ならいくらでもやるが、殺すというのは、そこまではねぇ。「どんな理由があろうが殺人は許されない」と言うことを貫かない限り、彼らは彼らなりの正義でやっているこの手のラスコーリニコフ的犯罪を断罪する倫理的な根拠を、我々は持ち得ない。始末の悪いことにある程度までは彼らは正しい、「世間が悪い」「社会が悪い」と言わざるを得ない現状があるのは,確かにその通りなのだし。

司法にしたってどれだけ当てになるのか? 最高裁判所が今日出した判決だとか、これを「正義」と言われて納得する人間も少ないだろう。確かに報道やドキュメンタリーで「期待権」とか言う概念が認められてしまえば我々などは困ってしまうが、そうは言っても東京地裁も東京高裁も政治家の発言に過剰に反応したNHKが編集の独立性を自ら放棄して番組を改編したという事実認定を行った上で、その特殊な状況においては原告の期待権を認めるという論理で筋を通したわけであって、その事実認定を議論することすら意図的にすっぽかした横尾和子判事に、司法の最高機関の判事を務める資格があるかといえば,知的にも倫理的にもこりゃ職務放棄に近い。

しかも取材者側はこの人民裁判の趣旨をちゃんと伝えるという約束で取材が出来たのに、肝心の判決部分を政治家の圧力を感じて(という事実認定は東京地裁も高裁も行っているのに、なぜかそこに一切触れずに判決を覆した最高裁)カットしたNHKは、我々の職業的論理から言ってもおかしい。それに賛成できないのなら「賛成できない」と自分で言えばいいし、もっと高度な映画的表現でいえば、おかしなことを言ってる人間はそのおかしなことを言ってるままにちゃんと見せればいい。

「放送の公平」なら反対意見を並行して流すというおなじみの慣習だってあり、ちなみに今回の判決でも「(4)意見が対立する問題はできるだけ多くの角度から論点を明らかにする-という条件が放送法で規定されている」と指摘してますよねぇ。ならなぜ「天皇有罪」判決シーンをカットしたんでしょうかNHKは? それこそ放送法の精神に違反してるじゃん。なぜその事実関係の議論が、判決要旨でまったく触れられていないんでしょうか?

ちなみに従軍慰安婦問題で天皇個人に法的な責任を求めるのは、いささか無理があると個人的には思いますから「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」に必ずしも賛成はしませんし、「天皇有罪」で喜ぶ意味もよく分からない気はするが(天皇個人でなく「国家」をちゃんと断罪した上で、具体的な責任は立案・実行した軍人・官僚に問うべきでしょう)、賛成にせよ反対にせよそれを報道することを避けてどうやって「自律した編集に基づく番組制作を進め、報道機関としての責務を果たして」(NHK発表のコメント)行けるのかは大いに疑問だ。まあこういう厚顔無恥なコメントを出す時点で、また当分受信料は払ってやんないからね。

しかしどうでもいいけど、4月のこのブログでとりあげた有村治子議員は、放送や報道などにおいて「期待権」そのものを法的な権利として認めないと判断したこの判決について、どういうご感想をお持ちなんでしょうね? いやだってその「期待権」を前提とした国会質問までなさったんですから。

このブログでは秋葉原の通り魔犯をラスコーリニコフ的な犯罪者と捉えて理解しようとして来ているが、ラスコーリニコフ的な人間がすべて殺人を犯すわけではもちろんないし、それもこういう極端かつ稚拙な犯罪に走った理由は、一般論的な意味での「ラスコーリニコフ・コンプレックス」だけでは説明できないだろう。

やはり現代の日本社会のなかでこそ彼の心理が大量殺人の殺意として醸成されたことは無視できない。そこを分析するには心理的な問題と倫理的な問題、内的・個人的な要因と外的な状況とりあえず大きく分けられるだろう。もっともこの両者は究極的には一人の人格のなかで一致しているからこういうことが起こるわけだし、それをまとめて捉えなければ本当は意味がないわけで、分けるのは言葉・文章というメディアを使う上での方便に過ぎず、僕の本業である映画であれば渾然一体と密接に結びついたその全体を見せて表現することもできるはずだが、ここはブログなので論理的なかっこうを整えるためにもとりあえず分けておく。

んでもってとりあえず外的な状況と倫理的な問題の方を先に議論するならば、早い話が司法までがこのようにデタラメで子供にも詐術と分かるような表層の論理のフリを振り回し、その程度のレベルでしかない司法が他人の死を命ずる権限をどうしたことか持ってしまってる現状があるときに、つまり「世間が悪い」「社会が悪い」のはやはり確かに現実としてそうであってそれでもその世間・社会による殺人が合法化され世間の支持も受けている世の中で、彼らに殺人を決して許されない罪であると納得させるのにはいささか無理がある。

もっと始末が悪いのが、NHKが「圧力」と感じた政治家たちで、その部類には「オタクのアイドル」を自任する麻生太郎なんかも下手すれば含まれかねないのだが、民間人を殺傷しておいて数の問題だけで「南京大虐殺はでっちあげだ」と言い張り、数は兎も角民間人が殺傷されたことは事実としてあることを指摘されれば「戦争なんだからそういうことはある」。従軍慰安婦にしても強制の度合いがどれだけだったのかは議論の余地がある(って、名目上はどうであれ実体として強制であったと思わないのは、よほど神経がどうかしているか世間知らずのどちらか)にせよ、「聖戦」を戦ってるはずの兵隊さんがヒマがあれば犯すために女性を従軍させていたのだ。

「戦争なんだからそういうことはある」つったって、それでも「正義の戦争」で「アジアを解放する」云々と言ったところで、そのアジアの女性を兵隊専用の売春婦にしておいて、「アジアを解放する」と言えるその神経の方がおかしい。「罪もない一般市民」と言ったって、その我々も含む一般市民がこうした倫理的な倒錯を容認していることもまた現実なのだし、そんな狂った倫理観を振り回す世間で育った彼らに、まっとうな倫理観を持てという方が無理がある。

別に秋葉原の通り魔犯がそういうことまで考えているというのではないし、たぶんまったく考えてもいないだろう。ただここまで最低限の倫理観すら倒錯しているなかで、彼のような人間が育ってしまうことを避けられると思う方が無理がある。

日本社会の全体が戦争責任の問題から逃げ続け、今や忘れてしまってさえいることは、一例に過ぎない。政治の世界でも官僚でも…あるいは彼らの成長過程であれば学校に行けば「弱いものをいじめるのはいけないことです」という当たり前のことすら教えられない教師がいて,逆に「いじめられる側にも原因がある」とか言って、学級会をいじめられっ子の吊るし上げ大会にする教師がうじゃうじゃいて、その教師が日教組の上層部に盲従しているだけで「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」に全面賛同して生徒にそれを教えたりするのだから。

言ってることとやってることが一致していないで子供に信用されようとすること自体に無理がある。我々は見事なまでに倫理観が吹っ飛んだ精神構造のなかで子供を育てているのだ。

この青年は「ゆとり教育」世代になるわけだが、「ゆとり教育」の理念は間違ってはいなかったと思うが現実には完全に失敗している。失敗して当たり前なのだ−−「ゆとり教育」は教えている側により高度な観察力と指導力、そして子供のことを考えるだけの倫理観がなければ実現しようがない。文部官僚の大半にも、教師の大半にも、そんな高度なこと要求しようがないぢゃん。

だから「ゆとり教育」は手抜きを誤摩化す偽善にしかならなかったし、教師の手抜きが放置されたことも、偽善に過ぎないことも、子供には、感受性がそれなりにあって頭がよければよいほど、直感的に伝わる。そしてそういう子供は大人も世間もまったく信用しないように育つしかない。

ここでちらっとこのブログのプロフィールを見て頂ければお分かりのように、僕自身は帰国子女だ。少なくとも小学校の大半を過ごした某国の小学校では、こういうふうに先生がおかしい、大人が信用できない、偽善者だと思ったときに、それを最低限にちゃんと言語化できるだけの教育は確かに受けていた。まあそんな調子だから日本に戻って先生がおかしいと思えば子供なりに理論武装して、実際に論破さえできちゃったりしたのだが、逆に言えば小学校高学年くらいに倫理上の筋論・正論であっけなく論破されるような教師が、「長いものには巻かれろ」を丸出しで子供に接している。

そんな偽善的な現実のなかでこういう「怪物」が育ってしまうことは、そりゃ事件が起こってみれば驚きはするが、よく考えてみればこうなることを予測できなかった方が間が抜けている。

より重要な心理的・個人的な問題については後ほど…。今日の題名は本当はそっちについてのものなので、なんだか羊頭狗肉になってしまった。

6/11/2008

Diary of a Taxi Driver

引き続き秋葉原通り魔事件の話。犯人の書き込んだと思われる掲示板が見つかって、報道の大変な注目を集めている。動機の解明について警察からの、それも主にリークの情報にしか頼れない報道にとってこれが異例の、それも願ってもないソースになるから注目して当たり前だし、実際に通常の事件で警察が尋問と決めつけで推定し公表する動機よりも、説得力がある。

だが犯人がこういう書き込みをしていたことそれ自体をなにか異常なことのように捉え、「劇場型犯罪」と現代的で特殊なもののように言うのは勘違いだろう。ラスコーリニコフ型の孤独で反社会的な、革命家になり損ねた犯罪者は、相当に緻密な日記や手記を書いて、自分の思想や思考、内面を克明に描写する傾向が強い。そして現代では日記を書くよりも、携帯電話で掲示板に書き込む方がずっと身近な表現・執筆行為になっているというだけのことだ。強いて言えばそうしたものが簡単に公開できてしまう状況があることが現代の特異性ではある。ただ、この掲示板は結局誰もレスをつけないように、犯人が排除している。結局,犯行前に誰か読んでいたかどうかと言えば、誰も読んでいない。あくまで孤独な営みに過ぎないし、本人もどこかで分かっていたはずだ。



それにしても、新聞の社説・オピニオンでも、テレビのコメンテーターでも、誰も『罪と罰』や『地下室の手記』、あるいは『異邦人』、『嘔吐』を読めとか、『タクシードライバー』を見ろとか言わないのが不思議だ。あるいは太宰治や寺山修司、中原中也を読んでも、勘の鋭い人はこの犯人という「異常者」が、行き着いた先はとんでもないのにも関わらず、動機や心理の展開ではそう異常でもないことに気づくのではないか。少なくともこうしたことが古典的な文学上のテーマでもあることは忘れない方がいい。言い換えれば、この犯人のような人間は昔からいて、ただそうした人格が追いつめられていく状況や、その人格の選ぶ自己表現の手段が、やや変わって来ているに過ぎない。

とりあえず『タクシー・ドライバー』はあまりに符合することが多い。犯人の掲示板への書き込みが日記の一種ってのも、この映画では主人公が日記を書くシーンが随所にあり、夜の街をタクシーで流す光景にその日記の文面が主人公のナレーションとして響く。「I am God's lonely man」というタクシ−ドライバーの日記の通奏低音が、掲示板書き込みで繰り返される孤独感に共通するのは誰でも気づくだろう。「自分は孤独である」という無自覚であるだけに厳然と絶対不動な思い込みに、トラヴィス・ビックルも、今回の犯人も、歪んだ論理で必ずそこに陥って行くことの不気味さも含めて。掲示板から見えて来る「彼女がいない」ということと自分は「不細工」ということへの執着、自分を愛する人間などいないという彼らの無自覚の大前提も、『タクシー・ドライバー』を見ればより精確に理解できるはずだ。たかがフィクション映画と思わないでもらいたい。フィクションは現実の分析的な反映、反射像であるからこそ価値があるのだから。

あるいは昨年,アメリカで起こったヴァージニア州立工科大学での30数人を射殺した韓国系の学生の事件も、いろいろな意味で今回の通り魔事件との共通点が相当にある。この青年の場合は、犯行前にヴィデオで自分のメッセージを撮影していて、それをNBCテレビに送りつけている。恐ろしく真剣でありながら、まるで『タクシー・ドライバー』のパロディのようにも見える。

ただとても気になるのは、そりゃポール・シュレイダーが書いているのだから『タクシー・ドライバー』の日記の言葉がかなりの名文なのは当たり前にしても、シュレイダーがこの脚本を書く際に相当に参考にしたらしい実際の知事暗殺未遂犯人アーサー・ブレマー (http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/JFKbremer.htm) の日記だって相当な文章だ。ヴァージニア工科大学の虐殺犯のメッセージも、子供っぽい思い込みに囚われてはいても1800ワードのマニフェストとしてそれなりの論理の展開がある。それに対し、今度の通り魔犯の書き込みは、携帯掲示板に書き込んでいる以上、そんなに考え抜かれて研ぎすまされた文章を書けるわけもなく、所々に幼稚なのか文学的なセンスなのか判別がつかないがかなりユニークで詩的でさえある言葉が飛び出してもいるが、断片でしかなく相当に稚拙だ。あるいはマスコミがそこだけを取り上げてるだけなのかも知れないが、シュレイダーが書いた『タクシー・ドライバー』のナレーションや、ブレマーの日記、あるいはその大本のネタかも知れないドストエフスキーの創造した、病理に囚われているが故に病理には病理なりの緻密で冷徹でさえある論理性の展開が、そこにはない。一行くらいしか書けない携帯掲示板の連続であるせいでもあるだろうが、ほとんどただの条件反射にしかなっていない。

日記であろうが『地下室の手記』(ドストエフスキー)だろうが、それは誰にあてられたのかは不明ではあっても表現行為であり、ラスコーリニコフ的な革命家になり損ねた犯罪者にとっての犯罪という表現行為の一部であるはずだ。だがそういった表現としての自覚性が、掲示板書き込みにはまったく感じられない。それは今回の犯罪行為としての結末にも同じことがいえる。サバイバルゲーム好きだった軍事・兵隊マニアだっただけに一突きで命を奪う刺し方をしているとは言っても、考え抜かれ訓練されたものというよりは、本で読んだ知識を付け焼き刃でやってみただけのようで、どれだけがトラックではねられどれだけが刺されたのかの数字は出ていないものの、17人殺傷で死者7人では、不謹慎な言い方ではあるが成功率はあまり高くない。

だいたい、トラックではねるというのは軍事・兵隊マニアでナイフを6本も購入している割には、やり方が安易すぎるし、ナイフも1本しか使っておらず、一本は靴下のなかに隠していて現場に落としたらしい…って、落とすでしょう、ああいう激しい動きをしているのなら。落ちるという可能性に気づかなかったのか? サバイバル・ゲームとかもやってたらしいというのに。それとも「戦争ごっこ」のレベルではそこまで考えられなかったのか? 『タクシー・ドライバー』ではトラヴィスが全身完全武装していく様子を丹念に見せていて、それはそれでちょっと滑稽な仕掛けも含むのだが、ブーツにナイフを仕込むときには、ちゃんとテープ留めしている。そうでなくては落ちて当たり前だ。

あえて言ってしまえば、決死の表現行為のはずなのに、その表現としてのやり方の詰めが、あらゆる局面で安易すぎる。ラスコーリニコフはそこらじゅうにいてもおかしくない。だがネット掲示板に書きなぐられた雇用主への不満にも契約・派遣という雇用体系の安易で劣悪な搾取への批判に発展させようとする努力も感じられない(むしろ雇用側の記者会見を取材したテレビがみごとな瞬間を撮ってしまった−−思わず「切る」と言ってあわてて言い直す雇用側とか)し、これを「劇場型」というには相当に無理がある。「劇場型」にするために不可欠な他者の目線への意識が、この社会性がまったく欠如した犯人にはない。そういう意識を持たないが故か、すべてが安直で安易なのだ。そこには小児的な自己主張はあっても、“表現” は欠如している。これが彼の表現であるはずなのに。

もうひとつ気になるのは報道の姿勢だ。掲示板で「彼女がいない」という言葉が繰り返され、犯行のためのナイフを買った福井の店でしばし女性の店員と談笑している姿の防犯カメラ映像をそこらじゅうで流しながら、ナイフの購入後に「人間と話すのはいいことだ」と彼が掲示板に書き込んでいることまで報道しながら、しかも犯行の現場がメディアによって「メイド喫茶」と「ミニスカ・コスプレ」とロリコン・アニメの「聖地」にまつりあげられた、電気街転じて歪んだ性欲の発露の場になった「アキバ」だというのに、しかも20代前半か半ばの青年が主人公の事件だというのに、そこに無視しようもないほどセックスという問題が避けようもなく明らかになっていることに、誰もが決して触れようとしない。ストーカー判事やら児童ポルノ(しかもスプラッタ系サディズム)をネットで流した小学教師や、援助交際に手鏡大学教授などなどをセンセーショナルに報道しながら、ここでこの青年のそれ自体は相対的に健全でさえあって、「性欲」と言うのも気が引けるほどのオクテな渇望が、動機の重要な一部になっている可能性を、なぜ避けるのか。

一方で、秋葉原を紹介する映像や写真ではどう見たってこりゃビョーキだろう、気持ち悪いとしかいいようがないロリコン・アニメが天下のNHKのメインのニュース番組であるニュースウォッチ9で流される。いったいなんなんだコレは?

6/10/2008

ラスコーリニコフはどこにでもいる

昨日の日記後半の続き−−昨今、確かに日本で、ある種異常な殺人が、一見「普通の」人によって起っているのは確かだ。とはいえ、ただそれを「異常だ、理解できない」とひとくくりにして論ずるのは危険だ。ましてだから死刑制度を存続し、厳罰化を進めなければならないなんてのは、およそ乱暴すぎる幻想に過ぎない。第一、死刑制度を廃止するのが現代の世界の趨勢だが、死刑廃止で凶悪犯罪が増加したという統計的な事実はまったく報告されていない。死刑の抑止効果というのは、犯罪者がなぜ犯罪を犯すのかを考えもしなければ、現実の犯罪を見ようともしない人の薄っぺらな議論だ。まして日本で起っている殺人事件はだいぶ前から、普通の市民がなんらかのやむを得ない事情で殺人に追い込まれている例が多い。そんな興奮状態で後先にどんな刑罰かなんて考えている余裕があれば、そもそも殺人になぞ手を出さない。

個別の殺人にはそれぞれに個別の事情・背景があって、動機が醸成されるプロセスがある。そこを検証した上で共通項を見いだすのならともかく、家庭内の親殺し子殺しと連続無差別殺人を「理解できない」というだけで一緒にするのは無茶だし、親殺し子殺し夫殺しという共通するように見える事件ですら、まったく異なった理由がある場合もある。その動機を検証した上で共通点を見いだすのなら、無差別殺人が実は父殺しのヴァリエーションであり、どちらも突き詰めれば間接的な自殺であるような部分も見えてくることなどは充分にあり得るが。

むしろ死刑制度の存続を主張することは、他ならぬこの種の殺人を同じ理屈で正当化することにしかならない。こうした殺人を犯す人間にとっては自分の行為は、死刑制度によってむしろ正当化される。ラスコーリニコフ・コンプレックス的な殺人者にとって、唯一意味を持ち得る反論は、「なにがあっても人の命を奪うのは許されない」という究極の倫理しかない。死刑制度を「正義の執行」だというのなら、国家なり社会がその「正義」によって殺人すら正当化するのなら、ラスコーリニコフ・コンプレックス的な観点からすれば自分は過ちを犯し続ける国家や歪んだ社会よりも正しいはずなのだから、その正しい自分が殺されるべき人間を見いだして殺すことになんら間違いはなくなってしまう。違いといえば国家権力がついているかどうか…というのはこの民主主義の時代におよそ説得力がないどころか、ラスコーリニコフ・コンプレックスは革命信奉でもあるのだから、国家権力なんて転覆されてしかるべきものとさえいえてしまうし、多数派だから「正義だ」と言い張ったところで、ラスコーリニコフ・コンプレックス的な殺人者からみればそんな多数派は、歪んだ社会に毒された衆愚に過ぎない。しかも現に、純粋な人間には耐えられないほどに、 この社会は確かに歪んでいて、しばしば醜悪で愚かしくさえ見える。

昨日のいわゆる無差別大量殺人が秋葉原で起きたことは多くのことを示唆する。いまのところ「人が多いところだから」という動機が報じられているが、それなら新宿でも銀座でもよかったはずだ。そうでなくて秋葉原だったこと−−犯人は子どもの頃から真面目だが、反面ちょっとでもバカにされると激興するところがあったという。一方でスポーツ紙報道によると、オタクの部類に同僚に見られていたこともあったらしく、同僚に秋葉原を案内した…というかさせられたこともあったらしい(プライドが高い人間だから案内できるという状況自体は嬉しかったのかも知れないが)。そこでメイド喫茶などにも行って、「まあこんなもんです」と言ったそうなのだが、オタク的といっても自動車マニアでメカ好き、写真を見ても真面目そうなだけに少年っぽい純粋さもありそうで、だとしたらだからこそ、彼の標的は「アキバ」でなくてはならなかったはずだ。ついこないだマスコミで話題になったばかりの歩行者天国のコスプレやローアングル族、「萌え」とかいって自分の歪んだ性欲をなんの恥じらいもなくさらけ出し、「メイド喫茶」なぞに鼻の下を伸ばしている連中と、外から見れば自分も同類に見られかねないからこそ、絶対に自分は違うのだという表現として、彼の反社会的な行為は「アキバ」を標的にしたのではないか。

この種の犯罪を無差別殺人と安易に呼ぶことには、実は誤謬が含まれる--やった側は必ずしも「無差別」だったわけではない。警察から本人が「誰でも良かった」と証言したとの情報が出ているからといって、警察がすべてを報道に知らせるわけもなければ、そもそも逮捕された時点で本音を語っているかどうかも疑わしいし、だいたい翌日とかそんな短時間で自分の動機を言語化できるほど、人間は分かり易い生きものではない。

殺された側にとっては本当になんの関係もなく無差別に、偶然に殺されただけなのは確かだが、殺した側にはそれなりの標的の認識があってやっている可能性を、少なくとも今この段階で排除するべきではない。報道で分かって来ている限りでは、「誰でもよかった」としても、実際に秋葉原を狙ったという事実があって、地方在住の彼から見て「秋葉原」がどういうイメージで見えているかを考えれば、「アキバ系」なら誰でもよかったということにしかならないはずだ。だがそこまでしか見えなかったことに、彼の絶望的な盲目さもある。マスコミがいかにメイド喫茶とミニスカ・コスプレと「萌え」とやらのロリコン趣味の醜悪さに秋葉原を塗り固めようが、そこには電気街に買い物に来ているだけだったり、せいぜいが興味本位で来てみただったりの、メイド喫茶などなどとなんの縁もない、彼の標的になる必然なぞなにもない人も、いっぱいいるのだ。彼が自分は世間から疎外されていると思い込んでいようが、その彼を疎外する以前になんの関係もない人々を、彼は殺している。その人々は彼には見えていない。他者が認識できていないという、現代日本の大きな問題が、この事件には大きく関わっている。

今日の写真はマーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』の、もっともゾッとさせられる名シーン。主人公のトラヴィス・ビックルは「この街のクズとウジ虫と汚れを一掃する」ためにまず大統領候補の暗殺を計画し、それに失敗して少女に売春をさせている売春宿に完全武装で乗り込む。この映画の痛烈な皮肉は、その結果としてマスコミがトラヴィスを英雄としてもてはやすことだ。彼が自分を疎外していると感じている “世間” は、売春宿を襲って少女を救った(そして文字通りのクズであるヒモその他を殺した)ことだけで彼をもてはやす。もちろんその前に彼が大統領候補を暗殺しようとしたことも、不眠症で夜な夜なポルノ映画館に通っていたことも、“世間” は知る由もない。トラヴィスの盲目さは、世間の盲目さの反映であり、その延長線上にあるものでしかない。映画はその盲目さを見逃さない。彼が「救い出す」アイリスはトラヴィスに「救われる」ことを迷惑、「あんたには関係ないでしょ」としか思っていないし、一応は自分の意思とはいえ売春もひどいことだが、13歳の少女の目の前で人間の脳味噌を吹っ飛ばすのも、あまりいいことには見えない。そこは奇麗さっぱり無視されて報道されないから、彼はマスコミによって「英雄」になる。一方我々観客は、トラヴィスの「英雄的行為」が病理の発露であることにも、彼がなにも変わっていないことも、気づかざるを得ない。トラヴィスも世間も同じくらい盲目なのだ。

ラスコーリニコフは金貸しのユダヤ人老婆を殺す。「金貸しのユダヤ人」を殺すことに喝采しかねない大衆はナチス時代のドイツにもいたし、今に至るまで欧米のユダヤ人差別の「理由」として多くの反セム主義者が主張する「正義」だ。「俺は人種で差別などしないが、あいつらは汚い金貸しだ」と。秋葉原の通り魔犯も、まだ過激コスプレがまかり通っていたほんのひと月前の秋葉原の歩行者天国だったら、意外と同情もされていたかも知れない。そこが19世紀ロシアと較べて恐ろしく情報化されたぶん、かえって人間が盲目になっている現代アメリカや現代日本の悲惨でもあるのだが。それにしても今回の事件は、オチが違うのと、麻薬に売春ナドナドがまかり通る70年代のヘルズキッチンが「少女売春ごっこ」の漫画にしかなってない、ポルノそれ自体でなくアニメ化というオブラートに包まれて勃起する代わりに「萌え」ているポルノごっこでしかない「アキバ」という遊園地的パロディになっていることを除けば、あまりに『タクシー・ドライバー』的で気味が悪いほどだ。

ラスコーリニコフ・コンプレックスが短絡で安易な殺人という結果に終わるわけでは必ずしもない。民主主義が生まれたのも、あらゆる革命も理想主義も、誤解を恐れずにいえばラスコーリニコフにも共通する(と少なくともラスコーリニコフは思い込んでいる)純粋さを持った人間が社会の歪みや悪を許せずに始めたものだし、現代の世界で信仰されている宗教にしても、始めた人間はナザレのイエスにしてもシャカ族の王子シッダールタにしてもムハンマドにしても、非暴力で殺生を禁じていることに決定的な違いはあるものの(で、どっちにしろ多くの宗教ではその精神を継いだはずの信者がその禁を平気で破るわけだが)、人間が社会の歪みや悪を許せない、そこに妥協しようとしない「反社会的」な人物だ。社会・国家・多数派こそが絶対に正義であるという独裁全体主義、北朝鮮並みのことでも規定しない限り、「反社会的=悪」という議論は説得力を持ちようがない。殺人を犯したという決定的な一事を除けば、今回の犯人は日本社会のさまざまな歪みの犠牲者であり、告発者でもあり得る。

『タクシー・ドライバー』について、脚本のポール・シュレイダーはトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)を70年代アメリカ版のラスコーリニコフであることを明言している。そしてシュレイダー、主演のデ・ニーロ、スコセッシの三者がそろって明言しているのは、彼ら自身のなかにトラヴィスと同じ怒りはあったということだ。19世紀ロシアの闇を描き続けたドストエフスキーにも共通するものはあったはずだし、ラスコーリニコフはそこらじゅうに、いつの時代にもいるのだ。その純粋さや正義感が自己満足的な支配欲や、自滅的な暴力の発露に到達するか、芸術家になったり革命家になったり、この世界を創造する人間になれるのかの違いは、案外と些細なことに過ぎないのかも知れない。

『ぼくらはもう帰れない』という映画では、我々の現代東京版ラスコーリニコフのオブセッションの対象がトラヴィスのような銃(秋葉原の通り魔犯も武器マニアでもあったらしい)ではなく、ある意味で危険な武器という側面も持つカメラというメカだったことが、ささやかな違いになっている。銃を自分に向ける(『タクシー・ドライバー』の大虐殺シーンの最後に、弾の尽きたトラヴィスは指を拳銃の形にして自分のこめかみに当てる)のではなく、キャメラを自分に向ける。トラヴィスのように銃を持った自分を鏡のなかに見て自己と自分の投影像の堂々巡りに陥るのでなく、ポラロイドに撮った写真の自分が自分が思っていた自分とは違うことに次第に気づいていく。

他者を認識できないというのは、結局のところ自分が見えていないことの裏返しに過ぎない。

6/09/2008

薬師寺東院の聖観音菩薩

こういうものを褒めるときにいちいち言葉で説明するのも野暮ではある。とはいえ写真はスケール感がない(実はかなり大きな金銅像)ので、今ひとつよく分からないが、最終日ギリギリで滑り込みセーフだった上野の国立博物館の国宝・薬師寺展では金の光背をはずしての展示で、この金銅の立像それ自体の、すくっと直立して凛とした姿をシンメトリーの様式美で際立たせながらも、たおやかに優雅な美しさはやさしさと気品に満ちあふれる。今回の展覧会の最大の売り物の、国宝・薬師三尊の脇侍にあたる月光・日光両菩薩像ももちろん息をのむ美しさだし、こちらも光背ナシ、全角度から見られるだけでなく、本尊の薬師如来が奈良でお留守番してるので両菩薩二体のみで構成するシンメトリーもまた妙なるものなのはもちろんだが、個人的には薬師三尊より少し古い様式であるがゆえのシンプルであるがゆえの奥深さ、なにかを読み取ろうとする見るものの意思など無視してただ純粋にそこに立っているこの聖観音菩薩立像の姿に圧倒…はされないなぁ。どういえばいいのだろう?

大変な話題の展覧会の最終日・日曜日のわりには、昨日の土曜は待ち時間が最長3時間だったそうだが、今日は20分くらいで入れた。そうは言っても混雑は混雑で、当然みなさん食い入るように見つめているのだが、それでも自然に人の譲り合いの流れが出来て、車椅子の人がくればいちばん像に近い位置をほとんど反射的に譲ってしまうような、見る者をそういう気持ちにさせてしまう存在なのだ、この観音像は。

日光・月光両菩薩ももちろん素晴らしい。おもしろいのが、遠目にまず両方を見ると、向かって右の日光菩薩の方が優美に官能的で、軽やかに片足に重心を置いて少し身を傾けた姿はやさしげで女性的で、左の月光菩薩の方が一応は同じポーズではあっても、動きがあまりなく男性的に見える。それがそばに行って見ると、とたんに日光菩薩の方が力強く男性的で、足などはどしっと大地を踏みしめている。官能的に見えた身体の起伏(日光の方が胸などが少し厚い)が、間近だとまるでたくましい筋肉のようにも見えてしまうのだ。それに対して月光菩薩は、ニュートラルに超然としている。どちらもとても美しい。

東博が開館時間を8時まで延長していたので、平常展にも久しぶりに目を通して(もしかして10年ぶり以上じゃないか?)、都合6時間くらい博物館をさまよっていたことになる。東洋館のペシャワール出土のガンダーラ仏や、中国・西方の石窟の仏像も、朝鮮半島の仏像も見たし、薬師寺のものより一世紀くらいさかのぼる法隆寺宝物館のたくさんの小さな仏像(主に観音像)も見た。サイズは小さいものの、同じ時代のはずなのにずいぶん様式にバリエーションがあったり、僕は信仰や宗教とはおよそ無縁な疑りぶかい無神論者なのだが、とはいえ大昔の無名の仏師たちが長い歴史と文化の流れのなかで、こうも心を込めて、かつ薬師寺の仏像などのように途方もない美意識と技術力を注ぎ込んで、こういう美しいものを作り出しいたことには、感服する他はない。それも圧倒されるのでも、おもしろがるのでもなく、ただため息が出るほどに美しく、ずっと見ていても飽きない。薬師寺の国宝といえば、それこそめったに見られない(正月だけご開帳になるらしい)、教科書とか画集でしか見たことがない吉祥天女像も、本物を見るとあらためて実に幸福なミステリアスさで、見ていてなんだか安らかな気分にさえなる。吉祥天女なんだから縁起もいいんでしょうし、恐らくは。しっかし奇麗だよねぇ。

もちろん、我々が現代に映画を作る時、こんなものに到達できるわけもない。それはそれで仕方がないし、それでいいのかも知れない。考えてみれば仏像というものが生まれたのは、激しい戦乱の時代に、それまでの仏足石のような間接表象では、仏法による救済に説得力がなくなったから、人々が仏そのものの姿を求めたからだという。一方で映画というのものは世界の醜さに対置して超越的な美に救いを見るのとは正反対に、世界が醜いのならその醜さとも向かい合わなければいけない。だからってただ醜さをそのまま映画にしていいわけもないのだが。

こうやって幸福でけっこう安らかな午後を過ごし、〆には北斎の風景版画の独創性をおもいっきりエンタテインメントとして楽しみながら(しっかし、北斎ってホント、おもしろいわぁ)、その同じ日に上野からふた駅しか離れてない秋葉原で史上最悪の通り魔事件があったことを、家に帰れば報道番組でやっている。

派遣社員として働いていた青年がとつぜん、世の中なにもかもやになったというだけで、17人もの人間を殺傷した。殺すのは誰でも良かったと証言しているそうで、フジの報道番組では櫻井よしこ女史が「世代的な病理を考えざるを得ない」とかコメントしていたが、この人はたぶん映画『タクシードライバー』も、小説『罪と罰』のラスコーリニコフも知らないのだろう。現代の日本にトラヴィス・ビックルやラスコーリニコフがいれば(で、必ずどの社会にもいるはずだ)、殴り込みをかけて殺す相手である彼らにとっての世界の堕落の象徴、少女に売春をさせているヘルズキッチンのヒモや、金貸しの老婆に相当するのは、そりゃアキバでしょう。

どう考えても不当に搾取され世界のあまりにもの理不尽さにどう向かい合っていくかの距離感を失い、その世界のなかで孤立していく人間。一方ではコスプレのミニスカ女にオタクなあんちゃんやオヤジがローアングルのカメラで迫り、メイド喫茶とやらで「ご主人さま〜」とかやってることを、世間では「日本の新しい文化」だと妙にもてはやす。秋葉原の歩行者天国での過剰なパフォーマンスがさすがに問題になったのがついこないだだったことを、マスコミはもう忘れているのだろうか? それがこの犯人が秋葉原を選んだ可能性を、考えもしないのは鈍感すぎる。たまたま今日が7周年になるらしい、国立エリート小学校に切り込んだ宅間守の事件を、もうマスコミの皆さんは忘れているのだろうか? 宅間守が今回の通り魔犯と同世代だとでも言うのか? 問題は世代ではなく、社会全体だろうに。

それは彼らにその怒りを短絡的な暴力としてでしか発露させられない社会(それにしても今回の犯人はトラヴィスやラスコーリニコフに較べてずいぶん安直で短絡的だ)、憎しみの増大と暴力の発露は、必ず見当違いの結果しかもたらさないことにすら気がつけない世間(というのは、中国・北朝鮮・韓国がただ単に嫌いで日本に核武装をとか言ってる連中としょせん同根)でもある。今日犠牲になったのも、多くがいわゆる「アキバ」とは関係のない人たちだったようだ。

もちろんアキバ系だからって殺していいわけでもないんだろうが。『罪と罰』の金貸し老婆だって、殺してはいけない。いかにメイド喫茶も、ミニスカのコスプレ露出狂女も、その女たちにローアングルでケータイのカメラを向ける連中が醜悪だろうが--そういうアキバ系だって、一応は人間なんですから。それが文化だと言うなら、確かに文化かも知れない。『タクシードライバー』で不眠症のトラヴィスがぼんやりみているポルノだって映画であり、宅間守が強烈な憎しみを抱いた、お受験に狂奔するうすっぺらな親のやってることもまた教育であるのと同じレベルで。よくも悪くも、お受験狂奔は現代の日本社会の構造には適した教育であり、アキバ系が今の日本の現状のレベルの低さ、価値観の絶望的な薄っぺらさにはちょうど適した文化であるのも、また確かではある。だからってそういうレベルの低さ、醜悪さにつきあった映画を作る気もしませんが。

私事になってしまう上に日本ではほとんど上映していないので申し訳ないのだが、拙作の『ぼくらはもう帰れない』で、この問題を我々は扱っているはずである。ただしアキバのメイド喫茶じゃあまりにくだらないので、くだらなさの本質は同じでももう少し映画的に見えるSMクラブの「女王様」(だいたい女性が「ご主人さま」なんて気持ち悪過ぎる。同じ既存の役割分担の設定にまったく依拠した人間性の欠けた関係でも、まだS女の方が見ていて不快感はない)が登場し、反社会的に孤立して自分のなかに自分を追い込んでいく青年は、暴力に走るよりはもう少し賢く、文字通り自分が自己の内に孤立するアクションとして、他者に攻撃性を向けることで自己正当化するかわりに、ポラロイド写真で自分の顔を撮り続けている。

見た人にはこう言えば分かるだろうが、あの人物の発想の元はまさに『タクシードライバー』で、ただし自動車という金属の棺桶のなかに自分の身体を閉じ込めるかわりに、自分のイメージをポラロイド写真機という棺桶にするのはちょっと小さ過ぎる箱に閉じ込めることになった。それ自体は些細な自分に対する立ち位置の違いが、その先にひとつの希望を、トラヴィスやラスコーリニコフや、あるいは黒沢清の『アカルイミライ』の浅野忠信や、宅間守や秋葉原の通り魔犯が、殺人ではなく別のもっと本質的な方向に行ける可能性を、我々の映画は示唆しているはずだ。…っつってもカントク兼プロデューサーが現代の日本の映画を売ってる業界が陥っている現状の理不尽と、その業界の側の創造性のなさにつき合いきれず(だいたい映画それ自体のなかでその方面もけっこうおちょくってるわけだが)、どうせ黒字にしようがないから日本での公開なんてしなくていいと、まったく反社会的になってるんだから文句も言えないのだけど。

ちなみに7月に、横浜の「黄金町映画祭」でやっと東京(の近く)でも上映します。7月26日から

聖観音菩薩立像に日光・月光両菩薩に吉祥天女の話が、なんだか俗っぽい自分の映画のことになってしまった・反省!

6/04/2008

黒沢清の新作は、ホームコメディ?

黒沢清さんから「今度の映画はホームコメディなんですよ」と聞いていたが、その待望の新作『トウキョウ ソナタ』を見た。もしかしたら映画というメディアがもう消滅しつつあるかも知れない、少なくともなにかの役に立つという可能性(映画のためにも、あるいは見た人のためにも)が抹殺されつつあるかも知れないと思ってしまう今日この頃、しかも現にエドワード・ヤンもロバート・アルトマンも亡くなってしまった現代に、黒沢清だけはその新作を見るたびに、まだ映画を死なせてはいけない、と思わされる。ということは自分も頑張んなきゃいけないんだよなぁ、と言うことでもあって、『トウキョウソナタ』は、現代日本映画にとっての希望であると同時に、厳しい叱咤激励でもある。

とりわけ『トウキョウ ソナタ』は堂々たる映画である。カンヌ映画祭で「ある視点部門」の審査員賞をとっているが、なんでコンペティション出品じゃなくて、パルムドールじゃないの、と言いたくなるほどだ。だが初試写に続いて行われた記者会見で主演の香川照之が話してたところだと、「ある視点」の方がずっとよかったのかも知れない。コンペはほとんどが招待客・関係者チケットの、いわゆる「映画で食ってる人々」で席が埋まってしまうのが、「ある視点」はコンペ上映にあぶれたというか、普通の観客がちゃんと見に来る部門だ。そして気取って知ったかぶった映画人は、たぶんこの堂々たる映画を素直に見ようとはしない。日本映画という前提条件にいいかげんな東洋趣味が先立って、この映画を東洋の彼方の国の奇妙な家族の話としか見ようとしないだろうし、おかしな象徴性を読み取ったフリをして分かったように思い込むだけだろうから。まあなにしろ凄い反響だったようだが、普通の観客ならある意味、当たり前だ。仕事で映画を見るのでなく、自分のこととして、この映画を見るのだし(そうでなくてフィクションの映画なんて見る必要があるのかどうかも、大いに疑問だし)。

とはいえ『トウキョウソナタ』という題名が,黒沢が大ファンでもある小津安二郎を否応なしに想起させるように、とくに日本人にとってこの映画は強烈なノスタルジーを喚起させるところがある。まったくそういう撮り方をしているわけではないのだが、それでも二階建ての一軒家で二階が子供部屋、一階に食堂と台所と居間があって、その居間の窓からも家に入れるという、そういえば我々の世代なら子供のころに自然にやっていた家への入り方はなくなり、今の家は玄関からの出入りばかりだし(マンション暮らしならなおさらそうだし)、この映画の家族の住む家だって居間の窓からの入り方を許す構造になっているわけでもないのだが、会社をリストラされた父(香川照之)が帰り道に小学6年生の次男に会い、次男は普通に玄関から家に入るのに、なんとも居場所がない父は(かなり強引に)居間の窓から家に入るところに、痛烈なノスタルジアと、その懐かしい過去の回復なぞ現代では決して不可能なことの、あたかもジョン・フォードの後期の作品のような強烈な両義性が、この映画の行く末を早々に決定づける。題名の「東京」が小津映画のような漢字の「東京」でなくカタカナの「トウキョウ」であり、実際のフィルムで出て来るのはカタカナですらなくアルファベットの「TOKYO」であることも、それを暗示しているのかも知れない。今の東京をかつての「東京」としてはもう呼べなくなっている、つまり何かが壊れているように、どこかで道を外れてしまってもはや回復不可能なかつてそうであったなんらかの調和を、それでも回復しなければならないという強烈に両義的な矛盾に、この映画が向き合っていくしかないことを。

父は次男がピアノを習いたいと言うときにはなんの理由もなくただの意地で反対し、長男がアメリカ軍に志願すると言うときにも反対し、この時には反対する確たる理由もあるのに、それを語ることすらできず、戦争ということをなにも分かっていない息子と同レベルに陥って喧嘩わかれになる。なにを言っても思い通りにさせてくれないでただ怒ってる父というだけなら、その父と子のあいだに立ってなんとかことをおさめ続ける賢い母というのも含め、過去にそこそこにまっとうに成立していた日本の家族だ(よくも悪くも、うちもそうでした)。だが一見古風なくらいに頑固親父であるように見えるこの映画の父は壊れている。リストラされ、かつての “日本男子” の常套句だった「女房の一人くらい食わせられないで」どころの話ではないし、こそこそと、少年時代のような家への入り方をしてしまう、実のところ大人になりきれないまま、過去の大人が敷いたレールの通りにサラリーマンをして来ただけの「父の威厳」は、青天の霹靂のようなアメリカ流の「能力・成果主義」、その実残虐な資本主義、お金第一主義に、木っ端みじんにされているのだから。

長男がアメリカ軍に志願するという設定は、事前情報でそれだけ聞くと荒唐無稽に思えるが、映画のなかでは異様に迫真性を持って響く。イラク戦争に行った米軍兵の3割くらいが米国国籍を持っていないという現実と、ただの対米従属でそのイラク戦争に参戦し、米軍基地を「思いやり予算」で光熱費に娯楽施設まで含めて無償提供するのもやむを得ないと言うことになってる日本の実体からすればあり得ない話ではないどころか一歩先のことだし、その核心を黒沢清は豪速球と言っていいほどストレートに暴露する。テレビのニュースの街頭インタビューとして繰り返される「日本はアメリカに護ってもらっている」という思い込み、それと対比して「俺が家族を護っている」という父親のやせ我慢の、リストラされた彼の最後のよりどころみたいな威張りどころも、そのどちらもが表層だけの空虚な思い込みでしかなく、絶望的なまでになにか根っこのようなもの、あるいはリアルさの感覚が抜け落ちたお芝居でしかない。

見栄と中途半端に現実に妥協することばかりが繰り返される社会のなかで、そことつながるように家庭が空虚な枠組みだけになっていく。食卓に4人家族が揃うことはめったになく、揃えばかえって居心地の悪さが漂う。台所のハッチから覗き見るように撮られた食卓は白色電灯の琥珀色の光が照らし、画面手前では白い食器が台所の蛍光灯で冷たい光を放つ、その空虚な檻から逃げるように、そして実は自分たち自身から逃げるように、家族の面々はそれぞれに映画の中盤から闇雲に走り出す。一見、一人だけちゃんと家族それぞれの顔を見続けて来て賢く安定しているように見えた母親ですら、走り出す。走り出す先に何が見えるのか? ただ闇雲に走るしかないのか? 役所広司の泥棒とともに海にたどり着く小泉今日子が、あまりにも美しい。

道路に散乱するゴミに足を滑らせて転び、血を流しながら、父親は「どうやったらやり直せるのか」と絶望的につぶやく。「やり直す」のは家族のことだけではあるまい。いつのまにかリストラ・サラリーマンが幽霊のようにそこらじゅうにたたずみ、ハローワークに行列するようになってしまった東京。若者に「戦争に行ったら人を殺すんだぞ」とすら言えなくなってしまった、大人になりきれない大人たち。戦争に行くということは人殺しになるのだということにも気づかず、それが現実かどうかも考えられずに「日本はアメリカが護ってくれているんだから」を鵜呑みにし、そのアメリカが正しいかどうかすら考えられなくなった若者たち。子供に「なにが正しいのか」も教えなくなった教師。そんななかで大人であるがゆえに囚人になってもいる妻。いつのまにかこうなってしまった日本は、「どうしたらやり直せるのか」? それは日本だけではない。この狂った世界全体が、「どうやったらやり直せるのか?」 やり直しなぞ効かないことを百も承知しながら、それでも『トウキョウ ソナタ』はそのことを問う。そしてあえて、絶望のどん底であるようでいてものすごくシンプルな希望まで見いだす。

『トウキョウ ソナタ』は堂々たる映画であり、ミステリアスな映画だ。そしてミステリアスだからこそ真実に映画的な映画であり、そしてなによりも、見た人にとって恐ろしく役に立つ、生きて行くことのためになる映画だ。エドワード・ヤンが遺作にして20世紀最後の傑作となった2000年の『一、一 a one and a two』(日本公開題は『ヤンヤン、夏の思い出』)という家族を主人公とした映画で21世紀に映画を継続させたのを受け止めるかのように、『トウキョウ ソナタ』という家族を主人公とした映画は、21世紀の映画がついに生み出した初の21世紀の傑作だとこの際言ってしまっておこう。アメリカ映画が死に体になった20世紀の末からの状況のなかで、エドワード・ヤンというアメリカ留学帰りの映画作家の手になる『一、一』と、黒沢清という映画とはまずアメリカ映画であった映画史を受け止めて来た映画作家が、もはや死んでしまったアメリカ映画の過去を継承しつつも、現代のそれ自体が死に体になりつつあるアメリカから脱した映画によって21世紀の映画を創始したことは、指摘しておかなければならない。

小泉今日子がたどり着く海は、太平洋であるはずだ。そして太平洋の向こうには、アメリカがあるはずだ。真夜中の海の向こうに、我々観客には決して見えない「星のようなもの」を見て、彼女は泣き崩れる。アメリカの戦争に行った長男は、そこでなにかを学んだことを、手紙で書いてよこす。

少なくとも、21世紀においても映画が役に立つメディアであり続けなければならないし、それが決して不可能ではないことを、『トウキョウ ソナタ』は黒沢清らしい慎ましさのうちに静かに宣言している。だからやっぱり変に気取って諦めたりせずに、こういう映画を作るように頑張んなきゃいけないんだなぁ、と改めて噛みしめる。