最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

11/27/2008

「バールは鉄アレイより重いから、バールで身体を鍛えている」

あまり気持ちのいい話ではないので、写真は相殺するため? 東京都心から一時間圏内で恐らくもっとも美しい場所

元厚生次官宅連続襲撃事件で、最初に政府高官がそう思い込んでしまった手前どうしても「テロ」と言い張りたい警察などの思い込みの最後のよりどころだった容疑者の収入源(無職なのに家賃滞納もない、などなど)は、ネットを使った株のデイトレードだったらしい。テロ組織説の根拠だった情報源、なぜあの二人の元次官を狙い、住所まで特定したのかも、元はネット情報だったのだろうし、国会図書館で調べたと供述しているわけで、犯罪のあり方というのも急激に変化している。

もっとも、この事件にすわ「テロ」だと浮き足立った、というか「テロとの戦争」に興奮しちゃったらしいのは、政府それも麻生総理にごく近い官邸あたり(副官房長官とか)だったそうな。そうこうしているうちにインドで本当の政治テロ事件が起きて邦人の死者が出ても、「テロは許しがたい」と口にする以外に対応がほとんどできてない日本政府である。

先日も小泉毅容疑者を精神鑑定をすべきと書いたので、いわゆる厳罰主義のミギっぽい人々には怒られそうだ。このブログが炎上していないのは単に読者が少ないからってことなんでしょう(笑)。でもそうやって怒るとしたら刑事裁判や刑法が分かってないわけで、アスペルガーとか高機能自閉症は心神耗弱だとかの問題ではありませんから、責任能力には関係がありません。量刑とか刑罰の問題でなく、動機や犯行にいたる経緯、個々の行動の理由をちゃんと把握するためには、「テロだ」などの先入観を棄てて犯人側の心の動きや行動パターンを考えるために必要だ、というだけの話である。強いて言えば動機の形成に関して若干の情状酌量の余地はあり得るかも知れませんが、そんなことを言い始める段階では今はまだないし(それは動機などがある程度、裁判に耐えうるだけ解明されてから初めてでてくる話のはず)、重罪にしたいから都合の悪い話は排除するっていうんじゃ、法治国家の名が泣きます。法治国家における刑事罰はあくまで「自己責任」です。復讐の感情論じゃありません。

一方で自分はヒダリっぽいと思っている人々からは、いわゆる「障害」を抱える人への偏見を助長するのでけしからんと怒られるかも知れませんが、容疑者がアスペルガーとか高機能自閉症などを抱えているとしても(その可能性があるから精神鑑定したほうがいいって言う話ですよ、あくまで。完全に誤解してヒステリックに怒る人もいるんでしょうが、鑑定結果で「問題なし」ならそれはそれで鑑定した結果です)、そういう障害があるから犯罪者になるなんて、誰も一言も言ってません。そう誤解した人がいたとしたら、そういう誤解をするような短絡的な発想こそが、この種の障害に対する偏見を蔓延させているのだとはっきり言っておきたい。

今回の事件について秋葉原事件の加藤智大容疑者との類似を指摘する人もいて、確かに根本的な動機は共通性があると言えるだろう。ただし加藤容疑者は特に障害のようなものはないという精神鑑定が出ているし、実際にそうなのだろうと僕も思う(というか検察が早々に精神鑑定を依頼したという報道には「意味が分からん」と思った)。少なくとも今現在知られていたり推測されている精神の障害を思わせる行動は加藤容疑者にはない。むしろいわゆる健常者の病理というか、そういう動機と行動のパターンで、強いて言えば犯行のやり方が、ナイフを靴下に差し込んでいただけだったとか(そりゃ走れば落ちるよ)、幼稚すぎることが気になるくらいだが、それって人生経験からきちんと学んでないか、現実的な経験が足りないっていうこと、むしろ教育の問題でしょう。

少々強引に比較するなら加藤容疑者の場合の作業着をとり上げられたと誤解したことにあたるものが、小泉毅容疑者の場合は34年前の記憶が精神の構造の特殊性によって引き金になったのだろう。だとすれば、たとえばアスペルガーならば34年前のことが今の行動の直接な引き金になるのも、“理不尽” に見えるかも知れないが本人のなかではなんら異常なことにはならない。ただものごとの記憶の仕方や時間の受け取り方の感覚に特徴的なものがあるという可能性だ。

いずれにせよ殺意が心の中に起るかことそのものについては、発達障害には直接的な関係はない。アスペルガーでもやさしくて思いやりの強い人もいれば、いわゆる「健常者」で性格がねじまがって自分本位で意地の悪いヤツや、暴力的なヤツもいくらでもいる。ここでいわゆる発達障害がからむ可能性があるのは、まず34年前の犬の復讐が出て来ることに関してで、「不可解だ(だから裏があって組織犯罪のはずだ)」と言うのなら「そんなに不可解ではない(だから小泉毅容疑者の単独犯行でじゅうぶん辻褄は合う)」というためだけの話だ。

なんでも短絡に結びつけては行けない。ある特定の個性や人格、資質を持った人(つまり、どんな人でも、ということにしかならない)がある特定の外的な刺激を受けたときに、その結果としてどういう行動に結びつくかは、レッテルを貼って分類したり一般論にしたりする話ではない。それこそ論理倒錯もいいところで、そんなもん人それぞれのケースバイケースでしかない。人格形成や行動において先天的資質と後天的な環境要因がどこでどう絡んでどのような結果をもたらすのか、それが特定できるほど現在の人類の科学は進歩していないし、どんなに進歩しても実のところぜったいに解明も特定も完全にはできない。たった一人の人間であっても、その人生に起こったすべての事実を把握してその影響を分析するということ自体が、ありえないことなのだから。

いわゆる「発達障害」は現在では「先天的」な脳の機能の欠陥と考えるのが大勢で、医学的には確かに障害と定義づけるべきことなのだろうし、実際問題として自閉症と診断されるようなレベルになれば実際に生活を営むのに困難も多々出て来て、特別な訓練やリハビリ、薬物などの医学的処置による治療は必要になるのだろうから確かに「障害」と認識されるべきことにはなる。

ただし現在の「障害」ということ自体に医学的には大雑把に言って二通りの定義付けがあって、一方では日常生活などに支障がある、文字通り「障害」になるということでそれはしかるべきサポートが行われるためにも必要なことなのだろうが、もう一方では「健康」「健常」を想定することでそこに当てはまらないことを「障害」となるわけで、後者に関しては「じゃあ『健康』ってなんなのよ?」という疑問が当然出て来る。

身体の問題だってじゃあ完全に健康な人なんて、30年以上生きていればそんな人はいるはずもないし、それはいわゆる精神的、ないし脳の機能における「障害」だって、鬱病などの後天的な精神障害でも同じことだろう。「発達障害」のように先天的と推測されることでも、知能の障害を含まないレベルにおいては、「個性」とどこで線引きするのかといえば、日常生活などに支障があるという漠然とした話に持って行くしかないのではないか。別に日常生活に支障がなければ、「個性だから」で放っておいていい話なのだし、たとえば「絶対音感」とか「写真的記憶」と俗にいわれるように、逆に才能に結びつくことだってある。

生前にはこういう「障害」が医学的に認識されていなかったが、グレン・グールドの「奇行」がいわゆるアスペルガーの特徴にかなり一致するのは、よく言われることだが、だからってグールドに「日常生活に支障」があったとは思えないし。ちなみに僕自身、一回騙されてその種の問診のふりをした、実は「グールドの特徴集」だった問診チェックリストを受けました。ほぼ百発百中(笑)。ちなみに発達障害の診察の初歩的な問診チェックリストは7割くらいだったっけ、「別に生活の支障があって困ってるようには見えない」で以後突っ込んだ診察は「必要ない」そうです。いや困ってるんですが、無意識の声の聞き分けができずに空港で呼び出されてもまったく聞こえないとか、季節の変わり目だと体温の調整とかどれだけ厚着すべきかが分からなくなるとか、編集の最終段階になると気がついたら徹夜していることがしょっちゅうだとか…

犯罪の背景に公汎性発達障害などが指摘されると、偏見に基づく差別を招かないようにということで、「◯◯の人がみんな犯罪者になるわけではない」「ちゃんと生活している人もたくさんいる」という言い方が、いわばいいわけのようにされるのだが、まあ一応その通りではあるのだけれど、なんだか見当違いの論理倒錯、わざわざ言う必要がないどころか、かえって誤解を招くだけのような気がする。むしろはっきりと、「議論のレベルが違うだけの幼稚な誤解」「関係ないんだからそういう議論がおかしい」と言ったほうがいい。

小泉毅容疑者に話を戻せば、そうした「障害」とされるものの傾向が疑われるのは、34年前の保健所のことが彼の頭の中では現在に元厚生次官をターゲットにした理由づけになることと(保健所が厚生省の所轄であり、その役人のトップは厚生事務次官なのだから、筋は通っている)、元次官を特定して住所を調べ上げ、あれだけの犯罪を成し遂げる卓越した能力の部分で(あいまいな「常識」よりも「論理」なのでなにかを成し遂げることについての行動も合理的)、彼の精神や論理の立て方の構造の特殊性が関わっているのが主な理由だ。だから精神鑑定をやった方が、実行行為の各段階における動機は説明し易いというだけの話だ。


こうなって来るとこれが「医学」の問題なのかも不明確になって来るが、実際のところ「医学」の問題では本当はないのだろう。要は我々が自分とは異なることについてどれだけの寛容さを持って他者を受け入れられるのか、社会全体とそれを構成する一人一人の意識の問題であると同時に、自分自身についての自己認識の問題なのだろう。

もっと言えば、他人の精神や論理の構造が単に自分たち「健常者」の「常識」と違うからといって、そのこと自体が「異様」で「理不尽」で「不可解」とみなす傾向があり過ぎるから、精神鑑定をやった方がいいという話になるわけでもある。自分はそう考えないことでも、他人がそう考えたのなら「そういうのもあり得る」と思えて、その相手の論理から推測できないのなら、近代法治における刑事罰なんて本来は出来なくなります(「殺意」など内面を認定しなければいけないところに近代法治の、「現代」から見た限界がある、とも言えなくはありませんが)。殺人が悪いのはあったり前のことだが、そのこと以外で容疑者の行動が「異様だ」と倫理的なレッテルを強引に貼付けてモンスター化するのは、それは極端な話ファシズムというか全体主義でしょう。「テロだとしたら絶対に許せない」とかの理屈の方が、僕からみればよほど倒錯してみえる。ブッシュ政権のまき散らした雰囲気に流されているだけのまったくの非合理でしょう、それは。「日常生活に支障」で言えば、そっちの方がよほど重大な支障がある。

容疑者は出頭前に家財をリサイクルショップで処分したそうで、そのなかにはバール(重さ約20キロ)もあって「鉄アレイより重いバールで体を鍛えている」と話したという。いわゆる “常識” で考えたら奇異な話に思えるかも知れないし、これをもって「反社会的な性格」を示唆するなどと言い出す人もいるかも知れないが、純粋に論理的に(字義通りに)考えれば実はまったくまっとうな話だ。鉄アレイ製造業者は困るかも知れないけれど、要は重いモノを動かすことで身体を鍛えるのだから、バールの方が重いならその方が合理的だよね、そう言われてみれば

付記するなら彼が人間関係でことごとく失敗して来ているのは、この手の「障害」がいわゆる「空気が読めない」ところ、無意識のうちに周囲の人間の反応を察知して順応するような能力に問題があるとされることと、恐らく関係がある。そうしたの障害は孤独な立場に追いつめられる可能性を高めることにはなるが、障害それ自体が孤独な、あるいは反社会的な人格、攻撃的な人格を意味するわけではまったくない。

いわゆる健常者だって社会から疎外されて敵意を持って扱われれば、社会全般に対して殺意を抱くのはまったく同じことだ。小泉毅容疑者について「アスペルガー症候群などの可能性がある」と言っているのは、あくまでその殺意を彼がどこに向けたのか、自分のなかでどういう理屈付けをして正当化しているの論理パターンと、具体的な犯行のやり方の特徴を理解するためにはそう考えられる可能性が高い、と言っているだけだ(というか、そうした障害の「特徴」とされるなかでも代表的なものにほとんどが合致する)。たとえばマスコミで「理不尽」「理解できない」「不可解」と言っている評価が、「いや別に、『特殊』かもしれませんが『理解できない』ことはまったくありませんよ」という意味でしかない。だから精神鑑定してみればいいじゃない。精神鑑定は量刑や責任能力の問題だけにしか用いない、なんて法律はないんだし、真実を明らかに、というのであれば、単独犯なら動機の醸成と犯人の心理は「真実」の重要な一部なのだから−−ということ自体が近代主義の限界であって、たとえば「現代映画」であればそこに批判的でもあるのではあるが。

アスペルガーなどを抱えた人間の方が無意識に「空気を読む」能力に欠けているから孤独な立場に追いつめられて反社会的になる可能性が高いというのは、「空気を読め」を強制して多数派が「自分と同じ」であることを少数派に強制する社会の側の狭量さの問題の方が、よっぽど大きいんじゃないか。民主主義が最終的に多数決をとるというのは、多数派の都合やわがままが「正しい」と言う意味ではまったくないのは、いまさら言うまでもない。9/11以降「テロ」という言葉に絶対悪みたいな印象がついてまわる「常識」が世界に蔓延していようが、悪なのは他人様を殺すという行為であってその動機に含まれる政治的主張まで含めて「悪」とみなすのは倒錯であることになんの変わりもない。倒錯どころか権力側の悪質なプロパガンダだよ、そんなの。

分かり易いたとえでを言ってしまおう。鉄アレイではなく重い鉄製バールで身体を鍛えているという話をされたとき、あなたならどう思うのか? 「おかしい、気持ち悪い」と思うのか、そういう発想がある種の「障害」の特徴と言われて「病気ならしょうがない」と思うのか(ちなみに現実の日本語の使われ方において、「精神障害」の「障害」は「病気」の言い換え語にしかなってない)、素直に「それも一理あるよね、おもしろい」と思えるのか。大部分の人は一番目に凝り固まって「異様だ、気持ち悪い」という。ならばまだ二番目で納得してもらえるほうがまだマシという程度の問題でしかない。もちろん本当は、いちばん人間的にまっとうなのはこの三番目だ。

もちろんその理屈には理屈で受け入れながら、自分では鉄アレイを使っていていっこうに構わない。そう思えば二番目みたいな中途半端な考え方に留まる必要性なんて、実はほとんどない。ま、それが出来ないのが「健常者」の思い込みの限界なんでしょうけどね。

つまり「健常者」は自分の精神構造の枠内に囚われてそこしか見えない、自己を客観視できず他者に対して盲目なのだとしたら、それこそ「健常」ってなんなのよ、ということになる。

1 件のコメント:

  1. http://taichi-psycho.cocolog-nifty.com/adler/2008/12/post-1bf6.html?no_prefetch=1

    こんにちは。
    こういうブログを見かけましたので
    ご紹介しておきます。

    返信削除