最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

11/13/2007

日本語が理解できないらしい日本政府

一日に日記を二つも書くのはイヤだし、そんなヒマも本当はないのだが、どうしても一言。新テロ対策法の衆院本会議採決について自民党が「民主党が対案を出さない」と喚いている。

こんな意味不明なことを言ってる自民党も自民党だが、それをただ垂れ流すマスコミもマスコミだ。だってこの理屈、日本語になってない。民主党は自衛隊が米軍などに対して給油活動を行うこと自体を違憲とみなし、反対しているのだ。

11月1日までやっていた給油活動を続けるための対案なんて、出す必要がない。こんな当たり前の理屈すら分からないほど、政府や自民党の皆様は脳みそが軟化しているのだろうか?

(写真は前項に続き、イギリス、シェフィールドの市街写真)

スポークスマン、つまり言葉が仕事の官房長官である町村が「我々は議論をしたい」とか言っていたが、議論から逃げているのは自民党の方だ。

民主党の主張は大まかにいえば、日本が協力しているアフガン戦争は国際法上、アメリカの自衛戦争に同盟国である各国が集団的自衛権の行使として参加している戦争であり、憲法には「国際戦争の解決手段としての戦争」を日本国はやってはならない、と書いてあり、政府の憲法解釈は従来、集団的自衛権の行使を行わないとしている以上、まず違憲であるというのがひとつ。

給油はアメリカの自衛戦争への協力であり、テクニカルに考えてどうみても自衛戦争に同盟国として参加していることにしかなり得ない。テロ特措法は少なくとも最初から政府自身の憲法解釈に違反し、従って政府の立場からみて憲法違反なのだ。兵站の維持と補給活動が作戦行動の一部であるのは戦争の常識であり、給油だから、戦闘には直接参加してないからなんて非常識な区別は、平和ボケな日本の政界でしか通じませんよ。法治国家の政権与党だというのに、自民党はそもそもこの法案でやろうとしていることが違憲ではないのかという議論に、一切答えていない。

なんでこういう姑息なごまかしをやるのだろう? 彼らは良心がないのだろうか? それとも知能の問題なのか? 政府自民党はアホなのか、それとも嘘つきなのか? 

第二に、民主党はすでに参議院でイラクへの自衛隊派遣をやめる法案を提出すると宣言している。つまり、アメリカの戦争に加担するという従来の外交方針に反対しているわけで、その文脈ではアメリカの自衛戦争であるアフガン戦争にも協力しない、という外交方針は明らかだ。だからこの点からも、民主党が不必要どころか害悪だと主張している給油を継続するための法案の「対案」なんて、考える必要がそもそもない。

しかも国際貢献うんぬん、国際社会の一員として世界の安全うんぬんを言うのなら、辞意表明騒動のひきがねになった福田首相との密会で、小沢のパブリックな発言によれば福田が彼の主張する国連中心主義の安全保障政策に合意したはずなのだ。小沢一郎民主党代表は日本の従来の外交方針および安全保障政策についてのラディカルな対案を堂々と主張しているわけで、その小沢の主張する新しい外交政策、つまり国連中心の国際安全保障体制の構築に積極的に参加するという方針のなかでは、現在のアフガン戦争のためにインド洋でアメリカとその同盟国に給油するという活動自体があり得ない。対案もへったくれもないのだ。

アフガンの現状に対して世界平和と人道の立場から日本が貢献する対案なら、小沢一郎本人はとっくの昔に出してますよ。

政府自民党には鶏並みの記憶力しかないのかも知れないが、国民はそこまで健忘症じゃありません。あまり人をバカにしないで頂きたい。アメリカの戦争に協力するのでなく、国連中心主義でISAFへの参加を検討する。

ただし戦闘部隊として参加するよりは医療などの人道支援の方が日本は役割を果たせるのではないかなどなど、ぜんぶ『世界』の論文に書いてありましたよん。あの論文にもまったくまともな反論をしていない政府自民党が「議論をしたい」って、議論はすでに小沢がボールを投げてます。

ちなみにアフガン情勢に対する国際貢献ならばISAF参加を検討すべきという小沢の主張に自民党がやった反論にもなってない反論はたったひとつ、「そんな危ないところに自衛隊を送って、殺されたりしたら危ないじゃないか」(爆笑)。

そんな自民党の議員のなかに小沢の憲法前文と九条を順守する国連中心主義を「時代遅れの一国平和主義」と批判したバカがいるのだから、ホントに日本語が分からないらしい。

少なくとも小沢一郎は公に福田が彼の主張に同意したことを明言しているし、福田はそのことについて明確に否定もしていない。少々子どもじみた喧嘩になりかねない話とはいえ、これはもう「賛成した」のか「賛成しなかったのか」をまず明確にするのが現政権の責任だし、「賛成しなかった」のなら、あらためて小沢が提案していることの是非を国会で議論すべきだろう。

で、今日のもう一つの日記ですでに書いたことにも通じるのだけど、一連のアメリカの戦争に対して日本がどういう態度をとるべきかについては、リアリズムで考えれば考えるほど、小沢の言っていること、民主党のとっている態度の方が比較の問題としてはずっと日本の国益になる。完全にレームダック化しているブッシュ二世のご機嫌うかがいのために税金を注ぎ込んで給油を続ける必要なんて、現実にはどこにもないのだ。今のところ次回の大統領選挙はヒラリー・クリントンが最有力候補だが、万が一共和党が逆転するにしても、「テロとの戦争」やイラク戦争が今の流れのまま続くことは、アメリカ政界の流れのなかでまずあり得ない。少しは現実をちゃんと分析して日本の国益と外交上のメリットを考えた行動ができないんでしょうか、この国の政治家さんたちは?

むしろアメリカの戦争に加担して「文明国対イスラム」というビン・ラディンらがねつ造しようと狙ったとおりの構図に日本が参加すること自体が、日本をアルカイダなどのテロリズムの対象になってかえって危険を増大させる、しかもそのリスクに対する現実的な対処策はまるでないんだから、まともな安全保障政策であればあり得ない考え方なのだ。

テロが世界の安全にとって脅威だというのなら、すみませんけどテロリズムの防止は国家の戦争行為でなく基本的に警察権の行使だ。国際法上、戦争とは国家どうしの争いであり、正当性をもってその国家の利益を代表するとされる政府どうしの争いである(で、そこに参加することを、そもそも我が国の憲法は禁じている)。

テロリズムを押さえたいのなら、まずテロリズムが単に犯罪であり、警察権の行使として行うことだと明言した方がいい。で、世界で警察権ないしそれに近い権限を国際的に行使する権利が、アメリカ合衆国というただの普通の国に、あるがずがない。テロリズムへの対処について国際法をどう運用するかはまだ法的に未知の領域だが、アメリカの自衛戦争に「国際社会の一員として」参加するという理屈がデタラメにしかならないことだけは確かだ。

小沢の主張する国連中心主義という、少なくとも国際法的にはまったくまっとうな議論(まあ理念として筋が通っているからといって、現実的に役に立つかどうかは疑問だけど)に、ちなみにただの軍事ヲタで国際法どころか法治の基本すら理解していないらしい防衛大臣サマはまるで反論が出来ていないことも付け加えておこう。

中学生並みの軍事ヲタクでしかない防衛大臣石破サンは「中国とロシアが安全保障理事会で拒否権を持っている」というまったく無関係のことしか言えていない。それどころか「中国とロシアが拒否権を発動するから、国連は世界の安全を保障する機関として機能しない」というこのメチャクチャな主張、中国やロシアという隣国との外交関係をこの阿呆はどう考えているのか、まったく常識を疑う話でしかない。

いくら「メディアは中立を維持」と言ったって、このテのデタラメを電波に載せて活字にするのなら、せめてコメンテーターとか、キャスターの意見としてでも、「非常識でデタラメな見解だ」くらいははっきり言わなければ、メディアの責任も果たせないだろう。だってこれって、はっきり言って「政治的見解」以前の問題でしょ。

それとも、まさかとは思うが、“ナガタチョー”に染まった政治記者のみなさんは、この程度の誰でも詭弁と分かるような単純なことにも、気がつかないほど、“ナガタチョー”の先入観の対立図式でしかものごとが見えなくなっているんだろうか…? その上で、「自民対民主」の対立図式の上での「公平」で、自民党の意見も報道しなきゃ、ということでああいうアホ発言を垂れ流してるのだろうか?

これを言うのもなんだか悪いけど、政治記者の皆さんが本気で「小沢がやめる!」とパニックってた辞意表明会見の直後に、「辞めないんじゃないの?」と書いていたのは当ブログであります…。だって、普通に考えてアレ、本気にします?

英国発:「テロとの戦争」というパラノイア

まずはこの写真にご注目。北イングランドのかつての鉄鋼都市・シェフィールドの交通標識なのだが、柱が妙に上に伸びて、その先が曲がって下を向いているのは、先端に監視カメラが仕込まれているからなのだ。こんな標識が町じゅうに立ってるのだから至極気持ち悪いのだが、最近イギリスは市街に監視カメラが配置されている数が世界一だかなんだか、なんだそうである。

まあ「テロとの戦争」の名の下に行われた主にアメリカのアフガニスタンやイラクの侵略戦争で、アメリカ最大の同盟国は大英帝国である。もっとも熱心に同盟をアピールしたがってるのはその実わが日本帝国なのかも知れないが、幸いにして憲法上の制約のおかげで(この憲法を“押し付けて”くれたことをアメリカさんに我々は感謝してもいいくらいだ)直接軍事的に関わってるわけでなく、イギリスに較べれば国際社会ではずっと目立たないで済んでいる。一方イギリスはブレア首相の時代にずいぶん派手かつ無節操に「テロとの戦争」などとわめいてしまった上に、元々イラクもアフガニスタンも大英帝国の植民地支配で困らされた国々だし、内戦がたえないのだって英国が主導権を握って決めた、わざと平和になりにくい国境線の引き方がそもそも悪い、という見解も多くの専門家が指摘するところである。そりゃ英国がイスラム過激派のテロリストに狙われても当然といえば当然で、2005年の夏にはロンドンの地下鉄とバスが攻撃されてかなりの被害が出ている。というわけで「テロ警戒」。

あとサッチャー/メイジャー政権の大失政で、元々かなりの階級社会の英国で労働者階級がズタズタにされた上に、これまたサッチャー政権で教育に妙な競争原理を持ち込んだせいで労働者階級の子どもがまともに教育も受けられず、これまたサッチャー/メイジャーが産業空洞化の対策をまったくとらなかったから産業空洞化----ことシェフィールドは産業革命の時代から鉄鋼産業の都市として栄えて来て、今は産業空洞化で落ちぶれつつある、そのなんとも暗い気分が町中に漂ってすさんで陰鬱な街でもある----、というわけで日本でも問題になったNEET(ニート)ってのも英国が故郷ですね、ハイ。日本のNEETと違って引きこもったり渋谷で遊んでる程度では済まないわけで、若者の不満で都市部の治安悪化、それを防ぐために監視カメラ、というわけなのだろう。

…と書いていて、本当にバカバカしくなって来る。それで治安が悪くなったから監視カメラ・システムに税金を注ぎ込んだ上、監視されっぱなしという不愉快な生活を強いられる。

イギリスを旅行してもっと不愉快なのは、空港のセキュリティである。厳重さではアメリカと同じくらいだと思うし、日本だってそれなりに厳重なのだが、我がニッポン民族はとくにサービス業での気配りと、様々な手続きを迅速にこなす手際のよさでは傑出しているので、成田空港でそんなに困らされることはない。アメリカのセキュリティは無愛想だが、仕事は早い。それに較べて英国人というのはとにかく手際が悪いというか無駄が多いというか…。とにかくダラダラとやたら時間がかかるのである。その上ヒースロー空港では、空港の搭乗セキュリティ圏から出ることがないので普通の空港ならノーチェックの乗り継ぎですら、セキュリティ・チェックが入るのである。かくして乗り継ぎのときでも、飛行機から降りたとたんに1時間もセキュリティの列で待たされることはザラなのだ。

ちょっと脱線してしまうが、その上確か今年から、イギリスでは一切の公共の屋内での喫煙が禁止になった。だからヒースロー空港では喫煙所がない。ヒースローで乗り継ぐときには、乗り継ぎの案内は無視していったん空港から出てしまいましょう。しかもヒースローから飛行機に乗る際のセキュリティ、つまり出発ロビーから搭乗口に向かうセキュリティの方が、乗り継ぎよりはまだ空いている場合の方が多いのだから。やんなっちゃいます。

「テロとの戦争」で頑張っている人々は、ものの見事にビン・ラディンの思惑にはまってるんじゃないか。9/11事件で数千人の犠牲者を出すことに成功しようが、その程度でアメリカやイギリスという植民地主義大国を倒せるなどと、彼らが思っているはずがない。だが「テロとの戦争」は、確実に我々のまともな生活を阻害してくれているのだ。ビン・ラディンが直接手を下すのでなく、「テロリズム」の脅しによって我々の政府をパラノイアに陥れ、その罠にみごとにはまった間抜けな政府が「セキュリティ」の名において我々の日々の生活にいろいろと些細な、しかし積み重なれば明らかに我々の気分にイヤ〜な影響を及ぼして落ち着きや冷静さを失わせるイヤがらせを、他ならぬ自分たちの市民に与え続けさせるために。

新テロ特措法を強行採決するのに、与党はまたまた「国際社会の一員」という薄っぺらな美辞麗句を繰り返している。我々日本人はどういうコンプレックスからなのか、すぐに外国をお手本にしたがる癖があり、「国際社会の一員」とか「グローバルスタンダード」とか言った言葉とセットになった政策や方針を鵜呑みにしてしまう。だがたとえば、小泉政権が進め、安倍、そして福田にも引き継がれているいわゆる改革路線って、要するに今のイギリス社会がズタズタになっている原因を作ったサッチャリズムの焼き直しに過ぎない。「大きな政府、小さな政府」論争だと「小さな政府」が正解だとみんな思っているが、これもサッチャリズムと同時期のレーガン、ブッシュ父政権のアメリカで行われ続けた政策であり、クリントンの8年を経た後ブッシュ子政権でも再び壮大に復活し、そして今みごとに破綻している政治のあり方に他ならない。サブプライムローンの焦げ付きとか、「そもそもなんでそんな無茶な貸し付けをしたのか?」と呆れるしかないし、マイケル・ムーアの『シッコ』で壮大に暴露されている民間保険会社に頼った医療保険政策なんて、「そもそもそんなもん破綻するに決まってるじゃん」と、子どもでも分かるような話なのだ。原油価格の異常な高騰だって、貯蓄を軽んじ投機を奨励した結果、原油の取引や消費の実態とほとんど関係なく先物市場が肥大化してしまったせいだろうが。「小さな政府」のどこがいいんだか。資本主義が放置していれば破綻するシステムなのは、1929年にすでに人類は学習しているはずなのだし、しかもその1929年の大恐慌だって、マルクス先生がちゃんと予測してましたよ、その半世紀以上前に。

日本の硬直した官僚制度が日本社会の大きな足かせになっているのは確かだし、その意味での改革は必要だが、だからってイギリスやアメリカが見事に失敗してくれたのと同じタイプの方針を、その失敗から学びもせずに真似してどうしようというのだろう? 「テロとの戦争」だって同じだ。なにもアメリカ人やイギリス人と同じくらいバカになって「イスラムのテロ」に怯え続け、気がつけば自分たちの日々の生活の落ち着きや平穏を自分たちでメチャクチャにする必要がどこにあるのだろうか? しかもそれこそ、「テロリスト」が狙っていることに他ならない。我々は先進文明国だというのに、自分たちの生活ですら発展途上国のごく一部の不満分子の悪知恵に振り回されているのだ。これがバカバカしくなくてなんだと言うのだろう? 「テロとの戦争」というと勇敢に聞こえるがとんでもない、枯れ薄に怯えてジタバタあがいてパラノイアに陥っている臆病者でしかない。「テロ」に対して自分たちが守らなければならないものは本当はなんなのか、もう一度みんなでじっくり考えてみるべきじゃないのか? 本当に真面目に、かつ現実的に考えれば、今日本社会が盲目的にアメリカやイギリスの真似っこでやろうとしていることは、非常にバカバカしく思えて来る。

だいたい、少しは自信を持っていい。日本社会にはいろいろ問題があるし、こと文化だとかの面でいえば、僕らなどは国際映画祭などに行けばいちばん貧しいのは日本の監督で、その点では文化政策とかテレビ局の方針だとかでは、イギリスの方が優れているのは素直に認めよう。でもね、社会全体で見れば日本の方がイギリスなんぞにくらべれば、まだナンボかはマシな社会ですよ。

いや国および地方政府の文化政策とか、テレビ局の方針(イギリスではドキュメンタリー製作がとても盛んだが、これはBBCとチャンネル4が積極的にインディペンデントのドキュメンタリー作家の作品に出資しているからである)ではイギリスは確かに恵まれているけれど、そこで作られているドキュメンタリーの大半が…これは言っていいのかなぁ…いやはっきり言ってNHKを誰もクリエイティヴな場所としてはアテにしてない(それにNHKだって我々の映画に手を出そうとは、たぶん思っていない)けれど、日本のドキュメンタリーには、作品自体は映画的に優れたものが多いように思える。まあシェフィールドでのいわゆる“ニッポン代表”が土本典昭特集だったものですから、そりゃ『水俣 患者さんとその世界』や『ある機関助士』、『ドキュメント路上』に太刀打ちできるドキュメンタリーなんてそうあるはずもないのだけれど…。

でもそれ以前に…。以前BBCのドキュメンタリーのプロデューサーが東京で「海外で売れるドキュメンタリーの作り方」を偉そうに講義する場に立ち会ったことがある。お金を出して下さるのだからおとなしくしていようと思ったのだが、堪忍袋の緒が切れてつい言ってしまったひとことが「そんな最初の5分で映画の中身を全部バラしちゃうなんて、つまんないじゃん」。ガイジンさんにだってアホはいます。それもこの国でと同様に、自分に社会的地位があると思い込んでる連中に限って、アホが多い。アホに妥協しなきゃ食っていけないことを理解できない僕なんかも、別の意味ではアホなんでしょうが。

11/12/2007

シェフィールド・ドキュメンタリー映画祭に行って来ました


とりあえず写真だけ…。市内のあちこちに飾ってあった映画祭のポスターです。

11/06/2007

英国・シェフィールドのドキュメンタリー映画祭に行ってきます

明日から11日までイギリスのシェフィールドという街で開かれるドキュメンタリー映画祭 Sheffield Doc/Fest に行く。『映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事(英語の題名は Cinema Is about Documenting Lives; the works and times of Noriaki Tsuchimoto) 』のインターナショナル・プレミア。6月にすでに渋谷のユーロスペースで劇場公開は行っているし(まったく客は入りませなんだが…)、先月の山形国際ドキュメンタリー映画祭では映画祭のクロージング作品として上映、これから“海外ドサ廻り”が始まるわけだが、さてどういう評判になるのやら…。タイアップ本(?)の発売が遅れてしまったので、国内の地方上映は来年になるらしい。

ここで評判になればその地方上映も、少しは客の入りが…と期待しつつ、ぜんぜん国内では報道されないのよね、どうせ…(というのは昨年のあいだずっと『ぼくらはもう帰れない』をあちこちで上映したときに体験済みで、今や海外での方がたぶん有名になってるんじゃないか? 韓国ではブロードバンドのテレビでけっこう人気らしいしけど、国内公開は僕が無精、かつお金がかかり過ぎるので未定)。

モノが映画監督(それも巨匠)についてのドキュメンタリーなので、映画ファンの関心しか呼ばないであろう題材なのがちとつらいところなのだが、渋谷での公開でも案の定いわゆる映画ファン中心のごく少数の観客しか動員できなかったものの、いわゆる「映画ファン」ではない観客の方が反応がよかったりするので、どう広げるかがたぶん宣伝の問題なんだろうなぁ。「映画ファン」から広げるという意味では必ずしもないのかも知れず…。

だいたいこの映画は、映画が世界のなかで人々に対してもっている役割については自分に出来る限り忠実であろうとしたが、いわゆる「映画ファン」にはまったくおもねていない、その意味ではひどく無愛想な映画になっている。土本典昭の直接の関係者、たとえばともに映画を作って来たスタッフの人々や友人の方々には好評だが、いわゆる土本のファン、はっきり言えば「土本典昭の映画を見ているワタシ」に自己満足できている人々には、むしろ不愉快ですらあるだろう。土本の映画といえばまず水俣病問題なのだが、水俣病の患者さんたちに同情して加害企業のチッソに怒りを感じる自分に酔うような自称シンパの人々には、耐え難いかもしれない。実を言えば土本自身がすでに30年前から、ただ「弱者の側に立つ」とか言った薄っぺらな考えではとてもではないが撮れない題材であることを自覚していたし、彼の映画を見ればそのことは確実に刻印されているのだが、30年以上を経てその自作を再考察する土本、水俣を再訪してかつて自作の対象であった人々の話を聞く土本は、必然的に自分が彼らにとって「他者」でしかあり得ないことを自覚するしかない。間接的にではあるが、土本が撮ったような記録が当事者にとっては苦痛にもなってしまうことすら、当事者から土本に向かって突きつけられる(それを言ってもらえるだけ、土本と彼らの信頼関係が濃密だということでもある)。

「他者」だからこそ、土本自身が彼らを「理解している」などと軽々には言えないからこそ、土本自身がその限界をはっきり自覚しているからこそ、土本は水俣で何本かの傑作を撮った。と同時に、以来30年以上水俣にこだわりながらも、ある時期以降は彼にとって水俣が撮ろうとしても撮れない対象になってしまったことに、この映画では触れようというつもりはなかったのだが、結果として70年代の傑作群と現代のあいだに、土本の苦渋に満ちた述懐以外に“なにもないこと”、その空白がかえって「撮れなかったこと」を指し示してしまってもいるし、結果として「なぜ撮れなかったのか」にも、この映画は触れてしまっているのかも知れない。

そろそろ半年経っているから時効なのだろうから言ってしまうが、公開時に出た批評のほとんどが、作った側からすれば「どこからそういう批評が出て来るねん?」と呆れてしまう内容だった。本来なら監督が言うことでもないのだけれど、僕自身が元批評屋なのでその視点で言っても、「ありえないでしょ、こんなの」というものが非常に多い。たとえばナゼか現代の水俣で撮ったシーンがあることにまるで気づいていないとしか思えない論評とか…。構造的に何度も何度も土本が撮った30年前の水俣と現代を比較するようになっているのに、その上土本自身が水俣という地域社会の変遷にもはっきりと言及しているはずだ。そこをヌキにして「土本が撮った水俣に較べて魅力がない」とか言われたって困りますよ。ドキュメンタリーはまず目の前にある現実をきちんと映像に記録することが出発点なのだから。まだ漁業の生活が残っていた水俣と、それがほとんどなくなりつつある現代の水俣では、違っていて当たり前じゃありませんか。

そもそも70を過ぎた映画作家が過去の自分の作品について語れば、ほとんど自動的に記憶について、過去について、自分の歴史をどう見るのかについての映画になってしまうし、そのことに作っている側はまったく抵抗してないし、抵抗しても無駄だし。主人公が記録映画作家でこの映画自体が記録映画なのだから、記録と記憶の相違もこれまたほとんど自動的に映画の構造にならざるを得ないし、そのことにもこちらはまったく抵抗してもおらず、むしろ身を任せている。その方が確実に、神のような天才記録映画作家・土本典昭という神話を捏造するよりも映画としておもしろいし(だいたい映画は「生きものの記録」であるとタイトルに明記しているんだから、この映画が土本という“生きもの”、土本典昭という生き方を記録したものになるのだって、自明でしょう?)。その結果、土本自身も元々はその一部であった60年代70年代のいわゆる「運動」の限界や挫折や過ちが浮かび上がって来るにしたって、土本自身が「運動」マインドにとどまったままでは『ある機関助士』や『路上』といった傑作は作れても、水俣シリーズという日本ドキュメンタリーの金字塔には到達できたはずもなく、76になって「人間って凄いことができるんだなぁ」と素直に圧倒され感嘆できるからこそああいう映画が作れたのだし、だいたい60年代70年代のいわゆる「運動」が限界をさらけ出し挫折し、過ちを犯し破綻し自滅したという自己批判くらい、60超えたオジさんたちがその程度の人間的成熟にも到達できずに、どうするつもりなんだろう?

もうひとつ、いかに土本が偉大で人間的に魅力にあふれ、説得力のある人であっても、その土本ですら叶わない説得力と人間的魅力をもった人々がこの映画に、それぞれに土本の登場場面に較べれば短いシーンでしかないにしても、登場していることを、なぜ無視するのだろう? 言うまでもなく、土本の映画の主人公たちであった水俣病の当事者の人々だ。どう見てもそうなってるでしょう、この映画では。だって映画である以上、そこを誤摩化すことは本来できないし、だからこそやるべきではないし。そのまま撮るだけ、彼らの発言のおいしいところを編集するだけでも、緒方正人氏とか小崎家の人々は、それこそオートマティックに映画的に光り輝き、説得力満点になってしまうのだから。だってあれだけの苦しみや被害を体験した人々があそこまでしっかり「生き続けている」ことそれ自体が、すでに凄く“エラい”ことでしょう。自身が患者である緒方正人氏に「わたしもチッソだったという自己認識」、加害の側と被害の側を区別すること自体が論理的に破綻していると言われれば、「この人は本当に凄い」と思う以外に反論のしようがないし。

以上のことは、いわゆる「映画ファン」や、「運動マインド」から抜けきれない…というよりそこに自身のアイデンティティや存在意義があると思い込んで自惚れたい人々にとっては、気づきたくないことなのかも知れない。まあ少なくとも、ごく基礎的な精神分析理論をあてはめれば、だから気がつかないのだ、という結論には簡単に到達できる。だから文句があるならフロイト大先生に言って頂きたい。だいたい、そうやって自分自身から逃げてどうするんですか?

土本ほどの偉業を達成した映画監督であっても、映画監督であるということは決してそんなに“偉い”ことでも、“正しい”ことでもないはずだ。「運動」にしたってこの社会を少しでもよくする方向に貢献できていなければ、ただの自己満足じゃないですか、そんなの。それどころか「支援」したはずの様々な社会問題の当事者たちに、むしろ迷惑をかけた運動だっていっぱいあったのだから(そういえば明日は、その多大な迷惑をかけられズタズタにされた三里塚に作られた空港から、飛行機にのるわけだが)。

今まで上映した限りにおいて、むしろ「映画に詳しい」とかをいばってなどいないいわゆる「普通の人」の感想の方がはるかに適確だったのは、その人々が「映画に関わっているワタシ」に自己陶酔なぞぜんぜんしないで、まともに生活しているからなのかも知れない。とくに女性の反応が凄く、作った本人がまるで気がついていないことまで指摘されまくりなのは、作った「カントク」としては少々反省しなければならないことなのだが、一方で映画、というか表現行為全般が本来そうあるべきなのだとも思う。しかしラストで引用した『水俣 患者さんとその世界』で患者がチッソの社長に詰め寄るシーンの、「わたしの気持ちが分かるか!」という絶叫が、観客である自分に言われたような気がしたと言われたときには、ほとんどゾッとしました。いやそんなことぜんぜん考えてすらいませんでしたが、言われてみれば、「分かります」と言うこと自体がとんでもない傲慢なのだろう。

11/05/2007

映画の適正な上映時間って…?

…ゴダール先生は80分だか90分とおっしゃっていたはずだが、僕自身はだいたい90分から100分くらいだと思っている。

と言って別に2時間以上とか3時間あるから悪い映画だなどと言うわけにもいかず、たとえばこの日記の第一日目で書いたエドワード・ヤンの『海辺の一日』は163分、『一、一』は3時間あってそれだけの長さにふさわしい、その長さが必要な映画(『海辺〜』は先週来日してた脚本の呉念真さんによれば最初は3時間15分あったらしい)であり、またそのあいだ我々の集中力を維持するだけの、前者は緊迫感、後者はゆったりと時間の流れに身を任せる豊かさにあふれた傑作なのだからそれでいいのだけど、ただし無駄に長い映画が非常に多いと思うのも確かだ。

ゴダールが80分だか90分と言ったその理由づけはよく知らないのは困ったもんだが、マルクシストのゴダール先生っぽくアイロニカルに経済原理をあてはめれば、その長さだと一晩で3回上映できるので映画館にとっても都合がいい(日本の場合は原則9時終わりなのでその限りではないが)…というのがいちばん分かり易い。もしそうだとしたらそれは本気でとるべき原則ではなくなるのだが、一方で僕自身が90分から100分前後と考えているのは、生理的に自分の集中力が持つ時間だから、というだけである。

タバコを吸うので、90分という長さはタバコを吸わないでいる時間としてはちょうど都合がいい、というのもある。いわゆる公汎性発達障害とやらに属することになるのであろう精神的ハンディもあって、集中を自分でコントロールできない傾向があり、見続けるのに過剰な努力が必要な映画だとすぐに我慢できなくなるんで、90分でもきつい映画はきつい。

また、『映画は生きものの記録である』は94分だったが、それでも映画を見た某親族から「映画館の冷房が効き過ぎていて、早くお手洗いに行きたかった」と言われてしまった。年齢とか性別とか、そういう点で見る観客のことも考えなければいけないのかもしれない。とくに僕の映画の場合、ドキュメンタリーだとどうも、どちらかと言えば60代以上の大人の観客の方が反応がいいようなので。いや冗談でもなんでもなく、『映画は生きものの記録である』の劇場公開では、主に女性、とくにいわば自分の母くらいの年齢の方から、作った本人より観客の方がよっぽどこの映画をよく理解しているとしか思えない感想をずいぶんうかがった。もしかしたら「土本典昭」が誰かを知識としては知っている映画の専門家より、土本の最盛期に忙しくて彼の映画を見る余裕もなかった観客の方が、土本のやって来たことの人間的な大切さや、水俣病事件という悲劇の本当の意味を、よりきちんと理解できるのかも知れない。ある意味で彼らもまた「チッソの側」で気づかずに生きて来てしまった、そうしてこざるを得なかったからなのかも知れない。

おっと脱線してしまったので、再び上映時間の話。なんでそんなことを考え始めたのかと言うと、ひとつには現在編集の大詰め段階にある新作の『フェンス』が、3時間超のお化け映画になりつつあるから。お題は神奈川県逗子市の池子米海軍住宅問題で、元々は逗子市のPR映画として昨年に30分弱の短編『柵に囲まれた森』として完成させているのだが、内容的にも基本的にただの紹介しかできない長さだし、なによりも撮影・大津幸四郎のみごとな長廻しをほとんどコマ切れでしか使えず、なんともせわしなくブツ斬りの連続のような映画になってしまったリベンジで再編集し、追加撮影もやって、気がつけば3時間でも4時間でも十分に成立するだけの内容を撮りためてしまっている。3時間というのは自分の原則には反するのだが、なにしろ主人公となる人々が80歳以上だったりして、その人々の生きて来た時間を考えればやはりゆったりと彼らが生きて来た人生の複雑な様相がにじみ出る映画にしなければなるまい。

一方で、ここで語られるさまざまな物語が、池子が元は日本海軍の弾薬庫であったことと、日本の近代史の当然の反映として、1945年8月で断絶してもいる。そこで45年をひとつの区切りとして、第一部と第二部に分けたので、それぞれのパートはだいたい90分、生理的に我慢できる長さのはずです、恐らく。12月には完成させる予定なので、ご期待下さい。

ところでパスカル・フェラン監督の『レディ・チャタレー』が一昨日から公開されている。D.H.ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』はスキャンダル性の一方でかなり教条主義的な階級闘争構図が図式的すぎて、つまり労働者階級インテリの愛人がうぶな貴族階級の夫人に性のてほどきをして世界の現実に目覚めさせるみたいな説教臭さがどうにも気に入らないので、女性監督、それもパスカル・フェランのように繊細で知的な女性がなぜこれを、と思ったらとてもいい映画だった。というか凄い映画なのだが、これはなんでも一般に読まれている決定稿の『チャタレイ夫人の恋人』ではなく、第二稿の映画化なのだそうだ。フランスでは「チャタレー夫人と森の男」という題名で翻訳が出版されていて、それを読んで惚れ込んでの映画化なんだって。

この第二稿の映画化はなにが違うって、決定稿の図式的メロドラマ性にも、これまでの映画化のエロチックなセンセーショナリズムにもぜんぜん陥っておらず、普通の人々に普通に起こりうることの映画として驚くべき即物性を持って成立しているところだ。実際、イギリスの話をフランス映画でフランス人の監督がフランス人の役者でフランスで撮るというどう考えても作り事になるはずのやり方が、「劇映画」の限界を軽やかに超越して「ただその人々がそこにいること」を現前させてしまっていることなのだ。

この映画の成功の理由のひとつが、一見だらだらと続くかにも見える168分という長さ、そのなかでひとつのシーンがかなりの時間をかけて見せられるかと思えば、説明になる部分は挿入字幕と時々の監督自身の声によるナレーションであっさりすっ飛ばす、その実相当に緻密な大胆な構成にあるのだと同業者としては考えてしまうが、この映画には正式の映画館上映バージョンである168分の映画の他に、大口の出資者との契約上しかたなく作った2時間弱の版と、テレビ用の前編後編100分ずつのより長いバージョンがあるという。長いバージョンといってすっ飛ばした説明部分が加わるわけでなく、原作ではチャタレー夫人と森番の物語として並行して展開するチャタレー卿と住み込み看護婦の関係も映し込んでいるそうだ。それはそれでおもしろそうで、フランスでDVDでも出ないかしらん。

パスカル・フェランが9月末に来日した際に、一緒に食事などした際に、以上のような別バージョンの話を聞いた。映画の方の2時間弱の短縮版は、契約上作らざるをえなかったものの、彼女はあえて一切タッチせず、出来上がってからも「あれは私の映画ではない」と公言しているそうだ。なんでも自分で見てもいないのだとか。

アメリカ配給がDVDは短縮版と言って来たのを、「ではわたしにお金を払いなさい」と突っぱねたとか、短縮版で公開する国でのキャンペーンは協力を拒否するとか、なるほどそういうやり方があったのか。日本でもどっちで公開するかはもめたようだが、「短縮版でやるなら来日はしない」という彼女の条件で、ディレクターズ・カット168分版での公開になった模様。この映画だったらゴダール先生のいう適正な映画の上映時間の二倍の長さでも、許せます。

(写真は拙作『映画は生きものの記録である』より)

11/04/2007

三日坊主…

…ともよく言われるのだが、生まれてこのかた日記なるものが続いたためしがなく、案の定三日どころか二日でもう中断していたこの日記である。だって毎日毎日、朝から晩まで新作のドキュメンタリー『フェンス』の編集にかかりきりで、書くことがないんだもの。

そこで唐突に小沢一郎・民主党代表が突然の辞職表明である。しかしどうにもよく分からないのが、「本当に辞めるの?」というところである。だって小沢はあくまで、辞表を鳩山幹事長に出して、まだ党預かりの段階であるし、そのことをかなり丁寧に会見でも言っている、その一方で辞任を決意するに至った経緯と称して、福田首相が安全保障について小沢の国連主導主義に同意しただの、民主党には未だ政権党とみなされるには力量不足のところがあるとか、自民党・福田政権にも、民主党の小沢以外の執行部にも、かなり激しく釘をさしているのだから。

大連立構想を役員会で拒否されたから辞めた、ということになっているけれど、本気で小沢が大連立を考えていたとはとても思えない。だって二大政党制と政権交代が彼の悲願のはずなのだから、そんな大政翼賛会みたいなこと本気で考えてはいないでしょう。それにそんなことやったら、国民に「裏切ったな」と思われて、選挙で負けるに決まってるし、それ以前に彼の目的にとってまったく意味ないじゃない。

この点でも小沢の会見の言葉をよく聞いてみると、「アレ?」というところが他にもある。民主党の役員会に拒絶されたのは連立それ自体だけでなく、そのための政策協議だというのだ。政策協議だけでもやって、その上で「おたくの政策には乗れません」とか言えばいいわけで−−というか、小沢民主党だったら実をいえば政策論争で今のダメダメな自民党を論破するくらいの能力があるように見える。政策協議で論破して、「つきあってられん」とぶっ壊してしまえば、そのぶん民主党の政策担当能力のアピール度はあがる。

ただ問題は、民主党の現リーダー層には、そのテの論客がいないのよねぇ。テレビによく出る人々のなかにか、かなりきちんと政治を議論できる人もいて、論客気取りのただのヒステリー女の元舛添夫人とか、ヒステリックな北朝鮮批判とバカ話しかできない安倍晋三の元家庭教師とか、チョイ悪おやじ気取りの吉田茂の孫とか、ヘ理屈と軍事マニアの中学生レベルの机上の空論を振り回すだけで国際法のイロハも知らない防衛大臣その実ただの軍事ヲタとか、まともに話ができる人がぜんぜんいない自民党よりはたぶんにマシなのだが。

ところがとくにトロイカ体制のあとの二人、菅直人と鳩山由紀夫は政策議論ができない人に成り下がっている。ニュースで国会でのぶらさがり会見とか民主党の公式の会見からの映像として出て来る彼らを見ると、確かに「政権を任せて大丈夫なの」とは思えて来るかもしれない。ワイドショーや政治バラエティ(「TVタックル」とか「大田光のわたしが総理大臣になったら」とか)や「朝生」だと、たいてい民主党の方がまだ筋が通っているのだが。さて小沢本人はというと、先日発表してかなりの爆弾効果があった安全保障についての『世界』に出た論文を読んでも、実はかなり発想力があり、かつ理論派で説得力のある、筋の通った議論を展開できる人物であるようだ。というか田中派のプリンスというイメージとは裏腹に、根はかなり頑固な原理原則主義者なところもあるようですね。

理論派でその実自分の理想を貫きたいタイプ、かつおぼっちゃんは、キレるときはキレ易いのかもしれない。つまり岸の孫の安倍に続いて小沢もキレちゃった、というのが世間一般の了解のようなのだが、どうもそうとも思えないところもある。むしろこれって、内輪にむけては小沢豪腕一流の党内締め付け策で、政権政党として脱皮するための荒療治、かつかえって世論を焚き付けるための手段なのかも知れませんよ。なにせなによりも、自民党の党首に延々と続いて来た対米従属安全保障政策を転換することを言わせちゃって、それをおおやけにバラしちゃったんだから。

これはたぶんハズレる僕の勝手な予想だが、小沢は実は辞めないんじゃないの? むしろ慰留されればその条件として、鳩山と菅あたりを役職から外し、もっと政治家のお仕事ができる若手を役員に起用するんじゃないか。そんなことやったら民主党の資金源である鳩山家をはじめ、もともとサマザマな勢力の寄せ集めである民主党がバラバラになるからできるわけがない、と永田町の専門家はおっしゃるのでしょうが、いやだからこそ、これだけの大騒ぎを仕掛けたんじゃないかと、僕自身は勝手に思っている。

ちなみに小沢が福田に同意させた内容それ自体は、僕個人の賛否はともかく、憲法解釈は変えても、本来世界でもっとも大義名分を振り回せるありがたい日本国憲法にまったく反していないし、しかも現在の国際政治をリアリズムで考える限りにおいてはもっとも現実的な安全保障政策だろう。しかも「国連こそが世界の平和を守る主体であるべき」と憲法九条と前文をひっぱって主張すれば、日本の国際的地位、外交における発言力を向上させる方法論にもなる。国際政治の今の流れは、それぞれの国がそれぞれなりにアメリカという化け物にいかにつきあい、いかにアメリカという化け物の化け物的行動を抑制するかを模索しながら、なかなかそれができないでいるのが現実なのだ。

なんで「国際政治」の専門家だとかを自称するひとが未だに気がつかないんだろうかよく分かりません。今みたいに暴走しているアメリカに従属していると、世界から孤立しますよ、この国は。それどころか来年の大統領選挙でほぼ確実にアメリカの政権からさえ孤立する可能性大。どう考えても共和党が勝つわけがなく、イラク戦争も「テロとの戦争」もチャラになるのは目に見えてるのだから。ちなみにこういう切り替えができる点では、二大政党制はたしかに便利なのかも知れない。

(注:例によって写真は本文とは関係ありません)