最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/17/2008

R.W.ファスビンダー (1945-1982)

ドイツ文化センターアテネフランセの共催でファスビンダーの回顧上映が進行中(詳しいプログラムはタイトルをクリック!)。70年代の「ニュー・ジャーマン・シネマ」の中心的映画作家でありながら、日本ではヴェンダースやヘルツォークに較べてあまり見られて来てないのは、なぜなんだろう? まあヴェンダースの場合は彼の人気のおかげで日本人が小津を再発見することになったので、恩義もあるのかも知れないけれど。あるいはとにかく過激であることに注目が集まる上に、即物的なだけに生々しくて、色彩の使用もしばしば強烈な彼の映画は、日本人のテイストには “濃すぎる” と思われて来たのかも知れませんが。

それとも単に、本数が多すぎてついていくのが大変? なにしろ37歳で早死にしてるのに、監督している作品本数は40本超っていうんだから、まあなんとも忙しい。粗製濫造? いや確かに荒々しい、題材の乱暴なまでの過激さにばかり注目が集まる一方で、極めて直裁なスタイルの作品が多いが、実は相当に緻密な映画作家でもある。最盛期には一年に2本も3本も長編映画を作ってるこのスピーディーさ、少しは見習わないと。一部の作品はDVD上映になってしまうらしいが、フィルムで上映するものは状態もいいし、必見。そろそろニッポン人もファスビンダーを「発見」してもいい頃だ。「ニュー・ジャーマン・シネマ」の後の二人、当時から日本で人気だったヴェンダースとヘルツォークに較べ、ロマンチシズムのかけらも見せない乾いた空気感は、今の日本にはむしろしっくり来る気がする。ファスビンダーの見せる人間はしばしばミもフタもなく身勝手で、なまじやさしさぶりっ子が横溢する日本産の映像には,少なくとも刺激的に新鮮なはずだ。この写真は『マリア・ブラウンの結婚』のファーストシーンだが、いきなりこの強烈なコントラストですからね、のっけから。


『マリア・ブラウンの結婚』は物語自体は戦後の混乱した西ドイツ社会のなかで戦争未亡人になったハンナ・シグラが逞しくのしあがってく女傑一代記、日本が世界に誇る異常人気テレビドラマ『おしん』(世界でもっとも多くの人が見たテレビドラマの部類に入るらしい、とくに発展途上国で絶大な人気を誇る)みたいなものなんだろうが、彼女の直面する困難とその振り払い方が、まあ『おしん』とは正反対と言えば分かり易いかも知れません。公開当時の日本では批評家もみんなひいちゃったらしく、ファスビンダーとしては手抜きとしか思えんこの後の『リリ−・マルレーン』の方がよっぽど評価されたみたいだが、むしろこの逞しさは凄みすらあって(というか凄みそのもので)あっぱれとしか思えんのですが。日本の大人の男って、こういう点ではダメだよねぇ。強い女は母親役割の強さでないと怖くて逃げちゃう、というか、土日の過去ログの続きでいえば、自信に満ちて威張るのは自信のなさを必死で隠してるせいなのかも知れん。

友達にはぜったいなりたくないけれど映画作家としては尊敬するしかない人間の双璧として、ファスビンダーとゴダールがいるのかも知れない。現代日本映画はゴダールの知性には多くを学んで来たが、ファスビンダーの野性からはもっと学ぶべきものがあるようにも思う。ただ非常に疲れるんですけどね。ファスビンダー特集には海外ではしばしば遭遇して来たが、こればっかりは一日で2本も3本も見るのは体力が続かない。『第三世代』を見たときには、ぶっ倒れそうになって24時間くらい心身がマトモに機能しなくなったような。今回はこれは3回くらい上映されるので、2回は見直さないと…。


時節がら異様に強烈なのが、もともとファスビンダーの問題作のなかでも最大の問題作と言われる『キュスタース小母さん天国に行く』だろう(この上と下の写真)。ただし当時攻撃されたのとは別の理由で。フランクフルトの、父の帰りを待つ慎ましい労働者の家庭で、ラジオの臨時ニュースが聞こえる。工場で労働者が上司を撲殺し、機械に飛び込んで自殺したという。その労働者というのがなんと、この家の主だったキュスタース氏で、突然降って湧いたような妻の災難が始まる。ジャーナリストは酒に酔うと暴れる暴力夫というセンセーショナルな記事をでっちあげ、共産党の地方幹部夫妻は彼女を利用しようと、夫は労働者の権利を守るために戦ったのであって方法が間違ってただけだと彼女を説得する。息子は妊娠中のホワイトカラーのインテリ妻の言いなりで、保養のためにアイスランドに休暇旅行で葬式にも参列せず、急を知って舞い戻って来た歌手の娘はでっちあげ記事に協力してその記者の愛人になる始末。

愛と誠実さが意味を持たない社会のなかで家族も身勝手でバラバラになるというのは、ファスビンダー映画に共通する家族像だから今さら驚かないはずだし、ジャーナリストがでっちあげ記事を書き上げるプロセスの描写は見事にシンプルかつストレートで圧巻かつスリリングだが、そのこと自体は現代社会では当たり前とすら言えるメロドラマで、今さら怒るようなことではない。なにが叩かれたかといえば「共産党への中傷だ」ということだったらしい。

だが実際のところ、映画はキュスタース小母さんが搾取されるプロセスを残酷に描き出すことには、さほど集中はしていないし、キュスタース小母さんが搾取されることに苦しんだり怒ったりもしないし、事件で舞い戻った娘が、「工場の殺人鬼の娘!」のキャッチフレーズでフランクフルト・デビューを飾ることすら一種のギャグとしてしか演出されず、小母さんも呆れはするがたいして怒りもしない。彼女を党に巻き込む共産党の幹部も、打算と策略である一方でそれなりに誠実で彼女にやさしいし、夫妻の間では小母さんを騙しているのではないかと悩みを語り合ったりもする。この程度で怒ってどうするのよ、そういう打算が現実には必要であることすら映画はちゃんとフォローしているんだし、共産党の地方幹部夫妻の最大の罪はしょせんブルジョワのインテリ夫婦で、善意はあっても臆病で実行力がないことのように見える。

むしろ映画を突き動かし続けるのは、キュスタース小母さんがなぜ夫が死んだのかの理由、彼が死ぬのに至った納得いく物語を求め続ける執念だ。それは確かに彼女が夫を愛していたからであり、ファスビンダーは彼女に全面的に共感することで映画を進めて行くのだが、一方でその彼女が絶望的に現実から遊離していくことを見逃さない。共産党幹部夫妻に至っては、彼らが「騙してるんじゃないか」と悩んでることなど関係なく、どんどん彼女の方から彼らに近づいて行く。なぜなら、彼らが優しく、そしてなによりも夫の死に、労働者の英雄という物語にしてくれるから。最初は夫は真面目な労働者で、上に立つ人間がいるのは当然と思っていたと自分で言っていたのも、学生運動に不快さを感じていたので娘の進学に猛反対して、娘が家出してしまったことも、彼女の方から自分でどんどん忘れて行く。

『キュスタース小母さん天国に行く』の真の過激さはここにある。皆が夫が死んだ理由を整理した物語を求め続ける。ジャーナリストは紋切り型の薄っぺらな父権批判のステレオタイプの物語をでっちあげ、共産党は労働者の英雄としての物語をでっち上げる。それは私利私欲や打算でももちろんあるのだが、それ以上にこの不可解な事件の理由をなんとか理解したいという衝動に突き動かされているからだと、ファスビンダーの映画は示して行く。しかももっともその物語を求めているのは、でっちあげられた物語に搾取されていると表層上の物語が示しているはずのキュスタース小母さんなのだ。映画はその小母さんの素朴で狂おしいまでの愛に共感しながら、一方でその彼女が完全に誤ってもいることを示して行く。

強烈にいびつなメロドラマの物語構造を映画自体が確信犯的に踏襲しながら、その物語構造そのものを映画自身が同時に裏切り、我々が映画の見せる映像を見て脳内に創り出す物語の正当性を揺さぶって行く。なぜなら、我々が夫の死の正当な物語を求める姿にいかに共感しようと、小母さんの夫がなぜあのような事件を起こしたかは決して解明されないし、死んでしまっているのだから解明できるはずもない。彼には彼の物語があったとしても、その彼だけの物語は誰にも分かち合われることなく、彼の命とともに消えてしまっている。小母さんはその求めても得られるはずもない物語を求めて、いつのまにか自分の持っている夫の記憶すら失っている。そして彼女は不当に搾取されるのでなく、自らの狂おしい愛、夫の物語への希求のために破滅していく。しかもこの究極のロマンチシズムの「狂気の愛」の物語が、極めて凡俗な背景のなかに展開し、主人公は写真の通り、愛すべきただのおばさんなのだ。どうしようもない宙づり感のなかに置かれた我々は、最後に途方もなく大胆な仕掛けによって映画の物語が物語でしかなく、それが虚しい作り事でしかないことを突きつけられ、さらにその仕掛けのドンデン返しとして、我々の社会もまた安直で皮相な物語を延々と再生産するしかないという現実を冷徹に叩き付ける。

なにが辛いって、ついこないだの秋葉原の事件や、事件後20年経って死刑執行となった宮崎勤とか、気がつけば我々は必死で犯人たちの物語を求めてしまっている。映画の共産党幹部が創り出す物語は、考えてみれば秋葉原の事件について派遣労働の不当を訴えるときの論理とほぼ同じものだし、物語作りに関してはこのブログだって同罪だ。どうも映画を作っているときにはほとんど必然的に物語の曖昧化や解体をやっている僕自身が、文章ではどうしても物語の論理にのっとられてしまっている。一方で秋葉原の事件では、犯人自身が孤独な自分という破綻した物語を自分で綴り続け、その結末としてあの事件に行き着いた。一方で宮崎勤の物語は事件の発覚で始まり、我々が納得できる物語を見いだせないことをあざ笑うように、ほぼ確実に詐病であろうでっちあげの物語を次々と作っては20年間我々を翻弄し続けた。まるでファスビンダーがそのすべてを見越していたようにも思えてしまう。まあ、おかげで僕自身は自分の過ちに気づけたわけだが。

ファスビンダー自身が主演も兼ねた『自由の代償』は、残念ながら今回は上映はされず。主人公はこんな顔だが、それでもとても美しくも残酷なラヴストーリー。愛と誠実さが意味を持ち得ない社会への豪速球の批評でもあるのだけど。

ファスビンダーとしては異色作かも知れない、『エフィー・ブリースト』。だがこの一見彼らしくない文学映画もまた、彼の物語へのチャレンジの究極例のひとつなのかも知れない。

まあとにかく、この際だから見直す映画も含めて、いっぱい見ましょう。

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