最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/08/2008

福岡の母はとても美しかった

福岡地裁が、酔っぱらい運転で3人の子どもを死なせた元・公務員に、危険運転致死傷罪ではなく業務上過失致死罪を適用して懲役7年の判決を出した。マスコミが猛反発している。

だがその一方で、被害者遺族であり、追突されて橋から落ちた自動車に同乗していて、海に飛び込んで必死に自分の子どもたちを救おうとしたご両親は、自分たちとしてわざわざ控訴を希望するようなことはしないと表明した。テレビのコメンテーターのなかには思わず「残念だ」などと口走った人もいてさすがにびっくりしたのだが、とかく「世論」はこの判決に猛反発して、危険運転致死罪をなんとしてでも適用させたいという「正義」が満ちあふれている。

問題の元・公務員はかなりめちゃくちゃに飲んでいて、しかも逃亡して水を大量に飲んで呼気のなかのアルコール量を減らしたとか、いろいろ「許されない」ことをやっているらしい。そりゃ酔っぱらい運転を戒めるために厳しく処罰するのも社会的に意味のあることかもしれない。だがまず、我々の日本社会の良心を信じるのなら、刑罰がどれだけ重いから、という以前に、三人もの子どもが死んでしまったことで、飲酒運転がいかに危険で、絶対にやってはいけないこと、どれだけ怖いことかは十分に浸透したのではないかと思うし、そうでなくて「刑罰が重くなければ減らない」というのでは、あまりにもニッポンの未来は暗いとも思える。

しかし今日はそんなことを書きたいのではない。被害者遺族であるご両親の、なんといったらいいだろうか、自分たちを襲った悲劇に直面しながら、とてもまともで、健全でおられるその姿の、悲しみを抱え今にも打ちひしがれそうだからこその強さ、その強さ故の美しさのことこそ、書くべきだと思う。

昨年暮れに福岡地裁が検察に訴因の追加を求めた際にも、ご両親は「憎しみのなかで生活し続けたくない」と、控訴を希望したりしないことを表明されていた。今日の会見でも、母親の方は被告に対して「自分のやってしまったことを理解して欲しい」と語りながらも、被告人をきちんと「さん」づけしている。

会見で質問されれば、そりゃ「危険運転致死罪の適用がいかに難しいか実感した」くらいのことはおっしゃるだろう。だがお二人をあたかも、「危険運転致死罪」が適用されなかったことに対するマスコミの安易な「正義」を正当化する理由づけにでも利用するような報道の仕方に、お母さんはあくまで礼儀を守りながらも、はっきりとそんな安易な「正義」を許さない言葉を言っていた。亡くなったお子さんたちにこう伝えたい、という言い方で、彼女は被告が何年の懲役になろうが、それは亡くなった子どもたちの命の重さにはなんの関係もないのだと、はっきりと言い切った。

ご両親には昨年、4人目のお子さんが生まれている。母はあえて、その模様をテレビに取材させさえした。残念ながらその取材したテレビ局が、そこまで取材を受け入れたご両親の意思をまったく理解していないように見える。なぜ分からないのだろうか? ご両親は三人の子どもを失った悲しみを背負いながらも、生き続けて行こうと決意し、そして実際に生き続けていることを。そのお二人にとって、新しいお子さんを育てていくことの方が、事故を起こした男がどういう判決を受けるかよりも、はるかに大事だということが。そして彼が何年の懲役を受けようが、亡くなった子らの妹になる幼子の将来になんの関係もなければ、亡くなったお子さんたちが戻って来るわけでもないという残酷な現実を、誰よりも直面しなければならないのがこのお二人であることが。そのことに対して、部外者である私たちには出来ることなどなにもない。まして酔っぱらい運転をして事故を起こし、焦って隠蔽工作をしようとしたくだらない男がどうなろうが、そんなくだらないことで左右されるはずがないし、左右されてはならない。ただ私たちは彼らの悲しみに少しでも思いを馳せながら見守ることしかできないし、きちんと生き続けようとされているお二人の強さと美しさに、学ばせてもらうしかない。

「遺族感情」が昨今、裁判の厳罰化や、厳罰化した判決を求める「世論」の正当化として延々と使われ続けている。だが遺族感情とはそんなに安易なものなのだろうか? 復讐が本当に、愛する家族を失った人々の心にぽっかりと空いた穴を埋めるのになにかの役に立つのだろうか? 犯人や加害者が何年牢屋に入ろうが死刑になろうが、それで亡くなった者が戻ってくるわけでもなければ、ひどい障害を負ってしまったりした身体が元に戻るわけでもない。判決がどうであろうが、被害者の悲しみや空虚、喪失に、なんの関係があるのだろう? それでも人間は生き続けなければいけない。死者を何らかの形で乗り越えるなり、その体験を自身の内で整理して生き続けることは、死者を忘れることでも、愛情の欠如でもなんでもない。むしろこの事故の被害者であるご両親は、だからこそ新しいお子さんに精一杯の愛情を注いで育てて行くことを決意されているのだろう。「世論」の求める復讐に巻き込まれないためにも、あえて新しいお子さんの出産を取材させ、自分たちが生き続けて行くことを表明されたのではないだろうか?

福岡地裁の判断については法的な意見は分かれているようだが、そもそも危険運転致死傷罪という法律自体に、構成要件としてかなり無理があるということだけは確かなようだ。だいたい、この法律が「罰する」内容それ自体が、立証という点ではほとんど無茶な話にならざるを得ないし、福岡地裁の判決もその点を指摘している。それにしても、この法を成立させた交通事故被害者の遺族の皆さんには大変に失礼ながら、あなた方が本当に求めたのは「復讐」だったのだろうか? 復讐として加害者がより長期に牢屋に入ることで、あなた方の心のなにが満たされるのだろうか? 亡くなった人が戻ってくるのだろうか? そうではなかったはずだ。あなた方はご自身の家族を襲ったような悲劇が繰り返されないことをこそ求めたはずだ。それに対して「厳罰化」が解決になるのだろうか?

この法を作った立法府にももう一度考えて欲しい。厳罰化は遺族の悲しみに応えるフリをするのに、もっとも安直なやり方でしかなかったのではないか? しょせん単なる人気集めでしかなかったのではないか? 結果として、法律として極めて不備の多い、論理的な構成要件がほとんど成り立たないようないい加減な厳罰化をやったところで、酔っぱらい運転が減るわけでもない。せいぜいが世間が溜飲を下げるだけ、「正義」ぶった人々が偉そうなことを言うのに便利なだけだ。だが「酔っぱらい運転はいけません」なんて、そんなことすでに分かりきっていて、分かっているからといって威張るような話でもない。なのに我々は近代法治の基本理念から言って理不尽スレスレの法律を許容し、それが適用されないからといって怒っている始末である。えん罪や理不尽な判決を批判するのと同じ電波で、そもそも法に基づく刑罰のあり方として無理がありすぎることを「世論」「社会の流れ」として要求する。だが法と理性による支配という近代社会の基本理念は、そんなチャチなものではなかったはずだ。

そんなすさんで品性を失った世の中のなかで希少にも思える、今回のご両親、とくにお母さんの、とてもやさしそうななかに、決然としたなにか、強さと潔さを感じさせるその姿からこそ、我々はなにかを学ばなければならないのだと思う。子どもを一度に三人もそろって失い、海に飛び込んで助けようにも力が及ばなかった深い自責を抱えながら、彼らはその悲しみや辛さといった言葉ではとても表現しきれない苦しみを、きちんと自分たちで受け止めようとしている。そして生き続けようとしている。それこそが、人間が人間として生きて行こうとする本当の姿なのではないだろうか? それはとても力強く、美しいものだ。テレビの中継映像というのはこういうときは本当に凄いと思う。どんなに編集で切り刻もうとも、その瞬間の映像には、やはりその当事者の真実の片鱗がなにかしら刻み込まれている。

だが、テレビ報道それ自体のなかでは、亡くなった子どもたちの命の重さにはなんの関係もないという発言をきちんと流してくれたのは一カ所しかなかったように思うし、報じているキャスターやコメンテーターもその意味をぜんぜん気にもしていないような口ぶりだった。大半は被告が厳罰を受けなかった鬱憤をなんとか正当化するために都合のいいところだけを報じ、安易な感傷論の跋扈はほとんどファシズムにさえ思える。

ご両親はまとこに気の毒だと思わざるを得ない。なんとか自分たちを襲った悲しみと喪失を受け止めるためだけでも大変なのに、自分たちの味方のフリを装い「正義」を振りかざす人々が自分たちを利用しようとする無自覚な残酷さからも、自分たちとお子さんを守らなければならないのだ。その彼らに、私たちの社会は、ほんの少しでいいから、まっとうなやさしさを持てないものだろうか? いやそれは我々の彼らに対する「やさしさ」の問題ですらない。私たちの「まともさ」の問題なのだ。そしてその「まともさ」がどんどん失われて来ているように思えてしまうのは、果たして単に僕の杞憂だろうか? だからこそ、あのご両親の「まともさ」はとても希少に見え、そして美しい。

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