最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

5/20/2008

「人は忘れます。明日別の事件が起ればこのこともすぐに忘れる」


他に見なければいけない映画もあることながら、なんとなくテレビ朝日の刑事ドラマ『相棒』の映画版を見た。といって、「どうせテレビの映画化だから」なんて迂闊に言ってはかえってみっともないだろう。むしろテレビの『相棒』は、娯楽の枠内で今時のほとんどの日本映画よりもよほどラディカルな社会性をやって来ており、とくに日本社会を考えるときに決して無視できない「組織の論理」については、それこそがほとんどの日本人の日常でありながら、現代の日本映画がほとんど表現できていないのが、このドラマは警察組織の複雑さと硬直が常に背景にあって(設定そのものに組み込まれている)、そのことが現代日本の不自由さにがんじがらめになった人間の起こす犯罪と絶妙に結びついている。環境問題、裁判制度、企業の社会的責任などなど、タイムリーな話題を巧妙に盛り込むのもその「組織の論理の不条理」が通奏低音なだけに切迫感があり、日本人の多くが日常に感じていながら考えないようにしている矛盾や偽善をかなり堂々とあぶり出す。最新シリーズの最終回は見るからに袴田死刑囚の無罪の可能性をめぐる報道をベースにして、退職後に告白した中村裁判官の苦悩はドラマの事実上の主人公だった石橋凌の判事に引き継がれているし、ミシュランの星付きガイド東京版が出るだいぶ前に、虚栄をテーマに覆面審査員をレストランのオーナーシェフが殺してしまう話があったり、軍国少年が電器メーカーの社長になって地雷撤去ロボットの開発に腐心していたとか、人気小説家の虚栄に化粧品会社の環境汚染問題をからませたり、とか。

でもって、劇場版のテーマは、5年前のイラク邦人人質事件だ。事件そのものはフィクション化されて架空の国に舞台を置き換え、人質の青年は解放されずに殺害されたことに脚色されているが、当時の総理大臣(現在は元)を演ずる平幹二郎は髪型からして例の「らいおん」だし、殺害の光景がネット上に流れるのは射殺に変更されている以外は別の人質事件で今度は被害者が殺された映像を確実に思い出させる。なによりも最後に、ゲリラ組織と日本という国の双方の犠牲になった心優しい青年に感謝する難民の子供たちの手紙が公表されるとき、その活動の中身は人質にされた人道活動家の高遠さんのやっていたことそのものだ。そして実際に政府高官の発言をきっかけに高遠さんたちを激しく非難したという病みきった出来事が、映画の中心となる連続殺人・テロ事件の動機として次第に浮かび上がる。

高遠さんをモデルにしたつもりのインディペンデント映画『バッシング』が占部房子の演技以外になにも見るべきものがないどころか、人道活動と個人の「夢」とやらをごっちゃにして周囲になかなか認められない映画監督の私的フラストレーションの発散とその監督自身のサディズムがごっちゃになっただけの「いじめ」映画にしかなっていなかった、あの唾棄すべき鈍感さ(それでもカンヌで上映されたりしたんだから問題は日本だけのことではない)に較べるのも失礼なくらい、連続殺人を追う刑事という娯楽映画の構図を借りながら、日本社会全体の問題として見ようとするスケールはしっかりと映画的で、「しょせんテレビの映画化だろ?」などととても切り捨てていいものではない。あれほど現代日本社会の歪みを象徴した事件もなかったのに、「日本映画」の側でそこで浮かび上がった闇ときちんと対峙しようとしたことはほとんどなかったのだから。

強いて言えば別の「本当は忘れてはいけないこと」をホラーの契機に「忘れてしまうこと」の罪を考察した『叫び』と『LOFT』の黒沢清だけは、例外と言えるだろうが、あのなんとも不快な出来事が提示した問題について、日本の政治と社会の全体像と果敢かつ精力的に取っ組み合いをしようとした日本映画は、あれ以来この国では作られていなかった。それが突然、テレビ番組の映画版で、「この国のすべて」の罪を問おうとしてしまっているのだから、「しょせんテレビの映画化だろ、下らん」とバカにしようにも、薄っぺらな傲慢になってしまう。

そうは言うものの、あの事件をひとつの要素に取り込んだだけだったら、「しょせんテレビ」ではある。平幹二郎の元首相もあまりに小泉パロディでほとんどマンガだし、イラク邦人人質事件を示唆するのも表層的な記号になりかねないし、他の政界関係登場人物がテレビシリーズでおなじみのゲスト、津川雅彦の元法務大臣と木村佳乃の野心家2世議員であるのをはじめ、テレビで大物俳優が演じたうち容疑者ではない(つまりシャバにいて登場できる)ゲストを軒並みリサイクル。出だしは猟期連続殺人にチェスの棋符の暗号というとデイヴィッド・フィンチャー辺りの物真似にもみえ、東京シティマラソンという時事ネタの取り込みは見事ながらも大規模スペクタクル要素もいれなきゃいけないということなんだろうし、そこで本物の有森裕子がカメオ出演と、いかにもテレビ局か広告代理店が考えそうな「話題性」のショッピングリストてんこ盛りの企画倒れにもなりかねない--というかネタが多すぎてあまりにめまぐるしく話が飛んで、映画のリズムが壊れているようにさえ見える。

その目まぐるしいほどスピーディーなのになにかリズム感が奇妙に狂っているなかで(つまり「わざと」であることを疑うべき)、テレビではもっとも魅力的な部分が抜け落ちている(のも意図的だと考えるべき)。

主人公の警視庁一の変人・杉下右京(水谷豊)はいわば和製シャーロック・ホームズを狙った人物造形で、天才的な観察力と洞察力で事件の状況と彼が気づいたことを極めて論理的に推理していき、そこに熱血漢の体力派だが頭の回転はあまりよくない亀山薫(寺脇康文)が質問のあいの手を入れて話が展開するのを、何分もある長廻しでまるごと捉えるのがおもしろいのだが、この映画版では右京の知性はせいぜい、犯人側の残したチェスの棋符の暗号の分析と、メールを通じての対局だけに限定されている。捜査一課の刑事たちに疎まれながら彼らが気づきもしない現場のディテールを発見していき、刑事部長ら上層部に睨まれて職務規定違反で怒られようがどこ吹く風、という「組織の論理の非合理性」をあぶり出すテレビドラマの基本構図は、ここではお約束どおりに軽くなぞられるだけだ。だいたい、津川雅彦と木村佳乃、警察庁官房室長の岸部一徳以外は、ほとんどただ大物俳優の名前をポスターに揃えるためだけに出演しているような、すでに6シーズンも放映されているテレビの方をかなり熱心に見ていないと意味がないような端役で、たとえば西村雅彦演ずる国会の院内記者なんて2シーンしか出て来ない。

松下由樹の人権派弁護士も、この映画のなかでは誰がやったっていいような小さな役だ。テレビの方で取り調べの可視化、つまり検察の尋問・聴取の映像記録をテーマにした最新シーズンの「編集された殺人」の回を見ていたら、彼女の人物設定はとても明確になり、なぜ彼女が人質事件で死んだ(日本という国に見殺しにされた)青年の妹を保護しているのかが切実になるのだが、逆に言えばテレビに依拠し過ぎた映画版との批判もありえるし、実際にその通りと言える。つまりテレビ版の記憶がなければ、よく分からない映画になりかねない。

その一方で、テレビのファンが期待しているはずの杉下右京の名推理の長廻しが、映画版ではせいぜいパターンをなぞっているだけで、そのおもしろさの本質はあえて排除されている。名推理は現場の状況をディテールまで含めて見事に記憶し、その本質を論理的に整理していくことで成立している。ところが映画版で名推理が出てくるのはせいぜい、和製シャーロック・ホームズなだけにチェスに詳しい右京が、チェスの棋符を分析するという記号の問題にのみ押し込まれている。

主人公の抜群の記憶力が、どういうわけか映画ではまるで欠落していて、ただただ状況に対して条件反射を繰り返すだけだ。それどころか天才刑事ともあろうものが、犯人側がメールで送って来るチェスの手に振り回され続けているだけ。天才のヒーローですら、この映画ではチェスというゲームと、マラソンをターゲットにしたテロにすっかり取り憑かれ、その天才の重要な一部である写真的なまでの記憶力を失っている。だが実はそこにこそ、映画版『相棒』のテレビにはなかった、テレビをひっくり返したとすら言える、真のテーマがある。杉下右京ですら、記憶喪失であるという。

その一方で、記憶を失えない人々がいる--人質事件で日本という国に見殺しにされた青年の、その遺族だ。西田敏行の父親は、反政府ゲリラに息子が射殺される映像が流れたとたんに、バッシング報道が嘘のように消えたことを指摘する。あたかもあまりに禍々しくも自分たちの過ちを見せつけられた瞬間、この国の人々すべてが、バッシングをしたことすら記憶から消し去ったように。そして忘れた人々を象徴するように、30000人のマラソンのランナーと150000人の観客が、チェス連続殺人犯のターゲットとして処刑リストに浮かび上がる。処刑リストがネット上の掲示板に出ていたこと、その掲示板に並ぶ誹謗中傷の言葉自体が、あのあまりに不快な出来事から我々がなにも学んでいないことを示している。高遠さんたちを責めたてたのは、きっかけは政府高官のあまりに無責任な言葉だったが、あっというまに広まったのはネット掲示板だった。その異様さに気がつかないまま、今は「学校裏掲示板」や「プロフ」を少年事件の原因として責め立てる日本社会がいて、高遠さんたちを責め立てることで自己保身をしただけの流れの連中が、子どもの携帯ネット使用を規制する提言をしている。ほんの5年前に起ったことを、誰も反省もしようとしないまま。

マラソンがテロに狙われることが娯楽作品としてのこの映画の山場であり、寺脇康文が川に飛び込んで爆弾船を止めるアクションシーンまでやっていながら、奇妙なまでにあっさりと、切迫感のない疑似クライマックス。だがそれはこの映画の構造を考えれば、そうでなければいけなかったのだ−−人質事件で日本という国に見殺しにされた青年の、その遺族以外はすべて5年前のあのイヤな出来事をすっかり忘れている。その大衆を表象するマラソンのランナーも観客も、そんな自分たちの罪をただ忘れているだけの人間の命を守ることに、どれだけの意味があるのか? 映画の『相棒』はあえてそのことを問う。

そしてテレビ版ではあり得ないようなまったくのあからさまな記号で、ただ表層的な物語の成り行きだけで動いている右京らしくもない右京が、唐突に真犯人に気づく。事件の猟奇的な性質、犯人が誹謗中傷の並ぶネット掲示板で「死刑宣告」を繰り返すような人間であるという前半で示された設定からすれば、およそ思いつかないような犯人が。すべてお見通しの天才であるはずのヒーローが「犯人がゲームのように殺人を楽しんでいるとしたら、とうてい許されないことです」と言っていたというのに、唐突におよそゲームとして殺人を楽しむことなどあり得ない人物が、犯人として浮かび上がる。

ヒーローですら記憶喪失の病に陥っているだけではない。テレビ局企画の「話題性」てんこ盛りを逆手にとって、映画自体が記憶喪失的な構造を持ち、観客を記憶喪失に追い込み、テレビ版をよく見てゲスト登場人物を記憶しているファンのある意味歪んだ、少なくともおよそ本質的でない記憶をたぶらかし、記憶で戯れる映画。妙にリズム感を欠いた展開も含め、久々に劇場映画に復帰した和泉聖治監督の演出のすべてが、実は現代の日本という記憶を喪失し続けなければ維持できなくなっている社会を、その外に立って批判するのでなく、自らその記憶喪失の構造を映画そのものの展開の論理とすることに収斂して行く。そして犯人の逮捕とともに、映画がうわべで維持してた大作娯楽スリラーの構造とともに、ひっくり返すことで、今時この国では生きていけないかも知れないくらいに純粋であったが故に、この国の総体に見殺しにされたことで恐ろしいまでに悲しみに歪められた家族をそこに見いだす--およそこの人がそんな人間になるとは思えない、愉快犯的なゲーム感覚の連続殺人鬼になった父を。

平幹二郎が小泉のパロディの「らいおんヘア」で登場するのは、それでぜんぜんよかったのだ。あのお祭り騒ぎの下らなさをもてはやして史上最大の議席数を獲得させたのも、映画の見せ場のはずが妙に空虚なマラソンの出場者と観客同様、あの忌まわしい事件にのせられただけで、忘れてしまった我々日本国民なのだから。その悪夢を思い出させるには、あの存在感がちょうどいいとすら言える。

テレビではやむにやまれぬ、理解する他はない理由で殺人を犯した犯人を、被害者がおよそ殺されても仕方がないような人間であっても、それでも「あなたがとった行動は間違っています」と言い切る杉下右京が、しばしば登場する。どんな理由があっても、人を傷つけ命を奪うことだけは誰にも許されない、と。映画版でも「あなたがとった方法は間違っています」と、杉下右京が真犯人に言うところは確かにあるし、テレビの広告スポットでも使われている。だが映画のなかではその台詞はほとんど場違いのように一度だけ口にされ、杉下右京も亀山薫も、真犯人が凶悪な連続殺人鬼であったことなど忘れたように…というよりそのことは完全に無視して、「このことが忘れられることだけはどうしても許せません」と声を振り絞って訴える彼が、実はわざと逮捕されたのであって、裁判の場で政府が隠し続けた人質事件をめぐるある秘密、通称「Sファイル」を開示させようとしていることを応援する。だがそこでテレビの『相棒』の通奏低音であり続けていた組織の自己保身の論理がこれまた唐突に出現し、ガンで余命いくばくもない犯人が裁判を待たずに死ぬことを狙って起訴すらさせない圧力が働く。そしてしょせん警察の職員でしかない刑事たちの無力の横で、犯人はガンの発作で倒れる。

「人は忘れます。明日別の事件が起ればこのこともすぐに忘れる」と右京が言う。「Sファイル」が開示されても、その隠し続けて来た記憶の罪ですら、議員の娘が外務大臣だった父の死ぬまで抱えて来たトラウマを解放して型破りの弔いをやったというだけで、また忘れられる。映画を見ている我々自身が、この映画のファーストシーンが実はすでに人質事件と、ただの対米追従だけでそもそも最初から誤ってたことが分かっていた戦争(ちなみに、政府決定までは世論調査の8割が反対だったことすら、我々は忘れている)に加担したことを見せていても、たかだか2時間の上映時間の終わりには忘れている。「明日別の事件が起れば」というが、明日どころか5分ごとに何かが起ってジェットコースターに乗せられたように、同じ映画のなかで起ったことすら忘れさせられている現代の「娯楽」の論理を、映画版の『相棒』は踏襲しながらも不気味に揺さぶり続ける。天才であるヒーローすら忘れているが、本当は忘れてはいけないことがたくさんあるということを、スリラーアクションの騒々しさの奥底に静かに潜めながら。

いや、それを言うなら、映画版でリサイクルされるテレビ版のゲストが登場した放送分をわざわざテレビ朝日では再放送を繰り返したことも、やってる側は気づいていないとしてもこの映画の構造を裏づけている−−これがテレビの連続ドラマの映画版であること、そしてテレビの連続ドラマ自体に組み込まれたどうしようもない限界、つまり「明日別な事件が」とまでは言わずとも、来週には別の事件が起って、一週間前に放送された事件はまったく記憶にないかのように、刑事たちは別の事件を捜査していること。そしてフィクションのドラマだけでなく現実のニュースでも「忘れ続けること」自体が、現代の世界では避けようもなくなっていること。テレビとはよくも悪くもそういうものでしかあり得ない。よほど熱心なファンでもない限り、大物俳優が演じる1シーンとか2シーンしか出て来ない端役に、「これ誰だっけ」と自分が忘れていることに気づかされてしまう、そういう仕掛けがこの映画には組み込まれている。人はどうしても忘れてしまうという、そのことを気づかせるために。

人気番組の映画化でテレビ局に大手映画界社その他、相当に膨大であろう資金力を駆使しながらも、これは異形の、そして異形だからこそ正道の、B級映画なのかも知れない。プログラムピクチャの監督がずっとテレビで仕事をしていて久々に映画復帰となった和泉聖治も、25年ぶりの映画出演という水谷豊も、「映画」というジャンルに気圧された傲慢さも気負いもほとんどなく、むしろB級映画に徹して、B級映画らしくお約束のヒロー象を借りながら、その裏でお約束を覆してまったく別の物語を語っている。

あまりに哀しいその物語は、実は人質事件で日本という国に見殺しにされた青年の、その遺族の悲しみですらない。ああいう事件を起こしてしまい、その記憶を必死で喪失するしかない日本というこの国の哀しさなのだ。殺され、見殺しにされ、卑劣な誹謗中傷で三重にも四重にも殺されてしまった、保身のために組織の論理を非合理と知りつつも盲従するしかない日本では生きていけないかも知れないほど純粋な青年のことを、映画の最後に本来の杉下右京に戻ったように見える水谷豊が、「世界を変えようとした彼のような青年がいたことを、忘れてはいけない」という。「世界を変えよう」という意思すら、戦争に苦しむ子どもたちの助けになり友達になることが至極単純にまったく正しいという当たり前の倫理すら、忘れてしまったこの日本のなかで。

本当は忘れてはいけないはずのこと−−この映画でいちばん映画的なのは、緩慢なまでにゆったりとしたヘリコプターショットで、冒頭と最後に延々と見せられる空撮の、東京という街だ。それは本当は忘れては行けないことを忘れながら、同時のその内にもまた忘れては行けないはずの物語を無限に秘めた、日本人たちの都市だ。映画というのはその無限の物語にこそ視線を向けるべきものであり、人々が記憶から消し去ろうとする物語をこそ撮り続けるべきものなのかも知れない。別に社会派であることとか政治的である方が映画的であることよりも大事だとかそういうのではない。ただ、「忘れてはいけない」というそのことを担保することこそが映画であるかも知れないときに、「映画」の表層的な知識や気取りにかまけてその本質を忘れてはいけないという、ただそれだけのことだ。

5/05/2008

土本典昭についての覚え書き


 拙作『映画は生きものの記録である〜土本典昭の仕事』もそろそろ初公開から1年ほど、山形、イギリス、ポルトガルなどの映画祭でも上映し、地方公開も先日の名古屋シネマテーク、まもなく大阪のシネヌーヴォでも上映される。

http://www.cinenouveau.com/x_cinemalib2008/tutimoto/tutimoto_Frame.html

土本自身の作品と一緒に上映され、土本典昭の再評価の契機となるべきなのだが、契機は仕掛けても実際の再評価、土本映画をちゃんと映画として見直すことになかなか結びついていない。つまり、元から土本という存在を知っているつもりでいる人々のノスタルジーのなかで消費されるだけで、土本という映画作家が実は何者で、その映画がどういう映画なのかを考え直すためにこそ作ったはずの映画が、その役を果たしていない。

 自分が作った映画であからさまに表現していて誰にでも分かるはずのことをいちいち言うのも野暮だと思ってこれまで口にしないで来たが、こうなるとやはり言った方がいいのかも知れない。見れば分かるはずのことを映画を専門としているはずの人々が誰も指摘しないことに違和感は禁じ得ないのだが、自分が失敗しているせいかもしれないし、実際のところこれが元々注文仕事で、注文を受けた時点で出来上がっていた撮影の体制がそもそも映画の撮影では決してあってはならないはずのものだったこと(書籍にするための資料的なインタビューで映画作品を作れと言うのは無理があり過ぎる)もあり、あまり自信もなかった映画なのだが、先日東京・江戸川の小岩のメイシネマで上映して頂いた際に久々に見直したら、思ったよりもずっといい映画だったし、こっちの考えて来たそもそもの原点はやり過ぎなほど明確だ。なのになぜ多くの批評家が指摘もせず、そこを見逃しているがためにほとんどが見当違いの評価にしかならないのか(ちなみに岩佐寿弥氏など、土本本人と親しかったり共に映画を作って来た人が評価しているのはまさにその点なのだが)さっぱり分からない。しかも極めて単純なことであり、そこを踏み越えないことには土本典昭の映画作家としての本質を再評価することなんてあり得ないはずなのだが。

 その原点とは何かと言えば、土本典昭を60〜70年代の政治運動的映画作家とみなすことぐらい下らなく、本質を見逃した話もないから、一切無視している、ということだ。まして全共闘とかいう文脈に土本典昭を組み込むなんて、『映画は生きものの記録である』は最初からそんな下らなさになんの関心も示していない。はっきり言ってその不愉快な世代に多大な迷惑を被っている我々からすれば、土本典昭についての映画でそんなことに触れること自体が、土本の映画とそこに浮かび上がる彼や水俣の患者さんたちの生き方の美しさに対する冒涜にしか思えない。

 だって国家や民族と個人がどう関わるのかという根の深い問題を「国旗・国歌」を卒業式で上げるかどうかという皮層な記号のレベルでしか考えられなくなったり、社会の安全の維持のために社会が犯罪者であってもその人間を「殺す」という罰を与える資格が我々にあるのかどうかという倫理的問題をただ裁判で死刑が回避できるかどうかと勘違いして挙げ句に被害者遺族を敵視してしまう「人権派弁護士」とか、最初から「賛成」か「反対」かの踏み絵にしかなってない「靖国問題」とか「護憲・改憲」とか、この最低に下らない思想的状況を作り出したのはどこの誰か? 非暴力の絶対平和主義と思いやりを語り続けるダライ・ラマと、権力に弾圧されているチベット人の人権のために「左派」がなにも言わず、右翼が日の丸とチベットの旗を振って中国人留学生に喧嘩売ってるこのみっともなさに、呆れる以外になにができるのか? こう問うても無反省な元全共闘な皆さんは自分たちの責任など一抹も感じずに、「国家権力が悪い」とか、バカ単純な論法に逃げるだけなのだろう。そのバカ単純なレッテル貼りによる低級な自己正当化が、この下らなさを引き起こした要因のひとつであることにも気づかずに。

 果ては今更「西洋帝国主義」などと言い出して、中国の人権問題が主に西欧先進国やアメリカのリベラル派から批判されていることを問題にするのだから笑っちゃう。「中国は永年、帝国主義列強に侵略されて来た」から「解放」と称して少数民族を弾圧してもいいのなら、それって「大東亜共栄圏」とまったく同じ論理ですよ。そりゃ「チャンネル桜」あたりから「反日」と言われても、その指摘自体は間違ってないことになってしまう。そんなこと言われるくらいの低レベルでどうするつもりなんだろ?

 どんな人間であっても、自分の行いが正しいかどうかなんて、後になってでしか分からないし、だいたいどこかで過ちは犯しているものだ。だから常に自分を問い直して変わり続けなければいけないし、自己中心的で空虚な「正しさ」の幻影ではなく、自分が他者とどう接して関係を生み出し、理解しあおうとし、その人と人との関係を発展させてなにかを生み出していくのか? 土本典昭においてはそれが彼の映画に結晶したのであり、土本はその意味で政治的映画作家であるよりも遥かに、まずなによりも倫理的な映画作家だ。土本の倫理とは世界の複雑さと向き合うことであり、身勝手さを棄てて極度な思いやりを持って他者と向き合うことにあり、土本の生き方/映画作りはその倫理を探求して常に変わり続けて来た。『映画は生きものの記録である』が興味を示しているのはただ一点、土本がどのように自分の映画と、自分の映画の主人公となる人たちと接して来て、そのなかでどう自分を問うて来たかの変遷だけだ。そこにこそ土本典昭という希有の映画作家の真の価値があるのであり、そこを再評価できないのならわざわざ土本映画を見直すこともないだろうし、少なくとも『映画は生きものの記録である』を見てもらう意味はまったくない。見たってご自分たちの下らないプライドを守るために思考停止に陥るだけで、なんの足しにもならないでしょうから。

 だいたい政治運動と甘やかされた若者の欲求不満を混同するほど倫理観が根本的に欠落し、自身の良心と身勝手な欲望が異なった精神的次元に属していてその両者が一致することはむしろ稀であって相当な精神的修練が必要だという当たり前のことも自覚できず、自身の内なる空虚を「運動」とやらに自己同一化する幻想で誤摩化して「我々は正しい」という自己満足に耽溺し、正義というものが超越的に普遍的なものであってそこに到達するという最初から不可能なことをあえて追求し続けることの意味も理解できない幼稚さで「革命」を気取った結果、日本における左派・リベラリズムの将来を根っこから堕落させた上に、還暦にさしかかってもその若気の至り、自分たちに何が欠けていたのかを精確に反省・省察・自己分析すらできない「全共闘」とかいう傲慢で愚かしい世代など、土本典昭の映画を見て、考え、語り、あるいは彼についての映画を作ることにおいて、まったくどうでもいい話なのだ。なぜなら、この上なく倫理的な映画作家である土本典昭のすべてが、まったくその正反対を指し示している。

 先行する世代がここまで見事に堕落させてくれた我々にとっては、「右派」と「左派」の区分けすら意味があるかどうかも疑問だが、あえて「左派」の政治的文脈で土本典昭を考えるとしたら、その意味とは土本が日本の「左派」がこうであるべきであったそのあり方、ものの見方、考え方を体現しているからだ。それは「全共闘」以降がその足下にも到達できなければ、そのかけらも理解できていないことだという覚悟くらいは、して頂きたい。そんなに心配することもない−−まさに土本の生き方が体現しているように、人間は変わり続け、自らを刷新し続けることはできるのだから。人類の最も崇高な理想を目指したはずの共産主義が現実には内部抗争とか抹殺・虐殺ばかり繰り返した現実に、「なにがなんだか分からない、というのが正直なところ」と言い切り、「目の前にある事実を出来うる限り忠実に記録するということ以外に、自分を規定できなかった」と苦渋を込めて語ることができる、その正直さと誠実さだけでも、土本典昭は自分らのくだらないプライドだけで思考停止している連中などと比べるのが失礼なほど、美しい人間だ。これを言えるようになるだけで、人生の意味がどれだけ変わりうるか。

 だいたい、無反省な元全共闘の連中は、なぜ若者が「右傾化」するのか、考えたことがあるだろうか? 全共闘以降の「左派」の大人たちのほとんどがおよそ人間として信用するに値しない嘘つきの偽善者か、バカにしか見えないからですよ。若者が土本典昭の映画を見たり、土本典昭の話を聞いていたら、そうは思わなかったでしょう。だから今からでも、土本典昭の映画を見るべきなのだ。